年始(良質)

 ピンポーン。
 静まり返った住宅街に、チャイムの音が響きわたった。岡江頼朝は身じろぎをする。
 ピンポーン。
 どうやら鳴らされているのはこの家のチャイムらしい。眠っていた岡江頼朝の脳がゆっくりと覚醒した。こんな夜中にいったい誰が尋ねてきたのだろう。
 岡江頼朝はゆっくりとソファから起き上がった。後頭部を撫でると、ヘンな形に寝癖がついていた。一月一日、日付が変わって岡江家が初詣に行って以降、岡江頼朝だけがリビングで眠っていたのだった。電気は消えているので、雰囲気で家具の輪郭を認識しながら、岡江頼朝はのっそりと廊下に出た。廊下の電気を点けてから、玄関に向かう。このうちに、チャイムはさらに三回鳴らされた。玄関扉に手をかける。岡江家の玄関は内開きだ。
 玄関扉を開けると、そこに立っていたのは、人感センサーで点る非常灯に照らされたうさこだった。
「年越しのおそば、食べに来たげたよ」
 うさこがまっすぐ扉に突っ込んできたので、岡江頼朝は慌てて道を譲った。うさこは玄関に靴を脱ぎ捨てると、そのまままっすぐリビングへ向かった。うさこの背負っている楽器ケースが廊下の壁に当たりかけるが、寸前のところで避けた。脱ぎ捨てられた靴は見ないことにして、岡江頼朝もうさこについて行くことにした。

 リビングに入ると、先に電気をつけていたうさこが知った顔でソファに座っていた。岡江頼朝がさっきまでかけていた毛布を、思いっきりお尻の下に敷いている。
「ねえ、さむい。暖房ないの?」
「寝てたから消してた、つけるか」
 テレビ台に乗っかっていたリモコンをうさこに渡してやると、うさこは躊躇なくボタンを押した。ウィーンとエアコンが起動する。念の為画面を見ると、ちゃんと暖房になっていた。テレビのリモコンも渡してやると、先ほどと同じように躊躇なくボタンを押す。ディスクを入れるところが開いただけで、画面は点かなかった。
「赤いボタン押して」
「えいっ、あれ点かない、えいっ」
「二回押したら消えるよ」
「え、なんでー?」
 うさこの手からリモコンを引き抜いて、テレビを起動し、チャンネルを回した。一月一日なだけあって、番組も豊富だ。「これでいい?」「うん、いい」
 適当な音楽番組を点けて、二人でソファに並んで座った。何組かのアーティストが歌っているのをぼーっと眺めていた。意外にも、テレビを見ている時のうさこは大人しかった。CMに差し掛かったところで、岡江頼朝はふと疑問に思う。あれ、なんだ、この状況。
「ごめん、うさこ今日何しに来たって言ったっけ」
「年越しのおそば、食べに来たの」
「それだ」
 体育座りでソファに座るうさこは、来た時と同じ上着を着たままだ。真っ白な厚手のボアジャケット。それ暑くないの?と訊くと、「あつい!」と言っていそいそと脱ぎ始めた。例によって、ジャケットは床へ投げ捨てられる。またしても、岡江頼朝は見ないことにした。
「そば食う?」
「うん、食べる」
「じゃあ待ってて」
 実は、岡江頼朝もちょうど小腹が空いていたのだった。リビングにうさこを一人で放置する不安がないでもなかったが、おとなしくテレビを見ているだけなら大丈夫だろう。
 キッチンに立つと、岡江頼朝は髪を一つに結った。何かするときは髪をまとめていないと落ち着かないのだった。そばって言っても、冷たいものあるし、あたたかいのもある。うさこはどっちのことを言っているんだろう。岡江頼朝は冷たいそばの方が好きだ。じゃあそっちにしちゃえばいっかー。
 家族で年越しそばを食べた時の分が、二人前と少しあったので、全部茹でることにする。冷蔵庫に貼り付けてあるキッチンタイマーを取ったら、ちょうどうさぎ型だった。
 お盆にのせたそばとめんつゆを持っていくとき、リビングにいるうさこの姿が目に入った。背負ってきたチェロのケースを開いて、何かを探しているようだった。
 うさこ、と呼ぶと、はあい、と良い返事が帰ってきた。うさこがやって来て、そばの目の前の椅子に座った。うさこの身長は妹と同じくらい、いや少し高いのかもしれない。岡江頼朝から見た身長の分別は、大体自分より大きいか小さいかくらいしかなく、しかし岡江頼朝よりも高身長の人間はそういないので、大体の人間が同じサイズ感に見えていた。
「やった、おそばだー」
「それで二人分」
「わかった」
 岡江頼朝が向かいの椅子に腰を下ろしかけた時、うさこが「あ、まって」と言った。「うさこ、おそば食べる時フォークなの」
「あ、マジで?」
「うん」
「そりゃ知らんかった」
 キッチンでフォークを取って、うさこに渡す。ありがと、とうさこが笑った。
 二人でいただきます、と言ってそばを食べ始めるが、うさこからそばを啜る音が聞こえてこない。様子を伺うと、うさこは麺をちゅるちゅると吸いながら食べていた。二人で同じものを食べているのに、違う食べ物を食べているみたいだ。
「僕年越しそば憧れてたの」
「食べたことない?」
「はじめて!」
「よかったね」
 二・五人分のそばは二人の前からあっという間になくなった。たぶん、岡江頼朝が六割五部くらいを食べた。いつものように食い意地を張らないあたり、うさこは年越しそばで相当浮かれているらしい。
「良い一年になりますように!」
 手を合わせて、ごちそうさまの代わりにうさこがそう言った。「はい、なりますよーに」
「あ、あのねヨリトモ、お正月だからあれ持ってきたの」
 うさこは勢いよく立ち上がると、チェロのケースのほうに駆けていった。お正月に持ってくるもの?餅とかなのかな、それともまさかお年玉?岡江頼朝があれこれ考えていると、うさこが一枚の紙を手に戻ってきた。差し出されるままに受け取れば、それは年賀状だった。裏にはうさこの字で「あけましておめでとう!」書いてある。
「手渡し制?」
「うん」
「まあどうやって届けるかは自由か」
「そうだよ」
 渡された年賀状を眺めていると、うさこが「ヨリトモの年賀状は?」と訊いた。
「オレはポストに入れる派だから、うさこの家届くよ、多分今日中」
「そんなことできるの?」
「できるらしい」
「ずるくない?」
「たしかに有利ではある」
「でもうさこ、年賀状かいたの二枚だけだから」
「これ食器下げてもいい?」
「うん、あれは?蕎麦湯は?」
「ごめん捨てた」
 下げた食器を洗って、手をスウェットで拭きながらリビングへ戻ると、うさこはまたソファでテレビを見ていた。番組の合間の五分間ニュースで、にぎわう様子の神社が放送されている。
「ヨリトモ、決めた、初詣行こう」うさこは意思の固そうな声でそう言った。
「えー」
「じゃあ初日の出」
「うーん」
「じゃあどっちも」
「そんなに行きたい?」
「誘ってあげてるの」
 言いながらも、うさこはいそいそと行く支度を始めている。おそらくうさこの中ですっかり行くことが決定してるのだろう。
「日の出ってまだな気がするんだけど」
 チェロケースを畳んでいるうさこの動きがぴたっと止まった。「なんかそれ、説得力あるね」

 結局その後、日の出の近づくまでゆっくりしていようという話になり、二人はテレビを見て、みかんを食べ、好きなアイスの味をした。
 日の出の少し前、岡江頼朝がすっかり眠ってしまってこでも起きなくなったうさこを前に肩をすくめるのは、もう少し後の話になる。

年始(良質)

年始(良質)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-10

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