Birth
親指の傷が開くのは、もう三度目になる。指の腹をぱっくりと割くその傷は、衣服のボタンを閉めると開き、シャープペンシルを握ると開き、寒さに手がかじかむと開いた。パソコンのキーを叩いている今も、傷口から赤く肉がのぞいている。開いて閉じてを繰り返しながら、もしかしたらこの傷は一生塞がらないかもしれない。一生?一生。
この動画が出来上がったら、少し寝ようかと考えた。字幕も効果音もほとんどない、シーンを切って繋げただけの、シンプルな動画。再生ボタンを押すと、ゲームのタイトル画面を背景に自分の声が流れた。マイクの質があまり良くないから、音声が少しざらざらしている。それがかえってウケるのだということを、俺は知っている。スペースキーを叩くと同時に、キーの角が傷に当たって、また血が滲みだした。乾いて黒くなった血のかたまりを、鮮やかに赤い血がゆるゆると覆い被していく。血をティッシュに染み込ませながら、ふと時計をみた。16時すぎ。もう学校の授業が終わるような時間だ。
編集を終えて、自室を出ると同時に、隣の扉から妹がピアノを弾く音が聞こえだした。曲の名前も、妹の力量もわかりかねた。寝る前飲むお茶を淹れて、何も考えないことにする。心はどこも痛くない。親指の引き攣るような感覚だけが痛い。
ふと思い立ってインターネットにゲームの実況動画を投稿し始めたのは、一年弱ほど前のことだ。ゲーム自体はもともと得意というのもあって、うっかり軌道に乗り、じわじわと再生数が増えつつある。自分はきれいな声をしているらしい、ということを、言われるようになって初めて知った。自分は大衆に好かれるのだということも。応援してくれてありがとう。みんな、大好きだよ。
携帯が振動したので、部屋着のポケットから取り出すと、クラスメイトからメッセージが届いていた。『野鳥の観察ボランティア来ないか。今週の日曜日、××公園11:00〜16:00。弁当は出る』クラス委員の大西からだった。中高一貫でほとんどが持ち上がりの男子校に高校から入学した時、色々と教えてくれたのが彼だ。真面目で責任感のあるやつで、週末には進路のためにボランティアに奔走しているらしい。俺も興味がある、と言ってみたら、こうして時折誘ってくれるようになった。日曜日の予定を思い返してみるが、何もない。要項を読むのと平行して、『行く』とだけ打ち込んで返信した。既読はすぐにはつかない。画面を暗転させて、麦茶を飲み干す。数週間ぶりの、遠出の予定だ。
部屋に戻り、動画が予約投稿になっていることを確認して、布団に転がって薄い毛布をかけた。大好きだよ、と言った自分の声を思い出してみる。七千八百円のマイク越しの、ざらついた声。胸中にたしかな引力がある。引きつけられて、眠り方を忘れてしまったみたいだった。瞼を閉じて、どこまでも遠い場所のことを想像する。
*
考えてみれば、本間が学校に来なくなってから、もう二週間になる。もともと都合の悪い時には休みがちなやつだということもあるし、体調が悪いとか喪中だとかさまざまな事情もあるだろうから、あまり考えないようにしていた。なのに昨日、コンビニで本間の姿を見かけてから気がかりで仕方がない。部屋着のポケットに手を突っ込みながらアイスのショーケースを眺めている本間は、至って健康そうだったからだ。別に普通の友達なのだからなんとか声をかけてやればよかったのに、なんとなく見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて電車に飛び乗ってしまった。僕がいつも乗り換えの中継として利用している駅が、本間の最寄駅だということに気がついたのは、家に着いてからだった。
今日は本間の姿を見かけなかった。いつものように電車に乗り込み、人と人の間にすぽんと席を確保した。英単語帳を開いてみるが、いまいち要領を得ない。やはり、本間とその進級のことが気がかりなのかもしれなかった。本間が来ていない二週間の間には定期考査があり、それにすらまるきり出席していないし、追試にも来ていないと聞いたからだ。
単語帳は諦めて、携帯をいじることにする。本間とのトーク画面を開くと、最終履歴は三週間前となっている。僕が出題の範囲を教えていた。この頃の本間にはまだ考査を受ける気があったのか、と野暮な推察をする。緊張している自分を嗜めながら、メッセージにボランティアの誘いを打ち込んだ。なんでもいいから、本間と連絡を取ってみようという気持ちになったからだ。口を固く結んで息を止めながら最後まで打ち込んで、送信する。送信してすぐ怖くなって、画面を閉じ、ゲームを起動した。ファンタジーもののアプリゲームだ。長らくやりこんでいて、アカウントもそれなりに強い。そういえば、本間もこのゲームをやっている。フレンド一覧から本間のアカウントを確認すると、最終ログインが一時間前となっていた。やっぱり本間は、少なくともゲームができるくらいには元気なんだ。不思議な気持ちになっていると、目の前が薄暗くなった。電車に人がたくさん乗ってきたのだ。申し訳なさそうに小さく携帯を持ち直した。
*
「本当に来んのかなって思ってたよ」
公園にやってきた俺を見るなり、大西が笑った。俺も曖昧に笑ってリュックサックを肩に掛け直す。公園には、十数人の子供たちと、その父母が集まっている。赤いジャンパーを着ている人は、おそらくこの会の長なのだろう。「光村さんだよ」大西が言った。
日曜日の空はびっくりするくらい晴天だった。朝出発する前に鍵を探していたせいで、駅までの距離を走る羽目になり、電車に乗った時はじんわり汗ばんで暑いくらいだった。その汗も、公園に来る頃にはすっかりひいている。その代わり、親指の傷はまた開いていた。走っているうちに血が巡ったのかもしれない。大西が要項の紙を差し出した。受け取る時、血がつかないようにそっと親指の先を浮かせる。『自然と触れ合おう!わくわく野鳥観察隊』という見出しが目に入った。子供達に配るものと、スタッフ用に配るものと二枚ある。思ったよりちゃんとしているようだ。
「俺たち以外の高校生って、いつ来るの?」
「今日は来ない。俺と本間だけ」
「他の高校って大体三学期制だから、今はテスト期間らしい」
「じゃあ俺が来てよかったね」
「本当にそうだよ」
大西くん、と光村さんが大きな声で呼ばれた。大西が走って行き、一人になる。ぼうっと携帯を眺めていると、指はいつの間にか自分の動画のコメント欄を押していた。適当に読み流しながら、ハートをつけていく。大抵は称賛の言葉だ。画面の中で、自分の声だけが喋っている。視聴者は、俺の声が好きらしい。マイク越しの、粘土みたいにざらざらした声が。自分で自分の声はわからないから、まるで自分ごとには思えない。でも、可愛がられている。
「ちょっと、本間、お前も来て」
大西が俺を呼んだ。何か打ち合わせ事項があるらしい。ポケットに手を隠したまま、小走りで近づいた。
午前中は子供達と仲良くしているうちにあっという間に過ぎ去った。名札は下の名前で作ったほうがいい、と光村さんが言うのでそうしたら、確かになんとなく子供に好かれやすかった、気がした。どうやら自分は子供向け番組に出てくるマスコットと同じ名前らしい。お兄さんも森に住んでるの?と子供が言うので、そうかも、と答えておくことにした。
昼飯はコンビニのお弁当と、インスタントのスープだった。光村さんは保護者の人たちと話に行っているので、休憩所の隅っこで大西と二人で弁当を食べた。
隣で弁当を食べていた大西は、ポケットから携帯を出すとゲームを起動した。「そういえば、今日まだログインしてなかったんだ」そう言って操作する画面に見覚えがある。「あ、大西もまだそのゲームやってんの」
「あ、うん」
へへ、と大西が笑った。大西がゲームをするときの携帯の持ち方は独特なんだよな、と思う。自分もポケットから携帯を出しながら、初めて大西に話しかけたときのことを思い出した。
「リアルでこのゲームやってる人、本当にお前しか見たことない」
「僕もそうだよ、入れてすぐ消したっていう友達はいたけど」
「二千万ダウンロードとか絶対嘘」
「記念であんなに石配ってたのに?」
「そう」
大西と同じゲームを起動させ、自然と持っているカードを見せ合う流れになる。「え、これ強いやつじゃん」「十連したら奇跡的に当たった」「お前はずっと同じの使ってるよな」「なんやかんやこれが一番使いやすいし……」
大西が俺の操作している画面を覗き込んでいる。こうしているうちに、通知の一つでも来て、動画のことがバレたりしないだろうか。いつも鳴り止まない通知が、今だけ何故か静かだ。
「俺さー、ゲーム好きだわ」
「え、急になんの話?」
「最近、ずっと学校行ってないじゃん」
「そうだけど」
「ずっとゲームやってんの」
大西は寄せていた肩をすっと引いて背筋を伸ばした。静かに、これから話すことの続きを待っている。
ぽつりぽつりと、大西に動画のことを話した。なんとなく、そうするのが精神衛生的に一番良いように思えたからだ。大西は何をしてもだいたい怒らないということに、甘んじている。
「それで学校に来てない、って話?」
話しているうちに何回も麦茶を飲んだから、紙コップが空になった。大西が二リットルのペットボトルを開けて、コップに麦茶を注いでくれた。
「なんか、ぼーっとしてるうちに何したらいいかわかんなくなっちゃったから。今やってることはぜんぶ惰性だよ」
「へえ」大西は、自分のコップに注いだ麦茶に口をつけた。「なんか、意外だな。本間って、嫌なことすぐやめるタイプじゃん。テニス部とか一ヶ月でやめたし。あれめっちゃビビった」
「たしかに」
紙コップの覗き込むと、口に黒いものがついていた。弁当に入っていた海苔が巡り巡って入り込んだんだろう。爪で掻き出しながら、熱が出た時みたいにぼうっとした。
「休憩もう終わるから、行こう」
腕時計を見ながら大西が立ち上がった。先行ってて、と言って去っていく大西の背中を見送ったあと、もう一口麦茶を飲んだ。口の中がこそばゆくて、いつもより何倍も濃い味がした。
片付けまで全て終わったあとには、日がうっすらと傾きかけていた。駅までの道を二人で肩を並べて歩く。背の高い大西は、地面を見ながら歩くのが癖だ。改札を通った先で、違う路線に乗るために別れることにした。
「本間」
「何?」
「学校来いよ」
大西がまっすぐこちらを見つめていた。うん、と俺が答えていた。
*
本間と別れて、僕は一人電車に揺られていた。途中のほとんどの乗客が降りたので、残り数駅分を座ることができる。週末ももう終わるのに、人々はしゃかりきだった。携帯に無線イヤホンを繋いだが、しっかり繋げているか不安で何回か確認した。動画サイトを開いて、検索窓に打ち込んだ。本間のやっているチャンネルが本当に、出てきた。数字を見るに、そこそこ人気があると本間が言ったのは本当らしい。
一番上の動画を押してみると、広告が流れ、すぐさま動画が始まった。イヤホンから快活な本間の声が流れてきた。ゲームの音と、本間の声と、コントローラーを操作する音が重なる。「そういえば、コメントで何歳ですか?ってめちゃくちゃ聞かれるんですけど」「俺、高校生なんですよー」「意外?えーそうかな」
十秒ずつ動画をスキップしながら全体を流し見ているうちに降車駅に辿り着いた。電車を降りる時、落とさないように携帯をぎゅっと握りしめる。その時、携帯の音量ボタンがぐっと押されて、一気に音量が上がった。「大好きだよ」動画の中の本間が確かにそう言った。大きな音に肩を振るわせて、降り口で思わず立ち止まる。僕の背で、電車の扉がぷしゅうと閉まった。
次の日、本間は本当に学校にやってきた。二週間のブランクを感じさせないくらい、本間はごく自然に振る舞っている。「本間、お前全然来てなかったじゃん」というクラスメイトの言葉も、「出席数そろそろまずいぞ」と言う教科担任の言葉も、本間はかるくあしらった。その度に、本間と校舎の輪郭が溶けて馴染むようだった。
月曜日の時間割は易しくて、すぐに昼休みが終わり、五時間目になった。現代文の授業だ。教室に本間の姿はない。さぼったんだな、と僕は腹の中で思う。五時間目の授業に出たくないのなんて、みんな一緒なのに。
「すみません、僕ちょっと熱っぽくて。保健室行きます」教科書のページを探している先生に、そっと発言した。
「わかったけど、保健委員に付き添って貰えば?」
「いや、大丈夫です」
本当はちっとも熱っぽくなかった。僕はできるだけ気だるそうに教室を出ると、わざわざ保健室側の階段を昇って、校舎の屋上へ出た。空は昨日ほどではないが、晴れている。貯水槽の梯子を登ろうとしたが、鍵がかかっていた。本間、と下から呼んでみる。生き物が動く音がした。
「え、なんでわかんの」上から顔を覗かせた本間は、心底驚いたように目を見開いている。
「漫画のキャラとかって、大体屋上でサボるじゃん」
「大西は、俺が漫画のキャラみたいに見えてるってこと?」
「まあ、だいたい」
どうやって登ったの、と言うと、そこに突き出てるところに足をかけるんだ、と本間が答えた。足をかけてみたが、少し無理があるように思えた。つかまって、と本間が手を差し伸べた。ぐっ、と引っ張られて、どうにか上に転がり込む。
「お前、重いんだけど」
「それは、ごめんて」
本間引っ張り上げた勢いのまま横になっている。腕に顔を埋めて、眠たい幼児のような格好をした。
「俺さ、やっぱり、動画続ける」
「結局?」
「うん」
「学校は?」
「うーん、まあ、それは、ぼちぼちどうにかする」
本間が勢い良く立ち上がった。そのままゆっくりとした足取りで、貯水槽の淵に立つ。青空を背景に、本間の制服が風に靡いた。
「俺、結構なんでもいいって思ってるんだよ。進路とか、勉強とか大体のこと。窮屈なところにはいたくないけど、そうじゃないなら。昨日までは変な風邪に当てられたみたいになってたけど、たぶん俺、本当に好きなこととか、あんまり無いんだ。自分のことも、周りのこともあんまり信じられない。ただ、それでもなんとなくやってみることが、」
「うん」
「結構面白いって思ってる」
地面を蹴って、本間が飛び降りた。僕はあっと声が出た。貯水槽の高さは、二メートルと少しくらいだ。その高さを飛んで、本間は足くらいは挫いても、死ぬことはないだろう。それくらいのことを、僕はわかっている。本間と地面がぶつかる音が……しなかった。多分、音が風に乗って消えたんだ。僕は自分の手を見つめてみた。そして本間に握られたところに、少しだけ血のようなものがついているのを見た。なあ、大西。僕を呼ぶ声がする。
Birth