イルカのころし方

(SSW1.5くらい)
 
 ×××というひとの、一つの大きな後悔を知っている。イルカを殺せなかったことだ。

 冬のある木曜日、____いや水曜日?金曜日は空き缶の収集日だったから、少なくともそうではなかった____僕と×××は、ルドルフ先生に連れられて、G地区のとある川っぺりに来ていた。空は白く曇り、空気はひどく乾いて寒かった。僕たちは手袋なんか持っていなかったから、上着のポケットに手を突っ込みながら歩いた。
 長いコートを着た先生は、僕たちの何歩も先を歩いている。先生の耳には柿渋色の耳当てがあった。先生の奥さんから、先生へのクリスマスプレゼントらしい。それを聞いた時、僕たちは顔を見合わせた。渋柿色のファーは、新品にも関わらず、最初から薄汚れているように見えたからだった。そういうデザインを好む人があるのだ、ということは後から知った。
 ×××は背を丸めて、立てたウインドブレーカーの襟に顔をうずめていた。それが彼の持っている一番厚手の上着だった。×××の歩く速度は僕よりも少し速い。なんせ、背が高いから、足が長いのだ。それじゃあ、当たり前に追いつかない。僕と×××は同い年だった。たぶん。
「ねえ、先生は、どうして僕たちによくしてくれるんだろう」
 数歩先を行く×××に尋ねると、彼は気怠げに肩を振るわせた。
「よくしてくれるっていうのは?」
 僕は少し考えた。ルドルフ先生は、月に何回か僕たちの住む地区にやってきて、子供達に授業をする。僕たちは、たとえば文字の読み方や、数字の計算の仕方を教わる。授業には、僕たちと同じくらいの歳の子たちもいるし、いくらか年下の子達もいる。いつも全部で数十人くらいになる。なのに、今日来ている子供は僕と×××の二人だけだ。昨日の授業が終わった後、先生は僕たち二人をこの河原に誘った。
「僕たちだけ、こうして特別にどこか連れて行ってくれたりするでしょ」
「お前の母さんが美人だから、とかじゃねえの」
 ×××はこちらを振り返らなかった。道に転がる石ころが後ろへ流れていくことばかりを見つめている。彼の表情はよく見えないが、声色からそれが冗談であることがなんとなくわかった。×××はそういういじわるを言うのが好きだった。たぶん、彼はそれなりに普通の人だったんだと思う。対する僕は、今×××の言った冗談が先生の耳には入っていないだろうかと不安になった。
「違うよ、先生は優しいからだ」
 僕は×××を肘で小突きながら、ひっそりとした声で言った。×××は鼻を鳴らした。
「そう言ってほしいなら、聞かなくちゃいいのに」
 僕は何も言えなくなって、下唇を噛んだ。噛んだところに血が集まって、冷えた唇がじんわり温かくなった。
「なあ君たち、この辺にしよう」
 遠い前方から声が聞こえた。ルドルフ先生が、僕たちの方を振り返って立っている。僕ははあい、と答えて先生の元に駆け寄った。×××も後ろから続いた。

 ルドルフ先生は、陸の淵に静かに腰を下ろした。僕たちも続いて腰を下ろした。左から、先生、×××、僕の順番だ。静止していると、風の流れがさらに良くわかった。川が上下にうねりながら流れていくということもわかった。先生は、懐から小さな袋出すと、僕たちに一つずつ渡して、自分も一つ持った。先生は中のものを手に取って、川の中に撒いた。川の魚たちが集まってきて、ぱくぱくとそれを食べていく。
「先生、これはなにをしているのですか」
「見てわかるだろう。魚たちに餌をやっているんだよ」
 ×××は何も言わずに、見るがままに魚に餌をやっていた。僕も同じようにする。川の水はあまり綺麗じゃない。それでも小さな魚影がよく見えた。
「私はね、たまにこうして魚に餌をやりに来るんだ。彼らも必死に生きていて、それを見るのがすごく勇気づけられるんだよ」
「あ、はい」
 ×××は相変わらず黙っている。僕は何か会話を続けようと、口をまごつかせた。僕が何か言うよりも、先生がまた話を始めたのが先だった。
「イルカを殺したいと思ったとするだろう」
「イルカ?を殺す?」イルカってなんだろう。たぶん魚だ。情景が頭にうまく頭に思い浮かばないまま聞き返してみる。
「どうやって殺したらいいと思う?」
「刺したりしたら、なんだって死ぬだろ」×××がようやく口を開いた。
「でも、イルカは大きい」先生は×××の無愛想な態度を気にも留めなかった。「そういう時は、耳を探すといい。探して、耳の後ろを思いっきり押すんだ」
「それでどうなるんだよ」
「イルカはたちまち死にたくなって、どうにもならなくなる。そして岩に頭をぶつけるなりして、勝手に死ぬんだ」
 かわいそう、と僕は呟いた。目の前で必死に口を開けている魚と死にたがるイルカの話はちぐはぐに思える。ひとしきり魚に餌をやったあと、先生と僕たちは辺りを歩いてまわった。先生は僕たちにいくつかの植物の名前や、雲の形や、影の長さについて話した。

 日の傾いた街中を、僕と×××は二人で歩いていた。先生は途中まで送ってくれたが、ある程度近いところに入ると帰ってしまった。先生のいた頃には続いていた会話が、とうとう途切れた。地面が温まっていない分、行きの道よりもずいぶんと寒かった。
「先生の言っていたこと、本当だと思うか?」×××が言った。
「先生の言っていたこと?」
「イルカの殺し方の話」
「先生が言うなら、本当なんじゃないかな」
「それって、どんな動物でも殺せる?」
「何が、言いたいの?」
 ×××が立ち止まった。今までになく、真っ直ぐ僕の目を見下ろした。「アムを殺すんだ」
 アムは僕たちの近所に住んでいる野良猫だ。いつからいたのか定かではないが、痩せ細ったみすぼらしい猫である。動きも緩慢で、おそらく何かの病気なのだろうということが、僕たちの見解のおおよそ一致するところだった。このあたりに猫を見れるような医者もいなければ、飼ってやれるような家庭もない。このままでは、アムはただ死を待つだけだった。
「アムはどうせもうすぐ死ぬだろ。それなら、俺たちの手でどうにか殺してやったほうがいいと思うんだ」
 どう思う?と×××が付け加えた。どうせ死ぬのなら殺してやればいいという理論はあまりわからなかったが、×××の言葉には不思議な説得力があった。
「いいんじゃない」気がつけば、僕はそう言っていた。

その夜、僕たちは路端に立って、濡れた雑巾みたいな毛並みをしたアムを見つめていた。アムは、立っているというより、その細い足でやっと体重を支えているだけのように見えた。暗がりで、アムの表情まではよく見えない。ミャオ、とアムの弱々しい声が、夜の空気を少し震わせた。
 ×××がしゃがんだ。×××の靴のかかとと、土が擦れる音がした。僕は立ち尽くしたままその様子を見ていた。×××の影がアムに手を伸ばしている。指先は震えているようにも、まっすぐ伸びているようにも見えた。×××の手がアムの頬に触れた。指が耳に伸びる。

 アムの耳にその指が触れた瞬間、×××はひゅっと手を引っ込めた。アムが今までに聞いたこともないような鋭い声で鳴いたからだった。×××は尻もちをついている。夜の空間に沈黙が流れた。アムがもう一度鳴いて、どこかに去っていった。僕たち二人だけが、夜に取り残されている。
「ごめん、なんだかためらっちまった」
 ゆっくりと立ち上がりながりながら、照れを誤魔化すような口調で×××が言った。驚いたなー、と言いながら、その足は帰路についている。
「×××、」
「まあ、いいか。なんも起きなかったのと一緒だからな」笑うように、×××が息を漏らした。

 次の日の朝、僕がコップに牛乳を注いでいると、誰かがうちの門扉を叩いた。僕が慌てて出るよりも先に、扉は勝手に開けられた。こんな時間に尋ねてくる人なんて、知らない。僕の心臓は一瞬跳ね上がったが、そこにいる人物が×××だとわかると、すぐに緊張がほぐれた。次の瞬間、×××と目があって、僕はびっくりした。×××の表情が、今まで見たことがないくらい思い詰めた物だったからだ。僕はまた自分の心臓の鼓動を感じた。
「アムが死んだ」
 部屋の真ん中にいる僕との距離を詰めながら、×××はもう一度言った。「アムが死んだんだ」
「死んだって、どうして」牛乳を溢しそうになって、慌てて抑えた。数滴だけ溢れて、テーブルに染みができた。「×××は結局アムを殺さなかっただろう」
「違う!」あわてて声を張り上げた×××の唾が飛んだ。「車に轢かれて殺されたんだ。俺たちが殺したんじゃない。俺が見た時には、もう死んでから何時間か経った後だったよ」
 行こう、と×××が言って、僕たちは外に出た。僕の手を引く彼の手がとにかく冷たくて、彼の方が死んでいるみたいだった。その反面、ちらと見え隠れする×××の頬がかすかに上気していた。取り乱してるんだ、と僕はわかる。そう思うと、アムが死んだのに、僕はびっくりするほど冷静だった。早朝の冬の空の色を確認するくらいの余裕がある。

 アムの死体は×××のきょうだいが持っていった後だった。今頃どこかに穴を掘っているころらしい。僕も最後にアムの姿が見たかったのにと言うと、×××は静かに、「見なくていい」と言った。アムのいなくなった道にはうっすら赤いものがこびりついていた。アムの血痕のようにも見えたし、元からある汚れにも見えた。聞くに聞けないまま、×××にならって深刻そうに地面を見つめてみた。アムの姿は浮かび上がらなかった。
「アムを殺してやればよかった」
 ×××が静かに呟いたのを聞いた。震えた声が、寒空に溶けて消えた。彼は僕に話しかけたんじゃないだろう。それは世界への確かなうらみだった。僕は「うん」と言った。自分の声が聞きたかった。
「何か一つの願いのために死ねたなら、幸せだったかもしれなのに」
 ×××は傍にあった小石を蹴った。ぼこぼこと音を立たてながら小石が赤い痕の上に乗り上げて、通り過ぎていった。×××のすこし青い唇が震えていたが、寒さのためかどうか、わからなかった。

イルカのころし方

イルカのころし方

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-09

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