ジャックフロスト

 食うに困る一歩手前まで乏しさに陥ったとき、ある求人が目に止まって、僕はその日のうちに応募を出した。
 求人にはただ倉庫作業とだけ書かれていて、資格も学歴も年齢もなにも条件なんかないくせに、時給欄にはそこらのコンビニの3~4倍の金額が書かれていた。
 始めは多少訝しんだ気もするけれど、生活に余裕もなかったから、指定された面接会場へとノコノコ向かうと、僕はマンションの一室で、身なりの綺麗な初老の男と二人っきりで机を挟んで座ることになった。

「お話しすることは好き?」
 僕の年齢だとか住所だとか、どれだけ稼ぎたくてどれだけ仕事に入れるかなんて基本的なことをいくつか話し終えると男はそう言った。
「まあ、好きですよ。一人っ子なもんで昔から話し相手には飢えていたから」僕はそう答えた。
 男はにこやかな表情で続けた。
「そう、それは良かった。それで本題の仕事内容なんだけどね、あるモノとお話ししてほしいんだ。勿論働く時間ずっと喋ってろってわけじゃなくて、相手から話しかけられたら答えるだけでいいんだけど」
「求人には倉庫作業って書いてありましたけど」僕は首を傾げた。
「倉庫作業っていえば倉庫作業なんだけど、ちょっと特殊でね。別に難しいことはなにもないよ。本当にちょっとお話ししてくれるだけでいいんだ。相手が許してくれれば携帯も弄ってていいよ。飲食も好きなタイミングで取れるし、まあちょっと冷えるけど」
「冷える?」
「まあ行けば分かるよ」
 男は足元にあった大きなボストンバッグを机の上に引き上げて中身を見せた。中にはダウンや手袋、カイロなどの防寒グッズがぎっしり詰まってる。
「君が良ければ採用したい。これは君が仕事する上での制服みたいなもんだよ」
「ちょっと待ってください、一体そんなもの着こんで誰と話せっていうんです」
「それも行けば分かる。ちょっとビックリするかもしれないけれど悪いヤツじゃない」それとと男は続けた「この仕事の話しは他所に持ち出し禁止で頼むよ。それが唯一のルールだ」



 僕は渡されたボストンバッグを肩に下げて、ある倉庫の前にいた。倉庫といっても、広い空き地の端に放置された少し大きなコンテナのようなものだった。時間は15時になる少し前で、これから22時まで僕はこのコンテナもとい倉庫の中で働くことになる。
 そわそわと、初めてのことに対する漠然とした不安をもて余していると、いつの間にか時間になって、恐る恐る倉庫に近づいてみる。
 辺りには誰もいないし、中から人の気配もない。初めての仕事で一人っきりなんていい加減なんじゃないかと自然と腹も立ったけれど、初老の男は行けば分かると言っていたから、思いきって扉を開けてみる。
 中には裸電球がいくつかぶら下がっていて、思っていたよりもほんの少し明るい。それと簡単な流し台に電気ポットみたいなものもあった。室温はやっぱり少し冷たくて、腹と背中に貼ったカイロの温もりが指先までなかなか届かずに悴んでいる。
 ただそんなことよりもなにより重要なことは、その奥にひっそりと居座る僕の話し相手だった。
 そいつの体は3つの塊で構成される雪玉で、鼻の代わりにニンジンが、腕の代わりに木の棒が刺さった言うなれば雪だるまだった。生意気にも(多分)ボルサリーノのハットを被っている。
「新入り?」
 雪だるまが喋った。分厚いミトンはめた僕の手は、まだコンテナの扉の取手に掛かっている。うまく言葉がでない。
「そんなに恐がらなくていい」雪だるまがまた喋った。
「あの、あなたは?」沢山の意味を含んだ振り絞った疑問だった。
「見ての通り」とだけ雪だるまは答えた。海外のアニメ映画みたいに表情豊かとはいかず、石ころの目線だけチラッとこちらを向いた。
「なんで雪だるまが喋ってる」と言葉に出た。
「さあね」
「そんな無責任な」
「責任なら取ってる。現に君はこの後報酬という我々の責任を受けとるんだから」雪だるまは実に流暢に喋った。
 不思議なことに、こうしていくつか言葉を交わしているうちに段々と状況に慣れていって、僕はようやく手を扉から離した。
「我々って? 他にもいるの?」
「君も会ったろう? あの胡散臭いオッサンのことだよ。私みたいなのが他にもいるかは知らないけれど、私を取り巻く人間は何人かいる」
 僕は面接をした男を思い出して、あぁあれかと呟いた。
 雪だるまはぎこちなく腕代わりの枝を動かして、僕に椅子に座るよう勧めた。贅沢にも背もたれのついたフカフカの腰掛け椅子だ。
「何をしたらいいんだろう」
 浮わついた現実にいつまでも脳が追い付かなくて、僕は雪だるまに訊いた。
「別に、なにも。聞いてると思うけど、ただ私と話をしてればいい」
「話ってなにを?」
「別に、なんでも」
 僕は少し考えてポツポツ訊いた。
「あんたは何者なんだろう?」
 雪だるまは少しにやけて(口の代わりの木炭を不自然に曲げて)優しく答えた。
「みんな初めは同じことを訊く。けどみんな結局分からずじまいで、そのうちおざなりに携帯でも弄りだす。ゲームを持ってくるヤツまでいる。慣れって怖いよ」
「つまり?」
「訊くだけ無駄ってこと。いつから私がここにいて、いつから君たちがこんなことに付き合ってくれてるのかは誰もわからない。けど案外みんなそんなもんだよ。人間だって、自分が生まれたときのことなんて覚えちゃいない。親なりなんなりが教えてくれたことを信じてるだけさ。あなたは何処で産まれてどう育ったのよって、それを聞くのはいつだって自分がその事を忘れたときさ」
「確かにね」筋は通ってる。僕にはそう思えた。
「私の場合それを教えてくれる人が初めからいなかっただけ。私は息子を想うジャック・フロストじゃない」
「ジャック・フロストってあの雪だるまの? 映画なんて観るの?」
「勿論観るよ。お話だけじゃ退屈だしね」
 隅に向かう雪だるまの目を追うと、そこには冷えたテレビにブルーレイプレーヤーと音楽プレーヤーがあった。
 それから僕らはひとしきり映画と音楽について語り合った。途中温かいココアを飲んで、持ってきたコンビニの菓子パンを食べた。雪だるまは勿論なにも食べやしなかったけれど、不思議とコンビニの菓子パンに詳しくて、同じパンでも何処のコンビニのパンが一番うまいか丁寧に教えてくれた。
 そんな下らない話をいくらか話しているうちに、次第にこの雪だるまがどういうヤツなのか分かりかけた気がした。
 彼はマイケル・ダグラスとビリー・ジョー・アームストロングを敬愛する思っているよりもイカれてるやつで、ココアはインスタントだとモダンタイムスのミルクココアが一番美味いことをなぜか知っていて、コンビニの菓子パンに詳しくて、ジーニーの声真似が上手い、そしてほんのすこし寂しそうな雪だるまだった。
 僕らはある程度話し終えた後、残った時間でジャック・フロストを観た。相変わらず子供騙しのふざけた映画だと思ったけれど、終わりがけに彼が『いつもさよならを』を口ずさんで、なんだか悪くない気分だった。

 そうして僕の初仕事は終わって、別れを告げて倉庫を出た。外は夜の風が冷えているはずだったけれど、今まで居た場所がより寒かったからか変に温い。
 帰路につくと携帯が鳴って、凍えた機械を耳につけると面接をした男の声がした。
「お疲れさま。初仕事どうだったかな、やっていけそう?」
「別に大したことしてないですよ。本当に話をしていただけで」
「いいんだよ、それが大事なんだ。こっちが望んでるものはまさにそこだからね」
「彼は一体なんなんです」
「さあね」男の返事は軽い。「けど悪いヤツではなかっただろう?」
「そうですね」僕は答えた。「まあ、やっていけそうです」
「それは良かった。ただ、倉庫の話しは持ち出しちゃダメだよ」男は付け加えて「それが唯一のルールなんだから」と言った。

 
 それから僕は雪だるまのいる倉庫に通い続けた。週に4回決まった時間に入って、たまに話が弾んで遅く出ることもあった。
 相変わらず僕らは映画と音楽の話しをして、倉庫のブルーレイプレーヤーでいくつか映画を観た。数えきれないほどの菓子パンを食べて、信じられないくらいのココアを飲んだ。そうして季節の変わり目を何度かやり過ごして、僕らはある種の友情と信頼を築いていった。
 相談に乗ってもらうこともあった。下らない相談も真面目な相談も、雪だるまは変わらないトーンで真摯に答えてくれた。
 帰省の時期に、折り合いの悪い実家との関係を吐露したとき彼は言った。
「もしも明日世界が終わるとしてだよ」
「嫌に詩的だね」
「まあ聞きなよ」彼は無い喉の咳を払った。「ノウイングでもディープ・インパクトでもいいけど、どうしようもない終わりを突きつけられたときにさ、最期に自分が過ごせる場を想像できるってのはとても幸福だと思うよ」
「実家には居たくないね」
「別に場所だけじゃないさ。そこに関わる人間と過ごすでもいい。そのときを満足に迎えられるイメージが出来ればいいんだから。もしそのイメージが君の生まれた家にあるなら、その縁を大切にした方がいい。もし無いなら、君が心の重心を置く場所はそこじゃない」
 僕は実家に置いてきた太った茶トラの猫を思い出した。学生の頃川原で拾った猫だ。あいつを膝の上に乗せて、撫でながら安らかに終われたら、それでいいと思えた。
「それって人じゃなくてもいいの?」
「それは私と最期を過ごしたいってことかい」
「いや、違うけど」と僕が真面目に言うと、彼は豪快に笑って、それからすこし寂しそうな顔をした。

 
 そんな話を何度か繰り返して、また季節の変わり目を何度かやり過ごした。そうしてゆっくりと纏まった時間を一緒に過ごしてみると、なんだか時折見せる彼を包む寂しさの正体がうっすらと分かるような気がした。


 その日は雪こそ降らないけれど、澄んだ空の冷えきった夜だった。
「ねえ、あんたは外に出たいとか思わないの?」
 映画を観ながら、僕はついそう訊いた。
 彼は無表情で、本当にただの雪だるまになっちゃったんじゃないかと思えるほど言葉の無い時間が経った。テレビの画面ではベン・スティラーがヘリコプターから海に飛び込んでいた。
「そりゃね、思うよ」彼はボソッと言った。
 僕は自分のした質問の意地の悪さに遅れて気づいて、不用意に吐いた彼への暴言を恥じた。
 当然出たいはずだった。彼が雪だるまでなければ。
 ただ吐いた言葉の責任と、以前から感じていた彼の物寂しさをどうにかしてやりたいお節介が、嫌に僕の背を押した。
「じゃあさ、ちょっと出てみない。そりゃパリやニューヨーク旅行ってわけには行かないけど」
「怖いんだ。出たことがないから」
「そりゃ怖いさ、初めてのことはなんだって。僕だって仕事で初めてこの倉庫に入るときは震えたよ。ただ本当に嫌でなければ、僕はあんたの興味の手伝いをしてやりたいんだ」
 彼はすこし寂しそうな顔をした。
「けど外に出るなっても言われてるし」
「ねえ、ジャック・フロストだって自由に町を出歩いてたよ。それに別に出歩いて人に会おうってわけじゃないんだ。ちょっと外に出て冬の澄んだ夜空でも一緒に見よう。バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいに」
「私がドク?」彼は漸く少し笑った。
「残念だけど両方ドクさ」僕も微笑むと、彼を取り巻く寂しさがすっかり消えたように思えて、出した言葉の責任を取れた嬉しさが腹の底から沸いてきた。
 それから僕らはいくらか話し合って、彼の体を分割して運んで、また外で組み上げようということになった。
「そんなことできるんだね」素直に驚いて訊いた。
「できるさ、崩れるのを怖がって案外みんなやらないけど何回か倉庫の中の模様替えをしたときにやってるよ。外に出るのは初めてだけど」
 僕は彼の体を塊毎に3分割して、大きな体から転がして外へ出した。最後に倉庫に残ったボルサリーノのハットを被った頭を抱えて、倉庫の扉に手を掛けた。
「本当はね」彼が僕の腕のなかで言った。「この倉庫が嫌いだったんだ。君が君の実家を嫌いなように。前言ったことがあるだろ? 満足な最期をイメージできるかって、私はこの倉庫ではできなかった。明日世界が終わるのに、私の話し相手はみんなそれぞれの大切な人のところにいて、私は一人ぼっちでテレビもつけれずにここでひっそりと不本意に終わるって思ってた。けど私にとってはこの倉庫が世界だったから、それ以外の想像なんてできなかった。だから外に出ようって言ってくれたことが本当に嬉しかったんだよ」
 扉を触れる掌は、ミトンの中でぐっしょりと濡れている。僕らはお互いこれからなにが起こるか分かってるみたいだった。
 それでも僕は倉庫の扉を押し開けて、彼と共に外へ出た。そして抱えた彼の頭を2段の雪玉のてっぺんに積み上げた。
 すると彼の体はいっぺんにパサッと溶けて地面に染みた。その染みも暫くすると乾いて消えた。

ジャックフロスト

ジャックフロスト

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted