殺生石の素知らぬ幸福
試し書きです。これで面白く思えて、読者さまが読み勧めてくれるかどうか、分からないので……。
学生怪人
殊勝な振る舞いで己の悪魔を覆い隠すは人の常。──V
※
学生怪人が現れていた。まるでガラスのように透き通った、清々とした|水面のように流麗なレインコートが、彼の着込んだ学ランの制服を露わにしてみせる。首元の紺な詰襟から、ほんのすこしのカラーの白いツヤが見え隠れする。あるいは彼が素早い動きそのものでその走りを|脚足により発揮させるたび、彼の紺色の学生服がこうした群青よりも|濃とした藍鉄のモノトーンをして、玲瓏として曇りなき水晶の布地をしたレインコートから、鮮やかに目立ってみせる。
夜は明けて、新たな日、その朝を迎えているのだった。
春の麗らかさには不釣り合いなほど、小ざっぱりとした乾気が吹き乱れ、舞う。桜が精気を弾ませるようにして、この枝めいっぱいに咲かせた薄紅色の五弁花が、初々しいままに、怪人の少年が流転させた大気のそのあまりの勢いには造作もなくちぎり乱れ、吹き飛ばされてゆく。こうした淡い花弁とさわやかな大気の渦中にあって、それを創り出している張本人こと、|彼の学生怪人が、こうした風の残滓さえ置き去りにして、どうともしないように、凄まじい速さで走ってゆく──
彼は街なかの大通りに出るために、今まで駆けていた桜並木な通学路のこのK坂を、そのきつい傾きをもスキージャンプの台であるかのようにして、彼の加速にはずみをつけて馳せ、そのままM通りの車線が四つほどはあるその幅広い車道にむけて、難なく曲がった。
どっどど どどうど どどうど どっどう
風が悲鳴をそう上げて、すると風圧があとを追って、
──どおぉっ
《《そう》》つむじ風さながらに引き起こされて、この彼が曲がったあとやいなや、ぐわっ、と巻きあがる。
しかしこんな盛大なありさまにも、音ともに背を向けて、彼はただひたすらに滑走してゆく。この彼の二つの脚こそがもはや見極められないほどの疾走の駿足と化して、今この時でも、前へ前へと、かれの脚よりも腰を──腰よりも胸を、──胸よりも頭を。そう言わんばかりに先んじてゆく走法にへと、なめらかに流れるように可変していった──そう見えた途端に、彼が飛んだ。
さながら全身を、人体の形という平たくないだけの翼であるかのようにして、体の総身でもって真っ向からの激しい逆風を受け止めてみせて、それにもかかわらず地面にへとその身を投げ出した。
──そのあまりの勢いに、彼の身体と地面の間に挟まれてしまった空気が圧縮され、彼の肉体を翼として認めてしまい、彼を空中にへと射ち出したのかもしれなかった。そう思わすほどの勢いで、|水泳選手が今まさに泳ごうとプールサイドを蹴り出した、その時のように、みるからに斜め四十五度の射角で発射して飛んでいったのだ。
彼の影が道路にようやく落ちなくなったとき、どん、と爆音が天空のほうから、太陽のあかるい輪を背にして轟いた。
( ※ )
きーん……。──そんな、ジェット機の飛び立ったみたいな、甲高い音がした。そんな気が、する。
つい教室の窓のほうを、その外の方の青空を見る。──雲ひとつない、いわば突き抜けるような青空。彼女の席は窓際なのだ。
|東尋臨は嘆息した。この五限、今日の最後の授業が終われば、高校の学園祭実行委員、その山積みの仕事が彼女を待ち構えているはずだった。──なんでこんなことになったの。彼女は自問した。わからなかった。彼女はまだ高校一年生だったのだ。数ヶ月前なら、新入生としてちやほやされた身分だったのに。
あいつが悪いんだ。彼女は自答した。
法水騏一郎が彼女の理想となるまでには、数年が必要だった。何しろかれは性格が悪ければ根性はへそ曲がりで、加えて口下手で頭も悪いうえに不器用なのに加えて、そうして何よりも中二病だったうえに幼稚で、精神病質な最悪極まりない、狂人まがいなクズだったからだ。
彼女はかれを(F)と呼ぶ。よそよそしい頭文字でよびつけてやって、ようやっと彼のド腐った人格にへと対面してやれる気になるからだ。もちろんfとはf○○○なフォーレターワードのfだ。──そういってみせる彼女だけが【N】にむかって使う、専用の仇名だった。
だというのに、彼はせっかくの人の好意を無にするかのように、お返しと言わんばかりに彼女のことを(i)と呼ぶ。変な期待なんぞしてない。できるものか。──彼女はそう遮二無二に考えるのをやめた。
あのあだ名は単に彼女の一人称が「私」だから、そうして英語の一人称でいえば〈 I 〉だから、それだけでしかない。どうして英語で呼ぶのかというのなら、彼女のかつての──もうむかしの話だ──そのときの模試において、英語で彼は東尋臨に唯一、点数で勝ったことがあったのだ。
成績でおちょくられるなんて、彼女という天才を自認する少女にしてみれば、人生で五指にも入る恥辱だった。ついでに言えば(i)だから「愛」ちゃん、とか言う名前してんだろうな──とかいうのも、彼女にしてみれば本当にやめてほしかった。何度も、わかってるふうな顔してワクワクした顔を向けられた挙句、本当のことを言うと驚かれたり、がっかりされて、終いには彼女の名前を珍しいねだのなんだのといわれるのだ。
──こちとら百ぺんはやってるからソレ、マジでもういいから、もうそれ、マジで。
これには彼女でさえ、このようにもはや意気消沈ならぬ意気蕩尽しきってしまうほどだった。
「──……ねー! ねーったら!! 【T】ちゃん!!」
だれかが、東尋臨にはなしかけている──そこでハッと気がついた。ヤバい、今日のあたしは考えすぎだ。
「あっ、ご、ごめんなさい。ごめん、聞いてないわ。今の」
「うん、みればイチモクリョーゼンだよダイジョブ……いや、大丈夫じゃねーやい、悲しいヤイ!!」
つーか、ゴメンナサイってなんぞ、ナサイって!! ──クラスメイトな彼女は、そう、席に座りながら上半身をひねるようにして東尋臨のほうを向き、笑っていた。新しいクラスになってから座席の位置からして必然的によく話すようになった、明るい雰囲気の女子だった。
ちょうど昼休みも終わって無事お弁当も食べておなかもふくれて、そうしてこの授業が終われば放課後になってはれて自由になれる。そんな事実を誰もがわかっていたものだから、授業中だというのに教室の中はおしゃべりやこっそりとしたじゃれあいなんかで自然とざわざわしていた。後ろのほうの席だった私なんかは先生の話がよく聞き取れないほどだ。
「なに、【T】さん」東尋臨は今更ながら問い返した。
「もう、【T】ちゃん! いいよ『M』で。わかりにくくなっちゃうでしょ、話しかけたほうが『名前』を渾名にする。礼儀です!!」
そうムンとばかりに意気込んでみせる【T】──いわゆる|頭文字な[【名字】と『名前』の組み合わせ]では[【T】・『M』]のイニシャルをもつ彼女だった。だからここでは、この[【T】・『M』]孃の、その文字が由来する彼女の本名において名前である“M”で、『M』と彼女を渾名するのはやめなければならないだろう。東尋臨はそう思ったのだ。礼儀としての問題なのだった。東尋臨|紈素──[【T】・『G』]のイニシャルネームをもつ彼女と、[【T】・『M』]嬢では【T】が被ってしまう。そうしてこのときの彼女は、この[【T】・『M』]嬢よりも目下の立場にあったから──すくなくとも彼女はそう思っていたから──礼儀上、相手に対してさながら謙譲語を用いるように、[【T】・『M』]のあだ名のうちでのファーストネーム、名字の、その頭文字にしなければならないのだ。これは時と場合、そうしてやる人間によっては大変な無礼にもなることであったが、話す相手を慮るというのなら、むしろそうしなければならない。
──|頭文字。
これこそが、その新世紀に産まれ育った世代において、東尋臨たちのような少年少女にまで浸透しきっていた、人間生活においてしっかりと根付いた習慣、そうして礼儀の代名詞であった。新世紀となってインターネットがある種の生態系じみた代物にまで、進化をとげては種分化し、はてにはそれ等の《《種》》が絶滅したりすることまで起こりうるようになった時代となっていた。この地球において本名というのは、日常生活においてもそれを伏せておかねばならないほどの、唯一無二の大事な個人情報となっていた。
顔とその名前が一致するという事自体が、すぐさま詐欺やなりすましといった犯罪あるいは脅迫に繋がり、果てには人生や社会的立場の終わりにさえ結びつくこともある時代だった。だから、いつからか人々の間において慣れ親しまれ始めたこの『あだ名で呼び合う』習俗も、またそれにまつわる礼儀作法も、人々の間においてまったくの習慣、その一部となってしまっていた。
もとはといえば入学式、あるいは朝の出欠をとるとき、ただただ名前代わりに番号で呼ばれてゆくような有様よりかは──と、若者たちが始めたこうした慣習であったが、人間の人間味たるゆえんとしてこうした若者文化が大々的にして、|今日のようになるまで、世に広まったのである。
しかしあくまでも暗黙の了解、社会的な道徳にも値しないほどの、日常をほんの少しでも面白おかしくしようというまでのそれでしかない。それで礼儀と言っても、あくまでも心構えといったところなのだから【T】──『M』でもある彼女が『M』でいいというのならば、それでいいのかもしれない。東尋臨はあえて【T】と呼ばれることを受け入れた。逆に気を使いすぎてもアレだ。それに確かに、話しかけたほうが『名前』のイニシャルを名乗るというのは、マナーとしては基本のものなのだから自然ではあるのだ。まあ、一応はそうなのだ。東尋臨はいったん顔を落として嘆息したが、気を取り直して『M』嬢にへと向き直った。
「……『M』さん」
「はい、『M』だよ!!」
パッと光り輝くような笑顔をうかべて、『M』は元気に返事をした。だがそのまま目を輝かせて、東尋臨のほうを見つめて待ちわびている。東尋臨は小首をかしげた。M嬢はハッと気がついて、しかし腰が痛くなってきたのか──まずは東尋臨のほうへと椅子を向けて、座り直した。そうして脚をそろえて、姿勢を正して、小首をかしげて、言った。
「──ええと、……なんの話してたっけ?」
「……。」東尋臨は思わず、ふたたび嘆息した。彼女はさっき、それを聞いたのだ。これでは黒ヤギさんと白ヤギさんのお手紙のやり取りのようになってしまっている。しかしM嬢は腕を組んで考え込んで数十秒した後、その沈黙をいきなり破ってみせた。
「わかった、わかったよ!昼休みの【T】ちゃんだよ! なにかあったの、今日はどしたの? いつもお昼休みには【N】くんのとこ、いくでしょー?」
【M】は下唇に指先を当て、不思議そうにしてみせた。
たしかに、今日は【T】は昼休み、久しぶりに『M』やクラスメイトたちと過ごしたのだった。
「へっへー。今日はお昼にぎやかだったでしょー? みんな【T】ちゃんのこと気にしてたんだよ。やっぱし上級生のほうが話があうのかなって。いつも高三の教室の方行っちゃうでしょう、スゴイよね……コワくないの?」
「べつに? 歳なんて数年の差でしかないじゃないの。高三の先輩に勉強教わりに行くだけよ? 今日は……先客がいたのよ」嘘だった。
その高三の先輩とやらは高校生の先輩のくせに、東尋臨には一度しか、それも英語の一科目の成績でしか勝ったことがない。勉強を教わるのは、先輩の方だった。
( ※ )
東尋臨|紈素は|秀才児だった。
彼女はこの春で十四歳になる。そのとおり、本当ならば中学二年生ほどの年頃でしかなかった。だが東尋臨のその抜きん出た学力は『飛び入学』をして、彼女を今のように高校生、その一年生とならしめていた。彼女は昨年の冬にはまだそこへと在住していたイギリスにおいて、『GCSE』、訳するのなら『中等教育終了一般資格』となるその試験に合格し、そうしたのちに日本へと渡航したのである。
こうして日本においての『高等学校卒業程度認定試験』に値するこの試験において、科目のすべてをAの最上級グレードで合格してみせた彼女の学力は|錚々たるものだった。東尋臨が母親とともに日本へと移住し、『飛び入学』をして高校生となったあとも彼女は数学や物理、英語という特定の教科にかぎっては上級生の授業を受けて良いとさえされた。
これは文部科学省における昨今の理系を重視した教育指針によるところであった。
『飛び入学』にしても、理学教育局([註]文部科学省において旧世紀おわりに設置された内部部局。「主たる任務は、科学教育の発展、とくに自然科学をはじめとする理系分野の教育の振興を図」るものとされる。)による、教育基本法の改正のたまものであった。『飛び級』はいまだにこの新世紀になってでさえ、この弧状列島の島国では実現されていない。しかし『飛び入学』がこうした法改正においては、これまで高等学校から大学への進学に限ってだったものが、中学校から高等学校でもみとめられるようになっていたのだった。
こうして東尋臨は普段はよく高校三年生たち、本来ならば彼女の上級生である彼らに囲まれたなかで授業を受け、模試も高三から浪人生までの模試を受けている。彼女の学力ならば、イギリスと日本の学習の内容で被っていなかったところを埋めるていどので事足りるのだった。そうして東尋臨の学力は周りの期待を裏切ることなく、また、ますます成長してみせていた。事実、この年の第一回の模試──高校三年生として受けたこの模試において、彼女は校内で一位だったのだから。
まだ返されたばかり、母親以外の誰にも見せていないこの模試の結果を東尋臨が今日びわざわざもってきたのは他でもない、(F)をバカにしてやるためだった。彼女、御自ら勉強を教えてやる気になったのも、(F)の点数のありさまは正に悲惨そのものでしかかなったからだ──彼はこのご時世に珍しい留年生だった。彼が十九歳でいまだに高校三年生をしているのは、ひとえに成績不良によるところだった。
(F)──法水騏一郎は、東尋臨と同じく帰国子女だという。彼のクラスの生徒が教えてくれたのだった。
五限がはじまってまだ十分もしない今からでは、つい十数分前にもならない昼休み。東尋臨が(F)のクラスを覗いてやってみれば本当は(F)──法水騏一郎、[【N】・『K』]である彼の席には、高三の上級生たちがたむろしていた。東尋臨にしてみればそうであり、【N】にしてみればクラスメイトでしかない、そんな教室にいて当然の女子たちだった。
そのうちの一人、上級生の年上な少女が(F)の席に腰を落ち着けていた。東尋臨の知らない少女だった。けれども知らなかったことが不思議なぐらいな、知らなかったなんてもったいないとさえつい思わされるぐらい、綺麗で垢抜けた子だった
春の陽気に映える膝上のスカートはひだ付けも怠ることなく、それからのびる長くしなやかな素足をして、短めのしろい靴下に艶のあるローファー。髪はボブにしていて、枝毛なんてなさそうななめらかさで、光沢さえあった。
彼女が、【N】の席をさながら自分のもののようににすわっては、机へと突っ伏して、頬をムニィとやわらかそうとあてながら、むくれてみせていた。
彼女は机の上、その角のすみの方にスカート越しに居座った女子と、駄弁っていた。この相手になってやっていた少女は[【S】・『G』]──殺生石御仁亭だった。東尋臨はとっさに、教室の扉の影へ隠れた。【N】は、いや、(F)は、アイツと──仲が、いいのだろうかな。少女は、考えた。
「ねー、【S】。『J』のことどう思う?」
そう机に頬を擦りつけながら、美少女が殺生石へと問うた。殺生石はとっさに、どの『J』のこと言ってんだと返してやりたくなった。しかし話の感じから、この『J』とは[【名字】と『名前』の組み合わせ]においてならば考えられるのは二通りしかない。──[【N】・『J』]のイニシャルをもつ奴、あるいは[【J】・『N』]な奴の、そのどっちかだ。どっちだ? 彼女は内心で狼狽した。
「なによ【N】。アンタどの“J”のこと言ってんの? あんたがいっつも見てる野球部のアイツ? もう名前知ってんの? 出席番号で言ってよ。あたしわっかんないわ」
「出席番号なんて知らないもん。わからないよ。でもそうだよそう、あのスポーツ刈りの肌黒男だよ」
〔イニシャルネーム〕のその礼儀を知る彼女、いまではその作法に則って『T』を名乗る彼女は、自分の立場をこうして自分から貶めてでも、その少年──『J』のことを話し始めていたのだった。彼女[【N】・『T』]は──自分を下の立場にしたせいか、みるからに|不貞腐れ気味になっていた。
しかしこれは殺生石には理解し難かった。……この|女性が自分の立場を貶めるはずがない。殺生石は確信した。このお嬢様、我が道を行く女傑の雛形が、自分を蔑ろにしてみせるほどになるなんて──怖気がはしる。まさに怖い。とりあえず殺生石はとにかく話題についていかねばならないと決めた。
『T』はとにかく、話のついてこれる人間とだけしか話したがらない──話題がわかっている相手だからこそその話題について話し、そうでない相手とはそもそも口を利かないとくる女だった。それでも美人というのは因果なもので、どうにか彼女と口を利こうとしてわざとわかった素振りをする連中もいた。しかしそんな連中も、浪華のカンの良さには及ばなかった。彼女は話してる相手が、本当に話していることをわかっているのかどうか嗅ぎ分けるのも異様にうまかった。お嬢様な彼女、そんな上流階級にはありがちな教育、あるいは処世術の成果なのかもしれなかった。
そんなわけだったから、一つ問題がある。殺生石は、『T』が話している某男子とやらがどいつかというのは、重々にして存じ上げている。ちかごろのT嬢は、もう見ているだけでを一目瞭然だ。
しかし、殺生石はそいつの名前を知らないのだ。この七面倒臭い世の中、情報過剰発達社会の生み出した個人情報の重要さとそれによる秘匿のせいだった。
全くありがたくなく、このままでは面倒極まりない──おもにこの『T』というお嬢様な貴爵閣下の、その機嫌が悪くなるということで。『T』はさっきの感じでは、やはりこの話題を話したいのだ──と。ああまでして自分から話題を振ってみせるとくるのだから、相当なものだった。
……べつに嫌われたいだの、ご機嫌を取りたいとかではない! 残念がらせてしまうから……などでもない。違う、ぜったいに。あの性格の悪い差別主義な女なんぞ、殺生石にとっては好きになれない存在の一位と言ったっていい。そう、だからこそ! そんなやつに、あんな女に勝手に失望されるのはムカつくのだ。それは──まさに、とめどなく、すべからく、気に入らない。
──だからアタシは付き合ってやるのさ、フン。
「ねー【N】、アタシ、あのヤローの名前知らないんだけど。いつ知ったのよアンタ。名前知るとこまで行ったんならもう直前でしょ、ふつー」
「あ、そ。しらなかったんだ。わたしは《《この》》『K』に聞いたよ。『J』と仲いいでしょ」
そういって【N】は自分の座っていた椅子をペシペシ叩いてみせた。へえコイツ、『J』とやらとかいうあのスポ根と仲いいんだ、意外。殺生石はそう思った。しかしその当の『K』は今日の朝っぱらからずっと学校に来ていない。そんなら本人に聞いたほうが早い。[【N】・『J』]か[【J】・『N』]かをはっきりさせちまおう。
殺生石、ド【S】のあだ名さえもつ、性格のきついことで学校内でも有名なこの彼女は、行動もまた迅速で即決にして意志の力あふれる、そんなバイタリティの少女だった。
彼女は迅速に、即決に、意志をもって行動する。そうして今はちょうど昼休みだった。『J』とやらはおんなじ教室にいて男子どもとギャアギャア騒いでみせている。それを見やりながら、彼女は尻を据えていた【N】の机の端っこの方から、両手で自分を押し出して床へと降り立った。
そのとき教室の出入り口に影が見えた。その扉の裏側から、廊下のむかいのほうへと伸びていた。小柄な影だった。殺生石には、そのチビっこさは見覚えのあるものだった。殺生石がちょっと黙ってそっちを見ていると、扉の中程よりは少し上からだんだんと頭がのぞき始めた。黒がかっていて落ち着きのある栗毛。けれど、ふんわりとしていて柔らかでもあるそれだった。御仁亭は、彼女の赤みがかったブルネットのポニーテールをゆらしてズカズカとそれにつめよった。栗毛につづいて富士額、そうして形良い眉、まあるく大きな輝く目がのぞき、三つ編みにしたおさげの片方が下へとしなだれたのも見えた。
その全身がビクリと震えたのもかまわず、殺生石は扉の向こうを覗き込むように廊下に出た。
さながらタラ・ダンカンの挿絵の少女、あるいはそれを演じるエマ・ワトソンの小さいころのような、美人の予感をした幼げな少女がそこにいた。ただ気の強そうな顔つきは年相応であり、キッと意固地そうな目で殺生石のことを見上げてくる。
「……【N】ならいないよ。休み」
殺生石はこともなげに言った。
「そうなの。わかったわ。ありがと。」
下級生の彼女は、手に持っていたクリファイル入りの書類か何かをとっさに背中に隠して、ぶつ切りにしたようなお礼の言葉を口にした。そのまま立ち止まって、殺生石の前でうつむいてしまったが、さっさと去ろうとまではしなかった。
「……『G』、なに、【N】に用でもあんの」
殺生石はそう面倒そうにぶっきらぼうにして、入り口のそんな扉によっかかって、窓の外なんかを見やりながら、一応はそう言ってやった。
「……──!! ないわよ! ない!! 【N】なんか知らない!」
いきり立った東尋臨──[【T】・『G』]に殺生石は心底から辟易した。声かけてやるんじゃなかった。そう彼女は思ったが、東尋臨はつづけて言った。
「それに! なんで【T】って呼んでくれないのよ、私のこと。『G』、私がアンタを『G』ってよぶの。私は、【T】でいいわ」
そうムスッと不機嫌そうにした『G』──【T】をみて、殺生石は嘆息した。
「成績? それ」殺生石は東尋臨のもっていたファイルを指差して言った。
「そうよ」東尋臨がますます不機嫌になっていった。
殺生石はニヤッとわらって、教室のなかへと戻ろうとしながら手招きした。
「来なよ、アイツの──【N】の成績表が机ん中にあったの。笑える点数だよ、でも、アンタも見ていいはずだろ?」なんてったって、第一の功労者だもんね。
──殺生石はそういって、振り向きもせずに戻っていこうとした。けれどふと思い出したようにして、ますます騒いでいる男子のうちの一人に声をかけに行った。東尋臨がつづいて教室に入ると、【N】の机に座っていた美少女は東尋臨をみて、うれしそうな笑みをして足を組み直し、東尋臨を呼び寄せた。
( ※ )
「ねぇアンタ、名前の|渾名なんてゆーんだっけ」
「おうふ、すっげーストレートっすね、サドスティックさん……」
「答えてよ、“オタク”と“生理痛”のどっちのあだ名が好き?」
「それ全女子共通でつかっちゃう? あとふつーに【N】でいいんだが」
「人の話聞けよ、名前だよ、なーまーえー。それに…‥それじゃ被んだよ。下の方の名前で言え」
「なんで? サドちゃんならSだろが」
「ちがうよ、あたしじゃない。……『T』が知りたがってんだよ。んでさ、生理痛」
「やめてクレメンスガチまじ。……『K』だな。うん。まちがいないぞ」
「……、なー、変なこと企んでね? オメー」
( ※ )
「は? なんでよ、オマエそれだったら『J』なはずでしょ、何ウソついてんの? クソ雑魚かな……?」
法水騏一郎は──[【N】・『K』]は、かれの友人の行ったということが理解できなかった。たとえ友人がこうして今、正直にそのことを自分にへと打ち明け、謝罪していたとしてもちょっとよくわからない。なぜ自分のアダ名を偽るのかわからない。とくに自分と同じ『K』を名乗ったところがわからなかった。頭か、性格か、口か、あるいはその全てが悪いに違いない──加えて顔、スタイル、声、生まれ、血筋、運動神経、舌、鼻、目、耳──少なくともこれらも悪いはずだ。たぶんコイツ、僕よりは確実に下だな。人間として。
[N・K]は怒り心頭になりつつ、懸命に抑えて、友人[【N】・『J』]に話しのつづきを促した。
「たのむ、協力してくれ──ください!! お前と俺なら、《《この作戦》》はうまくいくはずなんだ『K』!! 【T】だっていうんだけど……俺に気があるのはよ。そうだとしてもさ、確証がほしいんだ、オレ! そうすりゃ先手うって追い詰めて問い詰めて吐かせて──ができるし、んで向こうから告白させればいい。恋愛は戦って言うだろ?!」
「【T】なの?! ──嫌に決まってるよバカ。だいたいなんだよ、女子のネットワークを分析するためにわざわざ自分の渾名を、それも思いつきで変えてみるなんて……。しかもよりにもよって僕のやつにするの? もーいい迷惑だよね、僕まで詐欺師一直線じゃん。じゃあなんだっての、僕はこれからお前のこと──ジェームズ、とかボンドとか呼ばなきゃいかんの?」
「ジェームズ? なんで? ああ……『J』だからか? そんなのすぐにバレんにきまってんだが? それにカタカナあだ名はイタすぎんだろ、中二か? 頭悪ワルくんか?」
コイツ処す。[【N】・『K』]はキレ気味に応答した。友人の[【N】・『J』]はそういうわけで、何を頓珍漢なことをおもったのか女子から名前をさぐられたというだけで、誰かが俺に気があるっぽいなどと妄想を吹き出させ、その果てにはあだ名を偽ってみせることで、その女子が誰か逆に見つけ出そうとしているらしかった。[【N】・『K』]は内心ではこの友人の──[【N】・『K』]の唯一と言っていいクラスの話し相手が、もしかして俺のこと見下しているんじゃないのか、などと疑いだした。そうして事実、そこまで信用できる相手ではない。そもそもこの高度情報化社会、大体の連中が信用できやしないものだが……。いちおう打ち明けてくれただけマシか、彼はそう思い直した。
「……天才だなお前! ──あ~っ、あえて言っておくよもう! いっつも天才だなって言ってるが!! 僕はお前のことホントーにそう思っていってる訳じゃねーからなッツ!!」
「アレだろ? 天才と馬鹿は紙一重ってやつか? わかりにくいんだよテメーの話し。かっこいいとか思ってたー? イッターい」
「うっせ、うっせ。んじゃあオマエが、これからは僕のことを“N”って渾名すればいいんだよね? そうすりゃ、まーおまえと僕と二人で『K』かぶりすることもないってなるよな。いや元はと言えばかぶったのも、お前が僕のあだ名を偽ったせいなんだけどな、」
「オッケそれで|育之介。ガチサンキューな俺だけのジェームズ・ボンド、いや、【N】!! 今度からヌマタローって呼ぶわ。あ、ヌオーのほうがいい? いっそスカーレットとか、フランドールとかでもいいんだが?」
こいつマジでヤッパリ俺のこと見下してんだろそうだろ。許せん。[【N】・『K』]はプッツンしたが性根が陰湿なので、ここで正々堂々と怒って見せることはなかった。
「テメーの企みをあのドS孃にバラすよ、いいのかいこのボケナス。まったく女々しい企みだよね、ばれたらどうするんだよ」
「……しかたねーだろ、情報がねーんだ。ネットだって、自分の名義で金払えなきゃ使えねーんだ、大人にならなきゃネットも使えねえんだからよ、俺たちの世代はよ! 昔は良かったもんだぜ、ライッターってんだっけ? つぶやきメールっぽいやつ? それで告白まで出来てたってんじゃんかよ。俺たちゃそれができた連中のオトナな世代に、使うなとか駄目だしされて、靴箱お手紙とかやってんだぞ? あーほーくーせー。
──んま、とにかく恋愛は戦で情報戦だぜ、──【N】よ! オメーも言ってたじゃんかよ、真実が少ないほど、上がる戦果は大きいって。へっへー、先制攻撃は成功ってとこだぜ」
殺生石の素知らぬ幸福