嵐の魔女
ふうこうだいには、
それこそむかしからたくさんのまじょがいましたから、
まじょのものがたりやでんせつ、まじょのかいた本とか、
たくさんありました。
このものがたりは、『あらしのまじょ』とよばれた
エバーミストというまじょのお話です。
ちなみに、かのじょをしっている人は、みなかのじょのことを
エファと呼びます。
それでは、エファのものがたりのせかいへ。
よいたびになりますように。
この書き出しをもって始まる魔女を主人公とした物語を書き出したのは、2001年のこと。
私が小説同人として同人活動を始める際に、頭の中に浮かんでいた「嵐の魔女の物語」を、実際に描いたのはそこから2年後、それでも今から二〇年近く前になります。紆余曲折があって結局、「嵐の魔女」は四編の物語になったのですが、この初期作品を今一度一冊にまとめてみたいとの思いから、一冊にまとめたのが、もうすでにコロナ前の出来事となってしまいます。
魔女の物語をお楽しみください。
このあと、4月、5月、6月『嵐の魔女』の物語を追加していきます。
23年1月5日 『エファとエバーミスト』掲載
23年1月22日『エファとエバーミスト』訂正
23年4月15日『ミュウと憧れの魔女』掲載
23年5月22日『ミュウと嵐の魔女』掲載
同日 初出年次の訂正
エファとエバーミスト
1 新米施療師
エバーミストはその小さな手を老人の背に置いた。
まるで黒いワンピースで着飾った孫娘が、丸椅子に腰掛けた祖父の背中をさするようにも見えたけど。エバーミストはこう見えてもれっきとした魔女だった。あの年老いて干からびたトウモロコシや芋のようになった老婆達のように、魔法を使い。まじないや薬草に通じ、ほうきで空を飛ぶこともできる。
しかも、彼女は新米ではあるが施療師であった。
施療師とは、魔女たちが自らを呼び表すときに使う名前の一つ。例えば、ときに幸運もたらし、ときに仇を為すような、まじないや占いを得意とする呪術師。星や竜の理を究明し、この風向台の有り様を全て言葉や文字に置き換えようと企てる星読み。人ならざるものの災いや闘争に立ち向かい。人の盾となる賢女などと呼び表す。
その中で施療師とは、平たく言えば医業を専らとする魔女のことを指した。もう少し言葉を重ねれば、人々の病気や怪我を癒やし、事前に防ぎ。移ろいゆく四季や日々の気候など自然の現象から様々なことを学び。人ならざる者がもたらす争いや災い、人々の間で巻き起こる諍いなど、様々なことを解決する。この世界で一番初めに魔女と呼ばれた女性たちの姿を今に伝え続ける魔女たちのことだ。
エバーミストは、そうした魔女たちの中で、一番新しく、一番若い魔女といえた。
その小さな体を包む夜闇のようなワンピースは、正真正銘、竜の鬣から紡いだ糸で作られた、古くから魔女たちが好んで着るもの。四本のタックが入っていて、本人の趣味というより母親の趣味で、裾丈の長いスカートから覗く白いフリルや、同じように袖口からのぞくフリルが、エバーミストを可愛らしく飾っている。
でも、当の新米施療師エバーミストは、不機嫌そうに口を閉じていた。
なぜ、と思う。そう思うと腹ただしささえ覚える。
この目の前で背を向けて座る老人は、言うことをまったく聞いてはくれなかった。
お酒とタバコをやめる。ただそれだけのことで、今、この老人が耐えている背中とお腹がひっくり返りそうな痛みとも別れることができるのに。
今よりもずっと健康でいられるのに。
この村に来てから一ヶ月。村の通り、牧場、旦那衆のたまり場になっている水車小屋の前、あの気難し気な村長の旅籠屋で、会う度にタバコとお酒をやめるように言ってきた。
それなのに、この老人はお酒もタバコもやめようとはしない。それどころか、かえって、拗ねた子どもの様にタバコを吸っているところを見せつけることさえあった。
目が潤む。
もちろん、悔し涙ではない。この寝室に入ったときから、タバコの臭いと煙が目にしみるようで、痛かった。
今もパイプが一本、古く黒ずんだ机の上に置かれていた。今日昨日に始まった喫煙ではなく、ずっと昔から吸い続けてきたのだろう。部屋全体がタバコの脂でくすんでいるような気すらした。
タバコは害だと信じて疑わないエバーミストには、タバコで燻された寝室というものは、その存在すら許し難かった。
しかも、そんな許し難い部屋に呼び出されたのは、寝る前にやっておきたかった薬草の仕分けが、やっと波に乗ってきたところだった。
エバーミストの家まで、馬を走らせて来た老人の息子、血の気を失った老人のお上さんや、孫たち。激しい痛みに音を上げたのは、老人ではなく、そんな老人の家族の方だ。
でも、家族の心配をよそに、エバーミストが来るなり、老人は痛みなどないように装い、うめき声の一つもあげず。脂汗を浮かべながら痛みに耐えている。
痛みが浅ければ、エバーミストを追い返していたに違いなかった。
それらがすべてがまぜこぜになって、エバーミストに下唇を噛むような表情を作らせていた。
今は、腹ただしさを脇に置いて、老人の背筋に伸ばした両手、その指先に意識を集中させる。
長年、山野を駆けめぐり狩りでならした老人の体は鋼のようだった。日に焼けた肉体は、七十近いと聞いているのにまだ五十代半ばで通用しそうだ。
でも、古傷や長年の過酷な生活で積み上げてしまったものが、水面に出てきていたり、これから出てこようとしている。歳を取れば誰でもそうなるだけの話しだけど、酒とタバコが拍車をかけている。そうエバーミストには思えた。
「息を止めてください」
エバーミストの指先にゴロゴロした感触が当たった。けど、これは年寄りなら遅かれ早かれ持つもので、問題なかった。
「息をゆっくり吐き出して、ゆっくり吸い込んで下さい。その繰り返しです」
背筋をなぞる。何度も何度も、内臓で澱む血液が全身に流れていくように、なぞり続ける。タバコの害毒がなくなってしまう様に、なぞり続ける。
タバコの、あのいやらしい臭いが、ときどきエバーミストの鼻を刺激した。そのたびに集中が途切れそうになるけど。じっと耐えながら施療を続けた。
エバーミストの額に汗がうっすらと浮かびだした。それをぬぐうこともせずに続ける。
老人の息は、やがて走ってきたかのように大きく弾み始めた。
「楽になった」
老人は背を向けたまま顔も見せずに言うと。
エバーミストは、ふぅと息を吐いた。
「しばらくの間は、これで楽になります。でも、タバコとお酒をやめない限り。また、いつでも痛くなりますよ」
「なーに、あとたかが十年。タバコも酒も好きにさせてくれや」
十年、タバコ、という単語に反応して、エバーミストの心の中で火花が散った。
「そんなことでは体調をまた崩します」
「俺の体は俺が一番はわかってる。少し虫の居所が悪いだけだ。それをウチのが大慌てしおってからに」
エバーミストは思わず老人の背中を睨み付けてしまう。目から火花が出なかったのが自分でも不思議なくらいだ。
「どうぞ勝手になさい」そう言ってしまいたくなるのを我慢して、
「でも、タバコは良くないです」
と言い放つと、机の上に置いたカバンを開けて中から懐紙に包んだ薬を出した。
「今日寝る前と明日起きたときに、水に溶かして飲んでください」
老人は鼻を鳴らした後で、
「あんがとよ」と、目線すら合わせず、ぶっきらぼうに言うものだから、エバーミストの「どうもいたしまして」も、心のない平板なものになってしまう。
声が平板になっていなかったら、きっと目を潤ませていた涙がこぼれてしまったかも知れない。
「おまえ、ちびっ子のお帰りだ」
「はいはい」
戸口に立っていたお上さんは、猛々しい老人に比べて、マシュマロを思わせる人だった。今は、エバーミストが駆けつけたときに見せたマシュマロそのものみたいな白い顔ではなく、赤みが差し、柔らかく優しい笑みを浮かべている。
可愛らしいものでも見るかのような笑み。
まるで、可愛い孫娘でも見るかのような笑みだったことに、エバーミストはまたも下唇を噛んだ。
「ちびっ子に、ジャガイモでもニンジンでも持たせてやってくれ」
「はい、はい」
「大丈夫です。ジャガイモもニンジンも間に合っています」
全てを断るように声を出した。
背中をぴーんと伸ばして歩く猫のように、エバーミストはカバンを手に、タバコ臭い老人の部屋から出た。
一度も振り返ろうとすら、思わなかった。
2 エバーミスト
エバーミストは、この豊かな村、氷河が削り出した緩やかな谷の生まれではなかった。この村からほうきで二日、飛行船なら三日ほど下った先に、円環と呼ばれる盆地がある。そこは、かつての巨大な火山の跡で、人がこの地に住むようになる遥か以前に、大噴火を起こし、山そのものを吹き飛ばしたため、巨大な杯のような姿が残された。そんな盆地の底に広がるクヌギの森の生まれだった。
母親は円環に点在する三つの集落を受け持つ施療師で、父親は物心付いたころにはもう家にはいなかった。母親から腕の確かな飛行船乗りだったと聞いている。
エバーミストが母親以外の魔女の跡を継いだのは、古くからの習わしに外れるものではない。跡継ぎのいない施療師の跡目を姉妹弟子やその列なる者が継ぐのは自然なこと。エバーミストは母親の姉弟子に当たる方の跡を継ぐ形で、この、夏でも雪を頂く霧吹き山脈の一端を眺める高地の村へとやって来た。
藁を乗せた荷馬車のように大きく肥えた角毛長羊が悠々と草をはみ。芋畑、小麦畑、果樹園や休耕地のパッチワークと、豊かな森が広がる谷。
空から初めて見た村の印象はとても良かった。それは一ヶ月経った今でも変わらない。
村で暮らす人々も、皆、いい人ばかりだ。笑顔を絶やさない老人や、世話好きの大人。勉強やお手伝いよりも遊ぶことが好きそうな、同じ歳くらいの子ども達。
中には、乱暴な言葉を好んで使う人や、言葉そのままに乱暴な人もいたけど。エバーミストが挨拶をすれば、そういう人たちでも、ちゃんとそれぞれのやり方で挨拶を返してくれる。それも一ヶ月経った今でも変わらない。
なのに、なぜ、こんなにうまくいかないのだろう。
冷静に振り返ることが出来たのは、月のない夜空に舞い上がってからのことだった。
エバーミストを乗せたほうきは、月のない夜空を音もなく滑る様にして飛ぶ。闇と冷えた夜風がエバーミストを幾重にも包み込んでいた。
みんな、お母さんと同じようにしたはずだった。
エバーミストが生まれたときからずっと見ている唯一の魔女。娘の憧れや贔屓の目が入っても十分に優秀な施療師。そのお母さんのやり方を何一つ間違うことなく通したはずだった。
お母さんなら、あのわずかなやりとりだけで、お爺さんからタバコを取り上げることができたはず。少なくとも、本の少しの間だけでも、タバコを吸わないことを約束させることが出来たはずだ。
なのに……。
自然と袖で涙をぬぐってしまったことに、驚きを覚えて、何も考えられなくなる。
冷たい風が前髪をなぶり、リボンで一つにした髪を揺らした。スカートをはためかせ、袖を鳴らせる音が、いつもより大きく耳を叩いた。
「でも、タバコを吸うのはおかしい」
エバーミストはほうきの柄をぎゅっと握りしめると、右側へ旋回した。
「私に、泣いている暇なんかない」
そう呟くと、気をギュッと引き締める。
この生まれ故郷から遠い村で、老練な施療師から跡を継いだばかりの新米施療師には、やらなくてはいけないことが山積みだった。
少しでもそれらを心に浮かべると、いくつも問題が浮かび上がってしまう。
冬に向けて貯えの少ない薬草のこと。
古くなって改修の必要な水の守り。
先代の治療のおかげで骨も筋も治ったのに、今だに歩くことはおろか、立ち上がることさえ出来ない女の子。
そして、先代から引き継いだ厄介なこと。
いつの間にか、夜風の冷たささえすっかり忘れてしまっていた。
空は、塩袋をひっくり返したような星で輝いていた。地上は僅かな村の灯りが星のように見えるだけで、そのほとんどが夜闇の毛布にすっかり包まれていた。
でも、エバーミストの目には、畑やあぜ道、森の木々を見ることも、森の中にほとんど沈みかけた石で出来た枠のようなものですら、ちゃんと見えている。
石でできた枠のようなもの。
少し想像力を働かせれば、それは屋根が崩れて落ちた家の跡だとわかるだろう。
その姿は見る人の不安をひどくかき立てる。
屋根は完全に崩れ落ち、家の中には草が生えていた。壁も、かつては白く塗られていたであろう漆喰はひび割れ、ツタが絡まり、所々剥がれ落ち、漆喰の中のレンガがまるで皮膚を剥がれたかのように覗いていた。
窓硝子を失った窓が目に、扉を失った玄関が口に。まるで見知らぬ獣が目と口を大きく開けて、獲物が飛び込んでくるのをただただ静かに待っているようにも見えた。
しかも、闇を見通せるはずの魔女の目を持ってしても、崩れた家の中に横たわる闇をすべて見通すことは出来ない。
まるで、この家の中だけ、闇が濃くなっているようにも見える。
闇よりも濃いワンピースの中で、背筋が静かに粟立っていくのを感じた。
これが、先代から引き継いだ厄介なこと。
先代の遺言書を読んだときのことが蘇ってくる。
先代が遺言書に焼き付けていった想いが幻となって現れ、やさしく頬を包み込んでくれたときの。そのささくれ立った、でも暖かな感触が蘇る。
「みんなは、あんたがこの村に来ることに反対したね」
それは質問ではなく確認だった。
エバーミストはうなずいた。
お母さんの知り合いの魔女たちも、一番賛成して欲しかったお母さんも、私の後を引き継ぐことに反対した。
「他にも適任者はいるとか、散々だったんじゃないかい」
またも、うなずくしかなかった。
「なぜだか、わかるかい?」
「私の歳ですか」
大きくうなずくように見せかけて、老いた魔女は首を横に振った。
「たしかに。あんたはまだ子どもだ。でも、いっぱしの魔女ではある。だからこの二つは相殺できる。何も問題はないさ。しかもだ、あんたの指先ほど確かでなくとも施療師をやっていたのはいくらでもいたさ。私もそうさ」
エバーミストは、そういう褒められ方をしてもまったく嬉しいとは思わなかった。
エバーミストには唯一の目標があった。
お母さんのような施療師になること。
でも、いつも、その背中にすら追いつけない、と思っているのだ。魔女のたまご(魔女見習い)になり、魔女になり、施療師に就いても、追いつけるどころかその差がどんどん開いていく感覚が拭えない。
こんな見え透いた褒め方をする理由は何だろう? 逆に、エバーミストはそう考えた。すぐにも答えが出てくる。
これは、褒めているのではなく問いかけだと。
この年老いた魔女は、私を確かめようとしている。
目線を年老いた魔女の幻からそらし、口元を押さえて少し考えたあと。
「私では手に負えない何かがあるのですか?」
と聞いた。
エバーミストの母親は、エバーミストを幼いときから子ども扱いしなかった。何かあったときには、理由を語ってくれる。子どもであり娘であるエバーミストを魔女のたまごの頃から、ちゃんと一人の魔女として見ていてくれた。
でも、この老施療師の跡を継ぐときだけは、理由を話さずに反対した。
そんな反対の仕方をしなければいけない理由とは? 選べるほど理由があるとは思えなかった。
「はは。まるで硝子から削りだした刃物のような切れ味だ。でも残念ながら、その切れ味ですら歯が立たない様な、経験の足りない魔女では太刀打つことすらできない厄介なものが、村にはある」
老魔女の言葉の端々、その空いた歯と歯の隙間の奥に、炎と稲妻が走るのを見たような気がした。
まじないをかけられたものがある。
それも怖ろしく強力なものがこの村にはある。
そのことをエバーミストに視覚でも警告を発したかのようだ。
エバーミストは下唇を噛むような表情になった。
「やめておくかい?」
老魔女は何でもないことのように聞いてくるけど、エバーミストにしてみれば何よりも大切なこと。
もっとも、答えは初めから決まっている。
エバーミストにとってお母さんのような施療師になることは、夢や憧れという言葉を覚える前から想い抱いていた夢や憧れであって、自分の施療所を持って、一歩でも母親に近づくことを躊躇う理由など無かった。
「怖くはありません」
そう答えた。
「うん、いい子だ。怖さは、怒りや憎しみ、闘争を呼ぶよ。また怖さは、拒絶そのもの。拒絶は、思考の停止を呼び込む。まずは相手を知ることから初めて、研鑽を積みさえすれば、どうにかなるかも知れない。どうにかなるまで足りるかわからないが。私は死してもその厄介なものに足止めをかけている」年老いた魔女はエバーミストの頬をその枯れ枝のような指先で包み込んだ。「自分の言葉を忘れてはいけないよ」
怖くはない。
自分に言い聞かせるかのように、エバーミストは心の中に呟いた。
先代の言う通り。怖さは、怒りや憎しみを呼び込む。この目の前にある厄介なものを恐怖すれば、必ず隙を見せてしまうことになるだろう。
エバーミストは先代が入り口にかけたまじないと、自分が用心のためにかけたまじないの二つが正しく働いていることを肌で感じたあと。再び空へと舞い上がった。
袖がバタバタ音を立てる。
体全体で受ける冷たい風が心地よかった。
まるで全力で走ったあとに飲む水のように、体全体に染み渡り、火照った体を冷やしていってくれるかのようだ。
少しだけ空の散歩を楽しみたい思いに袖を引っぱられたけど。ベッドに入るまでにやってしまわなければならないことが少なくなかった。薬草の仕分けとラベル作りは今晩の分をまだ終えていない。
お母さんはそれら全てをやりながら、私を育て、魔女にしてくれたんだ。
「がんばろう」
視線を空から、町外れの森に背を預けた、受け継いだばかりの施療所へと向けた。
受け継いだ施療所は、エバーミストが生まれ育ったクヌギの森の生家よりも、大きく立派なものだった。
黒ずんだ板葺き屋根と対になる白い漆喰の家。広い施療所兼リビング。石造りの台所。蔵書も豊かな書斎に中二階と半地下に分かれる薬品庫。少し広めの寝室。
村人が先代のために建ててくれたものらしい。
立派な煙突が夜空を指さしていた。家の前には、先代が残してくれた小さな畑と鳥嫌いのかかし。家を囲むかのような、さりげなくまじないのかけられた柵。玄関脇にはどうやら先代が焼いたらしい鉢があって、そこには蕾の膨らんだ菊が植えられていた。
「え?」
玄関前にあらぬものを見た。人が倒れているのが見えた。
エバーミストは口では驚きの声を上げながらも、油断なく地面に降り立つと駆け寄り、寝ている人の肩に手をかけた。
軽くウェーブのかかった髪を男の人のように短くした魔女だった。なぜなら、彼女も魔女たちが好んで着る竜の鬣から紡いだ黒い服を着ていたから。
「大丈夫ですか? 声聞こえますか?」
「ん? うは~あ~」
と、エバーミストの切迫した声とはおよそ正反対の声を立てて、魔女は大きくのびをした。
「ああ? あ、帰ってきたんだ。よかったぁ。今日は玄関前で野宿になるかと思った。ここまで上ってくると夏なのにけっこう冷えるね」
「あの?」
「本当に助かった。家に誰もいなかったときは本当に泣きたくなっちゃったんだわさ」
埃を払う様にしながら立ち上がった魔女は男の人のように背が高かった。
「あの、あなたは?」
「あ、紹介遅れたわね。ん? んん。でも紹介いらないんじゃないかな」
若い魔女は笑って見せた。
エバーミストは言葉を失ってしまう。
非常識だ。魔女は互いの名を明かすのは当然のことなのだ。
魔女は鋏をその手に持つ。という言葉がある。
心して使えば人の手助けとなる鋏であるけど、一端、気を緩めてしまえば鋏は容易に人を傷つけ、人を憎めば、人の持つものすべてを切ってしまう鋏となる。
魔女は互いに傷つけ合う力だって持っているのだから、名前を明かすことは、何よりもまずやっておかなければいけないことだった。
けど、その一番大切なことを気にした様子もなく、魔女はなおも続けた。
「霧吹き山脈に寄り添うこの高地に生まれて、母親が腕っこきの魔女となると。魔女となる娘に付けてもらえる名前は、一個か二個しかない。私の名前はエバーミスト。母親が魔女ならば極ありがちな名前」
小さなエバーミストは、何かを言おうとして、一度口を小さく開いてから、下唇を噛んだ。
「施療師殿のお名前は?」
大きなエバーミストは腰を曲げて小さなエバーミストと視線を合わせた。
「あなたが、その必要を認めなかった」
無礼な振る舞いに怒ったようにも、拗ねたようにも見えたかもしれない。
でも、小さなエバーミストには、この旅の魔女の言いぐさに、何事もなかったようには振る舞えなかった。
エバーミストは自分の名前を誇りに思っていた。
この千の川と呼ばれる高地でエバーミストの伝説を知らない者はいない。
霧の竜の怒りを静め、エバーミストと名乗った伝説の霧の魔女。
多くの人々にその癒やし手をもたらした偉大な施療師。
その後、エバーミストの名前を母より与えられた数多くの魔女が、多くの人を癒やし、災いを退け。旅の詩人の詩や、映画の題材にもなっている。
ほんの一年前も、自分と同じように、エバーミストの名をもつ魔女が、ただ一人で、戦にまで達しようとしていた諍いを納め、諍いで傷ついた人々を分け隔てなく、その癒しの手を差し伸べたことから、千の川の千の癒やし手と呼ばれるようになったことや。今、その魔女が、この地方全体に、その癒し手を差し伸べるために旅していることから、千の川の千の癒やし手を持つ渡り手と、新たに呼ばれていることは、自分と同じ名を持つ者への、純粋な憧れを抱いた。
そんな大切な名前を軽く扱われたことで、その素晴らしい名前を与えてくれた母親まで、この旅の魔女に侮辱された様な気がした。
「まぁね。でも、私は君をなんて呼ぼうか? そのまま呼ぶのはあれだし。ミスティーと呼ぶには君には色気がまだまだ足りない。イブと呼ぶほど官能的な女性でもなければ、エバと呼ぶほど落ち着き払った歳でもない。エフィと呼ぶほどお転婆そうでもなさそうだし。そうだエフェ、エフェと呼ぶ。いやちょっと待って、やっぱりエファ。私は君をエファと呼ぶことにする。あれ? 怒ってる?」
そう言われて初めて、小さなエバーミストは自分が怒っていることに気がついた。
でも、もう止められない。火に煮えたぎった油を注いだのと同じだった。
肩を怒らせ若い魔女を無視して鍵を開けると。そのまま扉を感情にまかせて閉めてしまった。
三角帽子を机の上に置き、カバンをソファーの上に置く。
瞼をぎゅっと閉じた。自然に指が堅く結ばれげんこつを作り、震え出す。
お母さんのようになりたい。
みんなから信頼される施療師になりたい。
そう思って仕事に励んでいるはずなのに、今の自分は、ひどく惨めだった。
様々なことが思い浮かぶ。タバコをやめさせる誓いを立てさせることすらできない頑固な老人や、孫娘くらいにしか見て貰えないマショマロのようなお上さん。
厄介なことや、変な魔女。
けど、震えていたのはわずかなことで、大きく息を吐き出すと体中の力を抜いて、洗面所へ歩き出した。
涙に濡れた顔を恥ずかしいとも思わなかった。
ずいぶん後になって、エバーミストは思うのだ。
こういうときに、そのまま泣いてしまえるほど、私は可愛い女の子ではなかった、と。
夜は長いようで短い。新米施療師がやることは少なくないことをエバーミストは知っていた。
泣くために、魔女をやっているわけでも、この村に来たのでもない。
エバーミストのお母さんに近づきたい想いは、さっき握りしめた拳よりも固かった。
だから、十歳にして施療師になれたのだ。
3 旅の魔女
朝、畑に水をやりをするためにドアを開けると。朝の晴れやかな気分が一瞬で凍り付き、全身が緊張した。
それよりも先に悲鳴にも似た声が出ていた。
ドアの前に人が寝ていた。昨日の旅の魔女だ。
灰色の毛布にくるまって、その長身を小さく繭の様にして眠っていた。
「あ、おはよう」
魔女は薄目を開けると毛布から腕を出し、うはぁ~と大きく伸びた。
「あなた。いったい」
「え? 私?」
ひどく疲れたような顔で旅の魔女はエバーミストを見上げた。
大きなあくびをもう一度したあと。
「ああ、そうそう。さっそくだけど。私はこの村にいてもいい?」
再びあくびをかみ殺しながら魔女は聞いてくる。
エバーミストは最初この魔女が何を言っているのかわからなかった。
けど、突然、記憶の扉が開いた。
「ごめんなさい」
エバーミストは顔を真っ赤にして頭を下げた。
この旅の魔女が昨夜、家の前で寝ていたのは、もちろんエバーミストをからかいに来たのではなかった。魔女の礼に従って挨拶をしに来たのだ。
旅をする魔女たちは新しい町に着いたときに、その町の施療師に挨拶に行く。ごく当然なこと。
しかも、エバーミストに魔女の礼に従って許可を求めてきている。
この村にいていいのか? と。
少し考えれば、なぜ、旅の魔女が夜遅く訪ねてきて、しかも帰りまで待っていたのか、すぐにでもわかっただろうに。まともに相手にすることすら考えつかなかった。
老人のことや、村の厄介ごとを考えすぎていたせいかもしれない。
でも、だからといって、あの名前の名乗り方はあんまりではないか。
エバーミストの気持ちも知らずに、旅の魔女は話し始めた。
「いいって、いいって、路銀が尽き果てちゃってさ。勝手に玄関を寝床にさせて貰っただけだから。でも、なんて呼べばいいの? あのまじないを施してあると、お互いの名前をお互いを呼ぶ意味では言えないわけだから、ややこしくならない?」
旅の魔女が、あのまじないの、あのを強調しなくとも、エバーミストは「あっ」の声を出した口を開けたまま、一歩後に下がりたくなった。
「自分の名前を使う防柵なんて、竜でも飛んでくるというの? それともおばけの穴でも開いてるの? それとも、ここ何かあるの? 防柵のまじないのせいでビリビリしてくる。ほら」
旅の魔女は左手をビリビリ振るわせた。もちろん、魔女がからかっていることくらいわかる。
でも、
「何でもありません」
とは、もう言えなかった。何も答えられずうつむいてしまう。
旅の魔女は笑顔を浮かべた。
「私、お茶のみたいなぁ。朝ご飯食べたいなぁ」
小さなエバーミストより十歳近く年上なのに、まるで同い年の少女のような声と表情。
一瞬、エバーミストは何が起きたのかわからなかったけど。何か酸っぱいものでも食べさせられたかのような顔になると、
「わかりました。おあがりください」
「おじゃましまーす。ところで灰皿ある?」
「ありません」
その切り返しだけは強くはっきりとしていた。
「はい」
悪いことをして叱られた子どものように、旅の魔女は小さくなった。
旅の魔女は「何か手伝おうか?」と言ってきたけど、それを断り朝ご飯を作った。
パンをオーブンで、きつね色になるまで焼き、ベーコンの油で卵焼きを作る。お湯を沸かしカミツレ茶の用意をして、サラダを作る。今日はお母さんと暮らしていたときのように二人前。
手際よく用意して、朝七時、村に響き渡る鐘の音と共に居間の机に料理を運んだ。
「御飯の用意はできましたが」
開け放たれたドアの外に向かって声をかけた。
「はーい。おじゃましまーす」
返事と共に、旅の魔女は家に入ってきた。
外で何をしていたのか聞くまでもなかった。老人のものとは違っていたけど、確かにタバコの臭いがした。
「わぁ、おいしそうだな」
「あのことの話しですが」
素直に、名前を用いた防柵とは言えなかった。
「そんなのあとあと。せっかくのおいしそうな朝ご飯がまずくなるでしょ。いただきます」
子どものエバーミストから見ても、この同じ名前を持つ魔女は子どものように見えた。だからか、本当ならエバーミストはもっと熱心に自分の非を認め謝らなくてはいけないのに、非を認めるような気分にはなれなかった。
まだ名前のことがトゲのように引っかかっていたからかも知れない。
旅の魔女はエバーミストの視線に気がついた様子もなく。トーストされた丸いパンの上にベーコンエッグを置き、ソースをかけてかぶりつく。その姿は、エバーミストが母親の元で修行していた頃に見た集落の少年達の食べ方にそっくりだった。
「う~ん、美味しい。やっぱりあたたかい食べものは美味しいわ。あら、食べないの君は?」
「え?」
エバーミストはなぜか頬が紅くなるのを感じて、それを不快に思いながら、ナイフとフォークでベーコンエッグを食べた。
旅の魔女は微笑みながら、エバーミストが食べている様子を見ている。
目が合うと黒い瞳が輝いて見えた。
「なんですか?」
「かわいいなぁ、て思って」
「なんですか」
二度目の「なんですか」は、波立つかのようになった。
カミツレ茶を旅の魔女はカップに注ぎ入れた。いい香りが二人の間をダンスしてゆく。
「カミツレ茶はいい香りだし。こういうあまり作る人で差が出ないはずの料理も、香辛料のちょっとした使い方一つで、ものすごく美味しくなることを知ってる。よっぽど、いいお母さんだったんだね」
エバーミストは何も答えなかったけど、視線は旅の魔女に向けた。
「ほら、私色々なとこ旅しているから、色々なとこの魔女の家にも入ることが少なくないんだ。ここは、いい感じ。しっかりしたお母さんが君を鍛え上げたんだなー、と思って」
「なぜそう思うんですか?」
エバーミストは気がついていなかったけど、今までにない熱の籠もった視線で旅の魔女を見ていた。
「いくら料理とかが得意でも、こういう香辛料の一工夫や、部屋のいい感じは、そうそう出せるもんじゃないの。君のお母さんの顔が見えそうだよ」
リビング全体を眺めるように顔を巡らせたあと、最後にエバーミストを真っ正面から見据えた。
瞳の奥底まで見られているような気がした。
すぐに、旅の魔女は笑顔になる。
「なんですか」
三度目のなんですかは、小さな呟きにしかならなかった。
「おだててるわけじゃないよ。良い物はいい。ただ、それだけ」
魔女の微笑みに、エバーミストは何も答えられず朝ご飯を食べた。途中から何の味もしなくなっていた。
ボタンを掛け違えたブラウスか、時間の遅れていく時計のように、調子が狂う。エバーミストは明確にそういった言葉を探し当てた訳ではないけど。今まさにそういう感じだった。
「ごちそうさまでした」
「じゃ、後かたづけは私がやろうか? 出来れば紅茶を淹れたいし」
「お気遣い無用です」
エバーミストが席を立ったときには、旅の魔女は机の上の食器を全て手際よくまとめて歩き出していた。
「遅い、遅いって。それに、そんな堅苦しいこと言わない、言わない。こんな美味しい朝ご飯をこんな可愛い子と一緒に食べられたんだもの。何かしなくては罰が当たる」
旅の魔女はウィンクして見せた。
これが母親の友人だったら、スカートの裾を引っ張ってでも後かたづけをやめさせたはずだった。
でも、エバーミストは席にそのまま座り直すしかなかった。
早く切り上げて、帰ってもらおう。
エバーミストはちらりと時計を見た。まだ小さな畑に水をやっていないのだ。
花壇周りの草抜きもおざなりになっていたから、それも朝の内に片づけてしまいたかった。
それが終われば、回診に出かけなければいけない。
この村にも回診が必要なお年寄りが少なくなかったけど。そのお年寄り達よりも気になる子がいた。
まだ先代がいた頃に、角毛長羊の餌やりのバケツごと溝に落ちて、足を折ってしまった女の子がいた。足は先代の施療によって治ったはずなのに、未だに歩くことも立ち上がることすら出来ない。
何が足らないのだろう?
何か見落としがあるの?
毎日のように通っていたけど、未だにその回復への糸口が見えない。
見れるものはべて見たつもりでいた。その一つ一つを頭の中でチェックし終わるころに、旅の魔女がキッチンから顔を出した。
「お待たせ。いい茶器が揃ってるのね。ここ」
お盆には白磁のポットとティーカップを乗せていた。
エバーミストは表情に出したつもりはなかったけど、
「あ、ごめん。勝手に借りちゃった。でも、紅茶はやっぱりいい茶器で飲むと、おいしさがますからさ。ごめんね」
「いえ」
と短く答える。
「さ、召し上がれ」
旅の魔女はポットからティーカップに紅茶を注ぎ入れた。
香りが優しく包んでくる。
まるで、香りのビロードを投げかけられた様だ。
こんなお茶が家にあったかしら?
不思議に思った。
旅の魔女は、夕焼けよりも濃くルビーよりは淡い繊細な色彩をカップに満たしてゆく。
一瞬、何もかも忘れてその紅茶に見とれてしまった。
顔を上げると、子どものような微笑みがあった。
「どう? 上手いものでしょ。これでも紅茶だけは少しだけ自信があるんだ。さぁ、飲んでみて」
「いただきます」
「どうぞ、どうぞ」
一口飲むと、ため息が洩れた。
難しくこんがらがっていたものが解けていくような香り。少し口の中を引き締めてゆくような渋みもけして悪くない。
「君のために、ほんの少しだけ工夫してみたんだ。気に入ってくれた?」
「ありがとう」
「どうもいたしまして」
魔女は自分で淹れた紅茶に口を付けた。
エバーミストはいつまでも浸っていたいと思うような、心地よく緩んでしまった気持ちを引き締めるように、息を深く吸い込んで、時計を見た。
緊張し引き締まる胸と背筋が、そろそろ仕事に出なくてはいけない、と告げている。
「あの」
「私、何もしない」
エバーミストは返す言葉がなかった。
まだなにも言っていないのに。
拗ねたような声を心の中だけであげた。
「これだけおいしい朝ご飯が作れる君が判断してやっていることだもの。ここに来て一日経ってない私がとやかく言っていいことないんじゃない? 名前をまじないで使っているせいで、君と名前で呼び合えないのは残念だけど。本当にいい朝食を久しぶりにとれたよ」
旅の魔女はエバーミストの言おうとしたことをよく理解していた。
しかも、先ほどまでとは打って変わって真摯な眼差し。そう見えて、一番最後は、いたずらっ子の悪のひらめきを瞳に宿らせたようにも見えた。
だから、素直に「ありがとうございます」と言えた。
「何も礼を言われることないよ」
「滞在の件ですが」
「え? 許可してくれたんじゃないの」
またエバーミストは言葉に詰まった。苦いものを飲むような顔で。
「許可します」
「やったぁ」
魔女は微笑んだ。
なんて微笑み方をするんだろう。
素直な感情の表現だけで、微笑みの中に意味がない。
この人、まるで子どもだ。
エバーミストはそう思った。
「どの程度、滞在されるのですか?」
「しばらくの間かな」
他人事のような言い方が少し気になったけど、それよりも。
「しばらく?」
「うん。さっきも言ったと思うけど。路銀が尽き果ててしまって。この村で少し商売させて貰おうかなー、なんて」
「何をされるのですか?」
これは聞いておかなければいけないことだった。
「歌うたったりとか、ウサギ狩りとか。良く実るまじないかけてもいい。病気や怪我の方も少しは出来るけど、君の邪魔になっちゃうからやらないことにしとく。この村に来る途中で角毛長羊みたんだけど、あれの世話をしてもいいな。適当に稼いだら山越えしようかなーて思ってる」
「適当? 適当ですか」
「そう適当。のんびりやらせて貰おうかなぁ」魔女は大きくのびをした。「さぁて、そろそろ行かせてもらおうっと。この町には温泉もあるんでしょ? 玄関前に寝るのは流石に応えたわ。この村までくるとだいぶ朝は冷えるし。一っ風呂浴びて考える。朝食ごちそうさまでした」
立ち上がると背がすらりと伸びる旅の魔女を、エバーミストは引き留めたくなった。
なぜだかエバーミスト自身わからなかった。
同じエバーミストの名を持つ魔女だから?
話しがまだ足りないから?
それとも何?
「じゃ、またね」
旅の魔女につられるように立ち上がり、戸口まで見送りに出ても。
なぜ引き留めたくなったのか、その答えは出なかった。
4 旅の魔女2
「これわかりますか?」
エバーミストは机の上に座った人形のような子どもの素足に触れていた。
子どもは小さく首を横に振った。
先代の的確な施療で、間違いなく骨は治ってるし、筋にも異常はない。しかも、エバーミストの指の感触をちゃんと女の子は感じていた。
なぜ?
下唇を噛みたくなった。
エバーミストはこの子どもの家族について考えてみる。
病気のふりをすることで、親の関心を引こうとする子どもや、本人に問題が無くても、親の不仲のせいで、元気なお腹が本当に痛み出すことを、母親の助手を務めたときにすでに見てきていた。
この女の子には五人の家族がいた。働き者のお父さんと、お母さん、お父さんの仕事を手伝っているお兄さんが三人。
一人だけ年齢が離れているだけに、愛情が足りないとは思えなかった。
それを証拠に、女の子が着ている服は、お兄さん達のお下がりじゃなくて、ちゃんとお母さんが作ってくれたワンピースだった。
この家で朝日が一番最初に差し込むこの子の部屋には、誕生日に買って貰った大きなくまのぬいぐるみがいることは、エバーミストも知っている。
お兄さん達と問題があるというのも考えにくかった。
それなら、どうして。
なぜ?
なぜ? 女の子は立ち上がって歩くことが出来ない。
なぜ?
今までとまったく同じ繰り返しだった。
この農家に何か厄介なものが入り込んでいると思って、家の隅々から農場のすみすみまで歩き回ったこともあったし。角毛長羊を一頭一頭調べたこともあった。
でも、何も手がかりは出てこなかった。
何か見落としているはず。
自然と右手が口をふさぐように収まった。
お母さんなら、この子とお話しをして糸口を探し当てるような気がした。
でも、この子とは会話らしい会話が成立しない。
何を話しかけても、うん、と、ううんの二つしか言わない子だった。
例えば、いまさっきも「今日は朝ご飯は食べましたか?」の問いかけに「うん」だけで会話が途切れてしまったのだ。
だから、何かを聞き出すことは難しい。それに女の子自身、なぜ歩けないのかわかっているとは思えなかった。
もう一度触れてみる。
骨も肉も、血も、異常は全くなかった。
なぜ?
またはじめに戻ってきてしまったことに気がついて、今度は下唇を噛んだ。
部屋の中で無言のまま置物の様に立っていた年老いたお父さんが口を開けた。
「どうですか先生?」
でも、その質問にすぐには答えられず。心の中で足踏みをしてしまう。
「骨や筋には異常はないです。傷もまったく残っていません」
「こら。先生を困らせるものじゃないぞ」
「いえ、待ってください。女の子は悪くはないのです。ただ、私がまだまだ未熟だから」
エバーミストはそのままうつむいてしまったので、女の子が弾かれるようにエバーミストの方を見た後、同じようにうつむいてしまったことに気がつかなかった。
午前はこの他に回診が六軒あった。午後には、村の入り口脇のケルンや、四辻の脇の杭、村の鐘楼や、畦道の古木、川に架かる橋など。村を守るまじないの施されたものの見回りと、薬草採集があった。それらすべて終えて、空から村のよろず屋さんに寄ろうとしたとき、その姿を旅籠の前にみつけた。
旅籠の前には、いつものように通りにまで丸いテーブルが置いてあったけど。今日に限って、村人たちが、一つのテーブルを囲んで輪になっていた。
子ども達は木に登ったりして、大人達の輪を物珍しそうに見ている。
その中心に、あの旅の魔女がいた。
大酒飲みで知られる木こりの大男と一緒になって、顔を赤くしている。
机の上には、木で出来たジョッキの山が出来ていて、二人が飲んだのだとすれば、樽一つ分を越える量をもうすでに二人は飲んでいることになる。
旅籠の娘さんが二人に、ビールの泡が溢れ出しそうなジョッキを渡す。見物人の村人からはやし立てるような声が沸き起こった。
ジョッキを高々と打ち合わせて、中に入っているものを一気に煽る二人。
村人達のはやし立てるリズムの中、ジョッキをどんどん傾けてゆく。
大男の体はそのまま大きく傾ぎ、大の字にぶっ倒れる。
旅の魔女は、見事に全てを飲みきって、空のジョッキを高々に、
「この村のビールって最高」
村人の笑い声と称える声が一気に弾け飛ぶ。
旅の魔女が村人と一緒に笑いながら「毒抜き」のようなまじないを大男に使ったのが見えた。
大男が立ち上がるのに手を貸し、そのまま大男の右腕を高々と掲げて見せた。
歓声と拍手が村の通りに溢れた。
まるでお祭り。
でも、エバーミストはその場へ近づくことを躊躇った。そればかりか、よろず屋へ寄ることも忘れて、下唇を噛みながら、家路へと急いだ。
どうして、そんなことをしたのか。エバーミストにもわからなかった。
◇ ◇ ◇
その晩のこと、エバーミストは白墨で白くなった黒板を見ていた。
母親が考え事の止まり木と呼んでいた黒板を真似したものだ。必要なこと、やらなくてはいけないこと、気になることを次々に書き込んでいき。それぞれ関係あるものを矢印で結びあったり、一番重要なものに「1」と数字を書き込んだりする。書いた本人にしかわからないにぎやかな黒板。
薬品整理はまだ終わりそうになかったけど、今日のノルマは終わっていたし、この冬に向けた収集と整理にもついに目処が立ってきていた。
だから、黒板を見る眼差しは少しずつ柔らかいものになった。
「トントン」
突然、声と一緒に窓硝子が叩かれた。
「誰?」
そんなことをしそうなのは、昨日から今朝にかけて知り合ったばかりの、たった一人しか知らなかった。
この家は施療所になっていたけど、訪ねる人はほとんど無かった。回診が功を奏しているとエバーミストは思っている。
もし、昨日の晩のように急ぐのなら、普通、窓ではなくドアノッカーを叩く。
エバーミストは窓に歩み寄って開けた。
「こんばんは。今、暇?」
「暇ではないです」
嘘だったけど、すぐにそう言葉が出てしまった。
「そっか。おみやげ持ってきたんだ。ドア開けてくれない?」
「こんな夜遅くに」
「こんな夜遅くだからだよ。少し休憩したら? ね。それとも今から寝るところ?」
すぐに窓を閉めてもよかったはずなのに、エバーミストは窓を閉めることが出来なかった。
旅の魔女はあの微笑みを浮かべていた。大人が浮かべる複雑な感情のこもった笑みなどではない。子どものような、ただ嬉しいことを表した笑み。
この笑みは、少し苦手なのかも知れない。
エバーミストは心の中で呟きながら無言のまま窓を閉じると。
玄関に回って戸を開けた。
「どうぞ」
「ああ、よかった。昨日の晩みたいに、このままになっちゃうかと思った」
「それでもよかったのですが」
「よくない、よくない。お邪魔します。これ」
その手には、大人が両手のひらを広げたよりも大きなユリの花があった。花びらの中で二枚だけが特に長く翼のように見える
エバーミストは手渡されたユリを手に、小さく口を開け、驚きを顔になった。
いい香りがする。
白鳥花の名前で知られた珍しいユリだった。
その美しさもさる事ながら、その大輪の花びらからは、咳に良く利くシロップが作れるのだ。
「道具貸してくれるならシロップ作っちゃうけど。それとも君がやる?」
「ええ」
つられるように答えた。
旅の魔女は苦笑いを浮かべながら。
「んー。君は重傷だね。おいしいケーキや綺麗な服を持ってくるよりも、こうやって薬草を持ってきた方が素敵な顔になりそう」
エバーミストは自分が笑顔になっていることに気がついて表情を元に戻した。
「それに何が問題が?」
何が問題が? なんて、きつい言葉だとわかっていた。でも言わずにはいられなかった。
「何も問題ありません。君がシロップ作っている間に紅茶淹れるよ?」
「ええ。どうぞ」
もう笑顔にはならなかったけど、でも、少なくともこのおみやげは何を差し引いても魅力的だった。
これから冬に向かっていくと風邪ひく人も増える。咳に悩まされて眠れない人だって必ず出てくる。
この花びらからは、僅か大人一人分のシロップしか作れないけど。でも、一人の人が一晩咳一つせずにぐっすり眠れるのは間違いなかった。
「どこに生えていたのですか?」
台所へ向かう旅の魔女の背中に声をかける。
「知らない」
振り返った子どもびた大人の視線と、射るような大人びた子どもの視線が交わる。
エバーミストは不機嫌なことを我慢するかのように瞼を閉じ息を吸い込み、
「昼間ですけど」
「ん? 何?」
エバーミストの声の強さに顔色一つ変えなかった。
「街であなたを見ました」
「ほとんど街にいたからね。すごくいいとこだねここ。えっとヤカンは、あっ、あったあった」
旅の魔女はヤカンに水を入れはじめた。
「お酒の飲み比べしてましたね」
「あ? あははは。そんなもの見られちゃったの? 恥ずかしいな」
「お酒を飲むのは悪いとは言いません。でも飲み比べなんて」
「お酒の無駄かな? 楽しいからいいと思うけど」
シンクに背を預けて楽しそうに体を揺らす。
エバーミストが硝子の刃物のような言葉をぶつけても、旅の魔女の表情は少しも変わることがなかった。
エバーミストは別に旅の魔女をやり込める必要はなかったはずなのに、なぜか止まらない。
「少なくとも「毒消し」を使うのは無駄じゃないですか?」
「え? あ、あれ? あれは「毒消し」じゃなくて、「酔いのごまかし」って呼ばれてるまじない。お酒で酔うのを緩やかにするのよ。その代わりに酔っている時間を長くするの。ここより北の地方のまじないなんだ」
エバーミストは何か言い返したかった。
別に旅の魔女をやり込めたい、と思ったわけではなかったけど。
何も言い返さないでいると、この魔女の全てを認めないといけないような気がして、何かを言い返したかった。けれど、言葉は何も出てこない。
「実はね。これを言うと、君が絶対に怒るから言いたくないんだ」
初めて旅の魔女が視線をそらした。
「私が怒る?」
「ほら」
いつもの微笑み。
「怒ってません」
「怒ってるって。絶対に私と旅籠のオヤジさんを怒らないって誓うのなら。教えて上げなくもない」
「絶対に怒りません。何で村長(旅籠の親父)さんなんですか」
あの気難しげにいつも眉間に皺を寄せた老人の顔が思い浮かぶ。
「へ、あのおっさん村長なんだ」
「お話しは?」
「ね? やっぱり怒ってない?」
「怒ってません」
「本当かな。まぁいいや。この村みんなで入れるお風呂場あるでしょ? 先代の。ああ、もう。何で先代まで私たちと同じ名前なんだろ。迂闊に名前を出せない」
「温泉がどうかしましたか?」
この村にある温泉は、ただ温泉が湧き出たものでも、地中深くまで人の手で掘ったものでもなかった。
先代がこの村の地下深くに棲む者達と契りを交わし、わけて貰っているものだ。
別に驚くことではない。この風向台と呼ばれる世界は、人のものでも竜のものでもないのだから。だから人が知る名もなく、人に名乗ることもない者達も少なくなかった。
エバーミストはこの村に来てからすぐに地下に棲む者達の長と会って、先代の結んだ契りの効力が失っていないことを話し合っている。
「あの温泉の礎石を、村長が動かしているのを見ちゃったんだ」
感情がにわかに沸き立つのを感じた。
魔女が築いたものを迂闊に触れば、子どもすら、災いが降り注ぐことくらい想像がつくはずなのに。
「ほら、怒ってる。村長は悪気はないんだよ。ほんの少し自分の家で使う分のお湯が欲しかっただけなんだから。しかも、もう罰はとっくに受けてるしね」
「罰? でも……」
「ほら、怒ってる。おじさんはもうすでに、お店で出せる一番高級なビールをただで空にされる罰を受けたから、十分償っていると思うな、私は」
エバーミストは大人がそうする様に眉をひそめた。
「なぜ、お酒なのですか」
「え? ああ。地中深くに棲む人たちと飲み比べをやったのよ。最初は、謝って済むはずだったのに。地下の若い衆がおさまりつかないって言い始めたの。それで、私が若い衆の一番の大酒飲みと酒飲み勝負をして、私が勝ったらおじさんを許して貰う。もし負けたら、おじさんの酒蔵の酒を全て地下の若い衆にタダで振る舞うって、勝負をしたの」
「そんな」
エバーミストはあまりのことに言葉が続かなかった。
「あれは結構やばかったけどね。結局私が勝って、その飲みっぷりの良さが長に気に入って貰らって、ユリをもらったの。なんでも、彼らの杯に似ていて大酒飲みに送られる由緒正しきものなんだって。だから、どこに生えているかは知らない」
「あなたは、あなたはめちゃくちゃです」
エバーミストはどうにか言葉にした。
「はは、それいいな。褒め言葉だよ」
旅の魔女が皮肉ではなく心から微笑んでいるように見えた。
でも、エバーミストはおかしなことに気がついた。昼間、旅の魔女が旅籠屋の前で飲み比べをしていたのは、地下に棲む者達ではなく、木こりの大男だった。
「飲み比べをしていたのは木こりじゃないですか?」
「あー、疑ってる」
旅の魔女の切り返しは子どものそのものだ。
「疑ってはいません」
それは本当だった。だからエバーミストは不愉快になる。ただおかしいと思ったことを口にしただけなのに。
「ほら」
エバーミストの目の前にユリがあった。エバーミストの手にあったはずのユリを、旅の魔女が手に持って目線の高さに近づけてくる。その花の匂いまで感じられる。
思わず手に持っていたはずのユリを見た。手に持っているのはただのスプーンでしかなかった。
まやかし?
まぶたを閉じて、ゆっくり目を開けると。手にはちゃんとユリがあって、旅の魔女の見せたユリこそ、ただのスプーンだった。
先ほどまでの匂いも嘘のように消えていた。
「木こりがまっ昼間から村でお酒を飲んでいるわけないじゃない。本人は、森の中で炭を焼いている時間だったんじゃないかな?」
「あっ」
「地下に棲む人たちは、温泉に入った人たちの姿形を憶えていたから、「まやかし」をかけたの。そのままの姿で出られたんじゃ、旅籠屋のおじさんや見物に来た人みんなびっくりして腰ぬかしちゃうでしょ? ね?」
旅の魔女の手の中でスプーンがどろりと溶けて、またユリへとその姿を変えた。
エバーミストは何かを言いたかったけど、もう何も言い返せなかった。
5 施療師と旅の魔女
エバーミストから見て、旅の魔女はすっかり村に溶け込んでしまったように思えた。
村の人と一緒になって畑仕事をしたり、角毛長羊を追ったり。ときには、畦道で休憩に入っているお爺さん達と、昼間からお酒を飲んでいる姿を見たことすらあった。
川でおばさん達とジャガイモを洗っているかと思えば、若い大人の人たちに混じって、ダンスをしているところを見たこともある。
交易の商人と一緒にタバコを吹かしているところを見たこともあれば、村の子ども達と白詰草の花飾りを作っているところを見たこともあった。
けれど、どんなときでも、エバーミストに必ず手を振ってくれた。ほうきで空を飛でいようと、歩いていようと、必ず先に気がついて手を振ってくれた。
あの笑顔いっぱいで、まるで知っている大人に出会った子どものような熱の籠もった挨拶。
そうした挨拶を受けるたびに、エバーミストは心がざわつくのを感じた。
村で、牧草地で、畑で、旅の魔女は村人と一緒に仕事をしたり、騒いでいるだけで、村人に害を与えているわけではない。何かエバーミストに悪いことをしたわけでもない。
でも、心がざわつくのだ。
だから、エバーミストは旅の魔女を無視した。
もし、挨拶で手を振ってくれるのが、農場のおかみさんだったら、風車小屋の男の人だったり、羊飼いの同じ歳とくらいの男の子だったら。どんなに気分が悪くったって、必ず手を振り返えしていただろう。
でも、旅の魔女が見えていないかのように、振る舞っていた。
なぜ、そんなことをしてしまうのか自分でもよくわからなかった。しかも、そういうことが続いていくと、そうしている自分がどんどん嫌になっていった。
それでも、旅の魔女の挨拶を無視することはやめられない。
名前のことをまだ悪く思っているから? そう問いかけたことがある。けど、それは、もう理由にならないことぐらいよくわかっていた。
なぜなら、毎晩のように旅の魔女が訪ねてきては、一緒にお茶をしているのだから。
あのユリを持ってきた夜からというもの。旅の魔女は必ずお土産持参で、毎夜欠かさずに窓から声をかけてきた。それも、狙いすましたかのように、休憩を取ろうとしたときか、仕事が一段落付いたときに。
昼間、あれだけ挨拶を無視していたのに、お茶の誘いは一度も断れずにいた。
お土産を楽しみにしているから、と理由づけてみたこともあったけど。
あの笑顔がそうさせると今は思っている。
昼間、心をざわつかせる笑顔が、夜になると、お茶の誘いを断りにくくさせてしまう笑顔へと変わる。
でも、本当に夜のお茶会が始まってしまうと、何か特別なことが起こるわけではなかった。
旅の魔女が紅茶を淹れ。持ってきたお土産や、エバーミストが母親を真似て焼いた診察する子どもにあげるためのお菓子の余りを茶請けにして。角毛長羊の仔の話しや。芋に付く虫がどうとか。薬草や薬石に関するいたって魔女らしい雑談を普通にする。本当に、それだけであった。
やがて、夏の色がかすみはじめて、短い高原の秋へと入り始めたある夜のこと。
エバーミストは、お湯を沸かしている自分に気がついた。
今日は、少し早めに仕事が終わってしまったから、お湯を沸かしている。そう自分自身に答えてはみたけれど、あの旅の魔女の笑顔が思い浮かんで、火を切ろうとした。
「トントントン」
リビングの窓でいつもの声と音がした。
エバーミストは深いため息をつきたくなりながら、窓を通りすぎて、リビングを通り過ぎドアをいきなり開けた。
「え?」
気の抜けた声がする。
「どうぞ」
エバーミストはそう声を上げただけで、旅の魔女の顔も見なかった。
「どうしたのかな? お邪魔しまーす」
少し遅れて旅の魔女は家に入ってきた。
「どうもしません」
不機嫌な顔になってしまうのを隠すことすら出来ない。
「どうもしなくないって、何で君は不機嫌なのかな? いきなり扉が開くし」
「では、開かない方が良かったんですか?」
「そんなー。意地悪しないでよ」
毒気が抜かれる笑顔というものがあればそれだ。小さな子どもがふざけて抗議するような笑顔。
エバーミストは小さくため息をついて、
「今日のおみやげは何ですか?」
「おみやげ? ああ。毎日続くもんね。ケーキとかシュークリームとか。君も楽しみなんだ」
「そうじゃないです」
「ふふ。でもね、今日は食べものじゃないんだ。これ」
旅の魔女は意味ありげな笑みを浮かべ。ポケットから、枝を削って作った魚や、木の枝を組み合わせて作った不器用なものを出した。
「これは?」
「昼間、村の子ども達と探検してね。灼熱の溶岩が流れる川や、死の森、世界の裂け目と呼ばれる断崖を越えた先に、巨大な山を覆う水晶でできた森を見つけたんだ。その水晶の枝をみんなで削り取ってみんなで彫刻家になったの」
エバーミストは旅の魔女の言葉をかみ砕くまでに時間がかかった。
小さな子どもが夢を本当の出来事だと思い込んで話している風にも思えた。
「あー。信じてないな君は。疑り深いと老けるの早いよ」
「し、信じてますとも」
そう言葉では言ったけど、すくなくとも、机の上のおもちゃは木の枝を削ったりしたものにしか見えない。
からかわれている?
そんな風に思いながら旅の魔女の顔を見ようとしたら、
「お湯が沸きそうだね。紅茶を淹れよう」
旅の魔女の笑顔と出会う。
エバーミストは内緒にしておきたかったことがばれてしまったかのように、顔が紅くなった。
旅の魔女が台所へと入ったあと。エバーミストは、もう一度、枝を組み合わせた不器用なもの、どうやら角毛長羊らしき物に視線を走らせてから台所に入った。
「あれは、どうしたのですか?」
「あれ? 魚は私が作ったの。一番大きいのは沢に近い農場の子に取られちゃった。でも、君が聞きたいのはそういうことじゃないよね?」
エバーミストは小さくうなづくしかなかった。
「明日の午後に教えてあげるよ」
手際よく、やかんのお湯でポットやカップを温めてゆく。
「どういうことですか?」
「君も明日の午後は仕事を空けといてね。一緒に冒険をしよう」
「そんなこと……」
「できません、なんて言わないで。あともう少しでしょ? 薬草収集。ラベル貼りならこれから手伝ってあげてもいいから、三時間ほど空けてみてくれないかなぁ」
さじで量った茶葉をポットに入れ、お湯を注いでいく。
「考えておきます」
「考えるだけじゃだめ。でも」
旅の魔女は、クスクス笑いはじめた。
「なんですか、いったい」
「だって、初めて会ったころの君なら、私にラベル書きすら許してくれないと思って」
「な、なんですか。いったい」
どうしてかはわからなかったけど、エバーミストは顔を真っ赤にした。
「ごめんごめん。謝っておく。でも、だいぶ仕事進んだんじゃないかな」
旅の魔女が言うことは本当のことだった。
冬の薬草にも終わりが見えてきていた。
干しているものを粉にして、調合する仕事はまだまだ残っていたけど。すぐに採集しないと間に合わないものは、ほとんど取りこぼしなく集めることが出来ていた。
旅の魔女の協力があったから、とも言えなくない。
毎晩お茶に訪れるたびに、旅の魔女は村のあちらこちらの家のお菓子と一緒に、薬草や薬になる鉱物をおみやげとして持ってきてくれた。しかも、手に入りにくい物ばかり。
「だから、この辺で少し休んでもいいんじゃない」
「……そうはいきません」
小さな声だったけど、意志ということでは、叫んでいるのと変わりがなかった。
旅の魔女はため息をついたあと。
「紅茶もできたし、一息入れようか? ラベル貼りはどのみち手伝ってあげる」
なぜですか? 言葉にはしなかったけど、目でそう聞いていた。
「今日君のとこで泊まってくるって、おばさんに言っちゃったから帰るあてがないんだわ」
旅の魔女と一緒になって笑う気分にはなれなかった。
◇ ◇ ◇
台所の机の上で、規則正しく鈴の音が鳴った。
釣り合うと、鈴の音が一回だけ鳴る仕組みの下皿天秤が、一定のリズムで鳴り続けていた。その脇では、ペンが紙の上に文字を刻み込む音が鳴り続けていた。
旅の魔女は薬剤の計量をして薬包に包む。
エバーミストはひたすらラベルを書き続けていた。
予想とは違って、まったくおしゃべりはなかった。旅の魔女は黙々と薬石の粉の目方を確認している。
エバーミストは認めなければいけなかった。
この人は調合もすごいと。
旅の魔女と初めてあった翌朝、彼女は紅茶だけは少し自信ある、と言っていたけど。それは謙遜だと思っていた。
でも、それが謙遜ではなく、ただの嘘だと気がつき。今はもう、嘘は嘘でも大嘘だとわかっていた。
旅の魔女が来てからと言うものの、回診や見回りの途中、ほうきの上から見下ろしたり、夜にお茶をする以外でも、旅の魔女と接しない日はなかったと言ってもいい。回診先で、旅の魔女の噂を聞かない日はなかったからだ。
イタズラ好きが高じて行商人の船で山を三つ越えてしまった男の子を子分にしてしまったこと。
村で一番気の荒い馬を鼻筋を撫でるだけで、手なづけてしまったこと。
足をくじいてしまった角毛長羊の施療の話しや、村人と旅人の喧嘩を丸く収めてしまったこと。
革袋に紐を付けた投石機で、狩りをもっぱらにする男たちと畑を荒らすウサギや鹿を次々に仕留めてゆくさま。
畑にかける虫除けのまじない。
畑の境界に関する厄介なまじない。
おみやげに持ってくる薬草の見立てや採集。
そして、調合の腕もまた優れていた。
旅の魔女の動きには一切の無駄がない。
下皿天秤は、揺れて不均衡を示すことができない静止のまじないがかけられていた。
その下皿天秤が、つり合いと空の行き来に忙しく、不釣り合いということを忘れてしまっていた。
懐紙を天秤皿に置き、その上に薬さじで薬石の粉を置く。決められたことのようにつり合いを示す鈴の音が鳴ると、皿から薬包に包み込む。その繰り返し。一度も鈴が鳴らないことも、薬包を包む指先のリズムに狂いが生じることもなかった。
いつしか、その姿に目を奪われたエバーミストの手はラベルを書くことをやめていた。
「どうかした?」
顔も向けずに聞いてきた。
「いえ」
「いえ? 本当に、いえ、なのかなぁ?」
エバーミストは素直に見とれていたことを認めた。
「あは。これね。君ぐらいの年の頃。ワルプルギスに出る魔女達のところで働いてたことがあってね。その時に憶えたんだ」
「海の方に住んでらしたのですか」
「そうだね。生まれはこっちだけどね。でも、海はとてもいいよ? 君は海を見たことがある?」
話しながらも、旅の魔女の指先は止まることも狂うこともなかった。
「故郷から出たのはこの一度だけです」
「海はいいのにって……あれ? こんな風に、旅の悪い魔女が村の善い施療師の耳に毒水を入れるって昔話なかったけ?」
「ありましたね」
エバーミストは微笑んでいることに気がつかなかった。
「昔話しといえば、また地底の人たちと飲み比べしていませんか?」
「あの人ら女に負けるのは我慢ならないんだって。奥方衆の尻の下に敷かれているものだから、よけいみたい」
「そのうち、地底の人たちになってしまうかも知れませんよ」
「あ? ああ、水のほとりの木こりの物語? 淵の底に棲む者達と仲良くなった木こりが淵の底の食べもので宴会している内に、人じゃなくなってしまうあれ」
「ええ」
「それは用心しておかないと。でも、そこまで彼らは無知ではないし根性悪でもないでしょ?」
「はい」
「それに、地底の酒よりも専らこの村のビールの方が美味しいって言ってるよ? 地底にはビールがないんだってさ。麦が育たないし、今流行のホップを使うビールは彼らにも刺激的みたい。あ、お酒の話しは嫌い?」
旅の魔女は手を止めてエバーミストを見た。
「いいえ」
「顔に出やすいな君は。でも、お酒と魔女の縁は切れないものだよ。こっちの方だって焼酎を仕込む魔女がいるし。西の魔女達の間では、ビールに入れるグルート(数種類のハーブを混ぜたもの)のレシピは秘伝で、母から娘に代々伝えられる大切なものだよ。ホップのあっけらかんとした苦みもいいけど。グルートの持つ味わいは、白詰め草で作ったリースのように、見た目の綺麗な琥珀の液体の中で、様々なハーブや想いが絡み合って、これがとってもおいしいんだから」
「西の方なのですか?」
「ううん。母がね。お酒を覚えたのが西と言えば西だけど」
「紅茶もですか?」
「ううん。あれは子どもの頃から」
「お母様に教えていただいたんですか?」
「それがそうじゃないんだ。母は厳しい人でね。お菓子はおろか、果物の絞り汁すら虫歯になるって飲ませてくれなかったの。だから、お返しに母が本と本の間に隠してあった秘蔵の紅茶を飲み始めたってわけ。最初、最高級の茶葉を全部水に沈めちゃって、でも思い切って飲んだらこれがまずくって、散々だったんだわさ」
エバーミストの目に、今よりもずっと背が低く、好奇心で光る瞳を今と同じように輝かせた子どもが、椅子を足がかりに本棚の隠し場所を探る姿が見えた。そして、初めて紅茶を淹れたときのまずそうにする顔も。
旅の魔女の指先が再び止まった。
「え? 何か私おかしなこと言った?」
エバーミストはそう言われて笑っていることに気がついた。
気まずしげに旅の魔女を見ると、旅の魔女は猫のように顔を近づけてきて、
「やっぱり笑顔はいいね」
エバーミストは耳まで赤くなって何も答えられなかった。
笑ったのがひどく久しぶりのことのように思えた。
◇ ◇ ◇
エバーミストは初めて天井の模様を見たような気がした。夜遅く眠くなるまで仕事をしてから、崩れ落ちるようにベッドに入るから、天井をまともに見ていなかったのかも知れない。
「どんな方だったんですか? お母様」
ベッド脇の床で寝ているはずの旅の魔女に話しかける。
「他人の母親の前に、己の母親を語れって、誰の台詞だっけ? とは言ってもね。君の場合は非常にわかりやすい」
「そうですか?」
「うん。料理好き。掃除好き。頭の中は自分の受け持つ集落のことや、周辺の魔女達のこと、そして君のことしか考えていない」
闇の中を静寂の幕が下りてきたかのように静かになった。
「あれ? 寝ちゃった?」
「答えにくいです」
エバーミストはかけ布団を口元までかぶった。
「当たりってことかな。そうだねぇ。私の母親か」
言葉のあと小さなため息は年相応の響きを持っていた。
エバーミストは何か、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。まるで、そのことを肯定するかのような沈黙が降りてくる。
エバーミストはなぜ母親のことを聞こうとしたのか後悔し、別の話をしようと口を開きかけたところで、旅の魔女は語り出した。
「プレッシャーに押しつぶされそうだった」
ひどく乾いた声だった。
「プレッシャー?」
「期待されすぎていると心の奥底では思ってたんだわさ。私の母親は西の出でね。湖沼地方で代々施療師をやっている家に嫁いできた。ろくでなしの魔女ばかり出している家にありがちだけど。男は完全に浮いた存在でね。親父や兄貴達は浮いた存在だった。魔女は女の子を産まなければ意味がないくらいに考えてる家だったから、母も苦労したとは思うし、気の毒だったとは思う。で、待望の私が生まれた。どうなると思う?」
「みんな喜んだ」
「そう、それでこの重たすぎる名前と来たものだ」
エバーミストの頭の中に何週間も前の火花が再び散って、熱くなっていく。
「期待したからじゃないですか?」
エバーミストは自分の名前を誇らしく思っていた。母親がこの名前を付けてくれたことで期待してくれるなら素直に嬉しいと思う。
「期待しすぎだって言うの」
「子どもに期待しない親なんていないと思います」
静かに息を吐き出す音が聞こえてきた。
「子どもの頃、おままごとすらさせて貰えなかった。そんな子がまともな魔女になれると思う?」
エバーミストは、小さなころ同じくらいの歳の子どもと遊んだ記憶は少ない。集落には同じ歳くらいの女の子がいなかった。それ以上に、本や森で一人で遊ぶのを好む子どもだった。
ただ、おままごとといえば、母親の友人で子ども好きだったグリおばさんがよく遊んでくれた。おままごとが、今、何に役に立っているかはわからなかったけど。欠けたお皿に葉っぱをいっぱい乗せて、あまりに大きすぎる赤ん坊役のグリおばさんに出したことは、今でもその時の葉っぱの色や葉脈の形、お皿のひび割れの一つ一つまで思い出せるくらいに憶えている。
でも、それとこれとは違う気がする。
「だから、今、子どものようなことをしてるんですか? あっ」
嫌味を言いたかったわけではないのに、口から出たのはまさに嫌味だった。
「手厳しいなぁ」
いつもの旅の魔女の声だった。
「ごめんなさい」
「別に怒ってないよ。ただ、子どもの頃、子どもらしいことはほとんどやらしてもらえなかった。ま、紅茶の件とか考えると自分で思っているほど厳しくしつけられたんじゃなかったのかも知れないけど。でも結局、幼い子どもにとって親は絶対だから」
エバーミストの中で漠然とまとまりかけた言葉が、硝子から削りだした刃物よりも鋭いことに気がついて、言葉を躊躇った。でも、
「お母様を恨んでいるのですか」
「すごい。流石だね。でも、今は母を恨んでいないけどね」
軽くあっさりとした、しかも意外な言葉だった。
名前を嫌っているのは、自分の母を恨んでいるからだと思っていた。
だから、この人を好きになれなかったんだ、と心の中で結論まで出せたのに。
寝返りを打つと、毛布から出た旅の魔女の右腕が見えた。
「意外?」
旅の魔女は体を起こしエバーミストに視線を向けた。
「そんなことは」
「嘘は良くないよ。特にすぐにばれてしまう嘘は」
ため息のようなものをついて。また枕に頭を下ろした。
「何で、今は、恨んでいないんですか?」
「そうそう素直が一番。そうだね。母も私も魔女だから。これで答えになるでしょ?」
「あ」
すべての謎が解けたような納得の声を上げたのに、旅の魔女は短く笑い。
「へへ。魔女は、みんなそれで納得してくれるよ」
エバーミストは毛布を両手に持ったまま、うなりたくなった。
「嘘なんですか」
「うん」
旅の魔女は続けた。
「メチャクチャ落ち込んでどうにもならなかった時期があったんだ。自分に限界を感じたからか、自分自身を嫌いになったからかは、もう忘れたけど。毎日、母親に対する憎しみでお腹いっぱいにしてた。君には想像もつかないだろうけど」
「それで、どうしたのですか」
その言葉を待っていたかのように続けた。
「ある時気がついたんだ。馬鹿だって。とんでもない大馬鹿だって。その時のきっかけになったのが」
もったいぶるように言葉を切った。
「それは?」
「忘れた」
「そんな」
「人って、苦しんでいるときのこととか結構憶えているんだけど。何がきっかけで苦しんだのか、何がきっかけで立ち直れたか、そんな、一番大切なことを忘れちゃうんだよね」
「それは、あなただからです」
エバーミストは背を向けるように寝返りを打った。
「違うよ。ん? あれ怒って寝ちゃった? んー。人はね。ごくたまにだけど自分を救うことができるんだ。勘違いしてはいけないのは、他人を救えるように見えてしまうことがあるってこと。それは、ただのきっかけになっただけなのにね。どんな手練れの施療師だって、薬草だって、病気を治すんじゃなくて、病気を治す手助け……」
大きなあくびをする声と共に「おやすみ」という声が聞こえてきた。
エバーミストは体を起こして、旅の魔女を見下ろした。
小さくため息をついたあと。眠りに就いた。
大きなエバーミストは、小さなエバーミストが自分の顔を見下ろしながら微笑んでいるのをちゃんと薄目で見逃さなかった。
6 動 揺
いつもより気分のいい朝を飛んでいた。
悩みや問題がすべて溶けてしまったわけではないけど。旅の魔女を少しでも知ることが出来たからかもしれなかった。
多分、今日からは、手を振ってくれたら素直に応えられるような気がしていた。
今朝の回診は、トネリコ屋敷のお婆さん、水車小屋のお爺さん、あの歩けない女の子の順。
あの歩けない女の子の家に行くまでは本当にいい朝だった。
水車小屋のお爺さんの喫煙をたしなめたりしたけど、それは些細なことだった。
村を貫く川を越え、畦道で歩く村人に手を振り、小麦畑を抜ける。畑の境界を示す糸杉の壁を抜けた先には、森を開いた牧草地が広がっていた。小山のような角毛長羊が緑の草をはむ姿は、まだらの模様に見える。
その先に、目にも鮮やかな、赤い屋根の羊舎と、真っ赤に屋根を塗り直したばかりの母屋が見えた。
母屋の入口の前で羽根のように降り立つと、いつものように玄関の角毛長羊を模したドアノッカーを叩いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
幼い声。ドアが開いて自分にかけられたその挨拶に、エバーミストは何も言葉がなかった。
その後のことはよく憶えていない。
村を縦横無尽に飛び回り。「人探し」の魔法を使うことで居場所を突き止めた。
背中でリボン止めにした髪が激しく揺れている。
この針葉樹林の森を抜けた先の牧草地に、旅の魔女がいるのはわかっていた。
旅の魔女に会いたかった。何かを言いたかった。
その思いだけで村中を飛び回ってきたのに。急に、笑顔が思い浮かんだ。
あの子どものような笑顔。
心に急ブレーキがかかる。
私、怒ってる?
怒ってない。怒ってはいない。
なぜ、怒ることがあるの?
では、文句を言いに行くの?
なぜ、文句を言わなければいけないの?
では、お礼を言いに?
頭の中でぐるぐる考えが巡るけど。なぜ、旅の魔女を探しているのか。エバーミスト自身わからなくなってしまった。
ただ、あの歩くことばかりか立ち上がることも出来なかった女の子が、自分の足で立って、ドアで出迎えてくれた。でも、女の子は、どうして歩けるようになったかは、答えてはくれなかった。
女の子の両親も要領を得ない。ただ、旅の魔女が朝早くやってきて、女の子と二言、三言、言葉を交わしただけだという。昨晩、旅の魔女の言葉のように、何がきっかけで歩けるようになったのか、その一番大切なことを忘れてしまっているかのようだった。
知りたかった。
そう、知りたかった。
あれほど調べて、様々なことを試したのに、女の子は一ヶ月以上歩くことが出来なかった。それを旅の魔女はいとも簡単に解いてしまった。
どうしたのか知りたかった。それは間違いない。
それだけなら、今探し回らなくとも夜まで待てば良かったのだ。夜になれば必ずお茶をしにやってくるのだから。何もあわてて探すことなんかなかったはず。
女の子が歩けるようになったのだから、それですべていいはずなのに。
針葉樹林の森が切れて、草原へと出る。
黒毛馬よりも大きな角毛長羊が草をはむ中。旅の魔女はいつもの黒い竜の鬣で編んだローブを着て、寝っ転がっていた。
エバーミストは旅の魔女の目の前に降り立った。
でも、旅の魔女は起きる気配を見せない。幸せそうな寝顔を浮かべている。
あれほど燃えさかっていた熱が、今は嘘のようだった。寝ているところを起こしていいのかさえ躊躇ってしまう。
気持ちよさそうに眠っていた。
「あの」
自分でも小さすぎると思う声。
「あの。起きてください」
旅の魔女は身じろぎもしない。
「あの、起きてください」
大きな声と共に、肩を揺さぶる。
鼻で息を吸い込む音が聞こえて、
「……もう少し眠らせて」
「だめです。起きてください」
「……お願い意地悪しないで」
「意地悪でも起きてください。昨晩は朝までたっぷり寝てたじゃないですか」
「う~ん?」
旅の魔女は薄目を開けた。
「起きてください」
「眠い」
「起きてください」
「……昨晩ほとんど寝てないの。君の寝顔が面白くってずっと起きてたんだもん」
「な、なんてことを」
エバーミストは顔を真っ赤にした。
「なんにも」
大きなあくびとのびをしながら、旅の魔女は眠そうな目で答えた。
「起きてください」
「なんかあったの?」
眠そうに答える。
「なんかあったから、起きて欲しいんです」
「それじゃ仕方ないね」旅の魔女は立ち上がると大きくのびをし、「うはぁ」と声に出して息をつくと、森の方へ歩き出した。
「どこへ行くんです?」
「どこも。喉が渇いたから喉を潤すの。それくらいの暇はあるでしょ?」
「魔法を使えばいいのに」
「ここの空気なら、きっとおいしい水ができるだろうけど、どうせならお腹いっぱい飲みたいじゃない。紅茶を淹れるには、結構水を使うから。飲んでいくんでしょ? 紅茶」
「誰が、飲むと言いました」
「飲まないの?」
どこか悲しげな口調と目。
「の、飲みます。飲みますよ。でも逃げないでください」
「あ、そうか。逃げればいいんだ」
「逃げないでください」
「は~い」
旅の魔女は眠そうに両目を閉じたまま、手を振った。
悪い感じがした。逃げ出すとかじゃなくって、川で足を滑らすとか、そっちの方の悪い感じ。
エバーミストは、すぐに旅の魔女を追いかけた。
火に掛けられたポットが湯気を出していた。
「危なかったね」
旅の魔女は濡れた髪をすき上げ、ポットを火から上げて、空のティーポットにお湯を注ぐ。
「ぼんやりしているからです」
「ありがとうね。溺れずにすんだ」
「私の寝顔なんか見て睡眠時間削ってるからです」
「心配してくれるの?」
何かを言おうと口を開いたけど、エバーミストは何も言わずに口を閉じた。頬がどうしても熱くなってしまう。
「なんだか、君変だよ? 怖いし」
ポットからお湯をカップに移しカップを温めてゆく。
「私が?」
「うん。君が」
「変じゃないです。ただ、お聞きしたいことがあるんです」
「あれ? そうだ。今日の午後時間作ってきてくれた?」
温めたポットに、御茶葉を入れてお湯を注いでいく。
「話しを誤魔化さないでください」
「君の本当に知りたいことは、全てじゃなくても幾つかは解決すると思うよ。ほら」
紅茶のいい香りが当たりを包み込んだ。
旅の魔女の微笑みは、エバーミストの問いかける言葉を完全に奪ってしまった。
7 旅の魔女と遊ぶ
遊ぶことと答えにどんな関係があるのだろう。
女の子が遊びたくなったから、歩けるようになったとは考えられなかった。旅の魔女がよっぽど魅力的な遊びに誘ったと考えられなくもないけど。だとしても、それだけではない気がした。
女の子が歩けなくなった理由は、もっと、真摯なもののような気がした。そうでなければ、あんなに優しそうなお父さんや、お母さん、お兄さんたちを心配させるようなことはできないと思った。
少なくとも、旅の魔女は一目でそのことを見抜いて適切な処置をしたのだ。
エバーミストは口をへの字にして、集合場所のナイフ岩のそばに立っていた。
ナイフ岩は、地上に出ている部分だけでも大人の背ほどある黒曜石で、いくつかのまじないの力をその背中に感じることができた。
集まった村の子ども達は全部で八人。上は、エバーミストと同じ歳の子から、下は、まだおしめの取れない赤ん坊までいた。
風車小屋の兄弟。エドガーとエルガー。
沢の農場の子で、悪童の名を欲しいままにしているダン。
鍛冶屋の娘のファナとその幼い弟のカリム。
あの歩けなかった女の子エボ。
三本モミの畑の男の子ファン。
森の入口の女の子イザベル。
エバーミストはみんなの名前を一応知っていたけれど、子ども達は珍しそうにエバーミストを遠巻きに見ていた。
悪童ダンが太っちょのファンの横っ腹をつつく。
ファンは口をモグモグさせながら、「何で俺なの」と一応抗議の声を上げて、エバーミストの方にヨタヨタと近寄ってきた。
ファンはどう見ても重すぎる子だ。指先は水を入れた手袋のようだったし、腕や太ももはハムのようだった。でも、ファンのお爺ちゃんには、このかわいい孫がやせっぽっちに見えるらしく。ファンにはいつも山盛りのチーズや日干しパン、干し肉を日に五度も食べさせている。
エバーミストはそのことで何度も抗議しているし、ファンの両親や、ファン自身にも、野菜を増やして肉やチーズは取らないように言っているのに、効果は一向に上がらなかった。
しかも、ファンは大の甘い物好きなのだ。
今さっきだって、ポンポン菓子を食べていて、服にはポンポン菓子のくずがたくさんくっついていた。
「あの」
ファンは上目づかいにエバーミストをちらりと見た。
「何ですか」
「あのー。ほうきでいつも飛んでるけど。怖くないの?」
「怖くないです」
「怖くないってよ?」
そう声を掛けられた鍛冶屋のファナと悪童ダンが同時にため息をつく。
ファナは抱いていた幼い弟を悪童ダンに押しつけると、大股でエバーミストに近寄ってきた。
無口で手を差し出す。
エバーミストはその手をちらりと見ただけだった。
「まったく」
エバーミストの手を掴んで無理矢理手を握りこむと、子ども達の輪の方へエバーミストを引っ張り込んだ。
「自己紹介もまだでしょ」
なぜ、ファナが怒っているのかエバーミストにはわからなかった。
「皆さんの名前は知っています」
エバーミストは一人、一人の名前と屋号を言って見せた。中には熱を出したときに診た子もいるので、まったくの初めてというわけではなかった。
でも、ファナは大笑いをはじめた。
「誰も、この馬鹿をダンなんて呼ばないし。ファンなんて、自分の名前忘れてるんじゃないかしら」
「ひでー」
まず声を上げたのは、馬鹿といわれたダンだった。ファンはというと、一呼吸キッチリ遅れて、
「そ、そんなことないよ。ガチャ子」
顔を真っ赤にして抗議した。
「私だって、ファナだなんてお母さんすら呼んでくれないわ。私はガサツだからガチャ子」
エバーミストは顔を曇らせた。
名前は、魔女修行の中で一番初めに、その重要性や可能性、危険性を教えられ、繰り返し教えられるからだ。
「風車小屋の二人は名前が紛らわしくて、ちょうど兄弟で右利きと左利きに別れているから。兄貴の方がライトで弟がレフト。私の弟はまだ赤ちゃんだからあだ名はないけど。おもらしばっかりするから、姉としては情けないあだ名を貰っちゃいそうで心配なの。赤屋根の農場のエボちゃんは赤ずきん。ファンはお腹が太鼓のように鳴るからポン太。ファンなんて呼んだの何年ぶりかしら。イザベルは巻き毛だからロール。こんなところね」
「おい、おい、俺は」
ダンは自分を指さす。
「あ? いたの山猿」
ファナは山猿と呼んだダンから弟を引き取った。
「ちっ、ひでぇなぁ」
「村の大人達から聞いていると思うけど。この山猿は、飛行船乗りになりたいからって、行商人の船に乗り込んで峰を三つも越えてしまったの」
「飛行船乗りじゃなくって、俺がなりたいのは、く、う、ぞ、く。空賊だっていってるだろ」
「空賊なんて、野蛮もいいとこ」
「エバーウィンド率いるルイガノ団を他のと一緒にするなよ」
「二人はいつも、こうなんだ」
レフトことエルガーは肩をすくめた。
「ところでさ。先生のことはなんて呼べばいい? そのさ、先生なんて何か言いにくいしさ」
ライトことエドガーがエバーミストに聞いてくる。
ここで言っておかなければいけない、と思った。
「みなさん。ちょっと聞いてください。名前は親から貰った大切なものですから。もっと大事に扱わなければいけません。あだ名をつけるのはよくありません」
そう言おうとしたのに、柑橘系の匂いと共に口がふさがれ。うーん、うーん、という音にしかならなかった。
まだなにも言ってなかったイザベルことロールが目を輝かし、エボが何か言いたそうな顔になっていた意味がようやくわかった。
ファナや山猿たちも全員が、こうなることがわかっていたはず。
「エファでいいんじゃないかなこの際」
声が頭の上から降ってくるようだった。口を押さえたのは旅の魔女だった。
「遅いよエバ姉」
「大人はお仕事しないと、お腹いっぱい食べることが出来ないんだから勘弁して。それと、あんまり堅いことはなしね」
旅の魔女は、エバーミストに耳打ちをした。
「でも、それとこれは」
開放されて新鮮な空気を吸いながら、旅の魔女を睨み付けた。
「エバ姉、何して遊ぶんだよ今日は?」
山猿は旅の魔女の右手を両手で握った。
「私、この前の続きがいいい。ねえエバ姉もそうでしょ?」
ロールが黄色い声を張り上げて、負けてなるものかと旅の魔女の左手を掴む。
「この前の約束通り空賊ごっこだよ。エバ姉」
「イヤ」
「約束なんかしてないじゃんかよ。今日は別の冒険がいい」
と、ロールにレフトが助け船を出す。
「私も、空賊ごっこはごめんだな」
とガチャ子。
「絶対、空賊」
「この前の続き」
山猿とイザベルの一騎打ち。声は高らかにヒートアップしてゆく。
心がざわつくのをエバーミストは感じた。
旅の魔女を挟んで白熱する二人。困った笑みを浮かべている旅の魔女の姿。それらがあたかも、ここから立ち去るように胸を押さえつけてくるような気がした。生まれ持っての明るさで陽気に振る舞い、みんなを笑顔にさせる旅の魔女を、あえて無視したときと同じように。ここに居るのが辛くなってきた。
ふと目めを向けると、いつからか手が握られていることに気がついた。
けして大きくも、力強くもない手。でも、鎖で縛られてしまったように、今ここから逃げ出すことはできなくなる手だった。
あの歩けなかったエボが、エバーミストの手を握っていた。
目が合うとエボは笑顔を向けてくる。
小さく柔らかな手の感触やその笑顔が、胸の中にいるざわつきをしずめてくれるかのようだった。
山猿とロールの笑顔。
旅の魔女の困まり顔。
レフトやライト、ガチャ子たちの楽しみと期待に光る瞳。
エボこと赤ずきんも、今まで見せたことのないような笑顔を浮かべている。
心が惹かれた。
うらやましいと思った。
胸の奥のざわつきが最後の抵抗のように激しい熱を出したけど。もう、今のエバーミストには何の力も示さなかった。
そのかわりにわかったことがある。
このざわつきは嫉妬だった。
村の様々なものや村人たちと仲良くする旅の魔女が、うらやましかった。だから嫉妬していた。
旅の魔女の視線がエバーミストの方へと向いた。黒い瞳と目が合う。
「エファ。どうする?」
「え?」
期待する瞳が全てエバーミストの方を向いた。
「空賊ごっこか、冒険家ごっこか」
山猿とロールがエファに殺到した。
「絶対空賊」
「空賊なんてイヤよ」
エファも何も言えずに困ってしまう。
でも決着は、思いもしないところでついた。先に手を挙げたのはイザベルだった。山猿をグゥで殴っていた。
「あ」
「はいロールの負け。今日は、空賊気分で空の冒険をやろうか」
へへ、と鼻で笑う山猿に、イザベルことロールはまた手を挙げようとしたけど。旅の魔女がその手をしっかり握って放さなかった。
「仕方ないわね」
ガチャ子がため息をつく。
「俺、大砲打ちたいな」
とライト。
「俺。見張り」
「ちょっと待って。役は私が決める。山猿は船のキャプテン。ガチャ子は航海士。これは見張りから様子を見て貰って行き先を決める仕事ね。ライトは大砲長でいいわ。レフトは見張りで、ポン太は技師長。ロールは今回の旅の地図を持ってる学者。エボは通訳の助手。ガチャ子の弟君は、これから旅をする空域をよく知るミパミパ族の長老。エファあなたはミパミパ族の通訳。私は船の梶を切るんだわさ」
エバーミストは旅の魔女からガチャ子の弟君を渡された。重みと柔らかさと暖かさを両手で感じた。
好奇心旺盛な瞳がエバーミストを見ている。
「弟お漏らししやすいから気をつけてね」
ガチャ子がそう耳打ちをした。
「ええ」
「さぁ行くよ」
旅の魔女の声が轟いた。
周りは一面の白い雲の海。島のような積乱雲が所々に見える。
でも、あまりいい航海とは言えなかった。
嵐の直撃を受けること二回。飛行船、空の自由号は、もう限界に来ていた。
「キャプテン。部品はこれで最後です。次、また嵐に会ったら、もう、ただじゃすみませんぜ」
技師長のポン太は肩をすかした。
「わかってら、そんなこと。ロール博士、空の道はあってるんだろうな」
「あってます。進路はこのまま日の沈む方向を目指してください」
エファは助手の赤ずきんに袖を引かれて、自分の仕事を思い出した。
「どうです。これから先、嵐は来ますか?」
エファの腕の中でミパミパ族の長老は、言葉にならない言葉を上げている。
「しばらくは、大丈夫なようです」
「おーい。ガチャ子航海士どうだ。燃料とか食料は」
「ポン太技師長が食料庫空にしちゃったけど。燃料はたっぷり。まだまだ」
「えー、俺食っちゃったの?」
「そう」
「キャプテン大変だ」
見張りのレフトが声を上げる。
「どうした」
「骸骨団の船が十リーグ先のあの雲の柱の先に、ちらっと」
「まずいな。やり過ごせそうか」
「キャプテン向こうに雲の塊があるから、その影に隠れましょう。エバ姉行ける?」
「アイアイサー。ポン太技師長が直してくれた船だもの」
「じゃ、取り舵いっぱい」
「取り舵いっぱい」
キャプテンが声を張り上げる。
「取り舵いっぱい」
みんなの声がハモった。
船は、大きく揺れて傾きながら円を描き雲の塊へと向かった。
ミパミパ族の老人が奇声をあげる。
「長老が雲の後に船が隠れてるって言ってます」
エファは船の向かう先を緊張した面持ちで見つめた。
「なんだって。骸骨団の野郎罠張りやがって。空中戦だライト頼むぞ」
「アイアイサー」
ライト大砲長は空の自由号に積まれたカノン砲に、弾を詰める。
「出会い頭に撃って逃げるぞ」
「戦わないの」
ロール博士の言葉に、
「だから素人はこれだから困る。骸骨団の船は二隻だけじゃない。最初の一隻は囮。ここに隠れているのも囮で、本物は多分。上を見ろ。太陽の中だ」
太陽を背に六つの黒い点々が見えた。艦橋に緊張が走る。
ガチャ子航海士は首を巡らすと。
「十時の方向のあの先、雲が切れているから、そこへ逃げ込みましょう」
「見張り番レフト、ガチャ子航海士の言っている方向で問題ないか」
「問題ないです。雲が切れています。でも、風が強そうです」
「キャプテン。スタビライザーはもう予備がないですよ。もし雲に叩きつけられて、雷の直撃を受けたら」
「技師長言うな」
「骸骨船団の船が目の前から」
見張りのレフトの悲鳴に、
「ライト、ぶっ放せ」
船を揺るがすような閃光と大音響、煙があたりを支配する。
「どうした? やられたか」
「大丈夫です。キャプテン」
ポン太技師長が声をあげる。
「キャプテンやりました。骸骨船団の船から火が出ています」
ライト大砲長の勇ましい歓声が後に続く。
エファは赤ずきん助手にまた袖を引かれて、腕の中のミパミパ族の長老を見た。
キャッキャッと声を立てながら腕を振り回している。
助手の赤ずきんはミパミパ族の長老に顔を近づけて、
「えぽ、ぺお、ぴお?」
と、ミパミパ語で話しかける。
ミパミパ族の長老は、答えるように奇声を上げた。
通訳のエファは大きくうなずいて、
「博士。ロール博士。地図を確認してください」
「え? なんなのよ。あ、ここれは。あの雲の切れ間。見張り番レフト。雲の切れ間から何か見える?」
「え? あ、白い石でできた遺跡が見えます」
「間違いない。私がずっと探し求めていた伝説のミパミパの都」
「キャプテン。太陽から骸骨船団の船がさらに三隻来ます」
「エバ姉最大船速で振り切れ、飛び込むぞ」
「アイアイサー」
「釜が破裂してしまいますよ」
ポン太技師長が悲鳴を上げる。
「かまわねぇ。このまんまじゃ骸骨船団にやられてしまう。船を横に向けている間に、向こうは大砲の撃ち放題だ。ガチャ子航海士どうだ?」
「キャプテンの言ううとおりだと思います。空の自由号は小型だからあの雲の切れ間に入れるけど。骸骨船団の船は大きすぎて入れないから、逃げ切れます」
「よーし、野郎ども行くぞ」
みんなの「おー」という声が重なる。
「さぁ行くぞ。みんな何かに掴まれ」
風が引き裂かれて出す悲鳴や、巨大な山が身震いするような船が軋むような音が響き渡る。
何かが光ったか、と思った瞬間。
緑の森が一面に広がっていた。
森の間には、白い朽ちた塔を中心とした遺跡が見える。
「やったー。伝説の遺跡を発見したぞ」
キャプテンの声にみんなの歓声が上がる。
エバーミストもみんなと一緒になって歓声を上げ、冒険の成功を祝った。
突然、火がついたかのような鳴き声が轟く。
エバーミストは生暖かさを感じた。
「うわ。ごめんエファ。お漏らししちゃった」
「え?」
エバーミストは自分の目を疑った。
もうそこには、歴戦の飛行船乗りの山猿もいなければ、太ちょで優秀な技師長や、冷静な航海士の姿はなかった。
ライトはパチンコ片手に息を切らしていて、レフトは木の枝の上にいた。
ロールも白衣姿ではなかったし、助手の赤ずきんもさっきのような黒い服は着ていなかった。
旅の魔女が手を伸ばしてくる。
「赤ちゃん預かるよ。こりゃたいへんだ。大きい方みたい。ガチャ子替えのおむつ持ってきた?」
ガチャ子は旅の魔女に答えるように、ぺろっと舌を出した。
「じゃ、仕方ないか。冒険途中になっちゃったけど。おしまいね」
男四人の口が「えー」を絶叫し、やがて高低高低で響く四重奏のワルツへと変えていく。
「わかった、わかった。私が遅れてきた理由なんだと思う?」
「え? 仕事じゃないの?」
と、ロール。
「外れ。赤ずきんはわかる?」
赤ずきんは首を横に振った。
「正解は、ガチャ子の家でケーキを焼いていたから。もうそろそろ焼き上がるころだし。エファの着替えもあるから戻らないと。ガチャ子の家まで競争。勝った人は一番最初にケーキを選べまーす。よーい、はい」
山猿とレフトが弾かれるように走り出した。ライトと負けん気の強いロールが追う。ポン太もどこに隠し持っていたのか、体に見合わない速さで後を追う。その後を赤ずきんが走った。
「ほら、ガチャ子も行かなきゃ」
「弟が。それにエファの服も」
「そんなこと言ってる余裕ないと思うよ。あの二人の顔見た? 靴がドロドロになっているのにそのまま入って行ってオーブンの中に手を突っ込みそうな勢いだったよ」
「まずい」
ガチャ子は表情を変えて、風のように追いかけ始めた。
「あの、さっきの遊びは?」
「よし、よし、今おむつ変えてあげるからね。私、先行ってるから。山猿たちを追っかけてね。質問は後々」
旅の魔女が指を鳴らすと、白い煙と共に、ほうきが現れた。
そのほうきに横乗りになると、一気に駆け上がっていっていく。
エバーミストは「まったく」と呟いてから走り始めた。
でも、口で発した不機嫌な言葉とは裏腹に、笑顔で駆けだしていた。
◇ ◇ ◇
鏡の前の自分の姿に少し複雑だった。
若草色のワンピースに、麻地のエプロンドレスの、普通に女の子が着る何でもない服だったけど。こういう服を着るの初めてで、少しドキドキする。
しかも、ガチャ子とガチャ子のお母さんの可愛い、似合っている、の連呼に、気恥ずかしかったのもある。
その上、赤ん坊のお漏らしくらいで、ここまで気を遣わせてしまって、済まない気持ちもほんの少しあった。
「ね。早く来てよ。山猿たち、もう我慢できないって。あ、かわいい」
扉から顔を覗かせたロールが声を上げる。
「ね? ほら、ロールだってかわいいって言ったでしょ?」
「どうしたの?」
「恥ずかしいんだって」
「いえ、そうじゃ」
「さ、いこうよ」
「そうだよ。みんな待ってるし」
ガチャ子が肩を叩く。
「ええ」
そう答えると、確かに、恥ずかしがっていると思えた。
「お、来たわねー。似合ってるじゃない。可愛くなっちゃって」
一階のリビングで、旅の魔女が笑顔で出迎えた。
エバーミストは今まで以上に、頬が熱くなるのを感じた。
「エファが来たんだし。エバ姉、早く食べようよ」
山猿が駄々っ子のような声を上げる。
「フフ、この可愛さはまだわからないか。じゃ、エファは、ガチャ子とロールの間に座って。こら、ロールちょっかい出さないの」
席につくと、それぞれに二つのケーキが切り分けられていた。一つはマーブルも美しいシナモンケーキ、砂糖とシナモンを混ぜたものを振ってある。もう一つは、見事にオレンジ色のオレンジケーキだった。
それぞれのお皿の近くに置かれたコップの中には、少し癖のある角毛長羊の乳が入っていた。
「さ、みんな。食べる前に、ガチャ子のお母さんがオーブンの番をしてくれたから。ありがとうを言いましょう。いっせいのせー」
「ありがとうございます」
それぞれのありがとうございますは、上手くハモることはなかったけど。ガチャ子のお母さんは照れくさそうに目を細めて笑っている。
「さ、みんなで一緒に、いただきまーす」
ポン太と山猿の「いただきます」は、鬼気迫るものがあった。
フォークで丁寧に切り分けたシナモンケーキは、切り口まで見事なマーブルを描いていて、しかも香り高かかった。
「ね、エファって、ケーキたくさん焼けるんでしょ? エバ姉が前にエファが焼いたベリーのパイを持ってきてくれたことがあったの」
ロールはシナモンケーキを切り分けずに、そのままフォークを突き立てて食べていた。
その迫力と、シナモンが髭のように付いた口の周りを見ながら、「ええ」と答えた。けれど、ベリーのパイをあげたことに心当たりがなかった。
山猿と話している旅の魔女の横顔に視線を走らせて、やっと思い当たる。前にべリーを籠いっぱいに頂いて、パイを焼いたことがあった。その三分の一をその場で旅の魔女に食べられてしまって、残り三分の二を持って帰えられてしまったことがあった。
「あれ、パイ生地がすっごくぱりぱりで、すっごく、すっごくおいしかったの」
ロールは目を輝かせながら、シナモンケーキの塊にパクついた。
鼻までシナモンだらけになってしまう。
「あ、ありがとう」
ちらりと見た。となりのガチャ子は、綺麗にフォークで切り分けている。これではどちらが、ガチャ子か、わからない。
山猿と、ポン太は、フォークを使うことすら拒否していた。
「アップルパイも焼けるでしょ?」
「ええ」
「どうしてもパイ生地が上手くいかないの。教えて」
「あ、私も知りたい。お母さんパイだけは下手だし」
とガチャ子。
「どうしたの?」
二人は、口々にそう言った。
綺麗に切り分けてたはずのガチャ子も、シナモンを口の周りに付けていた。
エバーミストは笑いを堪えながら、
「何でもありません。いいですよ。いつでも教えます」
「本当?」
「な、エファのミパミパ族の通訳良かったよな」
顔中を真っ茶色にした山猿が体を伸ばす。
「山猿。話に割り込まないでよ。今大事な話をしてるんだから」
「そうだそうだ。いーだ」
「なんだよ。ガチャ子ばかりじゃなくロールまで。ロール最近性格悪くないか」
「そんなことないもん」
ロールのとなりでライトが、
「赤ずきん、ロールみたいなお姉ちゃんになってはダメだぞ」
「あ、ライトなんてこというのよ」
ロールは火花が出るような視線をライトに向けた。
「怖いよー」
ポン太がはやし立てる。
「こらポン太。女の子に怖いなんて言わないの。もうこれから先クッキー焼いても、あんただけにはあげないよ」
ポン太はケーキの食べきらない口を開き、泣きそうな目でガチャ子の方を見た。
ロールとレフトが同時に吹き出す。
にぎやかな卓を挟んで、エバーミストは視線を感じた。
旅の魔女がウィンクをした。
自然とうなずき返していた。
8 先代の罠
「夕御飯くらい食べていけば良かったのに」
旅の魔女はボウルの中の卵をシャカシャカかき混ぜた。
「お洋服をお借りして、洗濯までして貰ったのに、その上夕飯までごちそうになるのはちょっと」
エバーミストは、下味を付けた挽肉をフライパンの上で炒め始める。
「そういうこと気にする人に見えた? ガチャ子のお母さん」
「気にしない人ですね」
鼻のところに大きなほくろのあるガチャ子のお母さんを思い浮かべる。
「かえって晩飯食べてった方が喜んじゃうんじゃないかな」
「でも、そうすると。こうしてお話しをするのができないですよね」
「へ?」
旅の魔女は驚いたような顔をした。
「意外ですか?」
「意外も何も。君が私に聞くことなんて、もうないと思ったんだけど?」
「そんなことないです」
「ふうん。でも、せっかくあの服似合ってたのに。すぐ黒黒にもどっちゃうんだから」
「そういうことは着ているときに言ってください」
「え? 今なんか言った」
「何も言ってません」
「ふうん」
二度目のふうんは、少し嬉しそうな「ふうん」だった。
急に何も言わなくなった旅の魔女の方を見ると、笑顔でエバーミストを見ていた。
「何か?」
「変われたのかな。元に戻れたのか、それとも私が認められたのかなぁ」
「さぁ、どれでしょう。あの? いいですか」
エファは料理を作る手を止めて、旅の魔女を見た。
「なーに?」
「午後の遊びの魔法。あれは、あなただけの魔法ですね?」
「違う違う。あれは、子どもなら誰でも使える魔法。恋を恋だと知っちゃうと二度と使えなくなっちゃうの。どうかなぁと思ったけど。君も使えてよかった。ガチャ子はあと少しは大丈夫そうだけど。ロールは、もうそろそろ卒業かな」
「子どもの魔法?」
「そう。子どもが大人になると。野原を駆けて、森の木々に登って、そこで見ていたものを忘れてしまうの。本当に空賊の財宝が見えていたことも、竜の炎に焼かれそうになったことも、空戦をやっていたことも、みんな忘れてしまう。君は、ちゃんと、子どもの魔法の使い方を憶えることはできたかな?」
「ええ」
エバーミストはゆっくりうなずいた。
「よかった。これで君が大恋愛の末に大失恋しても絶対に忘れないから。これ誰かに教えたかったんだ。でも、恋を恋だと知らない魔女とか魔女のたまごって滅多にいないの。どいつもこいつも好きだの嫌いだの。自分のこと以上に、わかった気になっちゃって、やっちゃってるからさぁ」
「何か引っかかる言い方ですね」
「気にしない気にしない。この子どもの魔法の使い方を憶えていればさ。ちょっと自分の胸にしまっておくには重たすぎる荷物を抱えてて、大事な魔法の使い方を忘れた子どもたちにも、山猿やポン太たちのように、気軽に魔法を使えるようにしてあげることができるんだから」
エバーミストは小さくうなずいた。
「すごく弱くて、すごく小さな魔法だけど。使い方次第でとっておきになるわ」
「はい」
エバーミストは、重たすぎる荷物を抱えていることに気がついているつもりだった。その荷物はやがて楽に持つことのできるものだと思い込んでいた。でも、今、まさに押しつぶされる寸前だったことに、まったく気がついていなかった。
今日、空賊ごっこをするまで、笑うことや、歓声を上げることすら忘れていた。
一番大切なことなのに、と苦く思う。
私と同じ名前の魔女は常に笑いを絶やさず。みんなの笑いが絶えないその中心にいる。それを私は嫉妬するだけだった。
お母さんは、どんなに忙しくて辛いときだって、いつも笑みを絶やさない人。それなのに。目標としているのに。すっかり忘れていた。
この村に来てからというもの。施療師の仕事の表面ばかりを考えていた。
お爺さん達のタバコだって、本当にやめさせたいのなら、害悪にばかり囚われてばかりいないで、どうすればやめて貰えるのか一人一人考えなければいけなかった。
お母さんならそれを自然にやれる。
赤ずきんとだって、もっと時間を作って話し合わなければならなかった。本当は優しく賢い子なのに、小さい子どもだからって、忙しいからって、それに気がつく努力さえしなかった。
お母さんや、この人は、みんなの輪の中で施療師だった。
私はそうではなかった。
あだ名が名前よりも人と人の距離を短くしてしまうものだということさえも知らなかった。
何も知らない。知らないことばかり。
「あんまり深刻な顔しないで。ちょっと、出しゃばりだったかな?」
エバーミストは反射的に首を横に振っていた。
「ありがとうございました」
「フフ。じゃ、出しゃばりついでに、ややこしくなっちゃったことを片づけちゃおうか?」
エバーミストは思い当たることがなく。旅の魔女の顔を見上げた。
旅の魔女はウィンクで返した。
◇ ◇ ◇
「冷えるね」
「冷えますね」
目の前に、あの廃屋があった。
心の奥底で眠っている不安を呼び覚ますような、怪物めいた雰囲気は、初めて見たときから変わらない。
日が落ちた森の中はすっかり闇の中に閉ざされていたけど。二人の魔女にはランプすら必要なかった。
でも、廃屋の中の闇は、エバーミストの魔女の目を持っても見通すことが出来ない。闇がわだかまっていた。
旅の魔女は、闇など見えていないかのように、魔物の口のような入口まで歩いていく。両手を広げ振り返った。
「これ、説明してくれる?」
「先代から引き継いだこの村の厄介なこと。多分、大昔。施療師か呪術師が住んでいた家です」
そのこと自体は何でもないことなのに口がこわばる。
「そうだね。かなり厄介なことになっているのは、わかるけど。名前で封じる防柵まで使って封じるのはなぜかな?」
エバーミストは下唇を噛みそうになった。
なんでもないことなのだ。
息を整え、
「怖かったからです」
先代が残した遺言に語った言葉は嘘だった。
エバーミストはこの家が怖かった。だから自分の知っている最も堅く重たい蓋でふさいでしまったのだ。中から怖いものが溢れ出さないように。せめて冬が終わるまでの間だけでも漏れ出ないように。
「そう。そうやって認めることが大事だよ。防柵を解いて中に入ろう」
エバーミストはやや緊張したため息をつきながら、瞼を閉じた。
口元で、自分の名前を唱える。
硝子が割れるような音がして、何もないはずの廃屋の中が光ったように見えた。
「さ、中に入ろう」
旅の魔女はまるで知っている家に入っていくかのように、入っていく。躊躇ったけど、エバーミストもその後に続く。
「びっくりした?」
旅の魔女が微笑んでる。
そこは、エバーミストが先代から引き継いだ家の中だった。
リビングにある調度品や施療道具。台所。全てが今住んでいる自分の家だった。
出かける前の気配がそのまま残っている。
エバーミストは言葉なく立ちつくした。
「先代はさ。すっごく、この村に住むみんなと、この村にあるありとあらゆるものを愛していたんだ。自分に後がないと知ったとき。跡を継げる魔女が、たった十歳の女の子でしかなかった。これって心配にならない? 君のことをよく知らないんだもん。しかも、知っている暇がもう残されていなかった。だから、魔女は考えた。新米施療師に試練を残そうってね。試練に打ち勝てないような施療師じゃ話しにならない。それで、赴任してきたばかりの施療師のために、自分の想いを焼き付けた嘘っこの遺言書まで作っちゃった。ここまではいい?」
エバーミストは旅の魔女の言葉を一言一言反芻するように、頭の中で繰り返していた。
「で、もし、新米施療師が挫けたら妹弟子にこの冬の面倒を見て貰うつもりだった。妹弟子って誰だかわかる?」
「母のことですか?」
「あったりー」
旅の魔女は笑った。
エバーミストの中で大きな氷が溶けるようだった。なぜ、母親がこの村の施療師になることに理由も言わずに反対したのか。感情的にならなければ、理解できたことかもしれなかった。
「物事を厄介にしたのは、君の防柵だったんじゃないかな。あれを置いたせいで全ておかしくなっちゃった。先代の名前がエバーミストだったのも悪い方に働いてるけどね」
「どういうことですか?」
「エバーミストの名で封じたから、私や君は出入り自由だし、先代がエバーミストの名でかけた強力な「まぼろし」や「まやかし」のような魔法は、それ自体に害がないから普通に現れるわけ。君にちょっかい出すはずだった魔法や小さなまじないはすべて、防柵のせいで外に出てこれ無くなっちゃって、先代の仕組んだ試練は全部ご破算になったってわけ。お茶でも淹れようか?」
旅の魔女はエバーミストの返事を待たないで、キッチンに歩いていった。
「考えにようによっては、あの廃屋の幻は、常に君にプレッシャーを与えてたみたいだから。ちゃんと試練になってたのかもしれないけどね。そこまで計算に入れていそうだな、あのろくでなしのオババのことだから」
旅の魔女はクスクス笑った。
怖さは、拒絶。拒絶は思考の停止を呼び込む。
エバーミストは先代の遺言にあった言葉を呟いてみた。
先代の言うとおりになってしまった。
怖かったから、防柵で蓋をしてしまい。何も考えなかった。
深いため息をついた。
「あんまり、神妙な顔をしなくていいよ。先代のオイタが過ぎただけの話しだから。あと何か質問ある?」
「あの、いいですか?」
「何?」
「赤ずきんはどうして歩けなかったのですか?」
「あれは、先代のために喪に服していたからだよ。赤ずきんなりのやり方でね。ああいう魔女になる素質のある子は、それができるから。ほら、しょげない。次に、同じことをやらなければいいんだから」
旅の魔女は水を入れたヤカンを火に掛けた。
エバーミストは、自分と同じ名を持つ魔女の背中を見た。
この人に追いつけるのかな、私。
エバーミストはそんな考えを追い出すかのように、首を小さく横に振って、
「私の名前を最初から知っていたのは、母から頼まれたからですか。癒やし手様」
「うん。ってその癒やし手様ってやめてくれないかな。あれ? 何でガッカリするの?」
エバーミスト。千の川の千の癒やし手を持つ渡り手という名で知られた生ける伝説のような魔女。
小さなエバーミストは、憧れを抱いていた若き偉大な魔女を見あげた。
「あのさぁ。手紙くらい書いたら? お母さんとっても心配してたよ? あれ? 何で今度は笑ってるの?」
同じ名前を持つことで憧れを強く抱いていた人。思っていた姿とはまったく違ったけど。思っていたそれ以上に素敵な人だった。
9 おわり
「エファ。遊ぼ」
山猿やポン太の絶叫めいた声に、エファは急いで防寒具を羽織った。
昨晩降った初めての雪で、窓から差す光はいつもより明るかった。
「行ってきます。本当に行かないんですか?」
「うん。寒いの苦手なんだ私。早く行っておいで。みんなが帰ってくるころにはケーキ焼き上がってるよ」
台所からエプロン姿のエバ姉が顔を覗かせた。
エファは微笑みを残して、外へ出て行く。
エバ姉は扉が閉まるまで手を振っていたけど、
「よっこら、せ」
と台所の椅子に腰を下ろした。
鼻歌を歌いながら、ポケットから銀でできた缶と小さなケースを出す。
銀のケースを開けて中に入っている小さな紙を一枚出すと、紙の端を嘗めて机の上に置いた。缶の中から乾燥させたタバコ草を出して紙の上に置く。紙で草を巻けば紙タバコの完成だった。
鼻歌を歌いながら、指先をこすりロウソクの火のまじないで、タバコの先に火を付けた。
目を細め、子どもたちには誰にも見せたことのない表情で、一息胸の奥まで吸い込み、紫煙を吐き出す。
突然、背後から冷気が流れ込んできて、目を見開いた。
腰を浮かせて振り返ると、エファが勝手口から入ってくる。
エファが、母親か、竜か、それとも怖い何かに見えた。
エバ姉は、ばつが悪そうな顔にならずにいられなかった。
エファの顔は外の氷のような無表情。
背後の勝手口の入り口には、どうなるか楽しみで堪らない子ども達の顔が並んでいた。
「あの。その……」
苦しい言い訳は出来なかった。
無表情なエファは、エバ姉が手に持っていたタバコを取り上げ、白い煙とともに消してしまう。
「あ~」
エバ姉は小さな女の子みたいな、大げさな声を上げる。
勝手口から覗いていた子ども達の笑い声が弾けた。
「みんな行こう」
エファはみんなの方に歩き出した。
「エバ姉行ってきまーす」
ポン太がわざとらしく勝手口で声を上げた。
エファはもう一度エバ姉に振り返った。
エバ姉は降参とばかりに肩をすかす。エファは微笑みを残して一面の銀世界の中へ走り出した。
おしまい
ミュウと憧れの魔女
1 ミュウのイオおばさん
魔女になりたい。
ミュウは小学校に入る前から、そう思いこんでいた。
東のくちばしに暮らす子供なら誰でも聴いているラジオドラマ。「おはよう子供たち」に出てくるウサギのリリが、魔女のたまご(魔女見習い)だったということもあるけれど。物心がついた頃には、絵本や童話で出会うほうきに乗った魔女たちの姿は、ミュウとっての憧れだった。
それが、ただの憧れではなくなったのは、病気で苦しい思いをした後のことだ。
春の訪れを告げる雷が鳴る頃。大人になった後もミュウは必ず熱を出した。でも、この熱は一日ゆっくり休んでさえいれば、騒々しい客が帰って行った後のような疲れを残して下がっていく。だから小学生の半ばを過ぎる頃には、熱が出そうになると準備をすべて済ませてからベットに入ることができるほど慣れていた。
でも、その年の熱は、ミュウが大人になっても忘れることができないほど、辛く長いものだった。
全身がギスギスと痛み、熱くて熱くて眠ることすらできなかった。双子のお姉ちゃんたちとお母さんが代わりばんこに看病してくれたけれど、ちっとも楽にならなかった。
そのときのことは、瞼を閉じるだけで思い出すことができる。
喉の渇きに薄目を開けてみた天井は、今まで見たこともないような色をしていて、辺りを見回すとお母さんもお姉ちゃんもいない。
ミュウはしゃくりあげながらお母さんを呼んだ。扉がゆっくり開いて、そのおばさんは入ってきた。
「おやおや、おチビさん泣いていたの? でも安心しなさい」
おばさんは、ニコニコ笑いながら、ミュウのおでこに手のひらを乗せた。
すると、どうだろう。おでこに乗せられた大きな手のひらは、氷よりも冷たく、でもなぜか毛布のように暖かだった。おでこにただ手を乗せられただけなのに、今まで苦しかった息も、熱さも、体から抜けていくかのように楽になった。
「お母さんたちはね、看病に疲れちゃって今は休んでいるのよ。だからおチビさんもお休み」
おばさんの優しい手がミュウの頭をなでると、瞼はどんどん重くなっていった。
その部屋に入ってきたおばさんこそ、大きな風車が目印のミュウの家から一番近い、さかなのほね町に住む魔女。イオおばさんだった。
今は、イオおばさんをおばさんだと思っていたことが失礼だったとミュウは思っている。それほどイオおばさんは若々しい。
イオおばさんには、旦那さんはいなかったけれど。小包をたまに送ってくる「ライオン」のような娘だとイオおばさんが言うお嬢さんと、働き者で真面目な息子さんがいた。だから、見た目よりもずっと歳を取っていたのかもしれない。でも、その自然な髪型やラフな服装の中に、どこか都会的な感じのする素敵な人だった。
イオおばさんも魔女の類にもれず、お菓子作りや料理作りがとても上手で、ミュウがそういうことに興味を持ったのはイオおばさんのおかげだった。
そう、ミュウは魔女のイオおばさんが大好きだった。
でも、ただ一つだけ苦手なところがあった。それは、たまに水タバコの臭いがすること。タバコを吸っているところを見たことはなかったけど、たまにお酒を飲んで帰ってきたときのお父さんと同じように、妙に甘ったるい、あのいやな臭いがすることがある。そういう時、イオおばさんはこう言うのだ。おならと一緒よ、と。
ミュウは、『ミュウのイオおばさん通い』の一番最初の日のことを覚えていない。
確かなことは、小学校三年生の頃には、イオおばさんの家で宿題をやって、おやつを食べて家に帰るのが、ミュウの日課になっていた。時には、イオおばさんの息子さんに算数を教えてもらったり、一緒に夕食を食べることもあった。
その日も、ミュウはイオおばさんの家の居間のテーブルの上で算数ドリルとにらめっこをしていた。
でも頭の中に、数字が入ってこない。
「おやおや。今、頭の中がアップルパイ?」
台所から顔を出したイオおばさんに、ミュウは頬を真っ赤にしてうつむいた。
イオおばさんの言うとおり、今、台所の薪オーブンの中で、音をたてカラメル色に生まれ変わっていくアップルパイの、甘く香ばしい匂いに、ミュウの頭の中は占領されてしまっていた。
「イオおばさんは何で私の考えることわかっちゃうの?」
「魔女だから、といいたいとこだけど。おチビさんの思っていることは何でもわかりま~す。そうじゃなければ、魔女は務まりませ~ん」
イオおばさんはいつものように歌うように答えた。
「え?」
「頭がこんがらがっちゃった?」
「うん」
ミュウはうなずきながら、あることを思いついた。
「ねぇ、イオおばさん。今私の考えていることわかる?」
「うーん。明日のお昼のお弁当はなんだろうなぁ? とか考えています?」
「違うもん」
「それじゃあ、明日のおやつかな?」
「全然、違うもん。さっき何でもわかりますって、イオおばさん言ったのに」
「ちゃーんとわかってます。おチビさんは魔女になりたい。そうでしょう?」
イオおばさんは、ニッコリと笑った。
「あたり。すごーい」
ミュウは胸の前で両手を合わせた。
「でも、今のままでは、おチビさんは魔女にはなれませ~ん」
「え~。どうして」
「魔女になるためには、まず。お洗濯、お料理ができなければいけないので~す」
「お料理と洗濯ができればいいの? 私目玉焼き作るの得意。クッキーだってイオおばさんのおかげで焼けるようになったし」
「それだけではダメです。朝、昼、晩すべての料理を作れなければいけないのよ~。おチビさんのお母さんみたいに」
「え~」
「魔女になるのあきらめる?」
「やだ」
「じゃあ、今日からお母さんの料理のお手伝いを毎日すること」
「は~い。あ、だからイオおばさんはお菓子とか料理が上手なの?」
「そう。おチビさんは賢い。その通~り。魔女はみんなお料理が得意。料理な下手な魔女がいたら会ってみたい」
「がんばる」
「がんばってね」
イオおばさんはそう言って微笑んだけど、ミュウにはどういわけか、いつもと違うなぜか、男の子達が浮かべるような微笑みのような気がした。
それからというもの、ミュウはお母さんの手伝いを自分から進んでやった。ミュウはイオおばさんの言いつけを疑うこともなかった。その後、魔女になるのに必要なものの中に、お裁縫と理科の勉強が後から付け足されたけど、料理や洗濯と同じように一生懸命やった。
そのおかげで、十一歳の誕生日を迎える頃には、理科の試験だけは必ず一位を取り、料理は得意中の得意。自分でメニューを考え、材料を買って家族の夕飯を作る日も少なくない。そんな女の子になっていた。
ミュウは、その日、今にも降ってきそうな空の下、席も隣で仲の良いフィアに別れを告げると、イオおばさんの家に向かって自転車をこぎ出していた。今日は、家族の晩御飯を作る日だから、イオおばさんの家に長くいることはできなかったけど、どうしてもおばさんに渡したいものがあった。
自転車を止めると、小さな家の前に見慣れないバイクが止まっていることに気がついた。
ミュウは同じ歳の男の子たちのようには、バイクや車の名前を知らなかったし、興味もなかったけれど。その黒光りするボディーに銀色に光るパーツをつけたバイクから、ミュウは目を離させなくなった。
なぜかわからない。ただ綺麗だったからかもしれない。たしかに、部品一つ一つがきれいに輝いていて、優美な曲線は、黒い馬の様にしなやかで、黒い牛のように前へ進む力を秘めているような気がした。
急に前触れもなく、ドアが開いた。ミュウが顔を向けると、黒い皮のスーツを着た背の高い女の人が家の中から出てきた。
軽くウエーブのかかった長い黒髪。レンズの下で光る意思を持った瞳。彫刻のように端正な顔。
獅子のような気がした。
誇り高く何者も寄せつけない獅子。
女の人は家の中に振り返って、
「すべて、思うようにはいかないわ」
「あら~。そうかもしれないけど。そうでないかもしれないでしょ?」
戸口に出たイオおばさんは女の人にウインクして見せた。
近くで見ていたミュウが固まってしまうほど、女の人は恐ろしい表情になって、何かを言おうとしたのを一瞬ためらい。視線をそらし、息を思いっきり吐き出してしまうことで、言うことをやめた。
バイクのそばにいたミュウと目が合う。
本当に美しい人だった。
でも、かけている眼鏡のレンズを通しても、その目の光はミュウに突き刺さるかのように思えた。
「ごめんなさい」
ミュウは何でもないのに謝っていた。
女の人は小さく首を振ると、背中まである髪の毛を銀の止め金具でまとめ、ハンドルにかかっていたゴーグルを眼鏡の上にかけた。長い足を振り回すかのようにバイクにまたがり、エンジンをかける。裏切ることなくただの一度で、バイクはうなり声を挙げた。その流れるような動きにミュウは目を離せなくなってしまう。
リズムを刻むような音に混じって、
「二年先の話じゃない」
と言ったのがミュウの耳に届いた。女の人は、エンジンを唸らせながら、バイクを横に寝かせるようにUターンをさせると、風のように走り去って行った。
ミュウは女の人の背中が見えなくなるまで、見つめ続けていた。
「ビックリした?」
ミュウはうん、とうなずく。
「今のが、来年から東のくちばしの魔女の代表。『束ねの魔女』になる魔女よ」
ミュウの中に、さっきの美しい人の顔がよぎった。
「え? 代表はオババ様じゃないの?」
「オババ様は、もうお歳だから」
「イオおばさんよりも若いのに」
そうミュウは言てみたけど。あの人が東のくちばしの魔女の代表に、ぴったりのような気がした。
「イオおばさんだって若いわよぉ」
ミュウは失礼とも思わずイオおばさんと一緒にクスリと笑った。
「魔女の世界では、何でもだけど、できる人がやるのです。彼女にはその力があるからやります。のですから、誰も反対しませ~ん」
イオおばさんはいつものように歌うかのように言う。
「でも、怒ってたみたいだけど」
ミュウにはどうしてか、自分が怒られたわけでもないのに、ためらいがあった。
「それは……いつものこと。都会から帰ってきてからというもの。ずっと怒りっぱなし。あれではしわが増えてしまう。
ところで、おチビさん。いつものように、お菓子を食べに来たのですか?」
「え? あ、そうだ。これ」
ミュウは、トートバックの中から薄いすみれ色のカーディガンを出した。
「わぁ。すばらしい~。これを私に」
イオおばさんの喜び方は、まるで大きな花の蕾が開いてゆくようで、見ているミュウまで嬉しくなる。
「うん。イオおばさんに」
「え? 本当? こんなにいいものを。高かったんでしょ?」
「ううん」
ミュウは得意になっていた。
なぜなら、ミュウがイオおばさんのために自分で編んだものだったから。
「私が編んだの」
「すごい。東のくちばしの魔女連中でもここまでできるのは、オババ様くらいかもね~。今着てみてもい~い?」
「え? うん」
「じゃ、ここではなんですから。あがっていきませんか?」
「え? でも夜御飯の準備が」
「時間は取りませ~ん。さっきまでしていたお茶のお菓子を全部くるんであげます」
大きくうなずくと、ミュウはイオおばさんの家に上がった。
後になって、このときのイオおばさんは、私に気を使ってくれたんだと、ミュウは思った。
ミュウが十三歳になる頃には、さらにお裁縫が上手くなっていたからだ。
2 魔女になるには?
何かをしているときでも、立ち止まって考えてしまうことが増えた。
いつものように夕御飯を作っているとき、急にミュウの包丁が止まったのも、考えてしまったから。それは、最近、ミュウのまわりで、将来どうするの? といった話しを聞く機会が増えたことと、深い関係にあった。
年が明けて五月の卒業が迫ってくると、みんな小学校の後のことを考えなければいけなくなる。磯遊びで鍛えたがっしりとした男の子たちの中には、その子のお父さんやお兄さん達のように漁師になるという子もいたけど。ミュウの通う小学校では、だいたい三分の二の子どもたちが、トッタン山の向こう側、東のくちばし地方で一番大きな街、ウィッシュボーンの上等学校に上がっていた。
ミュウも将来のことを考えなければいけなかった。けど、小さな頃からミュウの心はとっくに決まっていた。
魔女になりたい。
昨年、ミュウの一学年上のパーシが、小学校卒業と同時にイオおばさんに弟子入りしてからというもの。ミュウは小学校を卒業したら、絶対にイオおばさんに弟子入りするつもりでいた。
そのことを何度もイオおばさんとパーシを交えて話したし、イオおばさんは笑顔で「ちゃんと、考えてますよ~」と、ミュウに聞かれるたびに答えてくれた。
でも、ミュウは不安だった。もちろん、イオおばさんに弟子入りすることではない。もし、ダメなら、本当に申し訳なさそうな顔をしながら「ダメ」とイオおばさんはちゃんと言ってくれる。
不安なのは、家族に魔女になりたいことを話すことだった。
みんなの前で話すだけ。
そう話すだけ。
朝ごはん、夕飯の、家族のみんなが揃う時。そのたびに何度も心の中で呟いた。でも、ミュウの口からは、イオおばさんの家でケーキを作った話しは出てきても、イオおばさんの弟子になりたいことや、魔女になりたいことは一言も出てこなかった。
まるで、ミュウの口に誰かが手を当てているかのように、「魔女になりたい」の一言が出ない。
ミュウにはその理由がわかっていた。
お母さんが、ミュウが魔女になることに反対しているからだ。ミュウの家ではお母さんがウンと言わないと、何も始まらない決まりがあった。そんな決まりがなくても賛成して欲しいのに、お母さんは反対だった。
直接、言葉で言われたわけではないし、聞いてみたわけでもない。けど、お母さんとミュウの間に、ミュウが魔女になりたいことを話させない、「靄」のようなものが、確かにあった。
そういうとき、お母さんは何を言っても反対する。ミュウが生きてきた十三年という時間で覚えた法則のようなものだった。
いつからそうなっちゃったんだろう?
ミュウは唇を不機嫌にとがらせたあと、再びにんじんを切り始めた。
ミュウはお母さんと一緒じゃなくても一人で夕食を作れるようになっていた。
今日の晩ご飯は、東のくちばし風ポトフ。
本当は冬のメニューだけど、お父さんの大好物だから、季節を問わず月に一回は作る料理。しかもミュウの大得意。
明かりをつけていない台所が薄暗くなってくる頃。最後の仕上げ、ワイン一さじをポトフに振りかけた。
「できた」
毎日のことだけど、料理ができあがる瞬間は、洋服が縫いあがったときと同じように、とても幸せな気分になる。
その幸せな気分が急に凍りついた。
扉を挟んだ向こう。居間の方から気になる言葉が聞こえてきた。
ウィッシュボーン……上の学校……ミュウ……。
ミュウはたまらなくなって、全身を耳のようにして居間での話しを聞こうとした。
お父さんが帰ってきているらしい。でも、お父さんの声は低くてよく聞き取れなかった。
「……ええ、そうよ。ミュウはウィッシュボーンの上級学校に行くべきよ」
お母さんの声。
「……あの子には、そのまま大学まで進んでもらいたいの。大丈夫よ。勉強だって算数さえもう少しきちっとすれば、問題ないし……あの子の希望はどうでもいいの。十三歳というのは、親の言うことを聞くべき年齢でしょ……それはそうかもしれないけど。でも、あなたには間違いがあった?……とにかく、上の学校に進んでもらいたいの。……魔女ですって? とんでもない」
ミュウは今すぐ飛び出していって、
「絶対に、魔女になるんだから」
と言いたかった。なのに、お母さんの「あの子の希望はどうでもいいの」「魔女ですって? とんでもない」という言葉が急に耳の奥で聞こえてきて、目の前が急にぼやけてきて。もう、料理をする気も、食べる気もなかった。
廊下に飛び出すと階段を上がって、部屋の鍵をかけると、ミュウは自分のベットに飛び込んだ。
少し後になって、お母さんとお父さんが扉の前で何かを言っていたようだったけど。枕を頭の上にかぶって耳を塞いだミュウには、もう何も聞こえなかった。
真っ暗なところで目が覚めて、最初どこにいるのかわからなかった。頭が冴えてきて、初めてそのまま眠ってしまったことに気がついた。
七歳の誕生日プレゼントのもらった目覚まし時計を見ると、もう夜の十一時を過ぎている。すごく悲しい感じはどこか遠くへ行ってしまったようだったけど、今から起きる気にはなれなかった。
でも、寝返りを何度もうっても全然眠くならない。その代わりにお腹が鳴って、顔が熱くなってくる。
何か台所に残ってないかな。
夜中に台所に下りるのは怖かった。ミュウの住む家は、お爺さんのお爺さんの代に、お爺さんがたった一人で建てた家で、古く、うす暗い家だった。
でも、お腹の虫が御飯を催促するかのようにまた鳴くと。ミュウはベットから起きて、そおっと音を立てないようにして台所へと降りていった。
すごく静かで、すべてを包み込むような夜の闇は、ミュウの知っている夜とは違うような気がした。階段の隅のほうや、廊下に置かれたチェストの影には、目には見えない何かがいるような気がする。
なんで、イオおばさんに、おばけ除けのおまじないを教えてもらわなかったんだろう。
ミュウは小さな体をもっと小さくしながら、台所へと歩いていった。
台所の明かりをつけると、思わず安堵の溜息がもれる。
これで大丈夫。
ミュウが視線を食卓に走らせると、食卓の上に二人分の夕食セットが残っていた。
プラムお姉ちゃん、仕事が遅くなってるのかな? そう思っておかしいことに気がついた。
仕事がいくら遅くなったって、プラムお姉ちゃんが車掌さんをやっている、東のくちばしバスの最後の便は夜七時なのだから、もう帰っていないとおかしい。
誰だろう?
そう呟いた時。外のドアの鍵が回る音が聞こえてきて、ミュウは飛び上がりそうになった。
ドアが開いて静かにしまる音。ブーツに音を立てさせないようにしながら歩く音。音はだんだんミュウのいる台所へと近づいてきた。
だ、誰だろ? まさか、おばけ?
ミュウはつばをゆっくり飲み込んだ。
台所に顔を見せたのは、おばけなどではなく、ウィッシュボーンの市庁で働く、ライムお姉ちゃんだった。
ライムお姉ちゃんは、まるで悪いことをして反省しているかのように、うつむいて入ってきたけど。台所にいるのがミュウだとわかると、ホッと溜息をついて笑顔を見せた。
「ミュウ、驚かさないでよ」
「どうしたのお姉ちゃん」
ミュウは意外だった。お母さんの言いつけを破るのは、いつもプラムお姉ちゃんの方だったから。
「ちょっとね」
「ちょっと?」
「そう。そういうミュウはどうしたの?」
「え? あ、お、お腹が空いちゃって」
本当ならライムお姉ちゃんが、「ちょっと」なんて言い方をしないことを知っているのに、ミュウは自分のことを誤魔化すだけでいっぱいになってしまった。
ライムお姉ちゃんは微笑んで、
「じゃ、お菓子あげようか?」
「え? お菓子」
ミュウの声が明るくなる。
「アルにもらったから」
ライムお姉ちゃんの言うアルことアレックスさんは、お姉ちゃんの上級学校時代からの恋人で、今はウィッシュボーンの有名なケーキ屋さんでパティシエ修行をしていた。
プラムお姉ちゃんは、ライムお姉ちゃんとアレックスさんのことをウサギと熊のカップルと呼んでからかっていたけど、ミュウはお似合いのカップルだと思っていた。
しかも、アレックスさんは、ミュウと会うたびに、少し大人な、甘さ控えめの焼き菓子をくれるのだ。
今日もミュウの期待を裏切らない。そのままブローチにしてしまいたいような、タフィ色のキャラメル菓子だった。
「アレックスさんの作るもの大好き」
「そ、そう?」
「うん。早くお姉ちゃんアレックスさんと結婚して、毎日おいしいお菓子を食べさせて欲しいな」
ミュウは気がつかなかったけど、プラムお姉ちゃんの顔が見る見るうちに赤くなっていった。
「今日ね。お姉ちゃんアルと会っていたの」
「え? こんな遅くまで?」
「うん。彼まだ修行中だから、お店が終わった後でもすぐに会える訳じゃないの」
「え?」
「お店が終わった後。お菓子作りの修行してるのよ」
「じゃ、修行が終わるまで待ってたの?」
「うん。半分だけ」
お姉ちゃんはうつむいて、
「アルの側で焼き菓子を作ったりしているのをずっと見てたの」
ライムお姉ちゃんの、暖かくって、くすぐったい感じが、ミュウにも伝わってくる。
でも、お腹の虫は、そんなミュウの気持ちを無視して大きくいなないた。
「クスクス。まだミュウには早いかな。こういうの」
「そんなことないもん」
とは言ったけど、また、おなかの虫が鳴くと、顔から火が出そうになった。
「ちょっと待っててね。今すぐ料理を温め直すから。それまで焼き菓子を食べましょう」
いただきまーすと言って、口にしたアレックスさんの焼き菓子は、キャラメルの甘さ、ナッツの香ばしさ、そしてわざと残してある皮の渋みまで素敵だった。アレックスさんがお店を出したら、絶対に繁盛するとミュウは思う。
「本当は、家じゃなくって、ウィッシュボーンに下宿したいんだ。私」
ライムお姉ちゃんはぽつりと言った。
「え?」
「ちょっと、言ってみただけ。お母さんは絶対に反対するし、お父さんは心配するから」
「でも……」
こんな時間に帰ってきてたら一緒だよ。と言いたいのをミュウは我慢した。
ライムお姉ちゃんは、お仕事をしているときでもきっとアレックスさんに会いたいに決まってる。
私がイオおばさんの家にいるのが楽しいのと一緒で、お姉ちゃんはアレックスさんのそばにいるのが楽しいんだ。
ミュウには、楽しそうな笑顔で話し合っているライムお姉ちゃんと、アレックスさんの優しげな笑顔が、本当のことのように見えたような気がした。
「ところで、ミュウは誰か好きな人いるの?」
「え? 私? ううん。いないよ」
「そう? でも、上級学校に入ったらわからないわよ。素敵な人いるかも」
素敵な人のことを考える前に、ミュウは上級学校に行く気はなかったから、ミュウの顔は曇った。
ライムお姉ちゃんには本当のことを言いたい。
ミュウは迷った。
そのミュウの迷いの端をつかんだように、
「どうしたの? もしかして、ミュウ。上級学校には行かないの?」
ミュウを覗き込むように聞いてくる。
ライムお姉ちゃんはこういうところが鋭い。
ミュウは「うん」とうなずいた。
「どうして?」
この言葉は少しショックだった。
ライムお姉ちゃんなら言わなくてもわかってくれると、どこかで思っていた。
ミュウは喉に詰まりそうな何かを、小さく息と一緒に吐いてから、
「あのね。あのお姉ちゃん。私……魔女になるの」
「そう」
ライムお姉ちゃんは怒りはしなかったけど、喜んでもくれなかった。ミュウはたまらなくなって、ライムお姉ちゃんの名前を呼んだ。
「別に、私はミュウが魔女になることに反対しない」
「じゃ、なぜ」
喜んでくれないの?
「魔女になりたい女の子は、そんな自信のない様子じゃ。だめなんじゃないかな」
「え?」
ライムお姉ちゃんの優しい目が、ミュウの顔をのぞき込むように見ていた。
「私とプラムが小学校に通っていたとき、二学年上にアプリさんって人がいたの。その人もその時は小学生だったけど、もう魔女のたまごだった。その人は、今の私よりもずっと大人で、自分のやることがしっかりわかっている人だったの。自信のない顔なんて絶対にしなかった。すごく気高い獅子のような人だった」
ミュウはその視線をそらすかのようにうつむいた。
「私ダメなのかな」
目の前がぼやけてきた。
「それはわからないわ。ただ、お母さんは、絶対に反対するわ」
「知ってる」
「理由も?」
「理由?」
「うん、理由」
ミュウは「知らない」と首を横に振った。
「お母さんのお母さん。私たちのおばあちゃんのことを聞いたことがある?」
ミュウはまた首を横に振った。おばあちゃんと言えば、ミュウが物心つく前に死んでしまったお父さんのお母さんのことで、お母さんのお母さんの話は初めてだ。
「私たちのおばあちゃんは、魔女だったそうよ」
「え?」
顔を上げたミュウに、微笑みながら、
「それも、施療師だって」
「うそ」
「本当よ。フィズおじさんに聞いたから」
「おばあちゃんは、どんな人だったの?」
ミュウは初めて聞くおばあちゃんの話が気になった。
「おばあちゃんはね、それはそれは腕のいい施療師で、お母さんの故郷では引っ張りだこだったんだって。それこそ昼も夜も問わずにほうきで空を飛び回っていたって」
「わぁ」
ミュウの頭の中には、古風な三角帽子とローブ姿のおばあさん魔女が、ほうきに乗って飛び回っている姿が浮かんだ。
「でもね、それほど忙しかったから、ほとんど家にいなくって。お母さんはいつも一人でご飯を作って食べていたそうよ。学校行くときのお弁当だって、一度もおばあちゃんに作ってもらったことがなかったらしいの。だから、自分の娘には絶対にそんな寂しい思いをさせたくない、て思って。だからお母さんは魔女にはならなかった」
「だから、私が魔女になるのも反対するの?」
「そう」
ミュウの心の中に、お母さんがいなくって、台所で自分のお弁当を作っている、子供の頃のお母さんの様子が思い浮かんだ。
ミュウもお昼のお弁当は自分で作っている。でも、お姉ちゃん達や、お父さん、お父さんの助手の人たちのお昼まで一緒に作るから楽しいし、学校から帰って来る途中で、助手の人たちに「今日のお弁当もおいしかったよ」とお礼を言われると幸せな気分になれる。
でも、自分のためだけに作るお弁当や食事。それはどんなにおいしく作ったって、きっと楽しくないし、おいしくもない。
しかも、一人で食事なんて。
だから、お母さんは、おばあちゃんのことが嫌いで、私に話したことがなかったんだ。
魔女になりたいのも反対する。
でも……でも、私。魔女になりたい。
ミュウは心の底から魔女になりたかった。この気持ちだけはどうしても譲れなかった。
「さぁ、ヤカンもわいたわ」
ミュウは、顔を上げた。
「お姉ちゃん。私、魔女になりたいの」
「そう」ライムお姉ちゃんは優しく微笑んで、
「うん。さっきより、ずっといいを顔してる。さすがにあのアプリさんほどじゃないけど」
「うん」
ミュウは笑顔でうなずくことができた。
◇ ◇ ◇
目覚し時計の声が、どこか遠い異国の音楽のように聞こえてしまったくらい、ミュウは眠たかった。柔らかなベッドの誘惑もいつもよりずっと強く、このまま眠ってしまいたいと思った。それでも、ミュウはいつものように台所に降りてお母さんのお手伝いをした。
魔女になりたい、と言う前に、お手伝いもできないようじゃ、だめと思ったからだ。
朝の挨拶をするとき、お母さんは何かを言いたそうだった。でも、結局、何も言ってこなかった。ミュウが部屋に籠もってしまうのは初めてのことではなかったし、篭った理由を問いただしてしまったために、ミュウの機嫌を逆戻りさせたこともあるからだ。ただ、お母さんのことだから、ミュウがなぜ部屋に篭ったのか知っていて、だからあえて、ここでは何も言わない可能性もある。
** 朝のメニュー **
ごま付き低発酵パン
みじん切りキャベツの卵とじ トマトケチャップ仕立て
二枚貝とベーコンとジャガイモの油炒め
冷たい空豆スープ
果物入りヨーグルト
ミュウがいつものように卵をフライパンに割り入れるとき、隣でジャガイモの皮をむいていたお母さんが急に、ミュウが魔女になるのを反対する声を上げ、居間で新聞を読んでいるお父さんが困った顔をする姿が、本当のことのように思い浮かんできた。
ミュウは、小さく頭をふり。私は魔女になりたいんだから、と心の中でつぶやいて打ち消した。
そんなミュウに気がついたお母さんが、
「どうかした?」
と聞いてきたけど「ううん」としか答えられなかった。
機会を見つけて早く言わなくてはいけない、と思った。
ミュウの家の朝食は、お母さんが都会出身なだけあって、彩りが豊かだった。
いただきますの直前に、香りのいいハーブティーがみんなのカップに注がれるのも、さかなのほね町ではミュウの家とイオおばさんの家だけだ。
ハーブの匂いが淡く食卓の上に舞い降りて、みんなで「いただきます」を言う、そのとき。
「さぁ、ここで重大発表があります」
プラムお姉ちゃんが声を上げた。
「え?」
びっくりしたのは、ミュウだけじゃなかった。ミュウの隣のライムお姉ちゃんもびっくりした顔だった。
いつも騒動を起こすのは決まってプラムお姉ちゃんだった。こういうことに慣れっこなはずなのに、少なくともミュウは慣れることがなかった。しかも、今のはすごく嫌な感じがした。
なんでこんなひどいことをするの?
と思わず心の中でつぶやいてしまったくらいだ。
プラムお姉ちゃんとライムお姉ちゃんは双子なのに、おとなしいライムお姉ちゃんとは正反対だった。例え、ポニーテールを揺らすのをやめて、おしとやかにしていても、いたずらっ子のような目の光はどうすることもできない。根っからのお祭り好き。
「何があるのかな?」
お父さんは老眼鏡を外すとプラムお姉ちゃんの方を見た。
「さぁ、ミュウ立ちあがって。これから将来のことについて発表するんでしょ」
え? まさか。
ミュウは顔を曇らせた。きっと昨日のライムお姉ちゃんとの会話を立ち聞きしていたんだ。
「将来のこと?」
お父さんとお母さんの視線を感じて、ミュウは観念したかのように立ち上がった。
「私」
喉に何かがつかえたようになって、ミュウの言葉は何も出てこなかった。眼が急に熱くなってきて泣きたくなってくる。
昨日の晩にライムお姉ちゃんが言った「魔女になりたい女の子は、そんな自信のない様子じゃ。だめなんじゃないかな」という声が聞こえたような気がした。
ミュウはゆっくり息を吸い込むと、小さな頃からの夢を口にした。
「私、魔女になりたい」
プラムお姉ちゃんが指を口に入れて口笛をかき鳴らす、その前に、
「だめ」
食卓に叩きつけるようなお母さんの声。
プラムお姉ちゃんはそのまま固まったけど、でも、ミュウは叫ぶような声を上げた。
「何でダメなの? お母さん」
「ダメと言ったらダメよ」
「どうして?」
「私は、あなたの幸せを考えて言っているの。お父さんだってそう。そう思えばこそ、魔女になんて。とんでもない」
「それじゃ理由にならないよ」
ミュウは引き下がらなかった。
「ダメと言ったらダメ」
「何で」
ミュウは救いを求めるように、お父さんの困り顔を見た。
「ミュウは、今すぐにでも魔女になろうというわけではないんだ。母さん。少し落ち着いて。ミュウもだ」
「違うもん。今すぐにでも魔女になりたいもん」
ミュウは叫んでいた。
いくつもの驚きが食卓の上ではじけた。
「それは本当のことかな。ミュウ」
お父さんは少し驚いたように、ミュウを見た。
「本当のことだもの。私、今すぐにでもイオおばさんに弟子入りして、魔女になりたい」
お母さんがすぐに、何かを言いたそうだったけど、お父さんが「まぁ、まぁ」となだめ。
「ミュウはまだ。小学校に通わなければいけないだろう?」
「それはそうだけど。でも、私、上級学校には行かない」
ミュウは自分の言っていることは正しいと思っているのに、お父さんと目を合わすことができなかった。
「うん。そうか。それもまた一つの生き方かもしれない。でも、父さんはあまり賛成はしないな」
「どーして? お母さんのお母さんが魔女だったから?」
お父さんは驚いた顔になった。
「いいや。その、父さんが思うにだ。魔女はそもそも幸せになれないんじゃないかと思う。現に、ウィッシュボーンの市長の娘さんらは、魔女の修行で気が触れてしまったと言うし。オババ様(東のくちばしで一番高齢の魔女)の末娘のラベルダは、生まれつき体が弱いのに、魔女として一生懸命働いたから。自分の娘を抱き上げることもかなわなかった」
「でも、イオおばさんは幸せでしょ」
「それは……」
お父さんは知り合いでもあるイオおばさんについて、悪く言うのがためらわれたようだ。でも、お母さんが言葉を引き継いだ。
「あの人は強いからよ。イオが町にきた頃は大変だったの。ものすごい苦労をしていたの。だから、お母さんもお父さんもあなたには普通の幸せをつかんで欲しいのよ」
ミュウは、イオおばさんのことを悪く言うお母さんが最低に思えた。でも、そういう風に最低だと思ってしまった自分が一番最低だと思った。
涙がこぼれそうになったけど、涙は、叫ぶような別の声に打ち消されてしまった。
「普通って何?」
ライムお姉ちゃんが席を立った。
「母さんの言う普通がわからない。普通、普通、普通。学校では良い成績を取りなさい。それが役に立った? そんなこと、本当は何の役にも立たない」
ミュウばかりか、お父さんお母さんも言葉を失ってしまった。ライムお姉ちゃんは、ほとんど怒ったことはないし、わがままを言うことも、人に逆らうこともない。
そんなライムお姉ちゃんの大きな声は、みんなを黙らせるのに十分だった。
ただ一人をのぞいて。
「ねぇ、みんな朝ご飯が冷めちゃう。このつづきは夕ご飯の時にやるとして。今は、ご飯食べちゃおうよ。それにあんまりみんな時間がないと思うよ。私は非番だからどーでもいいけど」
嵐を呼び込んでおきながら、ただ一人ケロリとしていられるのが、プラムお姉ちゃんのプラムお姉ちゃんたるゆえんだった。
◇ ◇ ◇
ミュウは、ハンドルを握るお父さんの方をチラリと見ただけで、また、お勉強道具の入った膝の上のトートに目線を落とした。
ガタン、と大きく揺れる。
お父さんのトラックはあまり乗り心地が良くない。ガタン、ガタンとおしりが飛び上がりそうなほど揺れる。
今朝はあんなことがあって、遅刻してしまいそうだったから、ミュウはお父さんの仕事用のトラックに乗せてもらって学校に向かっていた。
景色はどんどん流れて学校に近づいているはずなのに、時間がものすごく長く思えた。
また、ガタンと揺れた。
いきなり、お父さんが「あ~」と言って、ゴホンと咳払いをした。
お父さんが何かを言い出すときの癖だ。
「ミュウ。父さんは、その、別段、上級学校には行かなくてもだ。それは、それで、いいんじゃないかと思ってる」
ミュウはお父さんの横顔を見た。
お父さんは、うかがうようにチラリとミュウの方を見たけど、ミュウと目が合うとすぐ前に視線を戻した。
「もし、ミュウが上級学校に行きたいのなら。必ずしもウィッシュボーンでなくてもいいと思ってる」
ミュウは急に胸が痛くなってきた。
足が地面についていないような焦燥感が胸の中にこみ上げてくる。
お父さんは、もしかして知っている?
ミュウはトートのはしをぎゅっと握りしめた。
「行かない。上級学校になんか行かない」
目が熱くなってミュウの目から涙がポロポロこぼれた。
お父さんは小さくうなって、
「なぜミュウは魔女になろうと思ったんだい?」
お父さんの言葉がミュウの中で波紋を立てた。
ミュウは、今まで、なぜ魔女になるかなんて、今まで一度も考えたことがなかった。
ただ漠然と、魔女になりたい、と思っていただけだった。
でも、答えを言うのに時間はいらなかった。
なぜ魔女になりたいか、と考えたことはなくても。魔女になりたい、と思い始めた一番最初のことはよく覚えていたから。
「……苦しんでいる人を助けてあげたいから」
ミュウの声がさきほどの余韻でかすれた。
「そうか。でも、それはすごく大変なことだ」
「大変じゃないことの方が、この世の中には少ない、ってお母さんよく言ってるよ」
「そうだな。大変だからって、あきらめたり、怠けたりするのを、母さんは一番嫌うからな」
急にトラックが止まった。
「ミュウ、本当に魔女になりたいのかい?」
「うん」
ミュウは大きくうなづいた。
「さっきも話したが、お父さんが知っているかぎりでは、魔女は幸せになれないんじゃないかと思う。魔女は、まるで自分の幸せを分け与えているような気がするんだ。ミュウはそれでいいのかい? 自分は幸せになれなくともいいのかい?」
お父さんはミュウをじっと見た。
いつもの優しいお父さんとは思えないほど、静かで研ぎ澄まされた目だった。
いい、と答えようと思って、ミュウはそれは違うような気がした。
心の違和感を少し考えたあと、潤んだ瞳をお父さんの方にちゃんと向けて、心の中で出した答えを声にしてみた。
「わたし幸せになるもん。魔女になって、幸せにもなる」
「わかった」
お父さんはゆっくりうなずいた。
「やっぱり、ミュウは母さんの子だ。母さんへは父さんがちゃんと伝えておくから、安心をし」
ミュウは胸の中の重しがすべてなくなったような気がした。
「じゃ、荷台から自転車をおろそう」
そう言われてはじめて、学校のすぐそばだと気がついた。
◇ ◇ ◇
お弁当を食べ終わって、自転車で家に向かう長い坂道を上っているときでさえ、気持ちは今日のお天気と同じように晴れやかだった。
朝が嘘のようだ。
あと、数ヶ月だけ小学校に通えば、念願の魔女になるための修行ができる。
そう考えるだけで、ミュウのピンク色の自転車をこぐ足は軽かった。
今日は、このことを報告しに、イオおばさんの家に行こうと思っていた。でも、今は一度家に帰らなければいけない。朝のせいで、イオおばさんの家に持って行くパッチワークの鍋つかみを家に忘れてしまったのだ。
ペダルを思いっきり踏み込む。
家までもう少しの、お父さんの建てた風車がある丘の斜面に、誰かが立っていた。
それが、プラムお姉ちゃんだとわかると、また、嫌な感じがした。
プラムお姉ちゃんは腕組みをして笑ってる。目が輝いてる感じがする。こういう時のプラムお姉ちゃんは正直、危ない。
おならが臭くなくなる実験と称して、お母さんの香水を飲まされたのもこの笑顔の時だったし、自転車から補助輪を外すための練習をさせられ、擦り傷だらけになってしまったのもこの笑顔だった。しかも、結局ミュウが自転車に乗れるようになったのは、プラムお姉ちゃんとではなく、ライムお姉ちゃんとの練習のおかげだったから、タチが悪い。
しかも、今日のは完全な待ち伏せだった。
今日の朝のこともあったから、何を言われても無視しようと思った。
ミュウはつーんとすまして、まるでしっぽを立てて歩く猫のように、通り過ぎようとした。
「そのまま家に帰ったら、イオおばさんの弟子になんか一生なれなくなっちゃうわよ」
プラムお姉ちゃんは、とんでもないことを、さも、なんでもないことのように言った。
「え? どうして」
「母さんが許すわけないじゃない」
「お父さんが許してくれるもん」
「父さんが母さんに勝てるわけないじゃない」
多分、勝負の分かれ目とはこういうことなのだろう。ミュウは、何も言えなくなってしまった。
「そこで」
プラムお姉ちゃんは、リュックサックを持ち上げて見せた。
ミュウが自分で作った、ミュウのリュックサックだった。
ミュウの顔が曇る。プラムお姉ちゃんは勝手にミュウのタンスの中を荒らしたのは間違いなかった。
「家出セット」
「家出セット?」
ミュウは口を開けて口が閉まらなくなった。
「実力行使。母さんが魔女になるのを反対するなら、実行力をもって魔女になるの。今からイオおばさんの家に行って弟子になってしまえば、母さんだって反対できないでしょ。例え反対してもこのまま家に帰るよりもずっと有利よ」
「さすがお姉ちゃん」とは、まったく思わなかった。
小学生のミュウですら、そんなことが許されたり、通用したりするとは思わなかった。
「無理だよ、お姉ちゃん」
「じゃ、家に帰って母さんに反対されることね」
「うん。母さんを説得してみせるもん」
大変なことはわかっていたけど。このまま家出するよりはマシだと思った。
ミュウが自転車をこぎ出そうとすると、
「絶対に、あの人に押し切られる」
あの人という他人行儀な言葉がミュウの耳を打った。
「ライムがなんで朝、怒ったのか知ってる?」
ミュウは首を横に振った。あんなに怒っていて不機嫌で、見ているミュウの方が胸が締めつけられてしまうような、ライムお姉ちゃんは見たことがなかった。
「ライムはミュウぐらいの時、魔女になりたがっていたの。わたしは、おもしろ半分でつきあってただけだっけど。あの子は本気だった。でも、あの人のに、こう言われたの「普通になりなさい」って、あの子、良い子だから、あの人の言うとおりに、魔女をすっぱりあきらめた。それで、上級学校に行って熊五郎(アレックス)と会うわけだけど。あの子が熊五郎と付き合うのだって、あの人は猛反対したわ。「あんな熊みたいな不良はやめなさい」って。あの人が、あの子と熊五郎の仲を黙認するようになったの。最近のことなんだから」
ミュウは、不思議に思った。
ライムお姉ちゃんがアレックスさんを初めて連れてきたのは、上級学校の頃だった。そのとき、お母さんは嫌な顔ひとつしなかったはず。
そんな、ミュウの疑問に、答えを出すかのようにプラムお姉ちゃんは言葉を続けた。
「そりゃ、ミュウの見ているまえじゃ。あの人はボロを出さないわよ。なんにせ、ふ、つ、う、が一番らしいから」
ミュウは、胸の奥が痛くなってきた。プラムお姉ちゃんにお母さんを、これ以上、あの人なんて言って欲しくはなかった。
でも、お姉ちゃんはなおも続ける。
「ねぇ。これは、イオおばさんに聞いたんだけど。父さんとの馴れ初め知ってる?」
「ううん」
ミュウは首を横に振った。
なぜ、馴れ初めなんだろうと、疑問に思ったけど。プラムお姉ちゃんが話し始めると、ミュウは一言も聞き漏らさないように、耳を大きくするかのようにして話しを聞いた。
「あの人は、オールドリーフの大学生だったの。しかも、大学の先生になれるほどのね。東のくちばしに観光旅行に来ていて、ダンスホールで、たまたま来ていたお父さんに見初められて、ゴールインしたの。しかも、唯一の肉親のおばあちゃんには相談なしだし。大学おっぽり投げてこっちにそのまま住み着いちゃったのよ」
ミュウは、今のことを忘れて、すごくうらやましくなった。
何もかも捨てて好きな人と一緒になる。まるで、恋愛小説の主人公達そのままだった。
若い日のお母さんとお父さんの姿は思い浮かばなかったけど。二人がこの前の映画会で見た若者たちのような、サマードレスと派手な開襟シャツ姿でダンスする姿が思い浮かんだ。
「だから、今、ライムと熊五郎のことすごく警戒してる。自分のときのように駆け落ちしかねないから」
昨日の晩のことや、今日の朝のことがなければ、ミュウはプラムお姉ちゃんの言うことを信じなかった。
でも今は、ライムお姉ちゃんは、本当にアレックスさんのことが好きだから、駆け落ちぐらいやってしまうかもしれない、と思う。
「だから、ミュウのことだって潰しにかかるわよ。だ、か、ら、先手を打つの。今すぐ」
「でも」
それでも、ミュウは乗りに気にはなれなかった。でも、プラムお姉ちゃんも引き下がらない。
「少なくとも、ミュウがイオおばさんに弟子入りすることをアピールすることは必要じゃない?」
「え? でも」
「それにイオおばさんは本当にあなたを弟子に取ってくれるの?」
「大丈夫だもん」
ミュウは自信があった。
「それはどうかしら。土壇場になって、イオおばさんがあの人に遠慮するってことはないかしら? それにちゃんと、弟子にしてくれるって約束した?」
「それは……」
ミュウは言葉につまってしまった。
イオおばさんは笑顔で「ちゃんと、考えてますよ~」と、ミュウに聞かれるたびに答えてくれたけど、「弟子にする」とは一言も言ってはくれなかった。
ミュウは、それがイオおばさんの、少し意地の悪い悪ふざけのように思っていた。でも、そう言われてしまうと、不安になってくる。
「さぁ、どうする? イオおばさんにもミュウが本気だってことをアピールする必要があるんじゃない?」
ミュウは唸った。
唸ってはいたけど、もう答えはとっくに出ていた。あとは認めるだけ。ただ、その前にどうしても言いたいことがあった。
「わかった。わかったけど。なんでプラムお姉ちゃんはお母さんをあの人なんて言うの」
「え? 母さんは母さんよ。でも、私は私だから。自分の進む道にケチをつけられたくないじゃない。歳を取ったとき、やっぱり母さんの言うとおりにしていればって、うんと後悔するかもしれないけど。でも、歳を取ったとき、あのとき自分の思う通りにしていれば、なんて考えたくもないの。そうでしょ? ミュウ。ミュウはミュウ。他の誰でもないし、誰かに強制されたりするものではないでしょ」
ミュウは、何も言えなくなってしまった。プラムお姉ちゃんはめちゃくちゃだ。でも、今の言葉の中に正しいことがあるような気がした。
「私は、私」
ミュウは小さく呟いてみる。それはすごく当たり前なことなのに、新しい響きを持った言葉だった。
「それにね。ミュウ。今日私、正直いってあなたのこと見直しちゃった」
ミュウは、プラムお姉ちゃんの顔を見上げた。
「あの人に言い切られると思ったのに、私魔女になるもん、って、あれすごく良かったよ」
ミュウは照れくさくなって顔をそらした。
「で、さぁ? どうするの? あの人に言われるままでいるか、このままイオおばさんの家に行くのか?」
あえて、答えるまでもなかった。
3 実力行使
ミュウはリュックを背負って、おさがりの自転車を走らせた。
さかなのほね町に入る前から、畑に出ている人やすれ違う荷馬車の人が、自分をどんな風に見ているのかが気になった。
ミュウは、不安でドキドキしていた。
大人の人とすれ違うたびに、このことがもうとっくにバレていて、家に連れ戻されるのではないか、とか思ってしまう。これはちょっとした冒険だ。
冒険は順調に進み、さかなのほね町へと通じるスロープまで来た。すると、畑に描かれた緩やかなスロープの先から、奇声が聞こえてきた。唸るような叫ぶような声。坂道を駆け上ってくる自転車の集団が見えた。
首の後ろが猫のように逆立つ。さっきまでのドキドキは、もう、かけらもなかった。
小学校で同じクラスのムラーノとその取り巻きがやってくるのが見えた。
左右は畑になっていて、身を隠す場所などない。
ミュウは目を合わせないようにうつむきながら、向こうがこっちを気にしませんように、と心の中で祈った。
ムラーノたちは体を前に倒し、自転車を左右に揺らしながら走っていた。誰よりも速く、風よりも速く、駆け上がるため、男の子達は口々に吠える。
こっちを気にしないで。
ミュウの頭の中で、自転車の集団がミュウを囲むように止まる様子が思い浮かんだが、ムラーノたちは風を切って通り過ぎていった。
すれ違いは一瞬の出来事だったのに、ミュウにはとても長い時間のように思えた。
激しい自転車競争は、木立に入っても終わることなく。ムラーノたちの姿はあっという間に見えなくなった。
ミュウは安堵のため息をついた。
「台無し」
ミュウは不機嫌に口元で呟くと、何も考えたくなかったから、思いっきり自転車をこいだ。
さかなのほね町は、その名前からもわかるとおり、猟師の町だ。港を中心に扇の形に広がっていて、町全体が緩やかな坂になっていた。ミュウの先に青い水平線と、白い壁、オレンジ色のテラコッタが広がる。
ミュウは、港と平行に走る細い路地を港を右に見ながら走り、イオおばさんの家へ向かった。
イオおばさんの家は、物語に出てくる魔女が住むようなお城でも塔でもなかった。
『八番横丁施療所』と書かれた看板が出ているけど、白い壁にテラコッタの屋根は、周りの家とほとんど変わらなかった。ただ、テラスには季節ごとの花やハーブがあって、雨上がりには良い匂いがすることもある。
お下がりの自転車からおりたミュウは、緊張をときほぐすように息を吐き出した。
ドアノッカーの横には、小さな子供でも引ける呼び鈴があって、ミュウは一瞬だけ、小さな頃のことを思い出した。
この呼び鈴に気がつかないで、一生懸命ジャンプしたっけ。
今は、ドアノッカーかろうじて手が届く。
ミュウはドアノッカーを鳴らした。
「こんにちは、ミュウです」
しばらくあって、
「こんにちは」
すこしボソボソ喋る感じのするパーシが扉を開けた。
一つ年上のパーシは、イオおばさんの弟子になって一年近くになる。この前、ほうきで空を飛ぶ課題に入った、と言っていた。
「こんにちは、パーシ。おじゃまします。空はもう飛べるようになった?」
「残念ながらまだ当分は無理なようです。飛ぶ以前に、ほうきづくりの段階でつまづいていますから。中へ。今、すこし遅いお茶をはじめるところでしたから」
パーシは抑揚なくいつものように答えた。でも、これでも機嫌が良いのだ。
パーシは顔の半分が見えなくなるような大きな眼鏡をかけているおかげで、怒っているのか笑っているのか、不機嫌なのかわからないときがある。この一年でミュウはパーシと親しくなったからわかるものの。絶対、パーシはこれで損をしている、とミュウは思っていた。
このパーシがイオおばさんの弟子になったと、初めて聞いたときは驚いた。と同時にものすごく不安になった。
今までのように、イオおばさんの家に通うことができなくなるのでは? という不安もあったけど。
なんでパーシなんだろう? という思いがあった。
ミュウの通っている小学校はあまり大きくなかったから、一学年上でもパーシのことを知らない訳ではなかった。ただ、印象が悪かった。
四年生のとき、ミュウは図書館で借りた本を、つい学校の忙しさの中で返し忘れてしまったことがあった。図書委員のパーシは、ミュウのクラスにまでやってきて、いつものボソボソする感じの声で「ミュウさん三日遅れです。ちゃんと返してくれなければ困ります」と注意した。
今思えばそれだけのことで、本を返さなかったミュウの方が悪かったのに、その時は、パーシのことをものすごく意地の悪い人に感じた。そして、それはパーシがイオおばさんに弟子入りする話しをおばさんから聞かされたときもそうだった。
でも、パーシが弟子になった後も、いつものようにイオおばさんの家に通ううちに、違う考え方になった。パーシのことがだんだんわかって来るに従って、パーシがとても優しく、すごい真面目な性格で、本がとても大好きだということがわかってきた。
四年生の時のことだって、ミュウのクラスの委員が仕事をサボっていたのであって、わざわざ注意しに来たパーシは正しいのだと、自然に思えるようになっていた。
「早く飛べると良いね」
「なかなか難しいです。作ったほうきに合格をもらえませんが。物事は急がば回れ、だと思っています」
ミュウには、少しパーシがしょげたように思えた。
よっぽど、厳しいんだ。
いつもニコニコと優しいイオおばさんが怒るようなところは見たことはなかったけど、弟子になれば、きっと、イオおばさんも、学校の先生のように怒ったりするんだろうな。
ミュウは、パーシがいつもの居間を通り過ぎたことに気がついた。
「パーシ?」
「今日は書斎でお茶をするそうです」
ミュウは、ドキリとした。イオおばさんを驚かせる気は最初からなかったけど、イオおばさんはミュウが家出したことを最初から知っているような気がした。
魔女なのだからそれくらいは当たり前なのかもしれない。
ミュウは一歩歩くごとに緊張してきたのがわかった。
ちゃんと弟子にしてくれるよね。
もしかしたら、イオおばさんに怒られる?
ミュウの想像の絵筆は、イオおばさんの眉毛を思いっきりつり上げて、おばさんに怒った顔をさせたところで、止まった。
パーシが「失礼します」の声と一緒にノックしたのだ。
ミュウは、小さな頃からイオおばさんの家に通っているのに、おばさんの書斎に入れてもらえたことは片手の指で数えるほどでしかない。ミュウはそのことで駄々をこねたことはなかった。書斎には、居間のお菓子皿がなかったからだ。まるで魔法のように、イオおばさんの特製クッキーや、フィッシュマンマークの駄菓子が尽きないお菓子皿。そのお菓子皿は居間にしか置いていなかった。
ミュウが部屋に入った少ない記憶の中で、イオおばさんの書斎は、様々なハーブの臭いと古い本の臭いがする、いかにも魔女の書斎らしい部屋だったことを覚えている。
「ミュウが来ました」
パーシは礼儀正しく告げた。
その横顔を見ながら、もし、中から返事がなかったら、パーシはどうするだろう? と思った。
パーシのことだから、ずっとドアの前で立っているような気がした。
私も弟子になったら、きっとそうするんだ。
ミュウはその様子を思い浮かべて思わず微笑んだ。
部屋の中から「は~い」と、いつもの調子のイオおばさんの声がした。ミュウたちは書斎に中に入った。
大きい窓から海が見えた。部屋の左右の壁は本棚になっている。右側の本棚にはぎっしりと本が収まっていて、左の本棚は、大きな風景画が立てかけられていたり、何に使うのかよくわからない道具などが本と本の間に置かれていた。
中央には、大きな丸テーブルがあって、イオおばさんは椅子に腰掛けていた。
「こんにちは、イオおばさん」
「こんにちは、おチビさん。ずいぶんと大きい荷物ですね~」
イオおばさんは笑顔でそう言ったけど、ミュウにはその笑顔にはいろいろな意味があるような気がした。
言わなくちゃ。
ミュウは自分にそう言い聞かせて、
「あ、あのイオおばさん。私……」
いつものように声が出なくなりそうになったけど、お腹の底から、
「魔女になるために、私、家出してきました」
「えー?」
ガラにもなく大声をあげたのはパーシの方で、イオおばさんは何度もうんうんと笑顔でうなずいただけだった。まるで、ミュウがこう言うのを知っていたかのようだ。
「でも。困りましたね~」
「え?」
ミュウは全身が固まったようになった。
「私には、今、パーシがいます」
そんな。
ミュウは言葉が出てこなかった。
聞き間違いかと思った。イオおばさんは、いつものやさしい表情のままだ。
もしかすると、本当に聞き間違いかも。
そんな風に、かすかな望みを心の中でつかもうとした時。
「ミュウには申し訳ないですが」
イオおばさんは、ミュウの一番恐れていた言葉を静かに言った。
ミュウは、パーシが弟子になったときから、イオおばさんの弟子にしてもらえないのでは、と心配して眠れなかった日もあった。
イオおばさんは考えてますよ~、と言うだけで、本当に今までミュウを弟子にすると一言も言っていない。そのことにはミュウも気がついていた。
「でも、大丈夫。あらら、泣かないで」
ミュウは、ぼろぼろこぼれてくる涙を我慢できなかった。
「ミュウには、東のくちばし一の魔女を紹介したいと思いま~す」
「私……イオおばさんの弟子になりたかったのに」
ミュウの声は嗚咽に半分消えかかった。ずっと小さな頃から思い続けてきたことなのに、こんなにも簡単に片づけられてしまうなんて。
「おや。ミュウは魔女になりたいんじゃないですか?」
イオおばさんの、ひどく静かで響く夜の凪いだ海のような声に、ミュウはそれ以上泣き出してしまうのをこらえた。
「それとも。私の弟子になりたいだけですか?」
ミュウは何て言っていいのかわからずに涙をこぼすだけだった。
「私はよく考えました。ミュウが魔女になりたいと言ったときから、六年間ずっと考え続けてきました」
イオおばさんはミュウに歩み寄って、目線をミュウに合わせた。
「ミュウが、ただ私の弟子になりたいのなら、それはそれで良いでしょう。でも、ミュウは魔女になりたいのでしょ?」
ミュウは、イオおばさんの弟子になって魔女になりたいんです、と言いたかったのに、言葉が出てこなかった。
初めてイオおばさんが怖いと思った。
おばさんが別に怒った顔をしていた訳じゃなかった。逆に優しい顔だったけど、その青い目が怖かった。引き込まれてしまうくらいに澄んだ青色。
「それとも、ミュウはただ私の弟子になりたいだけですか?」
イオおばさんはそれっきり黙った。
ミュウは、イオおばさんが答えを待っていると思った。
答えなきゃ。
後悔しないように答えなきゃ。
後悔しないように。
ミュウは心の内にある言葉を声にした。
「私は、魔女になりたい」
その言葉を発すると胸の奥がすっと楽になった。今まで胸の奥にあったことをすべて出してしまったかのようだった。
イオおばさんは笑顔で大きくうなずいて、
「さぁさぁ、涙をこれで拭いて。ここに座って、これをお飲みください」
イオおばさんに言われるまま椅子に腰掛け、銀のコップの中に入っていた飲み物に口を付けた。ミントの香りがする冷たいお茶だった。
「さぁ。では、今から、注意しなければならないことを教えてあげま~す」
「え?」
「東のくちばし一の魔女の弟子になるには、注意しなければいけないことがあるのです。それは、それは、とっても恐ろしい魔女ですから。弟子になるにも一筋縄ではいきませ~ん」
ミュウはごくりとつばを飲んだ。
成り行きを見守っていたパーシが、訊いた。
「東のくちばし一の魔女とは、オババ様のことではないのですか?」
ミュウもパーシがそう言ったので、東のくちばし一の魔女はオババ様のことだと思った。
オババ様は、東のくちばし地方で一番高齢な魔女だ。毎年春に開かれるさかなのほね町の港祭りのとき、イオおばさんの家にやってくるから、ミュウも何度か会ったことがあった。
ミルクのように白い髪の毛と、しわが古い木のように刻まれた肌の、いかにも魔女のおばあさんと言った感じの人だったけど。怖いとか恐ろしいとは一番無縁で、クッキーとパンの匂いがするおばあさんだった。
いつも優しい笑顔で、ミュウを実のひ孫のように扱ってくれたし。祭りの間中、イオおばさんの家に訪ねてきた魔女達はみんな、オババ様を敬愛していた。
イオおばさんの言う東のくちばし一の魔女は、オババ様以外にいないような気がした。
でも、
「オババ様ではないですよ。オババ様はもう弟子をおとりにならないそうですから」
「え?」
「もしや」
そう小さく呟いて、ミュウの隣のパーシが、ふらついた。
ミュウはすごく嫌な感じがした。
「パーシ知ってるの?」
「ええ。何度か訪ねられてきましたから」
「パーシ。まだ会う前からおチビさんに、変な印象を持たれても困りますよ」
「はい。すみません」
「でも、東のくちばし一の魔女の名前を言わなかったのは賢明で~す」
「え?」
どういう意味だろう?
「おチビさん。魔女の名は魔女本人から聞くのが一番なのです。魔女の弟子になるのならこれくらい知っておいても損はないですよ~。名前はすべてを表すものですから」
イオおばさんはニヤリと笑った。
「さて話しを元に戻しましょうか。あれ? どこまで話しましたっけ?」
「東のくちばし一の魔女の注意です」
とパーシ。
「あ、そうね。注意しなければいけないことがありま~す」
「注意すること?」
ミュウはオウム返しに聞いた。
「はい。でも、たったの一つです。東のくちばし一の魔女は、あらゆる手を使ってミュウを弟子にしないようにしま~す。それが悪口であることもあるでしょうし、つらく当たることでもあるでしょう。でもそれにくじけてしまってはいけませ~ん。さっきおチビさんが私に言ったことを覚えていますか?」
「え? 魔女になりたいこと?」
「そうです。もう一度言ってみてください。さっきのように」
「え、えーと。私は、魔女になりたい」
ミュウは、頬に熱を感じた。
イオおばさんは腕を組んで唸る。
「だめです。照れてはいけませ~ん。恐ろしい東のくちばし一の魔女も、私も、本気なのですから~」
ミュウは小さく息をついてから。
「私は、魔女になりたい」
ミュウは心の中が、晴れ渡った空のようになって、澄んでいくような気がした。
4 ミュウと魔女
前髪がおでこにくっつくのも、もう気にはならなかった。
自分の吐く息の音しか聞こえない。
ミュウは自転車を押して坂道を上った。汗が目に入って痛い。涙が止まらない。シャツは体に張り付き、背中のリュックサックはまるでストーブのように熱い。
ミュウは、イオおばさんに言われたとおり、ウィッシュボーンに向かって自転車をこいだ。東のくちばしで一番大きな街のウィッシュボーンに、東のくちばし一の魔女が住んでいるからだ。
でも、そこに至るまでの道はなだらかではなかった。それこそ山あり谷だった。
さかなのほね町とウィッシュボーンは、地図の上ではお隣の街だけど、その間には、東のくちばしで一番高い山、トッタン山があって、ウィッシュボーンへはトッタン峠を越えなければ行くことができなかった。
イオおばさんに、自分の足で行かなくては門前払いされてしまいますよぉ、と言われたから。ミュウは一人、トッタン峠を登っていた。
最初、バスで行くことも考えたけど、ミュウはお金を持ってきていなかった。ウィッシュボーンまで行けるお金は、たしか貯金箱に入っているけど、その貯金箱は家の自分の部屋に置いてきてしまっている。
今、家に帰ってしまっては、元もこうもない。
ミュウは自転車を押して、トッタン峠を越えることにした。
ミュウはお父さんのトラックに乗って、ウィッシュボーンへ買い出しのお手伝いをしたことを思い出していた。そのとき通った道が、こんなにも辛いものだとは思わなかった。自転車に乗っていては、ほとんどの坂を登ることができずに、押して上がるしかないのだ。
足が重い、もう歩きたくない。
何度登って何度下ったのだろう?
なんで、私こんなことをしてるんだろう?
ミュウは、自転車を押し続けた。すごく惨めな気分だった。
もう、やめちゃおうかな。魔女に……。
ミュウは二本にしばった髪の毛が揺れるような勢いで頭を横に振った。
「魔女になる」
そう、魔女になる。
「魔女になるんだから」
ミュウは涙まじりに声を上げると、坂道を一歩一歩踏みしめながら自転車を押し登った。
長い急な坂を登り切ると急に視界が開けた。
風がミュウの頬に優しい。
「わぁ」
目の前に、青い海に面したウィッシュボーンの街が横たわっていた。
テラコッタの屋根は、まるでオレンジ色の貝殻を白い砂浜いっぱいに並べたかのように見える。
ウィッシュボーンの街の左端から、日の光を浴びながら魚のようなものが空を飛ぼうとしているのが見えた。空港から、飛行船が飛び立とうとしているのだ。
ミュウは、言葉もなく見とれていた。
息がだいぶ落ち着いてくると、今までの疲れが嘘のようだった。
ウィッシュボーンの街が、ご褒美をくれたのかもしれない。
もう、惨めな気はしなかった。
「行かなくちゃ」
ミュウはウィッシュボーンに向かって笑顔で坂を下りはじめた。
◇ ◇ ◇
ミュウはせっかくウィッシュボーンの街までたどり着いたのに少し焦っていた。
街に入るころには日が陰ってきたのだ。もう、とっくに夕飯の時間だった。
プラムお姉ちゃんが、家出したことをお母さんたちに伝えてる頃かも。
きっと大騒ぎになっている。
しかも、プラムお姉ちゃんは、ミュウの家出先をイオおばさんの家だと思っている。
ミュウはそこまで想像すると、笑いたくなった。
プラムお姉ちゃんも、きっと驚く。いつも驚かされっぱなしのプラムお姉ちゃんを、逆に驚かせることができると思うと、少しだけ家出をしたことの罪悪感が晴れるような気がした。
でも日が暮れてしまう前に、どうしても東のくちばし一の魔女の家に着きたかった。よく知らない街の夜をさまよいたくはなかった。
ミュウは三度も標識を確認しながら、イオおばさんの言われたとおりの道を進み、やがて『ネジ山通り』という通りに出てきた。
道を渡ろうとして左右を確認する。
人の数も多いけど、車の数も多かった。
何かに見とれていたり、迷ったりしていると、人にぶつかるか、車にぶつかるのではないか、とか思ってしまう。
ミュウはイオおばさんのくれた地図に、目印がついている大きな時計屋を右手に進み。『ネジ山施療所』の文字を見つけた。
「見つけた」
ミュウは自然に笑顔になった。
『ネジ山施療所』は、角地にある普通の家のように見えた。
イオおばさんの『八番横丁施療所』も、見た目は普通の家なのだから別におかしいことではないけど。東のくちばし一というくらいだから、少し期待外れだった。
ミュウは、ドアノッカーを背伸びして鳴らした。
「はい、どなた」
すぐに、女の人の声が聞こえた。
「あの。私、ミュウと言います。で、弟子にしてください」
「弟子? それは無理ですね」
「え?」
ミュウはイオおばさんに言われたことを思い出した。
「弟子にしてください」
ミュウはあきらめずに扉に向かって叫んだ。
「絶対に無理です」
「どうして? 無理……」
ミュウは最後まで言うことができなかった。
扉が開いて出迎えに立っていたのは、一羽のカササギだった。
夜の闇よりも黒い羽と、雪よりも白い胸のカササギ。そのカササギが言った。
「この通り。私には弟子はとれません」
ミュウは怯まなかった。魔女がカササギに化けていると思った。
「弟子にしてください」
「困ります」
ミュウにはカササギが本当に困っているように見えた。
「マスター、どうしましょう?」
カササギは部屋の奥に声をかけた。
マスター?
「折り紙のあなたの弟子になりたいという変わり者なら、それでもかまわないけど。そうではないでしょう。奥に通しなさい」
そう言う声が聞こえてきた。
ミュウは顔から火が出るのではないかと思った。
「では、こちらに」
「は、はい」
ミュウはカササギの後に続いて歩いた。
ミュウの後ろでひとりでに扉が閉まって、びっくりした。
とても綺麗な家だった。フローリングもピカピカにワックスがかけられている。
こんな家に住んでいる魔女はどんな人なんだろう?
カササギはミュウを置いて、さっさと歩いていってしまう。ミュウはあわてて後を追った。
前を歩くカササギはどこをどう見ても、本物のカササギにしか見えなかった。
あのマスターと呼ばれた女の人は、折り紙だと言っていたけど。
ミュウのそのつぶやきは途中で、固まった。
廊下の姿見に映ったカササギの姿は、黒い紙で折られたカササギそのものだった。
「魔法なんだ」
ミュウは驚きよりも、憧れで胸がわくわくした。
「失礼します」
カササギが礼儀よく部屋に入るのを見て、ミュウは礼儀正しく頭を下げてから部屋に入った。
綺麗に整頓された居間だった。ソファーで無造作に長い足を組んだ若い女性いた。
眼鏡の下の目が鋭い感じがしたけど、とても美しい人だった。長い黒髪が少しウェーブしていて、その目の感じといい、獅子のような気高い感じがした。
前にどこかであったような気がしたけど、思い出すことはできなかった。
「あ、あの」
「言わなくてもいいわ。座ったままで失礼するけど、あなたがここに来た理由は知っています」
「それじゃ」
「答えは、否」
「いな?」
「弟子は取らないわ」
「なぜですか?」
「お客様がお帰りです。家の外まで送ってあげて」
「はい、わかりました」
カササギが両方の翼を広げてミュウの方に迫ってきた。
広げられたカササギの翼は、ミュウが両腕を広げたくらい大きく、思わず後ずさりしてしまう。
その瞳も、さっきまでの愛らしい黒い真珠のようではなく、どう猛な光を帯びている。
「ちょっと待ってください。なぜダメなのですか?」
「魔女には向いてないから。思慮には欠けるし、心もけして強い方ではない。あまり才能があるとは思えない」
ミュウは、突き落とされるような気がした。
でも、
「魔女になりたいんです」
ミュウは、カササギが飛び上がるような大声で叫んだ。
魔女はこめかみに人差し指と中指を当ててため息をついた。
「全部それで乗り切るつもり? それもいいでしょう」
魔女は優雅に立ち上がった。
ミュウはごくりとつばを飲んだ。
ま、まるでこの人と戦うみたい。
「戦い。そうかもしれない。でも最初にしかけてきたのは、そちらでしょ」
ミュウは、魔女を見たまま何も言えなくなった。
え? どうして?
「あなたの心くらい読めて当然。私は魔女なのだから」
魔女の目がつり上がっていくような気がした。
ミュウはごくりとつばを飲んだ。
「で、魔女になったら? どうするつもりなの。あなたは」
「え? 魔女になったら? 魔女になったら、たくさんの人たちを助けたいんです」
「は、なんて傲慢な」
傲慢?
ミュウは初めて聞く言葉で、何と言っていいのかわからなかった。
魔女は、表情を崩し、
「自分が何でもできると勘違いをして、身勝手な考え方をする人のことよ。魔女がすべてを助けられると思ったら大きな間違い。助けられるのはごくごくわずかな人だけ」
「でも、それじゃあ。自分ができるところで……」
「ふぅん。あなたのことをチビと悪く言うハマーって子が、担ぎ込まれたらどうするの?」
「え?」
ミュウは息をするのも忘れた。
「あなたの足を引っかけようと、いつもねらっているバーキンは? 悪口を言ったり蹴飛ばしたりする乱暴者のムラーノは? あなたに嫌がらせをしていることを知っていてそのことを無視するクラスメイトは? 彼らが病気になって担ぎ込まれたらどうするの?」
ミュウは震えていた。
頭の中がちかちかして、何も考えることもできなかった。
魔女は、冷たく言い放つ。
「魔女になれば、いくつもの呪いが使えるようになる。あなたの背が低いことをからかった子の背を奪うこともできる。あなたの足をねらう子の足を萎えさせることも。事実から目をそらす者からは光を奪うことも。あなたの悪口を言った子から言葉、蹴飛ばす子からは足、殴るのならその手を、一つずつねじ取ってしまうことも。思いのまま」
ミュウの胸の奥で熱い炎の嵐が巻き起こった。
なんで、そんなひどいことを言われないといけないの。
どうしてそんなひどいことを。
「私は、魔女になって、苦しい思いをしている人を助けたいだけなのに」
もう涙を我慢することはできなかった。
「それは、本当?」
ミュウは嗚咽に、言いたいことが飲み込まれそうになりながら、叫んだ。
「嘘なんかじゃない。苦しい思いなんかしたくない。助けることができたら助けたい」
ミュウは両手で顔をくしゃくしゃに拭った。
魔女に手をつかまれた。最初、弾こうとしてつかまれた手に、冷たくて、でも、なぜか毛布のように暖かな感触が伝わってきた。
この感触は知っていた。
イオおばさんに初めて出会ったときにおでこに置かれた手の感触。
毎年、やってくる風邪の時、お母さんがおでこに置いてくれるあの手の感触にも似ている。
心の中にあった炎の嵐のような怒りや、悲しみが、急になくなったりはしなかったけど、遠くに離れていく雷雲のように、今は遠くの方でかすかに燃えているだけだった。
ミュウは、背の高い魔女を見上げた。
「あなたの気持ちは良くわかったわ。ここまで言われても、まだ、あなたが私の弟子になりたければ、勝手になさい」
ミュウは下唇をかみしめた。
魔女の氷のように冷たく、刃物のように鋭かった目の印象は、今もあまり変わらなかったけど。でも、今はミュウを傷つけるためのものではなかった。
獅子のように美しく、高貴な感じがした。
でも、その手はあたたかい。
ミュウはじっと魔女の瞳を見ていたけど、魔女はその目をそらすことは絶対になかった。
どれくらい、魔女の目を見ていたのだろう?
ミュウにはもうわからなかった。でも、答えは自然に口をついて出た。
「はい」
魔女は、ミュウの手を両手で包んだ。
「私の名前はアプリリア」
「アプリリア?」
「そう。本当に私の弟子になるのなら、二つの約束を守ってもらうわ。いい?」
「は、はい」
「泣かない。けして、あきらめない。魔女の修行は楽ではないし、魔女になった後もけして楽しいことばかりではないわ」
アプリリアの声の中、瞳の中、握られた両手の中に、様々な想い、感情が揺らめいた。ミュウの「はい」の返事も少し躊躇いがちになる。
「じゃ、最後にあなたの名前を聞かせて」
「ミュウです。風車大工マムートの娘、ミュウ」
「そう。ミュウ」
ミュウは生まれてからずっと変わることのない自分の名前を呼ばれただけなのに、ものすごく違和感を覚えた。
アプリリアは初めて微笑んだ。
「才能が全くないということはないようね。でも、やらなくてはいけないことはいっぱいあるわ。ミュウ。あなたのご両親の説得もあるし。小学校は卒業していてもらわないといろいろ不都合があるし。家出ではなく、引っ越しをしてもらわないといけない。とりあえず、顔を洗って、それからお茶を飲みましょうか」
「はい、アプリリア先生」
ミュウは気がつかなかったけど、アプリリアの頬が少しだけ赤くなった。
5 ミュウと憧れの魔女
「遅くなったけど。今から家に送るから入口で待っていなさい」
そうアプリリア先生に言われたとき、ミュウは自分が、物語の主人公になったような気がしていた。
ミュウが思い出したお話しは、病気の母親のために、森の中へ薬草を取りに行った男の子が、苦難の末、森の支配者である魔女と出会い。命を賭けた知恵比べをして、勝利して薬草を分けてもらい。帰り道を魔女に送ってもらうのだ。
魔女になりたかった自分が魔女の弟子になって帰る。どこか似ているような気がした。
確か、その物語に出てきた魔女が、村まで送ってくれる乗り物は、黒猫が化けた空を駆ける黒彪だった。
アプリリア先生の場合。カササギが化けた竜だったりして。
そんな想像をしていると。すっかり暗くなったネジ山通りに、トラックが入ってきた。
「え?」
ミュウは固まった。運転席にいたのはアプリリア先生だった。
アプリリア先生とトラックの取り合わせは似合わないように思えた。
「似合わないかしら?」
「え?」
と言ってしまってから、あわてて「いいえ」とミュウは答えた。
先生は、トラックから降りると、ミュウの自転車を荷台に積み上げ、ロープで手際よく固定した。
まるで魔法のように、しっかり自転車がロープで止められていく。ミュウのお父さんやお父さんの助手よりも、アプリリア先生のロープの使い方は上手かった。
「ミュウ。私はあなたのことをまだよく知らないし、あなたも私のことをよくは知らない。すべてを知ることはできなくても、少しづつでも知ってお互いを理解する必要があるわ」
「は、はい」
「それに、これは物語ではないのだから。竜に乗って家に帰る必要はないでしょう。さぁ、乗って」
ミュウは頬が赤くなった。
「あ、あの先生」
と言ってしまったあとで、ミュウは言わなければ良かったと思った。
「何?」
「え、あの、その」
「今日はおまけで、何でも答えてあげるのに」
そう言うものだから、ミュウは言った。
「先生たち魔女は、今みたいにいつでも心が読めるんですか?」
「さぁ」アプリリア先生は肩をすかしたあと、「と答えたいけど。私は、一度もあなたの心を魔法で、のぞいてはいないわ。多分イオもそうじゃないかしら」
「え?」
「施療師になれば、たくさんの子どもたちの相手をするし、無理をしてでも仕事をしなければいけない大人たちに会うこともあるわ。子どもは苦い薬、注射器から逃れるために嘘をつくし。大人たちはしなくてはならないと思い込んでいることのために軽く装う。そういうとき、それらを正確に見抜く技術が必要になるの。これもその応用。それで答えになるかしら」
「そうだったんですか」
イオおばさんがすぐに考えていることを当てたのも、アプリリア先生が当てるのもそういうことだんだ。
「そう、それにあなたは特別顔に出やすいタイプだから」
「え?」
ミュウは顔を真っ赤にして唸りたくなった。
「あなたのことは、三年前からイオに聞いて知ってたわ。あなたが男の子たちにちょっかい出されていたこともイオは知ってる」
ミュウは、うつむきたくなった。
「でも、あなたがイオに話さない限りイオは訊こうとはしなかった。この先もずっとそう。男の子たちに立ち向かっていくのも、ここで引いてしまうのも、別の答えを見つけるのも、みんなミュウが自分でやらなければならないことと決めたから、とイオは言ってたわ」
「そんな」
ミュウはどう言ったらいいのかわからなかった。
アプリリア先生の言うような、自分で決めたから周りの大人の人に相談しなかったわけではなかった。
ただ言い出しにくかっただけだ。お父さんにも、お母さんにも、イオおばさんにも心配なんかかけたくなかったからだ。
「復讐するのも良いかもしれないわ」
「そ、そんな」
ミュウは恐ろしげな言葉に身を縮めた。先ほどのアプリリア先生の言葉を思い出す。
「自分でどうにかします」
どうにかしなくっちゃ。
ミュウは気がついていなかった。イオおばさんの言う通りになっていることに。
「そう。さぁ、乗って。あと一つ注意しておくけど、魔女たちは心をのぞく魔法を知っているけど、けして使うことはないわ」
「え? どうしてです」
心がのぞければ色々便利なのに、とミュウは思った。
「それを知っていくのも、魔女修行の課題の一つといったところかしら」
アプリリア先生は微笑んだ。
ミュウは、アプリリア先生のトラックに揺られながら、我が家へと向かった。
トラックとは言っても、アプリリア先生のトラックの座席にはパッチワークの座布団がしいてあって座り心地が良かったし、お父さんのトラックのようにほこりっぽくもなかった。
その理由を、ミュウは後になって、トラック掃除を手伝うことで知ることになる。
すっかり、夜の闇に覆われた丘が見えてきた。その先の、すべての明かりがつけられた我が家が、美しい、とミュウは思った。
家の中から飛び出してくる人が見えた。
最初、プラムお姉ちゃんだと思ったけど、違っていた。
「お母さん」
ミュウがそう言ったときには、トラックはもう止まっていた。
「さ、気をつけて降りて」
アプリリア先生に「うん」とうなずいたミュウは、胸が痛くて、どうしようもなかった。
お母さんは泣いていた。
ミュウはトラックから飛び出してお母さんに駆け寄った。
「ごめんなさい」
ミュウは、涙を我慢しながら言った。本当なら泣いてしまいたかったけど、アプリリア先生が後ろで見ている。
ミュウはお母さんに力いっぱい抱きしめられた。
「はじめまして。ウィンドミル御夫妻」
アプリリア先生の声が聞こえた。
「今晩は、魔女殿」
お父さんは、まるで、さかなのほね町の村長と話すような感じで言った。
「ミュウを、私、アプリリアの弟子としました」
そのアプリリア先生の声はどういうわけか、心の奥底まで響いてくる鐘のようだった。
ミュウはお母さんが気になった。
お母さんの顔を見ると、お母さんはミュウの顔を包み込むようにした。
お母さんの泣きはらした目がミュウをじっと見た。
「私の娘ですものね。あなたは」
ミュウは、波のようにやってきた感情を我慢するように、お母さんを力いっぱい抱きしめた。
「アプリリア殿、私どもの娘をどうかお願いします」
「わかりました。私の母親の名にかけて、ミュウを魔女にしましょう」
「アプリ先輩」
プラムお姉ちゃんの声。
「あら。あなた達の妹とは。何かの巡り合わせかしら。そう言えばよく似てるわ」
「妹をお願いします」
ライムお姉ちゃんがそう言った。
ミュウが顔を上げると、アプリリア先生の顔がすぐ横にあった。
「ミュウ。お母様を悲しませるのはこれで最後にしましょう」
「はい」
「ミュウが小学校を卒業したら、また迎えに来ます。その時まで」
「魔女殿、お茶でも」
「来年の港祭りの時には、ぜひお伺いしましょう」
「先輩、堅ッくるしいこと言わずに」
「プラムったら」
「あいかわらず二人とも元気そうね。逆に、今度、お茶にでもいらっしゃい。じゃ、ミュウしばらくのお別れ。また会いましょう」
さようなら、と言いかけて、ミュウは、
「またです。アプリリア先生」
と大きく手を振った。
ミュウと嵐の魔女
1 魔女のたまごのミュウ
小学校を卒業したミュウは、とうとう魔女になるための最初の一歩。魔女見習いである魔女のたまごになることができた。
魔女のたまご。
その言葉の響きはミュウをくすぐったくさせる。ミュウが言葉や、ものの名前を覚える前から、夢中になっていたラジオドラマ「おはようの子どもたち」に出てくるウサギのリリと、やっと一緒になれたのだから。
でも、ウサギのリリと違って、本物の、魔女のたまごには、いっぱいやることがあった。
ミュウが住み込みをしているアプリリア先生の家の掃除はもちろんのこと。料理、洗濯も、すべて弟子のミュウがやらなければいけない。それこそ、魔女たちがみな黒い三角帽と黒い服を着ていた時代から、魔女の弟子というものは、師匠の家の家事を引き受けるものだった。
しかも、家では適当に済ましてしまったことも、先生の家ではそうはいかない。
イオおばさんが、魔女になるには、料理、洗濯ができないといけないと言っていた理由がわかったような気がした。
魔女の師匠であるアプリリア先生は、一言で言えばやり手。しかも美人。自分自身に向けられた厳しさが表に現れていて、それが、あの獅子のような威厳をあたえている、とミュウは考えるほど。もし、今、ミュウに尊敬できる人を一人だけ挙げてみなさいと聞いたら。アプリリア先生の名前を挙げただろう。
でも、ミュウはアプリリア先生に少し注意されただけで震え上がってしまう。
ただ厳しいだけの人じゃないことは、わかっているつもりなのに、怖かった。
その、わかっているつもりを、よくわかるに変えていくのが、食事の後に開かれる「語らい」の時間だった。
ミュウがアプリリア先生の家に来て、一番最初の食事の後。先生はミュウにこう言った。
「これから食事の後やお茶の後、忙しくないようだったら、「語らい」をしましょう」
「語らい?」
「そう。「語らい」は、お互いを知っていくためにするの」
「知っていくためですか?」
思わずオウム返しになってしまった。先生はそれに気を留めずに、
「そう。知り合っていくために必要なこと。相手を知らないことが、恐怖につながることは少なくないの。そのほとんどの恐怖は憎悪に変わり。どのような形であれ、最後は、相手を傷つけることになる。逆に、恐怖する前に知ることから逃げてしまうことも可能だけど、それは魔女としても人としてもどうかしら。ミュウ。わたし達は理解し合わなければならない。そして、様々なことを学び、見て、体験して、知っていかなければならない。季節のうつろいゆくさま、大地の息吹、つまらないと思っていた石ころの中に眠る真実。知っていくことが、退屈よりも喜び、苦痛よりも快楽を多く伴っていることを知らなければならない。でも、すべてを知り得ることなどできないし、わたし達は魔女であって竜ではないのだから知る必要もないのだけど。ただ、知ることから背を向けてはならない。まずは、私とミュウが知り合わなければいけないわ。あなた、わたしのことが怖いでしょ?」
アプリリア先生が、長い言葉の最後に微笑みながら口にした言葉に、ミュウは恥ずかしさと、いたたまれなさに、うつむかなければならなかった。
アプリリア先生の言うとおり、ミュウは先生が怖かった。
「私も少しずつ子どもの頃のことから話していくから。ミュウ、あなたも、ご家族のこと、友達のこと、あの老いた狸のようなイオのことを教えてくれる? それであなたがどういう魔女のたまごなのか、その手がかりや道しるべになるし。私が少なくとも、ただ、ただ、怖いだけではないこともわかるはず」
アプリリア先生のイオおばさんへの悪態のつきかたは、普段の先生からは想像できないほど、からかった言い方だった。意外な先生の一面を見たような気がした。
そう言えば、イオおばさんもアプリリア先生のことを、それはそれは恐ろしい魔女と言っていた、ような気がする。
お互いの悪口を明るく言い合える仲って、素敵。
先生ともそういう仲になっていけるのかな? なってゆきたいな。
ミュウは少しだけ想像して楽しくなった。
それからというもの、毎日三回、多い日にはお茶の時間も入れて五回も「語らい」の時間があった。
ミュウは最初の一週間、家族のこと、小学校の友達や、大好きな「おはようの子どもたち」を中心に話しをできたけど。二週間目に入ると、それも辛くなってきた。
その日の朝食も、いつものように、アプリリア先生と語らわなければならなかった。
もう慣れっこになっていても良いのに、ミュウは胸の辺りが、どこまでもどこまでも引き延ばされていくような緊張を感じていた。でも、今までとは訳が違う。
もう、話すことがないよ。
ミュウは、朝からため息をつきながら食後のお茶の準備をしていた。お湯をポットに入れてお茶の葉を蒸らす。頃合いを見て、先生のカップと、自分の家から持ってきたカップに、緑色のお茶を注いだ。
何を話すのか考えなくっちゃ。
五年生のときに夢中で読んだ「偉大な冒険家シリーズ」の話しは、おととい。
プラムお姉ちゃんに、香水を飲まされた話しは、もうやった。
どうしよ~。
カップに注ぎ込んだお茶のいい香りが、あたりを優しく包みこんでゆく。ミュウの家のお茶とは違っていたけど。アプリリア先生の家にも、朝食の時にお茶を飲む習慣があるのは本当に嬉しかった。
そうだ、お茶の話しをしよう。
そう思うと、ミュウは「語らい」の時間が、もう無事終わったかのような気分になった。
でも、
「えーと」
ミュウは、自分の前に置いたカップと、アプリリア先生の前に置いたカップを交互に見ながら、言葉をつまらせた。
お茶と言っても、何から話せばいいのかがわからなかった。
「ミュウ。緊張することはないわ。ただ、「おはようの子供たち」の魔女の話はもうたくさんよ。ウサギのリリに、クマのウーフ以外にボーイフレンドが三人もいたことは意外だったけど」
アプリリア先生は冗談のつもりで言ったのだろうけど、基本的にアプリリア先生の冗談は、あまり上手じゃないとミュウは思う。
ミュウは考えが逸れそうになって、あわてて元に戻した。
あっ。
ミュウは今さら大変なことに気がついた。お茶の話しをしようと思っていたのに、ミュウは自分の家で使っているお茶の銘柄すら知らなかった。
「えーと」
アプリリア先生は表情を崩すと、
「じゃ、今日は、私の方が話そうか?」
「え?」
ミュウは、ほっ、とするのと同時に、どんな話しが聞けるのか、嬉しくなった。互いに知り合っていくための「語らい」の時間なのに、アプリリア先生が今まで話してくれたのは二回だけ。しかも、内容はこんなだ。
アプリリア先生が、実は、飛行機のメカニックでもあること。
今、家の倉庫では三百年前に造られた飛行機が先生の修理を待っていること。
先生が、甘いもの好きなミュウから見ても、しびれてしまうほどの甘党なこと。
最近お気に入りのケーキ屋は、来春ミュウのお兄さんになるアレックスが勤めている「オーギュストの子ども」。
ウィッシュボーンのお菓子屋はすべてチェック済みということ。
コーヒーには必ず角砂糖を四つ以上、ミルクは半分以上いれること。
お肉、お魚は、あまり好きではなく、野菜が大好きなこと。
など、など。
およそ、ミュウが一番聞きたかったアプリリア先生の魔女としての活躍とは、ほど遠いものだった。
「私の三人の母について語りましょう」
「え? 三人」
「そう。私には三人の母がいるの。生みの母と、育ての母。魔女の師匠の三人。二人目はミュウもよく知っている人よ」
誰だろう? わたしの知っている人? 小学校の校長先生?
ミュウがいろいろと頭の中で想像しているのを無視して、アプリリア先生は話し始めた。
「私の生みの母は、若くして施療師になった魔女で、ソルトスイーティーでは有名人だったらしいの」
ミュウの中にアプリリア先生とそっくりな女性が思い浮かんだ。
「でも、死んでしまったわ」
「え?」
ミュウはびくっとした。
「私を生んだときにね」
ミュウはごくりとつばを飲み込んだ。ミュウが生まれるずっと前に、東のくちばしで一番の施療師と呼ばれた魔女ラベルダも、産後の肥立ちが悪くて亡くなったと聞いたときのことを思い出した。
「あ、あの」
「ミュウ。話しはまだ始まったばかりだけど」
アプリリア先生の表情が、眼鏡の反射でよくわからなかった。
ミュウは小さく「はい」と答えた。
「あなたの言いたいことはわかるわ。でも、私には、私を生んでくれた母親の記憶がないから、今ひとつ実感というものがないの。続けるけど良い?」
「は、はい」
「私の父は、大学教授だったらしいけど。自分のせいで母が亡くなったと思いこんでいたらしいわ。それで、生まれてきた私を一流の魔女に育てるために、ソルトスイーティーの魔女に占ってもらったり。ディープグリーンフォーレストの魔女会議に行ってみたり。仕事を棄て、王国中を旅したらしいわ。最後の最後に、この東のくちばしに来たの。父は大ババ様に頼み込んで、私を最後の弟子にしてもらったそうよ。字の読み書きがやっとできるようになった私をね」
アプリリア先生はお茶を一口飲んだ。
「それで、どうなったんですか?」
「私の面倒観てくれたの。誰だと思う?」
「え? 大ババ様じゃ」
「いいえ。さっきも言ったように、あなたもよく知っているわ」
「え?」
ミュウは考え込んでしまった。アプリリアは苦笑して。
「五年くらい前、毎月オールドリーフからイオに小包が届かなかった? 十字に組まれた大砲の上に、双頭の鷹が乗った烙印がなされているの」
「あ、何となく覚えてます」
「あれは、私がオールドリーフでしか手に入らない薬草を送っていたの」
「まさか、イオおばさん」
「そう」
ミュウは、イオおばさんが「私にはライオンのような娘がいて、ここでは獲れない薬を送ってくれるので~す」と言っていたのを思い出した。
心が弾んでくる。
ミュウがアプリリア先生のことを気高い獅子と思うように、イオおばさんはイオおばさんで、やっぱり同じように思っていたんだ。
新たな発見にミュウの心は晴れやかな気持ちになった。けれど、アプリリア先生に、イオおばさんが「ライオンのような娘」と言っていたことは言えなかった。
でも、顔にはしっかり出てしまったらしい。
「ん? どうかしたの? 何かおかしかった?」
「え? なんでもないです」
「そう」
ミュウはイオおばさんとアプリリア先生の関係を聞かされて、なんだかとてもうれしかった。先生とは姉妹とはいかなくても、従兄弟のお姉さんという感じに思えた。
私と同じように、アプリリア先生も、あのお菓子のなくならない居間で、小学校の宿題とかしたんだ。
子どものアプリリア先生が、手よりもずっと大きなエンピツで絵を描いている姿がミュウの心のカンバスに描かれた。
「あ」
ミュウは大声を上げた。
アプリリア先生は、お茶に口をつけただけで何も言わなかった。
「こういうことなんですね。知ることが喜びになる、ということは」
「そう」アプリリア先生は少しだけ苦笑いの混じった笑みを浮かべた。
「私とイオの関係を知らなければ、今みたいには考えられなかったでしょう」
「はい」
「さぁ、それがわかったら。また少しずつ話しをしていきましょう」
2 課 題
ミュウの最初の一ヶ月は、忙しさと、うれしさと、発見の中で、それこそあっという間に過ぎていった。
朝食から、晩御飯の後片づけまで、アプリリア先生の家の家事をこなし。いつも緊張する「語らい」の時間や、新しいことづくめの魔女の授業。
そして忘れてはならない。駆け足で追いかけてくる宿題と課題。
楽しいことと、嬉しいことの後には、必ず宿題と課題がついて回って、ミュウを苦しめた。
ミュウに出された課題は、そのどれもが難解で、楽だったためしがなかった。
一番、提出の期限が近いのは、おさらいレポート。一番最初の魔女の授業でやった「名前」について、レポートにまとめなければいけなかった。
ミュウは授業を受けるまで想像もできなかったけど。「名前」とは、この世界で一番大切で大事なものの一つだった。
「赤ん坊が生まれたとき。親は子どもが素晴らしい人物や健康に育つように、その名前に願いを込めるわ。もし、その名前に、傷をつけることができたら?」
ミュウは、アプリリア先生の説明に背筋が寒くなったことを、今でも、はっきり覚えている。
あの授業のときの、嫌で怖い感じはいつまでも避けていたかったけど。でも、それは魔女として許されないことは、わかっていた。
そんな、おさらいレポート一つをとっても、けして逃げ出すことができず、頭が痛くなりそうなのに。ミュウは、三週間前に出された期限なしの三つ課題。魔女になるために必要で、それも基本的で、絶対に避けることのできないということから抜け出せないでいた。
その一 夜、家の中を明かりなしで歩くこと。
その二 十二冊の薬に関する基本的な本を読み切ること。(おさらいテスト付き)
その三 夢をコントロールすること。
アプリリア先生から課題が出されてからというもの。毎晩練習したのに、夜の廊下を明かりをつけずに歩くことは、まったくできなかった。
基本的だといわれた本は、十二冊ある内の一冊目の半分にも届かなかった。十二冊もある本の、そのどれもがミュウのゲンコツよりも厚く。施療師の基本となる六百種類の薬草や、薬になる石や動物のことについて書かれていた。しかも、どのページも、アプリリア先生の言うようには簡単ではなく。退屈で、すぐに眠たくなってしまいそうな、楽しい物語とはおよそ正反対の、ページをめくることがなかなかできないものだった。
そして、夢をコントロールすることに至っては、お手上げだった。
夢を見ない日の方がずっと多いいのだ。
アプリリア先生の家にきてから、ちょうど一ヶ月にあたる日。
その日の朝も、ミュウは夢をまったく見なかった。このままでは、いくら期限が定められていないとはいっても、一年経っても課題をクリアできないのでは? とミュウは不安に思った。
そのことを「語らい」の時間で話すと。
「本は暇あるごとに読み進めなさい。私も、暇あるごとに、その手の本を最初から読み直しているわ。他の魔女たちもそうでしょう。ミュウが魔女であり続ける限り、この手の本と縁を切ることはできないわ。課題とは言っても、一時期ではなく、一生離れられないものよ」
「え」
ミュウは声がしょげてしまうのを隠せなかった。
「でも、安心して。第三の課題、夢のコントロールをクリアーすれば、意外に第一と第二の課題は簡単に達成できるわ。しかも第一の課題がさほどわずらわしいとは思わなくなる」
「どうしてですか?」
反射的に聞いてしまって、ミュウはおでこを弾かれた。
「思慮……考えもしないで質問はダメ」
「え? えーと」
アプリリア先生は微笑みながら、
「でも、考えてもわからないか。夢のコントロールは、魔女の魔法の基礎中の基礎だからよ」
「えぇ」
ミュウの顔が憧れに輝いた。
「コツをつかめば、早い魔女のたまごなら三日。遅くとも二年で夢のコントロールはできるようになるわ」
ミュウは三日という言葉よりも二年という言葉の方が、はっきり聞こえた。
「そんなに、かかるんですか?」
「魔女によってまちまちだから。ただ、あわてずにね。大事な避けては通れない課題だから」
「はい。がんばります」
「がんばってね」
「はい」
ミュウは、今晩中に絶対、夢をコントロールしようと思った。
でも、翌朝、がっくり肩を落とした。
夢をまったく見なかった。
また、せっかく夢を見ても、すっかり課題のことを忘れてしまい。朝から自分の情けなさにがっくり肩を落とす朝が一週間も続いた。
その週で一番の山場だった課題を提出した翌朝。ミュウは朝食の「語らい」の時間に、夢を見ないことについて相談した。
「人は必ず寝ている間に、夢を見ているわ。ただ忘れてしまうだけよ」
「え? そうなんですか」
「そう。そうだ夢日記を始めてはみない?」
「夢日記?」
「そう、日記のように見た夢を書き記しておくの。これで曖昧な夢も、少しずつはっきりさせていくことができるわ」
「本当ですか」
「でも、焦りは禁物。少しずつの積み重ねが、結局一番の近道だから」
「はい」
ミュウはすっかり、悩み事の雲が晴れたような笑顔で返事をして、早速、その晩から、夢日記をつけることにした。
最初の一週間は、揺れていたとか、海を見たとか、あまりはっきりしなかった。
でも、十日ほど経ったある夜。
ミュウが自転車でお花畑を走っていると、イオおばさんの弟子のパーシと、ミュウのクラスメイトだったフィアが、道の真ん中でおままごとをしていた。
はっきりそう見えた。
ミュウは目覚めて眠い目をこすりながら、でも笑顔で、枕元に置いた夢日記にそのことを記した。
寝ぼけた頭がだんだん目覚めていくのに従って、ミュウはまたがっくり肩を落とした。
まだまだ課題達成には、ほど遠かった。
夢を自由にコントロールしなければいけないのに、ミュウはおままごとの夢を見ているだけで、何もしなかった。
少しでも考えればおかしなことなのに。
ミュウは口を尖らせる。
パーシと、フィアは、お互いに挨拶だって交わしたことがないはずなのに。笑顔で、しかも、ミュウだって八歳の頃には卒業した、おままごとをしていた。それなのに、最初、夢だとは気がつかなかった。
「どうすれば良いんだろう」
ミュウは、ベッドの上でため息をついて、夢日記に使っている古い日記帳を閉じた。
本当はアプリリア先生が、夢日記用に新しい本をあげると言ってくれたけど。もったいない気がしたので、家で使っていた古い日記帳を使っていた。古い日記といっても、前の日記は三日坊主で終わっていて、ほとんどのページが真っ白なままだ。
なんとなく、もう一度手にとって最初のページを開けてみる。
五月七日
今日から日記をはじめる。
でも、普通の日記ではすぐに終わってしまうから、その日の出来事といっしょに、魔女の物語を書くことにする。今日は魔女のミュウの話し。
ミュウは六年前の自分が書いた日記(お話し)を読んだ。少し読んだだけで、どこかで読んだことのある話しだと思った。よく読むと魔女ミュウのお話しは、むかし話しの「砂の竜」そのままだった。ただ、砂漠を旅する人たちのために、オアシスを作り上げた砂漠の魔女の名前を、自分の名前に変えてみただけ。
でも、ミュウは、黒い長い布をまとった砂漠の魔女の姿を思い浮かべながら、
「いいな。一人前の魔女になったら、砂漠の魔女みたいに、みんなの役に立ちたいな」
と、つぶやいた。
ミュウは、前触れもなく、頭の中を駆け巡った考えに、声を上げた。
「そうだ。自分が一人前の魔女になったときの夢を見ればいいんだ。街のみんなが会うたびに挨拶をしてくれるような魔女。三角帽に黒い服の。そんな魔女になった夢を見ることができたら、きっと、夢をコントロールしていることになる。そうだよ」
ミュウはベットから立ち上がって、ガッツポーズをした。
一気に課題をクリアーしたような気分になった。
ミュウがお誕生日プレゼントされた目覚まし時計の針が、カチリと鳴って、ベルが鳴り始める。ミュウはすぐに止めると、ご機嫌で朝の仕事にとりかかった。
ミュウは空想することが大好きだった。だから、自分の望む夢だってきっと見られると思った。
「……だから、自分が魔女になった夢を見ようと思うんです」
ミュウは朝のアプリリア先生との「語らい」の時間に、ベッドの上で考えた作戦を披露した。
言い終わったあとアプリリア先生にしては珍しく悩むような仕草をした。
「発想はすばらしいわ。でも、あまり賛成はしない」
ミュウの顔が曇った。
「ただ反対とも言わない。夢の中のミュウを魔女ではなく。たとえば、映画女優になったときの自分を思い浮かべる風にするなら賛成するわ」
「どうしてですか?」と言おうと思ってミュウは口をつぐんだ。何となくアプリリア先生が言いたいことがわかったのだ。
アプリリア先生はうなずきながら、
「どうして? と思慮なく尋ねる前に、答えが出たのは良かったわ。言ってごらんなさい」
「えーと。私の思ってる魔女が正しくないから、あまりそういう想像をしてはいけないかと思って」
ミュウは言葉を選びながら言ったのに、全体では変な言葉になった。
でも、アプリリア先生は小さくうなずいて。
「正しい正しくないということは、あまり重要ではないわ。ミュウが思い描く魔女像というのは、あなたの言葉を借りるのなら正しいと、私は思う」
「え?」
「ミュウは、街の誰からも信頼され、みんなのために働く魔女になりたいのでしょ?」
「え、はい」
ミュウはとっくに慣れっこになっていたはずなのに、アプリリア先生にはまだ話していないはずの、ミュウの想いを正確に言い当てたことに驚いた。
「そういう魔女になれれば素晴らしいことだと思う。目指すべきだと思うわ。ただ、私が心配しているのは、魔女の夢というのは、それだけで意味あることなの。そういう夢には干渉……つまり、最初から手を出さない方が良いのよ」
「危ないんですか?」
「そうね。危険な夢というのも確かにあるわ。うん。最初に注意しておくべきだったけど。ミュウ、もし、魔女の夢を見たら詳しく教えてくれる。どんな些細なことでも、何かの役に立つことがあるから」
「はい。あの、どんな役に立つんですか」
「私の師匠であるオババ様は、ある魔女の一生を一晩でみたというわ。疫病の失われた治療法を学び。直面していた問題のヒントをその魔女から学んだそうよ。また、ある魔女は自分の血筋を知り、ある魔女はこれから起こりうる災いの予兆……しらせを見たというわ」
ミュウは、アプリリア先生が例を挙げるたびに、様々な魔女の姿が見えてくるような気がした。
「あの、先生は魔女の夢を見たことがありますか?」
「あるわ。あまりできの良くない弟子に振り回される魔女の話し」
アプリリア先生は苦笑いをうかべた。
「え?」
ミュウは驚いた顔から、何か不味いものを食べたような顔になった。
先生、冗談を言ってるのかな?
私のことかな?
まさか?
「その、弟子とは、もしかして……私のことですか?」
「違うわ。ウサギのリリよ。私が、魔女のロッテになってリリに振り回されるの」
ミュウはますます不味いものを食べた顔になった。
これから「おはようの子どもたち」の話しをするのはよした方が良いのかも、ミュウはそう真剣に考えた。
3 夢の魔女
午前中に授業がある日は、朝ご飯の片づけのあと、洗濯と掃除を十時までに片づけなければならなかった。最初の頃はギリギリだったけど、今は余裕を持って終わらせるようになっていた。
魔女としての授業と言っても、今日やることは小学校で習った理科の延長線上のようなことだ。
実験器具一つ一つの扱い方から、実際に、実験器具を使って薬剤を混ぜたり、百十九種類の元素について学んだ。この授業の目的は、薬や、魔法を生み出すための基礎の基礎らしい。
突然、電話のベルが鳴った。居間のテーブルに運んだばっかりの、フラスコやメスシリンダーを震わせるかのようだ。
ミュウは少し、嫌な感じがした。
ソファーで本を読んでいたアプリリア先生が受話器を取る。
「はい、歯車通り施療所。ああ、奥さん。……そう。お熱は計ったのね。……はい。今から……はい……大丈夫。小さな子にはよくあることだから……」
アプリリア先生の言葉の向こうには、病気になった子どもを抱えたお母さんがいる、とミュウは思った。
なんとなくミュウは落ち着かなかった。
居間の置き時計を見ると、十時まであと十五分。これで今日の授業は、自習が決定になってしまったけど、小学校のときのように喜ぶことはできなかった。
でも、落ち着かなかったのはそういうことじゃない。電話の向こうに病気の子どもがいることだ。
ミュウには、お母さんの腕の中で、頬を赤くし、荒くなった息をつく子どもの顔が、見えるような気がした。
受話器を置いたアプリリア先生がミュウに微笑みかけた。
「心配しなくとも大丈夫。小さな子どもにはよくあることだから。あなたは自習をしていて。この授業の埋め合わせは次の機会に必ずするから」
「はい」
アプリリア先生は、診察鞄を取りに診察室になっている客間の方に歩いていった。
ミュウは先回りして、玄関で先生を待つことにした。
傘入れに立てかけてある、アプリリア先生のほうきを手に取る。
ほうきは、掃除のときに使うけど、このほうきは特別なほうき。空を飛ぶためのほうきだった。階段下の倉庫に入っている掃除のほうきと違って、すごくしっかりとしていて持ちやすかった。
いつか、わたしも空を飛ぶんだ。
ミュウはこのほうきを持つたびに、わくわくしてしまう。少し想像するだけで空を飛べそうな気がした。
「じゃ、ミュウ行ってくるから」
「はい、先生」
ミュウは、ほうきを差し出した。
アプリリア先生は、ほとんどの用をバイクで済ませてしまうけど、急患のときには魔女らしくほうきを使った。
「ありがとうミュウ。行ってきます」
微笑みながら、アプリリア先生は差し出されたほうきを受け取った。
「行ってらっしゃい」
ミュウは先生の弟子になってから、挨拶の声を大きくはっきり言うようにした。挨拶の言葉の一つ一つが、相手を思いやるおまじないと教えられたからだ。
アプリリア先生が残していった微笑みは、小さな頃、仕事に行くお父さんを見送ったときのことを思い出させた。
ミュウはしばらくの間、空を飛んでいった先生に手を振っていたけど。少しだけ、がっかりして居間に戻った。
今週は二連続で授業が潰れてしまったのだ。
ウィッシュボーンの街に、古くからいた施療師が引退して。その跡を、本当なら習わし通りに継ぐはずだったおババ様の最後の弟子が継ぐのを嫌がったから。仕事が前よりも増えた、そんな風な話しを先生から聞いた。
ほんの少し、その、施療師にならなかった魔女のことを恨めしく思った。
施療師になれるのに、ならない魔女。
施療師になりたいのに、一番最初の方の課題でつまずいている私。
小さく唸ったあと。ミュウは、課題の本の続きを読むことにした。
*
「先生」
「あら、どうしたのですか?」
窓辺にいる女の子。先生と呼ばれた魔女は、ミュウのと同じくらいの歳だった。カラスの羽のように黒い髪と、その黒髪よりもずっと黒いワンピースを着ていた。
え? そんなに若くても、先生になれるんだ。
ミュウは驚いた。
でも、そこにいるのは、魔女のたまごではなく、れっきとした魔女のような気がした。
魔女を先生と呼んだ小さな女の子が、ミュウの傍から窓辺へ駆け寄っていく。
「先生にこれ。お母さんが持ってって、だって」
「そう。いつも、ありがとうございますと、お母さんにお伝えください」
魔女は、何かに気がづいたかのように、辺りを見回した。
魔女のいる部屋は、施療所のようだった。イオおばさんの家にもある患者さんを横にするベットや、アプリリア先生が使っているのと同じ、銀でできた治療道具がガラス戸棚の中に入っているのが見える。
窓の外の様子は、白い光が差し込んでいてよくわからない。
ミュウは部屋の天井の隅から見下ろすかのように、魔女と、小さな子を見下ろしていた。
ミュウと天井の方を見上げた魔女の目が合う。
魔女は優しく微笑み。
「誰かがのぞいてますね」
と言った。
「先生どうしたの?」
「あそこを見てごらんなさい」
小さな女の子は、魔女が指さす方向。
ミュウの方を見た。
え?
ミュウは頭の中が混乱していた。
あれ? これ? どういうこと?
「あ」
と、ミュウが叫んだ途端。
*
ミュウは目が覚めた。
頬が痛かった。口元がぬれていた。それ以上に大変なことに気がついた。
大切な本をよだれで汚してしまったことに気がついた。
「うわ。どうしよ、どうしよ」
アプリリア先生が怒っている様子を思い浮かべるだけで、背筋が寒くなってくる。本当に怖い顔をして怒られたことは、まだ、一度もなかったけど。絶対に怒られると思った。
あわてて、ハンカチで拭っても、よだれを垂らしたページから、ざっと数えて十ページほど、ゴワゴワになってしまった。
しかも、薬草の本をハンカチで叩いているうちに、魔女の夢を見たことは覚えていたけど、細かいことはすべて忘れてしまった。
ミュウは泣きたいのをこらえながら時計を見ると、さらに背筋が寒くなった。
お昼ご飯を作っていないと間に合わない時間だった。アプリリア先生は時間にものすごく正確な人で、一分遅れたことも、一分早かったこともないのだ。
コツ、コツ。
まるで食器をフォークで叩くような音が窓の方から聞こえてきた。
窓の方を見ると、いつものように先生の伝言を運んでくるカササギが窓を叩いていた。
「先生からの伝言」
ミュウは伝言にしては、今の時間は遅いと思った。
もしかすると、私が眠っている間ずっと叩いていたのかも。
ミュウはそう思うと、頭がくらくらしてきた。もうすでに打ちのめされたような顔で窓を開けると。
「よっこらしょ」と、カササギは声をかけて、部屋に入って来ると、慣れた調子でミュウの差し出した腕に止まる。
「こんにちは、ちいさな魔女のたまごさん」
「こんにちは、カササギさん。お待たせしませんでしたか?」
ミュウはおそるおそる訊いた。
「大丈夫ですよ。今、到着したばかりです。今日は大変遅くなりました」
カササギはいつもの女性の声で胸を張って答えた。いつもの上品そうな女性の声だ。
ミュウは、ほっ、とため息をついた。
「マスターは、他の魔女たちと相談しなければいけないことがあって、すぐに戻れないそうです。御三時にケーキを買って帰るので、お湯を沸かしておくようにとのこと。あと、今日、週間予報を採点するから、今日の天気図と一緒にまとめておくようにとのこと。何かあれば伝言承りますが」
「えーと。私、魔女の夢を見ました」
「あら? 寝てたんですか? 自習の時間に?」
カササギが目を丸くして(ミュウにはそういう風に見えた)言うものだから、
「え?」と驚き、驚いたあとで、大変なことに思い当たった。
あ、自習の時間に居眠りしてしまったことがばれちゃう。
カササギはミュウの顔を見てニコニコ(ミュウにはそういう風に見えた)しながら、
「上手く、私の方で取り繕っておきましょう」
「あ、ありがとう」
「それでは、行ってきます」
「いってらっしゃい」
「は~い」
カササギは、羽をばたつかせると飛んでいってしまった。
ミュウは、見送りの手を振るのをやめると、ふぅと、安堵のため息をついた。
でも、まだ、天気図と週間予報の課題があるんだから、がんばらないと。
「よーし」と力強くうなずいた。
でも、せっかくやる気が出てきたのに、ミュウのお腹の虫はそれに賛成せず、鳴き声をあげた。その声を聞いて、ミュウは顔を真っ赤にしながら、
「先に、ご飯にしよっと」
言い訳っぽく、お腹の虫の意見に賛成すると、ミュウは台所へと向かった。
ミュウは、魔女のたまごになってから知ったことだけど。魔女は天気を把握していなければいけなかった。
天候によって、必要になるおまじないや、流行る病気、薬草の採れる量が変わってくるから、とアプリリア先生はその理由を教えてくれた。
魔法が使えるようになれば、「風読み」という魔法を使って、天気予報ができるようになるけど。その時までに、天気とはどういうものなのかを知らなければならなかった。
みんな黒い服と三角帽子だった昔とは違って、今の魔女のたまごたちは、ラジオの「今日の天気情報」を聞きながら、自分の住んでいる地方の気圧配置図を描いて、天気の予報を自分の手で作ることになっていた。
アプリリア先生のファイルには、天気の気圧配置図と予報図が三年分スクラップされていたので、それを参考にしながら、毎週、ミュウは自分が書き上げた天気図と見比べながら週間予報を立てていた。
でも、これは意外に簡単なのだ。今の季節、東のくちばし地方は、いつも晴れ間がのぞいていて、曇ることがあってもそれは午前中だけのことだから。
でも、ミュウは手を抜こうとは思わない。手を抜きたい気分じゃなかったし、手を抜けば絶対にアプリリア先生は見抜いてしまう、と思った。
この晴れの季節が終わると、天気予報は、少し難しくなるという。それまでになんとしても「風読み」の魔法を覚えていたかった。
ミュウは、クリームペンネとサラダで、少し寂しい一人のお昼を食べて、ラジオをつけた。
午後一時のお知らせと共に、いつもの抑揚のないアナウンサーが「今日の天気情報」を告げた。
ミュウはその放送を聞きながら、東のくちばし地方の地図の上に、気圧の数値を書き込んでいった。仕上げに、同じ気圧の部分を青い色鉛筆の強弱で色分けをする。
気圧の数値から見ても、東のくちばし地方全体が、高い気圧に覆われていて、おだやかな晴れの日だった。
ただ、さかなのほね町の南の海は、これで二週間連続で波浪警報が出ていた。ミュウはその理由がわからなかった。ラジオの「今日の天気情報」も警報を告げるだけで、波が高い原因を言ってはくれない。
明日も、波が高いようなら、先生に訊いてみようかな? と思った。
ミュウは、次ぎに、アプリリア先生のファイルをめくりながら。これから一週間、東のくちばしは穏やかな晴れの日が続くでしょう、と。週間予報を立てた。
そのあと、午後も、あの分厚い薬草の本に取り組んだ。
まだまだ、一冊目の終わりも見えそうになかった。
4 夢の魔女ふたたび
あ? あれ?
ミュウは、薬草の本を読んでいるはずだった。
でも、そこは寝室のようだった。
見たこともない寝室だけなら、ここまで驚かなかったと思う。子どもが眠っていた。しかも顔は真っ赤で熱い息をしていた。
た、たいへん。どうしよ。
アプリリア先生を呼んでこなくちゃ。
急に扉が開いた。
「先生。こちらです」
太った女の人が魔女を招き入れた。その黒い髪よりもさらに黒いワンピースの魔女。
さっきの魔女だ。
とミュウは思ったけど。自信はなかった。
さっきよりも背が少し高かったし、髪も背中の真ん中まであったし。ずっと大人びた顔をしていた。
「少し、お母さんの言うことを聞けなかったのかしら」
「先生」
男の子は薄目を開いた。
「大丈夫。ゆっくりお休みなさい」
魔女の優しいまなざし。白い手が男の子の頭を二度なでると、さっきまでの苦しそうな顔から安らかな顔に変わっていく。
「先生?」
今度は、はっきりとした声で訊いた。
「しぃ……。今はゆっくりお休みなさい」
魔女は一本指を立てた。
男の子は、眠さに耐えるようにまぶたをパチパチしていたけど、眠さに負けてベットに沈んでいくかのように眠り込んでしまった。熱でまだ頬が真っ赤だったけど、さっきよりずっと楽そうに見えた。
ミュウは、胸の中をこみ上げてきた感情に、名前も知らない魔女に抱きつきたくなった。
ミュウが小さい頃。魔女になりたい、と初めて思ったときの、その様子を見たような気がした。
でも、ミュウは魔女に抱きつくことはできなかった。
急に目の前が暗くなっていて、最後の一瞬だけ魔女と目があったような気がした。
魔女が微笑んでいるような気がした。
*
「うわぁぁぁあぁ」
ミュウは悲鳴を上げた。
大事な薬草の本が、また、よだれで台無しになっていた。
「どうしよう」
素直に謝って怒られる他に方法がないのに、ミュウは色々考えた。
花瓶を倒した。
お茶をこぼした。
急に雨が。
「雨?」
ミュウはあたりの様子がおかしいことに気がついた。暗かった。夕方を通り越して夜になってしまったのかと思うほど暗かった。
「え?」
ミュウはあわてて時計を見た。居間の時計は、午後三時を少し過ぎたところを指している。
開いている窓のカーテンが、まるで、これから良くないことが起こるぞ、と言っているかのように、バタバタ鳴った。
突然、ざぁ、という音が聞こえてきた。
空からとめどなく落ちてくるこの音。
ミュウの頭の中で「洗濯物」という単語が飛び出した。その瞬間には、
「洗濯物ぉ」
と、叫んで、ミュウは泣きそうな顔になりながら、ドタドタ中庭へと駆けだしていた。
洗濯物を抱き込んで、勝手口に飛び込んだ瞬間、周りが青白くなる。
巨大な金槌が大空を叩き割るような音がして、そのまま地面に落ちたような音がした。
ミュウの悲鳴は、地鳴りのような音にかき消され、窓ガラスや家中のガラスというガラスが、がたがた揺れた。
ミュウはしばらくの間、泣き叫び続けていた。
叫ぶのに疲れて、ミュウはまぶたをゆっくり開いた。頭に被っていたシャツを取ると、光が目に焼き付くかのように飛び込んできて、まぶしさに目を固くつぶった。
まぶたをゆっくり開くと、まるで何事もなかったかのように、勝手口から見える空は晴れていた。白い綿毛のような雲がものすごい勢いで流されていくのが見える。
中庭の芝生は、バケツの水をひっくり返したかのように濡れていた。せっかく部屋の中に持ってきた洗濯物は、ひどい有様だった。
いったい、どうしたんだろう?
と、自分に問いかけるだけで、次のことができなかった。何が起こったのかさっぱりわからなかった。
遠くで、目覚まし時計のような音が聞こえた。
時計?
「あ、電話」
ミュウは、電話がある居間まで走っていった。
「はい、遅くなりました。ネジ山通り施療所です」
「ミュウ大丈夫だった?」
アプリリア先生の声が遠くで聞こえた。気のせいか少しあわてているような気がした。
「あ、あの」
「何? ケガでもしたの」
「いえ」
ミュウは迷った。でも、隠すことはできないのだから。
「あの、先生に借りた本が」
「ん? 雨にでも濡れた」
「いえそうじゃなく。雨に濡れたのは、洗濯物と……」
ミュウは、居間の開いている窓から雨が吹き込んでいることに気がついた。あの綺麗な居間が雨で水浸しになっていた。
「ミュウどうしたの?」
「雨が」
ミュウの目から涙がボロボロこぼれて止まらなくなった。
「あなたにケガはないの?」
「ケガはしてません。ただ雨が」
ミュウは、アプリリア先生と泣かない約束をしていなければ、わぁー、と声を出して泣き出してしまっていただろう。
「雨で濡れるのは当然よ。今からケーキを買って帰るから待っていて」
「あの、先生……ごめんなさい」
「あなたが無事なら構わない」
「……あの」
ミュウの声は涙にかすれた。
「何?」
「また魔女の夢を見ました」
「……そのことについても、ゆっくり話しましょう。またあとでね」
「はい」
ミュウは受話器を電話機に置いたあと。
涙を拭いながら、雨が吹き込んでひどいことになってしまった居間を見た。
ミュウは、頭を垂れた。
ミュウは申し訳なさのあまりに、消えてしまえるのなら消えてしまった方が良い、と思ったくらいだ。
弟子の私がちゃんとしてないといけないのに。
アプリリア先生は、玄関の戸口で、謝りたいことがいっぱいで、逆に何も言えない、ミュウを見ても、片付け途中の水浸しになった居間を見ても、ミュウを一言も叱ることはなく。「さぁ、ケーキのために早く片づけてしまいましょう」と言っただけだった。
アプリリア先生は、てきぱきと後片づけをした。もちろん、先生が戻るまでミュウは掃除していたけど、ミュウが十分かかってすることを一分で片づけてしまうくらい、動きに無駄がなかった。
ミュウの胸がさらに苦しくなる。
夕方までかかりそうだった居間の浸水も、三十分とかからずに元通りになった。
ソファーのクッションカバーはすべて洗濯機に直行して、干せるものはすべて、中庭に引っ越した。
「ミュウ。お湯が沸いたから。こっちはこのままにして、台所でお茶にしましょう」
「はい」
ミュウは元気を出さないといけない、と思ったのに、返事の声が暗くなってしまった。
「まだ、気にしてるの?」
「いえ、なんでもないです」
「誰だって、天気図からではあんな雨を予測することはできないわ」
ミュウにはアプリリア先生が怒っているように思えた。でも、怒っている先はミュウではなく、ここにはいない別の誰かに向けられているような気がした。
「ほらほら。私は、こんなに天気のいい日に窓を閉めるような、陰気な弟子は取った覚えはないわ。だから、気にしたって仕方のないことよ」
先生に肩を叩いてもらって、ミュウは前にも同じようなことをされたことがあるように感じた。
ふと、今の先生の言い方は、なんだかイオおばさんに似ているような気がした。
「どうかした」
「いいえ」
ミュウは、自然に微笑んでいた。
うれしくなるような白いクリームのケーキが、白い箱の中から姿を現した。
ミュウのお兄さんになるアレックスが勤めている「オーギュストの子ども」の四角いホワイトクリームケーキ(ショートケーキ)だった。
「わぁ」
「いい顔してるわ」
アプリリア先生は箱から出したケーキをそれぞれの皿に置いた。
甘い匂いが漂ってくるかのようだ。
気のせいか先生の顔も、さっきより優しい感じになった。
「あの、先生。さっきの雷は」
ミュウは軽い気持ちで聞いたのに、聞かなければ良かったと思った。
すぅっと空気が動くような気配がして、
「ミュウ。おいしいケーキを食べてからつまらない話しをするのと、おいしいケーキを食べる前にするの。どっちがいい?」
「ええ?」
どっちも避けたいと思った。
でも、避けられないのなら。
「最初に、つまらない話しの方が」
ミュウは怒られると思って、身を固くした。
「そう、じゃ、つまらない話し。ある愚かな魔女が、その愚かさに見合う軽率なことをやった。結果、街に嵐が落ちた、以上」
アプリリア先生は、まるで天気情報のアナウンサーのように、淡々と自分の感情を混ぜずに言った。
「さぁ、ミュウ。今度はあなたの番」
「え?」
ミュウは、頭の中が混乱した。
何を言わなければいけないのだろ?
「あなたの夢に出てきた魔女のこと」
「あ、はい」
ミュウは息をふぅ、と一度はき出したあと。夢で見た魔女のことを話し始めた。
「……私と同じくらいの歳なのに、女の子やそのお母さんに「先生」と呼ばれていて、黒いワンピースを着ていました」
「状況から見て、その若い魔女は施療師ね」
「はい。先生と同じ銀の道具を持っていました」
「それと、黒いワンピース?」
「はい。その魔女の髪も綺麗だったけど、その黒髪よりも服は真っ黒でした」
アプリリア先生は、両手で眼鏡の位置を直し、
「竜の毛で編んだ服かしら?」
「え?」
「昔の魔女は、みな竜の毛で編んだ服を着ていたらしいわ」
「じゃ、昔の魔女なんですか?」
「それだけでは、何とも言えないわ。もしかすると、ミュウが昔読んだことのある物語の魔女の姿を思い浮かべただけ、ということもあるから」
ミュウは絶対に違う、と思った。けど、言えなかった。なぜ違うのかはっきり言えなかったから。
「どうかした?」
「なんでもないです」
「そう。それで、その時、夢を見ている感覚はあるの?」
ミュウは、そう訊かれて悩んだ。ないと言われればそういう気がしたし、あると言われればまた。
でも、夢を操るところまでいっていないのは確かだった。だから、
「ないような気がします」
「向こうの魔女は、ミュウのこと気がついていた?」
「え?」
ミュウと夢の中の魔女と目が合ったとき。
魔女は「誰かのぞいてますね」と言ったような気がした。
ミュウの方を見て微笑んだような気がした。
「はい」
その返事をした途端、急にアプリリア先生の雰囲気が変わった。どう言葉にしたらいいのかわからない。ただ、手の上で組まれた長い人差し指がとんとん、と手の甲を叩く、その何気ない仕草からして、怖かった。
「ミュウ」
アプリリア先生は、左手にしていた爪の厚さくらいしかない細い銀の指輪を取ると、ミュウに差し出した。
「はい?」
「これを必ずしていなさい。あなたの見ている夢が、まだどういう意味を持つのかは、わからないけど。こんなことあったばかりだから、お守り代わりに必ずこれを持っていなさい。今ここではめてしまってもいいわ」
魔法の指輪?
ミュウは、少しドキドキしてその繊細な指輪を受け取った。
「先生。これは?」
「魔法の指輪といったところかしら。邪魔にならないはずだから、お風呂のときも、寝るときも付けたままでいて」
「はい」
ミュウはなんだかうれしくなりながら、指輪を中指にはめた。
最初、緩かった指輪が、第二関節を通すころには、まるでミュウのために作られた指輪のようになっていた。
「その夢の続きは必ず私に報告して。何かのメッセージかもしれないから」
「はい」
「じゃ、つまらない話が終わったから、次は、おいしいケーキを食べましょう」
おいしそうなケーキを目の前にしたアプリリア先生は、まるでさっきまでの先生とは別人のようだった。
5 おそろしい夢
ミュウはのその後も夢の中の魔女と何度も出会った。
膝を痛めた老人の膝を撫でるだけで痛みを取り去ったり、大きな牛のような生き物の出産を手助けしたり、森の中での薬草採取は、どこにどんな薬草が生えているのか、もうすでにわかっているかのような、歩みの早さだったり。夢の中の魔女は本当にすごい魔女だとミュウは思った。自分もああなりたいと思えるほど、次々に仕事をこなしていった。
そのことを熱っぽくアプリリア先生に話すと、ミュウの熱に反してアプリリア先生はあまりいい顔をしなかった。
その理由はあえてミュウは聞かなかった。考えもしないで質問してはいけないと思ったし、魔女の夢をただ見続けることそのものが何か良くないことなのかもしれないと思った。
十日ほど、夢の中の魔女のことで夢日記が埋まったその夜。
ミュウは夢を見ていた。
遠くの方で人々の声が聞こえる。何かに反響して声がはっきりとした言葉にならない。たくさんの声の中で、ひときは大きな声がする。
何か楽しげな、新しい漁船を港に迎えるときの祭りか、初めての子供が産まれた夫婦を祝う祭りを思い出す。そんな楽しい気持ちにさせてくれる声や音。
あの魔女だ。
また魔女の夢を見てる。
ミュウはそう思ったけど、目覚めてしまおうとは思わなかった。一番新しい夢では、魔女は他の魔女達とお茶会を開いていて、ミュウにお茶を淹れようとしていた。そのご相伴にはあずかれなかったけれど、もしかすると、夢の中の魔女と何か話し合うことができるようになるかもしれない。そうすれば先生の役に立てるかも、そんな風に思っていた。
だから今度は絶対に最後まで夢を見ようと思った。
それに、アプリリア先生にもらった指輪を冷たく感じる。その冷たさがミュウに安心感を与えた。左手の中指の冷たさに右手を添えながら、夢を見続けようと思った。
色のなかった世界に、夜の闇よりも黒い魔女のワンピースがはっきりと見えてきた。
魔女は、ほうきで空を飛んでいた。
空は青く暗く、真っ赤な日が落ちていく、夕暮をまるで布切りばさみで切り裂くように、まっすぐ飛んでいた。先ほどまでミュウを取り囲んでいた楽しげな雰囲気や音が嘘のようになくなり、眠っているのに頭が冴えていくような気がする。
魔女は唇をぐっと噛みしめ、もう夜の闇の中に入ってしまった行き先を睨んでいるようにも思えた。
何でそんな怖い顔をしているんだろ?
ミュウが不思議に思った瞬間、魔女の手がほうきから離れそのまま真っ黒な森へと落ちていった。
ミュウは悲鳴を上げて、目覚めた。
全身が汗まみれだった。
何だったの? 今の?
冷たさに指先をみると、指輪がまるで氷で出来ているかのように冷えていた。
「アプリリア先生の指輪が守ってくれたんだ」
このことをアプリリア先生に教えなきゃ。そう思ったけど、ミュウはベッドから腰を浮かしただけで、降りることはなかった。時計は二時を指している。先生を起こすのは悪いと思ったのだ。
小さかった頃、イオおばさんに聞いた悪夢を見ないためのおまじないを唱えて、ミュウはまたベッドに横になった。
まぶたを閉じた瞬間、掛け布団の上にワンピースがかけられた、ベッドで眠る魔女の姿が見えた。
ミュウはすぐに夢の世界に落ちたことよりも、魔女が無事にベッドで眠っていることが嬉しくなってしまった。
でも、その顔をのぞき込むと嬉しさは消えて無くなってしまう。
ミュウは胸が締め付けられるような気がした。
知っている魔女なのに、そうだと思える自信がなかった。頬はこけ、目は落ちくぼみ、その顔は、死そのものにも見えた。
ミュウはごくりとつばを飲み込む。
何かが鳴る音がした。鈴の音だ。すごく不安を覚える音色でミュウが顔を巡らすと、窓の外から鳴っている気がした。
魔女が一瞬微笑んだように思えた。目を完全に閉じ、息を大きく吸い始める。
「さ、起きよう。眠っている暇は私にはない」
すごく小さな声だった。ミュウは、自分の呟き声の方がまだ大きいとさえ思った。
「え?」
ミュウは魔女が何をしているのか判らなかった。
「起き上がれ。さぁ」
魔女は自分にそう聞かせるかのように呟くと、体が鉛でできているかのように、ゆっくりベッドから起きあがりはじめる。まるで体全体が鉄で固められてしまったかのように、重く、魔女は、時間をかけて黒いワンピースに袖を通すと、まるで小さな子どものように、頼りない手でボタンをとめた。
「寝てなきゃダメだよ」
ミュウの声も姿も、魔女には届きも見えもしないようだった。
「病人なのにどこへ行こうとしてるの。寝てなきゃダメ」
叫んでも、届かない。
「うーん……情けないな、この程度で」魔女は荒くなった息で言った。「しっかりしなくては……「水たまり」は封じたのだから、あと、二、三日、耐えるだけ。その後は……」
魔女は、血を吐くかのようにつぶやき、語尾は口の中で消えてしまった。
ミュウは、眠っている自分の体がベットの上で跳ねたのがわかった。
「水たまり」という言葉は、鈴の音よりも恐ろしかった。災いに名前を与えないため、仮の名を与えたのがミュウにもわかった。
ミュウは、足から力が抜けて尻餅をついていることに、魔女が部屋から出て閉まる扉の音で、気がついた。
「待って」
ミュウは、くだけそうになる膝を支えながら立ち上がった。でも、ミュウは、すぐに魔女の後をすぐに追うことがきなかった。
直感が、扉の外に出るのをためらわせた。
でも。
ミュウは、アプリリア先生の指輪をしている指を強く握りしめ、目を閉じて扉の外へと出た。
喉をついて出そうになった悲鳴を、口の中に押し込むのと、目を背けるのは同時だった。
ベッドで眠る子どもの上に真っ黒な影が見えた。漆黒の影。不自然な影。影だけで動くようになったもの。ミュウはその姿形をちゃんと見たわけではないけど、それが恐ろしいものに思えた。
「お母さん。新しい包帯を用意してください。あと新しい氷嚢と、お父さんに任せた岩塩を早く」
あの魔女は、まるで元気だったときのような声で、次々に指示を与えていく。
ミュウが薄目を開くと、
「こんな、真夜中なのに、申し訳ありません」
子どもの母親が、自分の妹くらいの歳の魔女に深々と頭を下げていた。
「お母さん、そんなになさらないで」
「とんでもない。他の村では、もっとひどいことになっているというのに。これも先生のおかげです……」
感情を抑えきれない母親の語尾が、むせび泣く声に押しつぶされた。
魔女は目を細めた。
「お母さん。峠はもう越えています。でも、油断されずに、あとは、私が処方したお薬を飲ませてあげてください。二日、あと二日だけです」
「……ありがとうございます。ありがとうございます」
感謝の言葉を何度も繰り返しつづけた。
ミュウは、ごくりとつばを飲み込んだ。このお母さんも、もうこの魔女が二度とこの家に往診に来られないことを知っていると思った。
「先生。ありがとう」
ベッドの上で、子どもが微笑んでいた。力がすぐそこまで戻ってきているような微笑み。
「早く眠らないと、遊べるようになりませんよ」
「うん」
子ども返事に、魔女は力なげに微笑んだ。
魔女は、母親に頭を下げると、その部屋を足を引きずるかのように出て行った。
ミュウは、すぐにその後を追った。
扉の外は、廊下ではなく、台所だった。見覚えがある少し寒い感じがする魔女の家の台所だ。
ミュウは目を見開く。
魔女が倒れていた。
「大丈夫、しっかり」
ミュウは魔女に駆け寄ったけど、手に感触はなく、その肩を抱くことすらできなかった。
「まだ、もう少しだけ」
魔女は全身を震わせながら、立ち上がろうとした。
ミュウは祈るような気持ちで握り拳を作った。
力になってあげたい、と思った。
アプリリア先生なら、きっとこの魔女の力になれるかも。
「母様に会いたかったなぁ」
「え?」
魔女は、微笑んだ後小さく崩れ。もう、まぶたを開くことはなかった。
*
ミュウは悲鳴と共に目が覚めた。
魔女はあのまま死んだとは思いたくなかったけど。もう、立ち上がれそうにはなかった。
ミュウは涙が止まらなくなった。
「ミュウ? ミュウ、大丈夫?」
控えめなアプリリア先生の声と一緒に、ノックの音がした。
「何でもないです」
ミュウは、涙を拭いながら、ベットから起きると、ドアを開けた。
「先生」
ミュウの部屋から漏れた月明かりがアプリリア先生の姿を映し出した。先生はバイクで出かける時の革のスーツ姿だった。
「ミュウ?」
ミュウは、言葉が出てこなかった。夢で見た魔女の姿がミュウの言葉を奪い取ってしまったようだった。
「辛い夢を見たのね。またあの魔女の夢?」アプリリア先生はミュウと同じ目線の高さに膝を曲げた。「他人のための涙なら、いくらでも流しなさい。いくらでも泣いてもいいの」
「先生、私……」
胸の奥からこみ上げてきた感情がミュウの言葉を切った。
アプリリア先生はミュウを抱きしめ、ミュウはもう涙を我慢しなかった。
「先生。私、私……」
「明日は魔女の修行は休みだから。ゆっくり、ね」
先生の着ているバイクの黒い皮のスーツは、冷たくて油の匂いが少ししたけど、アプリリア先生の手は温かだった。
6 つづき
ミュウはいつものように朝ご飯の支度が終わらせて、居間でウィッシュボーンの街の七時の鐘を聞いた。その鐘の音が鳴りやまないうちに、アプリリア先生は着替えて居間に入ってきた。
アプリリア先生は本当に時間に正確な人だった。
しかも、昨晩、それも三時くらいに出かけていったのに、まったく眠そうではなかった。
「おはようございます」
ミュウは、わざと大声で挨拶を言った。無理にでも明るく振る舞おうと思った。少しでも暗くすると、あの魔女の姿がどうしても見えてしまうような気がした。
意識してしまうたびに、下唇をぎゅっと噛んで、握り拳を小さく作ったりした。
「今日はお休みしてもいいのよ」
「休みたくないんです」
アプリリア先生は、眼鏡の位置を両手で直した後、
「ねぇ、ミュウ。ちょっといい?」
アプリリア先生の顔から表情がなくなっていることに、落ち込んでいるミュウは気がつかなかった。
「はい?」
「わたし達、施療師の役目は、何だと思う」
「え?」
「何でも良いわ。挙げてみて」
ミュウは、思い浮かんだことを挙げはじめた。
「人のケガを治したり病気を治すこと。お産のお手伝い……」
ミュウは口がこわばった。もう一つイオおばさんがやっていたことがある。
記憶が蘇ってきた。黒い昔ながらの魔女の服を着たイオおばさんを先頭に、竿に魚の張り子をつけた祭りのまといと、棺を掲げた黒い服のおじさんたちが続く。
さかなのほね町を見下ろせる墓地の方に向かって進んでいく葬列。頭をうなだれ涙を流す参列者。
「ミュウ覚えておきなさい。死を見守るのも、施療師の役目」
ミュウは何かを言いたかった。でも、「でも、それでも」という言葉にしかならなかった。
ミュウは、今までにないほどアプリリア先生が怖いと思った。
「死について、少し語りましょ」
ミュウはその言葉から逃げ出したくなった。でも、ぎゅっと握り拳を作っただけで我慢した。
逃げ出してしまうことは、絶対に許されないことのような気がした。
アプリリア先生は、大きくうなずいた後で、
「ミュウ。死というのは、友達のようなものなの」
「そんな、死が友達なんて」
思ったまま嫌悪を口にした。
「生まれたときからの付き合いのある友達だから、必要な時は、暖かく迎え入れてあげるのよ」
「そんな」
「死を恐れている人がいれば、恐れる必要はないと、勇気づけたり、慰めたり、諭したりするのが、魔女の役目」
「私は、人を助けることをしたいから、施療師になりたいのに。あの魔女だって助けてあげたかった。その手を握っていてあげたかった」
ミュウはほとんど叫んでいた。
「ミュウ……。私はあなたの考えを否定したいとは思わない。でも、せめて、あなたの夢の中に出てきた魔女の死を恐れないであげて」
初めて見るアプリリア先生の顔だった。
祈るような、お願いするような顔。
ミュウは先生と目を合わせることも、答えを出すこともできずに、うつむくだけだった。
今日は、アプリリア先生が言ったように、本当に休みの日になってしまった。
アプリリア先生は、朝食の後、魔女の集まりのために出かけてしまったのだ。
あの魔女は本当に死んでしまったのだろうか、とミュウは思った。お掃除のときも、洗濯のときも、そして課題の薬草の本で行き詰まった時も思い続けた。
結局、アプリリア先生は、夕方になっても戻ってはこなかった。ミュウは晩ご飯も一人で食べて、夜の十二時まで課題を頑張ってから床に就いた。
あの夢はもう見たくない、と思った。
でも、逆にあの夢を見たい、とも思った。
あの夢の中の魔女にもう一度会いたかった。
あのまま、一人死んでしまうなんて、嫌だった。
ミュウは、意識が空回りし始め、ほつれていくのを感じた。
もう少しで、あの魔女に会える。
ミュウの視界がひどい色に覆われた。
魔女の寝室のようだった。
ベッドの上で眠っているのが、本当にあの魔女なのか、ミュウには自信がなかった。
白みがかった陶器でできた人形のようにも見える。
でも、薄く目を開け、かすかに息をしている様子が、魔女はまだ生きていると、ミュウに思わせた。
静かなノックの音が響く。
中に入ってきたのは、あの魔女に似た黒い服の長い黒髪を髪留めでとめた魔女だった。
魔女のお母さんだ、とミュウは思った。
母親は、魔女の手を掛け布団から出して優しく握りしめ、顔をのぞき込んだ。
薄く開いた魔女の目が、母親の方を見た。
「死なないで」
母親の目から涙がこぼれる。
ミュウの指輪をはめた指を握りしめる手がひどく痛み、握りしめられた指にはもう感覚がなかった。
嫌な感じがした。胸の奥が騒ぐような気がした。
「あなたを絶対に死なせたりしない」
母親は、涙目で優しく魔女と同じように微笑んだ。
7 呪いをかけた魔女
ミュウは遠くの物音で目が覚めた。
あの魔女と母親の夢を見た後、続けて眠る気にはなれなかったから、ミュウは起きて課題の薬草の本に取り組んだ、はずだった。
それなのに、ベッドで眠っていた。
起きあがると、辺りは暗く。風が流れていく音と、窓ガラスを風と雨が叩く音が聞こえた。
遠くの空が震える音がする。最初それが何であるかわからなかったけど、やがて、大きな雷が空を走っているのかも知れない、と思った。
夜?
時計を見ると、いつも起きる五時半よりも前をさしていた。
ミュウの頭は、少しずつ冴えていき、鳴る前の目覚ましをとめてから、ベットから起きた。
机の上の本が閉じられ、ブックエンドの元の位置に戻っていた。アプリリア先生がここまで運んでくれたに違いない。
ミュウは顔が赤くなった。
アプリリア先生に、ベッドまで運んでもらったことが恥ずかしかったのではなく。お腹が勢いよく鳴いたから。
何か食べたいな。
ミュウは、明かりをつけると、姿見の前で服を整え、居間へ行くためにドアを開けた。
廊下突きあたりの窓から、灰色の厚い雲を通した朝の日の光がかすかに入ってくるだけで、真っ暗だった。
窓ガラスを洗うかのように、雨が降り、雨まじりの風が窓ガラスを叩いた。強い風雨が窓ガラスを叩く音が遠くの方でも聞こえる。
ミュウは薄暗い階段を下りて、朝ご飯をいつものように作ることにした。
「よーし」
ミュウは顔を洗って、手をよく洗うと、鍋を火にかけて野菜から切り始めた。
朝食を作っていると、少し元気になれたような気がした。
急に、台所の空気が動いた。家の中を風が駆け抜けていく音がして、
「ただいま」
アプリリア先生の声がした。
「え? お帰りなさい」
ミュウは台所から顔を出した。アプリリア先生が外に出かけているとは思わなかった。
「先生、ベットまで運んでくれてありがとうございました」
と言いたかったのに、ミュウは、つばを飲み込んだだけだった。
アプリリア先生はずぶ濡れだった。髪の毛は額に張り付き、眼鏡も水滴に覆われていた。でも、そのこと以上に、アプリリア先生の隣にいる物にミュウの目は奪われた。
黒い毛のかたまり。水に濡れた黒い毛のかたまりがアプリリア先生の隣にいた。
先生の肩より少し高いくらいの黒いかたまり。
ミュウが子どもの頃から、恐れているおばけそのものだった。
「ミュウ。ちょうど良かったお風呂釜に火を入れてくれない? あとタオル」
「先生。それは」
ミュウの声は悲鳴に近かった。
アプリリア先生は、黒い毛のかたまりをチラリと見た後。
「ナイよ」
「ナイ?」
「そう、私が名付けたわ。自分に「忘却の呪い」をかけた魔女に、ね」
「忘却の呪い?」
魔女のたまごになる前ならなんでもない言葉だったのに、ミュウはその言葉の持つ意味に背筋が寒くなった。
「わかったようね。名前も何もかも失ってしまう強力な呪い。竜でも殺せるんじゃないかしら。それを自分にかけた」
ミュウは先生の言い方が少し気になった。どこか笑っているような、ふざけているような、そんな感じ。
でも、それは大間違いだった。
「愚かで傲慢な魔女よ。だから、私が名前を与えて縛り付けた」
「あ」
ミュウは悲鳴のような声を上げて、動けなくなった。
アプリリア先生の美しい髪の毛が、肩のところまででなくなっていた。
そのこと以上に、ミュウはアプリリア先生が怖かった。アプリリア先生が本気で怒るときは、様々な感情があふれ飛び散る噴火山のような怒り方をすることを知った。
「ミュウ」
「は、はい」
ミュウは口がこわばってしまって、返事が遅れた。
「どうしたの?」
「え、あ。先生、髪が」
「髪ならいつでも伸ばせるわ。髪でこの魔女を縛り付けたの。ミュウ、あなたに、このナイの世話をしてもらうわ」
「え? えええ?」
「大丈夫。あなたの言うことはすべて聞くはずだから。とにかく、お風呂を沸かしてくれない?」
「はい」
ミュウは、ボイラーのある勝手口へと走った。
死の呪いをかけた魔女の世話。
ミュウは考えたくもなかった。
ミュウは、落ち着かなかった。
朝食の間も、どうしてもナイと名付けられた魔女の方をついつい見てしまう。
似ても似つかなかったけど。あの夢で見た魔女と同じように、まるで死というものを形にしたような姿だった。
あの魔女が、死というものが枯れて無に帰ってしまう感じなら、こちらは生きて動く生々しい死だった。
ナイは黒い髪の毛に覆われ、髪の毛の筋にしか見えない手で、器用に、ミュウが作ったスクランブルエッグをすくう。
口は奈落の底のようで、目は見えなかったけど、きっと赤い灼熱した石炭のような目だと、ミュウは思った。
ナイを想像するたびに、胸が押しつけられたように苦しくなる。
ミュウは、「語らい」の時間で、ナイの世話を断ろうと思った。
名前を消してしまう。
ミュウは、そう心の中で呟いてみただけで身震いがする。
ミュウは、アプリリア先生との最初の授業。「名前」の授業のことを思い出していた。
「ミュウ。私の名前を言ってみて」
「アプリリア……先生」
「先生は余計」
アプリリア先生は苦笑いをしながらうなずいた。
「じゃ、これは」
アプリリア先生は指を一本立てた。
「一、じゃなくって指ですか?」
「そう。これは」
アプリリア先生は髪の毛を一本引き抜くと、ミュウに見せた。
「髪の毛」
「そう。でもこれはすべて私でしょ?」
「え? はい」
「私たちは、一つの名前しか持っていないけど。私たちを作るものは一つではないの。指、髪の毛、体の中を駆けめぐる血は私の体を作り上げている。でも、それだけでは、アプリリアにはならない。どうしてだかわかる?」
「わかりません」
と、答えた途端、アプリリア先生は、指でミュウのおでこを弾く構えをした。
「え?」
「魔女のたまごは、すぐにわからない、なんて言ってはいけないの。頭を使って考えて、勘を働かせて自分の答えを見つける。いい?」
「は、はい」
「じゃ? どうして、体だけではアプリリアにならないの?」
「えーと。えーと」
ミュウは本当に困った。
体だけでは、アプリリア先生はアプリリア先生にならない。
体だけではミュウはミュウにならない?
ミュウの頭の中でひらめきが光った。
「あ。心がないと」
「そうね。心も必要だわ。その他には?」
「え? あと……」
ミュウは苦しくなってきた。苦し紛れに、
「友達とか、家族とかいないと……」
「正解。考えればできるでしょ。でも、答えが必ずしも合っている必要はないの」
「え?」
「考えることを放棄しては駄目。勘を働かせることを怠けてはいけない。そのことさえ忘れなければ、間違っても良いわ。あなたはまだ魔女のたまごなのだから」
「はい」
「さっきの続き行くわよ。私を作っているものは、体と心、周りの人々、家族や友人の心に描き出された自分。私が為したこと。これから為すこと。その一つ、一つ、そのすべて。そのすべてを一つの言葉で表すのが名前。つまり私はアプリリア」
ミュウは思った。じゃ、もし? そのどれかが欠けたら?
「どうしたの? 考えながら浮かんだ疑問はどんどん質問しなければ。あなたの授業だから」
「はい。あの、その、先生を作っているものの一つでも欠けると、どうなるんですか?」
「一つ、二つならまだ私を保てるかも知れないけど、多くを失うとこの世界にいないのと一緒でしょうね」
「え、でも、それじゃ」
「ほら、思ったことは口にしてごらんなさい」
「あ、あの、その。この世界には、まだ発見されていない動物や、植物があるから。その」
ミュウは、冒険家の本が好きだったから、そのことを思った。
世界には、まだ人間が行ったことのない場所がたくさんあって、人間が知っている十倍以上の動植物が、この風向台にある、という。
「へぇ」
アプリリア先生は微笑んで、
「ミュウ。すばらしいわ。いい考え方よ」
ミュウは頬が熱くなった。
「いい? ミュウ。この世界に住んでいるのは人間だけではないわ。人間以外。例えば、まだ人間に発見されていない蝶だけが知っている花があったとしましょう。でも、蝶が知っていれば、その花は存在できる、とは思わない?」
「あ」
ミュウの胸の中に、緑の森の中でひっそりと咲く、蝶だけしか知らない花が見えたような気がした。
「なかなか良い調子。この調子でいきましょう」
「はい」
「だから、すべてを一つの言葉で表してしまう名前は、一番強いおまじないであり、呪いでもあるの」
ミュウがうなずくのをみてからアプリリア先生は続けた。
「赤ん坊が生まれたとき、親は子どもが素晴らしい人物や健康に育つように、名前に願いを込めるわ。もし、その名前に、傷をつけることができたら?」
ミュウは、ぞっとした。
「よくないことが、起こる……」
「そう」
この魔女は、傷つけただけで大変になる自分の名前を消そうとしたんだ。
ミュウは、黒い毛の塊のようなナイを気味悪く思った。
ナイが大きくあくびをした。まるで大きな犬のようだった。歯肉が血のように赤く、歯は小さな牙そのもので、それが三列もあるのが見えたような気がした。
「え?」
竜?
よく見ると、ナイは人なんかではなく。テーブルに前足をついた大きな黒い犬のように見えた。でも、大きな犬に黒い二本の角が生えているだろうか。
ナイの影がスルスルと、テーブルの上を走り、ミュウの方に伸びてきた。
ミュウはつばを飲み込む。声が出せない。目の前にいるアプリリア先生に助けを呼ぶ声が出せない。
どうにか、目だけを動かして見たアプリリア先生は、このことに気がついていない。
ミュウは悲鳴をあげたかった。
ナイの黒い体がドロドロした液体が弾け飛ぶように膨らみはじめる。
黒い長い毛がゆらゆらと逆立ち、顎の先まで裂けた口から白い牙、毛と毛の間から、血のように赤く、コインのように丸い瞳が見える。
光る瞳がミュウの方を見た。
ミュウが弾いたコップが、床の上で甲高い悲鳴を上げて砕ける。
ミュウも、悲鳴を上げていた。
「ミュウ」
アプリリア先生がミュウの肩を肩をつかんだ。
「大丈夫。落ち着きなさいミュウ。大丈夫」
アプリリア先生にミュウは抱きしめられた。
「先生。ナイが」
「大丈夫。絶対あの子はあなたを襲ったりしないから」
「でも、今」
ミュウは、アプリリア先生の影から、震えながらナイを見ようとした。でも、ナイはその場にいなかった。
「ナイは、外に出てったわ」
アプリリア先生は、ミュウを解放すると、開け放たれた勝手口へと歩いて行った。
「ほら、あそこに」
アプリリア先生が指さしたところに、一瞬だけ、雨の中でうずくまる女の人が見えた。
その姿が、ミュウの心の中で、いじめっ子ムラーノにいじめられていた時の自分の姿と重なった途端。ミュウは雨の中を走り出していた。
ミュウは頭の中が沸騰して灼熱したかのようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ミュウは黒い毛の塊のようなナイに抱きついた。ナイは氷のように冷たい。
なんて、ことをしたんだろ。
人を助けたいから魔女を目指しているのに、人を傷つけてしまうなんて。
「はやく、家の中へ」
アプリリア先生も雨に濡れながら、ナイを抱き上げた。
「ナイは、私が仮に名前を与えて縛り付けているだけだから、周りの影響を受けやすいの。しかも、この魔女は死にたがっている」
「先生。私、どうすれば」
ミュウは家の中に戻るとアプリリア先生からタオルを受け取った。
「大丈夫。おそらく、東のくちばしにいる施療師の誰よりも、ミュウ、あなたが一番上手くナイを治すことができるわ」
アプリリア先生は眼鏡を外し、まるで男の人のようにタオルで髪をクシャクシャにした。
「え?」
ミュウには、アプリリア先生の言っている言葉の意味が分からなかった。
「答えはもう言ったわ。自分の答えを出しなさい」アプリリア先生はミュウの顔を見て苦笑した。「ナイはこんな姿でも、トイレとお風呂はつれていけば自分でできるし、食事も今のように自分で食べられるから。ナイのお世話をお願い。でも、さっきも言ったように、ナイは外からの影響を受けやすい。ナイを嫌うと化け物のようになってしまったり、衰弱して死んでしまうから。そのことだけは気をつけて」
ミュウは濡れたナイをタオルで拭きながら、無言のままアプリリア先生の顔を見上げた。
「犯したことは、どんな言葉を持ってしても正当化できないけど。私はこの魔女を助けたいから。ミュウも協力して。あなたの力が一番の頼りだから」
ミュウは、ナイを見つめるアプリリア先生の顔に、いくつもの感情の粒子が流れるのを見た。
でも、ミュウは、自分のどこに、そんなアプリリア先生に頼られる力があるのか解らなかった。ただ、一つ思ったことがある。
「あの、先生。私がナイが怖くなったのは」
「どうかしたの? ミュウ。今のあなたが思った疑問は、よく考えてから、出た答えの確認のために訊きなさい」
「あの。「語らい」の時間の一番最初の時に言った、言葉」
「あなたに報いるには、花マルでは足らないようね」
アプリリア先生優しく微笑んだ。
「それがわかったら。ナイの世話をよろしく。もし、ナイと知り合うことができれば、あなたのこれ以上にない先生になれるわ。私は、少しの間、家を留守にすることも多いから」
「何かあったのですか?」
「一人前の魔女が責任を持たなければいけないことだから。気にしなくても良いわ」
そう言われると余計に知りたくなるもの。
ミュウは、アプリリア先生の言わなかったことを知りたくなった。
でも、ヒントはあったのに、ミュウは見落としていた。
二日前に出したミュウの週間天気予報は、ちゃんと調べた結果の晴れの予報だったのに、家の外はずっと雨が降り続いていた。
8 訪問者
ミュウは、この二日というもの夢をまったく見なかった。すごく久しぶりのような気がした。
結局、あの魔女と、その母親がどうなったのかわからない。アプリリア先生には魔女のことを話したけど、それ以上のことは話し合わなかった。ミュウも必要ないことだと思った。例えアプリリア先生から何かを聞けたとしても、あの魔女を助けることはもうできないのだから。
もしかすると、母親の魔法で魔女が元気になったから夢を見なくなった。そんな風に、自分に都合良く考えてみたりもしたけど。違うような気がした。
あの魔女は確かに死の床にいた。それだけは間違いがなかった。
だから、ミュウは寝る前と起きた後に、あの魔女と母親の幸せを祈ることにした。
ミュウは、病気に冒された魔女の手を握って元気づけることはできなかったけど。今は、ナイという名前が付けられた魔女の手を握ってあげることはできる。
そう心に言い聞かせて、熱心にナイの世話をした。
ナイは生まれたときから、居眠りが好きな犬のようにこの二日間過ごした。
居間で薬草の本を読むミュウの傍らで、ナイはいつものように体を丸めて眠っていた。
今日も雨。
アプリリア先生も今日もまた出かけていた。
薬草の本は、けして面白いものではなかったけど、今までのように眠くはならなかった。
でも、一時間も同じ姿勢で本を読むと、首が疲れてきたので伸びをした。
ドン、ドン、ドン
ドアを叩く音が居間まで響き渡った。
ミュウは不思議に思った。アプリリア先生の家には呼び鈴がちゃんとあるし、イオおばさんの家と同じで、小さな子どもだって、ドアを叩かずに呼び鈴を鳴らすことができた。
「はい。どなた様ですか」
「人造人間いる?」
人造人間?
ミュウの中にこの前、小学校の映画会で見た「人造人間対大毒蛇」という映画を思い出した。
「大毒蛇も人造人間もここにはいません」
「まったくぅ。ビューを馬鹿にするにもほどがあるわ。折り紙で作った召使いの癖して」
ミュウは扉の向こうに小さな女の子がいると思った。
「私は、折り紙のカササギではありません」
「じゃあ何よ」
ミュウは扉を開けると、そこには、自分より背も年齢も高い魔女が、傘をさして立っていた。今時珍しい、昔ながらの黒いローブを着た魔女だった。
「え?」
「あ?」
顔は似ても似つかなかったけど、二人ともまるで同じように大きな口を開けて見合った。
「あなた誰ですか?」
「それ、こっちの台詞よ。あなた名乗りなさい」
「え? 私、アプリリア先生の弟子のミュウです」
魔女は大きく息を吸い込んで、
「え?」
と怪訝という言葉そのものの、あまりにも面白い表情だったので、笑いが喉元までこみ上げてきた。
「あの人造人間。いつの間に弟子を取ったのかしら? まったく。あなた。あんなどうしようもない魔女の弟子なんか、さっさとやめてしまいなさい」
魔女のしゃべり口調が、まるで小さな女の子のようだったので、ミュウはものすごくひどいことを言われたのに、そうとは思わなかった。
「私、人造人間の弟子ではないですよ?」
「あなた人造人間の弟子じゃない。あの冷酷、冷血な魔女の」
え?
でも何となく言いたいことはわかった。アプリリア先生には、無駄というものがなかった。
確かに人造人間ぽい。
でも、
「先生はすごくいい人ですよ」
「あなた、絶対間違ってる。間違ってるんだから。ビューが言うんだから間違ってるの」
魔女が体を乗り出してくるからミュウは後ずさった。
「ビューさんとお呼びしていいんですか?」
「え? そうよ。なんでわかったの? でも、私を呼ぶときは、ビューエルと呼んでちょうだい」
「はい、ビューエルさん」
「よろしい」
「ビューエルさんは、どうしていらしたんですか?」
「よくぞ訊いてくれたわ。あの人造人間が呪われたものを拾ってきたというから確かめに来たの」
呪われたもの?
ナイのこと?
「さぁ、そこをどいてちょうだい」
「え? え?」
魔女ビューエルは傘をたたむと、ズンズン家の中に入ってきた。
「ちょっと待って」
ミュウが止めるのも聞かずに、ビューエルは迷うことなく居間に入った。
「出てきなさい人造人間」
ビューエルと、ナイの目が合った。
ビューエルの雨に濡れたローブの袖が鳴った。
「見つけた。覚悟」
猫科の動物が獲物を見つけたときのような目で、ナイを睨む。
「やめて、ビューエル」
ミュウの声はもうすでに悲鳴だった。
ナイが笑ったように見えた。
頭が床に落ちると、床に伸びて動かなくなった。
「え?」
と言ったのはビューエル。
「ナイ」
ミュウはナイに駆け寄った。まるで本物の犬のように舌を床に垂らして動かなくなっていた。
息をしてない。
ミュウは体が寒くなった。
「ビ、ビューのせいじゃないわよ。ただ、呪いの力が外に漏れないように、閉じこめるだけのつもりだったんだから」
ビューエルは震えながら後ずさりした。
ナイが死んじゃう。
ナイが。
「ビュー知らないんだから」
廊下まで逃げ出したビューエルのローブを、ミュウがしっかりつかんだ。
「ビューのせいじゃない。知らない」
ミュウは叫んでいた。
「あなた施療師でしょ。助けて。このままじゃ魔女が一人死んでしまう。そんなの嫌なの」
「ビューは、人なんか治したこと一度もないわ」
「お願い。ナイが死んでしまう。アプリリア先生、ここにいないの。お願い」
ミュウは叫んでいた。
ビューエルは目をかたく閉じて、駆けだした。
居間まで駆け戻ったビューエルは、横たわるナイを仰向けにした。
「尖った骨から、一歩二歩」
ビューエルは口元で唱えながら、ナイの胸の真ん中を指でなぞり、止まったところに両手を添える。
「あなた。名前は?」
「ミュウ」
「じゃあ、ミュウ、協力して。「帰ってきて」ってあなたも思いっきり念じて」
ビューエルは涙で濡れた目でミュウを見た。
ミュウは強くうなずいてナイの手を握りこんだ。
帰ってきて、ナイ。
お願い死なないで。
五分か十分か、もしかすると一時間もの間、ずっとそう念じていたのか、それとも全然時間が経っていないのか。もうミュウにはわからなかった。
ミュウの手に温かさが増し、ナイの体が小さく揺れた。
「はは」
涙の残るビューエルの笑顔とミュウの笑顔が向き合った。
ナイは犬のように大きく咳き込むと。うつぶせになった。
「こんなのへっちゃらなんだから。ビューにかかればお手のものよ」
「うん。ありがとうビューエル」
ビューエルは気まずそうな顔でミュウをチラリと見た後、視線を逸らした。
「な、なーに言ってるのよ。これもそれも、元々人造人間がこの……なんでもない帰るわ」
「うん。ありがとう」
「ふーんだ」
ビューエルは小さな子が拗ねるときのようにすると、居間から大股で出て行った。
ミュウはビューエルの背中に、
「ありがとうビューエル」
「ちょ、調子狂うのよね。ミュウ。あなたの名前はちゃんと覚えておくわ。この借りは、ちゃんと返すから」
ビューエルはミュウの方に振り返らずにそう言うと、そのまま玄関に向かって歩いていった。
ミュウは、ナイの頭をなでながら微笑んだ。
9 嵐の魔女
夜になって雨はより強くなり、嵐になった。
時々、家を揺らすような雷が聞こえた。
ミュウは魔女の集まりに出て帰らないアプリリア先生のことが心配だった。
アプリリア先生は、時間になると必ずカササギにメッセージを持ってこさせたし、カササギが飛べない日は必ず電話をくれるはずだった。なのに、その電話はまだなかった。一度、電話線が切れていないか疑ってしまったくらいだ。
居間の飾り時計が午後七時を告げた。
もう、とっくに食事の用意はできていた。
食事が冷めてしまうのはまったく構わなかった。ただ、心配だった。
ナイが近寄ってきた。まるで年老いた犬のようにミュウの椅子の側でまた丸くなった。
「ナイ、私を慰めてくれてるの」
ナイが急に閉じていた目を開いた。頭を巡らして玄関の方を見ると、玄関の方に駆けだした。
「え? アプリリア先生が帰ってきたの?」
ミュウはナイの後を追った。
ナイは玄関前で立ち止まった。
ミュウは、雨と風の音だけで、呼び鈴もノックもしない扉の前で、もう一度ナイの顔を見た。
ナイがうなずいたような気がした。
ミュウが扉を開けると、強い雨と風が吹き込んできて、雨にずぶ濡れになったアプリリア先生が家の中に両ひざをついた。
あの名前も知らない魔女と、アプリリア先生の姿が重なりあう。
「アプリリア先生。しっかりしてください」
アプリリア先生の目が、水滴だらけの眼鏡の向こう側で笑っていた。
「大丈夫。少し立ちくらみがしただけ」
そう言っても、先生の肌は白く、唇は血の気を失って紫だった。
「いますぐ、着替えを用意しますから。着替えて暖かくして眠らなきゃ。あとご飯は」
「大丈夫。それくらいはできるわ。何も食べたくないから、もう寝るけど。あなたはちゃんと食べてね」
アプリリア先生は何ごともなかったように立ち上がると、階段に向かって歩き出した。でも、あの先生が雨に濡れた合羽を着たまま家の中を歩くことが信じられなかった。
「どうしたらいいんだろう」
私、どうしたら。
「うしィのキモ石、ウワァかジッカのツノ、ジャッコウ、ローズ…ヒッフゥ、セージ」
声が聞こえた。
人の言葉をしゃべれない獣が、無理矢理に人の言葉を喋ろうとした感じ。空気が歯と歯の間から漏れる音が混じった、聞き取りにくいものだった。
でも、ミュウには何を言っているのか、わかっていた。
ナイは牙の生えそろった口を一回開けて、また閉じる。
「牛の肝石、若鹿の角、麝香、ローズヒップとセージでいいの?」
ナイはうなずいた。
ミュウは、アプリリア先生の診察室に走った。
小さな引き出しがたくさんついた薬草戸棚。その中から次々に薬草をそろえた。
ミュウは、集めた薬草を前に迷わなかった。
小さな薬さじで次々に薬になる動物の角の小さなかけらを白い乳鉢に入れると、乳棒で粉にし、ローズヒップを多めにして小さな布の袋に詰めた。
台所に走っていくと、ティーポットにすでにできあがっていたお湯をそそぎ、紅茶を入れる要領でハーブティーを淹れた。
ティーコゼをティーポットが冷めないようにかけて、アプリリア先生のカップもお盆に乗せると、二階へと上がった。
アプリリア先生の部屋をノックする。
でも返事はなかった。
怒られるかも、と思ったけど。「怒られてもいい」と呟いて、ミュウはドアを開けた。
アプリリア先生の部屋は、魔女の部屋という感じがしない。製図台と小さな本棚が置かれた飾りっ気のない広々とした部屋だった。まだ奥にも部屋がある。
ミュウはそおっとその奥の部屋へ向かって歩いていった。ナイもついてきている。
寝室には、タンスがあってタンスの上には古ぼけたウサギの人形が一人いた。
ミュウの目とウサギの目があう。ミュウは、まるで初めて遊びに行った友達の家で、無口な男の人に会ってしまったかのように会釈をした。
ベッドの上で眠っている、アプリリア先生の顔を一度のぞき込んだ後。
お盆をそっとナイトシェルフの上に置き、ミュウは先生のおでこに手を置いてみた。
不安を煽るような不快な熱さだった。
どうしよう。
「こぉりまくら、あいすぅはーっぶ、ふぁいあプラント」
ナイがまた語りかけてきた。
ミュウはうなずくと、アプリリア先生の診察室からナイに言われた薬草を迷うことなく選び出した。
台所に走って、皮の袋に氷を入れてタオルでぐるぐる巻きにする。
ミュウはアプリリア先生の部屋に駆け戻った。
「こら」
アプリリア先生は体を起こしていた。
「あ。先生。ごめんなさい」
眼鏡をかけていないアプリリア先生は、疲れた微笑みを浮かべ。
「あなたの好意に預かるけど。いつ課題をクリアーしたの」
「え?」
アプリリア先生はため息をついた。
「この部屋。灯り付けていないのに、よくぶつからずに歩けるのね。それにこのハーブティー。私好みの味ではないけど、初めてにしては上手くできてるわ」
あ。
ミュウは暗闇の中でも目が見えていた。
夢中になっていたから、そのことに今まで気がつかなかった。
「あ、あの、その。ナイに言われたとおりやってて」
「そう。じゃ、私の足にその手に持ってるファイアプラントを良くもんで貼り付けてちょうだい。アイスハーブはもう使い物にならないから捨てて、新しいのを持ってきて。あと氷枕ちょうだい」
「え? はい」
ミュウは、手に持っていたアイスハーブが枯れていることに気がついた。
「今やってる仕事が片づいたら。おいしいケーキ屋さんにでも行きましょうか?」
「は、はい」
ミュウは笑顔で答えた。
◇ ◇ ◇
ミュウはベッドに入ったけどぜんぜん眠れなかった。
アプリリア先生が心配だったこともあるけど、窓ガラスをガタガタ鳴らす嵐も不安だった。
嵐の夜、ミュウのお父さんは眠らないのだ。
ミュウのお父さんが作った風車は、東のくちばしを襲ったどんな大風にだって、ビクともしなかった。でも、いつ風車が止まっても大丈夫なように、嵐の日は、お父さんは寝ずに待機していた。
風車に何かが引っかって回らなくなると、風車の塔や小屋ごと崩れてしまう危険性があったからだ。
多分、今日もお父さんは起きている。
ミュウのお父さんが、東のくちばしで一番大きな風車の上で叫んでいた。
両腕を広げ、渦を巻く灰色と黒い雲の先、さかなのほね町の先に広がる荒れ狂う海に向かって、戦いを挑む騎士のように、叫んでいた。
お父さん負けるな、がんばって。
ミュウは叫んだ。叫んだけど声が声にならなかった。
ミュウは急に現れた胸の奥を焦がすような嫌な感じに、夢を見るのをやめて、目を覚ました。
目覚まし時計は、午前三時を回っていた。
胸がドキドキする。
ミュウは窓の方に目線を走らせると、窓はガタガタ鳴り、雨が窓を洗っていた。
急に、足下からからみつくツタのように不安が押し寄せてくる。
ミュウは起きあがると、明かりをつけた。
「どうしたんだろ」
ミュウはベットから立ちあがった。その時、家中に響くような、ドアが閉まる音がした。
ミュウは小さく悲鳴を上げて、自分の部屋を飛び出した。
アプリリア先生の部屋のドアが開いてる。
ミュウは階段を駆け下りていった。いつものほうきもなくなっていた。
「アプリリア先生。なんで」
ミュウは気配を感じて廊下の方を見ると、ナイが犬のように歩いてきた。
「ナイ。アプリリア先生がどこに行ったのか知ってる?」
ナイは小さくうなずいた。
「私を連れてって」
ナイはミュウをじっと見た。
「お願い」
ナイは小さく首を横に振った。
「アプリリア先生を、あの夢の中の魔女のようにしたくないの。お願い」
ナイは、しばらくの間ミュウの顔を見たあと。冷たい雨と風が荒れ狂う外へ出た。ものすごい風と雨が家の中のミュウに吹き付けてくる。
周りが青く光った瞬間、雷が横に走り、ウィッシュボーンの夜を照らし出した。
ナイの立っていた場所に、一瞬だけ黒い服の魔女が立っていた。
「え?」
ミュウは目をこすると、黒犬のようなナイがミュウを見ていた。
え? 背中に捕まれって。
ナイは心のつぶやきにうなずくかのように頭を縦に振った。
「こう?」
ミュウはナイの背中にしがみついた途端、ナイが走り始めた。
ミュウは、口の中に雨が入るのも構わすにぽっかり開けた。躍動するナイの肉体。夜の街がミュウの前から後ろに向かって風のように流れていく。
え?
大きな浮遊感がミュウの体を包み込んだ途端、ナイは飛んだ。
巨大なかぎ爪のある翼がナイの肩から生えていた。
ナイはもう黒い犬などではなく黒い竜そのものだった。
二度、三度と羽を羽ばたかせるだけで、嵐の中を滑るように飛んでいく。
青い稲妻が辺りを何度も照らし出した。
ミュウの目に天を差す指のような塔が見えた。青い稲妻を受けて青く光り、小さな稲妻が塔の表面をなでていた。
ナイはそこに向かって飛んでいった。
近づくにつれて、塔の隣に小さな明かりが見えた。明かりはどうやら塔の隣の家から漏れ出た光のようだった。
ナイはその家の玄関前にミュウを下ろした。
ミュウは吹き飛ばされそうになりながら扉の取っ手をつかんだ。扉を叩いて返事を聞く前に、ミュウは家の中に体を押し込むと、風で吹き飛ばされそうになっている扉を体全体を使ってどうにか閉めた。
ミュウは振り返って、ぞっとした。
雨で、部屋の中が水浸しになっていた。
それよりも怖かったのが、たくさんの魔女たちがミュウの方を見ていた。
「あら~、ミュウ。久しぶり。本当にすごい規則破りの魔女のたまご。おまけにパジャマできてしまうのだから。それでこそアプリリアに弟子入りさせたかいがあったわ」
魔女たちの中にいたイオおばさんが歩み寄ってきて、ミュウの頭を、乾いたタオル覆った。
イオおばさんの家のハーブの匂いがした。
ミュウはイオおばさんにタオルで拭いてもらいながら、部屋の中を見た。
暖炉には火が煌々と燃えていて、その近くの椅子によく知っているはずの魔女がいた。まるで、五十年も歳を取ったように見える。
一瞬だけ、あのベッドの上で眠っていた魔女と姿が重なった。
ミュウは駆け出そうとしたけど、イオおばさんがそれをさせなかった。
「ミュウ。ちょっとの間、我慢してて、絶対に悪いことにはなりませ~ん」
イオおばさんは、ミュウの耳元で小さくささやいた。
「アプリリア。何か打開策は?」
頭のてっぺんまで濡れた痩せた魔女が、何ごともなかったかのように言った。
「こうなっては、誰かが赴いて説得に当たるしかないでしょう」
まるで年老いた魔女のように、言葉一つ出すのも疲れるかのように、アプリリア先生は言った。
説得?
誰を?
「でも、嵐の中心に行ける魔女なんて。第一、この灯台守の家にまでたどり着けないのが大半だって言うのに」
太ったおばさん魔女が言った。
嵐?
中心?
「ビューが行くわ」
あの、ビューエルが小さく手を挙げた。ミュウと目があって、ビューエルはミュウにウィンクした。
「ほうきを使わない魔女では行けません。嵐に流されてそのまま消えてしまいます」
同じ声の持ち主が、二人同時に、同じことを言うのを聞いた。ミュウは鏡に映った姿のような双子の魔女を見た。
「何ですって」
ビューエルが大きく腕まくりをした。
「ふふふ。そこの魔女のたまごが乗ってきた竜ですら、ほうきなしでは嵐の中心にはたどり着けません」
ミュウは息を呑んだ。双子の魔女は髪の毛一筋まで全く同じように見えたけど。ミュウの方を向いたその金色と黒い瞳が左右で異なっていた。確か、市長さんの娘さん達だ。
「私が行くのが順当でしょう」
アプリリア先生の顔は暖炉の炎に向いていてその表情が見えない。
「そんな」
ミュウはアプリリア先生が、またあの夢の中の、名前も知らない魔女と重なった。
「アプリリア先生が死んじゃう」
「……ミュウ。この嵐は普通の嵐ではないの。……この世界にいる七人の竜の王、その一人。「嵐の王」がもたらした嵐。これを沈めるためには、誰かが嵐の中心に赴いて、「嵐の王」と話しをつけなければいけない」
ミュウの心の中にも嵐が訪れた。「嵐の王」とはミュウも知っている竜の王様の一人だった。
ミュウは恐怖で口がこわばり、でも、逆らうように言った。
「だからって、今の先生が行くことない。死が友達だからって、死に会いに行くことなんかない」
半分叫んでいた。
「そうよ。ビューが行くって、行ってるんだから」
「ミュウ。大丈夫。私はまだ死に会いに行くつもりはないわ。人を救うため、助けるために行くの。誰も、私のように飛ぶことはできない。かわりはいないわ。もし、このまま、東のくちばしが「嵐の王」の嵐に飲まれたら、たくさんの人が死んでしまう」
「そんな。だからって今の先生じゃ、先生が嵐に飲まれちゃう」
ミュウは、そう言葉にしようと思った、でもすぐに違うと思った。感情の奥底の、心の言葉にまかせて、ミュウは叫んだ。
「今の先生、いつもの先生らしくない。嘘をついてる」
アプリリア先生は何も答えられなかった。
「先生、言葉では死に会いに行かないと言ってるけど、無理だと思ってる」
アプリリア先生は目を見開いて、それからゆっくり微笑んだ。
「ミュウ。あなたは私の最愛のたまごよ」
アプリリア先生は今までの様子が嘘のように立ち上がった。もう、あの年老いた魔女のような雰囲気はなかった。
「ビューエル」
「はい、って何よ」
「あなたは、ここに残って。灯台の修正をしてもらわなければ困るわ。気まぐれな雷が町中に飛んでいってしまいました、なんて言い訳、二度も通用しないから。それと、サボって私の家に寄り道したこともわかっているのだから、その分の仕事はしてちょうだい」
ビューエルは小さく唸った。
「ロンド新しいほうきを」
「あいよ」
太ったおばさん魔女は、手に持っていたほうきをアプリリアに手渡した。
「先生」
ミュウの声は悲鳴になった。
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるわ。こんなに素晴らしい弟子に恵まれたのだから。必ず戻ってくる」
「戻れないわ」
双子の魔女の声が重なった。
「ヤヤ、ヨヨ。ずいぶんあっさり言ってくれるわ」
「そう思いますよ」
その場にいた魔女全員の視線が戸口の方に向いた。
あの、ミュウの夢の中にでてきた魔女が、雨に濡れた姿で立っていた。
アプリリア先生が会釈をすると。魔女も軽く会釈で返した。
「私は、東のくちばしの束ねの魔女のアプリリア。お優しい忠言を述べるあなたは?」
「私の名前は、エバーミスト」
魔女は目を閉じ、自分の名前を自分の胸に刻みつけるかのように言った。
アプリリア先生は微笑んだ。
「これで、あなたが自分にかけた「忘却の呪い」は破棄された」
エバーミストは自嘲するかのような笑みを浮かべた。
「そうですね。でも、「嵐の王」の御前に行けば、同じかも知れません」
「異国の魔女よ。あなたが往くのかい?」
痩せた魔女が言った。
「少なくとも、そこの双子の方の予言を信じるのなら。私がほうきを持てば、嵐の中心までたどり着けるはず。それで「嵐の王」とかけ合うことができます。悪いことではないはずですよ」
「……ナイなの?」
ミュウの声にエバーミストは顔を向けた。
「やっと会えましたね。あなたがよく私のところに来ていたことは知っていました」
「行ってはダメ」
エバーミストは微笑んで、
「小さな魔女のたまごさん、あなたの名前を聞いていませんでした。お名前は?」
ミュウは、すぐに叫びたかったのに、叫ぶ力を奪われてしまったようになった。口をぱくぱくさせた後で、
「ミュウ。アプリリア先生の弟子のミュウです。あの、行ってはダメです」
「ミュウ。あなたも本当は分かっているはずですが。魔女は、できる者ができることをするのです。だから、私が嵐の中心へ行くことに、この場の誰も反対はしません。誰かが「嵐の王」を説き伏せなければ、あなた達の住む街にひどい爪痕を残すことになるでしょう」
優しげな目がミュウを見ていた。
「でも、でも」
「ミュウ。いい魔女になるその日まで。あまり軽はずみなことはしない方がいいです。さぁ、私にほうきをください」
「ダメ、そんなの」
「ミュウ。私は、母親の命を奪って、今の私がいます。その、私がこの場にいて、人を助けることができるのなら、それは運命でしょう」
ミュウには見えた。
あの夢の続きのようだった。
魔女は、自分のかわりにベッドの上で死んでいる母親を見ていた。
ベッドの上で眠る、安らかな顔はすぐに涙で見えなくなった。
「あの優しいお母さんの分まで、生き続けなきゃダメ」
エバーミストは驚いたような顔をした。それがやがて微笑みに変わる。
「いい子ですね」
「そう、いい子よ。エバーミスト。あなたは必ずここに戻りなさい」
アプリリア先生はほうきを手渡した。
「また。あなたは私を縛るおつもりですか?」
「必要ならそうするわ」
魔女はその言葉を受け取ったのかのように、小さくため息をつくと。
「それでは行きましょう。ありがとう。ごきげんよう」
エバーミストは、まるで、これから散歩に出かけるような気軽さで扉を開けると、外へ歩き出した。
不思議なことに、さっきは風でドアを閉めるのでさえ大変で、部屋の中まで雨が入ってきたのに、雨の音すら入ってくる気配がなかった。
ミュウは後を追った。
「待って、行かないで」と言いたかったけど。ミュウが本当に言いたかったのは別の言葉だった。
「エバーミストさん。行ってらっしゃい」
風に髪を巻き上げられたエバーミストは、優しく目を細めた。
エバーミストの唇が「行ってきます」と言ったようにミュウには見えた。
黒い服の魔女は、まるで突風に吹かれたように、嵐の空の中へ舞い上がって行った。
10 嵐の王
「魔女の成り立ちは、ずいぶんと前にやったわね。口述……言葉で言ってごらんなさい」
抜き打ち。
しかも、言葉で言い表す口述試験は、ミュウの大の苦手だった。居間から見える木々のように寒々しくなる。
東のくちばし地方は、夏が終わって、秋もすでに終わりにさしかかっていた。朝晩の冷え込みは厳しく、昼でも曇るとストーブが欲しくなるくらいだった。
今、ミュウは、魔女の歴史の授業の真っ最中だった。
椅子を後ろに引くと、おずおずと立ち上がる。息を短く吸い込み、
「えーと。魔女は、子どもを守りたいと思う。母親から生まれました。えっと、赤ん坊から三歳までにかかるといわれる病気の直し方を母から娘、その娘へと引き継いでいった……」
ミュウは、わかっているはずなのに、緊張してちゃんと言うことができなかった。筆記試験だったら間違いなく、合格をもらえるはずなのに。何度も、口述試験をやっているはずなのに、どうしてもミュウは慣れることができなかった。
「……筆記ではけして悪くないのに、口述だと今一つかしら。こういうことは、魔女になったときに、効いてくるわ。しっかり人前で説明できないと。治療の方針とか、薬のこととか、相談する時に困るわよ。昔ながらのおばあさん魔女なら、何も言わないでも信用してもらえるけど。私や、あなたのように若い魔女が病人を前にした時。自信を持って説明できないと、治るものも治らなくなる」
「はい」
ミュウは机の上に視線を落とした。
「でも、この短い間に、これだけのことをよくやれたわ。あとは部屋さえちゃんと整理してくれれば、何も言うことないのだけど」
ミュウは、おかしな話の展開に渋いものを食べたような顔になった。
ミュウは、先週、十二冊目の本、すべてのおさらい試験を合格して、三つの課題をすべてクリアーすることができた。アプリリア先生は、そのことを言葉を変えて何度も褒めてくれた。
普通、早くても一年はかかるらしい。でも、ミュウはそのことを誇らしくは思わなかった。アプリリア先生は嬉々として、ミュウに課題やテストを次々に出してきたからだ。
「魔女の成り立ちについて。何か質問はある? なければ、授業に戻ろうと思うのだけど」
「あ、あの」
ミュウの中で一瞬、聞いていいことなのか悪いことなのか、判断がつかなかった。
いつか聞こうと思っていて、なかなかきっかけがつかめずに、忙しさの中で忘れていたことだった。
「どうしたの? 何でもいいわ。それとも聞きにくいこと?」
ミュウは素直にうなずいた。
アプリリア先生は眼鏡の位置を両手で直す。アプリリア先生が意識を集中する時の癖だった。
ミュウは口述試験のときのように、息を小さく吸ってから話し始めた。
「……前に先生は、死を怖がる人を、勇気づけたり、慰めたり、諭したりするのも魔女の役目と言われました」
アプリリア先生は、小さくうなずくと、
「死を見送るのは、子どもの命を守りたい、健やかに育って欲しいと願う想いの逆ではないの。その時も話したと思うけど。死は生まれながらにして友達。あらがえない時には静かに友達を迎えなければならない」
「でも、母親が生きていて欲しいと願って、命を与えてしまったら」
あの、魔女の姿が、ミュウの心によぎった。
アプリリア先生は、珍しくミュウから目線を逸らした。
小さくうなずくと。
「あの、エバーミストという魔女がそうだったように。あなたにとって最大の課題となり続けることでしょう。死に出会い、死を乗り越えた時、その時、あなたなら、必ずその答えが見つかるわ。私がここで幾ら言葉を重ねても、私が乗り越えた死について経験を語っても、あまり意味があるとは思えない。でも、少なくとも、あなたは死の淵にあったエバーミストという魔女を救ったわ。それだけは、おぼえておきなさい」
「え?」
「エバーミストがナイだった時、言ったとは思うけど、周囲に影響を受けやすい状態だったの。周りの怒りや、喜び、憎しみの感情に左右されやすかった。その時、魔女になりたいと思う一心で勉強する。そんなあなたがそばにいれば、魔女になりたがっていた頃の自分を思い出すと私は考えたわ。街の人、誰からでも笑顔で挨拶され、愛されている魔女。そんな素敵な夢を見せられたら、自分を必要としてくれた人たちのことを思い出すと思った」
「でも、エバーミストさんは」
嵐は去ったけど、エバーミストは二度季節が変わっても、帰ってこなかった。生きているとの知らせもない。
「大丈夫。あなたはしっかりおまじないをかけたのだから、いつかは帰ってくるわ」
「え? おまじない?」
アプリリア先生はミュウの顔を見て苦笑いを浮かべた。
「ただ、竜は、生きているとか死んでいるとか、時間とか、まったく関係のない存在だから。いつになるのかは判らないけど」
ミュウは気持ちが塞ぎ込んでいくような気がした。頭を横に振って、
「で、でも。先生、逆に言えば、今日か明日ということもあるんですよね」
「そうね」
ミュウは、エバーミストに早く帰ってきて欲しいと思った。
◇ ◇ ◇
その晩、ミュウは夢を見ていた。
そのことにはもちろん気がついていた。
三つの課題が終わったミュウは、夢の中なら、空をいくらでも自由に飛ぶことができて、望むままに甘いケーキを食べて、いくら食べても太らないでいることができる。
夢の中では、ミュウは望んだ通り、すべてが実現した。
あの嵐の中に消えていったエバーミストとも会うこともできた。でも、何も喋ってはくれなかったけど。
優しい微笑みを浮かべていた。
でも、今日の夢は違っていた。
どこかの台所にいた。
古い石造りの家の台所だった。大きな石釜や、調理用の暖炉があって、木の机の上には長い間ずっとパンを作ってきたかのようにパン粉の跡が残っている。
つり下げられたタマネギ。足下の箱には泥の付いたニンジンとジャガイモ。
見たことのない台所だった。
「こんにちは」
ミュウはその声に振り返ると、あの、夢の中の魔女エバーミストがいた。
黒いワンピースに黒髪。病気と闘う前のエバーミストだった。彼女は、雨にでも降られたのかひどく濡れていた。でも、ミュウに微笑むと、軽く払うだけで水気は失せてしまった。
「こ、こんにちは」
ミュウはどきまぎした。エバーミストの微笑みもそうさせたけど、それ以上に、嵐の後、夢の中で声を聞いたのは初めてだった。
「一緒にケーキを焼きませんか?」
「え?」
「一緒に焼きましょう」
その声と共に扉が開いて、もう一人、魔女が台所に入ってきた。
長い黒髪を髪留めでとめた魔女。飾りがエバーミストのものとも違う黒いワンピースを着ている。長い髪もワンピースもカラスのように黒い。
「お母さん」
エバーミストは微笑みかける。
「え?」
何がおこっているのだろう?
ミュウが疑問に思うよりも早く。「さぁ」と、エバーミストに手を引かれた。
「ケーキを作りましょう」
「ケーキ?」
「そうです。我が家に伝わるケーキです」
母親は、粉袋から粉を机の上に出した。
「魔女のたまごさんは、粉をふるいに掛けてください。エバーミストはバターとお砂糖をお願いします」
「はい」
エバーミストは、バターと砂糖を丁寧に裏ごしして、ミュウは、粉をふるいにかける。
二回目のふるい掛けの頃には、ミュウは、ケーキ作りに夢中になっていた。
「サツマイモというと。皆さんどうしても、リンゴを思い浮かべられるようですが。私たちの家では柑橘類を使います。相性はとても良いですよ」
母親の言葉に、ミュウは大きくうなずいた。
「へぇ。そうなんだ。てっきり、リンゴを甘味として入れるのかと思った」
「ウチは、リンゴとかシナモンは使わいません」
と、エバーミスト。
「へぇ」
「では、あとは型に入れて焼くだけです」
母親の手際の良さと、それを手伝うエバーミストをミュウはうらやましく思った。
台所の扉が、ノックされた。
みんなの視線が扉に集まる。
まるでミュウの心にまで響くかのような、ノック。
「迎えが来ましたね」
振り向くと、エバーミストも、その母親もいなかった。
あの、嵐の中を飛び立ったときのエバーミストが、声がした方向とは逆に立っていた。
まるで、最初の挨拶を交したときのように、髪の毛は雨に濡れ、黒いワンピースも雨でひどく濡れていた。
台所の扉が開くと、嵐の中、アプリリア先生が立っていた。
ミュウは悲鳴をあげたけど、悲鳴はミュウの耳に届かなかった。
空気と水と、雷が、溶け合い混じり合い、渦を巻いていた。
あのアプリリア先生にもらった魔法の指輪が、氷のように冷たく炎のように熱かった。でも、それ以上に、肩に乗せられた手の感覚がはっきりとしていた。
エバーミストが嵐の中を飛んでいた。
ミュウの方を向いて。
「もう少し自重しないと。アプリリアは、ミュウが魔女になる前に、過労で倒れられてしまうかも知れません」
まるで、台所にいた時のような気軽さで微笑みかけた。
ミュウは自分の両肩に置かれた手を感じた。見上げると、ミュウの背中から両肩をつかみ、エバーミストが向かう先を睨むアプリリア先生がいた。
ミュウは胸騒ぎがして、視線を下に向けると、
「あっ、ほうきが」
エバーミストの乗っているほうきを束ねる紐が切れかかっているのが見えた。
「ありがとう。もうすぐで嵐の王の御前です。ありがとう。誉れも高き、魔女ロンドのほうき」
エバーミストはほうきの柄をポンと蹴ると、ほうきはバラバラになって嵐の中に消えていった。
ミュウはエバーミストの背中が爆発したかと思った。ナイのときよりも巨大で、力の象徴のような、鳥でも、昆虫でも蝙蝠のものでもない翼を広げた。
ミュウは急に襲ったまぶしさに目を閉じた。
うっすらまぶたを開けると、嵐を抜けていた。空と海の青さが溶け合う穏やかな世界が広がり。その中心に、山脈よりも遙かに巨大で、流れる雲をまとい、雷と炎と水と危険の匂いのする存在がいた。
「嵐の王」
そう呟いていた。
*
ミュウは目を見開くと、アプリリア先生の顔が覗いていた。
「あ、先生。ご、ごめんなさい」
ミュウは何と言っていいのかわからなかったから、謝った。
アプリリア先生は、少し疲れたような微笑みを浮かべ、
「何も言わないわ。顔を洗って着替えて起きてらっしゃい。朝ご飯は用意したから」
「え?」
アプリリア先生はミュウが質問を口にする前に、部屋を出て行ってしまった。ミュウは、後を追うようにベッドから降りて、パジャマから着替えた。
さっきのは、現実のことだったのかな?
袖口に手を通すとき、指に痛みが走った。
アプリリア先生からもらった魔法の指輪をはめた指に、薬草の葉っぱが巻かれていることに気がついた。
「え?」
一目で火傷の治療で使うものだとわかった。
ミュウの頭の中に、嵐の王を見た瞬間に炎を吹き上げ崩れる指輪の姿が見えた。
「夢ではなく。本当に見たんだ」
ミュウはぼんやり、指を見つめていた。
「……エバーミストさんは、嵐の王に会えたんだ」
そう呟くと、涙がこぼれてきてしまった。
死んでしまったのだろうか?
ミュウは首を大きく横に振った。
「そんなことない。早く行かなくっちゃ」
ミュウは毛布を引いてベッドを軽く整えようとして、枕元にあった本に手が当たった。床に落ちた本は、夢の課題が終わった今でもつけている夢日記だった。
夢日記の開いたページに、ミュウの目が吸い寄せられる。
ミュウが六年前、三日坊主で終わらせてしまった。あの魔女の物語日記のページだった。
風向台には、
それこそ昔からたくさん魔女がいましたから、
魔女の物語や伝説、魔女本人の書いた本といったものが、たくさんありました。
この物語は、『嵐の魔女』と呼ばれたエバーミストという魔女のお話しです。
ちなみに、彼女を知っている人は、みんな彼女のことをエファと呼びます。
ミュウは口を丸く開けたまま、台所へ走った。
「おはようミュウ」
「おはようございますアプリリア先生。さっきは、あの、その、先生、これ」
「どうしたの? そんなにあわてて」
ミュウは先に、自分が六年前に書いた日記の中身を見せた。
でも、ミュウの予想に反して、アプリリア先生は少し感心しただけだった。
「これ六年前に書いたものなんです」
「そう」
「え? あの」
「ミュウ。こうは考えないかしら。魔女になることができる女の子が、未来を、未来のこととは思わずに書き取ってしまった、と」
「え?」
「帰ってくるわ。近いうちに」
アプリリア先生は笑っていた。
「はい」
ミュウは晴れやかな笑顔で返事をした。
嵐の魔女
謝辞
藤池ひろし 様(Fantasica)
酒井まさる 様(あとり絵Sakai)
麻戸 様
初出:『エファとエバーミスト』06年
『ミュウと憧れの魔女』05年
『ミュウと嵐の魔女』04年