死にたがりやへ寄する悲歌

 僕は犬死詩人、青津亮。死にぞこないで、死にたがりの男。
 以下、通説。
 なんらかの生業を全うし、全力でそれに注いだという実感の裡に晴れ晴れとした顔で昇る、「ああ、俺は生きた」という感情が、「はや、二度と生きなくていい」と感じさせる位置に、人を立たせるらしい。時に、それに類似した意識が虚無感にもつながることがあり、たとえば、仕事人間の定年後にみられるようなそれは、「さて、どう生きよう」という考えにも導くようだ。しかしその位置に立って初めて、「自分自身の生」を生きることをしえるともしばしばいわれる。いわく、第二の人生は、自分の為に。そういうものである。
 僕にはこれ等に経験と共感の一切がないのですべてが不可解・不可決だが、しかし、そうであるかもしれないと想う。
 さて、もしこれを然りと仮定するならば──そもそも「一度も生きたくない」という立場で鬱々としている僕たちは、すでに、自分自身を生きえる地点に立っているといえないだろうか。
 どうせ、死にたいのだ。されば、人生を台無しにするつもりで、先ずもって「わたし」に立ち還り、其処で見た風景に憧れ、美を視、それが幻影だろうと実在であろうと、その城へ向かって歩きはじめてもいい。自分の人生を生きたいように生き、うごきたいようにうごき、愛したいものを愛したいように愛してもいい。信じたいものを信じるために、争ってもいい。

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 僕は解りにくい言葉を使ったかもしれないが、つまりはパンクスのいうようなろくでもない言説、「自分自身であれ!」ということを書いただけである。
 あるいは僕自身の憧れを例として出すならば、次に書くようなうら若き少年少女にしか好まれない浮世離れした言葉、そいつを信じたいのなら信じつづけたっていいんだよと、これを現実に飛びこみズタズタになりながら信じ抜こうとするのが闘いで、これを信じるために生きているといううごきそのものが祈りなのだと、そういう人生はある種台無しで、それによって幸福感や安心に乏しいが、実はなにかの意味で豊かでうらがえしの意味で幸福なんだよと、そう伝えてみたい。

 ・傷つきたくないから最初から人を信じないより、傷ついてでも、人を信じつづけるほうがいいでしょう?

 僕は、詐欺に引っかかれとはいってない。好い振舞のひとには、言動、身振をむしろ警戒せよ。僕、詐欺師の悪の向う側のましろの無個性の匿名の風景、それの美を信じてもいいと言っているのだ。
 この「人」とは、たしかに深みの心象世界の風景であり、他者そのものの一部の領域にしてすべてを包含する光のようなものであり、あるいはすべての人間に宿る普遍の「人性」であり──この「人性」とは条件次第で幾らでも形を変容させるために普遍にして非不変、従って特異な環境で心身の状態が変わった兵士の獰猛野卑を性悪説の証拠をみつけた気になるのは、あまり正しい態度とは想われぬ──そして、「文学」という胡散臭いしろものもこれに代入しえる。
 「信じる」とは「愛する」のシノニムに過ぎない。然り。信じていないものは愛せない。愛していないものは信じられない。ところで、「キズ」の漢字の幾つかのうち、これをご存知?──創。疵ついて、瑕負うを佳とし、創と記し、清楚へ剥く。
 愛と信頼を愛し信頼するという創造の叙事詩は、わが創造の意欲で魂を瑕つけズタズタにした「わたし」の創世記であり、これ即ち、生きることを生きるということなのかもしれない。

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 従って僕は断言するのであるが、自責し、鬱々と自己否定に裂かれ、自己イメージを抱き締めるなぞできやせず、それをいまにも殺してやりたいような苦しみを生きているかもしれないあなたの「あなた」を、僕は全力を掛けて賭けて、「あなた」はそれでいいんだよなる無責任そのもの、投げ遣りな祈りでもってひねりつぶすような魂の腕力で、いい切れる。全く事情はみえない、もしや苦しみ抜き、咽び泣く幾夜を経て、それを周囲に全くもって理解されなかったかもしれない、しかし大丈夫だ。大丈夫なのだ。
 というのも抑々そういう悩みを悩むあなたは、自分で想っているほど、悪く醜く間違った人間であるはずがない。
 それを証拠づけよう。自分自身を悪く醜く間違っているとみなす視線の源はなんだ。真善美を尊敬する心だ。自責する心のうごきをうごかすエネルギーはなんだ。罪の意識を感じる良心だ。いいやつじゃないか。僕の好きなタイプです。病める自己否定を鬼の自己批判に変え、争う相手を変え、信じたいものを信じて、僕の好きな人間にはどうか生きてほしい。

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 自分を愛する。自分を信じる。はな、難しいのである。そもそも言葉の意味が解らず、「自己肯定」という言葉をみて、途端に失語症に近い状態に陥るひとがいる。自分をまるっと肯定、そんなの一生できっこない人種だっているようだ。僕は鬼のような傲慢さと疎外自立の自恃「僕は、詩人だ」があるゆえに自信がある人間とみられることもあるが、多分僕もそうなんだ。
 正直、まるっと自己肯定してるひとに共通する批判点を見つけてしまうような気になっちゃう、人格非難家の僕である。
 然り。「自己肯定しろ」なぞという要請、どうしてもどうしても自己肯定できないひとにとっては、自分をまた否定しちまうことへ導くだけじゃないか。自己否定と劣等感にまみれた努力家、優れた評価と実績を得て、その条件で自分を愛す。ンなことしたら、自分の尺度でひとを軽蔑し傷つけちまうし、昇った自尊心は、嘗ての僕のような荒んだ眸で暗みの低みで生きるひとの苦しみを軽視するようになる可能性だってある。そういうひとがいてもいいに決まっているけれど、だから現実はエンタメで、理不尽は命を奮い立たせ立ち上がらせるポルノだって卑しい詩を書いたりもしたんだけれどもね、俺はそんな虚ろなグラグラの自尊心なんていらねえよって、そんなら生涯路地で暗みの籠った眼差しをしてやるよって、誰にも優しいと想われない優しさを追究し、なんにも報われず死にてえんだ、それによる「俺は僕以外のたいていの僕より成功した人間より善良なグループに属している」って悦びを突き放して砂と乾くように果ててやるって想ったこと、おなじ死にたい君なら、共感してくれるかな。
 僕はね、科学的立証不可能な言説、「人間の心の深みはおなじもの」を信じていて、其処をましろのアネモネの花畑、睡る水晶の墜落地点、その領域、「人性」「魂」、此処を、この範囲だけを、全肯定した。そのために本を読み、文章を書き、生きたい生き方を見付け、それを生きた。であるからして、僕は君のこの領域を、君の代わりに肯定できるんだ。そこはね、素敵で、美しくて、愛されるに値する。そしてそこは、全人類ひとしく宿る領域だから、けっして、他者をまるっと軽蔑してはいけなくなった。すべての人間の心を、一定以上大切に扱わなければいけなくなったために、たくさん損もした。何より、そうできなかったことがおびただしくて、ひとを傷つけた、大切にできなかった、軽蔑してしまった、そんなことばっかりで、自責亦自責、優しい文章を書こうとしては優しさでもなんでもない感情のインチキ・わが偽善と自己欺瞞に泣きじゃくり、この文章をだってそうだ、こんなシソウめくインチキが貴様のいう「苦しみを歓びに変える劇薬」「死にたい程の淋しさを溶かす催眠剤」なんかになるかバカヤロウ。嗚。して、エッセイに限っては、発表した文章を削除するの繰り返し。こんなことやってたんじゃあ、職業作家に、敵うわけがない。文責。犬死詩人の限界って、すごく狭いよ。
 だが、その限界の領域に、書く。生きる。書くと生きるは、同じこと。

  *

 君は、空を美しいと想ったことがある?
 ある?
 それなら、君を信じる。

死にたがりやへ寄する悲歌

死にたがりやへ寄する悲歌

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-05

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