もっと哀れなのは・・・
禎子ほど不幸な女はいない。何故なら不幸になるその時まで禎子は女でなかったのだから。分かりにくいから言い直そう。禎子はあることを境に女になった。そしてそれが不幸の元だったのだ。
禎子はそれまで、独身で若く十人並みの容姿のビジネス・ウーマン、という人種だった。男女を問わず友人が居り、その中から無作為に選んだ一人を恋人にしていた。After5は彼らと共に活用し、選りすぐりの時間を恋人と過ごす、もちろん夜も。仕事は熱意を持って、遊びは開放的に、個人的に勉強も惜しまない。順調な毎日だった。
ところがある日、異変が起こった。恋人がプロポーズしてきたのだ。理由はこうだ。このたび、自分の会社が他国の首都に出張所を設けることになった。そのため僕も現地へ転勤することが決まった。これを契機に身を固めたい。ついてはどうだい。一緒に来ないかい。
返事はNo。当ったり前じゃん。恋人は少し残念そうに、しかし手を差し伸べて、今まで楽しかったよ、ありがとうと言った。禎子はそれを握ってこちらこそ、と答えた。彼は別の女性と結婚して、成田から飛び立って行った。
ここから禎子の不幸が始まる。
友人の一人が気付いて言う。ストッキングが伝線してるわよ。禎子はあわてて、恥じらいながら化粧室に駆け込む。個室でハンドバッグを開くと、替えがない。切れている。とりあえず、素足で外に出る。替えを提供してくれる誰かを見つけるために。
遅いじゃないか、とバーで。ごめんなさい。腕時計が遅れていたの。時計が? 毎朝時報に合わせて、5分進めてセットしてくる君が?
煙草、止めたんじゃないの? 先進国では吸うこと自体が遅れているからって。そうだった、そうだったわ・・・。
おかしいのは、飛行機を見送ったあの日から。友人に戻って、披露宴にも出席し、成田でばんざいに加わったあの日から。家に帰って、水割りを作るのに、2個グラスを並べてしまった。おっといけない。習慣とは恐ろしいものだわ・・・。朝、ベッドの片側を空けて目覚める自分。スクランブルで、4つもタマゴを割ってしまう自分。コーヒーを、入れずに待っている自分。
代わりの男を見つけなきゃ。いつの間にか2人分の生活スタイルに馴染んでしまったみたい。今までもそうだったの? 友人の問いにえっと聞き返す。だから、前の男と一緒に過ごさない夜とか。週の半分はそうだったんでしょう? その時もそうだったの?
Noだった。
そういえば、交際解消から、成田までの3ヶ月間もちゃんと一人で生きていたんだわ。落ち着いてから、心の中で反問する。変じゃない。じゃあ、あの男の日本脱出の日を境に私はおかしくなったというの?
煙草の量が多くなる。1ミリグラムにしようかしら。朝食は食べない。だって毎朝、魔法にかかったみたいに2人分作ってしまうんだもの。繰り返し、繰り返し。仕事のミスが多くなる。フランス語のレッスンに行くのを忘れていた・・・そして一番困り果てたのは。何を見てもあの男のことを考えちゃうの! 毎日、毎分、毎秒!
洋画で、お気に入りの俳優が、ファンならわかるであろう彼特有の言い回しでジョークを飛ばした時、嬉しさのあまり興奮して、隣りの空席を顧みた瞬間、限界に達した。私はもうだめ。狂ってしまうわ。そして、闇の中、笑いの渦巻く映画館内で、禎子は一人泣きつづけた。不幸なのは誰? 不幸なのは私。夜も昼もあなたのことを考えてしまう私・・・。
そして禎子は一つの結論に達した。
私は寂しいんだわ。いきなり一人、島国日本に取り残されて。だから決してあの男に恋してるというわけじゃあない。だって、それなら、交際解消日からこういう状態になってしかるべきじゃない。でも現実は違う。あの男が新妻と楽し気に異国の空へと旅立ったあの日から。だからこれは恋じゃない。羨望だわ。孤独だわ。
しかしそれは仮説だった。
やがて禎子にも新しい男ができた。久しぶりの2人で迎える朝。身体が合うかどうかはまだ未知だけれど、昨夜の調子じゃ、上手くいくんじゃあないかしら。Mornin’ Darling。朝食にしましょう。
うきうきと禎子はトーストと、スクランブルと、サラダを並べる。相手はコーヒーと、蜂蜜のかかったヨーグルトを持って来る。テーブルを挟んで向こうとこちら。顔を見合わせて笑みを交わす・・・。
何これ! コーヒーを口に運び、思わず禎子は吹き出す。何これってコーヒーだよ。君んちのコーヒーメーカーが君んちのコーヒー豆で煮出した普通のコーヒーだよ。
Made in 禎子's house ってとこかな。押し黙った禎子に、盛り上げるように相手は言った。しかし、ある一つの肯定し難い恐ろしい推察を背後に控えた禎子は、震える手で、ヨーグルトの椀に手を伸ばした。
それも普通のヨーグルトだよ。温泉卵も出来る、手作りヨーグルト製造器で作ったの、蜂蜜は冷蔵庫に入っていた有機農法の、君がいつも使っているやつ。
スプーンを含んだ瞬間、禎子は叫哭した。違う、違うわ。違やしないよ。コーヒーにヨーグルトなんだよ。納得させようと必死な相手を振り払い、禎子は駆け出す。違うわ、味がいつもと違うなんて、私があの男を愛しているなんて。あぁだけどそれは真実。私は分かってしまった。私は狂おしい程あの人を愛している。愛して、愛して、どうしようもない程に。
いつの間にか、バスローブ姿のまま、マンションを飛び出した禎子は、そのまま道路を横切り、朝のラッシュが始まっていた片道三車線のその国道で、一台の運悪い乗用車に轢かれて即死した。
意識の消え去る瞬間、禎子は満たされていたに違いない。満たされて、満ち満ちて、溢れ出たに違いない。
もっと哀れなのは・・・