Lipstick

Name: Lipstick
Author: europe123

大した事は無いが男女の・・。

　「仕方ないな、何時になったら覚えてくれるのかな」

　近藤杉男は会社が終わって電車に乗る。
　小田急線の玉川学園前駅で降りて、狭くて起伏の激しい路地を、十五分も歩いた所にあるアパートの階段を上がる。電気をつけて誰もいない部屋に向かって、「只今」と声をかける。
　買って来た食品をテーブルの上に置いてから、先ず、風呂に入る。
　風呂の湯船につかりながら、「あの女性」と、何となく考える。杉男は成城学園で降りるその女性が何となく気になるのだった。以前は、見掛けなかったのだが、最近は、毎日殆ど同じ時間に電車内で見掛ける。杉男は、毎日同じ車両に乗るし、その女性も同じ車両に乗っている。品があって綺麗だから、印象に残った。
　何処かの住宅のお嬢さんかも知れないな、などと思いながら風呂を出る。
　杉男はテレビは見ないから、音楽を聴いたり、楽器を弾いたり、パソコンで文章を書いたり。
　次の日、新宿のデパートの食料品売り場で、夕食の買い物をしている時、人混みの中に彼女がいるのに気付いた。
　帰り掛けに、私鉄系列のこのデパートを使う人も少なくない、高いが良い物を置いてあるから。
　歩きながら杉男は呟いた。「まあ、所詮、僕には関係無い、通りすがりの人に過ぎないな」

　そんな事が何回かあって一か月も経った頃、永田町にある杉男の会社で新入社員の紹介があった。
　新しく入って来た社員は、あの女性だった。
　しかも、所属は杉男のいる調査部、二宮千絵二十三歳、杉男より三つ年下だ。
　彼女の担当は、裁判所に出す書類を作成して郵送するという仕事なんだが、全国の裁判所に提出するし、量も多い。
　教えるのは杉男、他に部長の中本と損害保険の担当が二人。杉男は一応課長だ。
　杉男は、最初にざっと作業のやり方を教えて、分からない事があったら聞いて貰う事にした。杉男は、「特殊で細かい仕事だから、分からなかったり、間違えたりするのは当然だ、段々に覚えて貰えばいい」と思った。
　しかし、千絵が、入社して一か月くらい経った頃、なかなか覚えないからと、中本部長に怒られた。
　杉男が千絵に、「あまり気にしない方がいいよ。君が慣れないんじゃなくて、誰がやっても結構気を遣う仕事だから」
　千絵は神妙な顔付で、「でも、前の方はベテランだったのか、仕事が出来たようですね」
　杉男が笑顔で、「そりゃあ、何十年もやってれば嫌でも上手くなるよ、どんな仕事でもその点は同じでしょう」
　そしてトーンを落として、「それはそうと、君の歓迎会をやってなかったね。良かったら一度飲みにでも行かない。何か参考になる事でもあれば、というか、まあ、僕がお酒が好きだからって正直に言った方がいいかな」
　杉男は壁のカレンダーを見て呟く、「明日から飛び石連休か、ちょっと急すぎるかな」
　杉男は、書類に目を通して何枚かチェックすると「今日は都合はどうですか」というメモを貼り付けて千絵のデスクまで持って行ってすまし顔で、「無理だろうね、急だから」
　退社時間に近くなった頃、杉男が出かけて帰って来ると、千絵が杉男のデスクに山と積まれた書類を持って来た。千絵は、右指で小さな輪を作り、「OKです」。
　待ち合わせ場所は、乃木坂にした。
　杉男は白板に「乃木坂直帰」と書いて出掛けた。

　６時頃、杉男は、ギャラリーの前でショーウインドーの中の絵を見ていた。
　ヒールの音がして、「お待たせしました」
　振り返った杉男が、「早かったね、休み前だから忙しかったでしょう。汗かいてるけれど、急がなくても良かったのに」
　千絵は汗を拭いたハンカチをバッグにしまうと、「いろいろ教えて貰うんだからって、焦っちゃって」
　杉男は笑いながら、「教えると言っても、僕の教えることが役に立つかどうかは分からないけれど。君、レストランと鳥屋とどっちがいい？」
　二人は鳥一と言う店に入った。
　飲み屋にしては落ち着いた雰囲気で、鳥屋なのにワインがずらっと並べられている。カウンター席しか無いから、並んで座って、適当に焼き鳥等を頼んだ。杉男がビールを注文する前に、「君はワイン？それとも・・」
　千絵がグラスの白ワインを一口飲んでから、「近藤さんはもうこの会社、長いんですか？」
　ビールを飲み干して杉男が、「いや、君と同じ。転職してまだ三年。違うのは僕は、似た様な仕事をして来たから呑気にやっているけれど。その点、慣れてない君は大変だね」
　千絵が焼き鳥を食べながら、「今日も部長に怒られてしまったけれど、前の方のようにはスピーディーにはいかなくて」
「あの、中本さんていう人はあまり気にしない方がいいよ、ちょっと変わっている人。だから、今日も誘わなかった。あの人は他の部署の連中とは始終飲みに行っているけれど、僕なんか飲んだこと無いよ。保険の二人は関係無いようなものだし。その仕事は、ポイントが幾つかあって、それを覚えれば単純作業に変わってくるよ。教えてあげる」
　千絵は頷きながら、「ポイントですか、嬉しいな。早速教えて貰おうかな」
「そうだね、個人的な話の前に、面倒な事は済ましちゃった方がいいから話すよ。簡単に言うと、一つは裁判所によって書類の枚数や注文が違うから、必ず一々電話して聴く事と。名前や地名などが、パソコンに無いどころか、当用漢字にも何処にも無く、見た事も無いようなものが結構あるから、そんな時には手書きで書くしかないってところかな。兎に角やっている内に覚えるから心配無いよ」
「ところで、話は変るけれど、偶然だとは思うが、電車の中とかデパートで、君を見かける事があったんだけれど・・」
　千絵は、仕事の話が終わって気が楽になったのか、ワインをグッと飲むと、「私、最近成城のマンションに引っ越して来たんです。前の勤務先でちょっと嫌な事があって」
　杉男がグラスを置いて、「何かあったんだ、中本部長の様な？」
　千絵はカウンターを見ると、「男性で、ちょっと付き合った事があったんだけれど、しつこいから。それに、何れ、私は実家の親に勧められた人と見合いをして・・」
　千絵の実家は広島県呉市にあって、一口で言えば御屋敷のご令嬢のようだ。
　杉男は家を見なくても、千絵が上品なお嬢さんである事は分かる。
　杉男はビールをオーダーすると呟く、「やはり、ちょっと違って見えたからな」。
　杉男は、冷えたビールを一口飲んで、「という事は何時までも東京にはいられないね。帰らなきゃならないものね」
　千絵は片手を顎にあてながら、「そうだな、一年、でも、この仕事も中途半端では悪いし・・」
　杉男は千絵の顔を見て、「そんな事気にする必要無いよ。自分の大事な事を優先しないと、一年で覚えられるよ、大丈夫」
「有難う。頑張ってやってみる」
　二人は、飲み、食べ、いろんな話をした。
　千絵は仕事をてきぱきとこなしていって、杉男も出来るだけアシストを熱心　に。
　アシストは仕事だけでは無かった。
　休みの日は、二人で遊びに行く事が次第に多くなった。
　美術館やコンサートに行ったり、タワーや高層ホテルで食事をしたり。
　今日は二人で展覧会に来ている、印象派の作品だ。</span>

　<span style="font-size:1.96em;">クロード・モネのこの絵の前で立ち止まって、杉男は呟いた。「これ、何となく彼女とダブって見えるんだな。モネは、同じこの絵を何枚か書いている。何れも公表されているが、しかし、何故か顔がはっきりしない。芸術家の心の中とはそんなものかな」
　小田急線で帰る途中、新宿で杉男が都庁方面を指差して、「Uホテルでディナーでも食べて行かない」
　千絵も頷いて、「いいわね、お腹空いた。杉男さんもビールを飲みながらゆっくり出来るしね」
　アラカルトで好きな物をオーダーして、杉男はビール、千絵はカクテルなど自由に飲みながら。
　杉男も千絵の目を見ながら、「君は仕事を覚えるのが早いよ。これ以上特殊なケースというのは無いから、マスターしたも同然だね」
　千絵は笑いながら、「教える人がいいからね。仕事に限らず杉男さんと付き合っていると楽しいし、自分が成長して行くような感じがするのが、ちょっと不思議」
　杉男が照れながら、「まあ、お世辞にしても嬉しいね。何れ、立派な豪邸のお嫁さんになるんだから・・君も夢が有っていいね・・」と呟き、遠くを見る。
夏は海やプールに行った、子供の様に戯れ、水を掛けあったり。
　冬は東京に雪が降ると、待ち合わせて降りしきる雪の中を、足を滑らせながら歩いて、ショッピングをした。

　二人が付き合い始めてから一年半以上が経過した。
　千絵の実家から、結婚の準備があるから。早く帰って来いとの催促が、毎日の様に。
　仲人を間にして、親同士は、既に、親族同然の付き合いを始めていた。
　仲人も笑いながら、「正式な婚姻届けを出すまでは、今しばらく・・」。

　やがて、二人に別れの時がやって来た。
　千絵は会社を辞め、マンションも引き払った。

「元気で。いい奥さんになって」と杉男は千絵の肩を軽く叩いてから、「僕の最後のアドバイスはそれだけ・・」。
　千絵は頷いて、「うん・・」

　杉男は、千絵の乗った新幹線を見送りに行った。
　西陽に照らされ、遠ざかる影。

　それから、一週間が経った。
　千絵から杉男に電話があった。
「玉川学園前の駅で待っていて」

　時刻前に杉男は、駅の改札に立っていた。
　電車が付いて、乗客が階段を上がってくる。
　真っ先に駆け上がって来たのは、千絵だった。
　改札を出ると、杉男に近付く。
　何時もの薄いピンクの上品な口紅と違い、真っ赤な唇をしているかと思った途端、千絵は、杉男の唇にキスをした。
　杉男の口の周りには、真っ赤な口紅の後がついたまま。
　千絵が笑いながら、「これで、裁判所に提出できるわ。しっかり、押印をしたからね」

　二つの赤い口紅が、急な坂道を歩きながら、２DKの豪邸に向かって歩いて行く。
　杉男は、千絵の荷物を片手に持ちながら、坂の途中で立ち止まる。
　千絵の顔が、間違い無く目の前にある。杉男は、千絵の目を見て、
「君って・・。やっと言える。・・愛しているって」。

　太陽は笑いが止まらないのか、日差しが弱まる気配など少しも窺えない・・。

Lipstick

男女の気持ちのすれ違い。