犬を食べる

 夜に近い朝の早い時間に、男は昨晩の余りのカレーに火をかけて、中の汁が跳ねないよう慎重にレードルをまわす。そのうちにフツフツと小さな気泡がわいて、少し遅れて湯気が昇った。男はそれを底の浅い皿にそっと移して、米もよそわずそれだけを食べる。
 一欠片の肉の塊を掬って咀嚼する。それはグレート・デーンのモモ肉で、筋張ってあまり美味しくない。男は歯に挟まる肉の筋を舌で押しだそうとするけれど、上手くいかずにひたすらに自身の歯で自らの舌の先をズタズタにしている。そのうちに男は肉の発掘を諦めて、残りのカレーを掻き込んだ。
 そうして早い朝食を終えると、皿を水に浸して、膨らんだ腹を擦りながら冷蔵庫を開ける。
 冷蔵庫の中にはいくつかのタッパーが重ねられていて、男はタッパーのうちからひとつをジェンガみたいに取り出した。タッパーの蓋には養生テープでつくられたラベルが貼られていて、取り出されたタッパーには黒いマジックで、ただダックスとだけ書かれてある。
 蓋を開けて少し匂いを嗅いでみる。タッパーに分けたのは昨日のお昼頃だったから、まだ腐ってはいないようだったけれど、独特の獣臭さを放つ生肉に男は少しえずいた。
 男はそのタッパーに直接日本酒を注ぐ。そうして30分程かけて臭みを抜くと、フライパンに油を敷いて、薄く切られたダックスの小さなバラ肉に火をかけた。
 バラ肉はパチパチ音をたてながら縁が反りはじめて、それを菜箸で一枚ずつ丁寧にひっくり返す。そのうちに部屋にはカレーの残り香を押し退けて、油が弾ける肉の匂いが舞う。豚肉というよりは牛肉に猪のようなジビエがほんの少し混じった独特な匂いだった。
 小さく薄い肉はたいした時間もかからずパリパリに焼けて、男は火を止める。それからキャベツと食パンを出して綺麗なサンドイッチをつくった。
 それをラップでグルグル巻きにして、新品のタッパーに詰めると男は満足したようで、ご機嫌にエルヴィスのハウンド・ドッグを鼻唄で歌った。手拍子つきで。
 
 男は肉の匂いのついた寝間着を洗濯カゴに放り投げて、クタクタのスポーツウェアに着替える。最近張り始めたお腹を擦る癖がついて、腹の部分が異様に縒れている。
 外へ出るとまだ空が薄暗い。気温も低く吐く息が白い。男は朝走るのが日課だったが、最近増え始めた体重が彼のペースを落とし続け、結局こんな早朝にスタートを早めなければいけなくなっていた。 
 それでも律儀な彼は、走る距離もルートも変えずに、たまに歩きながらすれ違う同士に毎日挨拶を欠かさない。特に朝早く道を歩く人は犬を連れている場合が多く、男は丁寧に2匹のハスキーを連れた若夫婦に、柴犬を連れた老人に、コーギーを連れた青年とパピヨンを連れた女学生に頭を下げた。

 少し走って、少し歩いてを繰り返して、男は今日の夕食を考えていた。昨日のカレーは煮込みすぎて少し肉が固くなってしまった。昼のサンドイッチを頭の隅に追いやって、夜のテーブルを考える。そうしてふと学生の頃よく作って食べていた無水パスタを思い出して(洗い物が少なくて男はそればかり食べていた時期があった)、久しぶりに食べたいと思えた。
 材料はバターとトマトとにんにくと、それともちろんパスタに、肉は何がいいだろう。ミートソースならひき肉だけれどと、男は冷蔵庫のタッパーの中身を上から順に思い出したが、確かひき肉は今なかった。用意しなければと男は思ったが、ひき肉の作り方を知らなかったから、諦めてしまって、確かあるはずのブルドッグのベーコンを入れようと思った。
 そうして考えているうちに、だんだんと家が近付いて、男はG-SHOCKの時計に目を落とすと、最後のスパートをかけた。
 家に戻る頃にはすっかり朝の様相で、男は急いでスポーツウェアを脱ぎ捨てて、熱いシャワーで汗をさっと流す。そうしてもう何年も着ているシャッとスーツを慣れた手つきで着ると、鞄を持って家を出た。もちろんサンドイッチを忘れずに。


 昼時のオフィスには様々な食品の香りが入り交じる。作られた弁当の湿った唐揚げの匂い。コンビニのおにぎりを剥く音と共に海苔の青臭い香り。菓子パンのチョコレートの匂いが甘ったるい。
 男はそんな匂いの喧騒の中で、今朝作ったサンドイッチが敷き詰められたタッパーを鞄から取り出して、蓋を開けて必要以上に巻かれたラップを丁寧に剥がす。
 サンドイッチはシナシナになったキャベツと、油を吸ったバラ肉のせいで完全に湿気りきっている。
 正直いって味はいまいちだった。キャベツは肉の匂いと油が移って野菜としての役目を果たせていなかったし、臭みが抜けきっていない肉は、それぞれが小さすぎるうえに焼きすぎて、焼き肉の網にしがみつく食べ損ねの焦げた肉屑みたいな最低な味がした。そうしてそれを包む耳のとられた安い食パンはビショビショで、掴む指からして不快にさせる。
 そうした明らかに失敗作なサンドイッチを眉をひそめながら黙々と食べていると、男は後ろから声をかけられた。
 声をかけたのは男の同僚で、去年結婚したその同僚はいつまでもヘタクソな自炊を続ける男を定期的にからかっていた。ただそれも建前で、たまには旨いものでも食べようと、夜の飲みに誘う彼の枕詞だと男は知っていたから、半分しか食べてないサンドイッチをタッパーに放り投げて、快く彼のからかいと続く提案を受け入れた。

 
 仕事が終わると男と同僚は街に出て、よく行く焼き鳥の安いチェーン居酒屋に入った。男は鶏肉があまり好きではなかったけれど、どうせ目当てはアルコールの方で、あてになればなんでも良かった。ただ作るはずだったブルドッグのベーコンが入った無水パスタを思い出してしまって、口に運ぶ鶏のハツがなんだか味気ない。
 男は生ビールを頼んで、同僚はハイボールを頼んだ。そうして彼らはささやかな鶏の肉塊をあてにしながら、会社の愚痴や新婚生活の進捗に、自身らの健康状態、最近観た映画の感想や政治についてひとしきり語り合った。
 そしてどのタイミングだったか、自炊と食生活に話が流れたとき、ふと同僚がなんの肉が一番美味しいかと語り始めた。同僚はタレのつくねをまじまじ見つめながら鶏はないなと呟いている。
 男は朝のカレーから昼のサンドイッチ、そして夜食べるはずだった無水パスタにジョギングで出会った犬たちを思い返していた。
 デーンにダックス、ブルドッグ、ハスキー、柴犬、コーギーにパピヨン。
 同僚は串の先を見て馬もいいよなとぶつぶつ呟いた。猪や鹿はまだ食べたことないなあと少し酔った調子で。
 男は口内に滲む唾液を感じながら、次にタッパーのラベルを片っ端から思い返した。
 ボルゾイにヨークシャテリア、スピッツ、ブービエ、ドーベルマンとコリー。
 そうしてただぼうっと考える男を見て、なあ聞いてるのかと同僚が言った。それから少しイラついた様子で同僚が携帯を取り出して肉の種類と調べ始めた。そうして耽る男を尻目に画面をスクロールしていると、ある記事が目に止まってニヤニヤと男に画面を見せつけた。
「なあ、中国じゃ猫を食べるらしい」同僚は言った。
 それを見て、男はあからさまに嫌な顔をしながら、張った腹を擦って「へえ、酷い人もいるもんだね」と答えた。

犬を食べる

犬を食べる

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-30

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