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ほんとうに意味のないこと
ある日目を覚ますと、一人目の子が即座に産みたいと言えたのは愛情ではなかったということが、これまでも世界を回す部品のネジとして組み込まれていたかのように実感することができた。根拠などいらなかったし、言ってしまえば鏡に映る乱れた髪の女の存在でもう証明されていた。非常にお腹がすいたので、卵を割ることにする。
割ってひよこがいないから、到達しなかったんだなと菜箸を強く握る。マヨネーズと砂糖と出汁を入れるのがおばあちゃんの味。ケチャップは買い忘れてしまった。誰かにとっての運転がわたしにとっての料理であり、誰かにとってのハンドルがわたしにとってのフライパンの持ち手。料理で問われているのは最低限の味と効率だ。ここが一致しない人とは生活ができない。殴って逃げた元彼のことをどこまで行ってるんだろうと思うことはできるのに、包丁を使っている間にお湯を沸かせない人には止めどない嫌味が湧く。マルチタスクって言葉を使わないで。といってもひとつの項目に過ぎない。
テーブルクロスは青にした。映えるように濃いものを選ぶ。銀のフォーク。おいしい。この世に精子はなくていい。口の中を黄色でいっぱいにしながら、ひとりぼっちで生まれてしんでいく人になる。これはじさつ志願でもあるが、そんなものは全員にあることで、気づいているかいないかの差でしかない。小学五年生の理科の授業中に、精子と卵子はわかりましたがこのふたつは別々の体内にあるのにどうして交わることができるのでしょうとみんなの前で質問してあやちゃんに口を抑えられて退場になったことがある。教えてもらわなきゃわからないこともあるというのに。男の子がなかでだすとき無意識にいちばん奥ではてようとするのがえろい。何年生で教わるのだろう。男子だけ集められてあれだけ教えてもらう時間があったのだろうか。知らないので高校の可能性が高い。じぶんでつけているはずなのにわかってないみたいでかわいい。えろいというワードはずっと嫌い、あまりにも品がないから。そして自身がえっちなものに過敏だから。そういう判断と綺麗事ではない自己評価はできると思い込んでいる。
えろいことをした結果産み落とされたわたしたちも(すごくよくある表現なので使いたくなかった、わたしにはすごくよくある表現をなるべく使いたくないという気持ちがある、すべての言葉は模倣なのに)出会わなければわたしたちにはならないし、なったところでいずれわたしたちではなくなる。卵も食べたらなくなる。食器を洗わなきゃいけなくなる。手を濡らさなきゃいけなくなる。そういうことを、考えないことができない。さよならを常に把握しておきたくなる。不変的なものなんてないと四六時中攫っている。愛着のある人ともう会えなくなる時に悲しみを隠すために態度が悪くなったり相手を攻撃する人を「はずい」と思っている。「恥ずかしい」とも思ってやらない。やっぱりを繰り返して生きていってください。そういう人生、わたしは嫌なので。でもあなたも、生きていってはくださいね。必ず。
弦切れて縁切れてでも元気でね、と竹原ピストルも歌っている。永遠に憧れが強いのもこの反動だろう。
一人目の子が即座に産みますと言えたのは今を愛していなかったからで、変化を期待したからで、明らかに二人三脚のできない彼の情報を聴覚に自ら絞っていたからに思う。できる前に改善できなかったのは、信じていたからといえば聞こえがいいが、結局はどうでもいい、の延長のような気がする。どうでもいいという評価が他人に向いている人間の恐ろしさについて多くの人は理解している。言動の切れ端を見て自らが流血しないよう回避することができる。しかし、どうでもいいという評価が己に向いている人間の恐ろしさにも、そういう人に好意を持ちがちなのでむずかしいのだが、そして好意を持つ理由もその潜んだ恐ろしさに惹かれている可能性も高いのだが、もっと焦点を当てるべきである。人の話を聞くことを好み、よく笑い、感情をよく言葉に出し、眠るのを見たことがない女がいたら気にかけてあげてほしい。今時、診るのは手首ではない。
誰かに伝わるように、ひとり手を合わせていただきましたを言う。そういう人だと思われていたいからする。銀の食器を一式、ごみ箱に捨てる。洗ってもらえると思った? 資源ごみは奇数週金曜日。
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