ハル

 壁時計の長針が、頂点を指した。コク、と言うそのかすかな音が部屋に響くのに気づいて、僕は三度目の伸びをした。暖かいあくびが、ぐっと伸ばした背筋を通って冷たい外気の中に出て行く。反り返ったまま、逆さまの文字盤をみて僕は思わずシャープペンを置いた。日付が変わっていた。もうこんな時間じゃないか。
 机に座って三時間。その間、棚のコミックスや読みさしのラノベを読んだり、携帯でゲームをしたりしたから、正味、二時間と少し、と言うところか。まあ、僕にしては立派な集中力だ。
 そろそろ限界かも知れない。一旦ノートを閉じると僕は、勉強机から離れることにした。
 立ち上がると、芯から身体が冷えていることが分かる。特に足先が寒い。どんなに部屋を暖めても寒気は足元に忍び寄ってくる。冬場の受験勉強の大敵だ。
 足元の灯油ヒーターの給油メーターには残量の少ないことを知らせるランプがもう点っていた。めんどくさいけど、そろそろ替えどきかも知れない。家族を起こさないように、玄関でこそこそ、給油をすることを考えると何だか物憂かった。一人でそんなことをしていると時々、わけもなく、我に返るときがある。どうして僕は、わざわざ一人で、こんなことしてるんだろうか、なんて。恐らく今もっとも無駄な時間だ。
 ヒーターの問題はおいといても、とりあえずコーヒーは淹れようと思った。このあと、一時からは少しラジオを聴こうと考えていたのだ。とにかくそれまでは、眠気を押しのけて頑張りたかった。
 忍び足で自分の部屋を出て、僕はキッチンに向かった。人のいないキッチンは冷え切っていて、海底に通じる洞穴のようだ。明かりを点けてもその印象は変わりそうにない。水道の蛇口からインスタントコーヒーを作るのに、必要最低限のお湯を僕はケトルに注いだ。それから最強でガスレンジをひねって薄闇に灯る青い火を見つめながら、とりとめないことを考えてひたすら時を待っていた。
 そうだ、もう日付が変わったんだ。今日は、十二月三十一日。大晦日だった。
年明けはセンター試験だな。その前の冬休みには直前講習に、模試。受験生の長いラストランが始まる。ちゃんと、完走出来るんだろうか。いや、しないとな。
 携帯電話が鳴る音がしたのは、その最中だった。しまったな、と、僕は内心舌打ちした。万が一、一時までに眠ってしまったことを考えて、携帯のアラームを設定しておいたのを忘れていた。部屋では僕の携帯電話が盛大な音で、会いに行けるアイドルの大合唱を流しているはずだった。
 あわてて僕は部屋に戻った。ケトルを持ったまま、最大限の忍び足だ。下からでもはっきり聞こえる。携帯電話が場違いなテンションで歌っていた。明かりがこぼれている半開きのドアを急いで閉めて、歌を止めようとベッドサイドに置きっぱの電話を取り上げた。すると そのとき、妙なことに気づいた。
 ディスプレイにアドレス帳にある名前が浮かんでいる。アラームじゃない。これは、着信だ。電話が掛かってきたのだ。こんな真夜中に。ため息をつくと僕は、通話のボタンを押した。
 「・・・・・もしもし」
 『やった、起きてた!』
 電話をとるなり、相手は唐突に嬉しそうに言った。やけに弾んだ声で、音割れがするほど。夜中にこのテンション。そんなやつは一人しかいない。
 「ちゃんと勉強してたよ。明日奈(あすな)こそよく寝なかったじゃん」
あーっ、と電話の向こうは場違いに声を上げてくる。騒がしいからやめろって。
 『ハル、明日奈のこと馬鹿にしてるでしょ。わたしだって、ちゃんと勉強してましたよ』
 「で? こんな時間に何か用?」
 『用じゃないでしょ』
 その途端、コン、と窓ガラスに何か硬いものが当たる音がして、僕は思わず外をみた。
 するとそこに、クリーム色のダッフルコートを着た明日奈が手を振っている。ツインテールにした長い黒髪がふわふわ揺れる。早く早く、中に入れて。反対側の拳がノックで訴えている。
 「・・・・なにしてるんだよ」
 肩の力が大きく抜けた僕は、深い息をついた。

 源明日奈(みなもとのあすな)は僕の、五歳の頃からの幼馴染だ。マンガとかでよくある、幼稚園から、小、中、高と一緒の腐れ縁というやつ。平春行(たいらのはるゆき)と、源明日奈、平氏と源氏で敵方同士のはずなのに、ってよくからかわれる。家も近く同士だし、家族ぐるみの付き合いの僕たちは仲良く、受験生の春を迎えた。
 しかも今は、一応、付き合って半年目のカップルだ。いまだに恥ずかしいし、実感湧かないけど、僕の彼女なのだ。
 「逢わない約束じゃなかったのかな」
 よっと、と窓から明日奈は、遠慮なく中へ入り込んでくる。途中のコンビニで買い物をしたのか、なんだかこまごまとしたビニール袋も一緒だ。もう完全にくつろぐ気だった。
 「だって、大晦日だよ。付き合ってて、どうして一緒にいないかな。それに今、日付変わったからもうセーフでしょ」
 満面の笑みだ。本当によく、これで人に怒られずに十八年過ごしてきたものだ。実際、この笑顔にだまされて、明日奈に告白して玉砕した同級生が何人もいたりする。
 「だからって人のうちの雨どいを上っていいわけじゃないだろ」
 「そう? 幼馴染だったら王道っぽい展開だと思うけど」
 ひと昔前の少女マンガじゃあるまいし。女の子で、まさか本気で、やるやつがいるとは思わなかった。
 「運動神経大事だよ! ハルは勉強ばっかしてればいいけど、明日奈の場合、そうもいかないのです!」
 さいですか。
 これ以上は、なにを突っ込んでも時間の無駄だ。
 僕は黙って、二人分のコーヒーを淹れることにした。

 「ハル、明日奈ね、実は重要な提案があるんだけど!」
 明日奈がやけに神妙な顔つきで、僕に言い出したのは、学期末のテストがあったその日の帰り道のことだ。
 「とにかく、大晦日まで会わないことにしようよ!」
 「なんでだよ」
 「だってわたしたち、結構やばいでしょ。会うと、全然、勉強しないし」
 「うん・・・・・」
 明日奈の意見ももっともだった。確かに明日奈はこの調子だし、僕も流される性格だ。二人揃うと、基本的にはまったく勉強はしなくなってしまう。実際この秋、僕たちは揃って模試の成績を落として、親にめちゃくちゃ怒られたのだ。
 「だから、しばらく会わないで、勉強に集中した方がいいと思うんだ」
 明日奈にしては、まともなことを言うな。そのときはそう思った。
 「冬休みで会うのは、大晦日だけ。一緒にお参り行って、それから冬休みの模試まで会わない! これでどう?」
 「名案だな。じゃあ、今日から?」
 僕が尋ねると、
 「いや、それはどうかな」
 と、明日奈は顔を曇らせた。
 「て言うかそこはちょっと寂しいな、とか言ってくれないと」
 めんどくさ。あ、あと、と思いついて僕は言った。
 「クリスマスはどうするんだよ。お互いうちでひとり勉強?」
 「あっ、しまったっ! じゃあやっぱりクリスマスはなしで!」
 なんだかなし崩しだな。政治家のマニフェストみたいだ。

 とは言いつつも、二人でちゃんと約束は守った。さすがにクリスマスは会ったけど、それ以外は顔を合わせたりしなかった。メールも長引かないように注意したし。
 僕たちにしては本当に、上出来だった。

 明日奈のお陰で、机の上や床はお菓子やジュースのペットボトルだらけになった。こうなったらもう、今夜の勉強はおしまいだ。ちょうど一時だし、ラジオも小さくつける。二時台からこの番組で、明日奈も好きな海外バンドのインタビューがやるのだ。
 「ハル、東京の大学受けるんだっけ。国立?」
 机の上に積まれたセンター試験の傾向と対策の赤い本を拾い上げると、明日奈は訊ねてきた。
 「私立だよ。金が掛かるけど、うち一人っ子だからどうにか親も納得してくれた」
 「やっぱりハルは根っから文系だよね」
 ページをたぐりながら明日奈は言った。そう、僕は理系教科が大の苦手なのだ。だから受験科目に、数学も物理もない学校を受けなくちゃならない。
 「実は明日奈、英語がすごくやばいんだ。ハル、こつとかあったら全部教えて」
 「もっと早くに言えよ」
 「どの学校受けても、英語あるんだもん。やだな」
 明日奈は言うと、僕のベッドに寝転がった。
 「明日奈の学校には、英語必要なんだろ。おれたち普通の文系と違って」
 明日奈が受けるのは、海洋学校だ。こいつはそこで、海辺の生物の研究をするそうなのだ。一見普通そうにみえるけど、明日奈の部屋は女の子らしからぬ深海生物の専門図鑑や、熱帯魚の本、海亀の研究書なんかで溢れている。沖縄の海洋研究所に勤めて、ウミウシの研究をするのが夢らしい。僕には、到底、理解できない世界だけど。
 「ハルはどうするの? 大学出たらごく普通のサラリーマンになるの?」
 「じゃないかな」
 「そっか」
 明日奈は気のなさそうに言う。ごく普通のサラリーマンって。その言い方は引っかかったけど、今の僕に反論する気もないし、そのすべもない。だって、やりたいことがないから大学へ行くのだ。
 「面白くない男だと思ってるだろ」
 「べつに。だってそれが普通だよ」

 やりたいことか。その言葉がスイッチになって、明日奈と何回かけんかした。付き合ってしばらくからのことだった。
 「やりたいことやるのが、そんなに偉いのかよ。やりたいからやる。自分の気が済めばいい。何でもそれで済むと思うのかよ」
 そんなきついことも言ったと思う。逆に、何百万回もこっちのことを言われた後だけど。
 でもそんなことを言ったとき、いつもはがんがん言い返すくせにふっと急に黙り込んでしまう、こいつの顔をみると、どんなに向こうが悪いと思っていたって、自然とこっちから謝る気になるから不思議だった。
 言葉を失くした明日奈は、何だかとても寂しそうにみえた。
 まるで二人で泳ぎ着いた無人島で、ひとりだけ置き去りにされたように。
 今ではそんなこと、明日奈はすっかり忘れてるだろうけど。

 それからラジオを聴きながら、ぽつりぽつり、尽きない話をした。なにを話したかはほとんど憶えていないし、内容もたいしたことはなかっただろう。三時ごろに二人で大笑いしていたので、家族には大迷惑だったはずだ。
 「そう言えば春から、ハルはいないんだよね」
 いつ、会いたくなっても。
 明日奈が、突然、ぽつりとそんなことを言った。
 ふとした会話の切れ目だ。新聞配達のスクーターの音が聞こえ、窓の外の空が白んでくる。明け方になろうとしていた頃だった。そう言えば、と僕も思った。このまま行けば四月から、明日奈とは一緒にいられなくなるのだ。
 ハル、ハル、と子供の頃からうるさいくらいに、僕の名前を呼んでくる明日奈と。
 受験が終われば道が分かれることになるんだ。
 僕は努めて明るく言った。
 「いつでも会えるじゃん。離れてても、スカイプとかでも話できるし」
 「そういう問題じゃないと思うけど」
 「でも、明日奈が望んだことじゃんか」
 「そうだよね」
 と、明日奈は言った。こんなしおらしいこいつを見るのは、少し胸が痛んだ。
 「僕だって一緒の学校行きたかったけど、正直、生物に興味ないし」
 「そうだよね。まあ、しょうがないか!」
 「そんなに軽く言われるとなあ・・・・・」
 なんだ、この展開。
 「じゃあ、軽く言わないでみて」
 と、明日奈は顔を近づけて、僕を見つめた。正直、どきっとした。
 「じゃ、じゃあ・・・・・ずっとこうしてたい」
 「・・・・・だね」
 「そこはぼけろよ。じゃあ、おれたち浪人じゃん」
 「いや、ハル、とっくに滑ってるよ」
 こうやってときを過ごしていると。早く受験が終わればいいな。そう思う気持ちと、この時期、今の時間が終わらなければいい、なんて気持ちが交錯するときがある。ちょうど、今、そんな感じだ。とても不思議な、思春期の端境期。
 「春休みになったらいっぱい遊びに行こう。学校が始まるまで毎日一緒に」
 「うん」
 言ってやると、明日奈は微笑んだ。
 「そうだね」
 ふんわりとした笑み。その表情は、とても柔らかく、細めた目や声の雰囲気も、僕が知っている幼馴染の明日奈のものじゃなかったりする。
 恋人が恋人にする、優しい微笑み。
 そんな感じにみえた。
 初めてだ。
 恋愛ほど、不思議なものはないと思った。
 だってつい最近まで、こいつはただの幼馴染だったのに。
 そんなの問答無用で。
 僕たちの何かが、一瞬で作り変えられていく。

 「もう朝だ」
 と、明日奈が言った。窓の外には完全に朝陽がのぼりきっている。高く澄んだ、冬の晴れ空。冬の陽の蜂蜜色に染まった風景が目に沁みた。
 「約束の大晦日だよ。やっと会えたし」
 と、明日奈が言った。
 「今日は覚悟を決めて遊ばなくちゃだね!」
 「いや、あのさ、お参りに行くんだろ」
 「その前だってば!」
 なんだか危険だな。
 窓を開けると、冬の外気が盛大に入り込んできた。
 「寒いね」
 白い息を吐いて、明日奈が言った。
 「どうなるのかな、わたしたち」
 「大丈夫だよ」
僕は答えた。
 今の僕たちは、さっきの僕たちと違う。
 僕たちの関係は刻々と変化していく。でも、なにも変わらないこともある。変わって、嬉しいこともある。でも、どうなってもずっと一緒なのだ。
 だから何も心配ない。春を恐れる必要など、どこにもないのだ。
 窓の外から振り返って、僕は明日奈は言った。
 「じゃあ、最初はどこに行こうか」

ハル

 甘酸っぱい高校生のカップルを書こう。と言う掌編第5弾は、大晦日のお参りでプロットを進めたのですが、いつのまにか室内の話に。もうかなり前、わたしも受験生だったことがありまして、そのときの冬の思い出と言うと、何となく室内のことが多かったです。恋人はこっそりしのんで来たりしませんでしたが、この小説のハルのように夜中までラジオを聴きながら勉強したり、家族を起こさないようにこそこそ活動するのが、何となく楽しい思い出だったりします。(・・・・暗いな)
 これから受験シーズンが本番に。仕事休みの社会人のまったり感とは違う毎日を過ごしている受験生の人たちやまた、これから受験を迎える人たちにもエールを。(もちろん受験が思い出になってる人たちにもですが)この小説を楽しんでくれたら嬉しいです。

ハル

掌編小説第5弾は甘酸っぱい感じで。春には別々の進路をいく、受験生のカップルの年の瀬の小さな一夜を描きました。幼馴染同士の二人が、近づく別れの春を前にして抱える不安と逆に強まっていく絆、と言う感じになってます。仕掛けなしの直球です。短いですが、お楽しみ頂ければうれしいです☆

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-27

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