奇麗な風の吹くことよ
Aimer un être, c’est accepter de vieillir avec lui
Albert Camus(7 November 1913 – 4 January 1960)
何かを愛すること、それはその何かと老いることを受け入れること
アルベール・カミュ(1913〜1960)
此処から三軒と離れていない場所にある雑貨屋にて購入をして来たばかりの燐寸を勢いよく擦り、同じく雑貨屋で購入をして来たばかりの蚊取り線香に下ろし立ての駒下駄を履いた黒曜がサッと火を点けると、微熱を帯びた潮風が、此の場所に越して来る以前から庭に植えられているらしい青々とした木々の葉を揺らすと同時に、軒先にぶら下げられている真っ赤な出目金の絵が刻まれた風鈴がチリンチリンと揺れた。
星が綺麗だねぇ。
右手に持った燐寸の燃え殻を、左手に持ったリビングの円卓の上から持って来た白銅色した真四角の灰皿にそっと添え乍ら、聲のした方向へと流し目気味に黒曜がにゅいと視線を向けると、右手に紫色の朝顔の描かれた竹製の団扇を持ち、柳鼠色の浴衣を羽織ったメノウが縁側に立って雲一つ見当たらぬ空にぽつりぽつりと浮かんでいる星々をじっと見つめていた。
良く眠れたか?。
黒曜が言った。
あぁ、じっくりとね。
腹の方は?。
ううん、そんなに。
人肌は?。
黒曜は紺色のジーンズの左ポケットの中から取り出した新しい紫煙を口に咥え乍ら、如何にも意地悪な表情を浮かべつゝ言った。
戀しくなかったら、こうもノコノコ出てこないよ。
黒曜が左手に持っていた燐寸箱をひょいと受け取って燐寸を擦り、折角の火が風で消えてしまわぬ様、丁寧な手付きで黒曜の咥え紫煙に火を点け乍ら、気怠げな聲のトーンでメノウがそう述べると、ニヤリと笑みを浮かべ乍ら、全くだ、と黒曜は呟き、メノウと一緒に縁側に腰掛けた。
にしても、君がこんなに優しい人間〈ヤツ〉だとは思いもしなかったよ。
団扇で自身の顔を扇ぎ乍ら、メノウがぽつりと言った。
綺麗な肌を傷物にしちゃ悪いと思ってな。
あはは、随分と芝居ごゝろのある事を言うじゃないか。
オメェだけだよ、こんな台詞〈コト〉を言いたくなるのは。
そう言って黒曜は照れ臭そうにメノウの身体を左手を使い自分の方へグッと引き寄せ、自身の髪色と良い勝負であろう明るい髪色のメノウの頭を猫の毛並みにでも触れるかの様な優しい手付きで撫でた。
嬉しいなぁ、天にも昇る心地ってこんな気分の事を言うんだろうね。
人肌戀しいんだろ?。
だからこうしてやってみせた迄のコトよ。
黒曜が味の薄れた紫煙を口から離すと、メノウは自身の膝上に載せていた灰皿を黒曜の方へと差し出し乍ら、不器用だねぇ、相変わらず、でも嫌いになれないや、真っ直ぐな気持ちが伝わってくるから、と言った。
素直に抱きしめてぇと言えば、そうさせてくれんのか?。
さぁ、其れは其の時の気分。
けっ、上手いこと言いやがる。
そりゃそうだよ、此れでも安くないカラダなんだからさ。
流石は遊郭育ち、遇〈あし〉らい方が人一倍御上手で。
いやいや、君程じゃあないよ。
言ってろ、言ってろ。
付き合いきれぬとばかりに其の場から立ち上がり駒下駄を脱いで裸足になった黒曜は、リビングへと移動し、冷蔵庫の扉をガチャリと開け乍ら、咽喉〈のど〉が渇いたろ、何か飲むか、とメノウに聲を掛けた。
まるで家捜〈さが〉しでもしている盗賊〈レッス〉の様だな、あれじゃあ。
嘗て曾祖父の家のアンティーク調の本棚にて見つけた、月岡芳年の『月百姿』に収録されている『朧月夜:熊坂長範』の画の事をふと思い出したメノウは、こゝろの中でそんな風な事を思い乍ら、麦茶が良いな、昨晩、口移しで飲ませてくれた、と言った。
黒曜は態とらしく咽〈む〉せ乍ら、饅頭も一緒に持ってくらぁ、と誰に言うともなく呟くと、冷蔵庫の中から麦茶の入っているプラスチック製の容器を一つ、此処に越して来た時からある黒鳶色の戸棚の中から琉球硝子〈ガラス〉で出来た天色のグラスと朱色の銘々皿〈めいめいざら〉を其々二つずつゆったりとした手付きで取り出し、チェスの駒でも置くかの様に、薄花色のテーブル・クロスの敷かれた小豆色の円卓の上に並べた。
其れから メノウに手渡す積もりのグラス片手に冷蔵庫の方へと今一度移動をすると、グラスの中に氷を三、四個放り込んだ。
二人だけの部屋の中に、まるで『牡丹灯籠』で御馴染みのお露と婆やのお米の下駄の音の様なカランコロンと言う氷がグラスの中に放り込まれる音が響き渡る中、そうだ、寝入ってしまって言うのをすっかり忘れていたけれど、昨晩作ってくれたお蕎麦、とっても美味しかったよ、とメノウが黒曜に言った。
其れに対し黒曜はたった今氷を放り込んだばかりのグラスに麦茶をサラサラと注ぎ込み乍ら、良くある夏の貰い物〈モン〉だが、口に合って何より、と言って、赤紅色のお盆の上にグラスを置き、グラスと一緒に移動をさせた銘々皿の上へ、饅頭の入った良くある紙製の箱の中から取り出した饅頭を載せた。
はいよ、一丁あがり。
黒曜が言った。
有難う。
如何いたしまして。
黒曜はメノウから御礼の言葉を受け取るや否や、軽い口調とは対照的に、歴史的に大変貴重な価値を持つ書物か巻物でも取り扱うかの様な、神妙な手付きでグラスと銘々皿の載ったお盆を持って縁側へと移動をし、お盆をメノウの側へと置いた。
綺麗な色のグラスとお皿だね。
右手に持っていた団扇を背中の帯にノソノソと差し込み乍ら、メノウが言った。
両方とも近所の雑貨屋で買ったんだ、安い値段だったから。
空になったお盆片手にスクッと其の場から立ち上がった黒曜が言った。
饅頭も近所で?。
あゝ。
齢七十にもなろうって言う婆さんから、売り付けられてな。
偶にゃ、綺麗どころでも引っ張り込んで一緒に喰ってみなよ、会話が弾むかもしれないからって。
黒曜はそう言い乍ら、自身のグラスに氷をカラカラと放り込み、麦茶を注いだ。
ははは、じゃあボクは其の「綺麗どころ」ってワケだ。
グラスに注ぎ込む音と重なる様にして、メノウは爽やかな笑い聲を響かせた。
あゝ、奇しくもな。
黒曜は又も照れ臭そうな顔をして、グラス片手に今一度メノウの側に腰掛けた。
ねぇ、乾杯しようよ、折角だから。
グラスに入った麦茶と氷越しに、メノウが黒曜をじっと見つめ乍ら言った。
あゝ、良いぜ。
柔らかな口調で黒曜が言った。
じゃ、乾杯。
乾杯。
コツン、と言うグラスとグラスが打つかる音がお互いの耳に入って来たのち、メノウはファミリーレストランで御目当てのジュースを飲む子供の様に、麦茶を勢いよく渇いた咽喉に流し込むと、あぁ、生き返る、とひと息ついてから、ひょいと饅頭を一掴みし、いただきます、と黒曜を見つめ乍ら言って、猫が餌にかぶりつく様にガブリとかぶり付いた。
御味は?。
メノウ同様、勢いよく飲んだが為に、麦茶が半分程の量に減ったグラスを握り締めた右手がしっとりと濡れるのを感じ乍ら、黒曜がそう質問すると、メノウは口をモゴモゴと動かして饅頭を咀嚼しつゝ、結構な御味、と答えて、食べなよ、其方〈そっち〉も、と黒曜に対して言った。
黒曜はグラスを自身の横に置くと、右手を使って将棋の駒でも摘む様な手付きで饅頭を摘み、そして其れをガブリと齧った。
口の中一杯に昨晩、メノウと交わした口付けに負けず劣らずの甘い餡子の味が広がるのを感じていると、黒曜の頭の中を見透かすかの様に、とっても甘いねぇ、昨日の夜に交わした契りの様に、とメノウがもう一つの饅頭をモグモグと頬張り乍ら言ったので、本当に此奴ってヤツは、と言う様な表情と視線を黒曜はメノウへ向けて浮かべたのだが、メノウはそんな事など一切御構い無しに口の中の饅頭を麦茶で流し込んだ。
後はお前にやるよ。
風に煽られた風鈴の音色がお互いの耳に入って来る中、片一方の手で灰皿を引き寄せ、もう片一方の手で紫煙を口に咥え乍ら黒曜が言った。
いいのかい?。
じゃあ、御言葉に甘えて。
先程と同様、燐寸の火を擦って黒曜の紫煙に火を点けると、メノウは自身の眼をキラキラと輝かせた。
燐寸の微かな炎がメノウの瞳の輝きを照らした瞬間、黒曜は淡々とした口調で、オメェの眼〈まなこ〉の輝きは、空のお星様と良い勝負だぜ、とメノウに告げた。
眼の輝きが如何の斯うのなんて言う風に褒められたのは、君が初めてだよ。
メノウは黒曜の褒め言葉を自分の頭の中で咀嚼しつゝ、燐寸の燃え殻を灰皿の中へと投げ込むと、投げ込まれた燃え殻は灰皿の淵に当たってピン、と言う音を立てた。
おや、流れ星。
気が付けば最後の一個に饅頭に喰らい付き乍ら、メノウが言った。
何を願おうと思ったんだ?。
円卓の方へと移動をした黒曜は、空になったメノウのグラスにおかわりの麦茶を注ぎ終えると、紫色の煙越しに流れ星が現れそして消えた方向を見つめ乍ら縁側へ移動し、メノウにグラスを手渡した。
メノウは黒曜の顔を見つめ乍ら、君との幸せな時間が何時迄も続くのならいいなぁ、と言う昨晩からずっと頭の中で考えていた自身の願い事を打ち明けた。
其れを聞いた黒曜は、ふうん、と言った表情を浮かべたのち、純粋無垢を絵に描いたような「御言葉」、ありがとよ、と呟いた。
カッコつけたがりやなんだから。
麦茶が空っぽになり、氷だけが残ったグラス越しに黒曜の顔を垣間見たメノウが言った。
元来の性分だ、諦めろ。
そう言ってのけた黒曜は、風鈴の音色も掻き消さん勢いの大きな聲であっはっは、と笑った。
其の姿をじっと見据え乍らメノウは、まだ色戀がどんなモノかも良く分からない歳の頃の七夕の晩、下働きの男たちが用意をしてくれたお飾りの笹に、何をどう思ったのか「面白おかしく暮らせる人と出逢い、暮らせますやうに」と綴った短冊をぶら下げた時の事を思い出していた。〈終〉
奇麗な風の吹くことよ