パンダグラフ

 年末の特番と特番の合間に、ささやかなニュースが挟まれて、そこでは整った顔立ちのニュースキャスターが新しく誕生したパンダの名前を事務的に読み上げていた。
 そんなことにさして興味もなかったけれど、思えば田舎から上京して7年、せっかく東京に住んでいるのに、自分がパンダをみたことがないという事実がなんだか気になってしまって、ふと明日にでも上野動物園に行ってみようという気になった。
 空いた酒缶を蹴り飛ばして、ベッドに倒れこんでみる。年末の浮わついた夜の空気を遮断した窓が結露で濡れてる。
 世間は帰省だ旅行だと言っているけれど、ここ7年ろくに実家に帰っていない自分にとって、また年の瀬を一緒に過ごす“誰か”もいない自分にとって、この時期はばつが悪い。上野へいく電車のルートを調べながら、そのまま新幹線に乗って田舎に帰ってみようかなと思いはしても、家を出るときに吐いた親への暴言がそのまま躊躇いになる。
 親とはあまりいい関係ではなかったけれど(今もいいとは言えないけれど)少し懐かしさが勝って、微睡みながら親と動物園へ行ったときのことをフツフツと思い出した。
 あの頃の僕はあまりにも幼くて、全ての動物園にパンダがいると思い込んでいた。けれど田舎の動物園にはパンダなんてどこにもいなくて、僕は馬鹿みたいに泣きわめいた。親はそんな僕を宥めていた気がしたけれど、よく思い出せない。
 なにをやってもうまくいかないと思って生きてきた。期待したら裏切られて、努力はなにも報われない。いつも人と自分を勝手に比較して、勝手に劣等を感じる。人と同じ労力で生きているのに、人は僕より幸せで、自己をひたすら矮小にさせる。


 気怠げに目が覚めた。口の中がカラカラで、舌が干からびてミイラになってるんじゃないかと思えた。舌のミイラがあるかなんて知らないけれど。
 次第に意識がハッキリして、辺りが仄暗いことに少し気が焦ったけど、つけたままのテレビが朝のニュースを流していたから、冬の暗い早朝であることがわかって、なにがあるわけでもないけれどなんだか安心した。
 そうだ今日はパンダをみにいくんだと、今見た夢が暈けながら僕に使命を思い出させる。
 倒れた酒缶を踏んづけて、曇った鏡の前に立つ。歯みがき粉と唾液の混合液をゲロを吐くみたいに口から掻き出して、それから熱いシャワーを浴びた。
 それから暫く物思いに耽って、朝食代わりのハイボールを腹に流し込む。そうしてやっと家から出たとき外はもう昼の様相で、風は冷たいのに陽はなんだかぬるかった。
 とりあえず通りに出て駅を目指す。不思議と通りに人も車も疎らで、休日の喧騒がない。ああ、年末だからかと勝手に納得してみる。そうしてダラダラ歩いているうちに駅に着いて、ひっそりとした改札を抜けて怠惰にエレベーターを使ってホームに昇った。
 ホームは外と変わらずがらんとしていて、電車の姿は何処にもない。出た場所が悪かったのか電光掲示板は遥か彼方で、次の電車がいつ来るかなんてマサイ族くらいにしか分からない。
 別に急いでもないしと、近くのベンチに座ってボウっと電車をまった。
 少し考える時間ができると、いつも親のことを考えてしまう。親孝行だとか綺麗なことではなくて、自分の吐いた暴言とそれに伴ってとってきた態度をだ。
 別に家が度を越えた貧乏だったり、激情的な虐待もなかった。親は僕を愛していたと思うし、愛ゆえになにか理想を押し付けてくるような無理強いもなかった。僕らは適度な距離感で正しい親子関係を築いていたはずだった。
 ただ、片親だった。

 電車はまだ来ない。

 僕は片親という不揃いがなんだかただ恐ろしかった。別になにか不都合があったわけじゃない。僕はこうして五体満足で贅沢に大学まで出てる。特段苦労もない。周りと同じく適切に食べて眠って育って、同じだけ勉強して大学を出た。中学生の頃に新聞配達なんて美談もない。
 ただ片親を“不揃い”と感じてしまう程度になぜか歪んで育ってしまった。
 人と自己を比べるとき、必ず僕はその不揃いの穴だけ、人生が矮小に描かれる気がしてならなかった。そしてその不確かな不満と不安が僕らの関係性を変に拗らせた。誰が悪いわけでもないのに。

 警笛がなった。
 たいして待った気もしなかったけれど、ズボンと靴下が守り損ねたくるぶしが痛いくらい冷えていた。
 ベンチから立ち上がってホームを見回しても、相変わらず人はいない。年末だとこんなこともある。たぶん。
 遥かに電車が見えた。スタンド・バイ・ミーの橋の上のあのシーンみたいに近づいてくる。僕は線路には立っていないけど、電車の轟音が嫌いで、臆して一歩下がる。
 また少し近づいてくる。するとなんだか電車の輪郭が歪んでみえる。
 見覚えのあるあの四角の間抜けな正面にはどうにも見えない。どちらかというとなんだか汽車みたいに頭が尖って見える。
 一歩踏み出して目を凝らしてみる。なにかが電車の上に乗っているようだった。それも一頭じゃなくて各車両に何頭も。
 そうして僕の理解の追い付く前に電車が目の前でゆっくり徐行して、暫く流れてから止まる。

 電車の上には各車両に一頭ずつ立派なパンダが乗っていた。
 僕の理解は一向に追い付かない。

 何一つ理解できなかった。あまりにも常識からかけ離れていたから。
 電車は礼儀として扉を開けて、そして静かに扉を閉めて僕の前から立ち去った。
 僕はケツを振る車両と、上に乗った同じくケツを振るパンダをただ呆然と見送った。

 ベンチに戻って辺りを見回しても、相変わらず不自然なほど誰もいない。
 朝流し込んだ炭酸の抜けきったぬるいハイボールのせいだと思った。ありえないけど、起きた現実の方がありえないから、そう納得するしかない。
 ただ、また警笛がなって、再放送みたいにパンダの乗った車両が目の前に再び止まった。
 パンダは首をかしげて僕を車両の上から見下ろしていた。
 ありえないだろと呟いて、僕も首をかしげてみる。パンダはそんな僕をみて、そっぽを向いて車両の屋根に寝転んだ。赤ん坊がオムツを替えてもらうみたいに仰向きで両足を上に伸ばしてる。昨日テレビで見たみたいに。
 そうしてまたただあんぐりと呆然にパンダの乗った電車を見送ると、ホームの端に一組の母娘が手を繋いでこちらへ向かってくるのが見えた。まさに今あのヘンテコな電車から降りてきたって感じだ。
 僕はそんな母娘に駆け寄って勢いに任せて声をかけた。何を聞いたらいいかなんて自分でも分からないのに。
「あ、あの……」言葉が上手く見つからない。「パンダを……パンダが乗ってませんでしたか? いや、一緒の車両じゃなくて、屋根の上になんだけど……」
 母娘は不審がって僕を見た。歳の割に母親は童顔で、逆に娘は大人びてみえて、一人の女性の縮図みたいな変な親子だった。
「のってるよ」娘の方が言った。
「ああ、そう……」
 僕はあからさまにがっかりしてみせた。彼女たちが驚いてくれれば良かったのにと心の底から思ったから。こんな風にさも当然のような態度を取られてしまっては、まるで可笑しいのは僕の方になってしまう。
「ねえ」と娘の方をみて訊いた。「どうしてパンダが乗っているか知ってる?」
 娘は大きな瞳をパチクリと何度か瞬いて、きょとんと呆けたマヌケ顔で僕を見た。僕は変な間を首を少し傾けて催促がてらに潰したけれど、娘の口からはなにもこぼれなかった。だんだん娘も不安げな顔になって、目線を母親に移して助けを求めた。
「もういいですか」母親が言った。「用事があるので」
「いや、あの本当になんでパンダが乗っているのか知りたいんです。今までこんなことなかったから」
「さぁ、私もよく分かりません。駅員さんにでも訊いてください」
 母親は本当に迷惑そうな顔で僕の答えも待たずに娘の手を引いて急ぐようにホームの階段を降りていった。

 電車も親子も過ぎ去って、僕は一人、黄色の点字ブロックの上にしゃがみこんで少し考えてみる。あのパンダについて。
 もしかしたらあれは本物のパンダじゃなくて3Dみたいなものかもしれない。新宿の広告みたいな。けれどそう思うにはあまりにもリアル過ぎた。本物のパンダなんて(まだ)見たことないけれど、あれはあまりにも生き物としての質感がありすぎた。まだ着ぐるみの方が信じられる。けれど仮に着ぐるみだと自分を納得させようとすると、人を車両の上に乗っけて走行する電車の馬鹿馬鹿しさを今度は受け入れなければならない。ここはインドじゃない。

「お客さん」
 ふと、後ろから声をかけられた。僕はビックリして危うく線路に転がりそうになったけれど、その声の主がしっかりとした力でもって僕の身体を支えた。
 落ち着いて振り返ってみれば、初老の駅員が訝しげに僕を見つめていた。身体を支えてくれた腕をまだ僕の腰に当てながら。
「どうかされましたか、こんなところでしゃがみこまれて」駅員は言った。
 僕はハッとなって、逆に彼の腕をとって訊いた。
「電車の上にパンダがいるようですが、あれはなんです?」初めから彼に訊けばよかったのだ。こんなところで一人悩まないで。
 ただ初老の駅員はあの少女と同じように瞳をパチクリとして言った。
「はあ、まああれはただのパンダですが」
「だから、なんでパンダが上に乗ってるんですか」口調が少し強くなる。
「なんでと言われましても……」
 駅員は本当に困った顔をしていた。
 僕は困惑する駅員をみてただ呆然とするしかなかった。やっぱり僕の方が可笑しくなってしまったみたいだったから。なぜなら彼らはパンダではなくてそんな質問をする僕に対して不審の目を向けているのだから。
 僕が余りにも酷い顔をしていたのか、駅員は大丈夫ですかと声をかけて、慰めみたいにポツポツ言い訳を始めた。
「私はその、技術者ではなくしがない駅員なので詳しくは分かりませんが、あのパンダは電車の走行に必要なんですよ。パンダが乗ってくれているから私たちは日々安全にこうして電車を利用してもらえてるわけです。図書館だって、本を貸してもらえるところですが、必ず本には本棚が付き物です。それと同じですよ。電車という存在を成り立たせるものとして必要なんです。あのパンダが」
 駅員は少し微笑んだ後、僕の身体から手を放してホームの端へ消えたいった。
 それからまた警笛がなって、パンダを乗せた電車がまた僕の前に現れた。僕は降りる乗客たちを掻き分けて、その電車に乗り込んだ。
 走行は実にスムーズだった。なんの問題もない。

 車内は人で溢れていて、座れないどころか僕は人に押し潰されながらつり革にぶら下がっていた。
 今日の朝まで当たり前だと思っていた常識を諦めてしまえば、別段なにも不都合はないように思えてくる。性欲と食欲が入れ替わったわけでもない。ただ普段乗っていた電車にパンダがくっついただけだ。
 それ以外なにか変わってしまったことがあるのだろうか? 前の世界と比較して、パンダひとつで劣るも優れるもない。
 僕は一体何処へ向かえばいいのか。目的のパンダは既に見てしまったから。電車に揺れる僕の屋根の上でやつらもきっと一緒に揺れている。
 昔の僕が泣いてでも見たかったパンダは電車のオブジェに成り果てた。
 ただそれと同時に動物園のパンダは何処へ行ったのだろうかと、ふと疑問に思う。こうしてパンダが中吊りの広告と同程度の価値になり下がったこの世界で、皆は上野になにを求めて行くのだろうと思った。案外電車の屋根と一緒に展示されているのかもしれない。
 もし動物園でパンダを見れたのなら、久しぶりに親へ連絡してみよう。あのとき泣いても見たかったものがどれだけ下らないものか分かったから。

 乗り換えの池袋に付くと、途中トイレに寄ってゲロを吐いた。朝のハイボールの酒の匂いのキツイオレンジ色のゲロだ。
 それから、かわらずパンダの乗る山手線に揺られて上野を目指した。やっぱり乗客は皆いつもの顔で、僕と同じく電車に揺られている。屋根を隔てて乗るパンダに想いを馳せてみる。無駄なことなのに。
 上野で降りて、上野公園を突っ切る。そしてチケット売場まで行ってみると、窓口に小さな張り紙があった。

 年末年始 休園 ご迷惑おかけします。

パンダグラフ

パンダグラフ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-24

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