舟を漕ぐ

 秋の低い陽が、薄い雲の切れ間ごとに波をうって、教室へと流れこんでくる。閉め切られた窓で外の音は全く聞こえないけれど、きっと風が吹いているから、枯葉が舞って、窓の画角に映っては消えていく。
 そういった教室の窓から見える秋の情緒の中で、僕らは教科書を開いて、先生の言葉に耳を傾けている。昨日も僕らはそうしていたし、きっと明日も僕らは同じようにするのだろうと、先生の言葉が鼓膜を通り抜けながら、ふと思う。
 チョークが黒板に当たるたびに、カツカツと打ち鳴って、白い粉が舞っていく。耳を澄ませてみれば、閉め切ってしまった窓の外とはずいぶんと違って、椅子を引く音や、紙を捲る音、隣の子の衣擦れまでハッキリと聞こえ始める。僕はそんな喧騒の中で小さく欠伸をすると、体温が(もしかしたら僕を取り巻く教室の温度が)ほんの少し、上がった気がした。
 自然と瞼が下がって、フワフワと虚ろになっていく。ただ、それでも、意識の底はハッキリとしていて、辺りの物音に聞き耳を立てながら、沈んだ意識を引き上げては、ゆっくりと目を開ける。そしてまた錨を下すみたいに、暫く目を瞑るといったことを繰り返した。
 目を瞑っている間は、視覚が遮断されるからかはわからないけれど、いつもより少しだけ辺りの物音がクリアに聞こえてくる。紙を捲る音は、教室の彼方此方から聞こえてくるし、衣擦れの音は、なんだか僕らの着ている制服の皴一つ一つまで想像させる。
 ただ、暫くそんなことを繰り返していると、コンコンと、聞きなれない新しい音が聞こえてくる。チョークが黒板と打ち鳴る音とは違って、なんだか少し湿って重い。
 その音は夜中の秒針みたいに、一度意識してしまうと、よりその勢いを増しているように思えたし、何より不規則的に止まるチョークの音と違って、ある一定の間隔をおいて、ひたすらに繰り返されているようだった。
 僕はまたゆっくりと意識を引き上げ、目を開けて、その音の方へチラッと視線を向けてみる。
 コンコンと、小さな黒い棒のようなものが窓を外から叩いている。いまいち暈けた視界でよく見えなかったけれど、暗闇というより、明るさに目が慣れるみたいに、大した時間をかけずにしっかりと輪郭が掴め始める。
 それはキツネの手だった。よく見てみれば、その手の向こうにキツネの耳やら、突き出された口やらが、窓枠からヒョコヒョコ見え隠れしている。
 キツネは変わらずコンコンと窓を叩いている。それは猫が光を掴もうと壁に向かって手を伸ばしているのと違って、なんというか、窓の内側にいる生物に向かって何かしらの反応を求めているように見えた。鍵のかかったトイレのドアを申し訳なくノックしているような情けなさと、申し訳なさと、それでいて叩かずにはいられないような、そんな焦りのようなものを感じとれるノックだったから。
 教室を見回してみて、僕以外にもこの状況に気が付いている人間が他にいないか確認してみる。
 皆はいつも通りキチンと座っていて、先生の言葉に耳を傾けている。教科書やノートに目を落として、書いたり捲ったり。そのたびに、やっぱり紙を捲る音や、腕を動かすたびに厚いブレザーの袖の衣擦れが、動きにあった大きさで聞こえてくる。窓へ視線を送る生徒は誰もいない。
 僕はまた視線を窓に戻してみると、やっぱり変わらずキツネは小さな黒い手で窓を叩いている。
 窓際に身を寄せて、窓枠にそっと手をかけてみる。さっきの休み時間に換気でもしたのか知らないけれど、カギはあいていて、カラッと小さな音を立てて、ほんの少し窓が開く。隙間から入ってきた風に煽られて、薄いカーテンが小さく揺れはしたけれど、枯葉が舞っているにしては、風は思ったより吹いていなかった。
 そんな窓の開かれた隙間をボウっと見つめていると、キツネも気が付いたようで、その隙間に小さな黒い手をねじ入れて、なんだか猫みたいにスルっと僕らの教室に(僕が招き入れたようなものだけれど)侵入してきた。
 キツネは壁に設置された蒸気暖房に前足を置いて、なんだか教室をキョロキョロと見回して、そのうち自然に、僕と目が合った。
「ねえ、ちょっと頼みごとがあるんだけれど」
 キツネがそう言った。
 一応、教室をもう一度見回してみる。相変わらず皆は教科書を捲ったり、ノートを書いたり。先生はさっきからわざと気が付かないフリでもしているみたいに、黒板と真剣に睨めっこしているし、風で小さく揺れるカーテンを煩わしそうに手で払う前の席の子も、結局、僕らの方を向くことはなかった。
「ちょっと頼んでいいかな」キツネはまた言った。
 若干抵抗はあったけれど、僕はただ「何を?」と、返事というよりその場にボソッと吐き捨てた。
「舟を漕いでほしいんだ。私の代わりに」
 僕は首を傾げて、キツネの鼻先をジッと見つめた。そして体をすっかりキツネの方に向きなおってしまって、声の大きさもたいして抑えずに聞き返した。
「舟?」
 まわりの人たちは、やっぱり僕とキツネなんか気にしない。
「とりあえずさ、ちょっとこっちに来てくれないかな」
 キツネはそう言うと、身を翻して、また窓の隙間をスルっと抜けて、外へ出て行った。
 僕はそんなキツネの背中を見送って、暫くボウっと窓の隙間を眺めていた。なんだかそのまま何事もなかったかのように、また窓の画角に枯葉でも映ると思ったから。ただ、やっぱりキツネは確かにそこにいて、耳やら口やらがヒョコヒョコ見え隠れしたと思うと、今度は顔だけ窓から教室に出して「ねえ、早く来てくれよ」と言った。
 少し迷って、先生の方を見てみる。やっぱり先生は黒板に夢中で、僕らのことなんか気にしていない。僕は思い切って、それでいて当たり前のことみたいに、自然に立ち上がって窓を開けて、窓枠に足をかけて教室から抜け出した。
 僕らの教室は一階だったから、そのまま落下していくなんてことはなかったけれど、足元をよく見てベランダに着地した後、辺りを改めて見回して、僕は呆然としてしまった。
 僕らの校庭はどこかに消えてしまって、そこにはただひたすらに海原が広がっていたから。
 ただ不思議と、恐怖だとか、疑問みたいなものはどこにもなくて、ベン・ステイラーが演じるウォルター・ミティが幻想の中でオフィスから飛び出したときはこんな気持ちだったんだろうかなんて、そんな暢気な空虚にいた。
「ねえ、こっちだよ。早く来てくれよ」
 海を見て呆ける僕に向かってキツネは言った。
 キツネは隣の教室のベランダ辺りに舟を泊めていたようで、揺れる木製の舟に前足を乗せて、僕をジッと見つめていた。
「私の代わりにこいつを漕いでほしいんだ」
「舟なんて漕いだことないよ」僕は言った。
「大丈夫、何ならただ櫂を握っていてくれるだけでもいいんだ。私の手は、ホラ、何か掴むってことには向いていないから」
 キツネは僕に向かって片方の前足を突き出してそう言った。
 僕は息を深く吐いて、キツネのもとに寄っていくと、キツネはなんだかとても嬉しそうに、口を開けて舌をチロチロと出した。
「ありがとう、本当助かるよ」キツネは言った。
 僕が舟に乗り込むと、キツネも飛び乗って、僕らは向かい合うように腰かけた。そして僕が櫂を握ると、錨も何もない船が、そっとベランダのコンクリートから離れて、海原へ流れ始める。
「ねえ、漕ぐって言ってもさ、どこに向けて漕げばいいのさ」僕は聞いた。
「ここからずっと水平線のほうに真っすぐに漕いでいくとね、また別の学校があるんだよ」キツネは言った。
「ここからその学校なんて見えないけど。ねえ、遭難なんてのは嫌だよ」
「水平線に隠れて見えないだけさ。すぐ見えてくるから大丈夫。大丈夫だからその櫂を離しちゃダメだよ」
 僕は改めて櫂を握りしめて、ゆっくりと前後にその櫂を押したり引いたり、ユラユラと揺らしてみる。辺りは見渡す限りの海原で、目印みたいなものは何もなかったから、一色の画面を拡大してスクロールするみたいに、僕らがどれだけの速度で、というよりは、どれだけの距離を進んでいるのかもあやふやになってしまう。ただ、ふと思い出して、さっきまでいた校舎を眺めてみれば、確かに流れた時間や、腕を動かしたぶん僕らは進んでいるようで、しっかりとその実像が萎んでいく。
 僕らは暫く互いに黙って、見つめあいながらユラユラと揺れていた。
「いいもんだろ?」
 ふとキツネが言った。
「何が?」
「舟を漕いでみるのがさ」
 僕はそう言われて、さっきまで自分のいた教室を思い出した。
「二次関数やら古典文法に比べたらね」僕は言った。
 キツネはまた口を開けて、その舌をチロチロと出して笑った。
「君は学校が嫌いなんだろう?」キツネが言った。
「どうして?」
「だって窓ばっか見てたじゃないか」おかげで私に気が付いてくれたわけだけど、とキツネは少し間を空けて付け足した。
 僕は何で窓なんか見ていたんだろうか? 少し考えてみる。
「別に、嫌いだからってわけじゃないよ」
 僕は言った。また少し考える。腕は動かしながら。
「ただ、少し退屈だったんだ。別に嫌いとかそういうんじゃなくて、なんていうかな、あぁ明日も僕はこうやって授業を受けるんだろうなって、思えば昨日も同じことしていたなって。そうやって考えていくとね、明後日も明々後日もって考えになる。それできっと明々後日の僕がこう思うんだよ。なんだか今まで同じこと繰り返してるって。そりゃ土日だとかそういうのはあるけどさ、けどそれも結局同じことで、輪っかをただグルグル回って、なんにも進んでいないように思っちゃうんだ。ハムスターみたいに」
「それと窓がどう関係あるのさ?」キツネは首を傾げた。
 僕らはお互い首を少し傾けて、ウンウンと考えて、ユラユラと舟の上で揺れている。
「窓はね、いつも見える景色が違うんだ。光の具合とか、空気の濃さがね。そして隣の窓とはまた別の画角になる。窓が同じ景色を映す日はないし、同じ景色を映す窓はないんだ。だからそういう、考えても仕方ないことを考えちゃったときは窓を見る。僕がただ同じだと思っている毎日でも、そういった、何だろう、僕の干渉できない大枠みたいなのは確かに変わっているんじゃないかって思えてくる」それから、またあの教室の窓を思い出して「それはそれで悲しいけどね」と僕は付け足した。
「ふうん」
 キツネはなんだか納得できていないような低い声で唸った。
「こうやって舟を漕ぐのは初めてだけれど」僕は言った。「もしこの行為が日常になっちゃったら、きっと僕はまたそういうことを考えちゃうんじゃないかな」
「今度は窓もない」キツネは言った。
「そしたら海の底でも覗いてみるさ」
 僕は舟を漕ぎながら、海面を覗き込むフリをした。
「なんだかどん詰まりって感じだ」キツネは言った。「なにしたって退屈になっちゃうんだから」
「そうかな」と僕は言った。けれど実際、キツネの言う通りかもしれない。
 僕と教室に残った他の生徒と、果たしてどちらが幸せなんだろうか? 彼ら彼女らは、本当は僕とキツネに気が付いていたのかもしれない。気が付いていたうえで、教科書に目を落とし続けていたのかもしれない。
 夢を夢とわかってしまうような、そんな明晰夢の中でも、彼らはきっと自然と目が覚めるまで、その夢の中で役割を続けていくのだろうと、ふと思う。
 僕はゆっくり舟を漕いで、教科書に目を落とす自分を想像してみる。窓の外にいるキツネには当然気が付かない。たとえ気が付いていたって、そういった物事を、そういう物事として自然に受け入れていく。僕が窓の外の出来事を僕の干渉できない大枠と言ってしまったように。
 そこには僕と彼らがどっちが幸せなんて考えはどこにもなくて、ただ自分が何をしているのかだけが残るんだろうか? けれどまあ、そういう生き方もある。
「結局、意識と認識の違いなんだよ。どれだけ気にしたってしょうがないこともある」キツネが言った。
 ハッと気が付いて、振り向いてみれば、僕らはキツネの言う目的の校舎に近づいていた。校舎の壁面は(だからここまで気が付かなかったのかもしれないけれど)薄い青に染められていて、遠くから見たら空と海に紛れてしまうような色をしている。
 舟はゆっくりと、なんだか吸い込まれるみたいに、僕らが出港した港と同じように、校舎のベランダのコンクリートの前まで近づいて、自然と停まった。
「ねえ」とキツネは言った。「君がよければだけど、一緒にここで降りてさ、また暫くして海に出よう。今度は君も誰かに漕いでもらってさ。きっと君も退屈なんてしないよ」
 キツネは舟からコンクリートのベランダに飛び乗る。その背中を眺めていると、なぜだか櫂を握る掌にじんわりと汗が広がっていく感覚がする。
 ウミネコは鳴いていない。薄雲もない雲量ゼロのさざ波の音だけが聞こえてくる海原で、或いはその海原に浮かぶ青い校舎のベランダで、僕らはただ黙って向き合っている。
「いや、僕は帰るよ」暫くして僕はキツネに向かって言った。ちゃんと聞こえるように少し大きな声で。「君の誘いはとても魅力的だけど、何だろう、もしここで降りたら、退屈から逃げるためだけに生きていくようになっちゃうと思うんだ」
「それって悪いことなのかな」キツネがこっちを向いて言った。
 僕らはまた互いに首を傾げながら、暫く黙って考える。
「わからないけど」と僕は言った。「退屈を退屈だと思えなくなる生き方もあると思うんだ。それこそ意識と認識の違いみたいに」
 キツネはもう何も言わなかった。
 僕らはまた互いに黙って見つめ合っていると、舟はなんだか突然、自分が動けることを思い出したみたいに、自然とベランダからまた海原へ流され始めた。
 キツネはそんな舟と、それに乗った僕を見ると、背を向けて、教室の窓を上手に開けて、その青い校舎の教室へと入っていった。
 それを見届けて、また櫂に力を入れて、僕は僕のいた校舎へ向かって、ゆっくりと揺れながら舟を漕ぐ。
 舟を漕ぎながら、また目を瞑って耳を澄ませる。そうして意識を僕のいた教室へ向けてみれば、またあの紙の捲れる音や、制服の衣擦れが、夜の秒針みたいに聞こえ始める。

舟を漕ぐ

舟を漕ぐ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-20

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