Voyager
ダッシュボードに足を乗せて、ヤニで黄ばんだ天井を呆けて見ていると、なんだか場所による濃淡と陰影のシミが人の顔に見えてくる。
「ジミー・カーターがこっち見てる」
僕がボソッとそう言うと、隣でカイワレのサラダを貪っている男が、手元のプレートから目を離さずに「俺にはフルシチョフに見える」と言った。
フルシチョフのあの丸い頭を思い浮かべて、その虚像の横に薄ら笑顔のジミー・カーターを浮かべてみると、なんだか馬鹿々々しくて笑えてくる。
「ウサギがカニに見えるよりは近いかもしれない」
「カニ?」
男はきょとんとした顔でこちらを向いた。雑に伸びた顎髭に、白髪みたいな細いカイワレが一本ぶら下がっている。
「ほら、月の模様の」と僕は言った。
「俺の国では月の模様は女の横顔だった」
男は手元のプレートに向きなおってポツリと吐いた。それから口をめいっぱい広げて、残りのカイワレを全部かきこんだ。そして、湿った咀嚼音を響かせながら、空になったプレートを放り投げて、胸ポケットから小さな銀色のシガレットケースを取り出した。
中には男の太く短い不器用な指で一本ずつ巻かれたタバコが数本入っている。クレープのように先にいくほど太くなる変な巻き方のタバコだった。
「一本くれよ」
僕がそう言うと、男はフィルターの入っていない尖った吸い口の方をこちらに向けて、ダーツみたいに一本投げてよこした。
タバコは湿気ったニシンの燻製みたいな、ふざけた味がした。
「婆さんの股の味がする」僕は悪態を吐いた。
「だからサラダにあうんだ」男は言った。
男は馬鹿みたいに黒い瞳で一度こちらを睨んで、それ以上何も言わなかった。
それから長い沈黙があった。潜水艦みたいな丸窓の外は男の瞳みたいに常に暗闇だった。エンジンも空調も黙っていて、僕と男の呼吸音だけが、トンネルのトラックみたいに馬鹿みたいな音をたてていた。
何秒、何分、何時間経ったかも分からない。ここには時計がなかった。必要ないから。
僕らは眠くなったら勝手に寝て、ひたすらカイワレのサラダと得体のしれない茶色のブロックを齧った。僕と男はたまに喧嘩をして、罵りあって殴りあった。ただ鼻っ柱は殴らない。それがルールだった。ただの暇つぶしで喧嘩することもあった。
ひたすら自由な時間だった。ある意味ここは自由を強制される空間だった。僕らは頭を捻って暇つぶしを考えなければならなかった。暇をつぶしたってやってくるのは永遠の暇なのに。僕らは頭が狂ってしまわないように懸命に暇をつぶした。
僕は元来本が好きだったから、初めの頃はつらつらとハムレットの何たるかを説いていた気がしたけれど、男は微塵も興味を示さないで、僕の言葉は中空に消えた。言葉や物語がどれほど文化に依存していて、この空虚な、猿の親戚二人の空間で無意味なものかを思い知らされたりした。
その点男の趣味はこの空間においては実用的だった。男は歌うのが好きで、よくビートルズの曲を歌っていた。
「なんの感慨もないクソガキの鼻歌みたいだ」と、僕は一度彼が歌っている最中に罵ったことがある。僕が寝ている横でWith A Little Help From My Friendをリンゴスターのドラムの真似をしながら歌ったから。
男はヘラヘラしながら「だからビートルズを歌うんだ。お前が俺の歌うエルヴィスに文句を垂れたらさすがに鼻っ柱をぶん殴っちゃうからね」と言った。
男は僕が紙とペンがないことを嘆いたみたいに、よく自らのコレクションのレコードがないことを嘆いていた。
僕らはそれから好きなスポーツ選手から寝た女の数まで語り合った。時間はいくらでもあったから。なんだか人生の総復習をしてる気分だった。どこで生まれて誰に育てられて、何を観て読んで聴いて育って、初めてはいくつの時で、何本たばこを吸ってきて、酒を何リットル飲んで、何処を運転して、誰をぶん殴って、どうして今ここにいるのかを。
今まで生きてきた数十年を、きちんと数十年かけて僕らは伝え合った。それは言い過ぎかもしれないけれど。
いくつか互いの人生を振り返ったうえで、男の話で印象的だった話がある。互いの爺さんと婆さんの話をしていたときだ。
「昔田舎の婆さんが家の裏で猿を飼ってたんだ。白黒の小さい猿で、人懐っこくて賢い猿だった。ただ野生の居着きみたいなもんだったから、ある日急に婆さんの家に来なくなった。元が野良なんだから、もちろんそんなこともある。ただ婆さんは餌箱持って毎日家の裏で何時間もそいつの帰りを待ってんだ。暫くしたら諦めるだろうと皆思ってたよ。ただ婆さんは結局二年くらいそれをやり続けた。そんで家の裏の山に向かって叫ぶんだ。猿! 帰ってこい! って。笑っちゃうだろ、名前なんてつけてなかったから、婆さんは二年も思い続ける猿のこと猿って呼ぶんだぜ。人探しで人間探してますなんて書かないのに」
僕は笑った。ただ男はまだあると、話を続けた。
「そこまでは良かったんだよ、ただ飼い猫が死んで飼い主が自殺しちまうみたいな話もある。だからどっかで婆さんにもその猿に踏ん切りつけてもらわないと健康に悪いだろ。さすがに二年は思いすぎだ。だから俺はふざけ半分で中国人から一匹猿を買ったんだ。茶色のやつ。それを婆さんの家の裏山に放した」
「それで、婆さんがそっちで満足したって? なんだか薄情だね」
「いや、そんな単純じゃないんだ。婆さんはその茶色の猿を見て言ったんだ。猿が帰ってきた! ってね。元の猿と似ても似つかない茶色の猿だぜ」
「ボケてたんじゃないの?」
「まあそれも半分はあると思うよ、ただやっぱり名前のせいだと思うね。婆さんは猿って呼んでいるうちに猿って動物そのものなら全部同じになっちまったんだ。思うにやっぱり名前って大事だよ。ある意味人と動物の違いってのは、生まれながらに名前を誰かにつけてもらうことが大事で、それが人を人たらしめるものなんじゃねえかな」
「なるほどね」
男の話は考えさせられる話ではあった。ただ彼はその話をするたびに登場人物が婆さんから爺さんになったり、猿が犬になったりした。ただ僕はそれを訂正せず、彼の暇つぶしの創作を享受した。
そうやって僕らは互いの人生を脚色創作して、無限に過ぎる時間の暇に立ち向かった。
ただ抵抗は虚しく時間は延々流れていった。
何日何年経ったかもわからない。カレンダーはなかった。必要ないから。
タバコはとっくになくなった。互いに罵る理由もなくなって、もうずっと喧嘩もしていない。男の歌う歌詞も朧げな鼻歌が増えた。
丸窓からは相変わらず暗闇がこっちを見ている。手を振ると反射した自分が手を振っていた。それに僕がヘラヘラと手を振り続けていると、男は横で急に泣き出した。ここ最近はいつものことだった。
男の顔はもう髭に埋もれてカイワレに似た白髪が彼方此方に生えている。
相変わらず僕らはカイワレのサラダと茶色のブロックを齧っていた。僕らと違ってこの食料は一向に減る気配がなかった。もしかしたらたいして時間も経っていないのかもしれない。僕らはもう自分の歳さえ忘れてしまったけれど。
ダッシュボードに足を乗せて天井のシミを見つめていると、それが次第に見知った人の顔に見えてくる。ただそれがいったい誰なのかが分からなかった。もう僕らは自分の名前すら曖昧だったから。
「天井のシミが人の顔に見えるよ」僕は言った。
「俺には猿に見える」男は言った。
「似たようなもんだよ」
「……猿には名前がない」男は呟いた。
僕はそれをきいてゲラゲラ笑った。腹筋が攣って、喉が少し裂けて口の中がなんだか血なまぐさかった。それでも伸びをしたときの足の痙攣みたいに横隔膜の収縮を止められなくて、僕は気を失う寸前まで笑い続けた。
男はそんな僕をあの暗い瞳でジッと見つめていた。僕が呼吸を落ち着かせるまでずっと。
「ねえ」と僕がきいた。「歌を歌おう。ちゃんと人の名前があるやつ」
男は暫く考え込んで、俯いてぶつぶつ何か呟いていた。彼は必死に記憶の引き出しを漁っていた。
そのうち、独り言みたいにポツポツ歌いだした。歌詞もメロディーもボロボロにうろ覚えだったけれど。
ジョニー(?)は一人で分かってた。
それはうまくいかないって。
家のある田舎から出て行って、他所の原っぱを欲してた。
それから男は急に大声で叫んだ。
戻ってこい。
戻ってこいよ。
お前がかつていた場所に。
男は泣きながらそれでも大声で歌い続けた。僕も裂けた喉で彼と一緒に歌った。
それから誰も聞いていない歌をひとしきり歌って、僕らは倒れるように眠った。
閉じられる瞳に映る丸窓の暗闇が、はたして何処なのか僕らには分からない。ここに地図はなかった。必要ないから。
Voyager