フダンガール

フダンガール

週一回、一時間限定の魔法少女カザリ。
幼馴染みのセイを悪鬼から守るために、気弱なカザリが見出した力とは?
update:2022.12.18
原案・写真感謝:いみず様

𓇬転𓇬

 ついにこの時が来てしまった。
 一時間限定魔法少女の花咲里(かざり)は、自らの魔杖たる闇の幻想鎌を握る手に、今生最大の愛と気合いを込めた。

「セイのことは……私が絶対に、助けてあげるから!」

 既に家族を全て亡くした花咲里には、自分の命より大切な幼馴染み、(せい)。その体の弱い絵描きの少年が、今の花咲里には唯一残された光だ。
 花咲里の家族を奪い、闇の世界に花咲里を突き落した悪鬼が、今また惺まで連れ去ろうとしている。きっとこの日のために自分は生まれてきたのだと、花咲里には最早、何の迷い一つもなかった。

 随分前に路線が廃止された、高山ロープウェイの乗り場で、学生服の惺が愛犬に守られながら苦しそうな息遣いで倒れている。初冬の寒気で風邪をひいてしまわないかが心配になる。
 山上にひっそりと隠れる高地の里で、花咲里と惺は生を受けた。人間の生気(エナジー)を供物に求めるような悪鬼を、神と勘違いして崇める未開地では、人間関係も痛く閉鎖的だ。ロープウェイが廃止されたのは、花咲里や惺のような若者を麓に逃がさないためだと惺の姉の紫苑(しおん)に教えられた。

「紫苑さんとも約束したんだから――セイだけでもここから逃げて、お願い!」

 管制室の前で倒れ、聴こえているかもわからない惺に、花咲里は雄々しく背中で叫ぶ。
 目前の乗り場には、ロープウェイを使えなくした張本人、この山を根城とする(いにしえ)の悪鬼がいる。ケーブルの下でゆらゆらと揺れるゴンドラの上に、いつも短い衿下で生足を見せて座る白い浴衣の乙女が、その憎き仇の悪鬼だ。

 ゴンドラ上から花咲里を見下ろす悪鬼は、朝方の空に溶け込むような白い肌と、銀色の長いポニーテールを風にたなびかせている。現代的な膝丈までの短い浴衣には、大きな一本の白百合と無数の小さな黒百合があしらわれ、飛んだり跳ねたりに耐える堅固な帯は、金箔を散りばめる黄色い薔薇柄の生地でできている。
 鋭く光る蒼い双眸の直上で、繊細な前髪の隙間から二本、細くて短い角が突き出た、明らかな異形の妖艶な乙女。端整な微笑みで大人達を魅了する悪鬼に対抗できるのは、同じく闇のものとなった花咲里だけだ。それを教えたのは他ならぬこの悪鬼自身だったが。

「いい加減に、諦めの悪い子供達ね。紫苑や珞都(らくと)のように、完膚なきまでに返り討ちに合わなければ、わからないのかしら?」

 これだけ正面から魔性の眼光を浴びせられたら、普段の花咲里ならとっくに腰が引けている。
 悪鬼と戦う幻想鎌を受け継いだ花咲里は、あくまで一時間限定の魔法少女だ。花咲里が日頃、渓流での水垢離(みずごり)による(みそぎ)を繰り返し、一週間毎日がんばって、ようやく一時間だけ鎌を使える魔力を編み出すことができるからだ。

 魔力を蓄えた魔杖、銀箔の三日月の如き大鎌を持つと、花咲里にはいつも、使命を果たす勇気が溢れ出てくる。
 逆に言えば、これが無ければ花咲里は何もできなかった。惺を供物として悪鬼に捧げる大人達に、今でも文句一つ言えずに唇を噛む毎日なのだ。花咲里のようなお飾りの巫女は可愛くさえあれば良いと、悪鬼から与えられたひらひらのリボンを、地味な黒髪ツインテールから外すことすら怖くてできやしない。

 けれどもう、今回ばかりは、筋金入りの優柔不断な花咲里も心を決めたのだ。
 だから日頃から寝込んでいる惺にも無理を言って、このロープウェイ乗り場――悪鬼の現在の社まで同伴させてもらった。惺には本当の目的は言っておらず、愛犬の散歩だと無理無理ごまかして何とかここまでついてきた。

 悪鬼はそんな花咲里の決意に気が付いたのか、いつもは見下ろすだけのゴンドラから降りて、花咲里のまっすぐ前に立ちはだかった。
「……そうなの。その時が、来たのね――……カザリ」
 元々は見知った優しげな顔で、天使のように悪鬼が笑う。
 見ていて辛いほど美しい笑顔に誰もが騙されたのだと、花咲里の身の内を激しい憎悪が走り抜けた。

 花咲里の家は代々、この悪鬼を祀る神官の家系だ。花咲里の双子の兄である珞都が神官を継ぐ前は、里もロープウェイも安泰そのものだった。
 お飾り巫女として、日頃の低姿勢は何処へやら、花咲里は滾る怒りにあどけない顔を歪める。小さな口元からは自分でも驚くほどの、憎しみにまみれた声が零れた。

「あなたが兄さんを……紫苑さんを、(たぶら)かしさえしなければ……!」

 眠り続けていた悪鬼を解放したのは、両親のミスだ。山奥の里にもスマホの電波が届く世界で、神職など時代遅れだと悪鬼の(はらえ)を怠ってしまった。
 その結果起きた祟りで、五年前に両親にとり憑いた悪鬼を、神童と呼ばれていた珞都が、僅か十歳にして再度の封印に成功した。しかしそれは、両親の命と、惺の姉で当時十三歳の紫苑を犠牲にした痛ましい事件でもあった。

「わたしが悪いと、そう言うの? これは紫苑が望んだことなのよ?」

 悪鬼は紫苑の内に封印された。惺の家は鬼子と忌まれた家系でもあり、生まれつき体の弱い惺が最初は依り代にされるはずだったが、紫苑は惺をかばい、自らが鬼を受け入れると言い出したのだ。

 その後、本当なら珞都は、紫苑をも悪鬼の本来の社である古井戸に封印しなければいけなかった。井戸の真上にそびえていた朱い鳥居を再建するだけではなく、残酷なことを言えば、その井戸に紫苑を突き落す――実質的に殺人をしなければいけなかった。
 けれど、人並み外れた神通力を持つ珞都は、誰より聡明で勇気のある人間だった。悪鬼の再来に怯える里中に内緒で、珞都は紫苑を自宅に匿った。両親の死を招いた悪鬼を宿す、危うい乙女であることも関わらずに。

 十歳にして両親を亡くした花咲里と珞都は、お布施を生活費にして、紫苑とも助け合って必死に暮らしてきた。あまりにしっかりした存在の珞都がいた故に、成立した生活でもあった。
 だから花咲里は、珞都を信頼し切っていた。体は弱いが優しい惺。その姉の紫苑のことも、疑い一つしていなかった。
 紫苑と一緒に暮らすことを隠し通すため、嘘をつくことも上手くなった。お飾りでも巫女として表面上は敬われてきた花咲里は、里中の誰もが珞都しか当てにしていないことを知っていたし、何も余計なことを言わずに曖昧に笑っていれば、世界はうまく回っていくはずだったのだ。
 二年前に、十六歳になった紫苑が、ある物を見つけてしまうまでは。

 珞都があまりに強い神通力の持ち主だったため、花咲里の存在はかすんでいたが、ある意味、本当の鬼子は花咲里だった。
 悪鬼を神として祀るような花咲里の家は、珞都のような神通力――「神」との交信力だけでなく、花咲里が持つ「魔力」を伝える家系でもあったのだ。
 魔力とはその名の如く、悪魔や鬼に通じる魔性の力で、神に仕える巫女である花咲里が持つべき力ではない。しかし花咲里の家には、悪鬼と戦うための魔法具、花咲里が今手にしている幻想鎌が秘蔵されており、それを使えるのは花咲里のように、微量でも魔力を持つ者――つまりは、本来闇に生きる存在だけだった。

 珞都が秘密裏に管理していた幻想鎌の存在を、紫苑は知ってしまった。それがきっと、全ての間違いの始まりだった。

――ねえ、カザリ。ラクトにはこんなこと、とても頼めないから……。

 悪鬼を抑えていられるのは、自分の意志一つだと、紫苑はずっと耐えて生きていたのかもしれない。そんな時に、悪鬼から魔力を奪える幻想鎌があることを知って、張り詰めた紫苑の糸はそこで切れてしまったのだ。

――わたしが鬼になってしまったら……カザリがわたしを、殺してくれる?

 今から思えば、幻想鎌の存在も、花咲里にはそれが使えると紫苑に囁いたのも、悪鬼の昏い誘惑だったに違いない。
 花咲里自身、紫苑から教えられるまで、自分の魔力のことなど全く知らなかった。紫苑や惺は鬼子の家系というだけあって、使いどころのない魔力を持っていたが、何といっても里で飛び抜けていたのは珞都の神通力だ。

 神童であり、公正で慈悲深い心を持っていた珞都は、ここで生涯最大の過ちを犯してしまう。
 内密に匿ったとはいえ、もしも紫苑の心が悪鬼に負けるようなら、その時こそ珞都は紫苑を古井戸に封印しなければいけなかった。無心に紫苑を信じていた花咲里や惺と違い、そうした厳しい現実は知らず、珞都を蝕んでいた。

 その珞都の苦しみに、全く気付かなかった自分が悪いのだ、と――
 普段の花咲里ならそう自らを責める心を、花咲里は悪鬼に向かって、幻想鎌を振り上げながら強く叫んだ。

「あなたが兄さんを――珞都を、殺したのよ……!」

 徐々に変わりゆく紫苑に気が付いた珞都は、花咲里に何の相談もせずに、一年前に紫苑と共に古井戸に身を投げた。
 花咲里が惺を慕うように、紫苑を慕っていた珞都は、おそらく紫苑を匿った時からそうすると決めていたのだろう。

 後方で愛犬にしがみつかれながら倒れている、惺の呻きが聴こえた気がした。
 紫苑だった悪鬼を前に、花咲里のそんな言葉を、惺が聴きたくないことは花咲里もわかっていた。
 花咲里だって紫苑が大好きだった。だからこそ、紫苑の願いを叶えなければいけない。それで惺に嫌われたとしても、ある魔法を使わなければいけないからだ。

 そのために自分は、正しいことをしている。幻想鎌を手にする花咲里は、それを全く疑っていない。
 珞都という邪魔者がいなくなり、紫苑の体で里を悠々と闊歩するようになった悪鬼は、災いを起こされたくなければ、弟だった惺を週に一度、自分の元へよこせと要求した。
 紫苑の次に強い魔力を持つ惺の生気を、定期的に悪鬼に吸わせれば、他の人間は誰も襲わない。惺が死ねば次は別の若者を選ぶと、そうした提案を、珞都を失って戦慄した里の大人が拒むわけはなかった。

 その後、珞都は自殺扱いとなった。この里から人が出ていくことや、悪鬼の存在を警察など外部の人間に漏らすことも禁忌となった。
 花咲里は何もできなかった。両親のみならず珞都まで亡くした状況で、生きていくだけで精一杯だった。

 そんな不甲斐ない日々も、この鎌をやっと使えるようになってからは戦局が変わった。
 これから花咲里は、せめて惺だけでも、こんな呪われた闇の里から救うと誓ったのだ――

⁂起⁂

 いつも柔らかい笑顔で気弱な幼馴染みの花咲里が、突然強気に「魔法少女になった」と言ってきた時、とりあえず笑い返した惺の動揺はどれほどのものだっただろう。
 両親に続き、双子の兄を亡くすという酷い心労が重なったせいで、繊細な彼女は正気を失ったのかと思ったほどだ。

 忌まれた家系に生まれ、病弱だった惺と違い、花咲里は出生時からちやほやされ、両親を亡くすまでは苦労知らずと言って良かった。双子の珞都があまりに優秀だったので、自分に自信が無いのか、優柔不断な面が強い花咲里でもある。
 いつも大人しく、存在感の薄い花咲里は、可愛いと言って惺がからかうと、「……私が巫女だから?」とはにかむように聞き返し、カザリだからだよ、と答えると、本当かな? あれ、でもセイは嘘なんてつかないよね……あれ、じゃあ、何で? などと、放っておけばいつまでも逡巡していた。
 惺と顔立ちがよく似た姉の、紫苑という異例の美人が近くにいたせいか、花咲里は自分を可愛いとは思えないらしい。諦めからか容姿にあまり気を使わず、そのくせ現代のアイドル巫女に求められる「可愛ければいい」を果たせていない、などと悩む。せめて神事をきちんとこなさなければ、と思っているものの、珞都がいるのに何をすればいいかわからない、と結局落ち込むようなヘタレぶりだった。

 何か特技があるわけでもなく、性格も控えめで、神職でなければ人目を惹くこともない花咲里。彼女を中の上と言えば、もっと自分磨きをしている女子からは甘い評価と言われるかもしれない。
 と言っても、惺にはそこが良い幼馴染みだった。特別着飾らなくても素朴さが可愛いし、美人になろうと努力できるやり手の女子達より、緊張せずに気兼ねなく話せる。
 惺の容姿は、自分で言うのも何だが、かなり良い方だった。紫苑が里一番の美形と言えるレベルで、それに似ているのだから、否定しようがない。忌まれる家系に生まれながら、イジメなどの最悪の迫害を逃れてきたのは、この容姿の賜物だろう。それだけは日々、親に感謝している。

 悪鬼などという常識外の寄生物を身の内に封印された紫苑は、その後髪が銀色へと変わってしまったが、元々惺も紫苑も、硬質で艶やかな青みのある黒髪だ。惺も紫苑も両親に似ていないため、母親が不貞を疑われたほどで、鬼の子だという言い伝えはますます信憑性を持ってしまった。そんな惺や紫苑のいわくを気にせずに遊ぶのは、花咲里と珞都の二人だけだった。
 村八分の圧力に負けた親は、紫苑をあっさり人身御供に差出した。それに抵抗できなかった自身にも惺は良い感情を持てていない。紫苑を助けてくれた珞都と花咲里には感謝の気持ちから更に憧憬が募り、紫苑とその双子以外に、惺はいつしか心を開かなくなっていた。

 花咲里と惺の処世術は似ている。いつでも基本笑顔でいれば、角が立つことはあまりなく、漠然としたモヤモヤが詰まった内心を周囲に悟らずにいられる。自分も他人も好きでない惺より、優しい花咲里は臆病なだけで、その上自罰的で、そこが自分と違って愛おしい。
 紫苑を捨てた親を信頼していない惺は、世間の大人相手と同じように、親にも常に丁重に接した。見た目が良ければ得をしやすいもので、丁寧にしていれば大概は好感を得られる。子供より賢いはずの大人のくせに、単純に騙されるものだ、と騙していながらもやもやが増す自分を、惺はどうにも扱い難い。
 そんな惺の心を知らず、日々寝込んでいる惺を甲斐甲斐しく生かしてくれている親に、何とも言えない複雑な気持ちを覚えることもある。それは親心として惺を大事にしているのか、悪鬼と化した紫苑に差出す供物を長持ちさせるように周囲から言われているのか、判断のつかない微妙なところがあった。

 そうした中で、現在唯一信じられる相手である花咲里が、春休み明けにいつにない嬉しそうな顔で見舞いにきた日のことは、今もよく覚えていた。
「私、紫苑さんから教えてもらった場所で、魔法の道具を見つけ出したの。これからは私が、紫苑さんの代わりにセイを守るからね」
「え……? カザリ、それ、何のこと……?」
「いいから、黙って目をつぶって、私の手を握って!」

 ほとんど毎日体調不良で、ベッドで過ごしているパジャマの惺に、制服姿の花咲里はぐっと両手を差出してきた。
 こんなに積極的な彼女を、見たことがなかった。惺がまだしも元気な頃は、二人でいることが恥ずかしそうな花咲里を無遠慮に引っ張り、お気に入りの場所に連れていっては絵を描いていた。花咲里は惺の様子を見物していたり、たまにモデルになってくれたりと、特別話すことがなくても間が持つ気安さがそこにはあった。

 今では使えないロープウェイを住処にする紫苑の元へ、週に一度通う度に体調が悪化する惺は、最早そこへ行く以外のことが何もできなくなっていた。
 花咲里もあまり姿を見せなくなり、どうしているのか気になっていた矢先で、ずいと小さな手を出す花咲里までが、別人になってしまったように惺には感じられた。

「――お願い、早く! もうあんまり、時間がないの!」

 実際、そこにいた少女は、惺の知る大人しい花咲里ではなかった。
 父親の遺品のゴルフバッグに折りたためる大きな鎌をひそませ、惺の部屋に来るつい十五分前まで、花咲里が紫苑と戦っていたなどと惺は知る由もない。

 花咲里の方から手を握って、という不思議な事態と、これまでになく生き生きした顔をしている少女に、惺はふと、急に気恥ずかしくなってしまった。
 こんな顔をすれば、花咲里は中の上どころか、素材だけでも上ランクの美少女だと今更気付いた。巫女姿の時は、袴が珍しくて可愛いだけだと本人が言っていたが、年齢相応に身なりに気を使うようになれば、もっと手の届かない存在になっていくだろう。

 毎週のように悪鬼に喰われている自分が、この先花咲里と長く生きられるとは思えなかったが、自信満々の花咲里の純粋な目力に、惺はもう何も言えなくなった。
 言われた通りにそっと、花咲里の両手をとって、目線を微妙にそらしてから瞼を閉じる。普段は冷たくかしこまった少女の手が、この時は猫のお腹のように温かかった。

 何が起こるのかさっぱりわからず、おそらく顔が赤くなり、動悸が治まらなくなった惺の斜め前で。
 花咲里は凛と、その闇の「魔法」――惺を救うための修行の成果を、そのまま惺に示したのだった。

――ガンバレガンバレ。ツヨクナレ。『マニック・ボム』。

 朗々とした声が終わった瞬間、繋がった二人の手から惺の体まで、電撃のような灼熱が走り抜けた。
「――っっづ!?」
 想定外の痛みに思わず声を上げてしまったが、それでも咄嗟にボリュームを押えた方だ。
 神職のわりには怖がりの花咲里を驚かせなかったか、慌てて目を開ける。するとそこには、大きな両目に涙を溜めて、呆けたように惺を見つめる花咲里のやつれた顔があった。

 ベッドの背にもたれていた惺が、弾かれるように体を起こした姿を見て、花咲里はぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。
「あれ……私、えっ……」
「――カザリ!? 大丈夫か、どこか痛かったのか!?」
 惺の全身に激痛が起こったように、花咲里にも辛い衝撃があったのかもしれない。それなら心配なのは花咲里の方で、ベッドに座り直して花咲里の両肩を持ち、惺の方を向かせる。花咲里は体を震わせながら、先程までの元気さが消え去っていた。

「何で……一時間って、それって、こういうことなの……?」
 後から聞いた話のことだ。この直前に戦った悪鬼に、その程度の魔力なら強気な「魔法少女」は一時間と持たない、と花咲里は嘲笑を受けていたらしい。
「私じゃ駄目なんだ……やっぱり、こんな短い時間しか、こんなくらいしかセイの役に立てないんだ……!」

 わけのわからない嗚咽を始めた花咲里を、とにかく惺は自分の胸で泣かせ、落ち着いてくれるのを待った。
 まだ体はあちこちが痛んだが、不思議な力が湧いて出ている気がした。そうでなければ、ずっと好きな女の子を、こんな風に自然に抱き締めることなどできない。
 両親や珞都が亡くなった時には、声を殺して泣いていた花咲里が、ここまで感情を出す姿を初めて目にした。惺までもらい泣きで涙が出てきて、歯噛みしたまま花咲里の頭を撫でることしかできなかった。

 惺にしがみついて一しきり泣いた後、普段の大人しげな声色に戻った花咲里は、開口一番、ごめんね。と、申し訳なさそうに惺を上目遣いで見上げて来た。
「ごめんって……カザリ、今の、何だったの……?」
 その時点の顔色だけ見れば、惺より花咲里の疲労の方が濃かった。花咲里はしばらく答えあぐねていたが、惺が黙って花咲里の目を見つめると、隠し事はできないと思ってくれたようだった。
「あのね……紫苑さんに奪われた、セイの力……私、取り戻して、来たの……」
「――え?」
 そこで花咲里が話し出した一連の事情に、惺はその後、深く頭を抱えることになる。

「紫苑さんはね、まだ完全に、鬼になっちゃったわけじゃなくて……セイ以外を襲わないのは、紫苑さんに近いセイの生気だけを取り込むことで、辛うじて紫苑さんの心で最終決定権を保てるからなんだって」
「……え――」
「私は、鬼の魔力を奪える闇の幻想鎌を手に入れたの。それで紫苑さんから魔力を奪って、でも鬼が怒って他の人を襲わないのは、紫苑さんが抑えていてくれるからなの」

 それまで惺は、そんな魔法の鎌があることも、花咲里がその後継者となったことも、何一つ知らなかった。
 惺の人間としての生命力、生気を悪鬼に吸わせることで、悪鬼は自身の魔力を増幅する。花咲里はその鬼の魔力を奪い、先程のように惺に与える。そうすれば、奪われた生気とは違う魔力という形で惺に返ってくるが、生気の代用にはなるとのことだった。

「そんなのって……いたちごっこじゃないのか? カザリ……」

 よくよく聞けば、花咲里はその鎌を使うために、一週間もの禊を必要とするらしい。それでやっと、一時間だけ魔法の鎌を扱える。惺が悪鬼の元に通うのも一週間ごとで、最善でも吸われては与えられ、吸われては与えられ、の繰り返しになるわけだ。
 花咲里が鎌に貯めた魔力を解放すると、妙に強気になれてしまい、悪鬼との戦闘にも不自由しないらしい。惺の想像力を超えたその状態は、一時的に「闇のもの」の魔人と化しているのだとは、他ならぬ悪鬼からこの後教えられる。

 次の週に悪鬼の元に行った時、魔力を花咲里の鎌で奪われた悪鬼は、あからさまに不機嫌そうにしていた。
 花咲里は紫苑の心がまだ残っていると言っていたが、惺の目にはどうしてもそういう風には見えなかった。

 実際に、悪鬼には花咲里に気付かせていない大きな目論みがあったことを、惺は徐々に勘付いていく。
「……まあ、今は特別に、泳がせてあげる。わたしの魔力、美味しいでしょ……セイ?」

 くすりと艶やかに微笑む、実の姉だった人の玲瓏な声。
 毎週一度、まるで血を吸うように、惺の首筋に鋭い牙と柔らかい唇をひんやりと当ててくる。
 そうして生気を吸い上げる間、肩を強く掴む白い指は、惺の肺まで喰い込んで呼吸を止める気がする。両足から力が抜けて、頭を占めるもやもやも消え、不思議な恍惚感と共に紫苑の懐に崩れ落ちる。これが元姉でなければ、おかしな気持ちにもなるかもしれない。

 何か大事なものが音を立てて崩れ、狂った日常がさらに良くない方向に進むことを、一番感じ取っていたのは惺だろう。
 それでも花咲里を止めることも、悪鬼を拒むことも、惺にはできそうにない。それができるくらい強ければ、そもそも紫苑を身代わりにせずに済んだのだから。

 悪鬼となった紫苑の所へ通うことは、惺にはただ一つのするべきことで、自身の命をかけた贖罪だった。
 惺だけでなく、紫苑をこんな鬼にしたもの全てへの、言葉にできない怒りと共に。

𓇬承𓇬

 秘蔵の鎌と共に残されていた資料には、その鎌を手にすることによって使えるいくつかの魔法が、古い時代の言葉で記されていた。
 珞都と紫苑と三人暮らしをしていた頃に拾った雑種の犬を、唯一残った家族として隣に座らせながら、宝物庫で花咲里は夜な夜な魔法の勉強をしていた。

「やっぱり……何度見ても、『魔力は人間の構造を狂わせる』って書いてあるよね、セイ治郎(じろう)……」

 気になるのはひたすら、その部分だ。実際に悪鬼と週一の戦いを始めるまで、本当に使えそうな魔法とそうでもないものは、一通り試してみている。珞都が色んな不思議な力を使う姿は見ていたので、魔法の存在自体はあっさり受け入れられた。

 魔法とは、突き詰めていえば「幻想と幻想の存在様式の闘い」なのだ。これは魔力という闇による「魔法」だけでなく、神通力による「祈祷」でも、システムは同じのようだった。幻想の元となる概念が、闇か神かであるだけだ。
 闇とは多くの存在を含む。鬼や妖怪、悪魔に限らず、魔力を持つ存在はほぼ闇の化生だと見ていい。しかし悪鬼のように、神と祀られる闇のものもいる。
 魔力と神通力の違いも、マイナスとプラスの違いと大差はない。幻想世界は元々「(ゼロ)」であるのに、それを「1-1=0」と拡げ、「1」と「ー1」の部分だけ見せているのが「力」だ。魔力や神通力が強いと言われる者は、例えば「100-100=0」になっているだけで、世界レベルで見れば総和は変わらないはずだった。

 幻想と幻想の闘いというのは、もしも「-1」が花咲里の魔力で、「-50」が悪鬼の魔力としたら、絶対値の概念から花咲里が負けてしまうことに過ぎない。
 魔力の消費量が少ない魔法は、むしろ花咲里の方が悪鬼より巧く扱えるだろう。幅広な数字は扱いも難しく、小回りが利き難いはずだ。
 と言って、省エネな魔法に大した威力はそもそもないので、使い道を検討するには値しなかった。

「私は一週間で、-1以上を毎日作って-10くらいまで鎌に貯めて、その分をあいつから奪ってるはずだけど……その場合向こうには-40も残ってるのに、本当に紫苑さん、それを抑えることなんてできるのかな……?」

 紫苑は元々鬼子の体で、悪鬼を受け入れるのに適した魔力を持っていた。しかし逆に、その魔力こそが、紫苑が鬼に負けた理由ではないかと花咲里は怖くなってもいた。紫苑の髪が銀色になったのは、体を徐々に、魔力が造りかえていった証だったのではないだろうか。

 というのも最近、花咲里の髪の色まで、地味な黒髪に紅い艶が出てきた気がする。惺曰く、花咲里が幻想鎌を持つことで一時的に闇のものと化していると、悪鬼は口を滑らせたらしい。
 珞都はそう言えば金色に光る不思議な黒髪をしていて、目を凝らせば地毛が暗い紫にも見えるほど人間離れしていたことを思い出した。

「このまま、セイにあいつの魔力を返し続けて……セイは、大丈夫なの……?」

 花咲里が「闇のもの」と化するのは、別にいい。惺以外に、これ以上花咲里が失うものは何もない。一週間がんばって一時間しかなれない強気な自分を、もっと長い時間保てればどれだけ心強いことだろうか。
「禊だけじゃ、足りないのかな……私みたいに駄目な人間は、珞都の五倍くらい努力しないと……でもこれだって限界以上だって、セイが心配してたっけな……」

 今は初秋だが、滝に打たれることを春から続ける花咲里の体重は、半年で十キロ近く激減していた。元々痩せ型だったが、肋骨が浮き出てきた胸元は自分で見ても気持ちが悪い。そう思っても、禊を続けるだけで精一杯で、節約生活なので食事もまともにとれていない。
 惺の所にはなるべく着膨れしてお見舞いに行くが、訪ねる度に惺が悲しげに目を伏せるのは花咲里も辛かった。
「でもセイだって、ずっと体力を吸われ続けてるんだから……私だってこれくらい、何でもないと思う……辛いけど、辛いなんて思っちゃいけないよ、私……」

 紫苑が拾って、惺治郎と名付けた白犬は、大き目の柴犬体型で狼のような毛並というイメージの雑種だ。強そうでかっこいい見た目のわりに度々体を壊し、セイの名前をつけたせいだと紫苑は笑っていた。
 生まれつき体が弱く、あまり周囲から期待されることのなかった惺を、紫苑はとても可愛がっていた。悪鬼となった今も、惺への執着は残っているのではないかと、惺をずっと通わせる姿からは感じられるものがあった。

 ここまで考えて、いつも花咲里は、待て待て。と自分自身に疑問を感じてしまう。
「違うでしょ、紫苑さんは必死に、里もセイも守ろうとしてるんだから……これじゃまるで、私、焼き餅じゃない……」
 惺の体力が、現状ほとんど奪われているからといって、紫苑を疑うのは失礼だと花咲里は考え直す。
 それでも少したてば、惺にこのまま悪鬼の魔力を渡していいのかと、同じ不安が何度も首をもたげるのだ。

 自分が惺と紫苑の絆に嫉妬しているようで、恥ずかしくて誰にも相談できなかった。そもそも花咲里には、惺達と珞都以外に心を開ける相手もいなかった。
 それでなくても「魔法」や「魔力」など、本気で取り合ってくれる人間がどれくらいいるだろう。悪鬼の顔色を窺うこの里ですら、親和性がある幻想上の存在は妖怪くらいで、神に至っては悪鬼を神と祀る体たらくなのだから。

 神も悪魔も、鬼も妖怪も、全ては幻想だ。幻想とは「存在しないもの」ではなく、「存在を定義されたもの」であり、概念という動物なのだ。概念世界は人の世より高次の領域にあり、定義されるものは全て在るとされるが、現実の領域では確かに役に立たない。
 非現実的に体力を失っていく惺を、花咲里が少しでも元気づけられるのは、悪鬼の魔力という幻想(非現実)が存在するからだ。だからいたちごっこというのは、幻想の世界においては実に正しい。所詮「1-1=0」でしかない。

 こんな時、珞都がいれば、とどうしても考えてしまう。微量な魔力を持つだけの花咲里は、霊感も霊能力もなく、降霊術の類は一切できない。そもそもやり方を知らないし、教えてくれる人もいない。
 わからないことだらけの中、どうすればそれがわかるようになるかが、まずわからない。悪鬼の存在に、もっと他に対処法がないのか、このままの暮らしを続けて惺は大丈夫なのか、紫苑はいつまで悪鬼を抑えられるのか、足場は何処もドロドロのように思える。それなのに花咲里には、何もわからないまま、現状維持をすることしかできない。

 いつも悩みなんてないように、穏やかに笑っていた珞都を思い描くと、花咲里の気持ちは一瞬で暗闇に包まれていった。
 珞都は死んでしまった。誰も引き上げることもできずに、暗い井戸の底で眠っている。封印し損なった悪鬼が逃げ出し、完全な無駄死にとなったことも知らずに。
 少しでも考えると大声をあげて喚いてしまいそうで、花咲里は今まで思い出すことも忌避していた。迂闊な記憶を呼び起こした頭を両手で抱え、ぐしゃぐしゃと迸る激情のままに掻き毟る。

 惺治郎が心配そうに、ふごふごと花咲里の膝と胸の間に鼻を突っ込んできた。不躾に花咲里の涙をぺろりとなめるので、ひやっと顔を起こした花咲里は、惺治郎をそのまま抱き締めながら泣き笑うしかなかった。

「ごめんね……珞都と違って、頼りない飼い主で、ほんとにごめんね……」
 珞都もツメが甘いけどね……と、幻想鎌の存在を知りながら相談一つしなかった独りよがりに、何度目かの文句をこっそりたれる。
「私、怖いよ、セイ治郎……もう嫌なの、置いていかれるの、何もできないの……セイまで何かあったら私、どうすればいいの……?」
 花咲里をつぶらな瞳で見上げる惺治郎を、同じように、しゅん、と見つめ返す。惺治郎に餌をやれるのはもう自分だけなのだ、とひとまず花咲里は何とか気を取り直す。

 一つだけ、何度も脳裏をよぎる、「現状を変えられそうな魔法」があった。でもそれは、惺治郎のことを思えば、やってはいけない。そう自分に言い聞かせて、他の方法をこうして探しているのだ。
「もっとがんばらなきゃ、もっと魔力を貯めなきゃ……私にはこれしか、できないんだから……」
 自分に激励を繰り返しては、幻想鎌に魔力を貯め込み続ける。貯めた分だけ悪鬼から魔力を奪えるのだから、花咲里ががんばる以外に道はないのだ。
「でもセイは……今みたいな状態で、ほんとにこの先大丈夫なの……?」

 いくらがんばっても、あるのは永遠のいたちごっこ。それだけならまだしも、現状ですら、本当に維持できるのだろうか。
 闇のものと化してしまった自分は何か、大きな間違いを犯してはいないか。何故珞都は花咲里に鎌を使わせなかったのか、その意味を花咲里は何もわかっていない。

 同じことをぐるぐると考え続け、結局何も答が出ずに、何度も悪鬼の魔力を奪いに出かける。こうして悩んでいる時の自分は情けなくて仕方がない。
 鎌に込めた魔力を使う一時間だけは、威勢良く悪鬼に対峙して、宣戦布告をして帰ることができるというのに。
「いつか首を洗って待っていなさい、悪鬼! 必ずやあなたを、私達の里から追い出してみせる!」
「はいはい、お飾り巫女なのに戦う魔法少女な花咲里ちゃん。面白いから、またいつでもいらっしゃいな」
「ええい、そのなめきった態度を今度こそ、我が幻想至上の大鎌で滅ぼし――……い、あ、あの……ええと……」

 貯めた魔力が尽きると、途端に弱気に戻ってしまう。鎌に奪った悪鬼の魔力は、紫苑の血族である惺にしか使えないものなので、そちらの方は惺に届けることしか花咲里にはできない。

「あ、あの……紫苑さん、私……多分、また来ます、から……」
「あははは、やっぱり面白~い、優柔不断ガールねぇ。どうしよう、今度から、花咲里ちゃんの生気も一緒にもらうことにしようか? うん、多分?」

 ひいいいと、こんな無様な姿を晒した時も、普段の自分では何一つ反論できずに逃げ帰るしかない。
 惺にはなるべく心配をかけないために、「魔法少女」と明るい喩えをしたこともあったが、仲間もいない臆病な子供に何の強みがあるだろうか。巫女なんて本気で名ばかりだったと、両親が亡くなって以後も呑気に生きてきた自分を恥じるしかなかった。


 幻想鎌は鎌の形をしているが、用途としては魔法杖だ。込めた魔力を解放して同調した上で、天高く大鎌を掲げ、資料から覚えた呪文を慎重に唱えれば、魔法はきちんと発動してくれる。
 その魔法で悪鬼から奪った魔力を、帰り道で惺に渡す。そんな生活が続き、季節が冬に入った頃に、その異変は訪れていた。

 いつも惺は、魔力を渡した直後はかなり苦しそうで、それでもしばらくしたら渡す前より回復すると言っていた。ところがここのところ、本当にベッドから全然出なくなっていた。
 そして更に、その日には明らかな異状が起きた。
 魔力を渡した直後に、背中を丸めて激しく体を震わせた惺の髪から、一瞬で黒の色素が抜けていったのだ。

「え……セ、イ……?」
「……――」

 紫苑と同じ、銀髪になってしまった惺。
 呆然とする花咲里の前で、惺はたはは、と笑いながら、やっぱりこうなったか。と、聞き捨てのならないことを口にしていた。
「どういう、こと? セイ……?」
「え、まあ、いや……最近、魔力もらっても、紫苑の所に行くのも凄く時間がかかって……紫苑の所から帰るのも、自分だけじゃ、もう帰れないんだ……」
 花咲里に心配をかけまいと、秘密にしていたらしい。空いた時間は水垢離をする花咲里には、思いもよらない惺の弱りようだった。
「代わりに何か、妙に八重歯が尖ってきてさ……ああ、俺、このまま紫苑みたいに、鬼になるんだな……なーんて、ね」

 何でもないことのように惺は笑うが、花咲里にとって、それは決定打だった。
 惺はやはり、このままでは紫苑と同じ運命を辿る。花咲里が自分をごまかした時間分、惺にツケを支払わせてしまったのだ。

 頭をよぎるのは、今まで避けようとしてきた究極の選択肢。
 今からでも間に合うのか、それはわからない。でも残された道が一つしかないなら、もう迷ってはいられない。

 激痩せしてしまった花咲里は、生活費を切り詰めて貯めたお布施を、珞都の遺品であるダウンジャケットのポケットに入れた。
 今週も紫苑の元に向かう惺に、今日は自分もついていくと伝える。惺治郎を散歩しつつ、久しぶりに一緒に歩きたい、と言うと、顔色は悪くても惺は嬉しそうに笑ってくれた。
 紫苑と同じになった銀髪は、両親が慌てて白髪染めを取り寄せて、見た目だけは黒に戻っていた。

 ロープウェイが廃止された山奥の里とはいえ、物流のルートは普通に存在している。ただ、高速道路に繋がる山道があるだけで、乗り物のない子供だけでは里を出ることができない。
 けれど、悪鬼の紫苑がロープウェイ乗り場に陣取る理由を聞いて以来、一つ考えていたことがあった。

 久しぶりに惺と共に歩く林道は、初冬の季節柄、ダウンジャケットではまだ暑かった。惺治郎のハーネスを持ちながらジャケットを脱ぐと、予想通り惺が持つよ、と言ってくれた。

 今日で全てを終わらせるのだ。花咲里の手前では意地を張り、平気そうに足早に歩く惺の後ろ姿に、花咲里は改めてその覚悟を決めたのだった。

⁂転⁂

 悪鬼に生気を吸われるような毎週の奇行に、花咲里を同道させてしまったのは、惺の感覚も麻痺しつつあるとしか言いようがなかった。
 花咲里は一週間に一度しか鎌を使えないと言うし、前回の魔力の受け渡しからは三日しかたっていない。紫苑と花咲里がどうこうという心配はないだろう、と惺は気楽に考えていた。

 悪鬼の姿が紫苑であるせいだろう。花咲里の両親と兄を死なせたのがその鬼であると、重大な事項を惺は失念していた。
 いつの間にか、惺にとって、悪鬼は紫苑に戻っていた。生気を吸われてしばらく立ち上がれなくなり、その後も不調に苦しみ続けても、自分の体が鬼に近付いていても、変わらずに大切な相手なのだ。

 紫苑がずっと、ロープウェイ乗り場で寝泊まりしている理由もわかっていた。元々そこは、惺と紫苑の父が勤めていた場所で、幼い頃に二人はよく遊びに来ていた。
 ロープウェイの動かし方も、一通り教えてもらったことがある。今は通電がされていないだけで、管制室で少し機器をいじっただけで、動かすだけならいつでも再び動かせることを惺も紫苑も知っていた。老朽化や整備不足の問題を除けば、だが。

 だから紫苑は、思い出の場所を大切にして、そこに住み着いているのだ。
 冷たく笑っていても、人の生気を喰らう鬼になっても、それが今の紫苑だと受け入れること。紫苑は犠牲になったと考えるより、その方が楽だったのかもしれない。

 ロープウェイのことを話した時、花咲里は、「悪鬼は誰かが外に逃げないように見張ってるのね」と言った。おかしな話だ、と惺は苦く笑った。
 車もあるし、いい大人も沢山いるのだから、本気で子供を里の外に出そうと思えばいくらでもできたはずだ。

 大人達の発想は逆だったのだ。この里を出ていきたくない、けれど悪鬼の存在は怖い。人を越えた力で祟られる可能性があるとなると、うっかり逆らうことはできない。僅かな犠牲を払う程度で現状が続くなら、悪鬼の好きにさせておけばいい。
 「僅かな犠牲」が、自分達と大して関わりのない若人のことなら、むしろ里に閉じ込めておけばいい。珞都も花咲里も、紫苑も惺も、両親の抵抗がなくなった点で、都合の良い生贄候補だった。

 そんな世間の機微を、花咲里はこれ以上知らないでいい。惺はそう思っていた。悪鬼が紫苑である限り、里の大人が本気で怯えて、討伐という名の人殺しをされてしまうのも困るのだ。
 それは惺の両親も同じだった。端的に言えば、悪鬼などまず存在しておらず、紫苑がぐれただけの話かもしれないのだから――

 人間よりも身体能力が向上し、無骨なロープウェイ乗り場に住み、惺の生気を吸う以外に食物を摂らなくても生き続ける紫苑の異業に、誰もが目をつぶった。
 それ以上にどういうやりようがあったのだろう。闇に棲む悪鬼への対処など、人間世界の法でできることではないのだ。

 だから唯一、痛ましいのは、一人で何とか悪鬼に対処しようとする花咲里だった。それを、さすが、巫女様だと無責任に持ち上げる大人もいて、惺は無性に腹が立った。
 聡明が故に優柔不断でもある花咲里は、そんな軽口を本気にはしていなさそうだが、どうにもできない悪鬼を放置できるほど大人ではなかった。

 そうした花咲里を、どうして惺は、紫苑との密儀の場に連れてきてしまったのか……。
 いい加減に、惺にも、この出口のない生活の限界が来ていたのかもしれない。何を期待していたわけでもなく、単に、花咲里とまた一緒に歩けたら楽しいだろうと願ったのだ。
 惺のためにと、花咲里はほとんどの時間を禊に費やすようになった。見るからに痩せていき、柔らかな笑顔でも隠せない焦燥が漂い、それでも誰にも自分から頼ろうとしない。彼女には周囲の人間も悪鬼も、どちらも怖いものなのだろうと、痛い程に惺にはわかった。

 支えが必要なのは、惺よりむしろ、花咲里の方だろう。そう思いながら、登校もできない惺には打つ手がなかった。それが今回、花咲里の方から、惺と歩きたいと言ってもらえて本当に嬉しかった。

 だから惺も、自分自身のそうした感情の処理に精一杯で――
 紫苑にいつものように生気を吸われ、倒れる姿を花咲里が見た時にどう思うかという、最低限の想像力すら働いてくれなかった。
 管制室の前で意識が遠くなる中で、花咲里の愛犬である惺治郎が心細げにひっついてきたことが、惺がはっきり覚えている最後の光景だった。

 惺の生気を吸い、停止されたままのゴンドラの上に人間ならぬ跳躍力で飛び乗った紫苑を、花咲里が鬼のような形相で見上げていた。胡乱な意識でもわかる程なので、相当頭に来ているのだろう。

「あなたのこと――私、一生、許さない!」

 こうなることはわかっていたはずなのに、かなりショックを受けた様子の花咲里が、行きには持っていなかったはずのゴルフバッグを何処からか持ち出してきた。
 その中に入れてある大鎌を取り出し、流線形の刃を開いて固定する。最初から花咲里は、乗り場付近にこれを隠し、惺に警戒されないよう一緒にここに来たのだ、とようやく気が付く。

 学生服の花咲里は、大鎌を上段で構え、ゴンドラから花咲里を見下ろす紫苑を牽制している。
 ちらりと振り返ると、何かの覚悟を決めた顔付きで、苦しげに惺に呼びかけてきた。
「セイのことは……私が絶対に、助けてあげるから!」

 それは違う、と惺は今、初めて花咲里に叫びたい気持ちになった。なのに体が全く言うことをきかず、自分の愚鈍さをこんな所で自覚する。
「紫苑さんとも約束したんだから――セイだけでもここから逃げて、お願い!」
 花咲里はおそらく、紫苑と決着をつける気なのだ。そんなことを惺は、露ほども望んでいないとも知らずに。

 花咲里が脱いだので預かっていたダウンジャケットが、倒れた惺の背中にかけられていた。持っている時から妙に小銭の音がすると思っていたが、ポケットにお金が詰められたその意図を、花咲里は背中を向けたままで告げる。
「セイはここから、山を下りて。ロープウェイ、元気になれば、動かせるんだよね?」
 何やら花咲里には、惺の現状を変える秘策があると見えた。しかし惺に、一人で外に逃げろというのは、どういうことなのだろうか。
「紫苑さんはセイを殺さない。でもきっと、セイを紫苑さんと同じ、悪い鬼にしようとしている。だからセイは、紫苑さんから離れて、遠くで幸せになってほしいの」
 つまりは里を出て、誰か親戚でも頼って生きていけということらしい。鎌を持つ花咲里のあまりの前向きさに、惺はますます目が回った。

 花咲里の突然の無茶ぶりに呆れたのか、銀色のポニーテールを風にたなびかせる紫苑が、やれやれと髪をかきあげていた。
「いい加減、諦めの悪い子供達ね。紫苑や珞都のように、完膚なきまでに返り討ちに合わなければ、わからないのかしら?」

 紫苑の言いたいことは、惺にはわかった。過去に惺をかばった紫苑も、そして珞都や今の花咲里も、行動が極端なのだ。
 良かれと思ってやっているのはわかる。それでもそれで、紫苑と井戸に身を投げたような珞都の暴挙は、冷静に考えればあんまりな話だろう。

 そして花咲里も、珞都と似たまずいことを考えているのではないか、と惺は本能的に思い当たった。
 惺がわかることなら、紫苑もきっとわかったのだ。いつもは見下ろすだけのゴンドラから降りて、花咲里のまっすぐ前に立ちはだかった。
「……そうなの。その時が、来たのね――……カザリ」
 どうしてなのだろうか。花咲里には悪鬼としてしか見えていない相手が、惺には紫苑そのもののように思えた。
「わたしを殺すか、それとも……カザリの命で、セイを救ってくれるのかしら?」

 紫苑はとても、聞き逃せないことをさらりと言った。
 花咲里が否定せずに黙っているということは、それはほとんど、紫苑の言う通りであるらしい。唐突な悪夢を理解し切れない惺と違い、紫苑の声色は腹がすわっていた。
「だってラクト、心配していたもの。カザリがもしも、幻想鎌のことを知ったら、きっと『ソウル・ドナー』を使ってしまうって」

 ソウル・ドナー。それは幻想鎌最大の魔法で、闇深き究極の業――持ち主の命を代償に、誰かの命を救うものだという。三日分しか魔力が貯まっていない鎌を花咲里が持ち出したのは、紫苑の魔力を奪うのが目的ではなかったからだ。

 惺は今程、弱々しい自らを呪ったことはない。
 花咲里がそこまで思い詰めているのに、言葉一つもかけることができない。
 おそらく生まれて初めて、惺は心から、もう少しでいいから強い人間になりたいと願った。


 この日のことは、性質の悪い夢だったのか、その後も惺はよくわからない。管制室の前で倒れてから、白犬の惺治郎がひたすら、くんくんと鼻先で惺をさすっていたのはよく覚えている。
 わかるのはこの後、惺が奇跡のように立ち上がり、花咲里を止められる格好良い未来は決してなかったことだ。

「あなたが兄さんを……紫苑さんを、誑かしさえしなければ……!」
「わたしが悪いと、そう言うの? これは紫苑が望んだことなのよ?」

 惺にとっても、本当は同じ状況だった。惺の身代わりとなった紫苑は、もうこの世にはいないのに、今でも惺はそれを認められない。
 その惺の現実逃避が、現状を招いたと言える。だから花咲里が次に苦しく叫んだ言葉は、惺の弱みを最も深く突き刺していた。

「あなたが兄さんを――珞都を、殺したのよ……!」

 紫苑のことで心を痛め、古井戸に身を投げてしまった珞都。
 紫苑もきっと、そこで一緒に死んでしまったはずだ。珞都が死んだのに平気で生きている紫苑など、やはり紫苑ではないのだ。

 家族を失った同じ痛みを、見ないようにしていた惺を、惺以上に痛いはずの花咲里は一言も責めなかった。
 花咲里も惺と同じで、紫苑はまだ救えると思いたかったのだろう。しかし今や、紫苑は自らの魔力を与えて惺を鬼にすることを望む、狡猾な悪鬼なのだ。
 花咲里がその生命力を惺に捧げ、生き物としてより強く復帰させることまで、悪鬼は計算の内だったのかもしれない。

 それならそんな、悪鬼の思惑通りの魔法を使っては駄目だ。そう花咲里に叫びたいのに、惺の体は全く動いてくれない。
 今日は普段より多く生気を吸われたのかもしれない。何処までも頭の回る悪鬼に、どうにか花咲里が気付いてくれないか、焦りばかりが惺の全身を襲う。

 これまで惺は、体が弱いことで、本気で何かに困ったことはなかった。将来なんて自分にはないと楽観していたし、大人達に手間をかけることが自棄的な復讐でもあった。
 紫苑に生気を吸われるようになり、唯一の趣味の絵を描く気力もなくなってしまったが、珞都が死んで悲しむ花咲里を見ると、趣味という気分でもなくなった。お互いに沈んだ気持ちでいることが、花咲里との絆であるようにも感じていたのだ。

――これからは私が、紫苑さんの代わりにセイを守るからね。
――まあ、今は特別に、泳がせてあげる。

 花咲里は惺に、紫苑は惺を殺さないと言っていたが、正確には殺せないことを知っていたのだろうか。
 ぎりぎり惺が生きられる程度に生気を残し、獲物を存在させ続けておくのは、悪鬼側の都合だった。
 珞都とその両親が死んだのは、人間が悪鬼を相手に無理をしたからだと言える。悪鬼が直接手を下したわけではないため、幻想世界の禁忌コードには何とか触れないのだ。

 幻想は幻想であり、概念という枠を越えて、現実世界に干渉することは許されていない。でなければ世は幻想だらけだと、誰も花咲里の一家に教えなかった。
 悪鬼を裁くのは人間の役目ではなく、同じように幻想世界の存在にその責がある。悪鬼はそれを怖れて、人間を直接殺すことはできないからこそ、珞都のような自滅を導く。

 しかし花咲里は、実際に魔を司る魔人となった。珞都のように悪鬼を直接侵害しない、封印などの間接的な干渉でなく、悪鬼の魔力を直に奪った。これは花咲里も、悪鬼と同じ側の存在となったことを意味する。

 それなら悪鬼は、花咲里に直接手を下すことができる。
 魔法という形で闇の世界に関わるのなら、その覚悟がいる。悪鬼が花咲里を泳がせていたのは、言葉通り、惺を今後も利用するためだ。
 そうして惺に拘るのが、紫苑の心の残滓かどうかはわからない。一つ言えるのは、魔力持ちである惺は他の人間より逆にしぶとく、悪鬼にかじられ続けても、何とか生命を保てていた現実がある。
 人間が無理に魔力を持つ時点で、代償的に体が弱くなるのは避けられなかった。その意味では、惺より強い魔力を持ちながら健康だった紫苑はそもそも闇のもので、鬼となる運命を避けられない生まれでもあった。

 そんな闇の世界のあれこれを、花咲里は何も知っていない。
 珞都も知らなかっただろう。闇の世界と神の世界は、近くて遠い。概念という幻想であることは同じだが、あまりに普遍性が違い過ぎる。

 誰がどうすれば、花咲里の一家の悲劇は防げたのだろうか。この先、幻想存在について勉強を始めた惺は、おそらく長くそれを問い続けていくことになる。

𓇬結𓇬

 もう迷わない。そう心に決めてこの場に来たことは、本当に正しかったのだろうか。
 そうしたいつもの気弱が顔を出して、花咲里は愕然とした。
「えっ……どうし、て――!?」
「――?」
 悪鬼も腕組みをして立ちながら、きょとんと首を傾げている。
 幻想鎌を持った花咲里が、先程までの勢いは何処へやら、デフォルトの優柔不断ガールに戻ってしまったからだ。

 三日分の魔力しか貯めていないので、幻想鎌で闇のものと化できる時間がいつもより短いのはわかる。けれどまだ、解放を始めて十分もたっていない。
 単純計算でいけば、一週間で一時間なら、三日はその七分の三、二十五分は持つはずだった。悪鬼の言う通り、花咲里は「ソウル・ドナー」という究極魔法を使うつもりだったが、命を代償とする魔法なので魔力は少ししか必要としない。それなのに究極魔法を使う前に、肝心の花咲里が惑いを持った。これでは魔法の成否に響く。

――私はこのまま、『ソウル・ドナー』を使って本当にいいの?

 幻想鎌の使い方は、古い資料であるので、処々に珞都の赤ペン注釈が入っていた。「心霊の付憑」とある魔法を、「ソウル・ドナー」と命名したのは珞都だ。
 何かの魔力を奪い違う者に渡す魔焱(マニック・ボム)や、己の心霊を与える命植(ソウル・ドナー)。この鎌にまつわる魔法の傾向をまとめれば、「命のやりとり」に尽きる。見た目のイメージ通り、死神の鎌だと思えばいいかもしれない。

 心霊とは、命の別名であるらしい。命とは、生き物に心を持たせる源で、心がない物を生き物とは呼ばない。動物の本能のような未発達のものでも、花咲里を癒す惺治郎にも心はあるのだ。
 命から発する「心」に対して、魔力や神通力の源は異なることに注意が必要だと珞都は書いている。だから普通の人間は、そんな力など持たないのだと。

 「ソウル・ドナー」は、命を代償に、大切な相手にしか使えない魔法だ。大切と想う心を、幻想鎌を通じてそのまま相手に捧げ、相手の力としてもらう究極奥義と言える。

――でも……惺には私の命、本当に必要なのかな……?

 志半ばで弱気に戻ってしまった花咲里を、悪鬼が不思議そうに観察する束の間に、花咲里は最大風速で思いを巡らせる。後ろの方で倒れる惺に振り返ることもできず、惺治郎に惺を守ってくれとしか祈れない。
 上着なしには寒い気温で、木枯らしが吹きつけるロープウェイ乗り場。まだ動くことはできるのに電気を与えてもらえないゴンドラ達に、花咲里はふっと、惺治郎が体を壊した時のことを思い出していた。

 拾い犬である惺治郎は、正確な年齢がよくわかっていない。そう老犬ではないと言われたが、山奥という土地柄もあり、寄生虫の多さや突然の冷え込みで、度々皮膚病や下痢を起こした。
 里に小さな動物病院があったことが幸いし、その都度薬をもらって何とか生き長らえてきたが、獣医は惺治郎を診る度に感心したように言ったものだった。

――惺治郎くんは、体が弱いように見えて、生き物としては強いんだよね。何度病気をしても、その度にちゃんと回復するから、自分の体との付き合い方がわかっているんだよ。

 花咲里達にとっては、惺治郎は薬が無ければ生きられない弱い獣だった。でもそれは、山中という過酷な環境にあってのことで、実際に惺治郎は弱かったのだろうか。
 止まり続けるゴンドラ達も、電気という環境が味方をしてくれないだけで、ゴンドラ達が弱いと言えるだろうか。いつかまた人間を乗せる日を信じて、風雪に耐えて待ち続けている姿は、惨めなものだと誰が断言できるだろう。

――このままセイに、あいつの魔力を返し続けて……セイは、大丈夫なの……?

 花咲里は惺に魔力を届けながら、思わずにいられないことがあった。
 それは、花咲里がその抵抗を始めるまで、惺は弱りながらも、惺だけの力でちゃんと生きていたことだった。

 週に一度、悪鬼に生気を吸われても、惺は自宅で療養しながら細々と生きていた。魔力を渡すようになってからは、一時的には元気になるが、それ以外の時間は以前より弱っているようにも見えた。
 髪の毛が銀色となり、ここに通うこともままならなくなった今より、惺だけの力で生きていた時の方が顔色も良かったことに、今更花咲里は思い至った。

「私……は……」
「――?」

 その衝撃は、花咲里にとって、膝をついてしまうほどの大きなものだった。
 幻想鎌を握りしめつつ、ぺたんと座り込んでしまった花咲里に、え? と悪鬼が顔をしかめる。

「私は……最初から、わかってたんだ……」

 悪鬼の前であることもかまわず、流れ出す涙を止められなかった。
 惺にも、そして紫苑にすらも、花咲里は謝りたくなっていた。自身がこれまで、迷い続けた理由を悟ったために、強い自責がしぼんだ胸を締め付けていた。

「セイのためじゃなかった……私は、私のために、セイに魔力を渡したかったんだ……――」

 もう誰にも、置いていかれたくない。何もできない自分が辛い。それこそが花咲里の微量な魔力を開花させた、闇の世界への誘いだった。
 花咲里はただ、何かをしたかった。惺の助けになれていると、そう思えて安心できる自分になりたかったのだ。
 そんなことをしなくても、惺は自分で、悪鬼と折り合いをつけながら生きていられていたのに。

 これまで、自分の行動を、正しいとは断じていなかった。花咲里に救いがあるなら、そこだろう。闇のものと化する一時間だけは充実感に満ちていたが、悩んでいた普段の花咲里の、その懸念の方が正しかった。

 花咲里が思わぬところでへたれてしまったので、悪鬼は調子が狂った様子で、惺の方を遠目に見ながら呆れたような顔を浮かべた。
「うーん……よく、わからないけど。それなら花咲里ちゃん、もう、惺を助ける気はないってことかな?」
 あれ、あのままだと危ないけど? と、他人事のように悪鬼が嗤う。花咲里もそれはわかっていて、鬼へと傾きかけている惺に、魔法が必要という判断を変えてはいない。

――セイは……自分だけの力に、戻らないと。

 人間としては、どんどん弱ってしまった惺。それは魔力を生気の代用としてきたからで、かえって自然な生気の生成が妨げられてしまっている。

――それなら私は、違う『魔法』を使えばいいんだ。

 魔力という代わりがあってしまえば、惺の体は最低限の生気しか作ろうとしない。なまじ花咲里より魔力の上限は豊富な惺だったので、生気よりも魔力に頼る鬼への変化は当然の結果だった。

 けれど、絡繰りさえわかってしまえば。
 花咲里だからこそできる、惺への最大の魔法があった。
 珞都にも紫苑にもできない、お飾り巫女の花咲里だからこそ――

「……って――えええ!?」
 座った体勢のままで俯き、体の前に縋るように鎌を立てる。そうして深く息を吸ってから、花咲里が発動させ始めた魔法。
 悪鬼は初めて、とても焦った顔色を見せた。
「ちょっと、花咲里ちゃん――正気!?」

 十分間も使っていなかったので、貯めた魔力はまだ鎌に残っている。
 僅かな魔力があれば使える、花咲里が得意とする小回りの魔法。その資料に珞都は、「ヘタレもん」というシニカルな意訳を書き込んでいた。

――セイも私と、同じくらいに……ダメダメになればいいよ。

 花咲里の魔力を「-1」と評したのは、何度も刃を交えた悪鬼だ。紫苑は「-50」、惺は「-10」くらいはあると、花咲里の非力ぶりを何度も嘲笑っていた。
 それでも花咲里は、魔力を渡す前の惺を思い浮かべながら、大事な詠唱を今生最大の愛を込めて口に出した。

「封印発動……『プア・スピリット』!」

 惺なら多分、受け入れてくれるだろう。この魔法は、かけられる者の魂魄強度を術者と同レベルにさせるもので、コストは低いが成功率も低い。
 花咲里のように、惺も魔力が少なくなればいい。同調の影響で優柔不断や臆病さまでうつってしまうかもしれないが、惺の生気を呼び戻すのに、これ以外の魔法は思い当たらなかった。

 悪鬼が、正気!? と叫んだように、これは現状、惺をますます弱める魔法だ。花咲里も残った魔力を消費するので辛くてへたりこみ、どちらもここから、帰ることもままならない。
 それだけ弱り、しかも魔力も花咲里並みに少なくなれば、惺は生気を作るしかない。時間はかかるが、人間としての生気を回復させなければいけない。

――私が更にダメダメになれば、セイの魔力も少なくなる……!

 神通力や魔力は、命とは異なる根源を持つ。
 人間とは、自然の命――心霊だけでなく、天恵の魂魄(たましい)を持つ存在だ。命が「()を生き物にする()」なら、魂魄は「心と体をつなぐ力」。たとえば気力の元が(こん)、体力の元が(はく)という形で、物に心のあり方を反映させる。本能や感情が心から来るなら、理性や意志は魂魄から生じる。
 異端者の神通力は(こん)から、魔力は(はく)から、素質ある者だけが作れる。魔力も体力も、源は魄なので、魔力を作る分を減らせば、魄からは体力だけが作られる――その分体力が増える。

 魔力作りに励むあまり、激痩せしてしまった花咲里は、体力を魔力に変換していた。自身に今ある魔力を空っぽにするため、体力魔力とかまわず、地面に突き立てる幻想鎌に注ぐ。
 それで余計に全身から力が抜けて、立ち上がれなくなる花咲里を、何の自爆!? と悪鬼は戸惑い、手を出せないでいるようだった。


 このまま鎌に力を注げば、結局花咲里は死ぬかもしれない。
 既に意識は遠くなって、鎌を持つ手の熱さしか、もうわからなかった。

 思えば本当に、ダメダメな人生だった。夢現の中、走馬灯のように花咲里は、お飾り巫女の自分を思った。

――珞都みたいに、私も……ちゃんと修行すれば、良かったのかな……。

 気が付けば花咲里は、暗闇に夜明けが近付くような、鉛色で何もない空の中にいた。
 周りには誰もおらず、幻想鎌も何も持っていない。
 ただ、花咲里よりも色の薄い、闇に熔け込むような珞都の影だけが、そこには映し出されている気がした。

――珞都……迎えに来て、くれたの……?

 それはおそらく、花咲里の願望に過ぎなかった。いくら手をのばしても、珞都はうっすら微笑むだけで、花咲里に近付いてこようとはしない。
 いつまで待っても、暗闇も完全に暗闇にならない。何処からか光を受ける空の色は、むしろ群青色に迫ってきていた。

――……あれ……光ってるのは、私……?

 そんなはずはない。不意の恐れと共に、縮こまりながら首を傾げる。花咲里には何の力もないし、なれるとしても闇のものだ。それすら否定した今は、とにかく自分のダメさを発揮しなければいけない。
 神通力がないから、魔力も少ないから、ダメダメというわけではない。それらがなくても、立派に生きている人間はいくらでもいる。
 生まれ育った環境に流され、お飾りの自分でいたこと自体がダメダメなのだ。巫女としての修行も、普通の人間をする努力も、何もしてこなかった自分に、光なんてあるはずがないのに。

 どうして自分は、そうだったのだろう。
 思い出したのは、小さな珞都と花咲里をそれぞれ抱き上げる、父親と母親の姿だった。

 ねえ、と。お調子者の父に抱かれた、修行服の珞都を見て、花咲里は母に尋ねたことがあった。

――ねえ。かざりも、らくとのおてつだい、できないの?

 都会から嫁に来て、都会に帰りたがっていた母は、神職にあまり興味がなかったのだろう。花咲里をぎゅっと抱きしめながら、とても嬉しそうな顔で答えてくれた。

――かざりは、優しい子ね。ねえ、アナタ。
――本当だ、カザリもラクトも優しい子達だ。でもな、子供はそんなこと、考えなくてもいいんだぞ?

 片手で珞都を抱える父に、わしゃわしゃと頭を撫でられ、父はその手で母と花咲里を丸ごと抱きかかえた。
 
「……――……」

 胸に込み上げる、温かだった時代の記憶。
 いくら消そうとしても、決して消えてくれない光。
 このダメダメな「かざり」を望んだのは……果たして、花咲里だけだっただろうか?

――私……嬉しいって、感じてる……?

 それは何と、ダメな喜びであることだろう。それでもこれは、受け取ってよいもの。ダメでも大切にしなければいけないもの、と、胸の奥から幸せを叫ぶ自分がいる。
 花咲里は確かに顔を上げて、全ての思考を脇に置いて、初めて無心に、自分のいる空を見つめた。


 お飾り巫女でしかない自分。巫女なのに微量の魔力を持った闇のもの。
 作り笑顔というほどでもなく、心から笑っているわけでもない、薄暗い嘘の日常。
 何もかもが曖昧で、大した特技もない平凡な少女。その背に映えるのは、やはり何色なのかよくわからない空で。

 そこにこそ、彼女だけの魔法があるのだと、少女はついにその目を開く――

⁂終⁂

 毎日毎日、ベッドで横になって生きる少年に、誰かが野暮なことを尋ねた。その不自由で退屈な生活は、辛くはないのかと。
 少年は、枕元に置くスケッチブックをちらりと横目で見ながら、板についた綺麗な笑顔で答える。

「いや、ほんと。恵まれてますよね」

 家でも外でも、絵さえ描ければ、少年はそれでいい。
 そんな生活は、世話をしてくれる両親がいなければ成り立たない。親が亡くなったらどうするのか、とそこで更に詰問される。

「そうですね、ダメダメですからね。まあ、何とかやっていくんじゃないですか」

 それでいいのか。と、姉だった誰かは呆れてつっこむ。
 少年には何も、答があるわけではない。体が弱く、何もできない人間でいるよりは、強くはないが、生きるにも困らない鬼になる方がいいのかもしれない。

 けれど今は、そんな先のことを考えるより、明日の体力を回復させたい。
 少年がいつまでも煮え切らないので、少年の生気を好んで奪う悪鬼も、奪うべきか我慢するべきか、いつも迷っているようだった。
 何しろ、生気を奪うことに慣れさせるほど、それを補う過程で少年には体力がついてしまう。少年を仲間にしたい悪鬼は、自分の魔力を分けたいのだが、少年が愛する者を仲介しないと魔力も受け取ってもらえない。

 少年こと惺は、悪鬼紫苑が出ていった後、静かになった自室で小さく溜め息をついた。
「もう紫苑も、家に帰ってくればいいのに」
 魔力を受け取らなくなってから、惺はロープウェイ乗り場に通うことも困難を来たし、悪鬼の方から惺の生気を奪いに通う状態になった。
 惺の生気はそれだけ美味しいらしい。どうせ惺を食べて生きるなら、同じ屋根の下で暮らした方が早いだろう。両親も案外、喜びそうに思える。

 帰宅を提案したことはあるのだが、それも悪鬼は迷う様子だった。
 それでなくても、人間の元に通い来る鬼として落ちた威厳が、更に畏れを失ってしまう。人間に仇なす古の悪鬼としては、それは由々しき事態らしい。
 もう既に、あまり悪鬼を怖がっている相手はいないことを、惺は伝えたものかどうかと悩む。
「何せ、みんな……優柔不断だもんな……」

 この里にいるのは最早、名物化した悪鬼と、一応の対抗勢力とされるお飾りの巫女だけだ。
 どちらも大した害はない。惺の生気とお布施を与えていれば、悪鬼とお飾り巫女は仲良くやっていってくれる。
 二人を戦わせてしまうと、闇の世界の弊害が里に及びそうなので、それくらいで済むなら安いものだろう。

 今でも思い出すのは、お飾り巫女宣言をした花咲里の、悪鬼に対する究極我流魔法だった。

「私、一生、ダメダメで生きる!」

 「フダン・ユージュ!」と、いかにも呪文らしく見えて、和製英語ですらない即席の造語を叫んでいた気がする。
 それが限界の花咲里と違い、兄の珞都は英語の点が良く、魔法の命名にもまさに中二病のセンスがあった。惺も学年は同じだったので、魔法名は珞都の方を採用したい。

 それでも、花咲里が独自に編み出した最後の魔法は、悪鬼に対して覿面な効果があった。
 花咲里曰く、それは惺に魔力を渡していた「マニック・ボム」に、惺と同調する「プア・スピリット」の魔法を足したもので、花咲里は何と、自身の拙い魔力を悪鬼に渡す我流魔法を放った。
 悪鬼はうっかり、もらえるものはもらう根性で、その魔力を受け取ってしまった。しかしそこには、花咲里と同調する魂破りの魔法も込みで、悪鬼は花咲里の優柔不断さまで受け取ってしまったわけなのだ。

 これは完全に、「プア・スピリット」に悪鬼を引っ掛けた花咲里の作戦勝ちだった。惺と花咲里の同調が今も続いているように、悪鬼と花咲里の同調も続く。
 花咲里がダメでいる方が、悪鬼の力も弱る。さすがにレベルが違い過ぎて、花咲里と同等の魔力にはならないが、悪鬼が人間のような迷いを持ったのは大きな出来事だった。

 戦わずして、共存の道を開く。そんな偉業を果たした花咲里の日常は、相変わらずだった。
「悪鬼を弱らせるためとはいえ……私、本当にこんなダメダメでいていいのかな、セイ……」
 悪鬼も本気になればまた悪くなるとか、花咲里の魔力は微量とはいえ、今後はずっと悪鬼に渡されてしまうとか。それでいいのか、と花咲里は今もえんえんと悩んでいる。

 それでいい、と、惺は熱を込めずに応えるしかない。花咲里がそうして迷い悩むほどに、悪鬼の決断力も鈍る一方なのだ。
 実の両親と兄を死なせた悪鬼の、滅びを望まないことだけでも、花咲里は非凡だった。一生許さないという思いは、一生悪鬼を見張り続け、「フダン・ユージュ」の魔法を維持するモチベーションとなる。
 現在の花咲里の仕事は、拙い魔力を、その拙さのまま悪鬼に渡し続けていくことだ。悪鬼はいっそ、自分を縛る花咲里を殺してしまえば良いようなものだが、この拮抗状態は意外に居心地が悪くないらしい。花咲里を殺すべきか生かすべきか、それについても、ずっと悩んだままでいる。

 「-1」の魔力とはいえ、毎日それを無理なく支給してもらえば、一週間で「-7」になる。惺が週一で渡せる生気量と大きくは変わらず、悪鬼はそれで、必ずしも惺を食べなくても良くなっていた。

 闇の世界の用語で言えば、悪鬼は花咲里の使い魔になったことになる。そんなことを口にすれば、悪鬼が大いに反発することは目に見えているので、色々と勉強中の惺は口を噤む。

 花咲里だって、家族を奪った悪鬼を手下とは思いたくないだろう。それでいて憎み切ることもできない優柔不断さが、花咲里という少女が宿す貧相な魂の力なのだ。
 惺に命を与えるという究極魔法を思い止まったのは、迷わないでいられる魔人化が、何故か勝手に解除されたからだと言う。しかしそれも、迷う自分に戻ることこそ、花咲里が決断した意思だったのではないか。それを望んだ魂が闇のものであれ、人間の花咲里であれ、だ。

「カザリ達はそれでいいけど……俺は本当、どうするかな?」

 そろそろ惺も、久しぶりに好きな服に着替えて、外に出かけてみることにした。
 体が弱いと言っていたわりに、今まで自分の意志で医者に行ったことはない。すぐに良くなるものとは思わないが、ひとまず橘診療所という何でも内科に通ってみることにした。父の尽力で再開したロープウェイの麓から、近い場所のお屋敷にある不思議な医院なのだ。

 どう生きていけばいいか、何か答が出たわけではない。むしろ今まで、惺には一つの答しかなかった。
 花咲里達みたいに迷えるように、まずは選択肢を探しに行くのだ。自分の無力に悩むのは、それからでも遅くない。


-了-

~・~・~・superfluity -OMAKE-

 その山里の古井戸には、人知を超えた古の鬼が棲むという。だから決して、井戸をまたぐ朱い鳥居を壊してはならない。
 深い深い闇の中で、幾千もの時を越えた化け物に、浅はかな人間の知恵など通用はしない。ましてや最早形骸化した現代の神事に、何の力があるというのか。
 神憑(かみがか)りの神秘を真に可能とする人間など、神の声が消される喧噪の世には顕れはしない。だからその神官夫婦が、「もう祓など必要ない」と判断したのは理に適っていた。

 もしもある少年が、類稀なる神通を持っていなければ。
 そして古井戸の悪鬼が、あまりに不運な化生でなければ――

 古井戸の底には、人間的に有り得ないバケモノが棲む。
 はい、その通りです。今日もバケモノの説得に失敗した暗鬼(あんき)は、井戸を這い上がる気力も失くして、一見は高貴で無害そうなバケモノに食い下がった。
「いい加減、家に帰って下さい、珞都さん。花咲里ちゃんのこと、いつまで無駄に悲しませれば気が済むんですか」
「ええ、その話、まだ続いてたの? もう君、いいから、帰る気がないなら紫苑を出してくれるかな」

 出るわけないでしょう、と満面の不服で返す。鬼火で照らす井戸の底で、地面に白い狩衣で横向きに寝転ぶ珞都は、いつも通り全く動揺した様子を見せない。
「紫苑さんはアナタにふられたせいで、いつまでも殻にこもってるんですよ。どう考えたって、紫苑さんを追い詰めたのはアナタなんですけど、自覚あるんですかアナタ」
「失礼な。ふったとか、ふらないとかさ。オレと紫苑の関係は、そういう次元のものじゃないんだけど、わからないかな?」
 わかるわけがない。双子の妹を猫可愛がりしつつ、全ての負担を引き受けようとして病み始めた珞都を、暗鬼の使う体の主がどう思っていたかは最早闇の彼方だった。

「オレはちょっと、三十年くらい、何もしないで井戸の底で寝ていたいって言っただけなのに」
「できません。普通の人間はまず井戸の底で生きられませんし、アナタだってせいぜい五年の自主封印が限度です。紫苑さんが気に病むのも当たり前です」

 この井戸は元々、暗鬼が眠り続けていたお気に入りの場所だ。真似事でも人間が祓をしてくれて、井戸自体を保ってくれる間は、快適な睡眠環境だった。
 人間世界はあまりに世知辛い。化け物が生きていくには適さない、と暗鬼は古い時代に悟った。飢饉が起きれば暗鬼のせいにされ、疫病が流行っても暗鬼を罵られる。挙句に少し生気をもらえば、人間の敵として追い回される。

 だからずっと、生命力の消費を最低限に抑えるために、心地よい夢の中で眠っていたのに、五年前には祓をさぼられたどころか、井戸の底への調査が入った。綺麗な水が出ないことはわかりきっているのに、祟りなどない、と余計な証明をしようと誰かが考えたのだ。
 井戸の底で眠るのが精一杯のボロボロの体を、暗鬼はそこで捨てざるを得なかった。長い年月眠り続けて、もう這い上がれる力はなく、霊魂だけで動く幽鬼と化して、体は土に還した。そこまでして人間達の調査から逃れ、ほとぼりがさめるのを待つために、久しぶりに地上に出たところで――思いがけず出会ったのが、かの神通力の少年だった。

――オマエが、伝説上の、あの井戸の鬼?

 少年珞都は、幽鬼と化した暗鬼を視認できる、本物の神通の持ち主だった。
 暗鬼がそこまで有害な存在ではないことも、早々に見定めていた。逆にそのまま幽鬼でいれば、他の有害な闇のものに取り込まれ、遠からず悪鬼になることを心配したくらいだ。

 暗鬼は昔から、とにかく運が悪かった。人間に何かと敵視されたのもあるが、惚れた女には必ず裏切られ、討伐されかける憂き目にあった。
 惚れっぽいのが悪いのはある。同じ生気を分けてもらうなら、美しい女のものが欲しい。しかし暗鬼が惚れるのは、必ずといっていいほど、黙って生気を吸わせてくれるタイプではなかった。

 紫苑もそのクチだった。暗鬼を匿った珞都の共犯になった紫苑は、暗鬼が視える魔の素養を持ち、初めの内は暗鬼に優しくしてくれたが、暗鬼が紫苑に惚れてしまうと掌を返した。どうやら珞都を慕っているようで、暗鬼に冷たくなったのは紫苑なりの誠実さでもあった。
 それだけなら良かったのに、井戸の調査が入った後に、あまりに偶然に、調査員の一人が事故で死んだ。暗鬼の祟りだという噂が一気に流れた。
 あまつさえ、神官一家で、都会から来た嫁が末期がんで弱りだした。若い嫁は健診も受けず、病気が発見されておらず、原因不明に急激に衰弱する嫁に対して、神官を継いだお調子者の男はこれも祟りだと怖れをなした。そうして悪鬼の厄祓いを思い立ってしまったのだ。

 珞都曰く、あのスチャラカな父さんがそこまでするとは……というのが、正直な感想らしい。
 形式的に神事を教えられただけの父が、人間では届かないレベルの神力に手を出した。なまじ神官の家系で、僅かな神通力はあったものだから、中途半端に祈祷が成立し……そして、派手に失敗することとなる。

 大掛かりな儀式に失敗した神官は、幻想世界に迂闊に触れた影響で意識不明の重体となり、そのまま天に召されてしまった。当然それも、祟りだと言われ、何もかもを自分のせいにされると焦った暗鬼は、大きな間違いを犯してしまう。
 夫を失って気落ちし、死にかけている嫁に暗鬼は憑依した。嫁が病に苦しんでいることはすぐわかったので、暗鬼なりの善意で、これは鬼の祟りではない、病院に連れていってほしい、と嫁の口から言わせたのだが……それが最後の、ダメ押しとなってしまった。

 古の鬼が神官夫婦に憑依し、おかしなことを繰り返したと、暗鬼はすっかり悪鬼にされる。暗鬼が宿る嫁の遺体は神官夫婦が守っていた神社の本殿に安置され、これがまた古くから伝わる強固な結界で、なかなか逃げることができない。
 瞬く間に両親を失った珞都も動揺し、暗鬼をかばうどころではなくなっていた。皮肉にも、暗鬼を救う手立てを打ったのは、暗鬼の好意を拒否した紫苑だった。

――わたしが鬼を封印します。惺ではきっと力不足です。

 紫苑は若いのに、とにかくいい女だった。
 無実の罪で糾弾された、不運な化け物を見捨てなかった。自らに暗鬼を受け入れてまで、暗鬼の霊魂を守ってくれた。もしも紫苑の弟に暗鬼が遷されていれば、弟の体はやがて滅びただろう程には、暗鬼も強い化け物だった。
 この女を一生守る、と暗鬼は決めた。ところがそこに影を差したのは、他ならぬ珞都だったのだ。

 鳴り物入りで育ってきた神童の珞都は、妹と紫苑と三人の生活が始まり、最初の内はとてもがんばっていた。
 しかし段々と、もう疲れた、と紫苑に愚痴を言うようになった。珞都は妹には弱い姿を見せようとしないのに、おろおろする紫苑には遠慮なしに心配をかける。最終的には紫苑を封印するふりをして、井戸で眠ろうと言い出したのだった。

「だってなあ。そういうけどオマエ、このグローバルな時代に、山里のお布施だけで生きるってどれほど難しいと思う? 色々怪奇現象を自作自演してまで祓の依頼料を稼いだ、オレの苦労をわかってくれないかな」
「だからって普通、井戸で三十年眠ろうとは思い立ちません。そしてそこに、紫苑さんを巻き込んでいい道理もありません」
「いいじゃないか。今じゃ紫苑の方が、オマエより鬼らしい鬼娘だよ」

 誤算と言えば、これもまた、暗鬼の間違いだった。暗鬼の霊魂を自身の内に受け入れるということは、紫苑の魂の居場所――精神の許容量が狭まることを意味する。
 体は平気でも、紫苑の精神状態はとても不安定になった。井戸の底で珞都を独占できるなら、それだけでいいとまで言っていたのに、珞都は笑顔で返答したものだった。
「いや、紫苑にはその後、地上でがんばってもらわないと。鬼の恐怖を振りまいてくれないと、花咲里にお布施が集まらないだろ?」

 本当の鬼とは、いったい誰だったのだろう。
 人間は怖い、と、今でも暗鬼は思わずにはいられない。


-了-


 ……そんな夢を見て、惺は冷や汗をかきながら、慣れない天井の下でがばっと起き上がった。
「えええええっ! ラクトっ、さすがに、それはなしっ……!」
 久しぶりに遊びに行った花咲里の家で、気分が少し悪くなり、珞都のベッドを借りたせいだろう。
 叫んでおいて、なしではないと思い直したが、紛れもない酷い悪夢だ。色んな人の悲しみや苦しみが、笑劇となりかねない酷悪な夢。それなのに、そうであってほしい、と気を抜けば思いかけてしまう。

 有り得ない話ではない。珞都は自殺として届け出られたが、井戸をいじるとまた祟られると恐れた大人達が、滝つぼに身を投げたと嘘をついた。そのため井戸は全く調べられていない。
 当然死体は上がっておらず、現在珞都は行方不明扱いとなっている。あの深い井戸の底で、いつもの穏やかな顔で丸くなって眠る姿は、あまりに想像に難くなかった。

「そっか……悪鬼が悪いって思えることも、これ、幸せなんだな……」

 花咲里にこの夢のことを、話してもいいものだろうか。彼女なら散々思い詰めた挙句、自ら井戸に潜り、調べるくらいのことはやりかねない。
 しばらく答は出さないことにした。魔法や幻想の存在についてもそうだが、人の世はいつだって、掘り起こさない方がいい闇に溢れているものなのだから。


-了-

フダンガール

いみず様原案の現代ファンタジーを、三日で中二病仕様で書いた物でした。
拙作としては橘診療所シリーズCase.Xにあたり、単独完結品です。
ちなみに主役と作者のPNが同じ「かざり」なのは、同時期に作って適当に流用したからです(急いでました)。他のキャラも同様に別作から名前を流用してますが、一応無関係です。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
since:2018.12.20-25
いみず様→https://estar.jp/users/137884161

フダンガール

一週間でたった一時間だけど、魔法を使う間だけは強気になれる。優柔不断なお飾りの巫女、カザリのヘタレなシリアス魔法譚。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-18

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 𓇬転𓇬
  2. ⁂起⁂
  3. 𓇬承𓇬
  4. ⁂転⁂
  5. 𓇬結𓇬
  6. ⁂終⁂
  7. ~・~・~・superfluity -OMAKE-