「葉隠れの生と死」

「葉隠れの生と死」

葉隠に付き。

 江戸時代中期につくられた此の「葉隠(はがくれ)」はいろいろな意味に解釈されてきた。
 本来の「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするものなど。
 人類の考えがそれぞれ違うのだから、解釈が多岐に分かれるのも無理は無いと思う。有名な一節
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」についても同様で、中には「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と覚えている人類は大抵違う解釈をしている様な気がする。
 特攻などではこの部分を「武士とは死ぬもの」として誤って解釈して実際死に臨んだ。
 では、どんな解釈をするのかの一例をあげると。
「自己を中心とした利害に基づく判断からの行動は、結局のところ誤った行動となってしまう。そのため、本当に最良の行動ができる心境とは、自己を捨てたところ、すなわち自身が死んだ身であるという心境からの判断であり、そのような心境から得られる判断が、自分も含めた全体にとって最良の結果を生むというところにある」
 此れは此れなりに理解が出来るだろう。
 では更に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で始まる一節は、以下のようなものである。
 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。
 別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方(かみがた)風の打ち上がりたる武道なるべし。
 二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。
 我人類、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。
 若(も)し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。
 図にはづれて死にたらば犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
 毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身(しにみ)になりて居る時は、武道に自由を得一生越度(おちど)なく家職を仕果すべきなり。
--山本常朝 『葉隠』聞書第一 。
 此れの説明は。
「図に当たる」とは、目的に適う、正しい、という意味である。
 山本常朝は、事前に正しいと分かって実行するのは“及ばざるなり”と言って至難であることを認めている。失敗に終わって(図にはずれて)なお生きていれば、腰抜け(臆病者)とそしられる。
 また失敗して死にたらば、犬死に(無駄死に)気違いと言われるかもしれない。このへんが難しいところだ。
 ところが、死を選んでさえいれば、その覚悟ゆえに犬死に気違いとそしられようとけっして恥にはならない。 彼はそれをもって死を選ぶ利点を説いている。彼は、人類は誰しも死ぬよりは生きる方がよいという自然の理を否定してはいない。
 ただその上に武士道という別の原理を置くのである。毎朝毎夕、常に死を覚悟してさえいれば、武士道が自分のものとなり、一生落ち度なく奉公できるものだ、と締める。(『葉隠』は藩、つまり全体に奉仕する奉公人類としての心構えを説いた本である。)

 仮にも、人生の初めから終わりの間で考えられたものであるのだから、何某かの意味を持っており徒(いたずら)に詰まらない事を書いたのでは無いだろう。
 そうとしても分からない事がある。
 あの純文学の作家・三島由紀夫は自ら「葉隠れ入門」というものを書いている。
 残念ながらその内容を読んではいないのだが、若し上記の様な解釈をしていたのに・・。
 昭和45年当時の事だが陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のテラスで極右翼思想演説をしている姿を見た。
 その直後割腹自殺をしたのだが、それであれば、何か辻褄が合わない様な気もする。そうでは無く彼独自の違う解釈をしていたのか?は不明。
(此の極右翼思想~今話題の防衛費増・敵地先制攻撃(憲法九条に反するとも解釈できる。)などの発想は面白い事に現代の安部氏から始まり岸田氏に至る間の複数人類の考え方に似ている。)
「此処で話は逸れるのだが、三島氏も安部氏も思想・死相で亡くなった。何故なのかこのような思想=死相が浮かぶのは偶然では無い筈。(三島氏は既に死を望んでいたのであるから当然の如く死相は浮かんでいた。ところが死相というものは人類には窺えず、更に本人の本意・不本意に関わらず窺えるもの。)ヨハネの黙示録(というものがある。古代ギリシア語: Ἀποκάλυψις Ἰωάννου、ラテン語:Apocalypsis Iōannis、英語: Revelation=ヘブライの宗教思想の影響下で記された終末論を記した一連の書物のことである。転じて、そこに描かれるような破滅的な状況をも指す。概要 黙示とは「隠されていたものが明らかにされる」という意味であり、この場合には「預言」という宗教上の言葉が当て嵌められる。ところが・・「預言」が其れだけに留まらず『予言』と一致してしまったという事になる。)
 同じ生命体でも人類は生と死をずっと考えて来たのだろうと思える。
 不老不死などの言葉が生まれたからには歳を取らずに何時までも生きたいという希望が存在するようだ。
 只、長く生きている事も意味が無い様な気がする。死んで出来なくなる事は「楽器を弾く」「文章を書く」くらいしか無く、其れもどうしてもしなければいけない事では無いからと思えば、結局生死の境が大して重要な事とは思えなくなる。
 TV放送を一切見ないし現在は、且つては山ほど読み漁った本、も読まないから、演奏も楽譜など関係無くメロディーが浮かび更に勝手なアレンジ。
 文章も詰まらない事は幾らでも浮かんで来るのだが、其れは結局くだらないの一言に尽きるのかと思う。
 其れでも、少なくとも、此の国での「あらゆる差別」・「極端な右・左の思想」には呆れる。


 其れでは、現在此の国・世界にも死相というものが多数窺えるのだが、必ずしも本人を見なければというものでは無く、予言であれば全く必要は無くなる。
 また、死相は浮かんだからと言い必ずしも亡くなるまで浮かぶものではなく、消える事はある。
 其れに、浮かびやすいのが争いと関連があるとも言い切れず、全ての兵士や関係者に必ず浮かぶものではない。
 時期も関係があり、来年春3月1日から4月3日の間に起こりやすい。が、何とも分からない。
 占いでは無いから「当たるも八卦当たらぬも八卦」とは関係無く、確率も無関係と思われる。
 医学・科学・薬学などは半分以上が仮説というのが青い惑星での事実であるが、其れにも関係せず、時を改め何れ其の事に付き例を挙げてみる。が本日ではない。
 此処から話は飛躍するが、上述のように切腹という言葉が出てきた。
 此れは、此の国の今の世代の人類には到底できなく、無論諸外国でもその言葉が聞かれる事は無い。
 其れでは時代を遡り武士の世ではどうだったのか?
 今度は単なる事実若しくは史実であるから作品を変え、此の時期お馴染みの「忠臣蔵」に関する話へ・・。 
 
 

「葉隠れの生と死」

葉隠に係わる諸事。

「葉隠れの生と死」

此れに付き自分なりに書いたものの中で、作家・三島由紀夫が挙げられる。 其れにも関与しながら話を。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-16

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