邦題 打ち水をする女性
夏の風物詩「打ち水」。
nő vízzel locsolva 邦題 打ち水をする女性
長梅雨が明け正に夏を感じさせる日々が続いていた或る日。
物書きである加賀煌(こう)は漱石邸に立ち寄るが、漱石は出版社担当と面談中との事。其れで丁度居合わせた木曜会の作家達と雑談を。
其の中で話された、作家が会合の席の料亭で見掛けた幻の美女の話題は煌に興味までは感じさせなかったが、ただ何となく記憶だけは残っていた。
というのも、煌は女性というものには関心が持てない。其れが何時頃からかといえば、そう遠くはないような気もする。
人類の世には男女しかいないのだから、女性でなく男性はと問われれば論外と答えるだろう。
そう言う意味では男女の差別に値せず只管(ひたすら)平等精神を貫いていると理解していた。
幻などというものは、昔からよく使われる言葉であり、其の実態自体幻だったりする事が多い。
ところが・・。
其の日は、何時もの散歩の道筋を変える事で気分を転換しようと思った。
散歩途中で軒を連ねている住宅街を歩いている時だ。昼間の暑さを凌ぐ為だろう、何処の家も窓を開けている。
もうじき訪れる薄紫色の闇を待ち受ける様に日差しが弱まってき、散歩には都合の良い時間帯と言えそうだ。
東京市には山こそないが丘は多く、坂の上り下りを繰り返す。
其れが、物書きのなまっている足腰を鍛えるのには役に立つ。
何処の家にも灯りが付き始め、外から家の中が窺えるのだが、家人の寛いでいる姿を見るには憚りを感じる。
不意に一軒の家の前で、打ち水をしている光景に出くわした。
家の前には小さな花壇もあり、軒先から吊るされた風鈴が涼しげな音を伴い揺れている。
打ち水は、日中の一番熱い時間帯に行っても効果は無い。すぐに路面が乾いてしまい却って蒸すだけだ。
暑さの源は空気そのものではなく、地表の温度が高くなり、其れが辺りの空気に熱を帯びさせるからだ。
其れが打ち水により気圧が高くなるから、気圧の高い場所から低い場所へと風が吹き一層涼しさが増す相乗効果も期待できる。
などと言う理屈は後からでも良かった。白木の柄杓(ひしゃく)で木桶の水を打つ浴衣姿の女性に目を遣る。
其の仕種(しぐさ)に何とも言えぬ風情が感じられ、暫し足を止める。
何も打ち水の邪魔をするつもりではない。
立ち止まっている煌に気が付いた女性が視線を流した時、自らの眼(まなこ)のシャッターをきっていた。
人類は視線を感じれば、思わず顔の表情を変えたり軽く会釈をする事はあるものだ。
其の女性も同様の反応を示し手を止める。其の時面(おもて)や着物姿に結構な美しさを感じたのだが、所詮、縁なきものと。
其の間にすぐに歩き始め、丁度陽が落ちた頃に帰宅した。
書きかけの物語に何か付け加えようかと思ったりもしたが、特段何をどう?と思ったのでは無い。
其れから何日かし、木曜会(漱石主宰の文壇)の作家達に会った時料亭で会合を催すと聞かされ、君もどうだと言われた。
漱石は用があり遅れて来るそうだが、其の日は、珍しく志賀直哉も呼ばれた様だった。(漱石は「鼻」以来芥川を買っていたが、其の芥川は志賀直哉の様な文章を書いてみたいと漱石に告げたことがあった。)
小説の神様と称される彼の口から、さぞかし面白そうな話題が聞かれるのかと期待していたのだが、案外、無口のようだ。
志賀の唯一の長編作である、「暗夜行路」もさることながら、短編である「小僧の神様」の筋書きの展開や「城之崎にて」の書き出し以降などは素晴らしく、長短作品の内容に大きなテーマの違いが窺えると思っている。
芥川龍之介や夏目漱石にしても、皆、然り(同じ様に)作品により印象が全く違って感じられるものだ。
煌は長編を書く程時間も無いので、専ら短編しか書いていない。
其れで、何方(どちら)かと言えば彼等の短編の方に関心を持っている事になる。
宴席に酒や料理が並ぶと、其れにつれ面々其々の会話で賑やかになっていく。
彼等が話題を変えるきっかけとなったのは、女性達が宴席に登場してからだった。
柄が違う着物姿の女性達が其々会釈をしながら各人の元に座り、酒の酌をしながらご機嫌伺いも兼ね愛想よく振る舞っている。
一瞬、宴席の皆の視線が流れた先は、噂の幻の美女と呼ばれている女性が姿を現した時で、其の女性に。
其れ迄酌をしていた女性達にも、其々器量と言い愛想と言い申し分は無いと思っていたのだが、彼等が其れほど関心を持つとは。
煌は彼女が、散歩の時に見掛けた打ち水の女性だと気が付いた。
其れなら、あの時に幻の美女を既に見てしまっている事になるのだが、シャッターを切った時のネガと少し違って感じられる。
其の時に煌が感じたのは、彼等は幻という言葉で表現しているのだが、確かに目の前の彼女は美しい。
恐ろしく美しいといってもおかしくはない程に、器量も愛想も良いのだが、煌には違った女性に見えたのだ。
丁度、先程まで思っていた様に、一流の作家達も作品により表情を変えるのだが。
其れに似ているような気がした。
長編よりは短編の筋書きの方が面白いと思っている煌には、やはり、彼女の短編小説、つまりは、あの時の自然なさまが。
煌の前に彼女が正座をし酌をしてくれている時には、何かよそ行きの仕種のような気がした。
其れで、どうして目の前の彼女が幻の美女なのかと思うのだが、自分なりに解釈をすれば幻とは手の届かない存在であるかの如き比喩表現なのではないかと思った。
確かに、今の彼女には神秘的というか、近寄りがたいようなそんな雰囲気が漂っている。
長編作品の様に、まだまだ先は長く続きそれ故増々別のモチーフ(象徴)然(ぜん)としているようだ。
ぐい飲みを煽り、彼女の姿に無言で語りかけた時、彼女の表情が少し変わった様に思えた。
「いつぞやの方では?」
煌は、そんな言葉が出るとは思わなく正直驚いたのだが、短編小説の世界へ誘(いざな)ってくれるのならそう遠くは無い彼女だと思う。
其の方が筋書きとし楽しめそうだが、其れが神がかった美女となれば、長編の物語にするには聊か前後の筋書きに手間を掛けなければならない。
どうやって読者に納得して貰うかなどに手古摺りそうだという事。
「よく覚えていましたね?此の席でも一番末席にいる様な存在の私に?」
其れから、散歩の道筋は変わっている。
漱石の「それから」は長編三部作の一つだから、そんな思わせぶりな題が付いているのだろう。
其れでも勿論構わないのだが、出来れば三部作などにしなくとも、短編で語ってみるのも味わいがあるのではと思う。
まあ、天才漱石の事であるからうっかりした事は言えぬが。
打ち水の彼女は物語にし易いと思うのだ。
女性の艶(つや)は変につくるよりそのままの方が素の味が窺え生きているさまが窺えるのではなど思っている。
意識をし愛想を振りまく彼女とはまた異なると。
其れを知ってか知らずか、御園絹代は相変わらず浴衣姿で打ち水をしているが、煌が通りかかると既に旧知の仲と言わんばかりに笑顔を見せてくれる。
其れでは、本当に気のおけぬ仲になるなど出来るのか?其の疑問が解ける時がやがて来る。
蝉の鳴き声も聞かれなくなり、夏も店じまいをする時が必ず訪れる。
打ち水は見られなくとも未だ彼女の姿を見られるのだろうか。
季節の移り変わりと共に彼女が其れなりの衣(ころも)を変えた時、心根(こころね)までも変わらず其の美しさに添え迎えてくれるかは何とも。
ところが、思いもよらず打ち水が遠のいた家と煌の家を行き来するように。
其れも、煌のみにあらず。
物語が続いて行けば良いのだが、短編ならばそろそろ終えなければならない。
志賀直哉の、「城之崎にて」の書き出しには度肝を抜かれる。
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。
・・・・・其れで、命というものは道端に転がっている昆虫でも変わらない。というような内容が続く。
更に続いて行くのだが。
書き出しで驚かすというのもさることながら、打って変わり、それ以降の本編での昆虫・生死の描写は緻密でまるで顕微鏡眼で見たように描かれ其れを主人公の心根(こころね)の優しさでオブラートしたかのような表現は、やはり一流の作家である事を物語っている。
其れでは・・もう一つの名作である「小僧の神様」はどうであろう?
成程、「小説の神様」だと納得させる・・今度は書き出しでは無く、最後に作者が登場する。
簡潔で無駄のない文章は高く評価されており、小僧の心理を無理もせず描いている。
また、小僧に寿司を馳走したいのだが、面と向かって其れをするには聊(いささ)か憚(はばか)られるという心理までも絡め、非常に繊細かつ思いやりと羞恥心(しゅうちしん)の狭間(はざま)にある人物を登場させる事で、ヒューマニズムを極自然に書き表わしている辺りも「小説の神様」と称されるに相応(ふさわ)しい才能の持ち主である事を読む人に納得させている。
或る意味、天才漱石の素晴らしい「夢十夜・第六夜~(護国寺で運慶が仁王を彫り其れを主人公や周りで見ている者達の言動と風体の描写をテンポ良く且つ無理の無い緻密さを伴い描いている。其れに加えLastの設定で漱石が言わんとするところは一体何なのかを読む者をして何通りかに考えさせるのは見事と言わざるを得ない。)」に通づるものを感じさせる。
「小僧の神様」のほぼ終わりに近い部分も非常に味わい深く素晴らしい。
「『A(小僧が神様だと感じた、寿司をご馳走してくれた男)の住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠(ほこら)があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し惨酷な気がしたため、ここで筆(ふで)を擱(お)く。」
煌は自作のLastをこんな風に書いてみたのだが。
「絹代が幻の美女だと人は言うから、その通りに書くべきだと思ったのだが、其れではあまりに彼女が女性では無いようで、可哀想な気がするので作者は此処で筆を擱く」
其れを見た漱石は苦笑(くしょう~苦笑い)し、
「其れは二番煎じというもの、もの真似で詰まらない。志賀直哉が素晴らしいのは自作・文章の神様であり、四角の世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住む芸術家と呼べるから・・」
煌はそう言われるのは当然だと思い、まるで、子供並みの能の無さである事は承知で敢えてそう書いた。
其処で、少し大人に近づこうと思い末尾をこう書き直した。
「絹代はまだ浴衣を着替えていないような素振り。季節の移り変わりにも拘わらず其の美しさを見せてくれている。
其れが何時まで続くのかと気が気ではないのだが。
幻の美女などという事にでもなれば、然るに我が希望とかけ離れた神の変化(へんげ)した姿という事。
そうであって欲しくは無い。誰ぞが言う様に幻とまで書き加えてしまったら。
故に・・作者は此処で筆を擱く事にする」
今度も漱石は吹き出したように笑うと。
「女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます」
「piano・borarennto まではoriginal・E,piano by europe123」
YouTubeサイトで検索に貼り付け。 https://youtu.be/N6mykOAclrI
邦題 打ち水をする女性
作家達は彼女の事を「幻の美女」と呼んでいる。
ひょんなことで主人公は女性に声を掛ける。