弥勒と観音・・そして・・百八つ・・。
何物か?人類を恐怖のどん底に引きずり込んだモノ・・。
weight:bold;">年の瀬も迫った頃だった。
江戸の町で続けて骸があがった。
討たれたものはかなりの剣の使い手と思われる。というのも柳生新陰流の免許皆伝の強者も犠牲になっている。
平和が続いている城下では専ら其の話で持ち切りだ。一説には姿を見たというものもおり、鬼の仕業では無いかとの噂もある。
また一説には、姿が見た事も無い異国から来た武士では無いかと。しかし、異国ではまた異なる剣が使われる筈。
犠牲者の数は百と七人であるから、どう考えても常人の仕業では無いと思えた。武家屋敷の一角に住んでいる武士がいる。人は彼の事を「弥勒(みろく~菩薩という階級の仏)」と呼んでいるが、自らがそう名乗ったからだと言われている。
おそらく菩薩の身分で、もう少しで仏になるだけの資格があるのだが、あまり人の目に触れた事のない剣士故、謎の部分が多い凄腕という意味のようだ。
得体の知れない殺人鬼と、何時かは弥勒が衝突するのではとの噂は江戸城内にも及んでいる。八代将軍徳川吉宗の耳にも入り、南町奉行の大岡越前にも、厳重な警戒をとの指示が出されている。
此処に至るまでの被害者の数からも何か通常の殺人鬼では無いおそろしい輩で、情け容赦もない無差別な殺人に町人武士を問わず不気味な恐怖感を。
狙われた者は何れも男ばかりで殆どは二本差しの武士や浪人が多かった。弥勒にも其の噂は聞こえていたが、勘のようなもので元旦に出くわせる様な気がしている。
人でないとすれば、鬼か何れにしても尋常のモノではない。一人だけを狙ってきたようでも無いようで、数人が纏めて犠牲になったケースもあった。
鬼には異国の伝説に基づくモノもあり、主に仏には敵わぬものとされている。鬼子母神などもそんな類だ。
現場を見た事のある武士の言葉を借りれば、人を殺す際には殺気というものが感じられる筈というが、その様なものが感ぜられずに、なますでも斬るかの如く次から次へと倒されたとの事。
弥勒も伊達(だて)にそんな名を称している訳では無い。正体は明らかではないがおそらく人では無いのかも知れないとも推測されている。
人でなければ、何とすると聞かるれば、其れこそ鬼か・・其れともまさか・・仏の化身・・いや、この世に何故か現れた仏、そのものでは無いかとも・・。
意外に早くそんな事が起きるのではと、弥勒にはそう思える。城下の各寺では除夜の鐘を打つ準備をしている。
此の国の何処でも同じ事が行われる。そういう時期が迫ってきている。京の都でも数え切れない程の寺々が今か今かと其の時を待ち望んでいる。
弥勒の考えでは、若し、相手が人でなければ同時に各所で同じ事が起きても不思議はないと思っている。
元旦は人々に取り、初詣の機会でもあり、寺社には大勢の人々が訪れる筈。そんな時に恐ろしい事が起きるなど、常人には思いもつかぬ事であった。
だが、若し、其れが現実になれば、犠牲者は多数に及ぶ可能性もある。弥勒は相手の目的は世を混乱させるつもりだけでは無いだろうが、狙うのは町人や一般の武士でも無いと。
其れでは、その狙う相手とはいったい何とするという事になる。百八人目は人類では無いだろう。自らに相応なモノ、つまりはほぼ同じ身分ではと。
殺気が無いというのは人類ではない・・が、餓鬼とも言いきれない。それ以外となれば・・この世に現存するものではないと思われる。
子(ね)の刻とは十一時から一時までを指すのだが、
子の刻になり、全国の各寺々の鐘を打つ準備が整った頃、本来は寺ごとに十一時から打つところもあり、其の数も百八つとは決まっていなく二百打つ寺もある。
ところが、何故か、其の日は丁度零時から一斉に打ち鳴らされた。その前におかしな現象が起きた。
風が吹き始め次第に強風になっていく。鐘を打つ頃には人が歩いていられない程の強さになっている。
其れで、初詣を諦めるという人々が出始めたが其れは正解だろう。とても人が歩けぬ中でこそ、やって来る者がある。
何かが、やって来る。人類も知らぬ、誰も見た事の無い何かがやって来る。
弥勒は何時もと変わらぬ着物で表に出、歩き出す。通常ならば人では歩けない筈だが、弥勒にはさもない事。どうやら人であらずのよう・・。
寺の鐘を打つにもあまりの強風故、立つ事さえ叶わぬ僧侶を尻目に鐘が自らの意思で揺れているかのように一斉に鳴り出した。
幾つか鳴ったあたりで、鐘は遂に繋いである縄も何もかも引きちぎり次々に夜空に舞い上がっていく。
其のさま・・この世と思えぬ程奇怪なり。舞い上がっていく無数の鐘と交差するように舞い降りて来るモノ。
たれの目にも見えぬほど強風なのだが、弥勒には其の舞い降りて来る姿が見えている。
「この世には神や仏など存在しないのだが・・。何故かあるまじきか・・何某かの化身?
待ち受ける弥勒は菩薩の身。例え何者であろうと相手にとり不足無きものと承知の上。
身の丈(たけ)は明らかに大仏程も無い。至極当然とばかりに現れたのは中宮寺の菩薩に似たかのような黒装束の恰も仏然(ほとけぜん)とした姿・・菩薩のよう。
其の身に艶が窺えるのは、夜空に輝く星々の光をすべて集めたかのよう、であらばやはり仏か。
片や弥勒はその身を包む木目が美しく、片手に剣を持つ。仏が実物の剣を持つなど前代未聞。
更に地獄の閻魔でも無くばあり得ぬ形相。だが、地獄などないのだが・・。
天が無くれば地も無い事、少しもおかしくあらず。
其れでは、どうして菩薩同士の争いになるのかと言えば、互いにまだ五十二のレベルに達していない、つまり、其れを達すれば仏の中で最高位と言える如来。
一から五十一の段階までは全て菩薩。菩薩の中にして弥勒あり。目前に構えているもの、此れも菩薩にして、名は十一面千手観音。
弥勒は未來仏と言われ本来は釈迦の死後五十六億七千万年後に現れると言われている救世菩薩。
対するは、「大慈大悲」の象徴、此の国にて現世利益追求と結びつけらているもの。
観音の種類は無数にある。
双方とも位置するは五十一段階、何方が先に如来になるかというところ。だが、其れだけが戦いの目的では無い。
人類は怨念その他何某かの理由があり争う事になるが常。ところが、弥勒には舞い降りて来るモノが同じ階級だとは言え、全く敵対心なぞ無ければ怨念すら無い。
人にはとてつもない業というものが存在するのだが、やって来るモノや弥勒にはその様な因果など無い。
只、何方が先んじ相手を倒すのかなど嫌でも決着がつく事。
であるから、何故(なにゆえ)に?と尋ねられようとも返答しようもないのだが、只管(ひたすら)こじつければ、紛れもなく同等の力を持っているとだけ。
それ故、人類の信奉するものはその様な輩のみにあらず、今、此処に火花を散らしているとして非にあらず。
舞い降りて来た観音。観音は幾らも存在するように、変幻自在。
一体どれが本当の観音かなど考えずとも、全て本物。
弥勒も人々から崇められる存在であり、其の美しさは他の仏の憧れでもある。
先ず、先に千の顔が闇から現れたが恐ろしい面相。
仏は尋常ではない眼力というものを持つ。其れで、相手の心中を全て読み取る事が可能。
其れで人の願いも分かるし苦痛も癒す事が出来るというのだが・・果たして如何に・・。
其れが可能なのは人類の様な読み違いというものを持ち合わせていない慈悲が本来なのだが。
慈悲は逆に考えれば、全てを読み取る事のできる故に恐怖を持たらすとも言える。
何もかも承知の観音に如何なる武士と雖も敵おう筈も無い。
観音から念が発せられたが、弥勒に動揺は見られない。
同様の念は弥勒も送っている。
宙に、色の異なる眩い光が衝突し空間が歪む。其の衝突のすざましさは津々浦々に響き渡った。
多くの鐘が、更に宙に舞いあがると、宙が暗くなる程である。
其の大小の鐘が音を一斉に地や空に鳴り響かせる。其れだけで全国のあらゆる建物・建造物が気の振動を受け次々に崩れ落ちていく。
音は幾つも重なり辺り一面に拡がり、鼓膜が破れんばかり。
幾万もの鐘が上え下えと舞い踊りながら音(ね)をかき鳴らせば、地で崩れ落ちるものの騒音に舞い上がる粉塵で何も見えなくなっている。
宙も地も本来の静けさなど、何処かに置き忘れてきたかのようで、只、混沌あるのみ。
互いの存在は二体の菩薩故良く見え、視界に異常はない。
あまり強過ぎる観音の念が空間を歪ませ、惑星さえも歪まんとするほどの念力は、弥勒を吹きとばさんとばかり。
弥勒の身体が粉々に崩れていき、素粒子の様にほぼ見えない極小物と化していく。
観音は無数の顔に・・更に・・無数に数え切れない巨大な手で宙や地を掻きまわす。如何に細かに分裂した粒子状であっても・・容赦はしない。
油断が出来ないから・・完全に消滅させるまでは、その力に手加減など無用だ。粒子を消滅させるには、幾つもの手が握っている無数の剣で更に切り刻み一切の姿を消滅させんと考える観音。
剣といっても通常の脆刀(もろば)では無い。あり得ないような素材の鋭い刃が粒子さえも簀の子の様に分断し始める。
何の抵抗も無いまま・・勝負はつくのか・・?
其処から、何もしていなかった弥勒が・・待ち受けていた様に・・宙に浮かぶ無数の鐘を寄せ集め始める。
二体が対したのは、百七の犠牲者の後の事。
つまりは、この世に存在する煩悩の数は百八。
その時期を待っていたのが弥勒の方。
観音は只、只管、我が力を百七の相手に浴びせて来た。
その先は・・つまり・・煩悩が存在するのは百八。其れであれば無いものまでを退治する事は出来ない。
ところが、最後に残った一つ。此れが弥勒の強力な武器となる。無数の鐘が寄せ集まれば元々煩悩を追い払うだけの力を込めている鐘の音が・・鳴り響く。
観音の無数の顔や剣を目掛け鐘が衝突し、其の音はそれらを消滅させようとの弥勒の指示でぶつかっては色取り取りの火花を散らす。
光の温度や強度は色によっても分かる。周波数としてもしかり。つまり、あらゆる強度・周波数で攻撃を仕掛けた。
鐘に任せておくだけではない。持っていた剣が腐る。弥勒の粒子が見えない速度で集結していく。
元々、弥勒は遥かな・・釈迦の死後五十六億七千万年後に現れる筈の救世菩薩。
其の年数を経て来た力は尋常ではない。今、一挙に其の時間を飛び越えて来た遥かに光速を超える速度で観音に剣を振り回す。
観音の油断であった。
恰も、いとも簡単に消滅したと思わせ、持てる力を発揮する。救世主などと言う言葉は人類が考えたもの。
ところが、実際に結果は、この世の煩悩の最後の一つの力を我が力で無限に大きくし、持てる剣の威力として発揮された。
煩悩は人類が生み出した中でも手に負えない最悪の類。其れをいとも簡単に応用しようとは弥勒の弥勒たる所以(ゆえん)。
つんざくような轟音と全く見えない程の光速を超えたモノの威力は、再び空間を歪め・・観音の姿を残したまま・・千以上の顔に千以上の手の動きを止めた。
観音は弥勒を消滅せんと図り・・衰退していく。弥勒は観音を消滅させようとはしない。
相手の持てる力を反射させたいからだ。仏の二体の勝負は思い掛けない結果と相成る。
弥勒は二本差しの姿に戻ると何も無かった様に歩き始める。
もうじき子の刻も終了する。百八つの最後の音が聞こえて来る。
誰にも一体何が起きたのかは分かりようもない。人類業(わざ)では無い仏同士の、捨て身の争い。この世に仏も何も無い・・。
だが、何故か、現に、未だ二体の仏の姿は存在する。其れも如来の手前で起きた出来事。
限界の位で菩薩として、其々の全能力の限りを尽くして争った事は、例え、釈迦でさえも知り得ぬ事・。
人類の目には見えない観音の目から、色などの無い涙が流れ落ちていた事など誰も知りようが無い。
そして、弥勒像は未だに台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿で、まるで争いの事などとんと忘れてしまったのか・・穏やかな表情をしている。が、まさか、最強の戦士だとは・・。
二本差しの弥勒は相も変わらず屋敷への道を歩いている。
未だに百八つの鐘は、巷に響き渡っているのだが、其れを聴きながら一瞬立ち止まると笑みを浮かべたのだが・・。雪がチラつき始めている。本降りになりそうだ・・。
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「Snow Arranged by europe123」
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弥勒と観音・・そして・・百八つ・・。
百七人が消滅した。
其の強敵は・・弥勒という者が倒した。