幻想悲曲 第三幕一場

(だけどそもそも、私が何かをしようということの方がおこがましいのかもしれない。なぜなら…… あの子の言った通り、私は何も知らなかったんだから)エノイッサは、司祭から聞いた「このことは誰も知らない」というマリアのものだという言葉を反芻したのだった。あの子が? 本当にそんなことを言ったのだろうか?(だけど実際、私が何を知っていたというんだろう!? あそこで何が起こっていたかなんて…… そんなの、ええ、知ったこっちゃないわ! 別に、知りたいとも思わないし! …… だって、考えるだに恐ろしいじゃないか…… あんなもの!)怒ったようにため息をついた。それは、自分がこれほど思い悩んでいるのが誰か他の人間のせいだとでも言わんばかりなのであった。(でも、それなら私でなくたっていいじゃないか。誰か他の人でいいじゃないか。そうよ…… 何も知らずに、寝台の上で寝息を発てていたこんなでくのぼうよりも、もっと他に誰か…… 良い人がいるはずなんだから)それはかすかな期待だったろうか。言葉通りの問いかけであったろうか? しかしそこには、自らの持つこの感情の重荷―それは幻想に過ぎなかったかもしれないが―を、誰か別の人間に手渡してしまいたいという欲望も混じっていたように思われるのである。(でも誰に?…… そもそもこんな馬鹿げたことを、誰かに頼ろうっていうのだろうか、私は…… それで、一体何て言うの。「魔女を釈放してください」、「牢破りを試みた友人を助けてやってください」…… ですって? あっは!)彼女は、自分を思いっきりあざ笑ってみせた。(そんなこと、そんなたまげたこと! ああ、そんなことしたら私だって捕まるかもしれない)しかし、それはまたいつもの臆病な、卑怯な考えかもしれなかったのである…… (卑怯? ひきょうかしら……? ああ、いいわ! それならやってやろうじゃないの! 誰も頼りに出来ないのであれば、私一人で! 一人で出来ることならなんだってしてみせる…… それなら、私一人で、あの人たちを牢獄から解放して……)だが、ここでエノイッサは突如ひひと嗤った。目尻に溜まった涙が、夜暗い路地の奥で、どこからくるやも分からない仄かな光に閃いて見えた。
「馬鹿ね、あなた…… 牢破りなんて、万に一つも成功しない。それは、もう分かり切ったことじゃないか…… 
 尼僧は呟いた。じっと、恐ろしい何かを見つめるような瞳、不安に慄く彼女の浅黒い面皮の表で、唇は半ば諧謔するふうに歪みながら鋭い三日月を象ったのである。頬はその奥底から、歯のぶつかり合う耳障りな音を発てながら震撼した。彼女が思ったところによると、結局、自分には何も出来ないらしいというのだった。(一体何が間違っていたのだろう。こんなことになるなんて…… マリアを止めてさえいれば…… こんなに恐ろしいことにはならなかったのかもしれない。いや、だけどそうするとあの人たちは…… 一体どうなっただろう? 私たちは、あの人たちをあのままにしておいて良かったのだろうか?)だがこんなことは考えるだけ無駄なのかもしれない…… なぜならエノイッサは、あの時何をしたってそのままびくびくとして動かなかっただろうし、マリアはどんなにしたってあれと同じことをしたに違いなかったからである。(そうだ、それならひょっとすると…… そもそもの始めからすべてが誤りだったのではないか? どうせこうなることだったに違いないのなら…… そうじゃないかしら? すべてが、あらかじめ決められていたことだとしたら…… ああ、それなら、こんなこと! こんな馬鹿げたことってあるだろうか!)
 急に、青白く鋭い光が、尼僧の頭のてっぺんから爪先までをさっと刺し貫いた。それは冷たく焼け付いた月光の一瞥であった。エノイッサは背の高い建物たちの織り成す石の回廊をくぐり抜けて広場に出たから、月のぎらぎらとした哄笑をまともに浴びたのである。こちらの表情を真っ二つに裂くような鋭い月光の一瞥、それを覗き上げるように、尼僧は顎を高く突き上げてみせた。彼女の眼瞼には、月光によって幾重にもわたる黒い隈が縁取られていた。それは宙空にさしかかった月、世の有象無象を白銀によって染め上げる狂気なのであった。彼女の瞳の中をさっと蒼白い焔が迸った―この押さえつけられたような厳かな静寂の中を、その孤独な睥睨はさっと駆け抜けていく…… 
 月のもたらす狂気は蒼白く、修道院の屋根を盛んに燃え立たせていて、それはこの夜を司る不気味な暑気と混ざり合いながら、そこらじゅうに朦気のように立ちこめていたのである。単一の色彩が針葉樹の大群のように押し寄せるぎらついた世界、針のような触覚が網膜を苛んでくるこの異様な光景は、常によくこの建物を見知った者をして、道ばたにその足を止めさせたのである。(ああ…… 帰ってきたのだ、私は…… しかし…… なんだって私はこんな所にのこのこと戻ってこれなんかしたのだろう!?)エノイッサの頬は奇妙な苛立にびくびくと震えた。身はぐっと反り返り、白銀に燃え立つ屋根をその瞳でもってじっと見据えていた。(あの時、私がここの閾をまたいだ時…… 何か決然としたものがあったはずではなかったろうか? ひょっとすると私は…… もう二度とこんなところへは戻ってこまいと、そんなことすら朧げに感じていたのではなかったろうか?)こんな夜更けだから、建物の中では彼女のよく見知った尼僧たちが既に寝息を発てていることだろう。(誰かここにいるからだろうか…… ここではそれが確からしいと、私は知っているからだろうか?)自嘲気味に嗤って、(だけど、それで一体どうするのだろう? ここに誰かいることが確からしいとして、それで私はどうするつもりだったというのだろう? こんな所にのこのこと戻ってきたりなんかして…… 頼み事でもするつもりだったのか…… ああ、そんなこと、考えたって何にもならないのに)
 エノイッサは建物の内部に入り込んだ。こんな夜更けまで外でうろうろとしていた尼僧が、出て来た時よりも人目をはばからずに帰ってこられたのも、大方の姉妹たちは既に寝入って間抜けな寝息を発てていることだろうという確信があったからで、誰にもこの行いを見咎められたりすることはないと思われたからである。しかし…… この際、そんなことはどうでもよいことなのであった。なぜなら、意図して人目をはばかる人間が、これほど無遠慮な足音を発てるものだろうか? だいたい、もし誰かに見咎められることがあるとしたところで、彼女はいつも以上にふてぶてしく、腐り切った尊大な態度で開き直り、相手に臨むに決まっている。彼女はなんだか妙に苛々とした、何かがひっきりなしに癪に触っているようなそんな足音を発てていたのである。そのやかましい足音で街中の人間の目を醒さしてやろうというような悪意さえそこにはこもっているかに思えたのだった。
 修道院の中は明るかった―窓より差し込んだ月光が、床の隅々までに仄蒼白く染み渡っていたので。エノイッサはひょいひょいと廊下を渡るようにして歩くと、修道院長室の部屋の前に来たのだった。なぜそんなことを思ったのかは分からないが、彼女はまず修道院長であるジャンヌに会おうと決めたのだった。…… しかし、会って何をするって? あんな色情狂に。何かそれこそ重大な、切羽詰まった頼み事でもするっていうんだろうか? とにもかくにも、エノイッサは部屋の扉を叩いたのである……
「姉さん……」
と、扉を開けて、部屋の中に頭を突っ込み問いかけてはみたものの、果たしてそこには誰もいなかった。彼女はもう寝室に帰って寝たのだろうか? いつもならここで何か書き物をしたり、いやな妄想にふけっているような時間である…… 灯は消されていたが、部屋の中央に置かれた机の上には書類やペン、開かれたままになっている大きな書物―おそらく聖書かそれに関する著作物のなにか―がそれとなく見えた。机の後ろに、椅子の背もたれが見えていたが、エノイッサは今日の昼の出来事を思い出して、なんだかそこに司祭が座っているような感覚を覚えた。
―彼女はもう戻らないよ。
と、耳に聞こえた気がした。エノイッサははっとして、身を強ばらせた。そこをじいっと見つめて、自分の聞いた声の主を探そうと、そして自分の今しがた聞いた言葉の意味を根掘り葉掘り聞き出してやろうと、躍起になった。しかし、それは幻に違いなかった。司祭などそこには影も形もあるはずはなく、無言で机の裏から顔を突き出している背もたれが、その空想の虚しさを尼僧に悟らせたのである。
「まあ、あなた…… エノイッサじゃないの!」
 背後から声かけられて、エノイッサは飛び上がったー将棋盤を下から突き上げられて高く跳ね上がった駒のように。にわかに動悸は急き立てられた―いやな汗が出るくらいに。振り返ってみると、声の主はカタリナとかいう年増の尼僧だった。あれだけ驚いたエノイッサにしてみても、カタリナがここにいる理由はもう分かる過ぎるほど分かっていた…… 暗い建物の中を、誰かが夜に足を忍ばせて歩いていれば、ごそごそと寝床から這い出してわざわざ見に出かける、こいつはそんなことが大好きである…… カタリナはエノイッサの肩に手をかけて、自分の方を向かせようとした。
「どうしたのよ? こんな夜中に…… 晩禱にもいなかったじゃない、あなた。今までいったいどこにいたの」
カタリナは小声で言った。(まったく)エノイッサは大きな嘆息を吐いた(こいつら尼僧は―教会に勤める連中というのは、自分の足音をかき消してしまう術を本当によく心得ているものだ! どいつもこいつもお上品ぶるのだから。本当に…… 驚かせやがって)。
「まあ、あなた、酒臭いわね!」
 年増の尼僧は鼻を手でつまみながら、こちらを突き放した。エノイッサは、ふらふらと左右に体を揺らせながら二、三歩後ずさりして壁にもたれかかった。
「なんてやつなの! ふらふらするまで飲んで…… 今までどこかに行っていたのはひょっとして、その、お馬鹿さんたちの仲間入りをするためだったの? まったく、品行方正な修道女様ね! なんということ、酩酊して…… 本当に…… 馬鹿じゃないの、あなた?」
 カタリナは侮蔑を含んだ眼差しでこちらをじろじろと眺めたのだった。
「あなたの知ったことじゃないわね…… ええ、そうよ! 知ったことじゃないわ!」
と、エノイッサはいらいらして叫んだ、ついでに彼女は暗闇に閉ざされた修道院長室の中を勢い良く指差しながら、
「ところで、あの馬鹿はどこへ行ったのよ? あの修道院長…… あの淫売、ジャンヌ、こんな夜中に…… 一体どこをほっつき歩いているのかしら」
「さあ、私が知るわけないでしょうよ」
 年増のカタリナは、蔑みのちらちらと見え隠れする瞳でエノイッサの頭のてっぺんから足の爪先までをさっと一撫でした。どうやら彼女には、あえて口に出す程のことでもないが、言いたいことがあるらしかった。「私はね……」と、カタリナは言った、
「あなたのけたたましい足音が寄宿棟にまで聞こえて来たから、様子を見に来たわけよ…… こんな夜中に修道院をうろうろする不届き者は一体誰だろう…… …… ってね」
 彼女がこう言ったのを聞くとエノイッサは、
「あたしが…… 不届きものですって?」
と、忌々しそうに顔をしかめた。彼女は追っ手から逃げようとするこそ泥みたいに、身を翻してそこを歩み去ろうとした。だが、カタリナがその手を掴んで引き止めた。
「待ちなさい」
「何よ」
「あなた、またどこへ行こうっていうの? そっちは寝床じゃないでしょ…… またどこかで飲んだくれて、こんどはひっくり返るわよ…… ほんとにみっともない! もうそんなにふらふらなんだから。さあ、早く帰るのよ、あなたは帰るの! 黙っといてやるから、みんなには私の方から口添えして…… まったく、あなたを見つけたのが私で本当によかったこと……」
 しかしエノイッサは聞き入れようとしなかった。彼女は、カタリナの手を乱暴に振り解くと、入り口の方に歩み始めたのである。その何かに取り憑かれたような、偏執的な振る舞いは年増の尼僧を少しぎょっとさせた。エノイッサは相も変わらずつかつかとその横暴な足取りで夜の修道院を震え上がらせたのである。しかし、扉のところまでもう数歩という段になって彼女は急に振り返ると、
「ちょっと、ねえ…… カタリナ。あなたマリアがどこに行ったか知らない?」
と、聞いたのである。カタリナは答えた、
「は、いきなり何よ。それじゃあなたたち、一緒じゃなかったの……  いつもはマリアだけいなくなるのに、今晩はエノイッサもいなくなったから、私たちはてっきり…… だって、仲のいいあなたたちのことなんだから、いつも背中合わせでさ…… だけどあの娘が、マリアがいなくなるなんていつものことよ…… ええ、それに理由だって分かりきっている。この修道院でそれを知らない者は誰もいないわよ…… さあ、馬鹿な真似はやめて、戻っておいで、エノイッサ」
 言葉を聞いて、エノイッサは戦慄したかのように身を強ばらせた。苦悶に表情は歪み、二つの眉が鼻の付け根を締め上げたのだった。(こいつは…… きっと何も知らない! あの娘が何をしたか知らないんだ…… 司祭は何も言っていないな)
 しばし沈黙があったが、
「もういいわ」
と、エノイッサが一方的に別れを告げて、扉の外に出たのだった。エノイッサは、月の放つ白銀の猛火の中に晒された。空を仰ぎ見て苦しそうな表情を浮かべた。(…… いいや、それでいいんだ! 知らなくて良いんだ…… あなたたちは知らない方がいい! 何も知るべきでない…… ここにどれだけの苦しみがあるかなんて、それがたとえ…… 自分たちのすぐ側だったにしても)彼女は相も変わらず耳障りな足音を立てながら―それはまるで、この厳かで残酷な夜に傷跡をつけようとするかのように。(だけど…… いったいどうしてだろう、なぜ泰然としていられるのかしら…… 本当に知らないのかな。街も人も、まるでここで起こっていることに興味がないみたいじゃないか……)
 エノイッサは、司祭を探そうと思い始めていた。だがこれは、この場での思いつきというよりはむしろ、本来の欲望に心身を委ねることに違いなかった…… 彼女の心はもうずっと前から、あの司祭―見るのも嫌な司祭に対して向けられていたように感じられるからである。(だが、あいつに、パウロ司祭に会って自分はいったいどうしようというのだろう? 少し前に考えていたような、馬鹿みたいな頼み事をするのだろうか? 「魔女を釈放してください」、「牢破りを試みた友人を助けてやってください」…… そんなこと、ありえない! …… あの司祭のことだ、鼻で笑うか、軽蔑に燃えるような瞳で私を見下すだけだろう…… じゃあ、私があいつに会うっていったい何のために…… 自分のありったけの感情をぶちまけるため…… ああ、それもいいわね…… いい気味だ。だけど、実際に会ってみて、それでもそんな狂ったような真似ができるものかしら…… この私に)多分、通常であれば司祭職に就く人間はもう寝息を立てているような時刻であったのだが―夜十時だった―エノイッサにしてみれば、そんなことお構い無しなのであった。だって、こうした場合…… そのようなことなど、本当に些細なことではないだろうか? 誰が寝てようが、そんなことが果たして問題になるだろうか…… あれほど残酷な目にあっている人間がいるというのに。

 街の暗い通りの壁に置かれた燈火によって、建物や商店の看板など、すなわち街の有象無象の一切はここで闇の中に淡く浮かび上がった。だが、それら本来の白や赤や茶といった色彩はそこになく、影の威力による黒を我々の前に拡げてみせていた。深夜の街はその力でもって距立し、四方から圧迫しようと試みているのであった。まるで、ここを歩く人間の心の中に潜む欲望を見透かして、咎め立てし、どこか明るい別の場所へ追いやろうとするみたいに。だがそれは―自分がうしろめたく思うことによって懲罰のようにも感じられるその忌避的な感情は、怪物のようにも見えるこれら黒い影たちの持つ優しさによることかもしれなかった―人は、必要に迫られるか、欲望によってかき立てられでもしないとこんな時間に街をうろちょろとしないものだからである。ひょっとすると、それは彼らによるこちらの良心の喚起であるかもしれなかった。こちらが思い直すことを期待しているのかもしれない。だからきっと、我々を夜の営みから追い出さんとする力―生活的な、習慣の力がこの時の尼僧にも働いていたに違いないのである。だけど、それがいったい何になっただろう。しかしそれにしても、そうして喚起された心など、急な激情に駆り立てられた人間の歩みを押しとどめることなどできるものだろうか。それはきっと、そんな良心など、頭の中で考えとなって浮かぶ前に覆い隠されてしまうに違いない…… というよりもはや、切迫した胸の鼓動を聞きながら、自分の逃げ込む場所はここにしかない、この影の世界にしかないと、朧げながらも人は感じるかもしれないのである…… たとえそれが、妄執であるにしても。尼僧エノイッサはまた、どこかに逃げ込もうとするかのような、そうした強迫的な足音を轟かせていた。
「司祭館だ…… きっとあそこにいるに違いない」
 彼女は呟いた。その足取りは決然とし始めた―人目もはばからずに。もっとも、このような時刻に通りを歩く人間など見当たりはしないのだが。彼女は街のほぼ中央に位置する大きな広場に出てきた。
 広場の向こうには巨大な円筒形の聖堂が距立していた。陽光に白く煌めく石壁も、夜にはそれが灰を塗りたくったように―路地の洞窟を抜け、月の笑う広場に出ると、大聖堂の容貌はいよいよはっきりとしてきたのである。
 この大聖堂が建立されてからはまだ一世紀も経ておらず、建物の正面はいまだ手つかずのまま放置されている。様々な建築様式が用いられてしまったことに拠って、当世風とも呼べない奇妙な容貌を表わしているのは、この都の芸術の凋落ぶりをよく表わすものだ。そして、この奇妙な風体は暗闇の中で不気味に変化していた。大昔から、様々な芸術家たちが、悪魔の姿をいかにも滑稽極まりない戯画として描き、楽しみ親しんできたことはよく知られているが、この大聖堂が暗闇に浮かび上がる姿は、まさしくそうしたものを思い起こさせる性質のものがあり、正面になんら装飾もされてない当時としては無様なたたずまいが滑稽であるが故に、戯画として書かれたような悪魔を思わせるのだった。この悪魔―広場の暗闇の向こうにいる悪魔は、正面から見れば、屋根から天に向けて高らかな角を二本生やして、月下でもそうと分かる血を吸ったようにどす黒い頭巾を被り、地底から人間たちの様子を探ろうとするかのように突き出したその面に―大聖堂は鳥瞰すれば方形をしていたが―硝子によってはめ込まれた虚ろな瞳を幾つも開いていた。この醜い化け物が、広場の向こうから、大口を開けたようにしてこちらを見つめている…… エノイッサは奇妙な胸苦しさを覚えたのであったけれども、それはここで立ち止まったり、元来た道を引き返したりする理由とはならなかった。広場に危険な浮浪者が寝ているのではないかということは、考えすらしなかった…… いや、そのことはそれとなく考えはしたかもしれない―だが、もっと大きな危険―自分の友人を脅かす危険、破壊をもたらす炎の危険によって、それはすぐさま取って代わられたようなのである。エノイッサはまっすぐ広場を突っ切って、大聖堂の扉口に近づいた。(誰かいるかしら……? いや、誰もいない方がいいかもしれない。そうすれば、こんな馬鹿げたこと……)彼女は扉を開こうと試みたが、予想通りそれは施錠されていた。(こんなこと、分かり切ったことだ……)エノイッサはしばらく黙ったまま、扉を見るともなしに凝視していたが、不意にさっとそこを飛び退いて正面玄関の階段に座り込むと、頭を抱え込んだのだった。(ああ! …… どうしたもんだろう! この期に及んで…… いい加減、馬鹿な考えはやめて、帰って寝た方がためじゃないかしら……? そうすれば、明日からまたいつも通り……)
四半時間ほどそうしていたらしい…… 彼女はやっと立ち上がると、修道院に返る道を選ばずに、大聖堂に隣接された棟を伝いながら、司祭を探す歩みを再開したのである。(いや、会ってしまおう…… 会って、何もかも話してしまおう)だが実は、エノイッサはこの建物のどこかにあるかもしれない司祭室の在りかを知らなかった…… まずはそれを突き止めねばならない。司祭の所在が最も確からしい場所に出向かわなくては、まったく、お話にならないではないか。しかし彼女は、全くのでたらめに行為をしているわけでもなかった―なぜなら、ここは自分のよく見知った教会や修道院と同会に属する場所であり、それらと同一の宗教的意義と秩序を据えて造られた建物であるから、彼女にとっても、その全体像の把握とまではいかなくても、おおよその見当をつけることはできたのである。エノイッサは建物の外を行ったり来たりしながら、明かりの覗く窓はないかと物色してみたのだった。そうして大聖堂の別棟の外壁を数周行ったり来たりした。だがある時、曲がり角を曲がったその際に、彼女は、どうやら寝ずの番をしていたらしい一人の僧侶とばったり出くわしたのである。
「何ですか? あなたは……」
 彼はいかにも訝しげに―こちらに質問するというよりむしろ―それはこの奇妙な遭遇に対する感想が素直に口に登ってしまったものらしかった。
「私は尼僧です、そんなことくらい、見りゃ分かるでしょ…… 」
 エノイッサがそう言うと彼は黙した。その彼の携えた燈火が、二人の影を大きくして、背後で相対させているように浮かび上がらせていた。彼はよくわからない、といった様子でお手上げの仕草をやってみせた。
「物音がしていたから見に来たんですよ、そしたら、尼僧服の影がさっと横切ったものだから…… 幽霊か、それとも悪魔の類かと思った! でもなんでこんな時刻に、ここへ……? 被り物も被らずに。場合によっては、あなた……」
「いいえ、違います!」
 エノイッサは相手が言い終るのを前に遮った、
「断じて違います……  私はその、何か悪いことをしようとか、そういうことのためにここをうろうろしている訳じゃありません。あなたは、こんな時間に尼僧が自分の修道院で寝てないで、街中をひとっ飛びして大聖堂にやってくるのが、おかしいことだって言うんでしょう? 何なら私、言ってしまいますけど、これが恥ずべきことだっていうことくらい自分にだって分かっています…… ええ、分かっていますよ! それは本当です。だけど、確かにこれは恥ずべきことだけれど、これにはちゃんとした理由があるんです…… とっても大事な理由が。その、だから…… 司祭に会わせてもらえませんか?」
「なんだって?」
 相手は明らかに驚いたふうにしてみせた。燈火を掲げて、エノイッサの顔を間近で照らし付けた。彼女は思わず瞳を伏せがちにして、顔を反らせたが、それでも眩しいのは変わらない…… どうやら彼女は彼―この年若い僧侶の疑惑の念に火を点したみたいである。彼は、明らかな猜疑心で以てこちらを睥睨するかのようである。エノイッサは、瞳を伏せたままで言葉を続けた。
「司祭を、パウロ司祭を探しているんです、私は……」
「何を言っているんですか、あなたは…… こんな時間に、司祭は誰ともお会いになりませんよ。それに多分…… もうお休みでしょう」
「なんとか、とりなしていただけませんか…… 私のために」
「急いでいるんですか、あなたは?」
 エノイッサは、ちょっと言葉に詰まった後で、「はい、はい……」と、何度も頷いて見せた。相手はこちらをじろじろと眺め回した後、
「今日はひとまず帰りなさい」
と、答えたのだった。尼僧は自らを急き立てて、
「お願いです、司祭に『エノイッサがあなたに会いたがっている』ととりなしてください、それだけでいいのです…… そうすれば……」
「エノイッサ……」
 相手は、こちらの名を何か思案げに呟いた。
「それじゃあ聞きますけれども、その…… あなたが彼に会いたいというその用件は一体なんですか? 私もそれが分からない以上は、なんともできませんね」
 エノイッサは少しどきりとした。本当におかしなことだが、彼女は今の今まで、自分にそうした質問が浴びせられるものとは考えてもみなかったのである。
「こんな夜更けにここまでやってきて、外はもうみんな真っ暗だというのに、それでも司祭に会いたいというその理由はなんですかね? その、あなた、それは…… 不穏ですよ」
 エノイッサはこの時彼の顔をじっと見つめて、それで初めて気が付いたのだが、相手の僧侶は何やらいやらしい、蔑むような薄笑いをその表情にたたえていたのである。拙い彫刻のようないびつな輪郭と、禁欲の果てに磨かれ尽くしたような石のように無機質な肌…… だが、その頬は何やら興奮にぱっと赤みがかっているようにも感じられた。それがとりわけ奇妙というか、尼僧にとっては不気味だった。(…… 言うのか? 言ってしまうのか? この男に、私が司祭に会ってどうするかって…… ああ、そんなこと、考えるまでもないじゃないか! だけど、こいつ、この男は……)エノイッサは全身に震えが走るのを感じた。実を言うと彼女も本心では、自分がここへ何をしに来たか口に出して言ってしまいたいのかもしれなかった―そんな欲望は微塵にしろ存在していたのかもしれない。だが、この瞬間、刹那的に自らを覆い尽くした警戒にも似た戦慄が、その欲望を―もしそれがあったとしたら―吹き払ってしまったようなのである。エノイッサは思わず後ずさりした。彼女はこうした相手の表情、男が自分を見つめる場合に時折ちらつかせる表情、この得体の知れない不気味な表情をよく見知っていたからである。エノイッサが飛び退くようにして後ろへ下がったのを追いかけるようにして、「ちょっと待って」と、相手の僧侶はぬっとして顔を突き出し、こちらの手を握ってきたのだった。
「さっきは〈今夜はもう帰れ〉などと言いましたが…… あれは間違いです。ええ、私には考えがなかった…… だってこんな夜更けです、一人で修道院に帰るのは危ない…… そうは思いませんか? あなたはマリア修道院から来たんですよね、まったく、驚いたものです…… ここからは少し離れている。これまではどうやら無事だったみたいだが…… どうです、一人でこの暗い街中を帰るのは危ないと思いませんか?」
と、男は言った。エノイッサはなんだかまごついてしまった、相手の言わんとしていることがなんとなく察せられたからである。それにしても…… どうしていつもこうなのだろう! 僧侶である彼が自分に対して媚を売ろうとしているのはもう分かり過ぎるほど分かっていた。それは、そのおずおずとした、だが図々しい言葉に現れていた。こうした時、この男のような連中は、いかにも自分の言うことが最もらしいと思わせることによって―論理的なふうにみせて人を欺こうとするものである…… それがいかに拙い装飾や罠であっても、あたかも心底にあるものが看破されても構わない、むしろそれを悟って欲しいと感じてでもいるかのように。彼らは、自分たちがそうしたある意味愚劣とも呼ぶべき行為に及ばざるをえないという事実、情熱の働きによって心を支配されてしまっているという事実こそが、何よりこちらの心を動かすものと信じているかのようだ―
「今日は私の部屋に泊まりなさい。あなただって疲れているでしょう、これはあなたのために言っているんです。大丈夫、だれも見てませんよ、二人きりだから…… 翌朝早いうちに修道院に帰れば……」
「馬鹿なことは考えないでちょうだい!」
 エノイッサは相手がこちらの手を握っているのをはたきながら叫んだ。彼女は憤怒によってさっと頬を赤らめた。相手の僧侶は、その顔をさっと覗き込んで、
「悪魔のようなやつだな!」
 と、思わず罵った。エノイッサは返した、
「ええ、悪魔で結構! 私、帰るから! 自分一人で帰るから! 放っといてちょうだい」
 尼僧は悪態をつきながらその場から離れた。相手の僧侶も同じように、なにやらぐちぐちと口汚い言葉を吐いていた、彼女はそれを遠ざかりながら耳にしていた。エノイッサは広場に面した大聖堂の正面入り口に隠れるようにして逃げ込んだ。顔を出して覗き込んでみれば、燈火の明かりがちらちらと、曲がり角からこちらを覗こうとしていた。どうやら彼は、しばらくそこらを歩き回りながら様子を見ているみたいだった。(一体どうしてこんなに馬鹿げたことになったのか、まったく…… 愚劣じゃないか!)エノイッサは正面入り口脇に縮こまって、しばらく身を潜めることにした。ここなら多分、誰が目の前を通り過ぎても見つかる恐れが少なかった……
 エノイッサは、あんな馬鹿みたいなやつはうっちゃっておいて、無理矢理にでも建物の中に入って司祭を探してやろうなどという気を起こさなかった…… いったいどうしてだろう、それは自分があれほど望んだことではなかったか。彼女はただひたすら「愚劣だ…… こんなこと全部、ふざけている」と心中でのみ罵倒を繰り返していたのである…… (だけど…… ひょっとすると、彼は本当に私のことを心配していたのではないだろうか。まがりなりにも聖職者だもの……)すると、彼女はその時になって、ある重大な事実に気が付いた。思わず飛び上がらんばかりになって、空を仰いだのだった。(彼の誘いを断らなければ、簡単に建物の中に入れただろうし、それから司祭を探すことだって出来たに違いない…… ああ、馬鹿もいいところだ! 私は……)尼僧は頭を抱えた。空では月が真っ黒な夜空の中でぎらぎらと、こちらを嘲るかのように燃え立っていた―それは、まるでその軌跡が目に焼き付くのではないかと思うほどに。(だけど、そんなにうまくいくものだろうか。たとえ言われた通りにしていたとして…… 全部私の思い通りになっただろうか? それに…… あいつと一緒にだなんて…… ああ、考えただけでぞっとする)
彼女は嘲笑的に輝き続ける月に向かって言葉をかけた。
「ああ、あなたはいいわね! ただそうやって私を見下ろして、つーっと空を滑ってりゃそれでいいんだから」
 エノイッサはまた、何やら再び思案を始めたのだった。瞳はしっかりと大きく開かれて正面を見据えていたが、実はそこに何かが映り込んでいたわけでもなく、彼女はただ、自身の前に広がる闇、茫漠たるその深淵に注視していたのである。広場は極めて静かだった…… 時折どこかで鳥のようなものの鳴き声を聞くことがあった。それはまるで、この押さえつけられたような静寂の中にじっと潜んでいた何者かが、静けさの不快な重みに耐えきれず、ついに自身で波紋を呼び起こそうとしているかのような、もっと言えば、自分ではない何者かがそれに応えるのを心待ちにしているかのような、そのような孤独を背負った鳴き声であった。(私は、なぜまた、こんな場所に落ち着いているのだろう。なぜ未練たらしく、ここに腰掛けているのだろう……)それはきっと予感―一つの非現実的な感覚に過ぎなかったが、エノイッサは、何事も徹底することの出来ない自分には、おそらく何事をも成し遂げる力を持てないと感じていた。(いつまでこんな場所にいるつもりかしら? こんなとこに座り込んで…… 無理矢理あそこに入り込んで司祭室に押し掛ける訳でもなく、きっぱりと諦めて寝床に帰るわけでもなく…… 私は一体何がしたいの? これじゃあ元のままだ、行き着く先などありはしない…… もっと決然と、毅然としないと、時間は限られているのだから)エノイッサははっとした。(それじゃ私は、まだあれをやるつもりなんだろうか…… 司祭に会って、思いのたけをぶちまけて…… ああ、そんなことが私にできるものだろうか? 臆病で、逡巡する愚か者の私に…… だけど、ひょっとしたら……)彼女は自嘲気味に笑った。(「ひょっとしたら」…… だなんて! 「ひょっとしたら」だなんて言ったのかしら、私は! こいつは…… まだ望みと失意のうちに揺れ動いているのか! あっは、まったく…… おかしなことだ…… だけど、これは私でなくたって、誰にしたって同じことだ…… そんなことなんてできやしない。…… ああ、でも、あいつは! あの馬鹿なマリアはそんなことをやってみせたのよ)
 眼前に広がるのは、茫漠たる闇の深淵、だが白銀の月によって蒼く単一の色彩に染め上げられ、砂漠に突如として現れた廃墟のようと化してしまった街の情景である―何かがこちらに知られず絶えずどこかに潜み続けているような、瞳を凝らせば、耳を澄ませば、ひょっとしたらそいつを捉えられるのではないかと思わせるような沈黙がそこかしこに反響していて、それらは大群の力でもってこちらの神経を苛み震え上がらせ、時には戦慄すら覚えさせるのである。尼僧は、大聖堂の正面玄関脇に、身を隠し潜むように縮こまっていた…… 餓えた獣が獲物を喰らうとき大口を開けるかのごとく、街の広場は彼女の視界の中で無尽蔵に広がり続けたからである。
 エノイッサは眼前の闇に向かって思念の言葉を投げかけた。泉に石を投げ込むとひと時波紋はわき起こる、だがすぐにそれも収まってしまう、ちょうどそうしたふうに、これは一時心の慰めをもたらすようなことはあったとしても、結局何ももたらすもののないかのような行いなのである。(ねえ、これは絶望じゃないよね……? この闇は…… 私はまだ、望みを抱いているよね? ああ、果たしてこれはいったい、この暗闇はいったい、絶望と呼べるものだろうか! 私は絶望しているだろうか! だって…… なぜこのような場所に座り込んでいるのかしら、私は…… これは絶望の、あの残虐な闇か? 果たしてこれは、あの生命を断ち切るおぞましい、断絶の闇だろうか!?)彼女の睥睨は何かを捉えようとするかのごとく、闇の中を縦横無尽に駆け巡り始めた…… (見えるものはよく分からないけれど、私はここで何かが見つかるのを期待するかのように探し求めている…… 確かに愚の骨頂かもしれない。だけどはっきりと分かるわ、絶望とは、こんな暗闇ではない。それは太陽のように、明らかなものだ! ぎらついて……  徹底して残虐に、神々しい光よ! 望みを断ち切る処刑人の斧の煌めきよ! 生命を焼き尽くす炎の灼熱よ!)彼女はぶるっと体を震わせた。自分が地獄に売り渡した人間たちの最期をそれとなく想起し得たからである。暗闇の中に、彼らの顔が浮かんでくればいいと、自分を責めてくれればいいと、そのようなことさえ感じたかもしれない。(私はいったい、なぜここにいるのか、何のためにこんなことをしているのか? …… あの人たちのため? あらぬ嫌疑をかけられて火あぶりにされる人たちのため? それとも…… マリアのためかしら。そうだ、確かに、それはそうに違いない…… これは多分、マリアのためよ。でもひょっとしたらこれは…… 自分のためかもしれない。もう、あんなことはこりごりだから…… だけど、もしこれが自分のためだっていうんなら、こんなことしていったい何になるっていうんだろう? なんにもならないのに…… こんな馬鹿みたいなことして。だって、殺されるかもしれないじゃないか…… ああ、私はなんでこんなことを考えているんだろう)彼女の瞳の焦点は、次第にふわふわと宙に漂うみたいになって消失してしまい、まるで意志が実体をなくしてしまったかのようなのであった。
 だが突然エノイッサは、何やら広場の隅の方でもぞもぞと蠢いているものを認めた。始めのうちは彼女も、それが自身のうちに潜んでいる鬱屈とした黒い感情が幻視として起こっているのかと思ったくらい唐突に姿を表わしたのであった。だが、それはどうやら広場に住んでいる烏のようである…… 数羽の烏が地をついばみながらそこに行ったり来たりしているのであった。彼らは、広場に捨てられた残飯や、荷車からこぼれ落ちた穀物といったものを狙って、こんな時刻に晩餐を行っているのだろうか? 何かを捕食しているみたいに行ったり来たりしている極めて動物的な、だが機械的にも感じられるそのさまを見ていると、エノイッサは憎悪のようなおぞましさに駆られた。(食べたいのか? …… ええ、食べたいのね、お前たち! だけど、いったいどうして食べなきゃいけないの!? いったい誰に言われてそんなことをしているの!? ここで、そんなみっともないなりをして…… なんでそんなことをしているのか!)出来ることなら、やつらを蹴散らしてやりたいと思った。散々に打ちのめして…… なぜならエノイッサにとって、この烏たちは存在してはいけないものであったから。だって、この厳かな静寂の中で考え事をしている最中に、突如としてあさましく出現した彼らに対して憎悪を抱かないなんてことが果たしてありえるだろうか? なぜならそれは神聖を好む排他的で傲慢な憎悪なのであって、穢れたものを嫌うきっと人間的な欲望のはずである…… 彼女はほとんど立ちあがりかけた。もちろんやつらを蹴り付けるために。しかし、彼女はそれ以上そこから動こうとはしなかった。というより、むしろ動けなかったのである。突然何かに足を縛り付けられでもしたかのように、彼女の肢体はそのまま、立ち上がろうとした姿勢のままで彫像のように動きをやめてしまった。まるで鉛の重りのようなものでもくくりつけられたみたいに、彼女の右足は大地を蹴って跳ね上がろうとはしなかった。そうやって尼僧はしばらくの間、自身の底から湧き上がってくる憎悪に耐えねばならなかったのである。しかし、彼女もついにそうした努力―憎悪が自身のうちで動的な作用をもたらすことを抑制しようと試みる努力をやめてしまったのである。
「あっは!」
 尼僧はいきなり叫んだ。そして、自身の中に溜まった鬱憤を晴らすかのようにぱんと大きく手を叩いた。つんざくようなその音は広場中に反響をもたらして、憎悪とそして嗜虐の、驚くほど調和に富んだうねりをそこかしこに駆けめぐらせた。エノイッサはただ一言しか叫ばなかったが、自身の頭蓋内ではそれが幾度も反芻され、
―あっはっはっは!
と、哄笑が破裂したかのように、その風は吹き荒れていたのである。
 幾羽かの烏たちは驚いたのか、音に吹き飛ばされたかのように飛翔した。だがすぐに降りてきて、また月光に焼け付いたそこらの石畳や建物の屋根に居座って、じっとこちらを眺めているかのようなのだった。
(散々思いあぐねて、見つけたものが烏だなんて! まったく、笑える冗談だわ! でも、ああおかしい…… さあさあ、いいわ、ぐずぐずしてなさい。苦しんで…… ああ、苦しみこそ義務だ。これがあなたの…… ここに座っている以上、あなたは苦しまないといけないよ、エノイッサ!)
 彼女は、正面玄関入り口を縁取る柱に寄りかかったと思うや、そのままずるずると地に崩れ落ちた。彼女は横たわった。陽に褪せたように土気色をしているその唇は半開きになって、空虚な洞穴のようにそこに新たな闇を提示したのだった。しかし眼はしっかりと開かれ、じっと一点を見据えていた。彼女は凝視していたのである。
 しかしそれは…… 一体どのような凝視であっただろう? 尼僧が見つめていたのは、それはどのような一点だったろう? それはこの広場―飢えた獣のように大口を開けて喘ぎ、視界を侵し続けるこの広場の中において、一体どのような意味を持つ一点であったろう? …… ああ、ここはもはやそのような広場ではなかった! 吹き荒れる月光の白銀の猛火によって、単一色に染め上げられていく世界でなかった! 静寂によってぐっと押さえつけられて、ここに存する万物はその重みに抗することを余儀なくされている、そのような不快な沈黙の支配する世界ではなかった! そこは既に、太陽が月のように燃え立つ、あの広場だった! 蒼白い空間はひしめき合う群衆に取って代わられて、不快な沈黙からは焚火の大音量が引き出された。そしてそこに…… 彼がいた、突如として現れたかのように。だがエノイッサは彼が以前からそこに潜んでいたことを知っている…… 火刑柱にくくりつけられた彼! 彼はずっとそこにいた…… あれからずっと、エノイッサの中でそこに居座り続けていたのである! ものを言いたげに、どこかあらぬ方を睨みつけていて…… その足下では焚き火たちが、自分たちが焼いているものがなんであるかを知らずに、それでもなお持続し続ける…… ああ、万物を焼き尽くす彼らにしたって、もしも自分たちの負わされている役目がどのようなものか分かれば、きっとすぐに息絶えてしまうに違いない…… だってこんな残酷、許されていいはずがないだろうから。だけどいったいどうしてこのようなことになったのか…… 地平の果てまで広がりに広がり切った群衆はあることないこと叫んでいた…… それは火刑柱にくくりつけられた彼―哀れな男に対する憐憫だったろうか。それともそれは、当世風の信仰心による憤怒だったろうか。有象無象の叫び声は、哀れな男の断末魔をかき消そうとするかのように吹き荒れた。
―主が望んでいる! 主の思し召しだ!
 ここにおいては、誰しもが慄然としていた。恐怖や信仰心によって支配された群衆の中では、誰も目の前で起きていることに異議を申し立てる者はなかった。いや、あるいはあったかもしれない。しかしそれにしても、まるで惚けたみたいに突っ立って、行き場を失くした得体のしれない感情によって足踏みなんかしたりして、あることないこと喚き立てている、そのような人間たちを見るのはまさしく滑稽であった…… 少なくとも、エノイッサにとってはそうだった。そして彼女は、群衆から少し離れた火刑柱のすぐそばで、黒い煙のすぐかかってしまうようなところで、一際滑稽に、阿呆らしく突っ立っている尼僧服姿の女を認めたのだった。彼女は最初それが誰であるか分からなかった…… いや、多分分からないふりをしようとしたのかもしれない。なぜならそれは、エノイッサ自身だったからである。エノイッサの見つめていた一点とは、かくのごときものだった…… その一点とは、この広場、いまやあの広場と成り果ててしまったこの広場においてかくのごとき意味を持った一点だったのである。自身の行ったことの顛末を、阿呆らしく眺める尼僧…… そのあまりもの残虐さに戦慄して、処刑される人間の断末魔に涙ぐんだりなどして、がちがちと歯を打ち鳴らしながら…… まったく馬鹿じゃないだろうか、こいつは…… ああ、こいつが滑稽でなくてなんだろう!? こいつは、この尼僧はこの街で随一の大馬鹿者じゃないだろうか!
「だけど、ああするしかなかったじゃないか! これしか…… なかったじゃないか!」
 風がそこら中に撒き散らす黒煙、それに燻された尼僧服の鼻をつくような匂…… 今広場から吹いてきて、横たわった彼女の頬をひりひりとまるでからかうみたいに撫でていく夜風は、まさしくあれと同じ風だった。
 エノイッサは、あの時と同じように涙ぐんだ。そして、自分でもよく見知った女の、あの滑稽な立ち姿には笑いを催さずにはおれなかった。腹の底からは極めて嗜虐的な、どす黒い諧謔が溢れ出したのである。(あなたは何をしている……? なぜそこにいる? 苦しむために? いいえ、なんのためにここにいるの…… おまえは!)次第に尼僧は、間歇的な―だが激しい笑いに身を委ね始めた。こうした時にはよくあることだが、人は笑いの度が過ぎると、自分が一体どうして笑っているのかすら分からなくなってしまうことがある…… そしてその笑いには歯止めが効かなくなり、笑い自体のもたらす心地よさに魔酔され、快楽をそこかしこにみせびらかすみたいに、自身を制するどころかむしろ、そのような馬鹿笑いをもっと大きくしてやろうと度々試みるかのようである…… あたかも、それがこの下劣な笑いを止めるための唯一の手段であるとでもいうかのように。つまるところ、エノイッサは笑い転げたのである。もはや始めの間歇性をかなぐり捨て、よどみなくなったその激しさに、気が変になりそうだった。しかし、このように笑うのはもう何度目だろう? 自己に対する嗜虐心、目の前にある空虚に向かって恥部を好んで見せつけるようなこの笑いは、既に誰しもが知っているように彼女の十八番であった。だが、広場を取り囲む石造りの建物たちのそこかしこにこだまするエノイッサの笑い声は、もはや彼女の笑い声ではないもののようだった。確かにそれは彼女自身のものではあるが、自身ではない誰か―もしくは、そこら中に広がる影の世界に住む彼女自身の亡霊といったものたちが無数にあげる絶叫のようと成り果てていたのである。
 哄笑の渦の中心となってのたうちまわっていたエノイッサは、何かに刺されでもしたかのように突然ぴたりと動きを止めたのだった。それは聴覚による察知であった。哄笑の、その諧謔の渦巻く調和の中に、どこかしら調子外れなものが混じっていたから。もちろん彼女は最初、それは自身の笑い声の渦巻く反響の一部に違いないと思った。しかし、そうと言うにしてはそれは、あまりにも無遠慮に、無頓着に哄笑を侵していたのである。エノイッサはしまいには幻聴を疑ったのだったが、そのような馬鹿げた考えはすぐさま否定された―なぜならそれは、次第に音量を増すことによって、この世界のどこからか聞こえてくるものだと明らかになってきたから。エノイッサの鼓膜は、何者かの声を捉えたのである。(…… 誰か来ている!)彼女は地に手をついて上体を起こし上げると、注意深く辺りを見回し始めた。(…… どうして、誰か来たりなんかするんだろう?)哄笑の名残であるその引き攣ったように歪んだ表情が、月光の中にいくつもの素描となって現れた。(あっは、私に決まっている! あんなに笑ったら、誰か来るに決まってるじゃないか…… まったく! 馬鹿じゃないのか、私は…… どうしよう、真夜中だ! 暴漢かなにかだったら…… 憲兵にしたってめんどくさいわ……)彼女はその場から離れることに決めた。
 まことにおかしな話だが、エノイッサのような手合い―自虐を見せびらかしてしまうような卑屈な連中たちは、どれだけ馬鹿げた振る舞いをしていてもこうした時には頭がさっと切り替わるようになっている。なぜなら、連中が何よりも大事にするのは自分の身の安全であって―自傷に等しい馬鹿げた振る舞いにしたって、実はそれは偽りの狂気であり、自分の身を守ろうとする本能が変わった形で外に現れているだけなのかもしれないのだから。しかしそれにしたって、この際そんな悠長なことを言っている場合だろうか? 自分はおそらくここから離れなければならないのである…… 自分の身を守るのがそれほど悪いことだなんて、考えられない。
 ついに足音が聞こえて来た。(早くここから逃げなければ……)そうして尼僧はすぐさま立ち上がったが、途端に仰天して後ろを振り返ったのである。話し声と足音は彼女の背にしたこの大きな扉の向こうより聞こえてくる―つまり、こちらに近づいて来る人間たちはどうやら大聖堂の中にいるようなのである……
 音源の在りかが判然としたから、エノイッサはすぐさまそこを飛び退いてそそくさと場を離れた。急ぎ足で、だが足音を立てぬように気をつけねばならなかった。尼僧服の裾で風を切りながら、彼女は建物の角のところまできて、そこにちょこんとうずくまって身を潜めた、それはあたかも兎のように。あまり遠くまで逃げて行かなかったのは、もはやそれほどまでに音源が近づいていたからで、事実、エノイッサが身を隠すとほぼ同時に、大扉の開かれる軋んだ音がしたのである…… こうした時にはよくあることだが、彼女は「見つかってはならない」と感じていた。
 精神の高揚と激しい動作によって喘ぎそうだったが、この場合にはそれを抑制しようとする試みが勝った。エノイッサは、自分はうまく隠れおおせているとそれとなく感じたのだった。だが実のところ、彼女はちょうど月光の届かない影になっている建物の角のところにただ座り込んでいただけだったのであって、これで「隠れている」つもりなどとは甚だおかしな話でもあった。するとやがて、正面玄関の方から男たちの話し合う声がした。言うまでもないことだが、尼僧はぎくりとした。
「誰もいないじゃないか」
「いや、確かに広場から聞こえた…… それにしてもどうして、こんな時間に笑い声が聞こえたのだろう? ひょっとして、幽霊かなにかだろうか……」
「そんなわけあるか、確かにここには誰かがいたんだよ! 誰かがここにいて、大声で笑っていたんだよ…… なぜだかは知らないけれども。ねえ、いったいなぜだろう? なぜあんなに笑うことがあったのだろう?」
「そんなことぼくが知るもんか…… だけど、よし、別れて探そう…… あれを知られたとなれば、まずいことになる。もし見られていたとしたら……」
「いや、あれを見られているはずはないと思うんだけどな…… ここの鍵はかかっていたじゃないか」
「いや君はそう言うけれど、よく考えてみることだ…… こんな時間にこんな場所で馬鹿笑いしていたんだ、きっと何か、その…… 特殊な事情があったはずだ。きっとそいつは、何かを見たんだ。何かというのは、それはもちろん…… あれさ。きっとそうに違いない、ぼくの考えではね」
 男はどうやら二人のようであった。話す所によると、彼らは別れて捜索するつもりらしい…… それなら…… ああ、きっとこちらにも来てしまうに違いない! 近くを通られたら必ず見つかってしまうだろう…… 果たして、エノイッサの予感は的中した。足音の一つがこちらに向かってまっすぐに近づいてきた時には、彼女は生きた心地がしなかった。体を強ばらせた―すぐに自分は、この薄暗い影の中から引っ張り出されるものだと思った。彼女はうずくまるようにして隠れていたので何も見なかったが、せわしげな足音と、激しい息づかいが自分のすぐ側を横切っていくのを聞いた。もういよいよだと思ったが―果たして、何も起こらなかったのである! エノイッサは恐る恐る顔を上げてみた。だが、そこに佇んでいる者は誰一人として認められなかった。(通り過ぎたんだ…… 見つからなかったらしい!)このときの拍子抜けした尼僧の表情、おっかなびっくり首を擡げて、惚けたように宙を泳ぐ眼の愚かしさ、弛緩した口元の間抜けさといったら、それこそ並ぶものがないくらい滑稽だった―概して、このような窮地に立たされた人間の、行き過ぎた恐怖心が見せる卑屈さほど馬鹿げたものはこの世に見当たらないからである。彼女は周到に辺りを見回した後で、ぴょこんと兎のように跳ね上がると、慎重に壁を伝い始めた。
 角の所から顔だけ出して、広場を覗き込みきょろきょろしているその様は、まさに穴蔵から抜け出て来た兎のようであった。もしここで、少しでも物音がしたりなんかしたら、彼女は飛び跳ねて驚いたに違いない。しかし、先ほどの大笑いを上げていた頃とはうってかわって、広場には、静寂に静寂を重ねたような沈黙が―深夜に特有のあの荘厳さが立ちこめていたのである。つと大聖堂の正面玄関を見やると、扉が開いたままになっていた―(あいつら…… ここから出て来たんだわ。やっぱり大聖堂の中だった! …… さっきのあの、馬鹿笑いをしていたおばかさんを探しに行ったのかしら…… まったくご苦労なこと!)彼女はそれとなく男たちの会話を思い出したのだった。(…… 知られたらまずいこと、だって? あれって一体なんだろう…… いったい、私が何を見たというのよ)彼女は開かれた扉をじっと見つめた。(あんな馬鹿笑いに、意味なんかないわ、何も…… あるわけないじゃない、特殊な事情なんて)それは好奇心だったかもしれない……(だけど、私がいったい何を見たっていうのだろう)
 このような時には、どれほど鈍い人間であったにしても身に迫る危険を察知しうるくらいの本能を働かせるものである。しかし問題は、そこに好奇心も湧いて来るということだ―いったいここに、何があるのだろう? この開かれた扉の向こうには、一体何が? だけどもし、それが何か良からぬものだったら……? つまり誰かの悪巧みだったりしたら…… たとえば、あの…… 世間で噂になっている黒魔術とか。だけどそれは、馬鹿げた考えであるかもしれない…… そんなおとぎ話みたいなことがあるだろうか? こんなの、まったく常軌を逸した空想に過ぎないではないだろうか。だけど、そうすると男たちの呟きはいったい…… ああ、ここに―このなんの変哲もない夜の大聖堂に、いったい何か変わったことでもあるとでもいうのだろうか?
 たとえ誰であったにしても、こうした好奇心に苛まれることはまぬかれないことであって、何も彼女だけが特別というわけじゃない。こうした時、危険を察知する本能、すなわち逃亡しようとするその意志を手助けするのは切迫した恐怖心である。エノイッサの脚は、広場を横切るべく踏み出されたのだった。しかしそれとは別に、彼女の眼はじっと大聖堂の正面入り口に据えられたままだったのである…… なぜなら、実は臆病者ほどこのような好奇心の罠に陥り易いからなのだった。すなわち、臆病者はその特有の行き過ぎた恐怖心によりかえって、自身の不安を煽り立てるものの正体を暴こうとする欲求に駆られるのである。こうした人間ほど何でも見たがるのはおそらく事実であって、そのもの本来の危険性にも関わらず、正体を見知ることが安寧の一つの保障になるとでもいうかのように、誘惑に陥るのである。彼女にしても、自身のそのような性質はよく知っていたに違いない。思うに、勇敢な者はこうした時には決然として立ち去るのだろうから…… ところで、エノイッサは臆病者であった―次第にその歩みが大きく右に逸れて、開け放たれたままになっている教会の門に近づいていったのが、その何よりの証拠である。(別にいいじゃない、このくらい…… あいつらだって多分すぐに戻ってくるわけないから。だけど、ああ…… 私が一体何を見たというの?)尼僧はそっと大伽藍を覗き込んだ。しかし…… 一体そこに何があったのだろう? 彼女はここで、何を見ようとしたのだろうか? 人の持つ空想の力は時としてその認識にまでおよび、ありうべからざるものを現実の世界に見いだすよう感覚に仕向けることが多々ある。だが、そうした空想のもたらす作用は、現実世界が我々に押し付けてくる圧力には及ばない。往々にして幻視が一瞬しか続かないのはこうしたことに拠るのであって、それがどのような視覚であってもそれと認めるまでにはすでに感覚の中より消え失せてしまっている。…… しからば、彼女が見ようとしたものはなんだったのであろう? …… それは恐ろしいものに違いなかった―いやむしろ、恐ろしくなければならなかった。奸計を働く者、暴漢、暗殺者、怪物、幽霊、悪魔…… 空想の中で蠢く不吉な存在たちの影が、飛び散る火花のようになって掠め過ぎてしまった後には、それらが一体何であったかすら分からなくなってしまっていた。なぜなら彼女の目の前に広がるのはただ茫漠たる空虚な闇で、蝋燭の一本すら灯っていない大聖堂―その外の何ものでもなかったから。エノイッサは、もっとよく見ようとして、大聖堂の玄関口をくぐったのだった。(ここは、大聖堂だ。ただの教会だ…… ほら、何もあるはずがない! だってここは…… 教会なんだから!)こうして、一つの解答を得てしまうとすぐ次の不安がやってくる―自分を探しに飛び出して行った男たちが今すぐここに帰って来てしまったら、などという不安である。見つかってしまったら、いったいどんなことをされるやら分からない…… しかし、この大きな建物はそこかしこに物陰があって、身を隠すにはそれこそうってつけの場所なのだった。考えてみれば、何よりもまずここは最も安全な場所に違い。だってここは教会である…… 教会じゃないか! さっきの男たちが何かよからぬことを考えていたとして、それがいったいなんだろう。このような神前でそのようなこと、そんな不埒なこと…… ここに何かがあるわけない、ここは相も変わらず……  神聖な場所なのであるから!
 今しがた穏やかならぬ出来事があったにも関わらず、彼女は自分の心が少し落ち着きを取り戻したのを感じたのだった。それはこの空間のもたらした効果なのだろうか―ここにいれば大丈夫、とそれとなく感じたのかもしれない。彼女は何かを探すみたいに、そこら辺をしばらくうろうろとしていたが、次第にその足取りは祭壇へと向かっていくのだった。洞窟のような反響をもたらす教会堂建築は、まるで硝子が光を屈折させるかのごとく、ひとつの足音を多くの彩に分離させ、自分ではない別の誰か―それも多くの人間があらゆるところからこちらに向かって歩いてくるかのような錯覚を起こさせた。他のあらゆる存在が沈黙するこの場所では、いたる所に置かれた聖像たちが静かな微笑みによって闖入者を迎え入れ、じっとその足音に聞き入る愉しみに耽ってでもいるかのようである。なぜなら彼らは、夜の今となっては誰からも忘れ去られた存在、悲しみに浸されなければならず、退屈を弄んでいるに違いないから。それは、水没した古代都市において、水上での時の流れを拒否するかのように自身を海中に打ち棄てたままでいる彫刻たちが持ち続けるように頑なで、そして夢見るような静止たちであった。ステンドグラスから入り込む月明かりは蒼白くゆらめいて、ここがまるで水の底、水没した舟の内部でもあるかのように、そこかしこを浸し切っていたのである。この場所は、外界における月光の焼けつくような灼熱の狂気とはまるで違う、厳かな沈黙によって溺れていた。ここはまるで、月明かりの差し込む、睡りに満ちた洞窟―悪意の塊のようなとどろきによって不安を掻き立てる大嵐から、まどろむものたちの睡眠を守る番人のように、外の一切を否定し拒否する力によって満たされていたのだった。
 彼女は祭壇の前までゆっくり歩いて行って立ち止まると、じっと十字架を見上げた。そしてここの一切がそうであるように彼女もまた、さながらこの場所の沈黙に魔睡されてしまったかのように体を停め、そのまま微動だにしなくなった。ステンドグラスから差し込む月明かりが、その頬をさっと刷毛で掃いたかのような淡蒼色に染め上げていた。振り下ろされた十字架の巨大な影が、悩ましげに歪んだ尼僧の眉間を真っ二つに引き裂いて、床にまで叩きつけられたのだった。瞳は熱情的な輝きを帯びてゆらゆらと揺らめき、まるで接吻を求めるかのように僅かに開かれ突き出た唇は、わなわなと震えていた。(一体、これはなんだろう!)叫びださんばかりの独白が、心中に響いた。尼僧の顔は、蒼い月光を浴びてもなおそうと分かるほど、病的な興奮によって赤らんでいた。まるで糾弾するかのような、憎悪に満ちた眼差しをたたえて―しかしそこには、何やら懇願するふうな湿っぽい光も潜んでおり、望まない善意を貪らなければならないかのような、あの依怙地な悲しみも見え隠れしていたのである。実際、彼女は目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。だが果たして、もしも実際それが懇願だとしても、そのような睥睨に応えるものがあっただろうか? そんなものが、果たしてこの場所にあるだろうか? 自分が何かを見つめ続けていたとしたら、きっとそれは虚であるに違いない―尼僧の顔にはたちまち絶望の色がさっと入ってきたようだった。彼女は顔を伏せって地に眼差しを落とすと、やがて、ゆっくりとしたぎこちない動作でその場に跪いた。まるで無理やりにそうさせられでもしたかのように、彼女は膝を折ったのである。
「ああ、どうして、どうして…… 一体どうしてなんだ!」
 尼僧の表情はみるみるうちに紅潮してきた。それから彼女は手を合わせて呟いた、
「どうか私のために…… 哀れな私たちをお救いください…… 残酷に苦しめられる人たちを、どうかこのままにしておかないでください!」
 驚いたことに、それはどうやら祈りの文句であったらしい。だが声音は苛々とした震えによって満たされていて、その場に叩きつけられたかのようだった。果たしてこのように祈るものがあるだろうか……? そこには敬虔な祈りの調子など微塵もなく、 満たされぬ心の哀切、貪欲な渇望のみが含まれていたのである…… それにしても、どうしていきなりこんなことをする気になったのか、エノイッサは自分でも分からなかった。瞳からは熱い涙が溢れ出して、それが床を叩くように迸っていた…… それは、流れ出す心たちの弾けるような叫び声―やがては霧散し、消え入る運命にある魂たちの刹那の咆哮のようにも感じられた。(お願いですから…… )彼女は何度も繰り返した。それにしても、一体どうして、不信心な尼僧が夜の教会で、一人きりでこんなこと―お祈りなんてものをしているのだろう? だって、これは…… ともすれば屈辱的なことではないだろうか…… 跪いたりなんかして…… それで、こんなことをして一体何になるというんだろう? だって、今までだって…… ああ、相も変わらずここは静かだ! ここに、一体何があるというんだろう!? エノイッサの顔は、いつの間にか皮肉で冷笑的な影に乗っ取られていた。彼女がさっと顔を上げると同時に、振り落とされた涙たちは虚にひらめいて見えたのだった。(ほんと……  こんなことしたって何もならないのに!)
だがそのとき、彼女はふと、何やら隅の方にちらちらと閃く光を見出したのである。どきりとして、そのまま固まってしまった。(あれは何だろう?)それは祭壇の横にある司祭準備室の扉だった。僅かに開かれた扉の奥から、何やら光がさしている。それはさながら、何者かがじっとこちらを見つめているような、そんな瞳の持つような魔性の輝きであった。(どうして今まで気づかなかったのだろう? ……  誰かがいるのだろうか、あの奥に……)彼女はもっとよく見ようとして、扉にそっと歩み寄った。その時、一つの考え、ある魅惑的な想念がさっとその脳裏をかすめたのである。(司祭だ! ……  ひょっとしたら、ここに司祭がいるかもしれない!)彼女は、どうしてかは分からないが、それは確かに真実らしいと感じたのだった。喜びのあまり叫びださんばかりであった。しかし扉の向こうに司祭がいるとして、彼はこんな真夜中に、司祭準備室の中にいったいどんな用があるというのだろう? エノイッサは扉を開けて部屋の中を覗いた。そこは狭い部屋だった。隅の方には机が置かれていて、その脇の壁には姿見が立て掛けられている。反対側の壁一面は古めかしい戸棚によって占められていて、聖餐用の細々した道具やら司祭服やらなどが整然と並べられていた。断っておくが、こんなこまごまとした嫌らしい置き方をするのは、ここの司教補佐をしているパウロ司祭より他にありえなかった。たとえあの口喧しい香部屋係であってもここまで馬鹿げたことはしないだろう……  エノイッサはパウロ司祭の人柄をそれとなく思い出しえたのだった。だがそうした部屋の印象―司祭服の香りが漂ってきそうなほど彼の人となりが染み付いた部屋の印象と、先ほど脳裏をかすめた魅惑的な想念とに反して、彼の姿はここになかった。机の上に燃えさしの蝋燭が灯してあって、エノイッサは、自分はどうやらこれに誘われて来たのだなと思った。部屋の外から見たときにはこちらの虹彩を鋭く刺した灯りが、こんな間近で見ると、とてつもない侘しさを散らしているようにも感じられた。彼女はその明るい机のあたりまで行って、しばらく佇んでいた。(どうしたものだろう……)じっと灯りを見つめながら物思いに沈んでいたが、それは静かなものだった。自分の吐息のかかる火が千々切れになり、はたはたと揺らめくのを見て、自分が呼吸していることを今しがたまで失念していたかのように、彼女は、刻一刻と時が脈打つことも、それまで忘れていたかのように、つと顔を上げて瞬きをして、何やら思案げに部屋中をぐるりと見回したのだった。(いったい誰が、こんな夜に灯りをつけて…… やっぱり、司祭かしら? もしかしたらそれとは別の誰かが……)エノイッサは、先ほど大聖堂の中から飛び出して来た男たちのことを考えたのだった。(ああ、早くこんなところおさらばしないと、見つかってはだめだ。そのうち奴らも戻ってくるだろうから……)歩き出そうとしたが、ふと机の脇にある姿見の中を自身の影がさっと横切るのが目に入って、何やら得体の知れない悪寒を感じた。彼女は立ち止まって、じろじろとそれを覗き込んだのである。(まあ! なんてお馬鹿さんなのだろう……  こんなに服をくしゃくしゃにして。それに……)エノイッサは、鏡の映し出す自身の憔悴しきった顔をみてぎょっとしたのだった。あまりにも黒々とした長髪をぼさぼさに振り乱して、何か病魔にでも取り憑かれたかのごとく偏執的に引き攣って半ば紅潮した頰の隅で、瞳がぎらぎらとした光を放つ…… それはまさしく、自分ではないもののように感じられたのだった。しかし驚いたことに―先程口にした葡萄酒の作用かは分からないが―ほの明るい炎に照らし出された顔はちょっと浮腫んで見えて、普段なら痩せこけている尼僧の輪郭を妙に女性的に、もっと言うと魅惑的にも見せていたのである。こんな時、一般的に言って鏡を見るときの女がどんなふうだかは誰しもきっとご存知のことかと思う。なのであまりにも馬鹿げているその様子をことさら詳述することはしまい。葡萄酒と妄執的な想念によって頭がおめでたくなってもなければ、このような時に、このような場所でこのような振る舞いに及ぶことは、いくらエノイッサであってもおそらくなかったであろうから―ましてや誰かに見られているとなると尚更である。ただ一言だけ断っておくと、彼女はにやりと満足げな笑みを浮かべたのだった。(まったく……  誰よ、あなた! 知らない、私はあなたを知らない。だけど…… そうね、悪くないわね)鏡の中にいてこちらと同じように微笑み返してきた女は、このほの暗い灯りの中でぞっとするほど薄気味悪い美しさをたたえていた。そのような自身の影にまるで魅せられてしまったかのように、エノイッサは視覚を貪った。こちらが見つめれば、あちらも見つめてくる―こちらが覗き込むために顔を近づければ、あちらも同様にする―一貫した動作の対称性によって、これはまぎれもない自身の影だということがはっきりしたのだったが、目の前に立ってこちらをじっと覗き込んでいる、狂女のように魅惑的な、だがどこか不快な気を催させる尼僧服を着た女、それはどうやら自分自身ではないような気がするのである。エノイッサは、あちらの鼻先とこちらの鼻先とを突き合わせるように顔をぐっと近づけて、執拗に問うかのごとく、睨みつけたのだった。(これは本当に私なのか? ええ、私なのかしら…… )鏡の中にいる自分の頭のてっぺんからつま先までを、彼女は文字通り嘗め尽くしたのだった。その時不意と、背後の、鏡に映っている戸棚の下に、何やら奇妙なものが目に入ったのである。その正体に気付いたエノイッサは、驚天してそのまま固まってしまった。それは戸棚の下の地面から、何やら半分だけ出た人の顔をした、不気味な置物のようで、鏡越しにこちらを見つめている奇怪な存在だった。その瞳の輝きは、蝋燭の光を受けてちらちらと迸っているかのようにも見えた。そしてそれが、他ならぬその輝きがエノイッサの虹彩を穿つと、不気味な置物のような物体はまごうことなくこちらを見ている人間だということを、こちらにはっきりと知らせてきたのである。
「誰? ねえ、誰……」
 あまりの恐ろしさに、彼女は体が硬直してしまい振り返ってみることができず、鏡を通して呼びかけた。すると、
「どうしてこんなところにいるんだ……」
と、意外なことにそこから言葉が漏れた。突如出現した不気味な……  彼は人間だろうか? まさか喋るだなんて…… エノイッサは何が何やら分からずに一言も発することが出来ないでいると、
「悪いことは言わない、あなた、今すぐここから立ち去りなさい……」
と、声の主は言って、頭を引っ込めてしまった。それから次第に、おそらく彼のものと思われる、どこかへと立ち去るような音が聞こえた。(地下……? 地下室かしら)地の底に響くような足音が次第に深く、遠ざかっていったのである。エノイッサはこの時初めて、鏡を見るのをやめて後ろを振り返って見たのであるが、先ほどは鏡ごしに見つめていた戸棚の下に、何やら小さな穴がぽっかりと開いているのが目に入ったのだった。
「ねえ! 何かしら、これは……  階段じゃないか!」
 尼僧は思わず呟いた。暗くてよく見えないが、それは確かに、階段が棚の下で隠れるみたいに身を潜めているのだった。そして、それは、この階下への入り口を隠すような戸棚の置き方は、ちょっと見ただけでもあまりにも意図的なものと思われた…… これは一体なんだろう? どこへ続くものなのだろう? さっきのあの誰か…… 「今すぐ立ち去れ」と言った何者かは、この奥に行ってしまったのだろうか。エノイッサはふと感じたのだった。ひょっとすると、先ほどの、どうやら私を探しに飛び出してきたらしい男たちは、ここから出てきたのかもしれない…… あっは、みんなひょいひょい飛び出してくる、まるで鼠穴みたいなところだ! エノイッサはしばし不気味なその鼠穴を見つめながら考えた。(……  ええ、どうして私がここに入って行ってはいけないっていうのだろう? だって……  司祭がいるかもしれないのに。本当に? 本当にこんなところに司祭はいるのかしら…… 一体なんのために…… ええ、これはいったいなんだろう?)彼女は自分で確かめてやろうと思ったらしかった。司祭がどうのなどというのは、それは実に口実めいた考えである。尼僧は戸棚の下に潜り込んで、階下へと続く鼠穴の暗闇の中に身を浸した。そこには、かび臭さと湿っぽい冷たさが、それはまるで不快な老女の吐息のように密に充満していた。ぞっとするようなその感触に、思わずエノイッサは鼻孔を袖で隠したのだった。(なんだって私は……  こんなところに降りていかなければならないのだろう?)愚かな尼僧は、充満する不快な匂いに表情を引き攣らせて、足元の暗がりを見つめながら胸中でひとりごちた。しかし、(今すぐ立ち去れって……  誰かが言ったけれど。どうして今すぐにここから立ち去らなければならないのだろう?)と、そのような懐疑心もちらつくのだった。だが、それは懐疑心というよりも、好奇心であったに違いない。エノイッサは爪先でもって足元を探りながら、目に見えない暗闇の底に足場を求めつつ、ひとつひとつ踏みしめるように、階段を地下へと下っていった。彼女は鼻孔を覆っている左手でない右手でもって壁を伝っていたのだったが、時折、奇妙なことにもその壁が何かの反響によって慄いているのを感じとったのである。すぐさま恐ろしい想念がよぎった。(亡霊か何かの類だったらどうしよう!)彼女はぎくりとして立ち止まった。震撼するものの正体をじっと吟味するみたいに。よく聞いてみるとどうやらそれは、何か人声のようなものの反響らしい…… (やっぱり…… ここには誰かがいるんだ!)そう直感的に悟った尼僧は、再び階段を降り始めた。(この先には人がいるのだ…… なら私は、なにも怖がることはない。誰かがいるのなら……)だが果たしてそれはそうだろうか? そうとも限らないのではないか……? もしこの先に待ち受けているものが、怖がらなければならないものだとしたら…… それでも自分はここを降っていかねばならないのだろうか? …… このように考えると、少しは足の動きが鈍くなるものである。それどころか、不安に怯える爪先は、頑として次の段に触れようとはせず、元来た道を帰れと、まるで後ずさりを促すかのように張り詰めた。全身をくまなく駆け抜けたこの戦慄は肢体に緊張をもたらし、生きている限りは人にまとわりつく様々な音―その人間が人間たる証の音楽―すなわち、呼吸やまばたき、筋肉の擦れ、駆け巡る血液の胸より迸る律動、歯や骨のかち合い、そうした体の器官という器官たちの奏でる室内楽を、根こそぎに剥ぎ取ってしまい、この瞬間、エノイッサの音楽は消え去ったかのように思われた。代わって彼女のその鼓膜では、もう先ほどからずっと壁を伝って響き渡ってきている人声のようなものの威力が、猛威を奮い始めたのだった。それは、大勢で以って叫び立つ群衆のざわめきのような声でもあった。時折人を驚かす突風のように、奇妙にかん高く、呪詛のように恨みがましく悩ましく、階段の底から立ち上っていた。今でははっきりとそう聞きとられるのであった。(誰かいるんだ……  下に。でも、誰かがいるのなら大丈夫よ。だって、それは……  誰もいないよりましよ。こんな暗がりで、ああ、私ったら一体なにをしているんだろう!)前のめりになった彼女の肢体は、やがて徐々に傾き始め、次の瞬間、めまいを催すほどのこの真っ暗闇の中に、思い切りをいっぱいに溜め込んだ音が、まるで気泡の弾けるがごとくに響き渡った。それは、それまで宙ぶらりんに吊るされていた彼女の爪先が次の段階に接地されて、石で出来たこの迷獄のような石牢の宇宙いっぱいに、不快さを叫び訴えるかのような足音を轟き聞かせた刹那であった。またその足音は、何かの契機とでもなったかのように、次のまた次の、そのまた次の降下を呼び醒ました。エノイッサは、図らずとも何者かによって足を綱で引っ張られるような威勢をもって、奈落の底に突き進んで行ったのである。いや、突き進むというよりむしろ、それは落ちるという方が近かった。螺旋を描いて、エノイッサは地下に落ちて行ったのである。呪詛のように立ち上る反響の蒙気に次第に身体を浸されながら…… だがしかし…… それはいったい何であったろう? この奈落の底、彼女の進む先には、いったい何があるというのだろうか…… 果たして、底の底の底で、自分を待ちうけているものとは、全てそこに浸る者の意識を頭蓋内より霧散させて立ちすくませてしまう、あの闇の深淵だろうか? 自分が立っているかどうかすら判然としなくなる、あの暗さがそこにはあるのだろうか―いや、そうではないはずだ。 ここにあるものとは、さらさらそんなものではないはずだ。なぜなら、先ほどから、何処かの灯りを受けてからか、石段が鈍く輝きはじめていたから。それは、この歩みの引き出した答え―目眩を催すかのような、この螺旋を描く降下が、最終的に引き出した答えに違いなかった。(だけど、こんなこと…… 分かり切っていたことじゃないだろうか。ここに誰かがいるらしいってこと…… こんなこと考えたって仕方ないけど…… でないと私、ここに降りてきたりなんかしただろうか?)彼女は次第に興奮していった。もとよりその息は弾んでいたのだったが、足元を照らす確かな輝きによって、自然とその歩みは力強くもなったのである。
 階段は尽きた。何処かしらより吹き込む風によってしきりに明滅している灯りを間近にしたエノイッサは、そこでちょっと立ち止まると、じろじろと辺りを眺め始めたのだった、訝しげな表情で。彼女は気づいたのだった―自分の立っているここが一体どこであるか―もうそれは明らかなことであった。頭上にあるされこうべがそう語っていたのである。とうに過ぎ去っていまなお背負い続ける自身の死のこと、埋葬、墓場…… ああそうだ、ここは地下墳墓に違いない…… (一体どうしよう、なんでこんなところに来てしまったのか)されこうべの、無言という不気味な呟き声に慄然としてしまった彼女は、肩を強張らせて、頭上の彼から目が離せなくなってしまった。灯りの明滅を受けた彼は、こちらに向かってじっと無言を囁き続けていた。すると次第に、もう先ほどからずっと呪詛のように恨みがましく悩ましく響いていたあの声が、彼のささやきに覆いかぶさって、それはまるで野獣の唸り声のように聞こえ始めたような気がしたのである。それは本来死人であるはずの彼が、悪意をもってしたいたずらのようでもあった。その時初めてエノイッサは、恐ろしさを感じ取って、とっさに逃げようとして身を翻したのだった。だが、大きな足音を発ててはならないと思い―それがなぜだかは分からないが―立ち止まった。彼女は、先ほどからもうずっと無言を叫び続けるされこうべを頭上にして、ぴたりと壁に背をつけた。それはまるで、ひとときの精神の安寧を必要とするかのように、もたれかかったのだった。体が動かなくなってしまったかのようであった。恐怖によって支配されたから。動悸がいやが応にも増して来たような気がする……  すぐ側の壁にぽっかりと空いた大きな口―どこか広い空間へと通じる入り口のような大穴を真横から睨め付けながら、エノイッサはそこから聞こえてくる呪詛のような唸り声にじっと耳をすました。(いるんだ…… この先に、誰かがいるんだ!)厳かにおののく、闇の中に響くそれは、その確かな音響は、一種の魔力のようなものに違いなかった。なぜなら、火に羽を摺り寄せる蜉蝣のように、貨幣の鈍い輝きに目を奪われてゆっくりと指を伸ばすこそ泥のように、エノイッサは不気味なその声に魅せられていたのだったから。彼女の挙動を高いところから彼らが―されこうべは一つではないと、眼が慣れるにつれ次第に明らかになった―静かに、もうとうに失った瞳を、照らし出す灯りによってじろじろとさせながら睥睨していた、エノイッサがそっと、愚かしくも壁に空いた大穴を覗き込むのを。「お前がそうすることは分かりきっていた!」などとでもいうふうな嘲弄的な輝きをたたえて。さっと風が吹き抜けた。それはエノイッサの瞳を干上がらすのみならず、睫毛を枯らし、その瞼を数度瞬かせたのであるが、それはこの大穴を覗き込もうとする彼女への確かな警告だったに違いない。その瞼と同様、「観たい」という情念も瞬いて、彼女は考え直すもののようにも思われた。だが、それは全くそうではなかった。エノイッサはこの警告、人を怖じけさせるこの脅しを、意に介しはしたが、いとも簡単に振り捨てたわけである。それは、好奇心によって武装された心の、大胆な振る舞いであった。
 真昼時に井戸を覗き込むと、底の水面に陽光がきらめくのが見える、井戸の内壁に光は反射せず真っ暗なままだというのに底だけ光っている、ちょうどそうしたように、大穴の向こう側はほとんど暗くて何も見えなかったが、遠く離れた奥の奥には、ぼんやりどころかまったく明るい光が存在していて、地下墳墓の不気味な絵画―情景を、闇の中に切り取って見せていた。もっとよく見ようとして目をすぼめると、大きな松明が灯されていて、周りにたくさんの蝋燭が据えられているのが分かった。虹彩を広げれば広げてゆくほどに、光源のその細い先端達は淡い光によって囲われてゆく―つまり、綿雪のかたどるような薄透明の環、あるいは寒い冬の日に息を吹きかけられた硝子の広げて見せるような白い幕が、ぽつぽつと、まるで小雨でも降ったかのように瞳の中にへばりついてゆくのであった。この覆い被せられたような暗がりの中では、無数の火の光たちが水を得たかのように喜んで踊り上がると、灯の近くに据えられた大きな祭壇のみならず、亡霊の脚のようにすっと細長い廊柱の数々に、そして、聖人たちを模した天井画やら壁画やら、壁一面を埋め尽くす髑髏という髑髏やらにまで飛び掛かり、砕けた硝子の一粒一粒のような儚い十字の星々へと姿を変えた―そうしてあるものは輝き、あるものは消え、明滅していた。それらの火の光が、笑うようにこちらを見つめ返してきた時、エノイッサは心底震えた。というのは、彼らが照らし出していたのは、地下墳墓に息を潜める無生物たちだけではなく、その場にうごめく不思議な人物たちをもだったから……  光は笑っていた! ぎらぎらと、嘲弄するようにそいつらを指し示していたのである!「ほら、お前が見たかったのはこれだろう?」……  誘った! 光が視線を吸い込むかのように誘った! ぎらぎらと哄笑しながら、私にこいつらを、見るように仕向けた! エノイッサは自分が光の仕掛けた魔性の罠にはまってしまったことを、もはや疑ってみようなどとは考えもしなかった。ぶるぶると慄くその視線の先に、何やら背の高い男の影が揺らめいて立ち上り、そこから声がしたようにも覚えた、
「おお、暗黒よ! 久遠の微睡みよ! 安楽に、苦悩を抹殺する…… 」
 訳のわからない言葉の意味を、エノイッサがなんとも判別しかねて、もっとよく聞こうと耳をそば立てた時、それは湧き起こった。
《おお、暗黒よ! 久遠の微睡みよ! 安楽に、苦悩を抹殺する…… 》
 これは先ほどの、立ち上る男の影が発した声が、引き伸ばされた蜘蛛の糸のように、次第に薄く細くなってちぎれてゆくその刹那、突如としてこの地下墳墓の世界に現れた大合唱の塊なのであった。だが、歌というより旋律も節回しもはっきりしないそれは、「叫喚」と表された方がより正しかったであろう。耳にしたこともない不快な音響がぶつかった感情の器は大きく揺すぶられて、ありもしない空想を、心象の上にぶちまけてみせる…… 一面の骸骨の中に眠っていた数多の亡霊たちが、その大唱和によって突然目を覚まして騒ぎ立て始めたりだとか、地下墳墓を支える亡霊の脚のような廊柱の一つ一つが、琴の弦のように右へ左へ大きくふれ出したりだとか…… 結局のところ、我々の見たり聞いたりするものは、このようにして心象に染み込まされた感情の、その残り香に過ぎない。だがそれは、一人の尼僧を震え上がらせるには十分なのである。この大きな叫びが迸り出るまでは、これだけ多くの人間がここに居たとは気がつかなかった。地下墳墓に数多ひしめく髑髏たちが目を見張る、この闇の巨大な空虚へとそいつらが一斉に大声を放り上げた時、遂に、それら声のひとつひとつが合わさった巨大な塊と同時に、そいつらの大きな群れの姿は、ぱっと火の灯ったように突如として知覚の中に出現したのである。すると、揺らめく男の影から、嗄れたような、何やら奇怪な哄笑が立ち登り始め、言葉を象って行くのであった。
「我が落涙も果てた…… 夜、瞳を閉じれば呪いの声……  奴は戯れ嘲弄する、『可笑しい』と忍び笑う、天のいと高きより!」
 すると、人の群れが答唱した。
《その笑い、人の悲哀と苦悩との、それほど可笑しいか、人の願い、叶えてやろうと汝が聞いたことの一度としてあったか? なぜ創った? 私たち、被造物を創っては殺す、創っては殺して、汝が廻す運命の輪、それはさながら我らを轢き殺す車輪のよう》
 エノイッサは何かに気がついたようであった。断っておくが、彼女は衒うべき知識を持ち合わせていない尼僧である。常日頃のつつましやかな勤行の成果として、否応なしに頭の片隅に入り込んできて、図々しくもいつの間にやらそこに座を占めるようになった祈祷書や詩編のしかつめらしい音韻くらいしか、語るべきものを知らない。だが分かる、これは、この、今目の前で繰り広げられている光景とは……  想像したことがある、誰かに聞いたこともある。ああ、そうだ、何かで読んだこともある…… それを想起するやいなや、同時に様々な情景、悪魔的な戯画、細密画などがぱっと脳裡に浮かんできて、過去幾度となく馳せた空想の焼き増しを行い、その荒唐無稽な非現実生を裏付けていくのであった。ならば…… この、目の前で繰り広げられているこれはいったいなんだろう? これは現実なのか……  エノイッサの想起し得た奇怪な空想は、次第にその輪郭を目の前の出来事に明け渡し、みるみるうちに溶け出てしまったかのように思えた。そうだ、どうやらそれは、現実に取って代わられてしまったらしい…… そうして眼の前の光景だけが残り、冒涜、不敬、悪罵、悦楽、幻想といったものたちをたった一言で形容するその名が、打ち鳴らされた鐘のように頭蓋内で不気味に重々しく響き渡ると、意識が、この未知の世界への到達を知らしめたのである。
―黒聖餐
 咄嗟に彼女は視線を逸らした。にわかには信じ難かったのである…… このような場所で、このような事が行われているなどと……  しかしこれは、全くありえない話ではないのかもしれない。逆に言えば……  まったくのおあつらえむきではないか? いったいこうしたものたちが、ここに顕在していないわけがあるだろうか? 夜の暗闇、薄暗い教会堂、地下墳墓、骸骨、蠢く不吉な影、悪魔、呪術、炎……  ああ、そうだ、いったい自分は、何を期待してここに降りてきたのだろう…… 実際、これは分かりきっていたことじゃないだろうか!? ひょっとすると、このことをそれとなく感じて、それでもここに降りてきたのかもしれないじゃないか、私は! ああ、なんと馬鹿げたことだろう! 一体、ここでこのようなことが行われていない理由があるだろうか…… 
 火炎のゆらめく傍には架刑像が、それは何かの皮肉のつもりなのか、上下逆さまにされて置かれていた。だが、イエスは、凶悪な行い―これらの叩きつけられるような憎悪を疎まず、瞳を閉じて見ようともしていなかった。喚く声にも取合わず、じっと諦めたかのように沈黙している。遠くから見れば、その情景は火あぶりのようにも映った―エノイッサは思わずはっとして、体を強張らせたのである。だがイエスは、尚も黙ったままで、どれだけ現実離れした、もっと言うと「あってはならぬ」ことがここに顕在化していても、微動だにしないでいた。ぎらぎらとした光に苛まれても、彼はその為すに任せていたのである。そんなものだから、火は盛んに燃え猛っていた。
 燃える呪いの炎が詰るのはイエスだけではなく、僅かばかり離れた場所に壁画として存在している聖人たちもまたそうであった。彼らは、呪いの光を浴びて、俄然神秘さを増し、溢れ出るような色彩によって自らを顕示しているようにも思われる。その衣服の上では、たくさんの光の粒たちが、戯れるように瞬いていたが、実際にはそれは、絵画の中に入り込むことのできない光源の残滓たちが、虚しくもその境界を叩き続けているさまなのである。呪いの炎によって絵画の表面に張られた神秘の膜は、絵画の中にいる人物たちの表情を曖昧の中に溶かしこんでいて、見る者は、空想の力によってそこに好き勝手な表情を描き出すことも出来たわけである。不安と戦慄との衝撃に大きく震撼されていたエノイッサの空想は、彼らの表情を、本来ならばそうあるべきはずであるところの聖性やら徳性やらといったもので肉付けすることを許さず、それは不気味な、物陰の暗がりに潜むかのような、得体のしれない怪奇性によって描写するようにと、視覚に強いたのであった。次第に残酷な笑みが、そこから滲み出始めた。エノイッサには、彼ら彼女らが犬歯を覗かせて笑っているような、そんな気さえして、つまるところ、この空間における絵画や彫刻、そのような芸術さえもが、この黒聖餐に列席する魔物のように感じられる具合だったのである。しかし実際、それは彼女の空想のみによって支えられた悪魔性ではなかったのかもしれない。なぜなら、彼女が今目にする絵画、その中の登場人物である聖人の一人が着る衣服の真紅、常ならばその熱情的な高潔さによって目を奪われるに違いない真紅が、かつてここよりも深い深い地の底にあって、かの大詩人の踏み越えた血の池、それとそっくりにどす黒くさざなみたちながら口を開けていて、そこでは光の残滓たちが最後の命を擦り減らしながら、飲み込まれていくさまがありありと見られたから。心底嘆かわしいことに、ここにおいてはすべてがそのような有様で、どれほど微細な存在にも、黒聖餐への積極的意思が認められた。ただひとつ断っておかねばならないのは、その存在の多くがは白色をしていたということである。蝋燭のように小さなものから、燭台、器、祭壇を覆う布、架刑の逆さ十字、そしておびただしいほどの骸骨から巨大な廊柱まで、地下墳墓の白は、その宇宙的拡がりによって、闇すらをも飲み込もうとしていた。本来であれば高貴の潔き白、聖性、徳性を表す色が、今は涜神、堕落の濁り、燈火を浴びた乳白色となってどよもしていた。それにしても不可思議にも、また遺憾にも思われたのは、先ほどの合唱、というよりは叫喚を呼び起こした黒聖餐の参列者どもが皆、清貧、貞潔を旨とする白色の衣服でもって、この涜神的な一座の正装としているらしいことだった。彼らは一様に、この支配的宇宙と同じく白色で、その身を覆っていたのである。まるで、それがすべてにまさる冒涜となることを知り抜いてでもいるかのように、何かしらの意図を持ち、一座は自らを白く染め上げていたようなのであった。つまりここでは、頌徳による冒涜が為されていたわけである。
「イエスが、救ってくださる!」
 祭壇前に立つ影の男が、ありったけに張り上げた嗄れ声で言った。するとやはり、
《イエスが、救ってくださる!》
 と、一座が即座に答唱した。それは嘲弄の響きに満ちて。次第に笑いが巻き起こり、皆が口々、各々に、
《イエスが、救ってくださる!》
と、声を上げていた。どっと湧き上がる哄笑の旋律が一つ一つ重なってゆくと、やがては巨大な叫喚の谺となる。それは次第にクレシェンドするカノンであり、確信的な悪意を持ちながら、陵辱しようと、その淫らな響という響きを、聖像たちになすりつけていくのであった。
《もしもイエスに、万物の作り主に、涙催す情けの、その欠片たりともあるのであれば、炎壕がごときこの世に悶える人らを、累々の悲惨の中より、今すぐに救い出してみせろ! 汝にはそれが出来よう、我らを救えよう。だがなぜ黙っているのか、お前は瞳を閉じて、敢えて見ようとしないのか》
「おお、神聖なる沈黙よ!」
 叫喚の奔流に堰をするがごとく、影の男が声高に、ぴしゃりと言い放った。そうして何かを祭壇から持ち上げ、高く掲げた。遠目にも判然としたが、それは聖杯であった。燈火の光を浴びてぎらぎらとする聖杯を、影の男は逆さ十字に向かい両手で以って突きつけた。
「おお、神聖なる沈黙よ、思い出してほしい……  遥か昔にお前は言った、〈私は世に火をもたらしに来た〉とな……  そうだ、確かにお前はこの世に〈火をもたらしに来た〉のだった。…… イエスよ、お前のその不穏極まる、たった数年だけの行脚によって、投じられたその火は、この世における権威という権威のすべてを徹底的に破壊し尽くし、我々のその権威に対する跪拝、隷属心を根こそぎに引き剥がしたではないか…… そうだ、分裂だ、まさしくその通りになった…… お前の言った通りに! どうだ? お前に聞こえるか? この叫喚が…… お前のもたらした火によって焼かれ悶え苦しむ人間たちの悲鳴が! 天地を震撼せしめるほどの、この狂おしい叫びたちが……」
 影の男の放つ、憤怒によって支配された声は、それはもはや人のものとは思われなかった。
「だが―それならばなんだろう? お前のもたらした火とは…… いったいなんだったろう!? それはこれほどまでに峻険で、これほどまでに苛烈なものでなければならなかったのか!? お前の投じた〈分裂をもたらす火〉とは、一体なんだ、それは…… ああ、それは、その火は、これほどまでに残虐で陰惨なものでなければならなかったのか!?」
 イエスは一言も答えなかった。
「……  答えろ、イエス! おお、そうだ、それは…… お前の投じたその火は、確かに僅かなものでしかなかったに違いない…… しかしそれは、決定的なものだった! 我々を焼き焦がすには、以って余りある火だった…… まさしく取り返しのつかないことをしたのだ、お前は…… それが、その火が、今や全世界を多い尽くそうとしているのだからな! 分裂だ、分裂の火だ! すべてはお前の言った通りになった! まさしく、一言も違わずにな! だがこれまで誰一人として、お前の投じた火がなんであるか、その真に恐ろしい意味と正体とを理解せず、また理解しようともしなかった。それどころか連中はその火こそが、まるで泥水のような苦悩にまみれきったこの世を、きっと浄化するものに違いないと、反対に信じ込んでしまう始末だったというのだ! …… おお、イエスよ、お前は我々に何を求めたのだ? 隷属より解き放たれた人間に、お前は一体何を要求したのだ? 今この分裂の混沌たる有様を見てお前は何を思う……  これこそが、お前の求めたことか……? ええ、そうだというのか!? おお、イエスよ…… お前のもたらした火によって解き放たれたものと成り果ててしまった人類は、それでも尚、お前のもたらした火が救いをもたらすと信じて疑わなかったではないか! ところがどうだ、彼らが浄めの火と信じて疑わなかったこの火は、実のところ、本来そうあるべきであるはずのお前の慈愛、その一欠片ではなしに…… 反対に、我々の生ける身を焼き焦がす暴虐の業火ではなかったろうか? なぜなら、愛によって人々を照らすと信じられていたこの火によって、外ならぬ、人々を隷属より解き放ったこの自由の業火によって我々は今、火だるまにされのたうちまわっているというのだから! おお、分裂、分裂だ! これは一体どういうことか!? とどのつまり、お前は、人類に自由を与えたことによって、真の意味の隷属をもたらしたのだ! 苦しみの隷属! 苦悩による、分裂の悲惨による人々の隷属! お前によってもたらされた分裂の只中に、我々は罪人がごとく服せしめられているが、一体誰が、自身を焼き焦がすこの自由の業火を望み得たというのか? ええ、答えてみろイエス!」
 しかしイエスは一言も答えなかった。
「いや、お前が何も答えないのはわかっている…… ああ、わかっている、お前には答えられるはずがあるまい、なぜなら…… お前こそ、人類が超克すべきはずの自由を…… 永く永く気の遠くなるような権威の歴史の中に埋葬してきたはずの自由を、人間の本能の仄暗い底より呼び覚ました張本人に外ならないからだ! お前は人類を振り出しに戻した! それまでの永く永く気の遠くなるような歴史の道程に横たわる累々たる屍山血河を否定し、そこに打ち立てられた権威の殿堂の数々を破壊して回ったではないのか…… そうだ、お前の放った〈己の欲するところ〉、この一言で、何もかもがすべてぶち壊しになったのだ! ああ、イエスよ、分かるな? 人は権威なしには生きることができないじゃないか…… それを取り除かれたが最後、人は分別をなくし何が何やらわけがわからなくなってしまい、痴愚同様と成り果てて、暗闇の中で自らの居場所も分からないで右往左往した挙句に、虚空の奈落へと、自分が足場を踏み外したことにすら気が付かないで落ちていくより外ないのだ…… そうだ、人類は、本能の仄暗い底に自由への渇望を飼い続けながらも、常に権威を求め喘いでいる…… これがお前に分からないはずがあるまい? 飢え、暴力、情欲、我々を束縛する軛などこの世にはいくらでもある。だがよいか、人を束縛するあらゆるものの中で最も残忍かつ暴虐、そして狡猾なのは、それはお前の軛ではなかろうか! お前の説いた自由、そして愛ではないのか!」
 影の男が大きく言い放つと、その音響はこの地下墳墓全体、壁一面にへばりついた数多の骸骨に共振をもたらしたかのように思われた。それは音にもならない巨大な震えの塊と成り果てて、この空間を彩る白色を彼方へと押し拡げるみたいに、爆発的に膨張していくのだった。その巨塊の端の端が鼓膜に触れた刹那、不快な耳鳴り襲われることは誰しも免れ得ないのである。
「おお、それだけ恐ろしい代物を、暴虐の化身とも喩うべき自由を、まるで粗末な贈り物でもするかのようにぽんと我々に手渡した時、お前はそれはぞっとするほど残忍で狡猾な笑みを浮かべていたに違いない…… なぜならその瞬間、我々はお前からそれを受け取った瞬間、まるで比するもののないような苛烈極まる自由による束縛と、分裂による苦悩とを共に背負うはめになったのだからな…… おお、いったいそれはどんないたずらだ? イエスよ…… お前は、人の仄暗い底に眠る自由の、そのわずかばかり匂い立つ芳香を思い起こさせたことによって、人類を苦悩という麻酔の檻の中に閉じ込めたのではないか! ああ、それから我々の身の毛もよだつような歴史が始まった…… それはお前も知っての通りだ。イエス、一言一句違わず、お前の言った通りになったのだから…… しかし、それだけではなかった! お前はそれだけでは足らず…… それから更に…… お前から手渡された暴虐の化身によって手を縛られ、それはまるで炎天下の荒野を裸足で歩む囚人のように渇き喘ぎ苦しみながら、お前のもたらしたその火によって灼熱の地獄と化した運命を辿らねばならなかった人類に対し、イエスよ、お前は更に何をもって報いたか!? ああ、それは苦悩の果ての苦悩―意思の否定、情念の抹殺に外ならなかったのだ! ああそうだ、お前は人の意思を欠片たりとも残さず殺し、我々を忘我の彼方に追いやろうとした……  だがそれは、ある意味当を得たことだとも言える、なぜならもし人類を一人残らず、本当に一人残らずこの彼方へと追いやることが出来たのなら、お前は文字通り〈この世の王〉たりうることになるだろうからだ! お前によって意思を殺され、忘我の彼方、果ての果てへと連れて行かれた者たち……  ふん、そんなもの、私に言わせれば、ただの傀儡となりおおせてしまった土塊にすぎないがな……  だが人類は必死に抗ってきたのだ! お前に…… 人はお前に決して屈したりするようなものではない……  それは、未だお前の王国が実現していないことを見ても明らかではあるまいか? よいかイエス、お前はな…… 人々が本来求めるものであった〈隷属の、その僅かな苦役に対する大きな安寧〉を、〈自由の、その僅かな喜びに対する大きな苦悩〉でもってすりかえたのだ! 自由などとは、本来が人の超克すべきものであったにもかかわらず…… よいか、これがお前の用いたぺてんのすべて! すべてだ! どうだ、まだ言い足りないのか? 自由とは、我々人類と神との間にはまったく相容れないものだったのだ! お前が神を殺したのだ! とどのつまり、お前は神聖でないのだ、おお、神聖なる沈黙よ!」
 上下を逆さにされて置かれた架刑像のイエスは、その言葉を聞いただろうか? 憤怒によって震撼せしめられる弾劾の声を……  果たして救世主のその沈黙の意味するものとは、一体なんだったのであろう?
「〈はじまりにしておわり〉であるところの神とは、一体なんだ? イエスよ、お前が意図せずとも殺したという、その神とはいったい……  おお、よく聞け、〈はじまりにしておわり〉であるところの神とは、人間の情念をもひとつとして帰せしめるものでなければ、それは神とは呼べないのだ。考えてもみろ、またそれは、被造物である我々人類にしたって同じことだ。お前のもたらした火、自由と意思の否定とによってでは、我々が救われる刻は永遠にこない。我々は、お前によってでは救われるはずがないのだ。なぜなら、我々が救われるには、そこに本来の力、神が我々に与えるべくして与えたもうたもの、情熱と意思とが欠けていてはならないのだからな……  お前のやり方ではだめなのだ…… ああ、そうだ忘れていた。お前は〈世に火をもたらしに来た〉のであったな…… 分裂をもたらしに来たと! あっは! だが我々にとって幸いなことに、お前の目的とした王国が地上に誕生することはないよ…… 人間の情熱は、お前の投じた火などよりもずっと盛んに燃えている…… ああ、だからそれは、お前の投じた火なんてもの、恐るるに足りん! そんなものによってでは、我々はどうにかされるということはない……  お前の目的とした王国が完成するのは、全人類が死滅する刻をおいて外にない……… そう、最後の審判、最後の刻、その刻だ、その刻にこそ。お前の永らく見た夢の夢のその果ての夢、〈自由と忘我の王国〉が実現されうるであろう……! おお、そうだ! お前の見た夢は遍く叶えられることになるに違いない…… 違いないが、それならばなぜ、なぜだ? どうしてお前は〈世に火をもたらしにきた〉のだ? なぜ我々を放っておいてはくれなかったのか? 全人類の死滅する日、怒りの日には、我々人類の見果てぬ夢―〈存在の全的克服〉も、お前の〈自由と忘我の王国も〉ことごとく叶えられるはずであったのに…… そうだ、一体お前はこの世に何をしに来たのだ? お前の説いた、すべてをひとつと帰せしめるところの神の王国とやらは、結局、怒りの日にすべて成し遂げられるのだ。そこに到達するまでの着実な歩みを人類は続けていたというのに、どうしてお前は教えこんでしまったのだ? どうして思い起こさせてしまったのか? それは、ありえないほどの打撃だよ、すべて人間は自由であると、まったく元のままに戻してしまったのだから。すべてがひとつに抱擁する瞬間をこそ夢見て、〈存在の全的克服〉をこの世に創造することを夢見て、着実な歩みを続けていた人類に、お前はなんと余計な真似をしてくれたのだ? ひょっとすると、我々は到達し得たかもしれぬのに…… いや、それでなくとも怒りの日には すべてが成し遂げられるというのに…… お前はなんということをしてくれたのか! 我々が本来克服していたはずの自由を、どうしてお前は思い起こさせてしまったのだ? それは動揺だ、無意味だ、まったく…… してはならんことだったのだよ。それは我々に対する…… まったくの、反駁なのだ!」
 そこまで言うと影の男は、厳かな動作で聖杯を祭壇の上に置いた。彼が何やら思案げに黙り込んでしまうと、ひととき、灯火の光を浴びて乳白色に浮かびあがったこの宇宙に、静寂を含ませた微風が立ち込めたかに思われた。しかし突然、
「諸君、聞かせてくれ!」
と、影の男はやにわに振り返りながら叫んだ。
「果たしてこれが許されるだろうか……? このようなこと…… このような涜神極まる、悪魔じみたこと……  不敬な悪罵、冒涜……! 果たしていったい、我々は許しを請わなければならないだろうか!?」
 すると急に、口調はがらりと変わって、
「しかし…… それは誰に?」
と、憎悪に満ちた低いうなり声のようなものになった。傍で、逆さまにされた架刑のイエス像の、その閉じられた瞳をたたえた顔を、蔑むように見下しながら彼は聞いた、
「我々が許しを請うとして、それは誰に? 我々は、いったい誰に許しを請わなければならないというのか!?」
と、双手を広げてみせながら、それはあたかも雄弁を装うかのように。だが、誰も答えなかった。一座の連中は、言葉に心酔し傾聴しきっているのか、それとも退屈し飽き飽きしきっているのかは分からないが、ともかく誰一人として微動だにせず、相変わらず白は白いままでそこにじっと顕れていた。断るまでもないが、こうしたことは通常の聖餐においてもありがちである。ここにおいては影の男の荒い息遣いのみが動的で、それは宙空に波紋を起こそうと試みるかのように、虚しく響きを発てるふいごのようであった。しかし、その響きに応えるものは何もない。影の男はたちまち憤然として肩をいからせたのだった。彼は今しがた祭壇に置いたばかりの聖杯を片手で勢いよくひったくると、力任せで床に叩きつけたのである―腹立たしさを見せびらかすみたいに。鈍い、だがけたたましい断末魔をあげながら、一瞬にして破砕せしめられた聖杯は、狂おしいその叫び声と共に、かつては自らであった自らでないもの―粉々になった破片たちをあたりところ構わずに撒き散らしながら絶命し、静かに横たわる姿と成り果てた。
「おい、私は聞く! こんなことをして許されるだろうか? なあ、私は聞く…… これが許されるだろうか!? 我々は地獄に落ちるのか? ああそうだ……  地獄落ちか?」
 彼はそう叫んでから激しく息を切らせつつ、再度傍のイエスを睨めつけた。この期に及んで初めて場に動揺がもたらされたかに見えた。黒聖餐に参列する白ずくめの連中は皆、困惑したかのように互いに顔を見合わせて何事かを囁き合った。自分たちの前にごうごうと沸き立つ憤怒がその理性をかなぐり捨てようとしていたことはもはや明らかだったから。それはやがて、誰彼構わずに噛みつこうとする獣性の持つような狂気―野蛮かつ粗野な、しかし一抹の愚かさをも含んだ狂気に変貌するだろう。すると彼らは、その脅威をいち早く察知し得たのかもしれない―しかして、最初小さく点となって現れた囁きは、たちまち周囲を巻き込みながらつむじ風のように旋回するどよもしとなったのである。それは何かを待ちわびるかのように―自分たちを危機に晒すかもしれない影の男の憤怒に堰をするべくもたらされるはずの何かが現れるのを期待するかのように―というよりむしろ、その何かを自ら引き出そうとでもするかのように。だがそれは、憤怒に対する動揺が臆病にした、あまりにもか弱く小さな期待なのであって、だから、どよもしもやがては小さくなることを免れ得ない。それとは入れ替わってたちまち大きく拡がってしまう沈黙は、一座の不安の雄弁な語り手でもあった。しかしついに、その雄弁の影に息を潜めることを潔しとしない一人の怯えた感情が、言葉を絞り出すことを自らに強いたのである。究極的にそれを引き出す役割を担ったのは、期待などではなくむしろこうした不安、恐怖、そして臆病なのだった。
「我々は地獄に落ちるでしょう」
 それは一座の何者かが発した声―か細くひ弱な震え声、その振動の余韻が静寂の立ちこめる宙空をまるで彷徨するかのように漂う儚げな声であった。
「なんだって…… ええ?」
 激情の発作によって脳髄が愚鈍ならしめられてでもいるのか、影の男は自らの問いに対するこの単純な答えに驚かされでもしたかのように、間の抜けた、なんとも判然としかねて少し考え込むふうな沈黙をひととき作った後、それはあたかも怪訝なふうを装い威嚇する口調で、
「もう一度だ! もう一度言え!」
と、強く詰ったのである。しかし…… 針どころか埃の落ちる音まで通りそうなこの静けさの中でよく言ったものである! どれだけ小さな言葉であっても彼に聞こえなかったはずはなく、実際、これほど馬鹿げた要求もなかったのだから。
「ええ……  我々は、地獄に落ちるでしょう!」
 すると今度はこちらが怒ったように声の調子を荒げて言った。だが、響きの底を這うように流れる川の音に耳を傾けてみれば、それは相も変わらずおじけづいたように弱々しくさざなみ立っているとすぐに判ぜられるのであった。
「我々は地獄に落ちる……  地獄に落ちるのか……  ああそうだ、そうに違いない! だがしかし…… 我々が地獄に落ちる…… それは本当か!?」
 影の男の、彼自身の語調によって語尾に穿たれた疑問符は、それに続く長広舌をあたかも予見するかのように―
「ああ……  考えてもみてくれ! なぜ我々が地獄に落ちねばならないのか……  しかしそもそも…… 神の愛が、死後人に地獄を用意しているなどということがありえようか? それは本当か、果たして……  全知全能の、すべての起源にして終焉であるところの神、もとい、文字通りそのすべてであるはずの神が、あの世に於いても〈分裂〉などという陳腐なものを用意しているとでもいうのか? はじまりにしておわりである神、その神が、そんなものを果して望みうるだろうか? だから私は言っておく……  神がすべての終焉であるとしたら、死後我々に用意されているという地獄、永劫の呵責などと我々の語るものは、外ならぬ、神に対するこの上もない冒涜であるのだ!」
 それはごく強く言い切られた、
「…… 地獄はない、永遠の呵責など存在しない、するはずがない。なぜなら…… もし地獄が永劫に存在し続け、罪人とされたものを苛み続けるとするなら―そしてもし一方では、天の楽園で義とされた人々が神をあまねく讃美し、その永遠の唱和に唱和を重ね続けるというのならば…… ああ、そんなことを許すとするなら、はたして神は〈はじまりにしておわり〉などと自らを称することができたものだろうか!? もしそんなことを許すなら……  ああ、神は〈はじまりにしておわり〉ではないし、それならどうして……  神は全知全能でいられようか!? 私は認めない、神の外に永遠などと……  世迷言もいいところだ! それは神に人性を帰せしめることになるのだよ。それに考えてもみろ…… 惨憺たるこの世に望まざる生誕をしいられ、苦しみに苦しみを重ねた挙句、罪を犯しながら死んでいかねばならない…… そのような哀れな魂に、死後に至ってまで責め苦が用意されているなどと、これほどの残酷があるか!? 神は本当にそのような残酷を許したのか、ええ? しかも驚いたことに、ここの救世主〈メサイア〉によると(彼は逆さにされているイエスを指差した)、実に人類は皆罪人ということらしいじゃないか! あっは! お前たち、それであってもこいつを信じるって言うんだな、そうなのだな!?」
と、影の男は問いかけたが、黒聖餐の一座は果たして彼の言葉のどれほどを理解していただろう? 彼らの頑な沈黙の語るものとは虚しい無理解なのだろうか、それとも、説得された魂の無抵抗たる受容なのだろうか?
「それならば、おお…… 神とは何か? 〈はじまりにしておわり〉である神とは、一体何者だ? ああ、ここにおいては我々の使い古した〈永劫〉などという言葉はまるで意味をなさない! なぜなら、ここにはただ、すべてをひとつと自らと帰せしめる神のみが存在しているだけなのだから! 〈生〉も〈死〉も、〈在る〉も〈在らざる〉も、およそ我々が語り想起しうるもの、しえないものすべての事柄―〈永劫〉も〈無限〉をも超克した神が座しているだけなのだから!」
 恐るべき静寂が訪れた。地下世界の片隅に湧き起こった沈黙は溢れに溢れ出て、生者と死者たちのひしめきあう墓場を一杯に満たし尽くすと、僅かな隙間から外へと染み出して、どこまでも拡がりに拡がり続けながら〈在る〉ものを欲深く貪り食らう巨大な虚無と成り果てたのである。それはまた、お喋りな数多の死者たちが、生者たちの沈黙を見るやいなや、ここぞとばかりに自分たちが甘んじて受けなければならない大いなる暗黒の洗礼、その形容をさかんに訴え立てるかのような、哀れで滑稽な恨みがましい不平の始まりでもあった。
「悪魔的だ…… これは」
 エノイッサは呟いた。影の男が何を言っていたか、その意味を理解することは、彼女の凡庸な知性にとっては到底無理だったかもしれない。だがいくらでくのぼうの尼僧にしたって、これは穏やかならないことであると、そのくらいのことは分かるらしかった。鼓動は激烈さを増し、いつのまにかぼんぼんと胸を叩いていた。この律動が、彼女を我に返したのである。影の男の語りには、意味は判然としかねるが聞き入ってしまう言葉に特有の、あの雄弁さと熱意とがこもっていて、エノイッサもどうやらそれに引き込まれたらしい。体はぶるぶると震えていた。それは聞くべきでないものを聞いてしまったという怯え―それとも熱狂であったろうか? 四肢は悪寒によって苛まれていた。体の底からとめどなく奔出する熱い動揺を、理性はその冷たな薄膜によって包み込もうと努めていた。
 エノイッサはすぐにここを立ち去らなければならないと思った。然して、それまで硬直していた体が動き始めるのに一瞬間とかからなかったのである。彼女は薄暗い地下の奥底に咲き続ける徒花―明るい光に包まれたしかし孤独な集会に瞳をじっとすえたままで、一歩、二歩とあとずさりした。その時である、
「見たな」
という低い囁きが背後に突如現れたかと思うと、驚愕のあまり矢を射た弓のように跳ね上がった尼僧の華奢な肩を、何者かが太い指で掴んだのであった。
「見たな……  お前、見たな?」
 エノイッサはひきつけを起こしたみたいに固まった。当然と言えば当然だが、彼女は自分の肩を掴んだこの相手が誰であるか直感的に悟ったらしい。どうやらこれは先ほどの…… こんな場所にのこのこと足を運ぶに至ったつまらない好奇心に対する後悔の念が心底から湧き起こって、それは真冬の朝、湖に立ち込めた冷気が踊り狂うような凄まじい底冷えを恐怖の中にもたらしたのである。彼女は少し振り返って相手の顔を見ようとしたに違いない。しかしそれよりもずっと速く力強い腕によって両手を抑えられて後ろ手に縛り上げられたのであった。もちろんすぐに抵抗を始めたのであったが、それは実に虚しい試みである。自分がここで狂ったように騒ぎ立てたとしてこいつはびくともしないだろう……  それはそうするまでもなく分かる。意外なことに、こうして力の限り体を揺すぶっていると、声を張り上げて叫ぶ気には中々ならないものである。それは他の行為を一切やめねばならないくらい激烈な行為なのだ。エノイッサは体を揺り動かしながら、ううとか、おおとか哀れな犬めいた唸り声を上げることくらいしかで出来なかった。しかし実際…… 彼女は哀れな犬ではなかったろうか? もし仮にこの場で大声でわめき散らしたとしてそれが一体何になるであろう? こんな薄気味の悪い場所で誰かが助けをよこしてくれるわけでもないのに。それどころか、今自分の眼の前には、叫び声を聞かれたらそれこそ困るような連中たちしか居合わせていないのだ……  これが哀れでなくてなんだろう?
「暴れるな……  暴れるなよ。大人しくしろ。どうしてここにいる…… 何故これを知っている?」
 激しい息遣いだけをのこして、尼僧はすぐに大人しくなった。しかし質問には答えなかった。すると今度は、また背後より別の人物がやってきて、
「あっ!」
と、驚いたように声を上げた。それはどうやら、拘束され棒立ちになることを余儀なくされた女の無様な姿を見て発したもののように思われた。
「捕まえたよ!」
と、エノイッサを後ろ手に縛り上げている男が勝ち誇ったように言った。
「馬鹿め…… こいつ、わざわざ自分でここに来て見ていたんだよ」
 この言葉にエノイッサはなんだかむかむかとして、
「私が何を見たって? 知らない、知らないわ……  気づいたらここにいたのよ! 私は何も見てない」
と、急き立てたように不平をまくしたてた。すると、男の吐息がすぐそばに感じられていたのだが、それが一瞬、嘲りに震えたかのように彼女の髪を弄んだ。この二人組は―言うまでもないが―声の調子から推して、先程の、大聖堂の扉から月夜に飛び出したあの男たちに違いなかった。そう、馬鹿笑いしていたあの誰かさんを探しに―しかし、影のところにちょこんと蹲っただけのそいつを見過ごすほど間抜けで。だが今、エノイッサが身をもって思い知らされていることには、それほどの間抜けであっても、腕っ節にかけてはやはり男であるということだった。それでその一人が今、散々探しあぐねていた誰かさんを手中にしているのはさぞかし愉快な気分に違いないと考えると、エノイッサはまた無性に腹が立って来たのであった。それで、彼女がこいつらの手から離れようというのは、もちろん自らの身の危険を顧みてのことだったが、どうやらそれに加えて、悦に入ってるらしいこの鬱陶しい男の鼻っ柱をなんとかへし折ってやりたいという意味合いも出てきたようなのである。しかし何度も繰り返すが―それは実に虚しい試みだ。
「連れていこう」
 彼女を後ろ手に縛り上げている男が言うと、エノイッサは自分の背中がつんと小突かれたのを感じた。どうやら「行け」ということらしい。彼女は蹴躓いたかのように、一歩二歩前のめりによたよたと、手を縛り上げられていたので半ば宙づりになったかのように足を突っ張った。実に癪に触るやり方である。このようにすれば、人は自分の言いなりになるとでも思っているんだろうか? こいつは…… だがそんなことよりも―本当に馬鹿げた考えだが―彼女は、自分がこれほど簡単に捕まるとは、哀れな犬に成り下がるとは思ってもみなかったのである。気がつくと、額から滝のように汗が流れ落ちていた。
「放してよ……」
 焦燥の恐るべき威力によってもはや呼吸すら容易でなくなった唇から、発音も疎かにされた呟き声が立ち上る…… 恨めしげに顔をゆがめて、歯を食いしばったところで無意味だ。嫌々ながらも前進せざるをえない。だって他に何ができたろう? 前方の光源、ぽっと咲いたような黒聖餐の集まりが近づくにつれて、人の群れ―宙にぼんやりと浮かぶ埃たちのように漠然としていたその輪郭たちが、徐々にはっきりと自らを縁取っていきながら瞳の中を大きく侵していくのだった。この愉快な一座は皆で彼女に傾注しきっていた。連中は、こんなところにのこのこやってきて秘密の集会を盗み見した挙句に、まんまと捕まってしまったどこぞのお馬鹿さんを見るような眼でこちらを見ていた。
「捕まえましたよ。こいつ……  見てください、ほら!」
 エノイッサを縛り上げた男は、まるでネズミでもつまみあげるように得意げになってひけらかした。彼女は恥辱のあまり、炭火を焚いたみたいに顔を赤熱させた。
「女です」
と言われて、群衆の前に突き出された。それはあたかも、官吏が審問官に異端者を引き渡すみたいに。しかし、事実そうなのである。なぜなら、今夜この場においてはエノイッサ唯一人が紛うことなき異端者なのであるから。衆目に晒されたことによって悔しさと屈辱とはますますかさを増して瞳から滲み出ると、眼球をつるりと硝子のようにきらめかせたのである。しかし…… そこには何が写り込んでいただろう? 端から端まで横ばいに広がる白装束たち―彼女の翠色をした瞳孔をおびやかしていたのはそれだけではなくて、間断なく縦に引き伸ばされちぎられ続ける松明の炎の文字通り焼き付けられた白色、それもまたそうであった。その明るさ、痛みすら伴う眩さに、エノイッサは遠くから覗いていたのと同様に、再び心奪われてしまったのである。しかしそれはこのように間近にしてみると、先ほどと同じく「幻惑」などと呼ぶにはあまりにも度はずれな輝きで、どちらかといえばそれは「惑乱」といった方が正しいだろう。「神秘」とか「不気味」とか、そのような呼び名はこうした際にあっては極めて悠長というべきものだ。意識の底の隅から隅までを照らしつけるかのような光から逃れたい心地がして、エノイッサは焦燥した。手を伸ばせば届くかと錯視されるほどの、遠くから見たのとでは違うその現実性に震えたのであった。夢から覚まされたような心地がした。確かにそれは現実的な光だったのだ。それはここにある存在のごく微細な陰影たちをも取り除く暴露、そしてこのような光の下に、黒聖餐の一座が空想のものではなく現実のものとして展開していたのである。それは恐るべくも、奇妙な現実であった。
 エノイッサを顔という顔が見つめていた。どうやら数十人はいるらしい…… 蜘蛛の持つもののように円らな数多くの瞳孔たちがこちらを舐め回すように品定めしていたのである。このような視線ほど、人を震え上がらせるものはない。なぜならそれは、表情というものをまるで持ち合わせていないから―沼のように。時折はぬらりと艶めく澱んだ淵の中には、如何様な変貌をも遂げる無限の振れ幅を持った不気味な無関心が化物のように潜んでいて、こちらをみるともなしにじっと伺っているのである。ところで、こうしたものに限らず視線というものはなべて、顕在意識を超えた人の記憶にまで図々しくも入り込んできては、自身の飼い主を意味する名をそこからなんとかして引き出そうと骨折るのが常である。果たしてこの場合、そのような試みはいくらか成功を収めたみたいだった(取り立てて語るまでもないが、例えばY修道院の文書館長をしているマキアーノ、市役人のマンゾーニといった手合いたち)。だがよく見知った顔がこの超現実的な事態の中に僅かばかり座を占めているというだけで、それはもう驚き訝しむに値すべきことなのであり、感覚は再び非現実の芳香によって狂い始めたのである。
「ジャンヌ…… あなた、ジャンヌよね? あなたなんでこんなところにいるの?」
 エノイッサは思わず呟いた。このような事態にあって混沌を極めている彼女の頭蓋内からつい今しがたその名を引き出したのは、若い修道院長の視線だった。(こいつ、こんなところにいたのか!)蒼白に薄塗られた女の顔には動揺がさざなみ立っていた。しかし何も言わない―わざわざ自分の名を口にされても、あいも変わらず他の連中と同じ無私無言に身を固めていて。当然ながら、こいつにしたってすぐにこちらのことに気がついたに違いないのだ。違いないのに……  だがそれは当たり前でのことではないだろうか。あくまで置物に徹しようとする彼女の姿勢は、こうした際特に非難に値するものだろうか? だって、このような場所でこのような状況にあって、不機嫌さでよく覚えた姉妹の顔が場違いな闖入者として割り入ってきたら、誰にしたって戸惑い面食らうに違いない。それはもう分かりきったことだ…… 分かりきったことだがエノイッサはこの相手に対する苛立ちと軽蔑との混じった睥睨を禁じ得なかった。なぜならそもそも―こんなところにいてはならないのは、品行方正な尼僧だけではなく、敬虔な修道院長にしたって同じことじゃないのか? しかし、それだけではなかったのである…… こんなところにいてはならないのは、彼女たちだけではなかったのである。
「司祭パウロ……」
 有象無象たちのひしめくその先の先、据え置かれた祭壇の間近にて、灯火による逆光を浴びながら影のごとくに佇むその男を目にした瞬間、自然と口をついて出たのがその名であった。エノイッサはひどくうろたえた。なぜなら唇が、外ならない自分の唇が、まるで自分に属さない別の生き物ででもあるかのように言葉を象ったから。そうだ、それはまるで無意識が悪意を以ってした戯れのようではないか。それでどうやら、おそらく本当にこれは彼なのである……  このような薄暗がりで、目にした瞬間にそうと判ぜられるなどと、それは多感な時期の少年少女に特有のあの研ぎ澄まされた洞察力―直感によるものだったろうか。それとも今夜、相手を探しあぐねていた想念が持ち前の早とちりな確信をもって目の前の影に肉付けをした、急ごしらえの輪郭だったろうか。ともかくその名は、稲妻が枝分かれするかのごとく縦横無尽に場を駆け抜けて動揺の網を張り巡らせながら、一切の生命を絡め取ってしまったかのような静止をもたらした。エノイッサの口蓋から外へと、あたかもそれは禁忌であるかのように拡がったのである。だが一人だけ、咲き乱れた鈍麻の檻によってではその距立を脅かされない者がいた。影の男である。彼は生者と死者たちのひしめき合うこの地下世界において、突き立てられた短刀のようにひたむきな頑なさを持って立ちはだかり、ぎらぎらとした敵意を撒き散らしながら、じっとこちらを睨めつけていたのである。静止された時間の、その大きな塊がのしかかった今にあってさえそれは変わらない、圧し潰された多くの魂たちは、吐き出したかのような沈黙をあたり一面にぶちまけていたが、そのような惨憺たる有様を尻目にしながら、影の男は、自分だけが言葉を口にして止まってしまった時を再び押し動かせるとでも言いたげな傲慢さを顔にちらつかせながら、まさしくその通りに自らを行使したのである。
「いかにもその通りだよ。私はパウロだ。だがそれがどうしたっていうんだい……」
 そう口にした彼の腹の底から引きずり出したかのような嗄れ声にエノイッサは総毛立った。逆光でよく見えないがそこにはあの、侮蔑に満ちた燐光をたたえた二つの瞳が、きっと亡霊のように浮かんでいるに違いないのだ。さわれば指先の皮がずるりと剥けてしまいそうなほど冷えきった青白い頰……  皮肉と嘲りに歪んだ真っ赤な唇…… それは異様なまでに司祭パウロだった。そして、この時エノイッサは常日頃、彼の顔に浮かんでは消えていたあの憎悪に満ちた嘲笑たちが、一体何に対して向けられていたものであったかをそれとなく感じ取ったのであった。彼女がどぎまぎして突っ立っていると、影の男―司祭パウロはこちらに向かって歩み寄り始めた。
「そんなことより…… 私がパウロだとか、ペトロだとか、そんなくだらないことより、君の方こそエノイッサ、君はどうしてここにいるんだ?」
 彼が突き進むと、黒聖餐の一座はモーセによって破られたエジプトの海みたいに道を掃除した。
「そこで後ろ手に縛り上げられて、異端者のように突っ立っているのがどうして君なんだろう? エノイッサ……」
 すると微笑が、司祭パウロの微笑が逆光の中からじわりじわりと溶け出して、徐々に立ち現れ始めたのだった。それは狡猾な笑み―こちらの答えを否応なしに引き出そうとする、詰問に近いあの笑みである。
「ええ、どうしてでしょう。私にもよくわからない…… どうして今ここに突っ立っているのか自分でもわからない…… 本当、馬鹿みたいに。ええ、どうして私はこんなことになっているの?」
 エノイッサは身を強張らせて、歯をちらりと覗かせた半笑いで。それは司祭の刺すような微笑に対する見せかけの追従に過ぎなかった―その証拠に、先ほどからの汗が大きな水玉をつくってこめかみを滑り落ちているではないか。
「…… すごい汗じゃないか! それにぶるぶると震えて…… どうしてそんなふうなのか、一体何をそれほど怖がっているのか…… なんだか私には、君がひどく怖気づいているように見えるよ。ああ、何をそれほど…… ああ、でも分かるよ、そう、分かる……  君がどうして怖がっているのかが僕には分かっているよ…… しかし見たまえ」
 すると背の高い司祭は顎を突き出して、自分の周りに白く拡がる有象無象たちを、ぐるりと指し示したのであった。
「怖がる必要なんて何もない。何も怖いものなんかここにありはしない…… そうだろう? どうして怖がる必要なんかある? …… だから、さあ言うんだ。君はどうしてここにいる? このことをどこで聞いた? 誰に聞いてここにいる?」
 司祭が言うと、羊のように真白で従順な人々の群れは、各々が互いを詮索するような眼差しで以って睥睨し合った。彼らは司祭の言葉―エノイッサのみでなく、自分たちに向けられたようなその言葉の詰問調に耐えかねたのだ。なぜならその視線の交錯にはある種の怯え―秘密の集会のことをどこぞの馬鹿がこの間抜けな尼僧に口漏らしたのではないかという、疑念に苛まれた怯懦が透けて見えていたからである。
「こんなこと、聞くわけないじゃない……」
 エノイッサはごくりと喉を鳴らしながら言った。
「なんでこんなこと、どこかで聞くことなんてあるの……」
 彼女は周りをぐるりと見渡して言った。
「こんな侮辱に満ちた……  馬鹿げたこと。……  だって、もしこのことが分かっていたのなら私、こんなところへのこのことやってきたりなんかしただろうか? こんな時間に……  こんな場所へ。本当に、私は気付いたらここにいたんです。彼を探して……」
 そこではっとしたように、
「ああ、そうだ、そうよ! 司祭パウロ、私はあなたを探してふらふらしていたらここに……  本当! 司祭、私はあなたを探していたんです。やっと、やっと! お会いできてよかった……

と、やにわにぱっと喜びの表情をその顔に輝かせたのである。それはまったく取ってつけられたようなのだったが、実のところ本心に違いなかった。
「なんだ、全部聞いていたんだな…… そうか、君にはこれが侮辱に見えるのか。これは…… その、馬鹿げたことであると」
 悲しいことに、哀れなこの女が夜の暗闇の中を人探しのためにふらふら彷徨い歩いていたなどというのは、司祭パウロにとってはまったくもってどうでもよいことに違いないのだ……  それよりも、そんなくだらないことよりも、彼にとってはもっとずっと重大な言葉があったらしい。それを気にしてか、司祭はただでさえ晦渋なその眉根をぎゅっと絞り詰めて、鹿爪らしさで顔を一杯にした。
「その通りだ……  君の言う通りだエノイッサ…… これは侮辱と、それから……  ああ、馬鹿らしさに満ちているね? これはてんでお粗末で、まったく当を得ないで、不毛で、それから……  ひどく馬鹿げていることだっていうんだね、君は……  そうだ、その通りだ! 我々は君の言ったことを認めよう…… 一言一句違わずに…… すべて認めようじゃないか。だがその上で言っておく。君の言ったことをすべて認めた上で言っておく。我々はひどくまじめなんだよ……  エノイッサ、分かるね? まじめもまじめ、まじめもいいところで……  見たまえ、君のよく知っているジャンヌは、こんな馬鹿げたことをまじめくさってやっているところを君に見られたことが恥ずかしくてたまらないらしい……  ひどく赤面しているね」
 突如名指しされた修道院長は驚愕に身を強張らせて面を上げた。心外だとでも言いたげな表情を作って。だが実際、やはりそれは司祭の言った通りなのだった。
「つまるところ、これは、その、なんだ…… 儀式だ、ある種の…… そう、聖餐だ。これは聖餐と一緒だ。真面目なのも、馬鹿馬鹿しいのも全部聖餐なんだ」
「聖餐だって?」
 エノイッサは驚いたように、
「聖餐と一緒だって? これが…… それは本当? 実のところ、私ぜんぶ聞いてたけど……  ああおかしい! まじめまじめって言うけど、これのどこがまじめだっていうの…… 冗談はよしてよ! こんなもの…… てんでお粗末で、まったく当を得ないで、不毛で…… そうよ、気味が悪い! 奇怪だわ、こんなもの……」
 彼女は司祭に対して、唾を吐くとも思われかねないほどの挑発的態度を示した。実際それは、この訳の分からない―気味の悪い集まりに対する烈しい嫌悪の発露に違いなかった。司祭は謗りの言葉を黙ったまま聞いていたが、やがて言った、
「…… 気味が悪い? 気味が悪いって言うけど君は…… ああそうか、君も騙されているんだ、こいつに(と言って、司祭はイエスの方をちらりと見た)。だがそんなもの、幻想なんだ。それは、君の印象はすべて幻想に過ぎないんだ。今に分かるよ……  奇怪で、気味が悪いだと……? ああそうだ、ならば聞こう、一体どちらが奇怪で気味が悪いかね、我々と、この男と」
「いったい何を言っているの? あなたは……」
 エノイッサが返答に窮すと、司祭はにやりと笑って続けた。
「ぜんぶ聞いてたって、君は今確かにそう言ったじゃないか。それなら分かるだろう? さあ、早く答えてみろ……」
「それは、当たり前よ」
「そうだ、当たり前だ」
「それは、あなたたち……」
「たった数年の行脚のうちに数多くの世迷言と奇怪な行いによって大衆を惑わせて、のみならず、死してなお世界中を亡霊のように歩き回りながら(おお、実のところ、その行脚はまだ終わってはいないのだ)後代の人間にまで憑りつき、彼らを意志の否定へと追いやり自死せしめた―あるいはそうでない者たちをも、流血と悲惨の闘争へと駆り立てて、結果として、我々の世界史に未曾有の大死山血河を築き上げたその張本人に違いないね」
 司祭パウロはエノイッサの言葉を遮るようにして言ったのである―皮肉と、勝ち誇ったかのような愉悦に口の辺をゆがませて。
「そうだ、そして彼のもたらした火はまだ燃え続けているのだ。明々と―今まさしく、この瞬間にも燃えているのだ。あるいは我々が燃やし続ける―分裂の炎だ。教義の為の闘争によって、異端審問によって、あるいは魔女狩りによって。我々は今まさしく、イエスの最初投じた火の前に立っている。そして、これが何より重要なのだが、ひょっとすると、我々にしたって、この聖なる火に焼かれた屍体となるやもしれないのだ」
 彼が明らかに憎悪と分かる感情をたたえながら、憤然としたかのように自身の真っ赤な唇を開き、そこから紅い舌をちらちらと覗かせるのは、まるで火を吐くかのようなのだった。それを見聞きするとエノイッサは何かの暗示にかけられたように、その瞳の中では司祭の輪郭が解けた糸よろしくばらばらになって、松明の白光の中へと溶け込んでいくのだった。次第に、羊のように真白で従順な人々の群れ、その中で阿呆らしく突っ立っている青ざめた修道院長、壁一面を覆いつくす骸骨たち、この薄明かりの中でいかがわしく映える壁画や彫刻から赤い布をかけられた血のような祭壇から逆さ十字のイエスにいたるまで、ここにある存在のすべてが、まるで画家が絵の具をかきまぜるように、べっとりとした色彩へと混濁し渦巻いて、ごうごうと燃え立つかのような耳鳴りをもたらしながら猛り狂ったのである。
「どうしたんだ、ええ?」
 司祭パウロはエノイッサの顔を覗き込みながら、
「緊張してしまったんだな! きっとそうだ。おい、聞いているのか、エノイッサ。どうした、これが恐いのか? それともこの私が怖いのか? この私の話に、何か恐ろしいところでもあったっていうのかね……」
 エノイッサは恨めしげに彼を見やって、
「恐ろしいって…… 恐ろしいに決まっている」
と、答えた。すると司祭は何やら不敵に笑って、
「恐ろしい? 恐ろしいかね? だが言っておくが…… 憎しみを持たない信仰などない。怒りを持ちえない人間などいない…… つまりはそういうことだ」
と、彼はエノイッサの肩に両手を置いた。
「そうだ、憎悪と憤怒なのだ。それは弾劾だ、徹底的な…… 排斥などとは生易しい、破壊によって消失せしめようとする。分裂だ! 分裂の炎だ! おお分かるか、分裂の聖なる炎は、いわば憎悪と憤怒の熱に猛り狂うのだ。なぜならイエスがそれを許したから、自由を与えたもうたから! 〈恐ろしい〉とエノイッサ、君がそう言ったことには、つまり、私の言葉もイエスの投じた聖なる火によって燃え盛っているにほかならないからだよ…… その炎が、分裂の炎がどれだけ熱く烈しいものかということは、君も火刑を見たのなら知っているはずだ。そうだ、それは君も知っての通りだ。おお、叫びよ! 恐ろしいこだまよ! 光よ、灼熱の煌めきよ! 人を燃やす、灰燼へと帰せしめる炎。世のすべては灰に帰すのだ、solvet saeclum in fabilla」
 彼は何やら熱っぽくうわごとのように、
「Dies irae, Dies illa…… そうだ、イエスの投じた火、そして我々の焚きつける火、すなわち分裂の火、この火が地上全てを覆いつくす瞬間もまた怒りの日となろう。我々は、我々自身の灯す火によって燃やし尽くされる…… 我々は我々によって、審問され、裁かれ、そして滅ぼされる! Dies irae, Dies illa, solvet saeclum in fabilla…… 我々すべてを溶かしてしまうこの火とは…… つまりはそういうことだ、ええ、その瞬間なのだよ! そして来るべき審問者とはほかならない……」
「妄想だ!」
エノイッサは苛々としたふうに叫んだ。
「妄想だ! ぜんぶ、そんなもの…… なんだかわけが分からないわ、ええ、司祭さま」
 するとパウロは「よろしい」と言って、
「お前の言うことももっともだ。妄想だって? 結構じゃないか…… 妄想で結構。だがよく考えることだエノイッサ…… 私の言うこれが妄想、一つの妄想に過ぎないって言うんだね、お前は…… こんな馬鹿げた妄想を、わざわざ自分に言い聞かせることはないと、こう言うんだね? ああそれならばお前は、私のこれが妄想だって言うんなら、お前は…… この世における悲惨な有様までをも同じように片付けてしまおうというのか? 否定して、あまつさえ背を向けようというのか? ああ、そんなことをしていいものか、それが許されるとでも思っているのか? 見ろ…… これは現実なのだ、この悲惨な有様はすべて現実なのだ! 悲惨な現実が牢固として立ちあがり、今我々の目の前に拡がっているではないか! だから…… ああ、お前がどれだけ否定しようが、それを否定することはできないのだから…… そんなこと、お前ならよく分かっているだろうに、エノイッサ」
 彼はなんとなく哀れむふうに言ったのである。
「それでイエスははっきりと言っているのだ、〈俺が世に火を投げ入れた張本人だ〉…… エノイッサ、お前が妄想だと言った私の妄想は、現実に起きていることと聖書に書かれてあることがぴったり合致するという、本当にただそれだけのことなのだよ。それだけの話さ」
 エノイッサが「私は別にそんなこと……」と言いかけると、彼はこちらを睨めつけて、
「ええ、エノイッサ、白痴ぶるのもたいがいにしておくがいい……」
と、凄みのある声で毒づいた。彼女はたまらず、
「ああ、分かっているわ、私にだってそのくらい……」
と、先ほどから続く眩暈のような感覚に侵されながら呟いた。
「いちいちそんなこと言わなくたって、分かっている」
「…… まあいい、こんなこと言ったってしょうがない。大昔に生きていたたった一人の男、それも世界史に未曾有の大屍山血河を築き上げた犯罪人に惑わされるなんて、なんと馬鹿げたことだろう、そうじゃないかね? でも、その彼の言葉に惑わされているというのは、実は私にしたって同じなのだがね。ああ、我々はその馬鹿げていることを繰り拡げている最中なのさ、今、ここでこうして……」
 そう言った司祭の顔には侮蔑の表情が浮かんでいた。それは見るものすべてを踏みにじろうと欲するあの嘲笑である。憎悪と憤怒と嘲笑、これらなくしてはあたかも司祭は言葉を最後まで語り得ないかのようであった。
「…… さて、そんなことより、問題は君についてなんだが。夜こんな場所にのこのことやってきて秘密の集会を盗み見た奴をどうするかということについてなんだが。エノイッサ、それは君にしたってよく分かっているはずだ……」
 場は色めき立った。まるで今までこのこと―夜こんな場所にのこのことやってきて秘密の集会を盗み見た愚かな女の処遇について、誰もが失念していたかのように。一座の連中はごそごそと何やら囁きあった。
「こんなこと、本当に言うまでもないだろう。これを見られた以上、〈さあどうぞ、お帰り下さい〉とか何とか言って、ただそれだけで君をつまみだす訳にはいかない、分かるね?」
 エノイッサが黙ったままでいると、
「分かるね?」
と、司祭は再度尋ねた。棘を含んでいるかのようなあのしわがれ声で。エノイッサは怖気づいて一度こくりと頷いたのだった。(脅されている…… 脅されているんだろうか、私は?)それは恐ろしい考えだったが、事実に違いなかった。(つまみだす訳にはいかないって、それで私をどうしようっていうんだろう?)
「脅しているんですか、私を」
「とんでもない! これは脅しでもなんでもない。これはある種の…… そう、心遣いだ」
 だがエノイッサは言葉の持つその冷たな感触に慄いた。ここに彼女は自らの身の危険、すなわち自分に対する相手方の悪意といったものをはっきりと認め得たのである。当然のことなががら(痛い目に合うだろうか?)という心配事がまず起こる。するとこの考えはたちまち(大人しく言うことを聞いた方が為かもしれない)というふうに変化する。これは彼女のような臆病者の心情においてはごく普通のことなのであって、こうした連中は不安が募って行き過ぎるとおしまいには、
「私を…… どうしようっていうの?」
と、そのことばかり知りたがるようになるものなのだ。
「痛い目に合わせるかもしれない」
 司祭はこの恐ろしい言葉を、まるで自分がいつも福音書を朗読する時のような、平坦で心のこもらない口調で言ってのけたのである。
「だが大丈夫だ…… そんなことになりはしないから。大丈夫、君さえ言うことを聞いていれば……」
 それはエノイッサが怯えるのを面白がって楽しみ弄んでいるかにも思われたくらいである。
「このことを言いふらされたら困るからだ…… こんなこと言うまでもないが。君の選ぶ道は二つ、進んで我々の言いなりになるか、無理にそうさせられるかだ」
と言うと彼は身振りで以てエノイッサの拘束を解くよう命じたのだった。突然、その体がするりと男の腕から滑り抜けた彼女は、まったく自由になってその場に立たされたわけである。松明のぱちりと爆ぜる音が大気に染み渡った。それは薄く細く引き伸ばされた針金のように厳しい音色で、先ほどからの出来事にも増して、エノイッサの焦燥を煽り立てたのであった。彼女はぐるりと周囲を見渡した。それはあたかも逃げ場を求めるかのように―そこに自らの安全を保障するものは何一つないと知りつつも、あえてそれを探し出そうと試みるかのように。(進んで我々の言いなりになる…… だって?)頭の中で繰り返した。…… だがそこには一体何があったろう? 羊のように真白で従順な人々の奇妙で奇怪な集い…… 血のように真っ赤な布の被った祭壇を前にして執り行われる、いかがわしい、何やら訳の分からない儀式…… 誰もが間の抜けたような面を晒しながら、てんでお粗末でまったく当を得ない不毛な馬鹿げたものの所産であるこの集いを、まじめくさって作り上げている。(私が言うことを聞く? こいつらの!?) エノイッサはおかしみすらこみ上げてきてあやうく噴き出しかねないほどであった。表情は、人が軽蔑に値するものを見た時の、あの引き攣った笑いによって破砕せしめられたのである。(そんなの全然お話にならない!)実際そうではないだろうか? いったい何が悲しくて、この訳の分からない集いに顔を連ねて、間抜けの仲間入りをしなければならないのか? こんなもの、必要がなければ即座に「否」と答えてやるところである。しかし当然のことながらそういうわけにはいかなかった。
「…… 分からない。私には何が何やら。私は一体どうすればいいの?」
と、彼女は言った。それはどちらかというと否定的意味合いに聞こえたのであった。パウロは少し驚いたふうに目を見張ったのである。「自分がかわいくないのか」とでも言わんばかりに。彼女の曖昧な返事は当然のことながら彼を満足させ得なかった。司祭は食い入るような、ぎらぎらとした目つきで以て尼僧を苛み続けた。エノイッサはそれ以上何も言葉にすることが出来ない。彼女の頭の中では、用意することの出来るいくつかの答え―肯定のものも否定のものも―がぐちゃぐちゃに混ざり合って、どちらともつかない中間色となり果ててしまっていたのである。混沌とした思念によってでは、何をすることもかなわないのだった。再び静寂の支配する時がやってきた。だがそれは火の持つような静寂であり、エノイッサはもちろんのこと、彼女を見つめる司祭パウロ、そして二人に傾注する群衆と、皆が皆、各々がぎらつく意思をこの地下墳墓内にたぎらせているようだった。饒舌以上に雄弁なこの静寂は、熱風のようにひりひりと肌を焼くのであって、それはエノイッサに発汗と渇きをもたらしたのであった―まるで無理に言葉を炙り出そうとするかのように。しかしそれが一体何になったろう。理性の蒸発しきった頭に一体何を期待することが出来ただろう。砂漠のように干からびてしまった土地からはいかなる水も汲むことが出来ないのと同様に、エノイッサの唇からはいかなる言葉も取り出せえないのである。と、突然、
「お前は一体誰だろう?」
と、そうした声が聞こえた。それは緊張し切ったこの場においてはひどく突飛に間抜けに聞こえるものであって、おそらく司祭などはその弁えのない不躾な調子に憤慨したのではないかと思われた程である。概して司祭職にある者はこうした場違いをひどく毛嫌いするのであるから。それは例えて言えば、弦楽合奏において、弱音で歌わねばならないごく張り詰めた旋律を、一人が調子外れな、厚かましい騒音でがなり立てて台無しにするような、あの悪趣味さと不遜さであった。実際パウロは睨みつけるようにして声のした方を振り返った。呟きは、彼の近くにいた何者かが発したのであった。
「そうだ、お前には見覚えがあるぞ」
声の主は続けてこう言った。エノイッサもその方を見やると、目の前に立つ司祭パウロのすぐ後方に、二つだけ異様な光をたたえた瞳が爛々と、こちらを真っすぐにとらえていた。それは蛇のような睥睨―獲物を捕えて喰ってしまおうとでもいうような、あの貪欲さに硬直した視線である。
「俺はお前を見たことがある」
エノイッサは初めちょっとの間それが誰だか分からなかったが、すぐに合点がいった。忘れもしない、その異様に黒々とした髪、ぎょろぎょろと爬虫類の獲物を見るような眼、傲慢さを象徴するかのように高く反りあがった鼻…… これはあいつだ、あの行政長官ではないか。どうしてこんなところに……? それで、今彼がこちらに話しかけてきたその意図とはいったい何だろう? エノイッサは突然のことに面食らって、
「こんばんは……」
と、挨拶した。するとパウロがちらとこちらを見やったが、彼はどうやら可笑しさに顔を歪めているらしかった。それどころか、黒聖餐の一座の中にも笑いだす者たちがちらほらと見受けられた。それはきっとエノイッサの間抜けな振る舞いに対する嘲笑だったに違いない。
「尼さん、俺はお前のことをよく覚えているよ……」
 彼はこちらを指さして言った。
「臆病で卑怯な尼さん! お前はあそこから逃げ出したんだ……」
 エノイッサは恥ずかしさに顔を赤らめて、
「私がいったい何から逃げ出したっていうの……」
と、口元でぼそぼそ呟いた。
「自分がいったい何から逃げ出したのか、だって? とぼけなさんな、分かっているくせに…… 俺はあの時あそこにいた。全部見てたじゃないか…… あなたはあの可哀そうな豚を見捨てて、逃げて……」
 こう言った行政長官の唇は嗜虐の喜びに震えていた。そう、それは間違いなくあの時あの場所に―牢獄に証人として立っていた行政長官、ガイスその人だったのである。
「あいつは今どうしていると思う? いかなる苦痛に身悶えしていると思う?」
 彼の口からは忌々しい程に悪趣味な言葉が漏れ出てくる……
「なんで俺がここにいるのかって顔をしているな。そんなに不思議だろうか? 俺がここにいることが、そんなに分からないことかね? 簡単なことだ、金を出しているのだから、俺がこの集いに……」
 行政長官―ガイスはそれを言うことがまるで義務ででもあるかのように傲然と厚かましく言ってのけた。ここにいるすべての連中が自分の僕であると見下すように顎を突き上げて、そうすることによって得られる満足を表情にして。しかしこの新しい事実―ガイスがこのような奇怪な場所においても金の力にものを言わせていて、それが為に今彼はここにいるのだという事実は取り立てて何の印象もエノイッサには呼び起こさなかった。というのは、夜の地下墳墓でこれだけ奇妙な出来事が繰り広げられているのだから、何があっても別段驚くに値しないという、あの無感覚に近い意志の働きがあったためである。つまるところ、ガイスの衒いは尼僧に対して、それほどの威力をもたらさなかった訳である。
「だがまあいい…… そんなことはどうでもいいんだ。お前がどう思おうが構わない。問題はお前だ、お前自身のことだ。…… 司祭はああも優しく言ったが、俺は、その、はっきりしてもらいたいね。これを後ろ立てている身としては…… 身の証を立ててもらいたいね。お前はなぜここにいる? 先程、司祭を探していたとか言っていたが、それはなぜだ? ああ、分かっている、この質問は二度目だ。だがお前はさっき答えずじまいだったではないか。どうしてこんな夜中に司祭を探してほっつき歩くことがある? 場合によってはお前……」
 このガイスの言葉には何やら不吉な、重たい響きがあった。抑えたような声音だったが、それが為に却って、どす黒い感情の動きが一段と明らかになるみたいだった。それはちょうど要人を隠すための厳重な警戒が逆にその存在を知らしめてしまうかのように。(場合によっては、だって?)エノイッサは身震いを起こした。(場合によっては、どんな目に逢ってしまうのだろう、私は? だけど本当に偶然、偶然なのに! 私に罪はないわ…… でも、ああ、言ったものだろうか! こんなみんなの目の前で…… 私がなんの為に司祭パウロを探していたのか…… ええ、きっと言わない方がいい! でも言った方がいいのかもしれない…… どう思われるだろう? こんな馬鹿げた…… どう感じられるだろうか? ああ、私はなんと言えばいいのだろう? なんと言えば…… 分かってもらえるのだろう?)本当におかしなことだが、彼女は、自分がそれを口にするのはマリアの魂をこいつらに売り渡すに等しい行為なのではないかと恐れたのである。その魂は唇から滑り抜けて、永遠に助からなくなってしまうような気がしたのである。
「ええ、それは、その理由は……」
 彼女はこの場合多くの臆病者がするのと同様に、何かとって代わるようなでたらめを考え出そうとしたのである。少しだけ本当のことを言って、他はすべて嘘によって塗り固めてしまえば、ごく尤もらしくそれでいてマリアのことなどきっとおくびにも出さずに済むに違いないと思ったのであった。しかし今度は司祭が、
「どんな理由かね?」
と、急かすように尋ねてきた。…… まったく、先ほどは聞く耳すら持ってくれなかったというのに! どうして今まさに思い出したように尋ねるのだろう? これはガイスの持つ威力だろうか? 彼が聞いたから、司祭も同じようにしたのだろうか。だがこのように、逡巡することが許されないのであれば―うまいこと嘘をでっち上げるのに十分な時間すら与えられないというのであれば、エノイッサは、いっそのこと全部真実を言ってあとは全部成り行きに委ねてしまおうという気を起こしたのであった。(ええそうよ…… いったい何の悪いことがあるだろう? 構うものか)それはまさしく一瞬の翻意、彼女はその考えに飛び込む決心をした。思い切りによる一瞬間の恐怖心が、意識をどこかへ連れ去ろうとした。
「私は、自分の可哀相な友人のことで…… 司祭パウロ、そのことであなたにお願いすることがあって……」
「何、一体何の話かね?」
と、パウロがいやに荘重に聞いた。それが何か自分を煩わせるようなくだらないことであれば容赦しないぞ、とでもいった具合に。
「それは、その、私の友人のことです。マリアです、あの娘のことです! 司祭パウロ、こう言えば何もかも分かってくださると……」
 エノイッサはどぎまぎしながらこう述べた。すると司祭は、表情筋こそ動かさなかったが、それで却って怪訝をよく示したのである。
「ああ、マリアかね」
と、彼はわざとらしく勿体ぶって言った、
「分かっている…… よく分かっているよ。ところで君は、本当にそんなことのためにここへ来たのかね(彼はガイスにちょっと目配せした)? 私にそれを言いに? マリアのことをなんとかしてくれと、それを言いに来たのかね? …… ああ、たぶんそう言いに来たんだ、そうなんだろう、私には分かるよ。エノイッサ、だがそれは、私が君のその言葉を聞き入れると思ってのことかね……」
彼は少し間を置いてからこちらの顔を覗き込んで、
「そんなこと、考えなくても分かるだろう!」
と、苛立ちを露わにしながら叫んだ。 
「よろしい、よろしい。悲惨な目に逢っている彼女を、マリアを君がどうにかしてやりたいと思うのは当然のことだ。友人として…… 尤もなことじゃないか! だがそのために私が何かしようなどということはありえない、決して」
 彼の言葉が進むにつれエノイッサは次第に、落胆というよりはむしろ子供らしい悔しさ―ここで自分がどうにかすれば状況は好転するかもしれないという、分別を弁えないあの焦りに身を焦がされていった。彼女はぎゅっと唇を噛みしめて恨めし気に一時司祭を睨みつけていたが、
「なぜですか?」
と、聞いた。
「なぜ、なぜって…… 君がそれを聞くのか? ええ、エノイッサ」
司祭パウロは呆れたふうに、
「分かっているじゃないか…… マリアはしてはならないことをした。だから今監獄にいる。とても簡単でそして…… 当たり前のことだ」
「だって…… でも! あの娘は悪いことなんて何もしてない! 何もしてないじゃないか、私が思うに…… たとえあの娘が悪かったにしても、それが、あの監獄にぶち込まれるようなことだろうか…… ああ、マリアだけじゃない、あの人たちだって…… 魔女魔女っていうけれど、そんなの、魔女なんてものどこにだっていやしないんだから。ええ、あなたたちは見たことがある? 天候を操ったり、空を飛んだり、美しい乙女を毒殺したりするような魔女なんてもの…… そんなの、いったいどこにいるんだろう? ひょっとしてここにはいるのかしら?」
 当然、これを聞いた司祭パウロの表情は急に険しくなったかに見えた。彼はまた眉根をぎゅっと寄せて、うつむき気味になった顔には黒い影がさっと幕を下ろした。そしてどうやら、この忌々しい分からず屋の尼僧に浴びせかける冷酷な言葉をなにかと探しあぐねているふうにも見えたのである。
「なるほど」
と、ここでこれまで黙って聞いていたガイスが口を挟んできたのであった。
「なるほどな、お前たちが話しているのはあれだ、あのことだ…… あいつのことだろう? ほら、あの尼僧…… 牢破りを企てて魔女を逃がそうとしたあの大犯罪者のことであろう? 俺には分かるよ」
 大犯罪者などとマリアを評したその言葉を耳にしたエノイッサは、途端にさっとのぼせ上がってしまった。それは押しつけがましい義憤―相手方の間違った恥知らずな考えを、正しい方にねじまげてやろうなどという、往々にして実行しないでいた方が良いと思われる計画を頭の中にぷかぷかと浮かべるあの腹立たしさである。
「ええ…… 確かにあの娘はそんなことをしたかもしれない。でもそんなの、尋問や焚火の苦しみに比べたらいったい何だって言うの? ああ、あの娘は、マリアは悪い人間じゃない! それは私がよく知っている。あの娘がそんなことするなんて、絶対、何か理由があったはずだ…… 何かやむにやまれない理由があってそんなことをしたんだ。そうよ、だって、あの娘はそんな娘じゃないから。私はよく知っている…… 知っているのよ! だからどうかお願い、司祭パウロ、彼女を助けてください」
 すると横でガイスがほくそ笑みながら「司祭パウロ」と言った。
「絶対にそいつを助けてはならない」
 彼はそのいやらしい笑みをどこまでも引き伸ばしながら、
「エノイッサとやら…… そいつは詭弁だ、滑稽だ。いったい如何なる理由があってお前のお友達とやらは救われなければならんのかね! 理由があるから、理由があるなどとお前は言うが、たいていの悪事には理由がつきものだ…… そうではないか? そいつはしてはならんことをした、だから捕えられた。当然のことだ。お前まさか、司祭の情に訴えようとしているのじゃあるまいな? 馬鹿な! そんな馬鹿なことが…… そんな子供じみた、小便くさいことが…… は、は! 魔女を助けようとしたなんて、一体どんな理由があって許されるのだ? だって、そんなの、魔女を助けようとしただなんて、他ならない魔女の所業ではないだろうか」
「あの娘は魔女ではない」
 エノイッサはわなわなと唇を震わせながら。するとガイスが、
「そいつか魔女かどうかなんて、裁判で分かることだろう」
と、無関心なふうに吐き捨てた。
「…… 裁判? 今あなた裁判って言ったけれど、裁判とはあれのこと? あの拷問のこと? …… ああ、あんなもの、いったい裁判と呼ぶにふさわしいものだろうか? ああ、私は苦しくって見ることすら耐えられない…… もう何人も何人も見てきたわ、あれによって地獄のような責め苦を受けて殺されていった人たち…… 実のところ、あの中に―私が見た人たちの中に、恐ろしい魔女なんて、ただの一人もいなかったように思う。苦しみの果てに、みんなあることないこと出鱈目を喋っていくの…… ああ、それで、マリアは今どうなっているだろう? ああいやだ、いやだ、考えるのも恐ろしい! 魔女なんてそんなもの、嘘っぱちだ! みんな全部あれもこれも嘘よ、大嘘! 嘘っぱちなんだから!」
 エノイッサは息を切らして、瞳をぎらぎらと輝かせて、そのような興奮を抑えきれない様子でまくし立てた。それをパウロは蔑むように睥睨して、ごく冷淡に諭した。
「エノイッサ、それ以上言わない方がいい」
「なら、マリアを助けて」
「そんなことができるものか」
「なぜです」
「聞き分けのないやつだな……」
 しかし実際、エノイッサ自身にしてみても、この頼みごとがいったいどれほど馬鹿げたものであるかということはきちんと了解していたのである。ただ彼女は他にやり方を知らなかっただけなのだ。
「それとも」
と、ガイスがまた横やりを入れてきた。
「お前をそいつと同じ境遇に立たせてやってもいいんだが」
 エノイッサはびっくりして彼を睨んだ。言葉をよく呑み込めない、というよりむしろそれを拒否するかの様子で。もちろん彼女はもう散々そのことを念頭に置いてきた。自分にこの暴力が飛び火したらどうしようかなどと、もう何度も何度も考えあぐねてきた訳である。しかし実際にそれを目の前に突きつけられると、どれだけ入念に準備された意志であっても尻込みするものだ。なぜならそれはあまりにも―そう、恐ろしいことであって、考えを持て余した頭脳が安全な場所からそれを想念として弄ぶに止まるのであれば、習慣の力もあって鈍麻された感覚には、それほどの脅威ともならない。しかし実際に発音されて言葉として耳に突きつけられたそれは、習慣化された思考ではまったく太刀打ちできない、お話にならないほどかけ離れた刺々しさをたたえているものである。というより、あたかも二つはまったく別のもののような印象を持っていて、エノイッサは、もう頭で何度も繰り返したはずのその想念に対して、初めて耳にするような新鮮さにひやりとする感覚を覚えたのである。そして、このガイスの言葉の真の意味はこうだった。
「お前に魔女の嫌疑をかけて今すぐこの場で逮捕してやろうか」
 それは行政長官の強い嗜虐心によって歪められたごく俗悪な考えに違いない。例えばエノイッサは、この醜悪な言葉に対して「冗談を言っているの?」と問うことも出来た。しかし彼女は、魔女と言われて連行される時には、たとえそれがどんな言いがかりであっても真実とされ有罪とされてしまうことをちゃんと知っていた。文字通り、冗談では済まないのである。そこにあっては如何に荒唐無稽かつ馬鹿げた空想も現実のものとして捉えられてしまうからである。それにまた―これが尼僧にとって何よりも重要なことだと思われたが―魔女という罪状を突きつけられた者が往々にして発する言葉こそ「冗談ですよね?」とか「何かの間違いだ」などといったものなので、こうした台詞をここで口にするのは、何かとてもまずいことのように感じられてならないのだった。エノイッサはおずおずと、
「今すぐに?」
と、聞いた、針先を指でつつくような慎重さで。
「私を捕まえるって…… そうやって言うけど、あなた、本当にそんなことが出来るの?」
「できるさ。ここには司祭だっている。なんだってできる。なぜなら俺にはそれが出来るから、やろうと思えば…… お前みたいな小娘、なんでもないことだ。お前を拷問にかけることは、俺にとっては、自分が歩いている道の上の葦を杖で折るようなもの、いや、実際にはその程度の関心すらないことなのだ。なぜならそうすることによって俺は何の利益も得られないのだからな。ああ、だが、それでもなお、お前の拷問に当たっては、法に裏付けされた厳しい手段によって、お前に自供させる! それは天の目から見れば喜ばしい作業を行っていることになるのだ、そしてそのことが私に利益をもたらす…… ああ、俺が誰だか知っているな? 名前を言ってみろ。俺には力がある、そしてこれは本当に強い力だ。尼さん、お前が思っている以上にね…… 俺はこの集まりに金を出している。だからこそ…… いや、そんなことお前が知らなくたって結構。とにかく、俺が一言〈捕えろ〉と言えばここにいる奴らは全員、一人残らず、お前を捕まえようと躍起になるにちがいない…… それはとても確かなことなのだ」
ガイスの言葉には確信とそれによる満足がありありと見えていた。事が起こってみないことにはどうなるかは分からないが、彼は自分の言ったことをそれこそ寸分違わずに信じ込んでいるみたいなのである。(ああ、私を捕まえる、捕まえるって言うけど、本当に捕まえられなければならないのはあなたたちの方じゃないのか? ここで、こんないかがわしいことして)エノイッサは反抗的なむっとした顔をして彼を見返したのだった。
「魔女をかばおうとする者もまた魔女であるに違いない。俺の言おうとしていることは分かるな、エノイッサとやら。お前も馬鹿ではあるまい。自分からみすみす捕まるような真似をするのか? ああ、それに、その同情心は多分…… それはきっと利己的なものに過ぎないに違いない。だって、そうじゃないか、お前は、自分の身かわいさにお友達を心配して、やきもきしているのだ。もし違う、そうじゃないっていうんなら言ってみろ、〈彼女を助けて下さい、その代わり私は痛めつけられたり焼かれたりしたって構わないですから〉……」
 エノイッサはうんともすんとも答えなかった。彼女は放っておけば黙ったままずっとそこに立ち尽くしていると思われたほどみっともない棒立ちを見せていた。瞬きを頻繁に繰り返しながら、唇を僅かばかり開いて、呆けたように固まっていたのである。
「言えないだろう、絶対に言えない!」
 ガイスは勝ち誇ったかのように言った。事実、エノイッサがそれを―自分の身を顧みないでマリアを救おうとする一言を口にすることができないのは、誰の目にも明らかなのだった。
「いいえ…… 私は別に、そんなことはないけど……」
 彼女は手で顔を隠しながら言った。
「ああ…… でもそんな、拷問なんてもの、火刑なんてもの、考えるだけで恐ろしいじゃないか…… そんなものを目の前にちらつかされて、それでも平気な人間なんているのかしら? そうよ、誰だって、きっと私のように怖気づいてしまうに違いない」
「だがマリアはそうではなかった」
パウロが言った、まるで叱りつけるかのように。そうしてエノイッサを言葉によって鞭打ったのである。彼女はひきつけを起こしたかのようにびくりと身を震わせた。次第に顔を上げると、その瞳は何か恐ろしいものでも目の当たりにするかのように見開かれていた。
「だがマリアは君のようではなかった! エノイッサ、君のようではなかった」
 司祭が厳かに付け加えた。(本当に、本当だろうか?)エノイッサの頭蓋内にはマリアに直接呼びかけたい欲求、彼女自身の激烈な言葉が響き渡ったのである。(あなたが怖気づかなかったって本当? 本当のことだろうか…… ああ、あなたは今の私を見てなんと言うだろう?)
「彼女は素晴らしい、素晴らしいじゃないか、エノイッサ、君と違って…… 私はあの娘に、何か得体の知れない崇高なものを感じて、まったく恐れ入るくらいだよ。しかし、それとこれとは話が別だ、当然だが。彼女は裁判を受けなければならない。魔女を救おうとしたから。それがどれだけまずいことであるか、君にだって分かるだろう」
「いいえ、私には分からない…… あの人たちを助け出そうとすることが、いったいどれだけ悪いことだか…… いったい、マリアの行いを断じるに足るものがそこにはあるのかしら?」
 エノイッサが言うその横でガイスは満足げな笑みを浮かべていた。彼はどうやら、この小娘が一人やきもきしているのを見るのがたまらなく面白かったらしいのである。そして内心、きっとマリアのことも同様に蔑み喜んでいたに違いない。彼は自分がそう口にすることによって、残忍な心を満たす愉しみを覚えていることを、もはや隠そうともせずに言った。
「さあ、お前、どうやら魔女になる覚悟は出来たらしいな」
「ええ、どうして? どうして私が魔女なの? 私があの娘を救いたいと願うことのいったい何がいけないっていうの?」
 エノイッサがむきになって地団駄踏むと、その足元からたちまち音のしぶきが跳ねて、この場に佇む人々の体をばしゃりばしゃりと濡らしたのである。
「何がいけないの? 私がそう願うことがどうしていけないの?」
「さあ、今すぐにお前を魔女にしてやるぞ」
「どうせ、そのお金とやらにものを言わせるんでしょう!」
「ああ……… 俺が金にものを言わせるからって、だがそれがお前に一体何の関係がある?」
「下衆野郎!」
「なんと言われようが構わん。俺が魔女だと言いさえすれば、お前も、お前のお友達もみんな魔女だからな」
「あの娘は魔女じゃない!」
「いいや、魔女だ」
「いいえ」
「魔女だ」
「いいえ! …… ああ、どうしてあの娘が魔女なんだろう!」
「だって、あいつは救おうとしたじゃないか」
「苦しむ人を救おうとしたのよ」
「魔女を救おうとしたのだ」
 二人とも燃えるような、憎悪色に染まった視線を互いになすりつけ合っていた。
「誰がなんと言おうとマリアは…… ええ、あの娘だけじゃない、あの人たちだって無実に違いない……」
 エノイッサは怒りに声を震わせて、瞳には涙を溜めていた。それは、自らの言葉がまったく馬鹿げきっていて、きっと聞く人に受け入れて貰えないだろうという諦念じみた悔しさである。
「魔女なんて、本当に嘘っぱちなんだから…… 私は知っている。それで、あなたたちは知らないのよ。いったいどのような人々があそこで殺されているかってこと…… お願いよ、お願いだから助けてやって。私はどうなったって…… いや実際、痛いことなんかごめんだけど。でも……」
 これを聞いたガイスは大喜びで、
「どうやらお前には火刑台に拷問部屋が相応しいらしいね!」
と、叫んだのである。エノイッサの感情はついにその昂ぶりの限界をみて、彼女は瞳から頬へぼたぼたと涙をあふれさせた。その様子をすべての人間が注視している―ガイスの嫌らしい目つきは言うまでもないが、司祭パウロはというと、彼は黙って腕組みしたまま何やら思案気にエノイッサが泣くのを見ていた。黒聖餐に参列している白ずくめの連中は、様々に表情を表していた。例えば、金持ちの権力者に手酷くやりこめられた哀れな女に同情するのか、ひきつった頬を真っ青にして、それでも目を離せないでいる者たち、あるいはごく単純な好奇心や嘲りといった感情で瞳を円くしている者たち、無関心を装うふうをして、しかしその僅かな表情筋の動きから逆に低俗さを露呈してしまったり、あるいはいかにも深刻ぶった様子で内心の好奇心を上塗りしながら、隣の者の袖を引っ張ったりして囁きを交わす者たちである。こっそり自分と同じ衆人たちの表情を盗み見している者も中には見受けられた。嘲りと憐れみの立ちこめるこの静寂は、やがてどよもしに取って代わられると思われたのだったが、しかしその音響はすぐにぴたりと止んだ。ガイスが何やら不満そうに声を上げたからである。それは、自身の思惑にあずからないところで人々が自由に何事か行為するのを不服として腹を立てるような、あの傲慢さに満ちた態度である。
「静かに、静かにしろ!」
彼は自分の指図によって場がしいんとなるのを、まるで上等な葡萄酒の香りでも楽しむかのように味わい、そして嚥下した。彼はいつの間にか群衆から離れて、エノイッサの方に近づいていたのだった。
「なんと良いことを思いついたのだろう、俺は」
 尼僧の顔をしげしげと見つめながら、ガイスは妙に嬉しそうなのである。彼の口は、不敵な笑いによってゆがめられていて、エノイッサを震え上がらせた。
「火刑よりも、拷問よりも、お前には相応しいものがある。それは……」
 ここまで言って、彼はどっと笑い転げた。それはあたかも、この素晴らしい思い付きを早く声に出してしまいたいが、そのためにはまず、是非ともこのように喜びを爆発させておき、そうしてこの思い付きの偉大さを皆に知らしめておく必要があるとでもいうふうなのだった。
「それは…… ああ! それが何だか分かるか! 分かるまいな! だってお前はただの…… 小便臭い、小娘だ。決めた、決めたぞ。娘、お前は俺のために死ね。この儀式の捧げものとなって死ね」
 そしてガイスは腹がよじれるほど笑った。
「もしかして、俺の言うことが分からないのか?」
 これほど楽しい思い付きを聞いて、なぜ群衆は黙っていられるのだろう。彼は加えて言った。
「見るがいい、これまでの鶏やら、黒猫やら、そんなものとは訳が違う。正真正銘の生娘…… それも尼さんだ! ははあ、これはなんともおあつらえ向きじゃないか」
 エノイッサは一瞬びくりと身を震わせて、おそるおそるパウロの方を見た。すると何やら、司祭は顔を真っ青にして、そして心なしか唇を震わせているように思われた。エノイッサの身を案じているのかどうかは分からないが、彼がガイスの急な思い付きに対して遺憾を申し上げたいのはもう火を見るよりも明らかなのである。「豚め」とその口が囁いたかのように思われた。
「それは駄目だ。少し冷静になるがいい」
 司祭が言うと、ガイスはしてやったりとばかり微笑みながら、
「どうした? 怖いのか、お前…… おお、怖いんだな。黒聖餐なんか執り行う悪の司祭のお前が、怖いって言うんだな!? たかが娘一匹……」
「怖い…… 私が、怖いだって? それはいったいどういう意味かね?」
「〈それはいったいどういう意味かね〉、あっは、よろしい、ならば教えてやろうか。それはこういう意味だ…… おお、そうだ。お前、小娘!」
と、ガイスはやにわにエノイッサの方を振り向き、司祭パウロを顎で指し示しながら、
「教えておいてやる…… こいつはな、この司祭はな、こんな風にお高くとまってはいるが…… こいつは臆病だ! 兎のようにね、臆病者だ! 実のところ、一人では何もできやしない……  だから俺が、出世の為の足掛かりを作ってやったというのだ。この俺が……」
 司祭パウロは凄まじい形相でこのお喋りな守銭奴を睨みつけた。瞳の中には、ごうごうと憤怒が猛り狂って、唇はわなわなと踊り出さんばかりなのであった。それは辱しめられた魂の、復讐を熱望するあの慄きである。エノイッサは、ガイスの言ったことにも驚いたが、それ以上に、司祭パウロのこの様子にぎょっとしたのである。なぜなら、このことこそが―この彼の様子こそが、ガイスの言ったことが真実であるということを何にも増して物語っていることになるだろうから。エノイッサはそう感じざるをえないのであった。
「嘘だと思うか? ぜんぶ本当のことだ! は、は…… こんな眼で睨みやがって。口では言うくせに、いざとなると何も出来ないんだ。あいつを殺した時だって、最後まで尻込みしてやがったのだから」
「何よ、それ!」
 エノイッサは思わずこぼした。しかし「殺した」とはいったい何のことだろう? 先程から「死ね」だのなんだのと、物騒な言葉ばかりが飛び出す口である。だが、本当だろうか? 本当に「殺した」のだろうか? あまり耳慣れない言葉を聞くと、まるで異国の人間と話している気分になる。ちょうどそうしたように、エノイッサはガイスの用いる言葉が、彼女の全然知らない風土、観念の中で育まれたに違いないと信じ込んだのであった。しかし、(こいつはでたらめを言っているのだ。きっとそうに違いない。私を震え上がらせようとして、わざとこんなことを言っているんだ)と、彼女がこう思うことにだって無理はない。ガイスは話しながらも、何やらこちらを探るような嫌らしい目つきで以て、自らの言葉がどれだけの効果をもたらしたのかと、そればかり知りたがる様子を隠そうともせずに、逆にひけらかしているようであったから。
「驚いたか? 尼さん…… は、は。あいつもこいつもぜんぶだ。全部、俺と彼が殺したのだ。…… 分かるな? なあ、お前、分かったろう。この黒聖餐は……」
「そこまでだ」
 パウロが口を挟んだ。
「お喋りはそこまでだ。あれもこれも、この娘にはまるで知る必要のないものだ」
「嘘よ…… この人、嘘ばかり言っているのだわ!」
 エノイッサはガイスを指さして、
「パウロ司祭…… そうなんでしょう? この人の言うことはみんな嘘よね? 私、分かるもの……」
 パウロは冷ややかな瞳でこちらをちらと一瞥した。
「ああ、そうだ。全部でたらめだよ。君の言う通りだ。心配しなくていい」
と、司祭は言ったが、声にはまったく抑揚がなく、顔はもちろん青ざめていたのだった。彼を横目で見ながら、ガイスは何やらにやにやと笑っている……
「俺は本当のことを言っているんだよ、お嬢さん」
「本当のことって、一体何? それじゃ、あいつもこいつもぜんぶ、殺したの……」
「ああ」
 エノイッサは慎重に、ゆっくりと言葉を選びながら、
「それは…… ひょっとして私も知っている……」
 するとガイスは唇の両端を吊り上げて、ぞっとするような三日月を象り、そして、歯の間からしゅうしゅうと笑いをこらえるあの不快な音を発てて、
「君が……? ああ、ひょっとすると、知っていることかもしれんね…… もちろん」
と、ゆっくり息を吐くように言った。それを口にする愉しみを目前にしながら、期待に胸躍らせる時間を僅かでも引き延ばそうとするように、悪趣味なもったいぶりを、彼はここで発揮したわけである。
「だがその何がいけないんだろう!」
 行政長官は両手を広げて叫んだ。
「俺があいつらを蹴散らすことの、いったい何がいけないんだろう!? おい、お前、尼さん、どうやらお前は俺のこと残忍で血も涙もない奴だと思っているらしいな…… ああそうだ、実際その通りだ、分かっている、それは自分でも分かっているよ…… だからこそ、だからこそなのだ、それだからこそ俺は自分の中にあるちいちゃなちいちゃな善意や憐憫、慈悲といったものがいちいち鼻についてたまらないんだ。だがまあいい、こんなことは全然関係のないことだ。お前になんと思われようと、一向に構わない。それで…… ああ、なぜ奴らを殺したのかって? それはな…… 目障りだったからだ! 一体これ以上の理由があるかね! 鎮座してやがったんだ、俺の目の前に、虫けらのような嫌らしい匂いをぷんぷんさせて…… 『ガイス殿、今度はそううまくはいきませんよ。なぜって、私がここに座って邪魔していますからね』だから、俺はそいつらが邪魔で邪魔で仕方がなかったから、ひょいとつまみあげて…… その、『ちょっと言わせてやった』のだよ。ああ! 断っておくが、もしお前が俺だったら、きっと同じようにするに違いない……」
 そうして彼は、自分が『ちょっと言わせてやった』人物たちの名を挙げ連ねていくのであった。それこそ彼の至上の喜び、出し惜しみしておいたとっておきの愉悦、まるで詩を朗読するみたいに神経を昂らせ肩を震わせて、あたかもすべてをこの瞬間の為に用意してでもいたかのように。『ちょっと言わされた』犠牲者たちの名を読み上げることは、単に彼だけにとって名誉や誇りであるばかりでなく、『ちょっと言わされた』当人たちにとってもおめでたいことこの上ないと言ってでもいるかのようであった。つまるところそれは、彼にとって殺人とその功績とは、悲哀と虚無の支配する墓碑銘などではなく、勝利の栄光とその凱歌であり、歓喜のうちに打ち立てられた英雄譚のようなのである。
「クラフト・ワーゲル」
と、ガイスがとある若者の名を口にしたとき、エノイッサははっとして顔を上げた。その瞬間、彼女の脳裡にあるカンヴァスにさっと広がったのはあの酒場の情景であった。豪勢な料理の並んだ卓に向かって椅子に腰かけた男が一人、彼はエノイッサに言うのだった。
〈彼は、クラフトは、私の友人なのです! その彼を、この上なく残虐な方法で殺すなんて……私に出来るとお思いですか〉
 エノイッサは戦慄した。殺したって? こいつが? ガイスが、クラフト・ワーゲルを殺したっていうのか? だって…… 私はあいつを、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックを捕まえた。罪状は…… ああ、それなら、それならば! 今ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックを襲っている苦悶とは、いったいなんだろう! いったい何のために、彼は、私は…… ひょっとしたら、それはとんでもないこと…… エノイッサは顔どころか首までをも蒼白にして歯をがちがちと鳴らした。
「俺に楯突いた奴は死んだ。それはついこの間のことだ…… 俺が奴を晩餐に招いて、そこで『ちょっと言わせて』やったのさ…… それでおしまいだ。他には…… 何もない」
 エノイッサの脳裡では相変わらずあの男―酒場の片隅に腰かけたベルグハルト・ヒュンフゲシュマックの声がしていた。
〈…… 突っ伏して、指でがしりと布を掴んだのです。すると、みるみるうちにそこから血溜まりが拡がって……〉
すると、エノイッサの頭蓋内である種の変成作用が起こり、脳裡を照らしていた酒場の光はさっと無数に分裂し、おびただしい数の蝋燭へと姿を変えた。それは、彼女の空想が勝手に作り上げた大食堂の光景である。誰とも知れない富豪の大邸宅の、豪華絢爛な晩餐の様子である…… 無数に飛び散った光の欠片が食器やら銀器、それから果物や料理、酒の上で跳ねて踊る中、そこに突っ伏した若者が、口から血を吐き散らしながら苦しみ悶えていた。
〈水を、水をくれ!〉
 そう叫ばれる卓の上座に、一人の男が佇んでいる。黒々とした髪の毛、爬虫類のようにぎょろついた薄気味の悪い瞳。真っ赤な唇を冷徹に結びながら―しかしそれは嫌らしい笑みに歪んでいるようにも見えて。一目で金持ちと分かる瀟洒な衣装を召した彼は、今現実の、エノイッサの前に立つ彼にぴたりと重なったのであった。そう、彼はガイスなのだ。すると無数の蝋燭の輝きは祭壇横の松明に収束して、エノイッサは自身の記憶と観念の世界から現実の世界へと―真白な空虚の渦巻くこの地下墳墓世界へと連れ戻されたわけである。
「おお、あなたは……」
 彼女はほとんど呻くように、
「あなたはなんということを……」
(ああ、だけどそんなこと、最初から分かっていたことじゃないだろうか!)
 エノイッサは膝から力が抜けて、その場にぺたりと座り込んだ。彼女はほとんど気を失いかけていた。ああ、だって…… ガイスの言ったことが一言一句すべて本当で間違いのないことだとしたら…… ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックの苦悶とは一体何? 何の為? 身に覚えのない罪で投獄されて…… 彼は無実だ、潔白だ! ああ、きっとそうに違いない! しかしそれなら、もう一人の彼はどうだろう? そうだ、清廉で心優しかった彼、何かの罪に手を染めようなどとは到底考えも及ばないあの彼なら、どうなのだろうか? ああきっと、それはきっと…… どうして今までこのことに思い及ばなかったのか。エノイッサはうわ言みたいに口にした。
「ああ、あの人は…… ヨハンネス・ユニウスは……」
「なに、ヨハンネス・ユニウス? 何のことを言っている? 俺はあいつを殺してなんかいない。もっとも…… 牢獄にぶち込んでやりはしたが! …… だって、仕方がないじゃないか。身分も、家柄もあるそんな男は…… あれもこれも、全部嗅ぎまわってきたのだから。ひょっとしたら、この集いだって…… ああ、あの犬め! あいつを投獄しないとどうなっていたと思う? …… 尼さん、お前が俺の立場だったらきっと同じことをしたに違いないと断言するよ。あれは仕方がなかったのだ」
 これを聞くエノイッサの表情は不安定になっていて、それは瞳、眉、鼻、唇がそれぞれどんな役割を演じたらいいのやら分からずばらばらになっていた程である。ガイスは自らの行状をひけらかす悦しみを容易に手離そうとはせず、嗜虐心を満足させることによる笑みをずっとたたえながら、尚も言葉を塗りたくっていくのであった。
「尼さん、知っての通り、魔女裁判は金になるからな…… 俺はあいつを、身ぐるみ剥がしてやったよ。だが仕方ない! それは仕方ない! …… 決まりだからな。俺があいつらの身ぐるみを剝がしたところでそれは決められたことなのだからな。そういえば奴には一人娘がいたそうだ…… 酷いことをしたとは思っている。しかし私はなるべくそんなことは考えないようにしている。少女の泣き叫ぶ姿は、出来れば早く忘れることだ」
 エノイッサは呟いた、
「少女の泣き叫ぶ姿…… ああ、私はそれを……」
〈あなた、私を笑いに来たんでしょう?〉
 それはヴェロニカのもたらした言葉であったが、追憶の底に煌めいたその鮮烈な響きは、尼僧に衝撃を与えたのである。
〈そうよ、あなたらみんな盗賊だわ! 罪の無い人間を、身ぐるみ剥がす盗賊!〉
 身を刺すような言葉、それは暁の窓から光の帯が入って中央でばらばらに解けていたあの大広間―ヴェロニカがそこに突っ伏して泣いていた大広間での出来事だった。
〈構わないわ……! あなたらがどう思おうが、そんなこと別に……〉
 ああ、彼女が、ヴェロニカがそう言った時、私の心には何があったろう!? 手紙、手紙だ、それは一体どんな手紙だったろう? マリアから託された手紙、父から愛娘へとしたためられた手紙。拷問によって不自由となった身でも尚、綴られずにはいられなかったあの手紙である。エノイッサの脳裡にはインクの滲んだたどたどしい黒字がおびただしくも展開していた。それで、その文字はどうして滲んでいたかというと、それは、あの女性がそこに大粒の涙をこぼしたからなのだ。暁の光の帯は月光の澄んだ光に取って代わられ、それを朗読する女性の影が立ち現れたのだった。
〈聞きなさい、エノイッサ! あなたは最後までこれを聞く義務がある〉
〈私たちはあの方の魂までをも、地獄に落としたのよ〉
 しかし、それは本当に文字通りではなかったろうか? 我々が彼を、いや彼の娘までをも地獄に突き落としたのである…… エノイッサは感じた、自分はその張本人ではなかったろうか? 教会の一声で彼を連行し拉致して、拷問にかけ、およそ考えられうる苦痛の限りを与えた上で、しかし自らは素知らぬふうを装ったのである。一体、これほどの欺瞞があるだろうか? 追憶の彼方からエノイッサに呼びかけてくる声は暴露する。マリアの鋭い呼びかけは、エノイッサの本心を見透かして、彼女の持つ欺瞞の表皮をびりびりとはぎ取ろうとするかのように、いちいち刃を入れてくるのであった。しかしその時不意にエノイッサの頭の中に、冷たく恐ろしいぞっとするようなとある想念が流れ込んできた。窓から吹き込む木枯らしのように、彼女は注意深くその実態を捉えようとしたが、その恐ろしさのあまり呟かずにはいられなかった。
「…… まさか、本当にまさかとは思うけれど、ガイス、あなた…… 私の友人、マリアを…… 牢破りを試みたあのマリアを苦しめようとして、牢に入れて、陥れているものはひょっとして……」
 行政長官は何も言わなかったが、ただその口の端をわざとらしく吊り上げてみせたのだった。痒いところに手が届いたと言わんばかりに。エノイッサのこの問いを心待ちにしていたともとれる様子で彼は微笑んで見せて、それによって彼女に答えたのだった。途端に、エノイッサの頭の中ではその恐ろしい想念の木枯らしが突風となってめちゃめちゃに吹き荒れたのだった。軽々とした些末な思考などすべて吹き飛んでしまって、残ったのは明滅する大きな光であった。先ほどから、エノイッサの頭蓋内で様々な変容を遂げていた光―ぎらついた酒場の情景の光、不気味な殺人の晩餐、その銀の食器たちを弄ぶ光、少女の瞳に溢れる涙を射抜く暁の陽光、悲嘆と憤怒とに身を焦がされる存在たちの息遣いを闇の中に紐解いて見せる月光―そして、眼前の祭壇近くに立つ松明のどぎつい光が、ごうごうと吹き荒れる突風によって、焚きつけられたように勢いを増し、どんどんと膨張して視界の隅々まで侵すようになったのである。エノイッサにはもはや何も見えなかった。その火は、真白な輝きを持った神々しい、しかし不気味な残酷なものであった。その向こうからは恐ろしい叫び声が聞こえてくる…… それは、その光は人を焼く炎の輝きなのであった。
「お前だったのか!」
 エノイッサは震える声で叫んだ。
「あれも、これも…… 全部お前だったんだ! 人を、人を、焼き殺そうとして……」
 行政長官は何も答えないでにやにやと静かに笑いながら佇んでいる。さしずめ、尼僧の度を外れた激昂が見ものだというように。そして、そうした怒りの発露、傍観すればある種の滑稽さすら催させる激情が迸るのを、何があっても邪魔するような真似はしまいといった様子で。エノイッサはこいつのこうした態度がまたなんども癪に障るのである。
「ああ! こいつ、殺してやりたいわ!」
 エノイッサは歯をむき出しにしてしゅうしゅうと息をこぼしていた、獣のように。
「お前もじきに、同じようにしてやるからな」
 ガイスは嘲るように言った。エノイッサは半狂乱になって泣きながら何やら訳の分からないことを訴え始めた。
「ああ、お前は考えたことがあるのか? 自分の気まぐれと愉しみによって踏みにじられる人間を、死の淵に追いやられる人間のことを! ああ、それがどれだけ悲惨か、残酷か……  一体なんの意味がそこに? …… 意味など無い! 何も無い、何も、ええ、何一つとして無いわ! あの苦悶に意味など無かった! お前の下劣な本性が慰められる以外には…… お前は自分が焼いた人間たちがどういう人たちだったか覚えているか? ええ、きっと覚えてないでしょうね! それはちょうど―目の前にちょこんと座っているだけの虫を踏み潰すのと同じだっていうんだから! ええ!? そうだって言うんでしょう、あなたは…… 自分が殺したのがどんな人だったなんて興味が無い、それよりはその殺人が自分に何をもたらしたか、味はどんなだったか、どんな愉しみを覚えたか、そればかりなんだもの! そうだ、仕方がないだのなんだのと言いながら、お前は上等な食事にありつくみたいに人を拷問部屋から火刑台へと送る。ああ、もしもお前が、自分で披歴した通りの行いをして、それに対して今なんの呵責も覚えていないとしたら、私はお前を軽蔑する! 畜生! あっは! そう、そうだわ、呵責なんか覚えないから、何度も何度も同じことが出来るんだ…… それどころか、それが何か偉大なことのように、称賛されるべきことのように思っている…… まるで自身の英雄性を誇示する機会のように…… ええ、そう思っているんでしょう! 私には分かるもの…… けだもの、お前なんか…… けだものだ! けだもののこの上ない生き写しだ! それでお前は、楽園にでもいるつもりなのか、あ、は、は……」
 エノイッサは、発作的に狂気にとらわれた人のよくするあの控えめな、押し付けられたような乾いた笑いを振りまいて見せたのだった、手を叩きながら。
「畜生! お前は正真正銘の畜生だ。他に加えるべき言葉なんか何も見当たらない…… ああ、ヨハンネス・ユニウスなんて、お前のような奴が毒牙にかけてよいような人間ではなかった。お前なんか全然お話にならない…… 彼は心優しくて、聡明で、そして潔白だった」
「だが言っておくと」
と、ガイスが口を挟んだ。
「お前さんにしたって、ヨハンネス・ユニウスを拷問部屋に放り込む手伝いをしたということを忘れなさんな」
「うるさい、関係あるか! この際、そんなこと…… 全部分かったんだ、私。全部お前、お前なんだ。ああ、マリア、マリアの崇高な想いをお前は踏みにじったんじゃないか。その汚らわしい足で。お前は本来あの娘に指も触れられるような人間じゃない。それどころか、目にすることすら、名前を口にすることすら許されないはずなんだ。あの娘の高潔さにしたらお前なんか…… ああ、狂っている! 狂っているわ! この世はどうしてこれほど狂っているのだろう!? こんなことが許されていいはずがない。こんな虫けらのようなやつが…… 私はお前が許せない。告発してやる、お前なんか告発してやる!」
 ガイスが相変わらずの嫌らしい笑みを浮かべて言った、
「告発するって……? いったい誰に? まさか、神にでも告発するというのかね。しかし、面倒だな…… これだから困る。女というやつは、どうして、どいつもこいつも癇癪持ちなのだろう? おい、黙れ、静かにしろ、みっともない。…… こいつがこれ以上暴れださないうちに、もう始めてみてはどうだろう? 司祭……」
 司祭パウロは侮蔑を含んだ瞳で以て彼を睥睨した。
「好きにするといい」
 それですべてが決したのである。ガイスが命ずるやいなや、どこからともなく男たちが現れて、エノイッサの両脇を抱えると、じたばたする彼女を祭壇のところに無理やり引き立てていった。その間も尼僧は半狂乱の体で、泣きながら汚い悪罵を喚き散らしていた。真白で従順な人々の群れが、驚き、慄き、不安といった感情を露わにしてその様子を見ていた。彼らは誰しも、これから起ころうとすることを了解していないかのようである。祭壇前にガイスが待ち構えていた。
「刃はあなたが執るんでしょうね?」
 パウロがガイスに向かって聞いた。
「これは外ならないあなたの一存だ…… あなたは自らの手で、自らのためにその娘を殺すといい」
「私のためだって……? いやいや、考え違いをしてもらっては困るな、司祭。この娘の生贄はあくまでこの集まりのためのものだ。恩恵を蒙るのは皆の衆だ、そうではないか?」
 ガイスは群衆を見渡して言った。
「だから、私の為、外ならぬ私の為だけの生贄とは違うのだから、そこらへんをはっきりとしておく必要があるのだ。この娘の死は皆の為、皆の為だ! それには司祭、ぜひともあなたの刃が必要なのだ。余人ならぬ、この集まりの主催であるあなたの刃が……」
「殺してやる!」
「うるさい娘だな、おい、早くそこへ縛り付けろ。口をふさいで、一言も喋られないようにするんだ。…… さあ司祭、ここへ来い」
 パウロは黙って歩いた。足元が暗いからか、俯き加減で。祭壇の明かりが次第に近づくにつれ、彼の脂ぎった額は一層赤みを増していく……
「さあ、私に何をしろと?」
「やるんだ」
 祭壇に仰向けに縛り付けられたエノイッサを指してガイスは言った。彼はそばに置かれていた祭具用の短刀を取り上げて、
「さあ揃った、何もかも揃ったぞ。上出来じゃないか、なあ司祭? こいつでぶすりとやるんだ……」
と、短刀の柄を司祭に向かって突きつけた。パウロは黙ったまま、ものすごい形相をして行政長官と短刀とを交互に見やった。司祭はそこで、エノイッサをも横目で見やった。今や尼僧は、祭壇の上に縛り付けられて体の自由を奪われていた。口にも布をあてがわれて、そこで何やら言葉にしようとしても、ただの喘ぎとなってそれは解せないのであった。エノイッサは不自由な頭を動かして、パウロとガイスを交互に見やっている。表情にはありありと恐怖が浮かんでいた。だって怖くないわけがあろうか…… これから短刀でぶすりとやられるというのに! その頬を、涙と汗がいっしょくたになって流れ落ちる。彼女は「本当にやるの?」と言ったが、誰がその言葉を理解しえただろう? エノイッサと司祭の視線がかち合った。司祭は半ば閉じた三日月のような瞳、形も光も鋭いその冷たな瞳によってエノイッサを睨みつけた。その瞬間、司祭のこの一瞥は、尼僧にこれまでにない程の動揺をもたらして、その全身をくまなく震撼させたのである。彼女はかっと目を見開いていた。突然、司祭パウロはさっと刀を突きあげる仕草をした。銀色に輝く刀身が松明の明かりに明滅して煌めいた時、これまで沈黙に守られていたこの地下世界にどよめきが起こった。
「本当にやるのか!」
 真白で従順な人々の群れが途端にやかましくなった。
「そんなことをしたら、いったいどうなるやら分からない」
「それじゃあんまりだ! 娘が可哀そうだ」
 しかしガイスが一喝した。
「誰も邪魔することは許されない。誰一人、邪魔することは出来ない」
 彼は近くにある酒の入った杯を勢いよく引っ掴んだ。一粒、二粒、器の中から紅玉のような雫がさっと飛んで散った。彼は叫んだ。
「さあ、貴様ら、祝宴だ! 踊れ、輪を描いて踊れ! さあ、いつもみたいに。祭りのように」
 始めのうちは顔を見合わせて戸惑っていた真白で従順な人々の群れであったが、やがて、誰とも知れず、初めの一人が率先して踊りの輪を形作ろうとすると、他の衆も付和雷同して、宝石細工の職人が首飾りに真珠を通してゆくが如く、一人、また一人と輪に列なって、漠然としていたその形を次第に具象させていくのであった。それでもまだ逡巡している人々―踊りに参加せず、かといって、はっきりとした反対の意を表したりもせずに無言で立ち尽くしている者たちもいたが、そういった人々をガイスは煽り立てて無理やりこの乱痴気に参加させようとするのであった。
 そうして輪は象られる。それは大変奇妙なものであった。一人一人が中心とは反対に、つまり輪の外側を向いて立ち、顔ではなく各々がその尻を突き合わせている。両腕を折り曲げて隣の者と絡めあっているのは鎖のそれのようで、文字通り輪をひとつながりにしていた。巨大な多足動物のようなそれは、足を踏み鳴らして大きな音を轟かせながら、反時計回りに旋回を始めたのである。
「歌え」
と、ガイスは命じた。このたった今生まれたばかりの巨大生物の、まるで主人ででもあるかのように。そいつは言われたとおりに、祭日の灯篭のように並んだ数多の口を開いて、朗し始めたのだった。
《賛美を捧げます、地の底におわしますサタン、並びにこの地上に放たれたすべての悪魔……》
《どうぞこの贈り物をお受け取りください》
 滅茶苦茶な旋律―聖歌や流行歌の一節より拝借したわけでもなく、どう考えても素人が頭の中で無理やりに考え出したような、そんな悪趣味な調べ―であったが、つぎはぎだらけでとりとめのない、皆が皆好き好きに唱するので調和も何もないでたらめなこれは、ひとつ間違えると下劣な歌からただの叫びへと崩壊していくあやうさ、その瀬戸際にぎりぎりの均衡を保つあの緊張をはらみ、ぎらつく攻撃的な危険性によって聞くものの神経を苛み侵していくのであった。エノイッサは慄きながらこの合唱を聞いていた―というより、耳にしていた。縛り付けられたままじっと司祭を見据えて、全神経を彼と、その持つ短刀とに向けていたのである。司祭パウロも同様であった。彼は背後で唸るやかましい合唱など意に介さない様子で、唇を固く結びながらエノイッサを見下ろしていた。まるで火で焙られたみたいに汗をしたたらせている。瞬きもしない真っ赤に充血したその瞳を見て、エノイッサは思った。(殺される…… 本当にこいつ、私を殺す気なんだ! 本当の本当に……)彼女の体は大きく痙攣した。尼僧の焦燥、それをけらけらと笑うかのように、蝋燭の火がゆらめいて照らしていた。合唱と輪舞とによって風は動き、火もまた踊る。それはことのほか嬉しそうに、エノイッサの犠牲を祝福していたかに思えた。そうした灯の作用によってエノイッサの視界は暗くなったり、また、ぱっと明るくなったりするので、頭の中はぼうっとして何やら夢を見ているような空想的な感覚へと駆り立てられていくのだった。でたらめな旋律は、それであっても地下墳墓中に反響して、有象無象の隅から隅まで僅かな隙間にもこだまし、それはまるでこの場所が無数の生物から成っていて、そいつらが一斉に騒ぎ立てているかのような印象をもたらすのだった。髑髏が冒涜の言葉を吐き散らしながら唱和に加わり、熱された音が濛々と立ちこめるここは、地獄のかまどのような有様だった。エノイッサは水をふんだんに吸った綿が押しつぶされたように全身から汗を噴き出した。
合唱と踊りはますますはげしくなって焦燥を煽った。躍動し旋回する円舞は、高揚して飛び跳ねたりする者たちが現れたことによって、ちらちらとその形象を変えてゆくが、それはまさしく千切れゆく炎の端のように、激情的な挑発、しかし混沌なのであった。迫りくるようなその踊りが次第に激していく様を段階的に捉えられる程に、エノイッサの全神経は昂り拡がっていた。しかしそれは野性的な感性で、彼女には殆ど理性が残っていず、ただひたすら身を案じる恐怖がものすごい速度で旋回していたのである。灼熱の大気を吸うかのように、胸が暑苦しかった。
《サタン、どうぞお喜びください。私たちの贈り物を、この犠牲を》
ちょうどその時、合唱がこう言って、手拍子が現れ始めた。みな口々に地獄の王の名を口にしては手を叩く。エノイッサは、嬉しそうに手を叩くこいつらが―彼女自身の感情とは全く違ったものを露呈させてゆくこいつらが、自分とは全然別な足場に立っているかのように覚えた。距離は遠からずとも、彼らと自分の間には何やら不思議な薄膜が垂れていて、それによって永遠に分かたれている、彼らと自分との間には無限の隔たりがある―ちょうど、絵画に描かれている人物の微笑みを見て首を傾けるように、エノイッサには、彼らが何故嬉しそうにしているのか不思議でならなかった。ひょっとしたら彼らの異常な振る舞いとそれに伴う騒々しさとは、自分にまったく関わり合いの無いことなのかもしれない、彼らが喜んでいるからといって、自分の身に何かが起こるとは限らない、とそんな気さえした。しかし、
「サタン、サタン」
というその名が呼ばれるたび、空想のようにも感じられていたサバトの饗宴が、現実のものとして枠をとりながら、これは根拠のないことではないと脅かすように、エノイッサの焦燥を裏付けていくのだった。
「サタン、わが主よ」
 ガイスがこう叫ぶと、杯を高く掲げ、そして干し始めた。血を吐くように、だらだらとおとがいを伝って零れ落ちる葡萄酒。すると、
《サタン、わが主よ》
と、輪舞が追唱する。突然、ガイスは残りの葡萄酒をエノイッサの顔にぶちまけたのであった。いけにえの顔にさっと慄きが走った。
「さあ、やれ」
 群衆が唱和する大轟音の中、司祭パウロはエノイッサの上にかがみこんで、赤い液体によって血塗られたようになっているその顔をまじまじと見つめたのであった。そうする彼の表情は、こちらの苦悶と激情の発作が作り出すひきつりとはうって代わって、冷たで空虚な無を呈していた。(本当に私を殺すの!?)エノイッサは哀願するような、しかし反抗的な瞳で問いかけた。司祭はごく自然な動作、ただ単純に刃を振り上げて、そして振り下ろしたのであった。一瞬、エノイッサは何も感じなかった。それは激烈な痛覚だった。瞬間、全身の血液が熱くたぎってその開いた穴になだれこんでいくような感覚を覚えた。。頭蓋内の深淵より、すうっと何かが失われていく気配であった。驚いた彼女は叫び声を上げ、必死にじたばたして、失われていく生命力を補おうとするかのように燃え上がった。しかしパウロがその口に手をあてがって蓋をし、跳ね上がろうとする肩を押さえつけたのだった。彼は小声でささやいた、
「静かに…… 大人しくしていろ」
 この時、エノイッサは自分の胸に突き立ったままになっている刃を、はっきりと捉え得たのである。死という想念が彼女の頭脳のみならず体全体をすっぽりと包み込んだのであった。背後から迫る霧のような闇…… 遠のいていく意識の中で―彼女はもはやそれを追いかけることすらしなかった―エノイッサは、頭上で笑みを浮かべながらこちらを見下ろすガイスを認めた。朦朧とした頭にぱっと鮮烈な印象が咲いた。それは、今にも大海に飲まれようとする人間がちらと水面に顔を突き出して―それは呪いだろうか―何かを目に焼き付けようとするみたいに睥睨する、あの最終的な意識の浮動である……
(ああ、こいつ…… こいつはいったいなんだろう? どうして笑っているのかしら? ……  おかしいのか? おかしいから笑っているのか? お前はいったい、何がそれほどおかしいのか…… ああ、そうでしょうね! おかしくておかしくてたまらないはずだわ! お前にとってこれは…… だけど、ああ、こんな奴の為に! こんな笑いの為に! みんなこんなものの為に苦しんで、こんな…… こんな馬鹿げたことって! あるだろうか……)自ら催した涙によって世界は溢れかえり、意識はその中に溺れて死んでゆく……
悪魔は人の形をして笑っていた。架刑像は何も言わないで全てを看過している。猛り狂う灯火の下で人々は輪を描きながら宴を燃え上がらせていて、そしてそれは尽きない。光の作り出す淵に沈んだ人々を、彼は瞳を爛々と月のように輝かせながら睥下し、そして哄笑していた。そのまなざしは無為な戯れを蔑むかのように、自らの放った火の限りなく拡がっていくのをじっと見つめていた。

幻想悲曲 第一部 完

幻想悲曲 第三幕一場

幻想悲曲 第三幕一場

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-07

Copyrighted
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