奇遇



 幼かった頃、眠りにつく前の私によく母が話してくれた、若かった頃の母が一匹の竜を「どうやって」殺したかという嘘みたいな話。
 記憶の中の私の目の前に垂れる、長い紐を引っ張るまでは決して消えない蛍光灯の灯りを背負って、真っ暗な影となって私を覗き込み、トントン、と掛け布団の上から片手だけのリズムを刻み、あの日はね、とさざなみの様な予感を感じさせる言葉選びで語りかける。普段耳にしていた声よりも高く、優しく、そして普段使っていた堅苦しい言い回しの単語を何一つ使うことなく、小さな私が何を頑張らなくても付いて行ける、駆け足のない、平易で力強く、大切な眠りを忘れさせる面白さを兼ね備えて、そこにいるはずの母は遠い昔に旅立って行く。竜、という存在を信じられるかどうかという根本的な問題をいとも容易く飛び越えられた、羽みたいな感性と夢見がちな性格を携えて興味の塊となった私が素直に、それに応じる。
 ランランと輝いて、まるで星みたいと笑いながら思い返してくれた、大人になった私とさらに大人になった母との間で捲られた記憶に焼き付く、竜の鼓動と息づかい。見上げながらも面と向かって対峙したそれに「ここ」と「ここ」を食い千切られた、と指を差しながらリアルに説明する箇所に思わず心配になった当時の私が起き上がって両の手を添える度に、母は心を込めて笑った。そう思えたから、気持ちが届いたことが嬉しくて、身体ごと起き上がってしまって、首にまで手を回す。誰よりも近くで聞こえる心臓の音。それは恐らく私のもの。目一杯の息を吸い込んで、吐いた、二度と戻らない時間。そこから離れて布団に戻るまでが私の勝負所、怒られる前に、怒られる前に、とパタパタ動く私を見て、微笑む母が大切に飲み込んだという言葉を、今は私が母に向ける。そうゆっくり、慌てないで、と。
 長くなった爪を切り終わった、その片方の手を元の位置に戻して、すやすやと寝息を立てる母を見る。何も変わらない顔つき、痩せ細りもしない頑健さ、何の補助もなしに一人でひょいひょいと歩き出しては物を運ぶ。利用している医療サービスなんて、片方の指で折り曲げられる数を出ない。問診に来る担当医が驚く知性とユーモアには、生きた時代の荒波によって磨かれた辛辣さが混じったなぁと思ってしまう私の印象。伝説の通りの不老不死、と私が書いた本とその他の雑誌を机の端や椅子の上に積んで、空いたスペースを布巾で拭きながら私が冗談めかして言う、けれど母はそれに応じずに、気紛れにやって来ては去る小鳥たちから世界の話を聞いていると嘯く。さっきみたいに、長い時間、一度も途切れることなく行える口頭での思い出語りの内容の中で私が口にする時は別として、母の方から「竜」に纏わるものが全く出てこなって久しい。だから、私は寂しい。



 私が生まれる前に他界した父だから、その父との間接的な対話を可能とする生前の日記であって、それはまた中高生になった私に課せられたファミリーヒストリーの宿題を終えるために欠かせない重要な資料でもあった。
 嘘を吐かないことを信条とし、嘘を吐かなかったことで文字通りの致命傷を負い、母と私を残して先に旅立つこととなったと語られる父。けれど、日記の文面からは随分とおどけた印象を強く受ける。日々の事柄に対して思う事を斜めに見るというか、見上げるというか、真実と認めうる所を取っ掛かりにして底からひっくり返そうとするのを心から楽しんでいるように思えて止まない印象、これはいま読み返しても変わらない。
 そんな父の記録上、母から聞く話についてだけは、言葉づかいからして妙に生真面目になる。いつ見られるか知れたものではないなどと明確に記していることからして、母と添い遂げた後の発覚を恐れていたらしく、添い遂げられない可能性を頭から排除しているのは一人の子として嬉しいやら、恥ずかしいやらで、しかもそこに覗き見している罪悪感も加わるからマーブル色した申し訳なさに埋もれてしまう。
 そんな過去の父との対面の中で目にする「竜」の文字はどれも踊っている。甲骨文字を思い起こさせる、形象を優先した綴り方で、父は「竜」について語る。生憎、父は母からその殺害方法を聞かされていなかったらしく、しかしながらその一方で、私が母から聞かされていない竜を殺害した動機については詳しい話をされていた。伝説的な存在とはいえ、命あるものには変わりない。故に、それを奪うことに対する禁忌に悩まない母ではなかった。その全てを聞き、その全てを受け止め、竜殺しの大罪人を受け止める器と化す。父の日記上、最も真摯で揺るがない決意を持って記したその言葉を、しかし私がどれだけ信じたか。
 母は私に、その殺し方を冒険譚の様に聞かせ、聞き手である私の反応に応じてその日限りのアドリブを効かせたりする優れた語り部であった。そして、それを心から楽しんだ私だ。だから何度思い出しても、そこには罪悪感は欠けらも見つけられない。
 けれどそれは父と出会って私を産み、私を育ててくれた母の姿であって、父と出会う前のものではない。そう言ってくれるのもまた記録として残る父で、その父と同じく、竜を殺したかつての大罪人にも私は日記の上でしか出会えない。全ては過去に起きたこと。何回ノックしても、遡及の扉が開かれることはない。生まれながらにして置いていかれる、私だ。
 父という器に入った状態にある母。そんな母から発せられた竜殺しの一件。そこにある夢と冒険、その奥底に秘められた罪と意識の葛藤。それを受け止めて貰えた過去があり、そこから進んだ今があり、すぐに過ぎ去って過去になる。私は、だから、見つけなければいけない。



 私が作った手料理を全て食べ終えた母と一緒に立った台所で、二人分の食器を一つずつ丁寧に洗い、水で流し終えたものから手渡していく私。水垢が残らない様に大きめの布巾を器用に扱って、手渡された食器の数々を一つずつ、丁寧に拭い、食器棚に収まるよう重ねて行く母。そんなやり取りが無事に終わるまで、私が続けた話は、意味もなく人を殺すのが当たり前になった世の中で語ったとしても何の意味を持たない、誰かや何かを殺した話では決してなく、誰かや何かを守るために決意して立ち上がり、その存在に立ち向かって事を成し遂げた、伝説の中で生きるある人の話。そこから始まる物語は最低限の時系列を守りつつも正確性を欠き、広げられるエピソードも、その詳細な場面描写も極めて主観的で他の誰が聞いてもきっとピンとこない。唯一誇れるのは、その全てが真実であるということ。好きな歌を、好きな時に、好きな場所で歌う事を許してくれた優しさ。転んだから負った怪我の痛みがいつか治まるまで、と抱き締め続けてくれた力。曇天模様の生憎の天気は、けれどきっと晴れるからと二人して過ごした屋上の、暗闇の怖さを退け続けてくれた大きな声と、あの笑顔。夢を見る前に必ず見ていた、私の世界の最後の形。存在と影。愛を教えてくれた、唯一のもの。
「今もそうだ。母は、しっかりと背を伸ばして世界と接している。」
 全てを知る、私だからこそ語れる、と胸を張って威張ってみせる。だって私は知っている、「どうやって」竜を殺すのか、そして「なぜ」竜を殺してしまったのか。それを聞いたかつての戦士をすぐ傍で大笑いさせ、けれどだんだんと静かに、次第に訪れるであろう沈黙の未来に、どこまでも付き合える。そういう覚悟をも私は学んだ。



 共に向かう寝床、満天の空はいつもと変わらず。しっかりとした足取りは親指から地を踏み出す。踵を離して、前に進んで行く。目の前に聳え立つ暗き存在。互いに名乗らずに触れ合い、互いを知って通り過ぎる。咆哮はこちらから。命を謳って前へ進む。過去の存在は伝説となり、そして。
 そして、休める羽を動かすのだ。

奇遇

奇遇

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-07

Copyrighted
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