茶屋と・・月に濡れた人達

茶屋と・・月に濡れた人達

明治時代の話。

葉山洋二は漱石邸に用事があり出向いた際、彼からいろいろ文章に関するヒントを貰った。
 漱石は、天才に値する作家ではあるが、案外、物事をストレートに言わない面もある。
 簡単に言えば、彼独特の思想に従えば、相手に自分で考えてみて何か気付く事は無いか、と謎かけをする。
 漱石邸を出、時々作家たちが会合に使う大きな料理屋の前を通る。
 その辺りは以前は遊郭であったから、他にも料理屋が何軒もあり、其処に出入りする芸子を養っている置屋が存在する。
 一見錆びれた街のようだが、未だにその風情やらを懐かしがる客などで、人の行き来は少なくない。
 置屋があり芸子がいれば、着物は女性にとり不可欠なものであるから、着付けの師匠という者も存在する。
 洋二が途中休んで行こうと思った先は、池の前にある茶屋。
 此の茶屋の主人は着付けの師匠としても知られている。
 年の頃は洋二と同じくらい、落ち着いた感じのする女性で名を沢井絹代という。
 真白いうなじも美しく・・着付けはお手のものであるのだろうが、何より、艶が窺える美しい面(おもて)の持ち主。
 洋二はこの店に来る事も少なくはないのだが、或る日の事。
 彼女が自分を見るなり、綺麗な娘がいるんですが・・若し宜しかったらお付き合いなど如何が・・と。
 彼女はこの界隈で知らない者はいないという程であるから、そう話し掛けたとしても不自然ではないのかも知れず。
 師匠としさぞかし芸子から信頼されているという事は其れとし、彼女にそう言われた客は自分だけなのかなど思うが。
 どういう弾みなのかと思いつつも其の女性に会い、暫くお付き合いをという事になった。
 年の頃は洋二よりかなり若いようで、肌理細かい白肌は眩いようにも感じられる。
 彼女の名は池内駒子。この界隈では評判の芸子だそうで・・。
 となれば彼女目当ての客も少なくなかろう。そんな中で、絹代が他の客で無く自分に駒子を紹介した理由(わけ)は何だろうと思った。
 しかし、洋二はまだ駒子の旦那と決まった訳ではない。だから、他の客にも駒子を射止める事は出来る筈だ。
 其れに・・駒子は、自分には抑えきれないものを持っているような気がする。
 言い方を変えれば、洋二には若い女性はあまりに眩すぎ、ともすれば何某かの引け目を感じてしまうという事。
 彼女を見ていてそんな風に感じる事が幾度かあった。
更に、洋二は別の言い訳を用意していると薄々。
 ところが、其れも洋二にとっては手の届かない世界での事と。
 駒子は芸子で、評判に見合うだけ仕事が多いから忙しい。
 その合間を縫うように駒子は洋二に忠実であり良き人であろうと考えている。
 




 例えば、或る日、駒子が洋二と近くの旅館の二階で食事をした事があった。
 二人が食事をしている時に、別の客が芸子を連れ階段を上がってきた。
 その男は馴染み客なのだろう。こういうところに慣れている様だった。
 其れが、男は洋二と駒子が自分と共にいる事が気になるように窺えた。
 食事の後、其のまま旅館に残る事も珍しくは無いようだ。
 駒子は評判の芸子だから、本来、男達は彼女の旦那にという期待を持っている筈だ。
 駒子を巡っての目に見えない争奪戦が存在するといっても、満更おかしくはないのだろう。
 洋二は、駒子はそういう事をどんなふうに思っているのだろうと思う。
 幾らでも旦那になりたいという男はいるのに、洋二とこうして付き合いをしているのは、師匠の言いつけを守っている故?
 しかし、彼女も自分なりの嗜好というものがあるのだから、自らの意思で男性をと思っているのだろう。
 其れと、何かを持て余しているのではという事が、洋二は気掛かりだった。
 現に、駒子は。
「この後、私は空きがありますけれど、葉山さんは如何ですか・・?」
 若い者は、そんな事を求める感情をもったとしてもおかしくはない。
 洋二は意識的に彼女の目から視線を逸らし。
「・・ああ、僕も時間は充分あるのだけれど、此処に泊ると言う事?泊まる事は結構だが、君の希望通りでないとしたら、其れでもいいのかい?」
 こういう濁らせた様な言葉が、却って駒子を戸惑わせることになるとすれば、正直に言った方が嫌な思いをさせないのではなど思う。
 洋二がもっと積極的に彼女をと期待しているのか、それとも仕事としてなのか。
 そういう事が何回か続くうちに洋二は、駒子を自由にさせられないかと思う様になる。
 駒子は、今のところ洋二に対する不満を言い始めないのだが、やはり何時までもという訳にはいかない。
「君・・師匠の言いつけを守っているのかよく分からないが、僕は、君の本来の若鮎の様な自由な君の方が生き生きしていて、素晴らしいのじゃないかと思うんだが・・?」 
 駒子はそれに対して、何も言おうとしない。やはり、腹を立てたのかも知れず・・師弟の関係がそれほど強いとも思われないが・・。
 やはり、師匠が言っていた通り性格が良いのだろうと思えば、一層申し訳なくと。
 其れでも、洋二は自分がせいぜい物書きに過ぎないという事や甲斐性から考え、若し、彼女を繋ぎとめている物があるとしたら、其れは紛れもなく冷たい鎖の様な束縛ではないかと。
 洋二は其の鎖を断ち切ってあげようと思った。それだけではないが・・以前、駒子を紹介して貰った時にその事情に気が付いていた。
 只、其の時は、洋二の手の届かない世界の存在が気になった。



 洋二は、其れを実行すべく、久し振りに茶屋に寄ってみた。
 相変わらず絹代は忙しそうに立ち振る舞っているが・・着付けの師匠と掛け持ちだからだろうと思う。
 洋二は、暫く茶を飲みながら店の様子を窺っていた。時間帯により客がいなくなる事があるようで、今、そんな状況だ。
 洋二は絹代が着付けに行く前に、思い切って彼女に話をしてみた。
 彼女はこの界隈では別格だ。彼女のいる世界は洋二が簡単に入る事が出来ないとも思っている。
 其れでも、正直に言ってみようと思った。
「絹代さん、忙しいところ申し訳ないのだが、君から紹介して頂いた駒子さんの事なんだが・・」
 絹代は、洋二が何を言うのかと驚いたか・・或いは・・折角の計らいを・・と思ったか・・。
 洋二は続けて。
「駒子さんは若くて、男性達からも評判の器量よしで、僕にはもったいない程だし、折角の君の計らいをと思うのだが、彼女、少なくとも私からは自由にしてあげたいんだ・・其れから・・」
 絹代は・・洋二の言葉の意味するところが満更無体(むたい)な事だとは思わないようだったが。
 只、其れから後を聞かなくてはと思ったようだ。
「分かりました。其れは、駒子さんにとっても、結果的に悪い事だとも言えないでしょうから、駒子さんには私から話をしておきましょう?其れ・・?」
 洋二は、此処まで来たら言わなければと思う。
「いや、唐突で驚かせると言うか、腹を立てるのも仕方は無いが、僕は、君と付き合いをしたいんだ。其れが難しい事は百も承知のうえで敢えて言いたかった・・ずっと前から・・」
 彼女は無表情のまま暫く考えていたが。
「其れは本心でしょうか?私は芸子に較べれば年も・・ですから・・」
 洋二は、何も其処まで言わなくともと思いながら、彼女がこの後何と続けるのかが気になる。
 洋二は、彼女が、一瞬、微笑みを浮かべたような気がしたのだが。




 其れから暫くし、再び茶屋に。彼女はまるで、何か決断をしきったかの表情で・・。
「あの、先日のお話ですけれど、お受けさせて頂きたいと思います。其れで本当に宜しいんでしょうか?」
 洋二は手元にあった茶を飲み干すと。
「其れなら、僕は大変満足で、以前からそう願っていたのですから。しかし、旦那という訳には行きません。物書きの収入ですから」
 洋二が何を言ったのかは、彼女は既に理解してくれているようだったが。
「旦那さんというのではないのでしたら何と。其れでも構いません。其れで、今日は此れから時間が取れましたから旦那さん、いえ、貴方と御一緒に如何でしょうか・・?」
 茶屋は、彼女の知人の女性に任せ、二人は並んで歩き出した。
 洋二は彼女が何処に向かっているのかと思ったのだが、暫く歩いてから例の旅館に向かっているのではと思う。






 旅館が近付いてくる。
「駒子さんから聞きましたが、お二人して、よく此処で休憩なされたり泊まられたりしたようですね。今度は私が、そのお役目をと思いまして・・ご不満でしたかしら?」
 洋二は、駒子も当然だが一の評判というプライドがあったのだと本能と冷静という両面の見解から確信した。と同時に、随分残酷な事をしたものだと改めて・・。
 其れでも事実を言わなければならないと思う。






 洋二は絹代の目を見ながら。
「勿論、そうしたかったんですが、申し訳ない事に、駒子さんとは一度もそういう事はありませんでした。ですから旦那らしい事は何もしてあげられなかったという事です。其れは、実は、お恥ずかしい事・・というより私の事はさておき・・」






 其れは洋二にとり、正に大恥を晒す事を告白するようなものだった。
 絹代は駒子よりは遥かに人生経験が豊富であるから・・洋二の目を見ると。
「つまり、今はそういう気持ちでは無いと言う事?でも、私もそういう事があると言う事は聞いた事があります」
 洋二は少しも話さずとも・・分かって貰えたのかと・・。
「つまり、何処までお分かりか分かりませんが、所謂、旦那になる資格はないと言う事になりますかな・・?」
 絹代は、先日と変わらぬ微笑みを浮かべると。
「そういう事もありますよ。ああ、其れと、駒子さんの事ですが、彼女は器量良しですし、ああいった竹を割った様な性格ですから、気になさるほど気落ちなどしてはおりませんよ。御心配なく。ところで、私はまた彼女とは違った性格ですが、漱石先生の御屋敷の様な和やかに・・と思っております・・」



 



 其の晩も彼女は時間が持てたようで・・再び着付けの家に戻る。
 陽も落ち・・家の電気をつけるまえに・・洋二は彼女に近付くと唇を重ねた。
 彼女も・・待っていた様に・・応じてくれた。
 其れくらいが・・今の洋二に出来る事だと思った・・。






 絹代の家に芸子たちが次から次へと来ては着付けの支度をしていく。
 其れが終わり・・皆・・仕事に料理屋などに出掛けて行った。
 夜が来て・・二人で夕食を家で食べた。こういう事は今迄無かったかもしれない。
 時計の針が・・九時を示す頃・・洋二が・・二階に上がると
布団が二つ敷いてある・・。






 
 其の晩は・・家の灯りを消して二人・・並んで寝る事が出来た・・。
 スルスルと・・帯を解く音が聞こえる・・。
 再び灯りが付き・・彼女は鏡の前で・・ほつれた髪に櫛を通している・・。
 絹代は其れが終わると・・明るい表情で・・洋二の目を見ながら首を傾げた。
「明日からは・・仕事と家事の両方で・・忙しくなりそうです・・旦那様がご不便しないように・・」 
 其れから・・笑みを零した・・。
 其の晩・・洋二は其処に泊っていく事にした・・。
 彼女が用意してあった・・寝間着に・・着付けはいらないようだ・・。






 二人の住処は何処か新しく見つける事にした。着付けの家と茶屋は其のままで・・。






 洋二が茶屋にいる時に、漱石がやって来た。
 洋二は何も言わずにと思ったが、この度・・絹代さんと・・と話し出したら、漱石が笑顔で、其れは良かったねと言った。更に。
「 女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます・・そして・・ 細君の愛を他へ移さないようにするのは、夫の義務・・といっても・・もう君達は・・その辺りは・・既に・・充分承知の事だろうがね・・」
 漱石が・・たかが・・茶屋の茶を飲みながら・・美味いね・・と言った事を・・素直に受け止めようと思った。




「お待たせしました・・仕事は切り上げて・・お食事を作らなくては・・買い物に・・行きませんか・・?」
 二人が歩きながら・・夜空を見上げると・・少し赤っぽい柔らかな光を投げかけている月は・・何時もより・・澄まし顔に見えた・・。



 今の時代はおかしな時代であり、猥褻犯罪も多く見かけられるが、昭和33年売春禁止法以前は・・男女の差別が公然として行われていた時代の、終わりだったのだが・・。未だに更に邪悪な犯罪が此の国だけにあらず、USAなどでも大いに問題になっているのは事実である・・。
 其れとも、人類の嵯峨と言えるのかも知れないが・・。NHK大河ドラマで現わせなかった渋沢栄一も女好きで6人の妾がいた上に、尚も吉原の遊郭に足しげく通った。
 ところが、妻はこの事に非常に腹を立てており皮肉を言っていたという記録が残っています。
 更に、遊女は兎も角、今では浮気。不倫・と呼ばれている事を、遡り江戸時代にでも行えば、「問答無用で死罪」になったという事も覚えておいた方が良いでしょう。
 ああ、其れと、此れも事実ですが、芸子の中で芸を極めその道で一流になり、男性に指一本触れさせなかったという名芸子の話も書いてありますから何れ・・。
尚、作者は人類では無いので、人類の筋書きのみです。人類は感情でなく・・感性を豊かにする事が出来れば・・青い惑星も消滅しないのでしょうが・・。

茶屋と・・月に濡れた人達

芸子・芸の師匠に物書き・漱石も登場。

茶屋と・・月に濡れた人達

人類の男女の話。 昭和33年売春禁止法以前の話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-03

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