不忍の池
浅草で御籤を引いた想い出。
浅草の浅草寺に寄ってみた。此処で御籤を引いた事を思い出した。母と一緒だったが、生憎、凶と出た。
母は、其れを見てもう一度引いて御覧と言う。御籤は一回限りではないかと思ったが、言われる通りに引いたら今度は吉が出た。
其の時の気持ちは複雑だった。最初の凶が真実なのか、其れとも引き直した吉は有効なのかと。其の母も今はいない。
そんな事を考えたら、今日は御籤を引くのはやめにしようかと思った。何が出ても、其の後どういう判断をすれば良いか悩むだろうと思ったから。
帰る事にしようと思った時、ある女性の存在に気が付いた。和服姿の襟足が見えている。肌の肌理(きめ)が細かく真っ白なのが印象的だ。
岡田雄一が踵(きびす)を返そうと思うより早く、女性が振り返った。
思わず、女性の顔に目を遣る。
後ろ姿だけが美しいのでは無い。見惚れている雄一の視線が気になったのか女性は一瞬、雄一に軽く頭を下げてから歩き出す。
雄一は彼女と並ぶように、仲見世通りの人混みの中を掻き分け乍ら歩を進める。地下鉄の駅の階段を改札迄下りていく。
地下鉄銀座線は最も古く造られた路線だから、車両は今風にモデルを変えているが、駅や階段は狭く壁は煤(すす)けているように汚れが目立つ。
階段を上って来る人がいれば、身体が接触しないようにと気を使わなければならない。其れだから、雄一は女性と並列にならないようにと女性の後ろについて階段を下りていく。
階段の途中で女性が少し躓きそうになったから、思わず大丈夫かと気になったが、手を貸すまでの事は無かった。
浅草は終点だから時間によっては充分座れる。二人共筋向いのシートに腰をおろす。女性は和装バッグから扇子を取り出し扇ぎ始める。
この時期はまだ冷房が効くまでに時間がかかる事がある。
湯島の駅で降りると、古い狭い路地があり、其処を抜けると湯島天神があるが、その近くには妖しげな休憩用のホテルもある。
女性は其方では無く、不忍池の方に歩いて行く。雄一も湯島で降りて同じ方向に歩き出す。池の辺りは有名な文豪の作品として、森鴎外の雁の舞台となっている。
池の中には橋の様になっている細い道を行ったところに弁財天を祀った弁天島がある。道の途中で女性が突然立ち止まって、後ろを歩いている雄一を見た。
夕暮れ時の池の景色は鴎外の雁の舞台となっている。学生に妾の女性が恋心を感じるという風情は未だにこの辺りに漂っている。
振り向いた女性の姿はまるで見返り美人のような艶が窺える。更に品(しな)を作ると得も言われぬ色香が漂ってくる様な気がする。
夕闇の中で、雄一は幻想の世界を垣間見ることになった。女性が雁に登場する妾・お玉のようであるかのような気がしたが、其れにしては上品すぎる。
弁天とはヒンズー教におけるサラスヴァティーという女神が仏教ではその様に呼ばれているものだ。
七福神の中でも唯一の女性と言える。
思わず、雄一は女性に近付き話し掛ける。
「もしかして・・お玉さん?」
女性は、頷きもしないが首を振る事もしない。
「・・岡田さん・・で・・・」
岡田とは医学生で、高利貸の妾になっているお玉の家の近くを散歩する。お玉は、岡田に恋慕の情を感じ、主人が来ない日に岡田に会えるのを楽しみにしているという筋書きだ。
偶然、名は同じ岡田なのだが・・弁天堂がお玉の家のような気がして来る。原作では淡い話にしている。
女性は、何を思ったかいきなり、するすると帯を解き始める。
着物の背を大きく広げると、真っ白な背中を露わにする。着物は腰のところで落ちずに留まっている。
真白い肌には・・くっきり・・弁天・・が浮き出ている・・。
其の背が露出された様(さま)は・・丁度良い加減になっていて・・反対側の正面から見れば・・よりも寧ろ身体の美しさを表現するのには此の方が・・正に絵になっている。
雄一は・・暫し・・其の美しさを味わい・・茫然としている。
・・陽が落ちる寸前・・女性の姿が見えなくなった。
雄一は、夢でも見ていたようだ。
女性は、雄一の目を見・・微笑むと・・二人並んで・・池の道を歩いて行く。
女性とは・・池を出たところで別れた。
其の晩、雄一は床に就く前にもう一度女性の姿態を思い浮かべた。
やはり、間違い無い・・本物だ・・そう思ったら二度目の夢が見たくなった・・眠りの底に落ちていた。
不忍の池
凶と出たら、もう一度ひけばよい。