月はもう満ちていたのだった

「今だ、ほら。月に時間が流れこむ」
 そう彼がつぶやくがはやいか、私たちの頭上で、にわかに風がいきおいを増した。雲は遠のき、夜の空があらわになると、その冷ややかで澄んだ大気を星々の呼吸するさまがのぞかれた。煮しめたように深い夜闇の中心で、下弦の月がゆっくりと、そして確実に満ちていこうとするのだった。
「木々が風におどっている」と私は言った。
「そうだ。それに騒めいてもいる」彼は一瞬こちらに視線を投げかけ、「なんて言ってるか、君にはわかる?」
 私は答えなかった。なんと答えようと、こんなときには嘘になってしまう気がしたから。
 草花たちは真摯に風にむかってたたずみ、おもいおもいの身振りのうちに、この夜空と月への問いかけを放っているかに思えた。もし、この場にいるのが私一人であれば、その植物たちの問う声も、訊きただすことの中身も、あるいは聴きとれたかもしれない。けれど、今はどんな外部の音であっても、この早鐘をうっている心臓の響きがうちけしてしまうのではないか。私は、彼の隣でそんなふうに思った。
 彼は沈黙していた。
 早まりゆく時間のただなかにあって、月ははやくも威厳をそなえて私たちを見下ろしていた。私はその威容がすこしばかり恐ろしいような気がしたけれど、彼の方では、そこから目を離そうなどという気はさらさらないようだった。月に時間が流れ込む、草がささやき、問いかける。その意味が今この瞬間、明かされようとしているのだから。
「私たちだけなのかな」私はぽつりとそんなことを言った。
「なんて言ったの?」彼は心ここにあらずといったようすで訊き返した。
「今、あの月を見てる人間って、この惑星で私たちだけなのかな?」
「そうかもしれない」そんなことには興味がない、といった口振りで、彼はほとんど自動的にそう答えた。視線はあいかわらず夜空からそらさずにいた。
「もし、私たちだけなのだとすれば」やや上ずっていることが自分自身にもわかる声で、私はこたえた。「ねえ、この夜のひみつは、私たちだけのものになる。そうじゃない?」
 言い終えると、はじめて彼に反応があった。彼は今までそのことに思い当たらなかったかのように、一瞬目を見開いて、しかし真向から見るのでなしに、横目を使って私の顔に一瞥をくれた。その口元は、皮肉っぽく、残念そうにゆがんでいるかに私には思えた。まるで私の言うような重大な秘密が、この世で彼一人だけのものにならず、私と分有されてしまうことを惜しんででもいるかのように。そのように想像することが、私には少し悲しかった。
 私は彼にならって遠くを見つめた。
 そのとき、一体いつのまに、どこからきたのか、一羽のフクロウが視界を横切ろうとするのが目にとまった。風をまとい、夜の大気をけんめいに呼吸し、闇のどこか一点に目をこらして、しかし、ぶざまなほど左右の羽根をちぐはぐにバタつかせながら、その鳥はどこかの場所へおもむこうとしていた。怪我をしているんだ! 私は直観的にそう思った。あんなことでは、いつかきっと羽根が折れて、どこへも行けなくなってしまう。あれではまるで、みずからを傷つけるために飛んでいるようなものだ。
 そのシルエットが月の間近へさしかかったとき、にわかに強い風がおこって、景色の全体をゆりうごかした。強風は私たちのもとへもおよんだ。私の髪ははげしく吹き流され、そのうちの一房が、彼の横顔の耳のあたりに、さっと、いきおいよく、まるで絵筆で画布を刷くようなぐあいに触れた。私ははね上がったその髪を両手でとらえ、首筋に力強くおさえつけると、動脈をのぼる血のけはいが、ぞっとするつめたさで髪ごしの手の平に感じられる。
 本流からはぐれた月明りが、彼の白くかわいた額にそってすべりおりていった。まぶたが鈍重にひきおろされ、ふたたび開かれた目の中には、もう諦めのようなものが漂っていた。どこかでなにかの砕けちるような不快な物音がし、はっとふりかえる視界のすみの野で、あのフクロウはこときれていた。
「みじめなものだ」と、墜ちた鳥をみて彼はいった。「時間ってみじめさ」
 月はもう満ちていたのだった。

月はもう満ちていたのだった

月はもう満ちていたのだった

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-01

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