夜景6

夜景6

書きだした初期の物だから、やはり、未熟に思える。

講義が終わってキャンパスに出たら、優子に会った。
 キャンパスの芝生が沈んでいく夕陽でオレンジ色に燃え上がる。
 二人で幻の門から三田通りを渡り、仲通りのカフェに入る。
 「今度の休みはアパートに来ない?」
 「いいわよ、本の話がゆっくりできそう」
 「今日の講義は何だったの?」
 「英文学でシェイクスピアと美術史で印象派とかかな」
 「印象派は僕も好きだな、モネとかルノアールとか、白色を使っているんだね、白色を使っているといえばゴッホの『夜のカフェテラス』なども綺麗だけれど、
 僕の部屋にもルノワールの絵のコピーが飾ってあるんだ」
 「じゃあ丁度見れるわね、印象派って言葉は絵だけでなく音楽でも使っているね」
 「ああ、そうだね音楽はドビッシーとか・・『月の光』などは綺麗な曲だね」
 「今日の文学のお話は一男さんのアパートに行く時まで延ばそうか?」
 「それもいいね、それまでに何がいいか考えておこう」
 「お話をしてそれから何処かに遊びにいけばいいね」
 ウイークデイはまたたく間に過ぎ、週末がやってきた。
 大森の駅まで優子を迎えに行った。
 今日の優子は、ミニスカートに白黒色模様のセーターの上からダークグレーで二つボタンのビックカラーダブルコートにロング黒ブーツ、ウエストラインから広がる綺麗なフレアシルエットが似合っている。
 田園調布と並ぶ山王の高級住宅街を抜ける、
「僕のアパートとは対照的な高級住宅街だな」
おもわず呟く。
 この前は優子の豪邸を堪能したから、今日は貧乏学生をそのままに見せようと思った。
 だからというわけではないが、昼は近くの定食屋さんに行くことになった。
 ここはお婆さんばかり何人も働いている、多分安い時給なんだろうなと何時も思う。
 一品料理から納豆や玉子一つまで個別に頼めるから学生さんには便利だ。
 一男は目玉焼きハムなどを頼んだ、優子もここでは定食などを。
 部屋に戻って来る時にアパートの入り口で、下に住んでいる管理人夫婦に会ったから優子の事を紹介した。
 「こんにちは」
 「彼女かい?」
 「同じ大学の友達です」、
 一男も引っ越してきてそんなに時間が経っていないから、アパートの人達との付き合いは大事にしている。
 「何時もは華やかな優子さんだけれど、こんな学生アパートでも気に入って貰えればいいけれど?」
 「私は、学生が住む地味でこじまんりしている部屋もいいと思うけれど」
 「隣の部屋に優子さんと同じ文学部の友人がいるから紹介しとくね」
 一男は優子を連れて隣の部屋に行きドアをノックする、住人が出てきた、優子を紹介する。
 「こちら山岸君、文学部国文学科で教員試験を目指して勉強しているんだ」
 「こんにちは」
 「こちら同じ大学の文学部英米学科の野宮優子さん、僕の友達」
 「あっ、どうも」
 紹介しておきたかった、大学で会うかもしれないし、一男の大事な人だから。
 部屋に戻り、一男は、本棚から「日本幻想文学集成」の夏目漱石を手に取る、
 「漱石の作品の中で幻想的な小説が幾つかあるよね、『夢十夜』『琴のそら音』『変な音』『幻影の盾』などだけれど、今日は『倫敦塔』を読んでみるね」
 「漱石が英国に留学中に見物したロンドン塔の感想を描いた作品ね」
 「そう、やはり知っていたね」
 「読むね、『二年の留学中只一度倫敦塔を見物したことがある。其後(そのご)再び行かうかと思った日もあるが止めにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二返目に打壊(ぶちこ)はすのは惜(おし)い。三たび目に拭(ぬぐ)ひ去るのは尤(もっと)も残念だ。
「塔」の見物は一度に限ると思ふ。』」
 [如何にも漱石らしい書き出しの表現だね]
 一男の部屋の窓から、庭の花壇の赤や黄色の花が見える。
 その後は、優子が続けた。
 「長くなるけれど読むわね、『行ったのは着後間もないうちの事である。其頃は方角もよく分からんし、地理杯(など)は固(もと)より知らん。丸で御殿場の兎(うさぎ)が急に日本橋の真中へ抛(ほう)り出された様な心持ちであった。表へ出れば人の波にさらはれるかと思ひ、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑ひ、朝夕安き心はなかった。此(この)響き、此群集の中に二年住んで居たら吾が神経の繊維も遂には鍋の中の麩海苔(ふのり)の如くべとべとになるだらうとマクス、ノルダウの退化論を今更の如く大真理と思ふ折さへあった。しかも余は他の日本人の如く紹介状を持って世話になりに行(ゆ)く宛もなく、又在留の旧知とては無論ない身の上であるから、恐々(こわごわ)ながら一枚の地図を案内として毎日見学の為め若(も)しくは用達の為め出あるかねばならなかった。』」
 「明治の人だから読みが難しいわね」
 「ちょっとコーヒー淹れるね、休憩、インスタントだけれど・・いいかな?」
 「コーヒーには変わりはないわ」
 一男がコーヒーを淹れる、少しは休憩になっただろうか。
 その後を一男が続ける。
 「すこし飛ばし読みするね『「塔」を見物したのは恰(あたか)も此方法に依らねば外出のできぬ時代の事と思ふ。来(きた)るに来所(らいしょ)なく去るに去所(きょしょ)を知らぬと云うと禅語めくが、余はどの路(みち)を通って「塔」に着したか又如何なる町を横ぎって吾が家に帰ったか未だに判然しない。どう考へても思ひ出せぬ。只「塔」を見物した丈(だけ)はたしかである。「塔」其物の光景は今でもありありと眼に浮べる事が出来る。前はと問はれると困る、後はと尋ねられても返答し得ぬ。只前を忘れ後を失したる中間が会釈もなく明るい。恰も闇を裂く稲妻の眉に落(おつ)ると見えて消えたる心地がする。倫敦塔は宿世(すくせ)の夢の焼点の様だ。』」
 「また漱石らしい面白い表現だ」
 「飛ばすね、『此(この)倫敦塔を塔橋の上からテームす河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人か将(は)た古(いにしえ)への人かと思ふ迄我を忘れて余念もなく眺め入った。冬の初めとはいひながら物静かな日である。空は灰汁桶(あくおけ)を掻(か)き交ぜた様な色をして低く塔の上に垂れ懸(かか)って居る。壁土を溶かし込んだ様に見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理矢理に動いて居るかと思はるる。』
 「この表現も難しいけれどなかなか味がある」
 「飛ばして読むわ『見渡した処(ところ)凡(すべ)ての物が静かである。物憂(ものう)げに見える、眠って居る、皆過去の感じである。さうして其中(そのなか)に冷然と二十世紀を軽蔑する様に立って居るのが倫敦塔である。』長かったから疲れたでしょう」
 「でも凄い文章だね、真似しようとしたってできないね」
 「で、漱石は結局二十世紀のロンドンから、いにしえのロンドンに迷い込んでしまうわけね」
 「ここは処刑場として有名だったらしい、沢山の有名な人が処刑され、悲劇の女王レディ・ジェーン・グレイの首切りが再現される、余(漱石)は無我夢中で宿に帰り、その話を主人にすると…という話、同じ時期に書かれた「我輩は猫である」とは対照的に幻想の世界に入り込んでいる」
 「天才だから書ける文章ね、あら、あれ ルノワールの絵」
 ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が最初から息の合う二人を見ていたのだ
 「僕の部屋の印象はどうだった?良かったらまた来てね」
 「気に入った、また来るね」
 「さて、これから何処に行こうか?」
 「今日は新宿にでも行ってみよう」
 かくして二人は新宿駅に降り立つ。
 歌舞伎町は日本で最大の歓楽街だ、猥雑とも言えるかもしれないが。
 各種の店が立ち並び、その筋の組の方も出現をし、三丁目などは「ゲイ・ニューハーフ」など何でもありの怪しい雰囲気も窺える。
 そんな中に突如現れる安らぎの場所「花園神社」、知る人ぞ知るパワースポットとも言われている。
 「落語でも見ていこうか」
 三丁目の「新宿末広亭」に入る、桂歌丸の落語を楽しむ。
 「面白かったね、次は御苑でも行きましょうか?」
 歩いて新宿御苑に行く。
 御苑内は約58ヘクタールのスペースに「日本庭園」、「イギリス風景式庭園」、「フランス式整形庭園」を組み合わせており、樹木の数は1万本を超える。
 桜は約1300本あり、春には花見の名所として大勢の観光客で賑わう。
 「『玉藻池』を中心とする回遊式日本庭園は、内藤家下屋敷の庭園『玉川園』だったらしいね」
 「都会の中の静寂ってとこね」
 新宿駅に行く途中、老舗デパート伊勢丹に寄った。
 「ちょっと寄っていこうか、婦人服でも見ながら」
 「あら、いつも、婦人服なのね、紳士服は興味ないの?」
 「いや・・僕はいいんだ、ファッションっていう柄じゃないし」
 婦人服売り場を中心に店内を廻る。
 西口に着く頃には、薄暮が訪れ、やがてほんのりと青い夜の闇が騒々しいくらいの街を包んだ。
 「お腹空かない?」
 「よく歩いたから運動になったし、眺めのいいところでも行きましょうか」
 新宿西口から地下道を通って地上に出ると、左側に東京都庁が見える、見学のために此処を訪れる人も多い。
 「都庁もいいけれどまた今度にしましょう」
 「そうだね、第一本庁舎は48階高さ243 mで、完工時にサンシャイン60を抜き、日本一の高さを誇ったんだけれど、日本一の座を横浜ランドマークタワーに(現在は違う)、東京一の座を六本木のミッドタウン・タワーに譲ったんだね」
 足踏みをしていた都会の夜が待ってましたとばかりに幕を下ろした。
 中央公園に突き当たって左に曲がればパークハイアット東京が見える。
 「面白い形をしたビルだね」
 エレベーターに乗って表示を見る。
 「何階に行けばいいかな、レストランは?」
 50階まで高速エレベータが風を切って二人を運ぶ。
 ドアが開くと、光の粒の塊があたり一面に自慢げに姿を現す。
 窓際の席に座って一男がメニューを見た、渋谷のホテルの10分の1の値段だ、慣れない口調でワインをオーダーする。
 「これなら僕でも・・シェーファー レッド ショルダー ランチ、 シャルドネ、 ナパ バレー カーネロスというのを」
 これに前菜とグリル・サイドオーダーを注文する。
 二人は白ワインを互いにグラスに注ぎながら美味しい料理を摘む。
 窓越しに見える宝石箱の光が食事に色を添え話が弾む。
 「此の前は優子さんの家にお邪魔したけれど、お母さん達何か言ってなかった?」
 「別に?いい学生さんねって言ってたわよ」
 「そう、それなら良かった」
 話し出すと相も変わらず本の話になってしまう。
 「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は小学生でも知っているけれど、大人になってからもう一度よく読んでみると、なかなか文章がいいと思う」
 「やっぱり天才だから・・」
 「たった原稿用紙20枚くらいの作品だけれど、ストーリーは面白いし文章も漱石に比べれば分かりやすい」
 「書き出しも最後のところもいいわね、地獄の罪人がたった一つ良いことをしたのは蜘蛛を助けたということだけだけだったが、それを御釈迦様が取り上げて蜘蛛の糸で助けてあげようとしたんだけれど、結局は罪人は保身しか考えなくて糸が切れてしまうというお話ね」
 「長くなるから書き出しは言わないけれど、終りのところだけ・・『しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着(とんじゃく)致しません。その玉のやうな白い花は、御釈迦様の御足(おみあし)のまはりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂が。絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございませう。』蓮の擬人化と極楽に朝や昼があるというあっさりと終わるところが味わいがあるんだな」
 「芥川龍之介も漱石を師と仰いでいたんだよね」
 「文豪達の集まりってあったら凄かっただろうな」
 「実際に会った時にはどんな話をしてたんだろうね」
 「毎回そう思うけれど、此処も夜景が美しいな」
 本当に宝石箱から溢れ出た光は美しい。
 二人とも充実した一日を過ごせたようだ。
 地上に降りると街の喧騒が和らいだ夜の光景が目の前にあった。
  新宿駅から大森までは二人共JRで、一男はそこで降りた。
 「楽しかった、また学校でね」
 「本当に楽しかったね」
 ドアが無表情に閉まると、電車は滑り出す。
 一男は右手を大きく上げ優子も両手で手を振る。
 電車の尾灯が街の灯りに溶け込んで消えて行った・・。

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貧乏学生の念願だった・・プレゼント・・。

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当時は、母の認知症の介護もあり、案外時間が無かったのかも知れない。

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更新日
登録日
2022-12-01

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