夜景4

夜景4

いよいよ、横浜では高級住宅が並んでいる山手の夕子の家に行く。

優子は講義が終わってから、大学の図書館の階段を上がる。
 今日は一男のほうが先に来て待っていた。
「お待たせ」
「僕もちょっと前に来たばかりだから・・この前約束した書き出し等が感じがいい作品の話をしなくちゃね」
 図書館でお喋りも気を使うからと、仲通りの喫茶店に入る。
「また漱石だけれど『我輩は猫である』を書き終えてから10日後に執筆を開始し二週間後に完成したという、『草枕』の冒頭は有名だよね」
「山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」
「意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
「そう、それ、そこがいい」
「でもストーリー性は漱石の他の作品に比べればやや派手さが無いかもしれないけれど」
「主人公の画家の青年が言っている『小説なんか初めから終いまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです』って」
「芸術論を随分念入りに書いているわね、漱石もそれを強調したかったようだし、情景描写が綺麗、文章が素晴らしい、不人情でなく非人情という言葉も面白いし」
「那美という女性が自分が池に身を投げて浮いている姿を絵に描いてくれと言う、画家は物足りないから絵にならないと言ったが、最後に出征兵士を見送る那美の顔に「憐れ」が浮んでいるのを見て『それだ、それだ、それが出れば絵になりますよ』と那美の肩をたたき『余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである』という終わり方も余韻を残して、如何にも天才漱石らしい」
「漱石の文章というのはこの作品に限らず独特の味わいがあるわね」
「そうだね、漱石についてはまた別の作品でも話をすることになると思うけれど、本当にいいね、文章を味わうということは」
作品についての二人の話は言外にお互いの心の中に拡がっていった。
「ところで、今度の休み何処に行こうか?」
「家に来ない?」
一男は来たなと思った。
「そうだね・・それはいいけれど僕が突然行ったら家の人が驚くんじゃない?」
「大丈夫よ、もう母と弟にはあなたの話をしてあるんだ」
「ええ、そうなの?」
「いきなりで来にくいなら私と一緒に来ればいい」
「そうか・・それもそうだね」
どんな家なんだろう・・不安と好奇心が渦巻いている。
ウイークデーはすぐに過ぎた。


その日は優子と横浜のそごうデパートで待ち合わせをし、昼食はデパートで食べた。
 今日の優子は、黒に細いオレンジの大き目の格子が入ったカットソーに、ダークグレーのガウチョパンツの上からベージュのロングトレンチコートをさらっと羽織っている、長い髪に似合っている。
 婦人服売り場に顔を出し、デパート内をぶらぶらした後JRの根岸線に乗る。
 優子の家は横浜の山手にあった。
 二人は根岸線の桜木町の駅で降り、並んで客待ちをしていたタクシーに乗ると、優子が運転手に行き先を告げた、それがこの山手である。
 車は馬車道から中華街の脇を通って坂を上がっていく。

 山手と言えば高級住宅街である。
 近くには、外国人墓地や港の見える丘公園等が有る。
やはり、タクシーから降りたら目の前に大きなお屋敷が待ち構えていた、優子の家である。
 優子の父である野宮哲夫は、東京の多摩に有る野宮病院の院長であると優子から聞いていた。
 野宮病院は、その地域では有名な総合病院である。
 家も立派なわけだと一男は思った。
 大きな門を通りドアを開けると、広い洋室の空間が待ち構えていた、一応間仕切りはあるようでも、何処までが一部屋なのか分からないほど広い。
 更にそんな部屋が、一・二階に幾つもあるのだから。
「こちらが一男さん」
「こんにちは、お邪魔します」
「よくいらっしゃいましたね」
 ゆったりとしたソファに腰掛けて優子の母親と対面する。
 目の前のテーブルには立派なガラスの灰皿と如何にも高級そうな葉巻が置いてある。(世界中に葉巻はあるが、例えばインドネシアの葉巻などは見るからに雑に造られている様に見える。実際、味も落ちるし、極端に言えば釣り用の浮きを大きくしたような形で葉の巻き方が不揃いの事が多い。ところが上物になると、葉はきちんと巻かれており、形や貼られているラベルからし高級その物・・勿論味わいも格別。)
 葉巻を勧められ、銜(くわ)えてみた、上等の葉巻のようで香りが素晴らしいし、味?も良い。
 大学の事や二人の馴れ初めなどを話す。
「お父様は学校の先生ですって?」
「ええ、そうです、小学校の」
 別に緊張はしなかった、事実を話すだけだ、一男の家のことも優子が話してあったようだ。
「ああ、いらっしゃい」
 弟も顔を出した、後から聞いたのだが、大学1年生でもうフジテレビに就職が決まっているようだ、家の繋がりだろう。
「これ、弟のイタリアのお土産のネクタイ、一男さんの事話してあったから」
「え、いいの?どうもありがとう、イタリアか・・」
一通りの挨拶は終わって、優子の部屋に案内された。
「ここが優子さんの部屋か、綺麗な部屋だね」
「一男さんのアパートだってこじんまりとしていいじゃない」
 そういう褒め方もあるんだなと思っていると、ドアをノックする音がして、返事をすると、中年の男性が入って来た。
「こちら、私の主治医の先生なの」
「主治医って?ああ、そうか、病院を経営しているから医者は何人もいるんだろうな、それにしても主治医とは凄いな」
 一男は独りごちた。
 大きな家にしては優子の部屋は小奇麗にしてあって、ベッドと本棚と机や衣装箪笥が置いてある。
「野宮病院って知っているよ、バスで前を通ったことがあるから、多摩の大きな総合病院だよね」
 病院に行っているのか院長である父親には逢わなかったが、1時間くらいはいたであろうか、無事何事も無く快適な時間を過ごすことができた。
「今日は、本の話は後にしてジャーメインの家にでも行ってみましょう、近くだから」



 お礼を言い家を出ると、外国人墓地方面に歩いていくと大きな洋館があった。
 外人の家だから土足で入るのだ。
 ドアを開けると中年の女の人が出てきた。
 優子が紹介をしてくれた人はメイドさんだそうだ、フィリピン大使館に勤めているくらいだから、それとも外人の家は結構そういう家が多いのかなどと思った。
 メイドさんが奥に入ると入れ替わりにジャーメインが出てきた。
 優子が挨拶と一男の紹介をした、前に渋谷の東急デパートで会っているから会うのはこれで二回目だ。
 英語が飛び交うが早すぎて一男には何を言っているのかわからない。
 優子が言うには本場の相手にも早口だと言われるそうだ、英語の早口なんていうのもあるのだなと思った。
三人で外国人墓地まで歩いていく、一男は横浜はよく知らない。

 外国人墓地も墓には違いないが十字架だらけで、日本の墓地とは全く違って明るい印象がする。
 来た道を戻り港の見える丘公園に行く。

「何か東京の公園とはまた違って緑や花が多いし、整然としていて綺麗だね」
「あっちに行くと眺めがいいわよ、海や街が見えるから行ってみましょう」
「確かにいい眺めだね、向こうにベイブリッジ、手前には山下公園に氷川丸とマリンタワーが見える」
「後で行って見ましょう、ここから見える夜景も素晴らしいわよ」
「いいな、毎日こんな景色が見れるなんて、羨ましいよ」
 三人で近くのレストランに入り、コーヒーを飲んだ。
 迫力のある英会話が飛び交う。
「アバ・・」何か海外ではそう言うようだ。
 ジャーメインとは店を出て別れた。
 バスに乗り山下公園に行く、陽が傾いてきている。
 氷川丸と人形の家を見学し、マリンタワーを上がる頃には夕闇にGood byeして、ブルーにライトアップしたタワーが綺麗だ。
「港の夜景が綺麗だね」
「そんなに高くは無いけれど、浜っ子には此処が似合っているのよね」
「夕食はどうしようか?作品の話もしたいしね」
「ランドマークタワーでも行きましょうか?」
「そうだね、中華街もいいけれどまた来ればいいからね」
 ランドマークタワーは地上70階高さは296メートルの日本一(今は違うが)の超高層ビルである。
 日本最速のエレベーターは2階から69階までを40秒で結ぶ。
「上のレストランに行こう?」
「もう、横浜は優子さんに任せるよ」
 高速エレベーターが音も無く風を切り、68階に着く。
 ドアが開くと天空に色とりどりの宝石が散りばめられていた。
 席が空いていたから二人共ゆったりと寛げる。
「今日は、お邪魔したけれど楽しかった、やはり、僕にとってはいろいろ驚く事もあったけれど。」
「どう致しまして、私も来てくれて嬉しかった」
「でも、小さな僕のアパートにもまた来て貰いたいな、見栄えはしないけれど」
「勿論、近いうちにまたお邪魔することになると思う、アパートってこじんまりして本の話をするには、向いているじゃない」
 優子が赤ワインと食べ物をオーダーした。
 ワイングラスで乾杯。
「漱石が続くけれど・・この景色を見ながらだと落ち着いて話せるな、明るい『坊ちゃん』なんかいいかもしれないな」
「ストーリーは分かりやすいけれど、文章の魔術に酔える雰囲気ね」
「書き出しは如何にも漱石らしい」
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。」
「小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」
「二階から飛び降りたら大怪我をしない方がおかしいようなものだね」
「坊ちゃんの話は親しみやすいけど文章が味わいがある」
 優子が一男のグラスにワインを注いでくれる。
 一男も一口飲んでから、優子のグラスに注ぎながら話す。
「僕は中学校の時に始めて読んだけれど、それからずっと・・余韻が残ったというかいいなと思ったところがあるんだけれど・・何処かわかる?ヒントは可愛がってくれた下女の清なんだけれど」
「う~ん、わかる・・最後のところじゃない?」
「ええっ?よくわかったね」
「『山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。』で行動を共にした人と別れてしまって何か淋しいような気がするところに、次の文がいいのよね」
「そうなんだ、読んでいた僕が淋しくなってしまったところに・・『清(きよ)の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。その後ある人の周旋(しゅうせん)で街鉄(がいてつ)の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹(かか)って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋て下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。』で・・また淋しくなっちゃうんだな」
「そして一男さんがボーッとしてしまったのは最後の一文でしょ?」
一男は、次の優子の言葉を聞く前に、宝石箱から溢れ出た七色の光がこちらを照らし出している様を一瞬味わった。
「だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある。」
 この『だから』を井上ひさしは日本語で一番美しい「だから」の表現だと言っている。
 優子とは本当に気が合うというか、分かり合える・・それは大事な事だと思う。
 何でも無いような一文の味わいがどうして分かるんだろうと思った。
「この本を田舎の自分の家で読んだ時に、何時か東京に行ったら小日向の養源寺って所に行ってみようと思ったくらいなんだ」
「このお寺って実際にあるの?」
「小日向というより本駒込にある、今度行ってみない?」
「いいわね・・文学の旅か・・」
 ワインが美味しい、今日も充実した日だった。
 一男は優子が自分の事を好いてくれている実感を感じ取る事ができた、勿論自分はそれ以上だが・・。
 漱石の名言を思い出した。
『女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます。』
 名残惜しい夜景をそっと心の中にしまって、エレベーターに乗った。
 桜木町の駅まで腕を組んで・・また立ち止まって・・二つの影が重なり唇が触れる。
「またアパートに遊びに行くからね」
 根岸線が来る、一男は駅の階段を上がりながら何回も振り返っては優子に大きく手を振った。
 優子も小さく両手を振って。
 電車は、ホームに滑り込んできて、一男を乗せると後も見ないで走り去る。
 赤い尾灯が街の灯りに溶け込んでいった。

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何気ない話だが、家の大きさや弟のTV局への一年時に内定は普通ではない。

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ジャーメインと優子の会話の早口な事・・。 幾ら、上流家庭の子女が少なくない大学とは言え、桁違いの家には驚いた。 小説が共に同じ様に味わえるという事は滅多にない。 港横浜の情景にも異国情緒を感じさせられた。

  • 小説
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  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-01

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