夜景3
3は渋谷が舞台だが、当時の渋谷は今と異なり上品な都会だった。
やはり、若者たちが群れを成すようになると、新宿や池袋の様になってしまった・・という事だろう・・。
洗足の駅まで優子を迎えに行った。
一男の引越しの日で、優子が手伝いに来てくれたのだ。
「おはよう、今日は宜しくお願いします」
「お役に立てるかな、ところでこの辺ってお屋敷が多いのね」
今日はグレーに模様の入ったTシャツの上にターコイズブルーのデニムシャツをカーディガン風に、黒スキニーパンツ、白いソックスに草色に白が混じった豹柄パンプスという出で立ち。
下宿に帰ったら、運送屋が小型トラックを停めて待っていた。
「このトラックで全部運べるの?」
「大した荷物じゃないから大丈夫」
荷物の一部は、自分で二階から降ろして表に置いておいた。
「いいギターね、上手いんでしょ?」
と言いながら、ギターを弾く真似をする。
「上手いかどうか、小学校6年の頃からやっているから、ポピュラーな曲は大抵弾けるけれど」
一人では運べない机や本棚などは二人で二階から下ろした。
女性にこんな事をさせるのは不味かったかな、友人に頼めば良かったかなと思ったが。
二人で荷物を車に積み込む。
「やっぱり、本が沢山あるわね」
「優子さんの知っている本ばかりでしょう」
「志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介・・・成る程、私と同じ様な好みみたいね」
「最近買った本はあまり無いから、旧い本ばかりだけど」
大した量では無かったからすぐに積み終わり、二人を乗せた車は環状七号線を走り馬込のアパートに着いた。
六畳の部屋は二階だったから、アパートの外階段から運び込んだ、鉄製の階段だから結構足音が響く。
「さっぱりとしたお部屋じゃない」
「うん、まあ、学生の一人住まいだからね、片付いたら、また遊びに来てよ」
「そうね・・本のお話なんかするにはこういう所のほうがいいと思うわ」
一男は、優子が今度来てくれたらギターも弾いて聴いて貰おうと思った。
「どうもお疲れ様でした、ありがとう、お腹空いたでしょう」
引越しが終わってから、近くの中華料理屋で昼食を取った。
「これからどうしようか?」
「渋谷にでも行ってみる?この前一男さんが言ってたジャズ喫茶とかいろいろ行く所がありそうだから」
アパートから大森の駅までは丘の上にある山王という高級住宅街を歩いて抜ける、バスもあるのだが本数が少ない。
大森の駅の手前にある小さなお地蔵さんを拝む。
「優子さん、何をお願いしているの?」
僕は決まっているけれどと一男は思った。
大森駅からJRに乗り、品川で乗り換え渋谷のハチ公前に出た。
先ずは、NHKのスタジオパークに行くことにした。
人で混み合っているスクランブル交差点から公園通りを抜け、嘗(かつ)ては紅白歌合戦の会場だった渋谷公会堂の前の放送センターに着く。
スタジオを見て廻る、連続ドラマなどを撮影中のスタジオもあり、有名な俳優を見れることもある。
今日は日曜だから、日曜バラエティーというラジオ番組の生放送をやっている、歌手が歌ったりゲストのタレントのお話があったり。
「あの司会者は山田邦子じゃない?」
「そうだね、ラジオ第一でやってるやつかな」
更に歩いていくとサンダーバードや紅白歌合戦の歴代の展示があったりする。
体験コーナーが幾つもあって、スタジオパークNEWSから廻ることにする。
「僕はニュースキャスターをやってみよう」
「じゃあ、私がカメラマンね」
次に優子がお天気キャスターをと楽しんで、写真を撮る。
クリエイティブラボでは優子が映像素材と音楽素材・キャラクターを組み合わせてオリジナル映像ストーリーを作った。
「映像と音を操(あやつ)れて面白いわね」
「なかなかいいよ、優子さんの作品」
アニメファクトリー、二人が声優になりきってアニメの台詞にペアでチャレンジした。
ネイチャーカメラマンでは
「これは危険な動物なんかを遠くから撮る時に使うカメラなんだって」
二人で様々な特殊カメラを操り自然番組を撮影する。
メディアウォール、それぞれカラフルな画面に触れて、歴代のドラマや歌番組が飛び出してくるのを楽しむ。
NHKクエストでクイズにチャレンジし、ワールドでは様々な言語で収録中のラジオスタジオを見学する。
「あ、これ知ってる、ためしてガッテンだ」
「大河ドラマや連続テレビ小説をやってるわ、衣装もあるし」
二人ともまるで、子供のように楽しんだ。
「本当に楽しかったね、」
外人も見学に来ている、優子が英語で何か話している。
ここで、一男は優子が英会話ができるということに気が付いた。
「優子さん英語話せるんだ?」
「外国人の友達がいるから話さないわけにいかないから」
優子は、頷きながら国際放送を聴いていた。
NHKを後にして、宇田川町を抜け、東急百貨店本店に行く。
「優子さん、何時もお洒落な格好をしているけれど、デパートなんかで買い物するの?」
「お洒落じゃないよ、横浜のそごうなんかで買うことはあるけれど・・」
・・・と、優子があらぬ方を見て、
「あれっ、ジャーメインじゃない!私の友達の・・」
前に聞いたことがある名前だ。
「ジャーメインさんって、前に東京タワーで話してくれた・・あの人?」
「そう、フィリピン人なのよ」
「覚えてる、お父さんがフィリピン大使館に勤めていて、大学の図書館で読んでいた英語の本を勧めてくれた人でしょう?」
「そうよ、ジャーメイン!」
と優子は小さく手を振る。
「Oh yuuko!・・・」
向こうも手を振る、ゆったりとした動作で。
優子と彼女との間に英語が飛び交う。
一男には殆どわからなかったが・・。
どうやら、友達と一緒にショッピングに来たらしい。
婦人服売り場の横のソファに腰掛けて三人で話をしている。
一男の事を紹介したようだ。
「Hello! Kazuo」
「Hello! Ms Germane」
一男も簡単な挨拶くらいはできた。
話は間も無く終わった。
「Good-bye, see you again」
「Bye!」
ジャーメインの家は横浜山手の優子の家の近くらしいから、また会うこともあるだろう。
デパートを出て、道玄坂の元ヤマハミュージック(音楽ファンに惜しまれながらも閉店・・現在は無い)の前を通る。
「ここは5年位前まで、多くの音楽愛好家やポピュラーミュージック系アーティストに親しまれてきた店だったんだ、いろんなヤマハの楽器や楽譜が見られたんだ」
「そうなの?ヤマハのピアノは知っているけれど」
「約40年間の間に多くのミュージシャンが生まれ、エレキギターはサンタナや高中正義が使用したのと同じようなSGシリーズが飾ってあったんだ、2010年に閉店したんだけれど・・あ~高中正義やサンタナとか知らないよね?」
「知らないけれど、ギタリスト・・?」
「そう・・ヤマハのギターSGを使ってたんだ、僕のギターでも真似事はできるから・・今度優子さんにも聴いて貰おうかな・・」
「そうね、楽しみにしてる」
もう陽は落ち始めている。
道玄坂の交番前から近い「J・B・S渋谷」というジャズ喫茶に入る。
広くないスペースに、何人かの客が座ってスピーカーから流れてくる音楽を聴いている。
二人が席を確保した後、一男はジョン・コルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」をリクエストした。
ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の劇中曲をカバー、コルトレーンのソプラノ・サックスがいい。
ピアノはマッコイ・タイナー、スティーヴ・ディヴィスのベース、ドラムはエルヴィン・ジョーンズ。
ドリンクを飲みながら優子が、
「この曲映画で有名だから私も知ってる」
一男は、優子が気に入ってくれるかどうか心配だったが、先ず先ずのようである。
渋谷のジャズ喫茶は「Mary Jane」「swing」「J・B・S渋谷」等。
70~80年代のジャズ・ブルース・ソウルなどのレコードが壁一杯に並べてある。
スピーカー:アルテック・カーメル、アンプ:マッキントッシュMX110+MC60、マーク・レビンソン LNP-2Lプリプレーヤー:トーレンスTD-124,TD-124(復刻)のツイン
アーム:SME3009(現在も同じかどうかはわからないが)
1時間ほど次々に流れてくる曲を聴いた。
店を出ると渋谷の街の灯りが辺り一面に拡がっていた。
「ロシア料理なんか食べない?前に下宿にいた先輩と行ったことがある店を知っているんだ」
「ロシア料理?面白そうね、行ってみよう」
円山町に在る「サモワール」に入る、小さな店だが常連が多い。
「僕はウォッカを頼むね、優子さんはロシアの・・甘いけど・・クアスなんかどう?」
「じゃあ、それにしようかな」
「すみません、ウォッカとクアスそれとボルシチとペリメニも下さい」
昔ながらのロシア料理にウォッカとクアス。
一男は目の前のウォッカと優子を交互に見ながら
「ねえ、優子さんウォッカ少し飲んでみない?」
「いいの?じゃあ戴く」
優子はウォッカの入ったグラスを持って口をつける。
「う・・カーッとする・・」
と言ってグラスを戻した。
「強いでしょ・・50度くらい、でもスピリタスなんていうウォッカは96度あるんだよ、世界最強じゃないかな」
「アブサンより強いのね」
「ははっ、そうだね、僕も後はクアスにしよう、すみません、クアス一つ下さい」
と言って一男は残ったウォッカをグッと飲む。
「き~、きくなー」
二人で料理を摘みながら、クアスを飲む。
(因みに、この店は今は池尻大橋と三軒茶屋の中間に移転している。メニューも違うかも知れない。)
「ねえ、この後私のお薦めの場所に行かない?」
「いいけど・・何処かな?」
「私の知り合いがやっているレストランバーが、セルリアンタワー東急ホテルの中に在るの」
「へ~、知り合いがセルリアンタワーの中にいる・・じゃなくて・・知り合いのお店が入っているの?」
「ワインになっちゃうけど・・いい?」
一男は、セルリアンタワーといったら、高層ビルのホテルだということは聞いたことがあった。
かくして、二人はまた渋谷の街の灯りを見ながら、歩くことになった。
一男が歩きながら、
「あそこで、ウォッカ飲み過ぎなくて良かった・・」
並んで・・腕を組んで・・道玄坂から国道246号の方に向かう。
「ワインが美味しいわよ」
タワーのエレベーターを呼ぶ、中に入って上部の表示を見ながら一男が、
「何ていう店?何階?」
「ベロビスト、40階だわ」
高速エレベーターが空気を切りながら、あっという間に二人を40階まで運ぶ。
ドアが開くと、辺り一面薄暗い中に様々な色の光の粒が取り巻いているように見えた。
優子が店の入り口で、スーツを着た男性と話をしている。
「さあ、行きましょう」
男性が笑いながら二人を窓際の席に案内してくれた。
「凄いコネだね・・」
一男は本当にびっくりした。
今度は制服の男性が、手の平に、ワインのボトルと二つのグラスに食べ物がのったトレイをのせて。
「今日は、プイィ フュメ バロン ド エルです、どうぞごゆっくり」
「何、そのプイ・・・とかいうのは?」
「ワインの名前よ、フランスの」
「何か高そう・・」
「大丈夫、サービスだから」
「凄いサービスだね、それに・・この夜景・・半端じゃないな、凄いよ」
一男は「凄い」の連発をする。
さり気なくメニューを見たら、プイ・・は 1本 29、700円だった。
夜景を見ていると心が落ち着く。
先ずは一男が。
「ねえ、武者小路実篤なんかどう思う?」
「そうね、川端康成みたいな綺麗な文章では無いけれど、ストーリーは面白いと思う」
「どれも優劣付けがたいけど、彼の作品だったらどんなのが好み?」
「いろいろあるけれど、『友情』とか『愛と死』なんかが代表的じゃないかな」
「友情っていうと三角関係という感じのやつだね」
「現実によくありそうな話ね、野島が友人の妹の杉子に恋をする、一方野島とかたい友情で結ばれた大宮が、EUROPEに旅立つ」
「大宮は実は、杉子が好きだったから敢えて冷たい態度をとっていた・・野島との友情があるから・・で、野島が杉子に振られちゃう・・杉子がEUROPEに追いかけて行く・・野島は恋人と友人を一度に失ってしまう」
「どっちかというと、人の心を素直にお話にする人だよね」
「愛と死なんかも泣かせるわ」
一男が
「そうだね、悲しい話だ・・小説家の端くれである村岡は尊敬する小説家で友人となった野々村の元へ訪問するようになり、野々村の妹である夏子と知り合い、最終的に村岡の巴里への洋行後に結婚をするまでの仲になる。」
優子が
「そして・・悲劇が・・半年間の洋行の間でも互いに手紙を書き、帰国後の夫婦としての生活に希望を抱きカレンダーを毎日塗り潰す様に夏子との出会いを待っていたが・・帰国する船の中で、電報によって夏子の急死を知らされる・・なんて悲しい結末ね・・」
一男と優子は互いにワインを注ぎ合ってはグラスを口に運ぶ。
「美味しい白ワインだったね」
「他にもいろいろあるから、どう?」
「何か敷居が高くて・・でも、こんな機会は滅多に無いから戴こうかな」
メニューを見たら、11万以上する酒もある。
「今度は赤ワインにしようか? グラン ヴァン ド ボルドーは流石にオーダーものだから、このシャトー グリュオ ラローズにでもしよう」
優子がメニューを指差してからオーダーする、これも2万以上する、普通ならサラリーマンだってなかなか手が届かないのではないか、学生さんが・・・しかし、優子の置かれている環境がどんなものかは何れわかるようになる。
ガラス越しに見える光の宝石はこれでもかというくらいに燦然(さんぜん)と輝いている。
夏目漱石の名言が浮ぶ。
『食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。』
もうこうなったら、その心境でいくしかないな・・と思った。
同時に自分にとって、優子は相性が良い素晴らしい恋人だと思った。
もう一つ名言が浮ぶ。
『恋心というやつ、いくら罵りわめいたところで、おいそれと胸のとりでを出ていくものでありますまい』
優子が言った。
「ねえ、提案なんだけれど、これから作品のお話をする時に書き出しとか終わり方なんかが感じがいい作品を一つ挙げるというのはどうかしら」
「いいね、でも調べないといけないな・・全部は覚えてはいないから。今日は何にしようかな、覚えているところで漱石の『我輩は猫である』なんかはどうかな」
「いいわね、誰にもわかりやすくて面白い」
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ・・・」
「書き出しが1人称で、読み始めに驚かされる文章ね」
「書き出しに驚かすといえば志賀直哉の『城之崎にて』もそうだけれど」
「山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした・・その後養生に・・一人で但馬の城之崎温泉へ出掛けた・・・いきなり『電車に跳ねられた』んじゃ驚くな」
「それで温泉で治るのかしらね?」
と優子は笑う。
二人とも飽きずに・・話は弾む・・気が合うんだろう。
不夜城の光は輝くことをやめようとはしない。
時間の経つのが早く感じられた。
大学の図書館でまた会うことになるだろう。
その時に優子の家に・・という話も出るかもしれない。
二人とも、お店の人に丁寧にお礼を言ってエレベーターに乗った。
ハチ公前まで腕を組んで・・下り坂を歩く。
一男は優子と一緒に東急東横線の自由が丘まで行った、そこから大井町線に乗り換える。
「また、図書館でね・・」
「今日は引越しまで手伝わせちゃったし、疲れたでしょう、ゆっくり休んで・・」
優子が車内から小さく両手を振る・・。
一男は右手をあげたまま・・。
電車の赤い尾灯が遠ざかっていく・・街の灯りに溶け込むように。
月が微笑んでいた。
夜景3
渋谷の東急ホテルのベロビストは高級バーで、本当にワインが数万から数十万などもある。二人の文学熱は相当なもの・・そういう事は良い事だと・・作者は思う・・。