The sea in amber

 誰かの大声で目が覚めた。
 日はもう朝というには高かったが、まだ昼にはなっていないだろう。
 身体を起こすと全身がきしんだ。前日は深夜まで肉体労働――少なくともぼくにとっては――だったので、それなりに堪えていた。
 アパートの二階から通りを見下ろすと、先ほどの声の主が判明した。酔っ払いが道路脇に停められた車を酒瓶でガンガン叩いている。いつもの光景だ。
 薄い壁越しに隣人の話し声がかすかに聞こえる。ぼくが帰宅した時間にはすでに人を連れ込んでいたので、近距離で他人のむつみあう声を聞くはめになった。これも慣れている。
 ぼくは夜に脱ぎ捨てた服を拾い集め、洗面所のかごに放り込んだ。
 今夜あたりコインランドリーに行かなければならない。明日着る服があるかどうかもあやしかった。

 外に出ると例の酔っ払いは姿を消していた。
 一歩進むごとにまとわりつく、排気ガスと食用油のべたついた匂い。それから道の隅に溜まった黒い汚物。ドブネズミが走り抜ける通りにはよどんだ空気が充満し、入り組んだ路地のすべてに滞留して流れて出ていくことはない。朝食を抜いた腹に、代わりに微細なそれらを吸入している気がしていささか気分が悪くなってきた。
 アパートも飲食店も酒場も売春宿も、この通りには節操なく立ち並んでいる。
 外地区(マージナル)に来た四年前、たまたま安く借りられたからという理由でいまのアパートで暮らし始めた。ただ寝起きするだけの部屋に好きも嫌いもないが、快適でないことは確かだった。洗濯機は置くところがないし、風呂は日によってお湯が出ない。地元での生活から比べたら、想像を絶するレベルだ。
 たまに電話をかけてくる弟に言わせれば、「そんなところゴミ置き場の底だぜ」となる。
「祭はいつまでそんなしょうもない仕事してんだよ。はやく掃き溜めから出てきて、なんなら一緒に住もうよ。おれいまは金だってあるしさ。昔とは違ってちゃんとやってんだぜ、これでも」
 弟の明也はいつもそんなことを言う。
 ぼくより先に地元を離れた弟は、しばらくいろんな街をぷらぷらしていたが、結局得体の知れない連中とつるんで中央都市(セントラル)で非合法すれすれの商売をやっているようだ。人のことを言えたものではない。
 先日も強面でやたらと図体のでかい男たちが弟の行方を尋ねてやってきたが、ほんとうに知らなかった。正直に答えたら帰っていった。電話はかけてくるくせに居所は知らせないのだ。
 そのうち川に死体でも浮くのではないかと想像してみるものの、そう簡単に死ぬことはないという確信がある。
 だって、弟はかわいい。なにをしでかしてもどんな姿形でも、死体になってもきっと、ぼくは唯一の肉親をいとおしく思うだろう。

 アパートを出て数分で商店街の入口にたどり着く。靴屋だの服屋だのの並びにある爬虫類と両生類の専門店、その建物の三階がぼくの職場である。
 店の脇、蛍光灯の消えかけた薄暗い階段を上っていくと、細い廊下の奥にドアがひとつ見えてくる。「鳩ヶ舞(はとがまい)探偵事務所」と細く切ったビニールテープでつくった文字(無駄に器用な仕事だがこれはぼくではない)が剥がれかかっていた。気休めに貼り直してみてから鍵を開けた。
 ただでさえ物が少なくがらんとした室内は、いつもなら騒がしい上司がいないのでますます殺風景だ。グレーのキャビネット、簡易な応接セット、上司の机。
 過去に一度観葉植物を置いてみたものの、ぼくも上司もものぐさだから、一ヶ月と経たずに完膚なきまでに枯らした。
「3日間事務所を空けます♡ お仕事は予定表のとおりです♡ なにかあったら連絡ちょうだい♡♡」
 と特に必要もない書き置きが机にある。上司の鳩ヶ舞サツキは、明日までなにやら人には言えない仕事があるらしかった。
 探偵事務所とは名ばかりで、実際のところはなんでも屋である。
 依頼者も依頼内容も多岐にわたる。犬の散歩から障子の張り替え、スーパーへの買い出し、血にまみれた現場の片付けまで。
「花瀬さんは人を殺してはだめよ」
 響きの豊かなバリトンで、いつか鳩ヶ舞さんが言っていた。
「しませんよ、そんな危ないこと」
 ぼくは血だまりを避けてその刺青男のそばにしゃがんだ。あきらかに息絶えている。腕にも腹にも、毒に侵されたように黒い刺青が這っていた。
 たびたび見かける若い男だった。下っ端の構成員だったのだろうが、いっとき、あのひたむきなところに惹かれていた。とはいえ恋だのというあまずっぱいものではない。一途に信じるもののある、視野の狭い若者らしさが好ましかったのだ。
 結局裏切られたかしくじったか知らないけれど死体になって初めて、ぼくはこんなそばで彼を見ることとなった。弟のなれの果てとも思えた。

 一階の店に降りると、キバタンが頭をぶんぶん振りながら「おはようですわ! おはよう!」とぼくを出迎えた。レジ横が定位置の看板鳥である。ぼくと入れ違いに店主は出かけていった。
 店番が、今日のぼくの最初の仕事だった。とはいえ客足はほとんどなかった。たまに客が顔を出しても、店主がいないことを知ると長居はしない。ミルワームなんかの餌を買い求めるのが数人いた程度だった。
「暇だね」
 ぼくはカウンターで頬杖をつき、機嫌よく身体を揺らすキバタンに話しかける。
「おはようですわ!」
「外を飛びたいと思うこと、ないの?」
「ですわ? わたくしですの!」
 このキバタンは飛べない。飛ぶための羽を切られているそうだ。
 ぼくより長く生きる老鳥は、どんな気持ちでこの街を見てきたのだろう。話しかけたところで、はかり知ることすら叶わないけれど。
 やがて眠くなったのかキバタンはうとうとしはじめ、店内は静かになる。温度管理設備のモーター音がぼくの眠気も誘う。さすがに眠りこけるわけにもいかないので、のびをして天井に設置されたテレビに目を向けた。
 ニュースは今日も、外地区(マージナル)におけるマフィアの抗争について取り上げていた。小競り合いはしょっちゅうだが、最近はより物騒な事件が増えてきた。建物ひとつ吹っ飛んだこともあった。
 鳩ヶ舞さんの電話を盗み聞きしたところで、なにが起きているのかはさっぱりわからない。中国系がどうとかロシアがどうとか、そのあたりがホットな話題らしいことしか。
「わたくし、おはようですわ! ですのよ!」
 目を覚ましたキバタンが、急に翼をバタバタさせて叫びはじめた。
「このひとごろし! ひとごろし! ひとごろの? ひとごろし!」


 日が傾き始めると肌寒い。曇ってきたからなおさらだ。雨が降るかもしれない、というか天気予報で言ってはいなかったか。傘を持ってこなかったことを少々悔やんだ。
 店番のあと、二つ三つのちょっとした用事を済ませた。最後の目的地である廃ビルは、事務所からそう離れていない。ぼくの住む通りよりは上質な――といってもしょせん外地区(マージナル)なのでたかが知れている――住宅地に近いものの人気(ひとけ)がなく、街灯がまばらに配置されているだけで雰囲気は暗い。商店街は雑然として汚れているが、人の行き来は多く活気はある。しかしここはもっと不気味な、重たい闇が這い寄ってくるみたいで不快だった。
 依頼内容は、その廃ビル内の倉庫から荷物を回収してくること。依頼者は会社社長で、なんでも娘に関する私物を昔から置きっぱなしにしていたのだとか。
「ヤバいものじゃないといいけど」
 ゆるやかな坂を上った先でビルを見上げながら、いやな感じを振り払いたくて頭を振った。
 早く済ませてとっとと帰りたい。身体も痛い。昨日の仕事がまだ尾を引いているのだ。引っ越しの手伝いなんてもう二度としたくない。
 とにかく仕事は仕事なので、あきらめて広々としたエントランスホールに足を踏み入れた。
 入口なんてものはもはやなく、全面のガラスが粉々に砕け散って、ひしゃげた枠だけがかろうじて残っていた。足もとの破片が歩くたびにぱきりと音を立てた。
 エントランスホールは吹き抜けになっているから、もとは光が注ぐきれいなビルだったのだろう。いまとなっては見る影もない。外地区(マージナル)では同様の状態になっている建物がちらほら見受けられる。みんな中央都市(セントラル)に移転してしまったのだ。

 倉庫は思いのほか早く見つかった。二階の隅、奥まったところにある壁と同じ色の鉄製の扉。壁に沿ってなぜか鉄くずや廃材、あらゆるがらくたが乱雑に配置されていた。倒さないように気を付けて扉まで行き、ドアノブをひねる。
「あ、よかった」
 鍵はかかっていなかった。
 もちろん照明は点かないので懐中電灯で照らす。倉庫は五メートル四方程度の広さで、いくつかの書類を置くような棚と、オフィスチェアやデスクが埃をかぶっているだけだった。
「これかな」
 棚を照らしているうちに、それらしい形のものを見つけた。スマホに送っていた画像と見比べても間違いはない。
 べつに目的のものはヤバいものでもなんでもなく、ただの洋菓子の缶だった。振ると紙らしき音がする。写真だろうか。それを鞄にしまいこみ、倉庫を出て、がらくたを倒さないように再び慎重に戻る。
 そんなわけで仕事はすんなり終わった。あとは帰って寝るだけだ。
 そのはずだった。
 
 にわかに車の砂利を踏む音、急ブレーキ、そして話し声。

「は……?」

 複数の靴音と知らない言語が階下で反響する。
 そして誰かが叫んだ。
 光の明滅、連続する破裂音――銃声。

「うそ」

 待って。
 こんなの聞いてない。

 ぼくは壁に背を張りつけて思わず口を押えた。声を漏らしてしまいそうで怖かった。
 吹き抜けから、火薬っぽい匂いが立ちのぼってくる。
 声と音がわんわんと入り乱れ、激化する。
 どうすればいい。どうすれば。
「……っ」
 心臓が早鐘を打つ、その音が耳元で鳴っている。
 落ち着け、落ち着け。
 ぼくは思考停止しかかった寝不足の頭を懸命に回転させようと試みた。
 まずこのままこんなところにいて見つかりでもしたら絶対に殺される。でも銃撃戦に巻き込まれるわけにはいかないから一階に降りて逃げることは当然できない。とすると倉庫に隠れるしかない。それしかない。
 横目に倉庫を確認し、ゆっくりと壁から背を離そうとして、

「なっ……!?」

 目の前に人がいた。

 声を上げたのはぼくではなく、相手のほうだった。
 背の高い男。ゆるいシルエットのカジュアルな服装で、特に武装しているわけでもない。

「……っ! 伏せろ」
 その男は言うが否や、急に近づいたかと思えばぼくの頭をぐいと床に押しつけるようにして身をかがめさせる。
 その瞬間、なにかがかすめていった。
 流れ弾……?
 それは背後の壁に当たり、くだけたコンクリートがぱらぱらと床に落ちる音がした。
「一応聞きますけど、下の関係者じゃないですよね」
 彼は伏せた体勢そのままに声をひそめる。
「関係者? なんの? ていうかいったい、なんで、なにが始まって……」
「とりあえず、入りましょう。とばっちりで死にたくないですから」
 男はあごでぼくの背後を示した。やはり、倉庫だ。
 ぼくたちは低い姿勢を保ったまま、奥の倉庫に移動した。エントランスホールでは怒号と銃声が途切れることなく飛び交っている。
 鉄の扉を静かに閉め、ぼくと彼は止めていた息を同じタイミングで吐き出した。
 彼はスマートフォンのライトを、ぼくは懐中電灯をそれぞれ点ける。
「今日は付近で取引があったんです。が、どうもうまくいかなかったらしいですね。そもそもこんな予定じゃなかったはずだし……じゃあ誰が……」
 後半はひとりごとのようでよく聞き取れなかった。
 その男が何者なのかは、見た目では判断しづらかった。歳は二十代後半、あるいは三十代はじめだろうか。ぼくよりは大人っぽく見える。上背があるからかもしれない。
 不意に近くで複数の足音がした。奴らが二階まで上がってきたのだ。
 ぼくは思わず息を止め、隣の男も身を固くした。
 こちらにはなんの気を払う様子もなく、足音は次第に遠ざかっていく。安心したのもつかの間、いくつかの銃声と同時に、倉庫のドアがガシャン、ガシャンと連続してものすごい衝撃音を立てた。
 なにかたくさんのものが一度に崩れたような、そんな。
「まさかとは思いますけど」
 彼がため息をつきながらドアに近づいた。近くに誰の気配もないことを確認し、ゆっくりとドアノブをひねり、前に押す。開かない。ガン、となにかがつかえている音がする。
「いやこんな漫画みたいなことありますか。体育倉庫にいたずらで閉じ込められるのよりたちが悪いな」
「ドアの前に置いてあったあれ……」
「でしょうね」
 銃撃であの廃材やらが倒れて、ドアをふさいだわけだ。
「この状況じゃ誰かに助けてもらうわけにもいかないし。最悪あれが確実に終わる明日の朝まで、ここにとどまることを覚悟してください。俺たちが状況もわからず動いて下手打つより、外部から様子を確認して、落ち着いてから来てもらったほうがいいでしょうね」
 男はどこかに連絡を入れたらしい。ぼくも上司にチャットを送った。なにかあったら連絡してと言っていたわけだし、これはかなり「なにか」に該当するだろう。
 あえて彼もぼくも警察に通報するなんてばかげた提案はしなかった。警察は外地区(マージナル)を自分たちの仕事の範疇に入れていないからだ。
「もしかして、慣れてます?」
 ぼくたちはやや離れて、同じ面の壁にもたれて床に腰を下ろした。床にライトを置いたので互いに顔がよく見えなかった。
「なにが」
「こういう状況。落ち着いているので」
「いや……ぜんぜん。初めてです。銃撃戦の真っただなかは」
 ただ、あの日から人の死は身近なものになった。
 すぐ近くで耳をつんざいた銃声の音をいまでも覚えている。
 あの音が、ぼくの両親を殺した。


 こんな場所にいて当然することもない。暗がりで大人ふたり、黙る以外にやるべきことがなかった。
 初対面とはいえ人といることで安心しているのか暗いせいか、こんな状況なのにぼくは眠気を覚えていた。我ながらあきれてしまう。外ではまだドンパチやっている。
「そういえば、なんでこのビルにいたんですか」
 寝かけたところに話しかけられて、すこしばかり覚醒する。
「あ、仕事で……いや、あやしいものじゃなくて、この倉庫に置き忘れてたっていう荷物を回収しにきただけです。帰ろうとしたらこんなことになって」
「ああ、だから懐中電灯なんて持ってるんですね。用意がよすぎると思った。なんの仕事でしたっけ」
 彼は立ち上がって身体をほぐす。
「名目上は探偵事務所です。やってることはなんでも屋ですけど」
「なんでも請け負うんですか」
「概ね、なんでも」
「金さえ払えば」
「はい」
 金さえ払えば。
 単純明快な料金システムだ。気遣いも温情もなくて、実にわかりやすい。
 あのときあいつがぼくを見逃したのは、まちがいなく気遣いとか温情とか、そのたぐいの感情ゆえだった。
 ぼくが子供だったから。弟をかばって健気だったから。もし大人だったら遠慮なく撃ち殺していたんじゃないか。
 大人になったぼくは、あいつを殺せるだろうか。
 考えたこともなかったけれど。殺す力を得たら、ぼくは殺すつもりだろうか。
「大丈夫ですか」
「え」
「寒い?」
「そんなことは、ないですけど」
 これはちょっと嘘だった。倉庫内はひんやりとしていて、直に座る床も冷たい。だがこんなところで知らない人に心配してもらうのは申し訳ないことのように思えた。ごまかすみたいに座る姿勢を変えた。
 時刻は六時を回っていた。ここへ着いたのは五時だったから、まだ一時間程度しか経っていない。
 鳩ヶ舞さんの既読もつかない。スマホの充電が頼りない残量になってきて不安になる。
「すこし、雑談に付き合ってくれませんか」
 彼がスマホのライトの位置を変えた。それが一瞬目に当たってまぶしかった。それに気づいた彼は「すみません」と小さく謝罪し、最終的には棚の上にスマホと懐中電灯を設置することで悪くない照明になった。
「出身はこの近くなんですか。えーと……」
「花瀬です」
 花瀬さん、と彼が復唱する。
 この地区で深いつながりの人間なんて誰もいないし、名前を呼ぶのも鳩ヶ舞さんくらいだから、そんなことが妙にくすぐったかった。べつによろこんだりはしないけれど。
「地元はけっこう遠いです。昔は、海に近い街に住んでいました。両親と弟と四人で暮らしていて。海、きれいでした。もうしばらく、海なんて見てないです」
 なつかしい風景ではある。きらきらと光をはね返す海、ゆるやかな潮風、弟のはしゃぐ声。なつかしいけれど、現実だったのだろうか、あれは。記憶を捏造されたかのような、非現実的な夢の光景だ。
 そのあと起こったあの事件のほうがよっぽど現実味を帯びている。きっとそこで、ようやく夢から覚めたのだ。
外地区(マージナル)にきたのはどうして」
「行くところがなくなって、なりゆきです」
 紹介された仕事をやっていくうちに鳩ヶ舞さんに出会って拾ってもらったのだ。
「外からくる多くの人は、大抵そうですね。花瀬さんに対しては失礼な言い方ですが、まっとうな人を見つけるほうが難しい……ああ、俺はもともとここの生まれです。ぎりぎり、華やかなりし旧都市時代のね」
 かつての中央都市(セントラル)外地区(マージナル)はここまで格差が広がっていなかったと彼は言った。この廃ビルもその時代の遺跡だ。
「それゆえに独自の文化が形成されたという言い方も、ある意味ではできるかもしれませんが」
 彼は肩をすくめてみせる。果たしてほんとうにそう思っているのか、それは判別できない口調だった。
 扉の向こう側の騒動はまだ続いていた。この五メートル四方の空間に座っていると、それは一切無関係の出来事に感じられた。
 薄っぺらい鉄一枚で隔絶された時空。ここもまた夢のなかなのだろうか。
「ぼくの両親は殺されたんです。いま外にいるような人間に」
 体育座りの膝に顔をうずめた。足元から冷たさがのぼってくる。
 彼はなにも言わず、ぼくの続きの言葉を待っているようだった。
「そのときまで、海辺の町での生活は幸福そのものでした」
 甘ったるいほどに幸せな日々だった。
 両親が殺されたとき、初めて自分たちの生活が血なまぐさい血と肉の上にかろうじて構築されただけのものであることを知った。ぼくたちの幸福は、巧みなコーティングが施された不幸のかたまりだった。
 ふたりは他人から金品を巻き上げ、人を殺し、ある程度の金ができたところで遠くの海辺の町に越してきた。度を越した行いのために所属していた組織からは追われる身だった。これは両親を殺した男が語っていたことだが、真実なのだろう。理由までは聞かなかったものの、結局、よい暮らしをしたかっただけではないかと思っている。
 子供のぼくがいたから。そしてそのあと弟が生まれたから。
「両親が死んだあとは弟とふたりでしばらく暮らしていましたけど、弟が先に家を出ました。学校で悪い先輩とのつながりがあって、面倒を見てもらったみたいです。陽のあたる道は選ばないで、まあ、そのまま。ぼくも同じですけど」
「でも選べたんじゃないですか、花瀬さんは。外地区(こんなところ)にくる道以外だって」
「ぼくは……そう、ですね、たしかに。でもどこに行ってもぼく自身の穢れのようなものが、周りを不幸にする気がしたんです。ぼくはあのとき見逃されていたので。親の穢れを引き継いだんですよ」
 ぼくは血に沈んだ両親のそばで弟の手をぎゅっとつかみ、背後にかばって男に対峙した。なにを言ったかは覚えていない。男は一度もぼくたちに銃を向けることはしなかった。
 察していたのだろう。両親の悪事の理由を、罪のほんとうの所在を。
「だから、外地区(ここ)にきたんですか」
 彼は静かに問う。ぼくはうなずく。
 だから外地区(ここ)にきた。くるしかなかった。
 両親の原点で、ぼくの罪を償うために。
「正しい選択ですよ」
 顔を上げると目が合った。
「さっきはべつの道もって言ったくせに」
 すみません、と彼は軽く笑う。
「花瀬さんが外地区(マージナル)にいなくてなんでも屋をやってなくて今日この日この時間にここにいなかったら、俺はひとりで倉庫に閉じ込められなきゃいけなかったわけだから。正しい選択でしょ?」
「なんかすこしわがままじゃないですか、それ。ぼくの人生の選択は今日のためにあったわけじゃないんですけど」
 ぼくもなんだかおかしくなって、つられて笑った。ほんとうにそれでもいいような気がした。
「俺にとって都合のいい、そういう考え方もあるって話です」
 それにしても、と彼は目を細める。
「終わらない」
 まだ散発的に銃声が聞こえる。二階は主戦場ではないようで、時折足音が通り過ぎていくものの数は多くはない。
 どちらかが潰走するまで続くのだろうか。この行為に意味はあるのだろうか。
「なんのためになんて、俺たちが考えるものじゃないですよ」
 ぼくの思考を読んだみたいに彼が言った。
「戦ってるほうだって、実際、なんのためかはわかってないんですから。考えるだけ意味ないことです」

 それからいくらかとりとめもない会話をして時間をつぶした。
 地元のこと、仕事のこと、ぼく自身のこと。やたらと質問をしてくるので、
「……人にものを聞きすぎじゃないですか。個人的な趣味? それとも仕事?」
「気を悪くしたならすみません。仕事じゃないです」
「べつに探られて痛い腹でもないですけど。ただのぼくへの興味からなのかそうじゃないのか聞きたかっただけ、で……」
 言いながら、もしかしてぼくは期待しているのかと自分でひどく恥ずかしくなった。初対面の人間に、まるで興味をもってほしいと言わんばかりの言い草だ。
「花瀬さんへの興味です」
 彼がさらりと言ってのけるので、
「あっ……そ、う……ですか」
 ますますいたたまれなくなってしまった。
 それ以上なにも言えなくなって口をつぐむと、
「花瀬さん、さっきの話ですけど」
 ふいにまじめなトーンで彼は口を開いた。
「花瀬さんにはなんの罪も穢れもない。だから誰がなんと言おうと周りがどうなろうと、花瀬さんには一切関係ないんです。誰かの責任を負う必要なんてないんです。なにひとつ、花瀬さんのせいじゃないんだから」
 彼はぼくをまっすぐに見ていた。硬い照明が顔にくっきりとした陰影をつくり出す。
 視線を逸らすことを許さない、強く鋭い光が怖かった。それはぼくの眼球を通って脳を突き刺す。頭蓋骨を突き抜けて背後の壁に縫いとめられる。動けない。
「ぼくは……」
 死んだ刺青の男を思い出していた。
「ぼくのせいじゃないって、ほんとうにそう思いますか」
「思います」
 幼い弟を思い出していた。
「いないほうがよかったって、言わないですか」
「言わない」
 あの男の目を思い出していた。
「ぼくがいて、よかったですか」
「言ったでしょう。俺がいまひとりでさびしくないのは、花瀬さんがここにいるからだって」
 彼の眼光がふっとやわらぐ。苦笑まじりの表情がやさしかった。
 ぼくは床に目線を落とす。埃の上でふたり分の靴跡が混じりあって、奇妙な絵を描いていた。
 それを見ていると再び眠気に襲われた。あくびをかみ殺して、にじんだ涙を手の甲でこする。
「すこし、眠ってもいいですか。昨日あんまり寝てなかったので、すごく、眠くなってきて」
「かまいませんけど……」
 そこまで俺を信用して大丈夫ですか、と、たぶん彼は言った。このあたりでぼくの頭はすっかり働きを停止していたので、返事もせずに埃の上にばたんと転がった。
 花瀬さん。
 一度、呼ばれた気がした。
 汚れてざらざらしたコンクリートは冷たく、ぼくの身体はゆるやかに同化した。
 

「ようやく出られますね」
 もしかしたら一睡もしていないのかもしれない。昨夜よりいささか重たい目をした彼は長く息を吐いた。
 大きな物音で目を覚ましたとき時刻は六時を過ぎたくらいで、明け方には鳩ヶ舞さんからチャットの返信があった。
「朝に着くように向かうわね。おつかれさま♡」
 ギギッときしむ音とともに、倉庫の扉は開かれた。まだ明るくない淡い光が、空いた隙間から入ってきた。
「あら、ふたりきりでどんな夜を過ごしたのかしら?」
 しょうもないのんきな台詞は鳩ヶ舞さんのものだった。
「どんなもなにもないですけど……ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
 埃に咳き込みながら立ち上がる。めまいがして壁に手をついた。
 ぼくのあとから出てきた彼は、鳩ヶ舞さんにぺこりと下げた。知り合いかな、とふと思った。あり得ない話ではない。
 上司はいつものように女装をしているので、なんともこの殺伐とした状況にそぐわなくて変だった。ほかにも数人男性がいて、こちらは彼が連絡をとった仲間なのだろう。見た目は彼と似てラフな雰囲気だった。少なくともマフィアではなさそうだ。
 二階もエントランスホールも、もともと崩れていたがさらにめちゃくちゃな状態になっていた。どもかしこも穴だらけで、倉庫がぶち抜かれずに済んだのはただ運がよかっただけだったことを悟った。
 夜のうちに雨が降ったらしく、エントランスの床も端が濡れていた。入り込んだ雨によって濃い模様ができている。濃い模様は、きっと雨だけではないけれど。
「花瀬さん、ちょっといい?」
「あっ、はい」
 ぼんやりと周囲を観察していたぼくに鳩ヶ舞さんが声をかける。まだ近くにいた彼に、
「ちょっと待っててください」
 と言い残し、ぼくは上司のあとを追って一階に続く動かないエスカレーターを下りた。
「それにしてもご苦労だったわね。こんなことになるとは思っていなかったけれど」
 エントランスホールを横切り、向かおうとしているのはどうやら建物の裏側のようだ。
「タイミングが悪かったです。それで……」
 息を、のまないわけにはいかなかった。
 急速に頭の芯からつま先まで熱を失う。いや、逆かもしれない。
 上等なスーツの男がひとり、屋外に転がされていた。
 全身が血と泥に汚れ、腕は変な方向に曲がっている。生きているのか死んでいるのかよくわからない。
 それにしたってこんなにあっさり再会するとは思いもしなかった。それも、こんな形で。
 上司は大きな手を優雅にひらめかせた。どこから取り出したのか、拳銃がその手のひらにはある。黒く艶のある、人を殺すための道具だ。
「引き金を引いてみる?」
「いいです」
 動揺こそしていたが、ぼくは即答した。気持ちは冷静だった。
 鳩ヶ舞さんは拳銃をしまうと、
「私はもうすこし仕事をしてから事務所に戻るわね。花瀬さんはもうこのまま帰っていいわよ、今日はお休み。明日またよろしくね」
 ここで初めて、昨夜の抗争と鳩ヶ舞さんの仕事には関係があったらしいことを知った。でもぼくにはなにがなんだかわからない。
 命からがら回収した大事な誰かの荷物も、鳩ヶ舞さんが預かってくれるというので任せた。
 これでようやく身軽になった。あまりにも長い一日だった。

 エントランスホールに戻ると彼はひとりだった。全体的に灰色の廃墟で、彼だけが色彩を持った生き物だった。
「待っててくれたんですか」
 彼はわずかに首をかしげ、
「待っててって、花瀬さんが言ったんじゃないですか」
「あ……そうでした。つい」
「なに、そんなに別れがたかった?」
「まさか。そんなに親密な仲じゃないです。たかだか一夜を共にしただけで」
「言いかた」
 明るいところで見ると、ずいぶん朗らかな印象の青年だった。こんな場所にいたので服も顔も汚れていたけれど、不潔な感じが一切なくて、朝の静けさとあいまってなんだかまぶしかった。
「その……ありがとうございました」
「こちらこそ」
 彼は中央都市(セントラル)の駅まで行くと言うう。途中までは同じ道だ。
 昨日の夕方通ったときはあんなに不気味で暗かった道も、朝はその空気をどこかに隠してしまっていた。まだ日の昇らない白っぽい空に、鳥のさえずりが響きわたる。
 坂道を下り家々の並びを抜けてしばらくすると、食用油のべたついた匂いが漂ってくる。商店街はもう近かった。
 道の端に、雨に濡れた死体のような酔っぱらいと酔っぱらいの死体が、汚物とともに重ねて追いやられていた。夜の名残のけばけばしいネオンが、それらをぼんやりとピンクと水色に染めている。
 煙草の吸い殻と酒瓶がちらばり、そばに落ちているのは最近出回っているという麻薬の包み紙だった。
 戻ってきた、と思う。日常に。
「あの……」
 廃ビルから、ぼくたちはひとこともしゃべっていなかった。ひどく疲れていたし、そもそも彼が話してくれなければぼくも話すことなんて特になかったのだ。
 そのあいだずっと、あるひとつのことについて考えていた。
 いまぼくはお腹が空いているし眠いし頭もまったく働いていないので。
 事前にいくつかの言い訳をしてから、乾いた口を開く。

「あの。朝ごはん、一緒にいかがですか」

 前を向いていたので隣を歩く彼の顔は見えなかったが(というか見なかった)、きょとんとした感じの気配がある。
「えっと、トーストと目玉焼きくらいならすぐに用意できます。野菜はいまあんまりないですけどこないだ上司にもらったレタスなら……」
 そうじゃない。
 恥ずかしくなって重ねた言葉の、選択を間違えた気がしてならない。いや完全に間違えた。
 なにもなかったことにしたいが、発言の責任はすべてぼくにある。取り返しのつかない過ちに頭を抱えたくなった。
 ややあって、
「その前に、いくつか俺に質問をしたほうがいいんじゃないですか?」
「つまり」
「名前、職業、所属……俺はなにも教えてないけど?」
 こちらを見る、あきれているのかおもしろがっているのか、それとも戸惑っているのかさだかでない表情。
 その瞳は、透きとおった琥珀色をしていた。暗いところでは気づけなかった。手を伸ばしてみたいくらいきれいだった。
 ぼくは彼の瞳をそっとのぞきこむ。

「じゃあ、名前と仕事と、いま食べたいものを教えてください」

 うっかり道路のくぼみの水たまりを踏み抜いた。
 足首まで水がはねて、水面のネオンが揺れた。ドブネズミがぼくたちを避けて走り抜け、細く差し込んだ朝日が足元の小さな海をきらめかせた。

The sea in amber

#花瀬祭の三つの生活
夜中さん、あきらさんとの企画

The sea in amber

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-11-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted