逃げなければいけなかった人達からのメッセージ

逃げなければいけなかった人達からのメッセージ

他国の戦争にばかり関心があっても、自国の悲劇を知ろうともしない世代・・。

 次第に空襲の回数が増えてきた。
 最初は高度二千メートル程度を悠々と飛行していたのだが・・次第に低空飛行に代わった。終戦に近づくと、迎え撃つ筈の迎撃機が途絶え・・高射砲があったとしても・・NazisGermanyのものとは性能が異なり、上空の爆撃機までは、なかなか届かない。
 東京などの大都市でなくとも、空襲警報が鳴り続ける。夜間は灯火管制(上空のB29の大群からは、明かりが見えれば住民が存在する証なのだから、と、見逃すわけはない。それを、少しでも避けようと、夜間の生活に欠かせない家の灯りさえも・・光が出来るだけ外に漏れないようにと・・実際にどこまで効果があるのかなどは兎も角・・天井から吊るされていた裸電球の傘に布などで覆いを施す事。)がしかれる。
 絨毯爆撃(恰も絨毯を敷き詰めたが如く・・鼠一匹生存できない程の無差別殺戮。)で、何処に逃げても同じ様なものだが、そうはいっても逃げずにはいられない。
 
 秋山淑子は、小学校の教員だから他の教員と共に、その日は朝から通常通りT小学校で勤務をしていたのだが・・またか・・と思う間もなく空襲警報(サイレン)が鳴り響く・・。
 まだ彼女が結婚する前だから、父は亡くなり母だけが待っている家に帰るにはとても間に合わず、帰ったとしても無駄。此のS市全体が一斉に爆撃されているからだ。
 母の安否を気にしながらも・・同僚の女性の教員と手を繋ぎ校庭を走り抜けていく。
 火炎で物凄い暑さだし・・爆撃の熱風が吹き荒れている。
 東京は主として爆弾で地上の全ての建造物破壊や人々も一瞬にして消滅をする。(爆撃の跡は焼け野原となり・・ほぼ、何も存在しない状況だったが・・、記憶では、開けられて空になった手持ち金庫が幾つか散らばっていた程度。)
 一方、此の町には焼夷弾が雨あられと落とされた。焼夷弾はまた、その効果の程が異なり・・要は、油脂の粘着性が高く、落下すると油をばら撒いたように辺り一面を燃えつくす。運よく逃られれば兎も角・・ほぼ全ては・・油脂火災で火の海となる・・勿論人も何もかも巻き込み・・。
 此れが生物の身体にまとわりつけば焼け焦げになる。
 二人は校庭からgrandの端にあったプールに飛び込もうとした。
 狭い敷地だからそんなに距離は無いのだが、辺りは火の海・・雨霰と落ちて来る焼夷弾を避けながら。

(焼夷弾は、後のベトナム戦争に於いては、ナパーム弾とほぼ同義=南ベトナムを支援した米軍により、三代にわたり奇形児が生まれると言われ=実際に、べトチャン達赤子二人の胴がくっついたまま生まれた後、片方が死亡した為切り離したという事実が存在をする。~という化学兵器である「枯葉剤」・・などと共に、使用された。現在では何れも「国際法により、禁止兵器」の一つに挙げられているが。)と称され、南ベトナム=結果はUSSRなどが支援した北ベトナムが勝利し、米軍は敗退前に本国に撤退をし、自国民からも非難を浴びた・・その一面を描いているのが「映画・ランボー」。
 当時、この国でも「べ平連=ベトナム平和連合~」という団体が存在をし、作家の松本清張氏は北ベトナムのハノイを訪問している。


 あと一歩でプール・・考える余裕はない、プールに湛えられている水が果たして身を守ってくれるかの保証などなかったが・・水と油の相性の程は如何に・・。
 詳しい状況は・・わからなかった。二人は手を繋いだまま・・の筈だったのだが・・プールに飛び込むだけで精一杯の状況の中では・・。兎にも角にも・・飛び込んだ・・どうなるのかなど・・。
 飛び込んでから、奥深く潜った。とはいっても・・呼吸をしなければならないから・・息が持たなくなれば水面に顔を出さなければならない。水面には油脂が浮かび燃えている・・その隙間に浮かび上がる
 其の、繰り返しをやっている時間が長く感じられた。なかなか空襲はやみそうもない。
 もうこのままプールの水も火油で覆われるかも知れない・・と・・どの位経った頃か・・何とか空爆も過ぎ去ったようだった・・。
 淑子は自分が生きているのが当然だとは思えなかった。偶々運が良かったのと、プールに飛び込んだ事が幸いだった・・ようだ。
 此処で・・大事な事を忘れている・・手を繋ぎ飛び込んだ筈の同僚の女性教師の姿が見られない・・。
 空襲警報が鳴りやむ頃、プールから慎重に出、同僚の姿を探し求めた・・が・・何処にも見当たらなかった・・この後、一体、何処を探せばよいのか・・と・・。
 校舎も燃えているし、校庭も未だ安全とは言えない程燃えくすぶっている。
 恐る恐る・・暫くは宛も無く歩いた。授業など不可能・・帰宅するしかない。
 家は、浅間山という神社の脇を右に折れ、長谷通りを歩いたところにあるが、此の辺りにも当然ながら火がくすぶっている。
 皆、逃げるのに精一杯で人を探す事は無理だった。頭の中を過ったのは、先生・・ひょっとして・・無事逃げられた?其れとも・・犠牲に・・?
 何方とも判断は出来なく、取りあえずは、母の安否の心配をせざるを得なかった。
 幸い、近所の家の人達と一緒に話をしている母に会う事が出来た。
 多くの家が燃え落ち・・くすぶる煙の中で、人々は宛も無く茫然(ぼうぜん)としている様だった。
 二人も手を繋ぎ・・ただただ、親子の無事を確認しあうだけだった。
 翌日も空襲で、皆、逃げ回るだけだ。


 USA等連合軍の空襲は国と国が近接しているeurope戦線のように、味方の連合国にまで被害を与える事を避けた面もあったが・・天然の要塞である島国の此の国に対しては、幾らでも全てを破壊し無差別殺戮が可能だった・・軍部は兎も角・・天皇制の基の国民は・・当時の裕仁氏=昭和天皇~に対する畏敬の念が強かったため・・最終的には本土での全面的な決戦も辞さず・・との、連合国側の憶測も存在し・・片や・・そうなれば、米・英軍兵士の損失も大きくなる。
 欧米諸国に限らず・・イスラエルの著名な学者は、裕仁氏殺害を主張したし・・賛否両論渦巻く中・・早期決着と、当時は、核による人体に与える実験の目的もあり・・原爆が投下された。実際、戦後も、戦利品である戦艦長門を標的とした核による破壊や「当時のNHKの特集番組では、【未だにUSAが核実験を行っている旨】が、作成者の氏名も明示され、報道されたりしていたが・・現在の社会では・・全てが、政府等により【緘口令=禁じられているの意~】がしかれているとしか考えようはない。」
 神風特攻隊=他国ではSuicide bomb=自殺行為をする国民の意識など信じられなく、そのような野蛮極まりない国民は根絶やしにする・・獰猛な人種である故・・との感想もあったのだろう・・実際、連合軍艦船は・・まさかの特攻機=500キロ爆弾を搭載したまま艦船に体当たりをした~の襲来に恐れをなしたのは言うまでもなく・・撃沈の確率は圧倒的に低いものの・・例とし、空母ミッドウエイなども、大破し帰国・・二度と戦線復帰には至らなかった。記録では、この際の若き中尉の機は空母の上空から反転するように急降下をしている・・が、少年やうら若き女性搭乗の機もあり・・また、戦闘経験の浅い機も少なくないため・・艦船目掛けて水面すれすれに水平飛行をし、或いは、真っ向を飛行し、艦上から集中砲火を浴び目的を遂げられなかったケースが圧倒的に多い。
 特攻を美化するつもりは無い・・しかし、少なくとも・・兵士や国民は・・死にたくて死んだのではなく・・国を守るために犠牲になったと言っても間違いではないだろう・・。
 実際には、逆に獰猛なのはUSAだったのかも知れず、硫黄島玉砕の折には、亡くなったこの国の兵士の屍から、頭部を切り取って持ち帰ったのも、如何に両軍の戦闘が熾烈(しれつ)だったのかを象徴しているのかも知れない・・連合軍側の犠牲を考えれば・・兵士で無い国民一人残らず殺戮する事もやむを得ないと思考したのだろう・・、
 此れら特攻隊ですら既に敗北をしたも同然の状態で行われた。
 此の国の国民には大本営の放送による発表しか判断材料が無かったが、此れはかなりいい加減なものであった。
 S大空襲の二日間から二か月後の8月に裕仁氏の玉音放送で、国民は完全に此の国が敗れ去った事を知った。
 更に、半月後に戦艦ミズーリ号甲板で法的な降伏の調印が行われた。


 

 空襲は、井田光男の所属している陸軍S第53連隊にも、残骸を残すのみ。
 連隊は駿府城の中に配置されていた。一等兵とはいっても事実上は最下位の階級で二等兵と呼んでもおかしくは無かった。
 二等兵という階級は事実上は存在せず、一等兵。
 其の後、連隊は解散し帰宅をした。
 彼は軍隊に入る前は小学校の教員だ。この戦争が終わるまで生きていられれば、再び教員として復帰できるはずだ。
 やがて・・ようやく、といって良いだろう・・戦禍の爪痕が残る中、どうにか教育現場である校庭での授業が再開された。
 光男が市立A小学校に配属されている時、人の異動があった。
 田町小学校にいた淑子が安西小学校に移ってきた。其れで、二人が知り合う事になった。
 其れからは互いに母親だけの生活だったが、学校では同僚。
 当時、学校には、小使いさん(現在の用務員)という器用な役職の方がおり、大工仕事や修繕など何でもやってくれ、二人もそんな小使いさんと仲が良かった。
 その当時は、阿弥陀籤を引くような形で、運命が人と人を結び付けていった。
 其れだけ・・余裕がない時代であった。戦火の中で愛だの恋だのと言っていられなかった国民にもやっと、男女の組み合わせが出来て行った。
 其れで、終戦の約三年後にこの国史上空前の第一次ベビーブームが訪れたという事になる。
 USA進駐軍の規制や指示は憲法のみにあらず、ありとあらゆるとも言って良いだろう・・社会の隅々・・戦後の教育にまで及び、6・3制といい、小学6年・中学3年・高校3年と代わった。
 戦前は、戦後でいう中学と高校が一緒で、旧制中学と呼ばれ、五年間通学となっていた。
 此の事を、満男は旧制中学の方が良かったと感じていた。其の方が学校というものに慣れ、先輩後輩の中も親しく慣れたから・・という事もあったのだろう。
 勿論、此の国に、「不登校」も「いじめ」も無かったが、朝鮮人に対する差別は相当のものがあった。NorthKoreaの総主席の母は戦前・・大阪にいた事がある。
 


 其れが・・今度は・・長く続いた平和のせいで・・次第に戦争の体験が活かされず・・良いことまでも、忘れ去られてしまったようだ。現代では、老若男女を問わず、一例に過ぎないのだが・・未だに米軍基地の存在を肯定する者ばかりで・・口癖は「USAがこの国を守ってくれる」なのだが・・それでは、子供と同様になる。
 本当の平和は「他国に築いて貰う事は出来ない。他国にも、自らの国民を守る義務が存在をするから。米軍も他国の国民である」それでは・・最も理想とは何だろう・・「SwitzerlandはごちゃごちゃしたEurope大陸の中で、永世中立国になっている。歴史上は、二次大戦以前から・・それでも、僅かに百名程の犠牲が出ているが・・」。
 この国は、元々天然の要塞である島国として成長をした。歴史上は、中央集権型で通してきたのだが、江戸幕府の創始者である徳川家康は、実に法律面その他に於き、非常に優秀な人材でもあり、幕府は、世界史上でも珍しく、270年存続している。尤も、その後継者達が、私利私欲を地でいったり、愚かであったが為に、次々に、先君の決め事を改めてしまい・・遂には西からの官軍に敗れた。
 時代は二度と同じ事にはならないのだが・・理想とは「やはり、永代中立国を目指し、何処の国とも平等に交易などを進める」事により・・、極端な話・・軍隊を持たずし・・米軍も必要とせずに・・平穏を得られる。
 考えてみれば良い。
 人類には、私利私欲がつきものであり、一面で、利益を追求する・・ところが・・欧米諸国を含む、「何処の国とも互いに交易をする」事で、互いが利益を得られる・・従い、「軍隊など不要で・・利益を与えてくれる国を侵略することは無い」。
 まあ、人類には、この手の事は非常に苦手なだけでなく・・USAのように「自国と同じ色で世界中を塗り潰さなければ我慢が出来ない」・・此れでは・・何時まで経っても世界中の意思が満たされない事になってしまう・・つまりは、「力で押し通すしかなくなる」。まあ、人類に、理解は不可能だろう・・。
 筆者は、一切、社会の現状を知らない・・TVもニュースも全く関心は無いが・・自己が生活をするのに、何らの支障もない。 
 それでは、お話に戻りお終いとする。


 
 実は・・s地方TV局で、戦後、「戦争体験を綴ったお話」の募集があった。
 淑子は、上記の出来事を記した旨の応募をし・・応募したものが採用された。
 TVでは、30分ドキュメンタリー番組として放送・・「あの時・・プールで手が離れた同僚教員を想い・・」というテーマの記事を元に、淑子はドキュメンタリードラマに登場し、大空襲時に起きた、田町小学校での逸話を・・。
 カメラは淑子の背後から追っていく・・残念ながら・・既に、小学校には、プールは存在しない。
 しかし・・あの女性教員宅を訪れ・・当時はまだ生存していた両親に、お詫びをしている・・「・・誠に申し訳なく存じております・・あの時に手が離れなかったら・・こんな事には・・」
 淑子の教え子達も偶然、番組を見たようだった。


 さて・・全ての登場人物・・スタッフすら・・現在は存在しない・・生きていれば・・とうに百歳を超えているからである・・。
 
 

 前回、「失われた日々」に関するお話と・・曲を掲載したが、前半に流す予定の一曲が・・17分で、YouTubeが削除をしたので・・今回、琴と尺八の部分を全てカットし・・やや短く編集をした上、前回の曲の前に「不安・・というテーマその他」とし掲載する。
 次回は・・、小説と共に、賑やかなラテン系の曲を載せる予定・・。

逃げなければいけなかった人達からのメッセージ

全体主義から民主主義に変わったとは・・国民主権とは名ばかりの・・情けない国のお話・・。

逃げなければいけなかった人達からのメッセージ

自らが今生きていられるのは、戦争で亡くなった人達や、逃げまくり生き残った人達がいてくれたからだという事を忘れては行けない。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-11-30

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