教室は夏の匂い

教室は夏の匂い

 目が覚めたとき、はじめにプールのつんとする匂いが鼻をついた。それから聞こえてきたのは、先生が単調なリズムでなにかを話す声。私は自分の腕で顔をおおって、机につっぷして眠っていた。教室は生あたたかくて、このままだと再び眠ってしまいそうで、私はむっくりと顔をあげた。
 いまは四時間目の社会の授業中で、黒板には日本史の年表が書かれていて、先生はその解説を、催眠術みたいな口調で淡々とつづけていた。窓際の一番後ろの席で、私が居眠りしていたことなど、まるで気づいていないかのようだった。私は頬杖をついて、授業を聴くふりをしながら、ぼうっと窓の外を見た。すると、ちょうど目線の真下で、水泳の授業が行われていた。プールサイドの片方には男子が二十数人、そしてもう片方には女子が十数人、水着姿で並んでいて、体育座りをしている。
 ひとつ前の時間では、私たちのクラスがあのプールを使っていた。長い、じめじめした梅雨が終わって、プール開きをしてから、これで二回目の授業だった。プールではしゃいでいた男子の多くが、そこで体力を使いはたし、いま机につっぷして眠っていた。みんな、まだ髪が乾ききっていなくて、頭がてかてかと黒光りしていた。
 ふいに、またプールのつんとする匂いが、かすかに匂った。どこか懐かしいような気持ちになった。この匂いは、夏の匂いだ。もう夏は来ていたのだ。なぜだか今頃になって、はじめてそんなことを思った。とっくに制服は半袖になっていて、外では蝉の声をきき、夏の草花を見てさえいるのに、私はどれだけの間、この感覚を見過ごしてきたのだろう。

「それじゃあ皆さん、気をつけて帰ってください」と先生が言って、今日の学校を終える号令がされた。帰りしなに、私は図書室に寄って、借りていた生物の本を返した。たまに目についた本を借りてみるのだけれど、これは適当すぎてちっとも面白くなかった。かわりに今度は少し考えて、少年探偵団シリーズの本を一冊選んで借りた。
 校門を出ると、そこら中からぎいんと蝉の鳴き声がきこえた。いつのまにか、蝉の数もずいぶん増えた。住宅の壁から電信柱、植木など、あらゆる場所にいるように思われた。図書室で時間をつぶしたので、もう帰る人は見あたらなかった。空は快晴で、はげしい日差しがもろに降りかかってきた。私は早足で桜上水の駅前のほうに回って歩いた。
 少し歩くと、近くの大学のラグビーコートと桜上水団地のすき間に細い道がある。私はそこに曲っていって、一息ついて、歩調をゆるめた。そこは団地を囲む樹木と、ラグビーコートのコンクリートの壁にはさまれて、全体が日影になっているのだ。それから、道の半分が団地の駐車場になっていて、横向きに止められた車がまばらに並び、狭い道がさらに狭くなっているので、人通りは少なかった。ここが私のいつもの帰り道だった。
 私は油断しきっていて、日に当たっていた時間ですっかり蒸れてしまった、後ろ首の汗を手でぬぐい、べたべたと張り付いた髪を丁寧にはがしていた。そして、道の真ん中あたりに来たところで、正面に人が立っているのに気がついて足を止めた。見ると、そこには背の高い中年の男が立っていた。
 はじめ、私はぼうっとして、なぜこんな所でじっと突っ立っているのだろう、などと思いながら見ていたが、よく考えると男は変だった。男は髪がうすくて、肌が茶色っぽくて、蛙のようにしわがれた顔をして、この暑いのに黒い毛皮のコートを着ていた。そして、よく見るとそのコートはお腹から下が半開きになっていて、その中が裸だった。私はつい、固まったままじっと凝視してしまっていた。その後で、男がいわゆる変質者であることに気づいて、ぎょっとした。
 ――やられた。よくもまあ、こんな場所を選んだものだ。
 私は妙に冷静にそんなことを考えた。顔を上げると、男はまさに蛇が餌でも見つけたかのような表情でこちらを見下ろしていた。ぞわぞわっと鳥肌がたった。私は体を丸めて、半径一メートル以内に入らないように旋回しながら、早足で男の横を通り過ぎた。ひやっとしたが、何もされることはなかった。けれども、通り過ぎたあとで後ろから声をかけられた。
「君、可愛いね。一万円あげるからこっちおいでよ」
 この時、私の中で気味の悪さよりも苛立ちのほうが勝った。私は足をとめて、後ろを振り返った。男は蛇の顔を皺くちゃにして、いやらしい笑いを浮かべていた。私はあるかぎりの憎しみを込めて叫んだ。
「ふざけんなクソオヤジ!」
 すると、男は飛び上がって二・三歩後ずさり、それから蛙のように縮こまって小さな声で「ご、ごめんなさい」と、どもりながら言った。根性のない変質者だった。そこに余計に苛立った。私はふたたび前を向いて、小走りでその場を離れた。ときおり後ろを振りかえると、男はじっとその場に突っ立っていて、お化けみたいな表情でこちらを見ていた。
 家に着いてから、ようやく心臓がどきどきと鳴りはじめた。親や先生などが、人気のない道は通らないようにと言っていたわけをよく理解した。小学校のころから聞かされていたけれど、私には実感がわいていなかったのだ。服を着かえて、部屋に籠もってベッドに横になりながらも、しばらくこのことが頭に残った。けれども、動揺しながらも、いったい何が人にあんな行動をさせてしまうのだろう、などと冷静に考えてもいるのだった。そのうちに私は考えるのをやめて、夕飯の仕度をすることにした。気づけばもう夕方になっていた。
 夜、夕飯を食べながら、お父さんに今日会った変質者の話をした。鮭のフライを頬ばりながら、お父さんは、そんなこともあるもんだなあ、と気楽そうに言った。その後で、急にまじめくさって、
「直子、最近は何かと物騒だからな、帰り道には気をつけるんだぞ」などと言うのだった。
 食事を終えて、お風呂に入ってすっきりしたら、不思議と今日のことはすっかり忘れてしまった。

 翌朝、いつもと同じように午前七時ごろに目をさまし、いつもの半袖のセーラー服に着替えてから、朝ごはんの用意をする。すでにお父さんはいなかった。杉並区の高校の教師をやっていて、いつも朝はやくから出かけてしまうので、ほとんど夜しか顔を合わせられないのだ。私はトーストにレタスとハムを乗せただけの朝ごはんを一人で食べおわると、洗面所に行って顔を洗った。それから、櫛で軽く髪をすく。でも、その必要がないくらいに、私の髪はさらさらと、櫛のあいだからこぼれていった。
 この、まっすぐ伸びたつやのある黒髪。そして、おしろいをつけたみたいにまっ白な肌。私が、お母さんから受け継いだものはこれだけだ。でも、私が持っていたって不釣合いなばかりだった。お母さんは、それは綺麗な人だった。私が小学校に入ったばかりのころに亡くなって、いまでは写真でしか見ることはできない。写真のなかのお母さんは、いつも前髪を短くそろえて、後ろ髪を背中まで伸ばしていたので、私はそれをまねした。そうすると、表面はかなり似ているように思えた。でも、よく見れば目鼻の位置やかたちが違っていた。そのうえ、右目の下にはぽつんと小さいほくろがあって、これだけでさらさらの髪も、白い肌も、すべてが台なしになったような気がする。
 私は軽く髪を整えることだけして、リュックを背負って、スニーカーをはいて家を出た。今日も快晴だった。どこからともなく蝉の鳴き声がきこえた。二十分ほど歩いて中学校につくと、校庭で陸上部が早朝練習をしていた。私は校庭の端の、コンクリートで舗装された部分にそって歩いた。すると、ちょうど端で休んでいた佑介をみつけた。
「よお」と、佑介のほうからこちらに声をかけてきた。
「おはよう。毎日大変だね」
「まあな」
 佑介の大きい体には、玉の汗がたくさん浮かんでいた。いまはもう、朝でもかなり暑くなってきているので、無理もない。いつのまにか、その肌は軽く日焼けしていて、薄茶色になっていた。あらわになった腕は、ひ弱な私の腕と比べて驚くほど太いのだった。
「そういえば、聞いてよ。きのう私、変質者に会ったよ」
 ふと私はそんなことを思い出した。
「げっ、本当かよ。何もされていないだろうな」佑介が驚いた様子で言った。
「大丈夫だよ、何かされていたら、きっと学校になんか来られないよ」
 冗談まじりに言いながら、昨日のあの状況を少し思い浮かべた。
「気をつけろよ。人通りの少ない道とか、薄暗い道とか通るなよ」
 そんな道を通ってきているのだが、このことは伏せておいた。私たちは少しのあいだ、その場で何やかやと話していた。そのうちに、校庭のまん中のほうから佑介の名前をよぶ声がきこえた。佑介の先輩だった。
「やべっ、俺もう行かなきゃ。それじゃ、また後でな」佑介はそう言って、呼ばれたほうへ走っていった。
 佑介はクラスの人気者で、いつもクラスの中心となってみんなを盛りあげていた。声が大きくて、休み時間などに男友達とふざけあっていると、自然と周りの人がそこに目をむけた。また、佑介は私から見ても目鼻立ちがりりしく整っているし、それによく似合う短髪が、爽やかなスポーツマンを連想させた。
 一年のころに、となりのクラスだった佑介に、私のクラスの女子が告白した、という話がちょっとした噂になった。一体どこからそんな話が出回ったかは分からないけれど、佑介がそんなことを軽々しく人に話すとは思えない。もしかしたら、噂を流したのは告白した本人かもしれない。話では、佑介は部活が大事だからと、きっぱり断ったということだった。
 午前中の授業が終わり、昼休みになると、にぎわっていた給食の時間から一変して、教室は静かになった。教室に残っている人は少なく、女子数人が隅で集まって話しているのと、男子数人が一つの席をとり囲んで漫画を読んでいるのとで、あとは私と、教壇の手前の席に座る女子が、それぞれ一人で本を読んでいた。私の休み時間の過ごし方は、いつもこうだった。外で騒ぐのも体が許さなかったし、おしゃべりするのも好きではなかった。
 ふと窓の外をのぞくと、ちょうど佑介が友達とサッカーをしているところが見えた。私は本を閉じて、頬杖をついて、しばらくそれをながめていた。佑介は、スポーツは何だってできたけれど、特にサッカーが好きで、昔からよくやっていた。ほんとうは、うちの中学にサッカー部があれば、陸上部よりそちらに入りたかったと言っていたほどだ。小さいころは、私も一緒にやっていたこともあったが、それはごく短い期間でしかなかった。
 はじめて私が、佑介の目の前でぜん息の発作を起こしたのは、私たちがまだ幼稚園の年長組のころだった。当時は、私の家から佑介のマンションまでの、中間くらいの場所に小さな空き地があり、私たちはいつもそこで遊んでいた。ままごとだったり、サッカーだったり、すみっこでアリの巣をつついたり、また座って話すだけだったり、やることは様々だった。私は、お母さんからもよく注意されていたので、なるべく走ったり、激しく体を動かしたりしないように、気をつけていた。
 けれども、その日は楽しくて、つい興奮して、走り回ってしまった。後から咳がとまらなくなって、息もまともにできなくなって、私はその場にうずくまった。佑介は、家が近所というだけで、通う幼稚園もちがっていたから、私が運動をできず、体操の時間などいつも休んでいたことも知らなかった。突然苦しみだした私を見て、佑介は慌てふためいた。
 お母さんは、祐介からそれを聞いて、すぐに発作が起きたときのための吸入器を持ってきた。そうして、しばらくして発作が落ちつくと、その日はもう解散になり、それぞれ家に帰ることになった。佑介は、ずっとお母さんの後ろで、不安そうにこちらを見ていて、私は、いやなところを見せてしまったと思ったことを覚えている。

 翌日、一時間目から水泳の授業があった。けれども、私はいつも見学である。学校のプールなんて、いままでの人生で入ったことがなかった。見学する人は、プールの端っこにひっそりとつくられている、屋根つきの見学スペースで見学することになっていて、二列に並べられた椅子の、後ろの列の左端の席が私の定位置だった。前の列には女子が数人いて、おしゃべりしたり、泳いでいる男友達を応援したりしていた。私はそんな光景を横目に、じっと本を読んでいた。
 そこで、ふと気がついた。私の反対側の、右端の席に座って、私と同じようにじっと本を読みふけっている女子がいる。前の水泳の授業でも、その前の授業でも、その人は同じ場所で本を読んでいた。彼女の名前は渡辺かりん、同じクラスの女子だった。クラス替えの後の自己紹介で名前を聞いてから、かわいらしい名前だと印象に残っていた。
 でも、名前よりも彼女自身のほうがよっぽど特徴的だった。まず、背が小さくて、クラスではかなり小柄なほうである私よりももっと小さかった。そして、目立つくせっ毛で、前髪がくるんと大きく巻いていて、ショートヘアの髪は全体がふわりと盛りあがり、必要以上に頭が大きくまん丸くなっていた。それから、太いまゆ毛に顔のわりに大きな眼鏡、1サイズくらい大きいのではないかと思われる制服、今どき珍しいくらいに長いスカートの丈は、すねのあたりまで足を隠していた。なんだか、いろいろなところでバランスが悪くて、かわいらしい名前に負けていると思った。そして、彼女もまた、私と同じように、休み時間などいつも一人で本を読んでいた。
 クラスメイトが泳いでいるあいだ、私は膝の上で本のページだけをひらいていて、たまに渡辺さんのほうをちらりと覗いてみたりした。渡辺さんは、ずっと眠るようにうつむいていて、膝の上の本を読んでいるのかいないのか、分からなかった。
 帰りのときに、私は借りていた本を返しに図書室に寄った。そしたら、中に入ってすぐの受付の前に、渡辺さんはいた。そうして、胸にぶ厚い本をかかえて、図書室の女の先生と話していた。私たちは目が合った。
「あっ」
 どちらからともなく声をあげた。そうして、渡辺さんがおずおずと、小さな会釈をした。その仕草がやけに似合っていたので、なんだかおかしかった。
「あら、渡辺さんのお友達?」と先生がしとやかな口調で言った。
「あっ、その、同じクラスなんです」渡辺さんが言った。久しぶりにまともに聞いたその声は、子供みたいに高くて柔らかかった。
「この前、借りた本を返しに来たんです」と私は言った。先生は「あら、そう」と言って、私から本を受けとり、バーコードを機械で読みとった。
「相田さんね。はい、確かに」先生は言って、後ろの返却用の本棚にその本を並べた。
 私と渡辺さんの間には、いやな沈黙が流れていた。渡辺さんは本をかかえて、何かに耐えるようにじっと下を見つめていて、なぜだか私が悪いことをしているような気分になった。私は首をかしげて、その本のタイトルを覗いてみた。エンデの『はてしない物語』だった。
「エンデ好きなの?」と私は訊いた。すると、渡辺さんはびくっと体を震わせて、おどおどして床と私を見比べながら、言った。
「あの、えっと……。うん、好きです」
 先生は本を並べたついでに、何やら別の作業をしていた。また、私たちの間に、いやな沈黙が流れた。
「あの、相田さんは、何の本読んでたんですか?」
しばらくして、今度は向こうから話しかけてきた。「ああ、宮沢賢治の短編集で、えっと……、名前なんだったかな」と私は言った。すると、言い終わらないうちに、
「賢治好きなの?」
 渡辺さんは急に元気になって食いついてきた。私は面食らって「うん、まあ」としか答えられなかった。
「私もね、賢治の本大好きなの!」
 渡辺さんはぱあっと笑顔になった。その表情が意外にもかわいらしくて、驚きながらも、そんな顔ができるなら普段からもっとすればいいのに、と思った。
「あら、読書友達? いいわねえ」いつのまにか受付の席に戻ってきていた先生が、おっとりと言った。読書友達、という言葉が頭をめぐった。
 その日の帰りは、渡辺さんといっしょに帰った。少し雲が出ていたので、昨日よりは涼しかった。渡辺さんは児童小説や恋愛小説が好きらしく、いままで読んだそういった本についていろいろと話してくれた。ほんとうに本が好きなようだった。
 渡辺さんの家は、学校のすぐ近く、桜上水団地の中にあるらしい。
「相田さんはそっちなんだ」
「うん」
 団地とラグビーコートの間の細道を見ると、緑に囲われ、マンションの立ち並ぶ団地と比べて、そこはずいぶんと寂しくひっそりとしていた。
「じゃあね」「またね」と言いあって、私たちは別れた。そうして、一人になると、とたんにからだがきゅっと強張った。佑介以外の人とこんなに仲よく話すなんて、かなり久しぶりだったのだ。たまに話すくらいの人がいないわけではないけれど、いままではこんな風に、いっしょに帰ったりするようなこともなかった。自然と目があちらこちらに動いて、にやけそうになる口元を、下くちびるを噛んで抑えた。
 細道を渡りきると、大学の大きなグラウンドに行き当たる。そのグラウンドを曲がっていくと十字路があり、その左手に大きくて設備の整った高級マンションがある。それが佑介の住む家だった。
 マンションの前で佑介と、同じクラスの岡村君が、制服のままでサッカーをしていた。私が十字路を渡りきる手前で、佑介がそれに気づいたらしく、声をあげた。
「おう、直子。おかえり」
「ただいま」と私も返した。
「お前も久しぶりにやるか?」
 佑介は足の裏でボールをころがした。
「やらないよ、私スカートだもん」
「別に構いやしないだろ、そんなに動くわけでもないし」
「やらない」私が言うと、佑介はにかっと笑って「冷てえなあ、昔はよくやったんだぜ?」と言った。
「へえ、お前らって昔からの付き合いだったんだ」
 ふいに、岡村君が話に割って入ってきた。私はぎくりとした。
「ああ、家が近所なんだよ」と佑介が説明した。
 佑介は気軽に話していたけれど、私はこのことを、それほど仲が良いわけでもないクラスメイトに知られるのは、あまり気分がよくなかった。とりあえず、この話を中断させたかった。私は、それとなく十字路の向こうを見た。
「私、もう帰らなきゃいけないから」だしぬけにそう言い捨てて、佑介のほうも見ないで、小走りで十字路の先まで渡っていった。「あっ、おい!」と佑介が声をあげたけれど、私はそれを無視した。
 マンションやアパート、クリーニング屋がぎっしりと並ぶ道を歩いていって、一つ目の角を曲がったところに、私の家はあった。二階建てで、小さな庭のついている一軒家だ。ここらの地域にはよくあるものだが、二人だけで住むには、この家は少し大きかった。
 中に入って、部屋で制服から部屋着に着替える。家にはまだ私しかいない。私は特にやることもないので、ベッドに寝ころんで漫画を読んだ。学校以外では、小説などの活字よりも、漫画を読むことのほうが多かった。これは、佑介からの影響だった。部屋の隅に、アンテナに繋がっていないテレビと、プレイステーション2が置いてあるのもそうだ。その他、部屋にはかわいらしいものなどはまったくなく、必要最低限のものしかなくて、まるで男の子の部屋のようだった。女の子向けの小説や漫画も、私にはあまり合わなかった。
 空き地で発作を起こして以来、私は外で遊ばせてもらえなくなった。お母さんが自分の目の届かないところで発作を起こされるのをひどく怖がったからだ。だから、佑介と遊ぶときは、いつも家の中になった。私が、佑介が当時から持っていた、子供向けの漫画やゲームに興味を持ったので、よく佑介の家に行って遊ぶようになった。そうして、私たちは同じ小学校に入った。
 三年生のときに、クラス替えではじめて同じクラスになった。私が体育も、運動会も、マラソン大会もすべて休んでいることを、佑介にはっきりと知られたのは、このときだった。休み時間も放課後も外で遊べず、学校が終わったらすぐに帰るように言いつけられていたせいか、私は友達が少なかった。そして、このときにはもう、一人で本を読むことが多くなっていた。どれもこれも、佑介には知られたくないことばかりだった。
 歳が上がるにつれ、私たちが二人で遊ぶようなことも減っていった。ただ、一度だけお父さんにもひみつで、佑介といっしょに地元のプールに行ったことがある。私が、幼稚園生のときに二・三回だけ、お母さんに連れて行ってもらったことを覚えていて、もう一度行ってみたいと佑介にねだったからだ。行くだけ行ったけれども、私は水着なんてもう持っていなかった。私はただプールのへりに座って、足だけ水に入れてぴちゃぴちゃやっていた。佑介もそのそばでぷかぷか浮かんでいた。結局、寂しさが増すばかりだったのを覚えている。

 いよいよ夏も本格的になり、毎日はげしい暑さと日差しに見まわれた。蝉の鳴く声も、以前よりもいっそう大きくうるさくなった。紫外線に弱い私は、毎朝日焼け止めクリームを塗って、帽子をかぶって家を出なければならなかった。 
 私は渡辺さんとよくいっしょに下校するようになった。ほんの十分くらいの時間だけれど、それが一つの楽しみになった。渡辺さんは不器用で、ちょっとした仕草もおどおどして危なっかしく、また打ち解けると人なつっこいので、まるで小さい子供みたいだった。体に似合わず大きい制服も、さらにその印象を強くさせた。
 その日は水泳の授業があったので、私たちはいっしょに見学をした。すでに私の定位置はなくなって、渡辺さんのいつも座っている席のとなりに座るようになっていた。
 それが終わると、男子更衣室のかわりにされている教室の前で、男子の着替え終わるのを二人で待った。今日は曇りの日だったけれど、じめじめして暑く、じっとしているだけでも辛い。髪がいつもよりいっそうぐしゃぐしゃして気持ち悪かった。
「ねえ、直子ちゃんは今度の日曜日って空いてる?」
 ふいに渡辺さんが首をかしげて、こちらに訊いてきた。
「日曜? 特にはなにもないけど」と私は言った。すると、渡辺さんはぱあっと笑顔になって、「それじゃあ、私の家に来ない?」と言った。
「えっ、渡辺さんち? いいの?」と私は驚いて言った。
「うん、うちは平気。直子ちゃんは?」
「じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
 日曜日の予定はすんなりと決まっていった。私はなんだか不思議な気持ちだった。だって、佑介以外の友達に、家に招待されるなんて、何年ぶりだか分からない。つい、どんな服で行こう、なんて考えてしまう。そうしているうちに、教室から男子がひとり出てきて、「いいよ」と一言かけて出ていった。
「終わったね、行こう」と私は言って、渡辺さんの手を引っぱった。すると、渡辺さんは慌てて「うん」とだけ言ってついて来た。男子の着がえ終わった直後の教室は、夏の匂いがしていた。

 当日、雲が多くて、いつもよりは涼しい日だった。私は桜上水団地の入り口の前で、渡辺さんが来るのを待っていた。朝から、なにを着ようかとあれこれ考えていたけれど、ただ女友達の家に遊びに行くというだけのことだし、そんなにおしゃれな服があるわけでもないので、半袖のパーカーにショートパンツという、何のこともない格好にしておいた。それは、髪が短ければ少年に見えそうな格好だった。でも、家を出るとき、お父さんに「今日は珍しくちゃんとした外行きの服なんだな」と言われたので、よほど普段の服がいいかげんだということだろう。
 そうして、十分も待たないうちに、渡辺さんは来た。
「ごめんね、待たせちゃって
「ううん、平気だよ」
 実のところ、このときは何くわぬ顔で言っていたけれど、私は少し緊張して体が強張っていた。その原因は、渡辺さんの服装にあった。
 渡辺さんは、花飾りのついた白いブラウスと、桃色のキュロットスカートにサンダルという格好だった。中学生にしては少し子供っぽくもあるけれど、渡辺さんにはとてもよく似合っていて、それがおしゃれで逆に大人っぽく見えた。とても女の子らしくて、なんとなく高級感が漂ってさえいた。これは普段の、サイズの大きいアンバランスな制服を着ている彼女からは、とても想像できないものだった。
「それって普段着なの?」と私は訊いた。
「これ? 一応ね、今日はお友達と会うっていうことで、ちょっとはおしゃれしてるかな」と、渡辺さんは少し頬を赤らめて、はにかみながら言った。
 この「ちょっとは」という言葉が、私にはとほうもなかった。つい自分の服装と比べてみてしまう。私の服装なんて、完璧に小学生の男子だ。私は少し落ち込んだ。
「直子ちゃん、行こう」渡辺さんが、そんな私の気持ちなど、まったく気づいていなさそうな様子で言った。私たちは団地の敷地内へ入っていった。
 桜上水団地には、小学校のころ授業で見学にきて以来、入ったことはなかった。改めて入ってみると、ここはまるで外とは別世界のようだった。きれいに舗装された通りの両側に、あおあおと葉のしげったソメイヨシノの並木が植えてあり、葉のすき間から心地よい木漏れ日が差していた。また、そこら中から蝉の声が聞こえて、それがまた心地よかった。
 歩いていると、両側にマンションがいくつも連なっているのが見え、さらに奥にいくと、右手に小さな公園があった。すべり台を大きく広くしたような遊具で子供たちが遊んでいた。
「直子ちゃん、こっちだよ」
 私が公園をながめていると、渡辺さんがその反対側にあるマンションを指さした。どうやら、それが渡辺さんの住むマンションらしかった。
 二階にその部屋はあった。扉にはクマをかたどったかわいらしい木製のプレートが掛けられていて、そこに『ワタナベ』と書かれていた。渡辺さんが扉をあけて「ただいま」と声を上げた。
「あら、いらっしゃい」と言って、渡辺さんのお母さんが出てきた。渡辺さんとはちがう、整えられた髪はきれいにカールしていて、おっとりしたにこやかな表情で迎えてくれた。中学生の子持ちの母とは思えないくらい若くて、さすが渡辺さんのお母さんだと思った。
「私の部屋はあっちだから」と渡辺さんが言って、私の手を引っぱった。
 居間と思われる座敷の部屋を横切って、奥にある一室が、渡辺さんの部屋だった。渡辺さんはドアをあけて、「どうぞ」と言って私を招き入れた。
 渡辺さんの部屋は、とてもかわいらしい部屋だった。タンスや本棚、ベッドの上にぬいぐるみがいくつも並んでいて、白い清潔感のあるカーテンに、薄いピンクのベッドカバー、机の上では小さな花瓶に白い花がさしてあった。こざっぱりとした私の部屋とは大ちがいだ。
 私はとりあえず、座るにも落ちつかないので、本棚の中を覗いてみた。すると、意外にも、そこには小説よりもよほど多くの漫画が置いてあった。
「かりんちゃんって、こんなに漫画読むんだ」私は渡辺さんのほうを向いて言った。すると、渡辺さんはぱっと赤くなった。
「うん、実はね。もちろん小説も読むけど、家では漫画を読むほうがずっと多いかな」
「へえ、意外だな。かりんちゃんは文学少女だと思ってた」私が言うと、渡辺さんはえへへと笑った。
 しばらくのあいだ、しずかに部屋の中を見回していた。これが渡辺さんの部屋なんだ、などと思っていると、なんだか胸がどきどきした。渡辺さんは、気がつけばベッドに寄りかかって、白くまのぬいぐるみを抱いて、ぺたりとすわっていた。
「そういえば、いままで訊いてなかったけど、かりんちゃんはなんでいつも水泳を見学してるの? 私は昔からぜん息を持ってるからだけど、そっちも何かの病気とか?」私は渡辺さんのすぐとなりに座って言った。すると、渡辺さんはまたぱっと頬を赤らめて、目をあちらこちらへうごかしながら言った。
「えっとね、このことは内緒にしておいてほしいんだけど、実は私、カナヅチなの。それで、いつも先生にもお母さんにも仮病つかってごまかしてるの。だからね、病気とか、そういうのじゃないんだ」
 私はつい、ぷっと笑ってしまった。渡辺さんは頬をうすく赤らめたまま、膝を立てて、ぬいぐるみを抱いてはにかんでいて、かわいらしかった。こんな女の子らしさが、なんだかうらやましいと思った。きっとお母さんも、私よりも渡辺さんのような、女性の魅力を持った人だったのだろう。
 渡辺さんが立てていた膝をまっすぐに伸ばしたので、私の伸ばした脚と並んだ。そこで気づいた。渡辺さんの脚は、私よりもすらっと長く伸びていて、細すぎず、やわらかい線をえがいたきれいな形をしていた。私の脚など、ごぼうのように細いだけで、こうして比べてみると、渡辺さんの脚はまるでテレビのコマーシャルで見るモデルの脚のようだった。普段の、制服姿の渡辺さんは、いつもあの異様に長いスカートと靴下で、すっかり脚が隠れてしまっているから分からなかったのだ。
 なんだか私は、そんな渡辺さんをかわいそうだと思った。なぜなら、学校での渡辺さんは、今あるかわいらしさや魅力をことごとく隠してしまっていた。渡辺さんが家では漫画を読んでいることも、ぬいぐるみが好きなことも、私服がおしゃれなことも、脚がきれいだということさえ、きっと私しか知らないのだ。
 私たちは、その後もおしゃべりをして時間を過ごした。夕方近くになって、窓に掛かる薄いカーテンがほのかにオレンジ色に染まりはじめたころに、渡辺さんが急にもじもじしながら言った。
「そういえば、直子ちゃんって日村君と仲いいよね」
「えっ、佑介?」と、ふいを突かれて言いかえした。ここで佑介が話題に出るなんて、思いもしなかったからだ。「うん、まあ、幼馴染だしね。仲はいいけど」と私は言った。
「あっ、そうだったんだ。私てっきり、その……、付き合ってるのかなとか思っちゃった」と渡辺さんはしどろもどろになって言った。「付き合ってる」なんて思いもしない言葉がでてきて、私はびっくりした。
「そんなのじゃないよ。ただ付き合いが長いから、気軽に話せるだけだよ」
「そうなんだ。それじゃあ、日村君って付き合ってる人とかはいないのかな」
「私の知るかぎりではいないだろうけど……、もしかしてかりんちゃん、佑介のこと好きなの?」
「……うん」
 渡辺さんは言うと、顔をまっ赤にしてうつむいた。ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、肩をすぼめて丸くなっているその姿は、ひどくかわいらしかった。
「へ、へぇ。そうだったんだ」私は引きつったようになりながら言った。胸がどきどきと鳴っていた。
「一年生のときにね、ときどきうちのクラスに遊びに来てたの。ほら、すごく明るくておもしろい人でしょ。だから、うちのクラスでもすぐ人気者になっちゃって、すごいなあって思ってたの」渡辺さんは言った。そういえば、佑介ってもてるんだなあ、などと思いだした。
「直子ちゃんは、好きな人とかいるの?」と渡辺さんがだしぬけに訊いてきたので、私は驚いた。少し答えあぐねてから、
「私は……、あんまりそういうことは考えたことはないかな」とだけ答えた。
 話が尽きたところで、私は家に帰ることにした。外に出る前に、渡辺さんのお母さんにあいさつした。相変らず、おっとりとにこにこ顔をして送りだしてくれた。渡辺さんに団地の入り口まで見送ってもらってから、私たちは別れた。
 もうすっかり夕暮れどきで、あたりはオレンジ色に染まっていて、まだ蝉の鳴く声は少し聞こえていた。団地の脇の、いつもの細道のほうへ回っていった。細道は夕日の影で少し暗くなっていて、またあの変質者にでも出くわすのではないだろうか、などと不気味に思った。
 家に帰ったら、珍しくお父さんが夕飯をつくっていた。見てみると、慣れていないせいか、料理がこげていたり、材料が飛び散っていたりしていた。お母さんが亡くなってしばらくのあいだは、お父さんが食事の用意もしていたので、こんなことはなかったのだけれど、私が小学校高学年くらいで料理をするようになってからは、食事はすっかり私に任せきりになっていた。
 私も料理を手伝って、食事をすませた。そして、寝る時間になったが、私の頭の中には渡辺さんと最後に話したことが残っていた。渡辺さんに「好きな人とかいるの?」と訊かれて、私は一年のころに、一度だけ男子に告白されたことを思い出した。
 一年前、中学に入学してから、はじめのうちは佑介と行き帰りをいっしょにしていて、何かと話すことも多かったけれど、クラスも離れていたし、なにより佑介が陸上部に入部したため、私たちがそうやって会うこともすぐになくなってしまった。そうなると、私はまた一人でいることが多くなった。休み時間はほとんど本を読んでいて、人付き合いといえば、何人かの人とたまに機会があれば話をするくらいだった。
 その何人かの人の中に、井上君はいた。井上君は決して目立つほうではなかったけれど、友達は多くて、私なんかとは違う、普通の明るい生徒だった。男友達などなおさらいなかった私が、井上君と少しでも言葉を交わすようになったのは、たまたま一度日直の当番がいっしょになったという、ささいなきっかけからだった。それから私たちは、たまに顔を合わせれば話す程度の仲にはなっていた。告白されたのは秋のことだった。それまでの長い期間で、私たちが話すこともそれなりにはあったけれど、私はそのことを何のこととも思っていなかった。だから断ったら、井上君は、どうしてとか、俺じゃだめかとか、ほかに好きな人がいるのとか、必死な様子で訊いてきた。たったのこれっぽっちの関係に、井上君がこんなにも私とずれた気持ちを抱いていたことに、私は驚いた。何と言われようとも、私はそんな気持ちにはなれなくて、やっぱり断った。
 それ以来、井上君と話すことは全くなくなった。井上君のほうが、あからさまに私を避けるようにしたのだ。そのくせ、ときどき私のほうを苦しそうな目で見つめているのにも、私は気づいていた。いったい、なにが井上君をそのようにさせてしまったのか、私には分からなかった。だって、私にとっては、井上君はあくまで「たまに話す程度の友達」でしかなかったのだ。

 翌日、朝起きてからも、井上君のことは頭に残っていた。でも、それはもう考えるのをやめようと思って、どうにか頭からふり切って、家を出た。いつも通り蝉の声がうるさく、雲のあいだからも強く光のさす中を、つば広の白い帽子を手でひろげるようにしながら小走りで抜けていき、日影の多いいつもの細道に入った。
 教室に入ると、まず、一番前のまん中の席にいる渡辺さんと目が合った。渡辺さんは、いつも通りのかわいらしい笑みをうかべて、手を振ってきた。どきん、と胸が鳴った。
 私はその前を通って、「おはよう」とだけ声をかけて、笑みを返した。渡辺さんは、変わらずにこにこしていた。
 私の気持ちはいつもと違っていた。いつもするように、机をくっつけていっしょに給食を食べ、昼休みは図書室に行ってあれこれ話していたあいだにも、不思議と心は高ぶっているような、きゅっと縮こまるような心地がしていて、ときおり話している途中で言葉が詰まるのだ。自分でもなぜだろうと思っているうちに、表に出てしまっていたのか、
「直子ちゃん、今日はどうかしたの? なんだかちょっと苦しそうだけど」と言われてしまった。
「べっ、別にそんなことないよ」私はごまかそうとしたが、逆につっかえて不自然になってしまった。なので、「あはは」と笑ってごまかした。渡辺さんは、よく分からないといった顔をして、首をかしげた。
 お手洗いに行くと言って、一人になって振りかえってみると、きょうの私がおかしいことを改めて感じた。きのう、渡辺さんの家に行って、恋を打ち明けられて、きっとそれからだ。まだ胸が少しどきどきと鳴っていた。深呼吸をして、落ち着いて考えてみる。もしかしたら私は、渡辺さんのことが好きなのかもしれない、と思った。同時に、それはひどくふけつなことのようにも思った。
 翌朝、家を出て、大学のグラウンド手前の十字路にさしかかったとき、右手から来た佑介とばったり会った。
「おう、直子。珍しいじゃん、朝に会うなんて」佑介が声をかけてきた。ふいに渡辺さんが佑介を好きなことを思い出して、胸がどきっとした。
「おはよう、きょうは朝練ないんだ」
「おう」
 私たちは十字路のまん中でつっ立っていた。それに気づいてか、佑介のほうから、「久しぶりにいっしょに行くか」と言った。
 私たちは、以前いっしょに通っていたときと同じ、十字路を左に曲がったところの大きい道を通っていった。こちらの道はまっすぐ行くと桜上水駅につくので、自然と人通りが多く、うちの中学に通う人も多くが使っていた。
 だから私は、わざと人通りの少ない細道のほうを選んでいたのだが、変質者と出会って、そのことで佑介に気をつけるように言われていたのを思い出したので、黙っていた。
「そういえば、最近あの、渡辺さんって言ったっけ。あの子と仲いいんだな」と佑介がはじめて渡辺さんのことを話題に出してきた。私は、「うん、まあ、そうだね」と言った。
「このクラスになってから、直子一人でばっかりいるから心配してたんだよな。でも、最近けっこう仲よさそうにしているみたいで安心したよ」と佑介は言った。
 二人で歩いていくと、この前佑介とサッカーをしていた、岡村君と出くわした。
「めずらしい面子だな。あっ、そういえば家近いんだっけな」岡村君は言った。そうして、当然のように私たちの横について、三人で登校することになった。嫌な予感がした。
 そのうちに、さらに佑介と仲のいい男子が二人と、同じクラスの女子の平田さんが加わって、けっこうな賑わいになってきた。これは、私の好きな空気ではなかった。私は佑介といっしょにこの道を通ってしまったことを後悔した。こうなることは、想像しようと思えばできたはずだった。佑介も、ほかの人も、私と普段話したことなんかなくてもおかまいなしに、私にも話を振ってきた。私はつば広の帽子をわざと深くかぶって、うんとか、まあとか、簡単な受け答えだけをした。
 それにしても、耐えがたかったのは、平田さんのおしゃべりだった。私はもともと、彼女のことはうるさくて、あまり好きではなかった。けれども、彼女はそんなことは全く知らない様子で、私にも話しかけた。
「へえ、相田さんと日村君って幼馴染だったんだあ。あたしそういう繋がりないからうらやましい。あれっ、そういえば相田さんなんで帽子かぶってるの? あっ、紫外線に弱いんだ。そういえば、体育とかいつも休んでるもんね、大変なんだあ。でもいいなあ、その帽子かわいいねえ、私も紫外線に弱いふりしてかぶってきちゃおうかなあ」
 この人の言うことに、私はいちいちいらついた。けれども、平田さんはずっとこんな調子で、うす茶色のパーマのかかった髪を振り振り、私にもほかの人にも話していた。
 こうした、学校に着くまでの十分か十五分のあいだは、私にはやけに長く感じられた。教室に入って席につくころにはすっかりくたびれてしまい、このいやな気分は、後にも長く尾をひいた。
 昼休み、自然といつもより口数が減っていた私に、「なんだか昨日から元気ないね。体調悪いの?」と渡辺さんが訊いてきた。私は「別に、そんなことないよ」と言ったけれど、いまだにいらいらした気持ちはとれなかった。
「そういえば、もうすぐ夏休みだね」と渡辺さんは話題をかえた。「夏休みになったら、また遊ぼうね。電話するから」渡辺さんは優しく、なぐさめるように言った。けれども、そう言ったあとで、少しだけさみしそうにうつむいたのに、私は気づいた。
 帰り道、私は別れるまえに、あの細道のほうに渡辺さんを引きよせて言った。
「かりんちゃん、佑介のこと好きならさ、こんど告白してみなよ。それとなく訊いてみたんだけど、佑介、やっぱりいま付き合ってる人とかいないんだって。もしかしたら、いけるかもしれないよ」
「ええっ」と渡辺さんは驚いた声をあげた。「無理だよ。だって私、日村君とちっとも話したことないんだよ」
「でもさ、せっかく同じクラスになったのに、夏休みに入ったらまた一ヶ月以上も会えなくなるよ。冬には受験勉強もはじまっちゃうし、思い出つくるならいましかないよ」私が言うと、渡辺さんは、うっと口をつぐんだ。やっぱり、このことは彼女自身気にしていたことのようだ。
「私も協力するよ。終業式の前日って、いつも午前中の大掃除だけで、部活も休みになるでしょ。そのときになら、人がいなくなる時間まで佑介を引きとめられると思うの」と私は言った。渡辺さんは気圧されていろいろ考えている様子だったけれど、最後までうんとは言わず、
「やっぱり無理だよ、自信ないもん。それにね、私は日村君のこと、隅で見ているだけでも充分だから」と弱々しく言った。
 一週間のあいだ、渡辺さんはこのことを話題に出さなかった。けれどもその日、昼休みに図書室へ向かっているときに、渡辺さんはやけに真剣な顔をして私に言ってきた。
「直子ちゃん、やっぱり私、日村君に言ってみる。だめかもしれないけど、こんな風にいつまでもうじうじと思いつづけても、仕方ないよね」

 終業式の前日、もう掃除も終わり、あとは夏休みを待つだけだという歓喜の声を、クラスのみんなが上げていた。そんな中で、担任の先生が明日の式の予定について、長々と話していた。 
「それでは皆さん、あとは明日だけ、がんばりましょうね」と先生が言って、帰りの号令がされた。そうすると、私はすぐ立って佑介のところに行き、教室の後ろのほうへ引きつれて、佑介と仲のいい友達が来ないようにした。
「なんだよ、みんな帰っちゃうじゃんか」と佑介が不満そうに言った。なので、私はそっと顔をちかづけて、小声で言った。
「あのね、どうしても行ってみたいお店があるの。このあと付き合ってくれない?」
 すると、佑介は驚いたような表情をして、少し顔を後ろに引きながら、
「なんだ、珍しいな、お前からそんなこと言ってくるなんて。いつものあの子じゃなくていいのか?」と言った。
「かりんちゃんはきょうは用事があるの。それに、こんなことまでは佑介にしか頼めないもの。いいでしょ?」と私は言った。
「まあ、いいけど」
「それでね、そのまえに図書室で用事があるから、ここで待っててくれる? すぐ終わるから」
「それなら俺も行くよ」と佑介が言ったけれど、
「いいから待ってて。ねっ」と、ぽんと肩をたたいて、少し強めに言った。すると、佑介はよく分からないといったような顔をしながらも、それを了承した。
 そうして、私は早足で教室を出た。まだ教室には半分くらい人が残っていたけれど、今日は午前中で終わりだし、どの部活も休みだから、みんなすぐにいなくなるのは分かっていた。渡辺さんは先に教室を出て、下駄箱の前で待機していた。私はそこに合流して、クラスのみんなが出ていくまで、二人でしばらく待った。
「平気?」と私は渡辺さんに訊いてみた。
「平気だよ」と、落ちついた様子で渡辺さんは言った。「ありがとう、いろいろ手助けしてくれて。おかげで勇気が出たよ」
 渡辺さんの表情はいつになく強く、声にも真剣さがにじみ出ていた。それを見て、私はほんの少し、胸が締まるような心地がした。
 そうして、渡辺さんは教室に向かっていった。もうほとんどの生徒が帰ったらしく、このあたりには私しかいなくて、ひっそりとしていた。廊下の窓のむこうから、蝉の鳴き声だけがぎいんと響いていた。空は不気味なほどの快晴で、強い日差しが私にも当たっていたけれど、帽子もかぶらず、私はその窓によりかかった。いまごろは、渡辺さんは佑介と対面しているころだろうか、などと私は目をつむって考えた。そうして、しばらくのあいだ、その場でじっとしていた。
「直子」
 声がきこえたので、目をあけてそちらを見ると、少し遠くに佑介がいた。ちょうどそこは日影になっていて、表情がよく見えなかった。私は佑介に近づいて言った。
「ごめんね、騙すようなことをして。でもね、かりんちゃんはすごく純粋な気持ちで想っていたから、私も何かしてあげたいって思ったの」
「いいよ」と佑介は言った。「あの子にも言われたよ。直子が自分のためにしてくれたことだから、責めないであげてくれって。あの子、いい子だな。友達思いで、それに芯も強そうで」
 佑介は軽くうつむいていて、なんとか見えたその表情は暗かった。
「そうでしょ。だから、佑介にとってもいいんじゃないかなって、思ったんだけど」私は言って、それから口をつぐんだ。
 しばらく、沈黙が流れた。そのあいだにも、相変らず、蝉の声だけがうるさく響いていて、するどい日差しと暑さで、つめたい床がみしみしと音を出しているような気がした。
「なあ、一つ訊いていいか」と佑介は言った。「直子があの子に、このことを勧めたのか?」
「うん、そうだよ」と私は言った。
「そうか」と佑介が言った。
 そうして、佑介は「俺、さきに帰るから」と言って、暗い表情のまま、下駄箱で靴をはき替えて、その場を去っていった。私はその後も、しばらく一人でひっそりとそこに立ちどまっていた。太陽が、強い光で私の頬を刺した。
 佑介が私を好きなことは、ずっと前から知っていた。だから、渡辺さんが断られることも、はじめから分かっていたのだ。きっと、今日のことで、渡辺さんは深く傷ついたことだろう。私は、佑介のことだけでなく、あんなに無垢な渡辺さんのことまで傷つけてしまったのだ。私はなんてひどい女だろう、と思った。いま教室に行ったら、渡辺さんは一人で泣いているだろうか。そうしたら、私はきっと、軽いなぐさめの言葉でもかけて、抱きしめて、いっしょに泣いたりもするかもしれない。そう考えたら、私は自分の浅ましさにぞっとした。けれども、そこに罪悪感はないのだった。私は嫌な女だ。

 翌日、何かを予感させるような気持ちのいい快晴の日で、私はいつもより少し遅れて学校についた。今日が終わればもう夏休みがはじまるという喜びで、教室の中は満たされ、賑わっていた。みんないつもより活発に、思い思いのところでグループをつくっていて、今日はこの後何をしようか、いつ集まって遊ぼうか、などといったことを話しているようだった。
 そんな中、一番前の真ん中の席で、渡辺さんは一人、ぽつんと下を見ていた。私はそこに近づいて、渡辺さんの横に立った。
「おはよう」と言うと、渡辺さんは顔をあげて、にっこり笑って「おはよう」と返した。笑顔でいても、そこには隠しきれない悲しみがあるように思えた。
 これから、彼女にとって辛い長い夏休みがはじまるのだろう。いっそう強くなる日差しも、蝉の声も、寂しさをそえるものでしかなくて、部屋の中で、抜け殻のように冷たくひっそりと過ごすのかもしれない。
 私は何も言わず、横から渡辺さんにそっと手を回して、腕でふわりと包み込んだ。ふと、夏の匂いが鼻をかすめた気がした。
「もう大丈夫だよ。大丈夫。後悔はしてないから」優しい表情でそう言う渡辺さんの目は、眼鏡の奥で少しだけ潤んでいた。自然と、渡辺さんを抱く腕に力が籠もる。
 視線の交じりあう教室の中、後ろのほうで、友達に囲まれながら、ときおり佑介が苦しそうな目でこちらを見ていることは知っていたけれど、私は気づかないふりをした。

教室は夏の匂い

教室は夏の匂い

十年以上前に書いた作品です。現在と書き方が違うところもありますが、よろしければ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-11-29

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