終電車
転職先のある会社で聞いた男女の噂は、あまり美談では無いと思えた。
上司の男性と部下の女性の関係が・・。
朝夕のラッシュ時に電車が混むのは当たり前だが、最終電車も相当混む。
これに乗り遅れたら、面倒な事になるから。
ただ混むだけではない、酔っ払いの吐息が臭ってきたり、疲れているのに、押し潰されそうになったり、電車のドア等に押しつけられたり、余計なエネルギーを消耗してしまう。
小田急線にはロマンスカーという特急があるが、慣れた人はこれを利用する。
例えば、新宿に用事があって行く時など、新宿駅に着いた時に、前以て帰りの切符を買っておくのだ。
ロマンスカーは全席指定席だから前以て予約を取るか、特急券と乗車券を買っておけば、最終電車をあてにする必要は無い。
余裕で帰宅できるのだ。
藤堂達三人も帰りの切符を買っておいた。
もう一人・・今日の主役がいた、金谷祥子である。
祥子の家は中央線の阿佐ヶ谷に在ったから帰る方向が違う。
だから、切符を買う必要は無い。
調布に在る不動産会社の同僚である四人で銀座のシガーというパブに飲みに行くのだ。
週末に一杯飲もうと前から約束してあった。
というのも、祥子が今月で会社を辞めるので、会社の送別会とは別にお別れ会をしようと山本が藤堂と渡辺を誘ったのだ。
この中で藤堂以外の三人はこの会社に長くいるが、藤堂はまだ中途で入社して半年位である。
藤堂が入社し暫くして、同僚の吉岡と飲みに行ったことがあった。
吉岡の話は、会社や仕事の話が殆どだったが・・。
そろそろ帰ろうかと思っていた時・・、吉岡の口から祥子の名が出た。
社内では祥子と渡辺の仲が怪しいというような噂があると言う。
噂はそれだけでは無かった。
祥子が暫く会社を休んでいた期間があったらしいが、その理由が妊娠したのでは・・・ということまで。
祥子は30代前半、独身で渡辺の部下だ。
だが、渡辺は40代前半で所帯持ちである。
子供はいないが、妻がいる。
噂だから良くは知らないが、もしそれが本当だとしたら・・。
実は、藤堂は祥子と飲みに行ったことがある。
或る朝、調布駅で電車を降りたら、前を祥子が歩いていた。
追い付いて、一緒に会社まで行ったことがあった。
その時に、飲みに行かないかと誘ってみた。
冗談半分で言ったつもりだったが、答えは
「いいわよ」
ということだった。
藤堂はちょっとびっくりした、渡辺との噂を聞いていたから・・余計に。
約束はその日の内に実行された。
昼過ぎにトイレに行って戻ってきたら、机の上の電話の下に小さな紙が挟んであった。
紙には如何にも女性らしい端正な字で「北口の花屋の前で待っています」と。
その日は残業もせずに調布駅を南口から北口に抜けて花屋に向かった。
時間の指定は無かったから、待たせると悪いと思った。
果たして祥子は花屋の前でこちらに背中を向けて立っていた。
それから、二人で近くの飲み屋に入った。
祥子は結構酒が強いほうだった。
藤堂が会社に入ってからまだ日が浅かったので、祥子が社内の事をいろいろと詳しく説明してくれた。
優しい娘だなと思った。
祥子の話が一段落した頃、藤堂が言った。
「ねえ・・何処かカラオケができる所に行かない」
「いいわよ・・私のほうが詳しいから近くのパブに行きましょう」
果物屋の横の狭い急な階段を上がると、こじんまりとした店があった。
臙脂の絨毯に鶯色の柔らかそうなソファが幾つか並べてあって、そのソファに囲まれた先にカラオケ用の低いステージがあった。
カラオケをやろうと思って祥子を促したら、
「私はいいから・・遠慮なく先に何か歌って・・」
「そう・・じゃ、ママさん、この曲お願いします」
来生たかおの「Goodbye day」をリクエストした。
歌い終わってソファに腰掛けたら
「上手いわね、いい曲だし」
と世辞を言われた。
次は祥子の番だなと思ったが・・話が始まった。
個人的な事まで話してくれて・・驚いたのは・・自殺をしようとした事があるというところまで聞いた時。
手首に躊躇(ためらい)傷があると言った。
祥子は見せようとはしなかったし、藤堂も見たくは無かった。
だが、祥子の色の白い端正な顔立ちから窺える表情は、それが嘘では無い事を物語っていた。
ただ、どうしてそんな事をしたのかは聞けなかった。
「驚いた・・」
「いや、別に・・何か・・いろんな事があったんだろうね」
1時間以上経って店を出た。
調布駅まで行って
「送って行こうか・・」
「ううん、大丈夫・・」
「じゃあ、気を付けて」
「ええ」
シガーでの話は、案外殆ど仕事の話だった。
「建築基準法上の道路に2メートル以上接して無いとすると、あの物件は値段が・・・」
藤堂はあまり話さず、ただ祥子の横顔を見ていた。
祥子は、特に会社に未練も無さそうな風情だった。
何時間いたのだろうか、店を出たら銀座の夜の姿が横たわっていた。
四人は地下鉄で新宿まで行った。
小田急線の乗り場まで祥子も一緒に来てくれた。
「じゃあ、皆さん、今日はいろいろと有難うございました。」
「祥子さんも元気でね、また会いましょう」
と山本が言った。
藤堂は黙っていた。
三人は小田急線に、祥子はJRの方に歩き始める。
改札口の直前で、藤堂が立ち止まった。
「あれ、どうしたの」
渡辺が聞いた。
藤堂は、あちこちポケットの中に手を入れては出しながら。
「切符が無いんだ」
「ええっ、もう電車が出るよ」
山本が言った。
既に発車のメロディーが流れている、アナウンスも。
「僕は、いいから、早く行かないと」
渡辺と山本は走って電車に飛び乗った。
藤堂はホームを出て行く電車をちらっと見てから、JRの方に走った。
JR中央線の下り線ホームの階段を駆け上がり、ベージュのコートを探した。
「どうしたの・・」
「うん・・切符が無くなっちゃって」
「大丈夫・・」
「特急でなければ電車はあるから・・」
オレンジ色の電車が滑り込んで来た。
「じゃあ・・また・・元気でね」
祥子の前髪が揺れた。
「・・元気で・・あの・・・」
祥子の声を遮るようにドアが閉まると、ほぼ同時に電車が動き出した。
藤堂はゆっくりと階段を降りて、小田急線の方に向かった。
「もう・・いらないな・・」
呟きながら、ポケットの中に入っていた特急券をゴミ入れに捨てた。
渡辺とは一緒に帰りたくなかった。
終電車に乗った。
特に週末だから満員だ。
電車がガクンと動くと、人垣もどっと動く。
藤堂はまた呟いた。
「手首の・・傷は・・やはり」
祥子の色の白い端正な顔を思い浮かべた。
車窓から、街の灯りが流れていくのが見える・・次第に流れが早くなる。
終電車
同じ役職ではあるが、其の上司の男性は所帯持ちであり、女性は弄(もてあそ)ばれたのだろうか?という考えが浮かんで仕方がない。
そして、其の女性と飲みに行く事があったのだが、感じの良い女性だと思う。二人で飲んでいる時に彼女がふと見せたのは、腕のためらい傷。
他人事ながら・・いろいろな考えが頭をよぎる。