夢十夜 第十一夜
ご存知夏目漱石の夢十夜には以前から、その文章の巧みさと明晰な頭脳が軽々と表現をしていく殊に憧れ、尊敬をしていた。
こんな夢を見た。
「蝋燭の火が・・」
何処から吹き込んで来るのか、僅かな風に蝋燭の火が揺れている。
昔から、蝋燭を人間の寿命に例えるという話がある。
目の前には何本もの蝋燭がある。
若し、此れが寿命に関係するものであれば、私は其の蝋燭の火が消えたりする事で人の生死を知る事が出来る訳だが、一体何の因果があってそんな事に係り合っているのかと疑問に思う。
部屋の中が暗いからそんな事を考えるのかと思って、障子を開けた。
目の前の蝋燭が見えなくなった。
やはり、幻だったのかと思った時、玄関から人の声が聞こえた。
私が重い腰を上げ玄関まで歩いて行くと、紫地に白い大きめの芯の赤が目立つ花が幾つも描かれている浴衣を着た女が立っている。
異常なくらいに色の白い細身の女で驚くほどの別嬪だ。
「此方は物書きの方のお住まいだと伺いましたのですが・・」
「如何にも、私は物書きだが、さて何の御用でいらしたのかな?」
「実は私をお話の中に書いて戴きたいと思いまして」
何やら事情がありそうな様でもあるし、玄関では何だからと部屋に上がるように勧めたのだが、我ながらどうして縁も無い人間が、まさか我が著書の愛読者でもあるまいに・・。
女性は自分は安形澄子だと名乗った後に、作品の中に盛り込んで貰いたい理由を話し始めた。
「私は、夏目漱石の作品の中で那美という女性が自分が池に身を投げて浮いている姿を絵に描いてくれと言う、画家は物足りないから絵にならないと言ったが、最後に出征兵士を見送る那美の顔に「憐れ」が浮んでいるのを見て『それだ、それだ、それが出れば絵になりますよ』と那美の肩をたたき『余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである』との部分を拝見してから、絵では無く文章の中に盛り込んで貰いたいと思いまして」
「絵では無く文章に・・何か思いついた理由などはあるのですか?」
澄子は私の顔は見ずに、何故か憂いの浮かんだ表情で庭を見ながら、「私はもうじき嫁いでいくのですが、その前に想い出にと思いまして」
「ほう、嫁いでいかれるのならおめでたい事ではありますが、それなら写真屋に行って記念写真を取って貰った方が宜しいのでは?」と、自分なりの考えを話してみたのだが、どうやら其の縁談というのは、事情があって本人の意思ではない様だ。
「其れでは、あなたは縁談に乗り気がしないが断れる事情では無いから心境を書き写して貰いたいとでもお考えなんですか?」
澄子は今度は私の顔を見て頷いた。
其れでは深い事情や心境などを聞こうと思ったのだが、澄子は懐から紙を出すと私に見せる。
私は其の紙に書き綴ってある文面を読みながら、「此れは・・なかなかお上手ですね。私が書き改めるまでも無く、此のままでも立派な短い作品になっているのでは?」と尋ねると、澄子は、「そう仰って頂いて大変有り難いのですが、貴方の文章の間に挟み込むようにして頂ければ存分なのですが」と言いながらまた庭の池に目を移した。
私は其れで良いのかと念を押したがそれでいいと言う。
「其れでは早速今晩から書き始める事にしましょう・・何か、庭に興味がおあり何ですか?」
澄子があまり庭に関心を示す様だから、私も澄子と庭を交互に見る様に聞いてみた。
澄子は縁側に視線を移すと、「宜しかったらご一緒にお庭に出てみませんか?」と謂うから、私は「ええ、こんな庭で宜しかったら」と、縁側から下駄を履こうとして気が付いた。
女物の下駄が既に揃えておいてある。
まさか澄江が素早く置ける様な暇は無かったし、一体誰が並べてくれたんだろうと思いながらも、何となく嬉しい様な気がした。
私をそんな気持ちにさせたのも、澄子の美しさ故かという思いが脳裏を掠めたし、さて、庭に出てどうするのかという事などはどうでも良い様な気がした。
二人で庭の芝の上を池の縁迄歩いて、風も無く透き通った水面を見た時に、澄江が「綺麗な池だこと、中に入っても宜しいでしょうか?」と言うので、私は少し驚いたが、「どうぞ、この時分だから水も冷たくは無いでしょうから・・」と下駄を脱ぐ澄子の後ろ姿を見ていた。
澄子は浴衣の裾を端折る様にすると段差のある池の端から慎重に浅瀬に入って行った。
私は色の白い脚が水面に波を作っていくのを見て、何とも言われぬ清楚な色香を感ぜざるを得なかった。
私は池の畔で此れは文になるなと思い、ゆっくりと池の真ん中あたりまで行って此方を振り返った澄江を見つめていた。
澄江は私に微笑んだまま、池の中に佇んでいる。
私が澄江から目を反して、脚もとの水面を見た時に、何やら水中に波に揺れる顔の様なものが見えたから、何だろうと・・。
この池には僅かばかりの小魚や小さな亀がいるだけで・・と、「ひょっとしたら、亀が水中に潜ってしまって甲羅が顔の様に見えたのではと思ったが、亀は水面を泳ぎはするが水底には・・。
魚が優雅に泳いでいる静かな池の少し黒っぽい水中に・・、どうしても年配の男の顔の様に見えて仕方が無い。
澄江が此方を見て、「何か作品のお考えでも浮かんだのですか?」と言いながら一瞬憂いに満ちた顔で、其の顔の様に見える影に視線を移した時、幾らか風が出て来たようで池に細かい波が立ち始めていた。
水中の影のように見えたものは波に掻き消されるように消えていた。
私は暫し其の事に囚われていたので、澄江が此方に近付いて来て池から上がろうとしている事に気が付かなかったが、既に私のすぐ傍まで来ていた澄江は私の目を見て微笑みを浮かべ首を傾げた。
私は恰も子供に何かをねだられた様かのような気がしてはっと気が付き、手を差し伸べて澄江の手を取りそっと引っ張り上げようとした。
澄江は私の手に摑まり芝迄上がろうとしている。
突然動きがスローモーションに・・私は、澄江の脚が・・そして、一瞬真っ白な肌に薄っすら青筋が浮かんでいるかのような腿が露わになっているのを見て息を呑んだ。
私は何か悪い事をしたかのように芝迄上がった澄江の目を覗き込むように見た。
澄江が・・濡れているから、私は我に返って縁側に戻ると端に置いてある籐の籠からタオルを取り出すと池の縁迄駆け寄って澄江に渡した。
私は考えも無く二枚持って来たのだが、一枚を手に取った澄江が自らを拭きながら何気なく私の顔を覗き込んだ時、私はもう一枚のタオルで無意識のうちに澄江の脚を拭いている自分に気付き手が止まりそうになった。
二人は縁側から座敷に上がり卓台の両側に向き合い座った。
陽は暮れかけようとしていたから障子を閉めようとしたが、ハッとある事に気が付き後にする事にした。
私は池の底の顔の様なものがまだ気になっていたのだが、おそらく私の見間違いではと考えていたら、澄江がそろそろお暇しなければと言うので、玄関まで送って行った。
「文章は書いておくから、また明日にでも来てくれ」と言ったら、澄江は、「宜しくお願い致します」と頭を下げ、門から出ると夕暮れの道を忙しそうに通る人々に紛れる様に見えなくなった。
部屋に戻った私はもういいだろうと呟きながら障子を閉めた。
やはり、思った通り蝋燭が何本か見える。
朝方と違い、外は風が出て来た様だ。
障子の隙間から入りこんで来る風に蝋燭の火が揺れている。
気持ちが悪い様な気がしたから、部屋の電燈を付けようとした。
高さが疎らな蝋燭の短めの一本の火が風に揺れるとふっと消えた。
その瞬間私は、即座に電燈を点けた。
翌日の昼頃までに文章を書き終えたから、午後の何時まで暇を潰していたか・・、陽が落ちようとする頃、玄関から覚えのある声が聞こえた。
白地に花柄の浴衣を着た澄江が、昨日とは打って変わった明るい顔をして、玄関燈の灯りに溶け込むように立っていた。
「原稿が出来たから、ああ、上に上がって」と私が・・、澄江と奥の部屋の卓台の両側に座り、原稿を渡した。
澄江が其れを読み始めた時、庭の上空の模様がおかしくなって風が強くなってき、雨も激しく降り始めた。
私は障子を閉めた。
しまったと思ったのだが、障子が閉まっても昨日の様な蝋燭は見えなかった。
部屋の電燈の下で、熱心に原稿を見ていた澄江が、一通り読み終えて、顔を上げて私に話をし出した。
「実は、昨日お話をした縁談の話なんですが、破談になったんです」
私は澄江の顔を見たが、目からは昨日の様な憂いが窺えないから、どうしたんだろうと思った。
澄江はそんな私の好奇心を満たす様に話を続けた。「其の相手の方と言うのは高田金蔵と言いまして町の金貸し屋さんを営んでいまして、奥様がいらした当時から私は妾として囲われていたのですが、其の奥様が亡くなられてしまったので、私を正式な妻としてめとるという事になったのです。其れが昨日心臓の発作とかで急に倒れたまま二度と息を吹き返す事は無くなったのです。ですから、私は言ってみれば自由の身というか・・」
高利貸の妾から後妻の話まで、澄江本人は望まぬところだったのだが、親の借金の為に仕方なく嫁いでいく寸前に運命は変ったという事のようだ。
ところで、どうして私のところなどに祝言の前日に来たのかと聞いてみたら、 以前から私の事は知っていた。其れは、澄江も同じ様に物書きになりたいと思っていたからということと、漱石や谷崎潤一郎・田山花袋などや私の著書が好きでよく読んでくれていたそうで、自分も物書き志望で幾つも作品を書いていたという事だった。
私は、天才漱石や文豪と名を並べられるなどはとんでもない事でと困惑したのだが、其れで昨日の澄江の文章が優れたものであった理由が分かった。
もう一つ、あの水底の顔と、火が消えた蝋燭は幻ではあったものの、高利貸の死と一致した偶然が奇妙に思えた。
二人が話に夢中になっていた時、雨は一層激しさを増し、雷鳴が響き・雷光が鋭く閃きだした。
私は急いで障子の更に外のガラス戸と雨戸を閉めた。
私は縁側から近い澄江の向かいに座りながら、「梅雨が別れを告げている様な最後の嵐だ。此れで暑い夏が来るな・・」と。
澄江が私が座るのを見届ける様に、「あの・・文章を一部分変えて貰えませんか・・」と、私が、「どの部分かな?」と尋ねた。
私は澄江の文章は殆ど覚えていたのだが、一体どの辺りを変えるのかと思って自分でも此処だろうかと思われる部分を頭の中に描いていた。
漱石は兎も角、谷崎潤一郎の「痴人の愛」や田山花袋の「蒲団」には共通する主人公の痴情と言っても良さそうな情念や行動が描かれている。
果たして如何ようにと思った時、澄江が書き改めたい文面を述べた。
「如何様にもならぬと思えば、憂いは脳裏を駆け巡るだけで無く、身にも其の感情を植え付けようとする」と言う箇所を挙げた。
「晴れて自由の身になればこそと思う意識は解放感を乗り越え、我が胸を騒がせると身に由々しき情念を齎そうとして・・」
私は成程と思う一方、「『蒲団』の終わり頃に主人公が去って行った女性の夜具の匂いを嗅ぐという部分があるが・・、また『痴人の愛』でナオミズムと言う言葉が巷で流行したのだが、其れは主人公が女性を愛玩するという情念を・・。
何れも男性からして女性に求めた欲求とみられるのだが、女性からしてとなると、「我も子供では無いのだが・・」・・と思い浮かべていた時。
一段と雷光が光ると遅れてまるで地面を突き上げるような雷鳴が轟きわたった。
停電の様だ。部屋の電燈は消え、闇が全てを支配したようだった。
真っ暗闇の中で、微かに白い様なものが私を見ている・・。
私は「・・良かったな・・」という言の葉が脳に染み渡っていく安堵の念とは別に、何かが脳裏を掠める様(さま)を感じた。
すぐに行燈(あんどん)に灯りを灯もした。
あの蝋燭の炎が消えた時の為に・・行燈の油は満たされており・・傍に置かれていたマッチに手を遣るのには訳も無かった。
「・・あの・・此れからも教えて頂けますか?」
「・・いや、貴女には既に・・天賦の才が・・」
「・・え?才とは・・物書きの・・という意味でしょうか?」
「然有り」
瑞々しい一輪の花が・・一段と・・。
彼女は週に一度ほどやって来ては、私と共に漱石の「夢十夜」の続きを考えるようになった。
弟子というのでもないのだが・・今までの不遇な身から見事に立ち直り・・物書きの才を見せてくれるような気がする・・。
ああ、ついでなのだが、彼女がこさえてくれる食事は私にとり、正に楽しい夕餉とでも言おうか、彼女が家庭を持つまでは見守ってあげたく候(さ~そ・う)らえ・・。
梅雨は、不意の嵐を伴って一層激しく、そして本意に委ねるが如く開けていこうとしていた。
(参考迄に、少し難しい言葉と思われるかも知れないが、文中の「然有り」とは、「然(さ)有(あ)・り」で、そのとおり、そうである、という意味の言葉であり、眠狂四郎の様な武士なら「左様~さよう」とか「如何にも」と使用するのと同意語と思って良いだろう。)
夢十夜 第十一夜
明治の文豪たちには到底敵わぬ事ではあるが、筋書きを新たにせめて似たものでもと思った。
文章離れが進んでいく中で、人類は大事な事を忘れようとしているような気もする。面白おかしければ・・楽であれば・・の世界では・・進化が止まり退化し始めている事も頷けると感じる。
小説等は考えながら書くものでは無く、感性豊かなら如何様にも掛ける筈と思うのだが、其処はやはり天賦の才が違う故、残念ながら同じものは書けない。
或る時中年の女性に、「夏目漱石は天才だ」と述べたところ、鼻であざ笑うように「天才ね・・?」と、其れでは同じ文章を書いてみたら?と思った。口は幾ら上手くとも才が無ければあのようなものは難しい事を誰も知らないのは誠に残念と言えそうだ。志賀直哉の小僧の神様の最後のくだりなど見事な筆使いと言える。そういう人達に囲まれていた時代に遡ってみたいとつくづく思う。彼等に共通している事は、殆どの人が東京大文学部卒である事も事実だ。三田文学というものはあるが・・。