白いオルフェ

白いオルフェ

ほんの少しのサラリーマン純愛。今流行りの恋愛ではない。

「井の頭線下北沢の西口寄りのホームで、6時に・・」確かにそう聞こえたが。

「井の頭線下北沢の西口寄りのホームで、6時に・・」

確かにそう聞こえたが。
 生田美智雄の頭の中に同じ言葉が浮かんでは消える。
 生田は五年前まで渋谷の道玄坂に在るN保証会社に勤めていた。全国の都道府県を12のグループに分け、12人の男性が其々のグループを担当しそれにアシスタントの女性が一人ずつ付く。
美智雄は38歳、6歳下の妻と一男一女がいる。担当は北海道・新潟・神奈川・沖縄であった。
男性担当は殆どが所帯持ちの30代後半で、そのアシスタントである女性は全員20代の大卒だ。
 
美智雄はその会社に入社したが、五年で人材銀行の紹介で転職をし、現在は京王線の府中にあるクレジット会社の債権管理室長をしている。
経験を活かし条件の良い転職ができたのだ。
 
美智雄は転職してからも渋谷に来た時に、その保証会社に立ち寄ったことが有った。帰り際に、保証会社の玄関の幅の広い階段まで送ってくれた女性がいた、田宮京子、元同僚富山のアシスタントである。
美智雄にも福井八重子というアシスタントがいたが、彼女の自分勝手で勝気な性格には馴染めなかった。
社内で年に1回は、担当とアシストがペアで飲みに行くということが慣習になっていたが、そんな時も他の女性に一緒に行ってくれるよう頼み、三人で行ったくらいだ。
社内では、担当が他の担当のアシストと親しげに話をすることはあまり無かった。
しかし京子とは相性が良いのか例外だった。
例えば美智雄が新潟出張の準備をと、食堂のテーブルに地図を広げて訪問する順番ごとにペンで印を付けている時など、何時の間にか傍らに彼女が立っている。
「出張?」
 と地図を覗き込むように長い黒髪をかき上げながら笑顔で話しかけてくる。
そんな時、美智雄も地図から目を話し京子の目を見ながら寛いだ気分になれる自分を感じた。
出張は真っ先に県の協会に挨拶に行った後、一日に何件もレンタカーで地図を頼りに車で住宅を回る、しかも時間に追われながらなのだから疲れる。
その下準備にも神経を使って案を練るのだが、そんな緊張も彼女の笑顔の一言で和らぐのだ。


在籍中にそんな事が幾度かあったから、会社が変わっても彼女の事を思い出すことがあった。

中国支店出張の時に支店長とある契約の話をしていたが、保証会社の時に使っていた覚書が必要になった事があった。
アシスタントにファックスして貰えば良いのだ、八重子に電話しようとして受話器を取ったが、その手を下し考えた。
八重子は社内の覚書を他社にファックスすることを気安く引き受けてくれるとは思えない。
何となく京子なら違う会社でも事情を話せばファックスしてくれそうな気がした。
受付の女性に電話が繋がると京子に回して貰うよう頼んだ、やはり、快く引き受けてくれた。

  美智雄はその日も渋谷に寄る用事が有って、ついでに保証会社で世間話などをした。
帰り際、階段まで行く際、「そう言えば用を足して無かった」と慌ててトイレに駆け込んだ。手を洗ってハンカチで手を拭きながらトイレを出る時、何やら人の気配を感じて階段に目を遣ると京子がいた。
「忙しいだろうに、大丈夫かいアシストは?」と美智雄は笑顔で京子に話しかけながら階段を下りた。階段の一番下まで下りてから思い出したように京子の方を振り返って、「たまには飲みにでも行こうか」
とは言ったものの、そんな言葉が出るとは美智雄自身も思わなかった。
「いいんですか?」と京子が首を傾(かし)げながら何時もの奥ゆかしい表情で言った。
「じゃあ、5時ちょっと前に電話するよ、そのつもりでいて」と美智雄は顔に喜色を浮かべ片手を振った。
 
美智雄は約束通り電話をした。その週の金曜日が良いとの事だったので、取り敢えず待ち合わせ場所を決めた。会ってから何処に行くのかを決めれば良いと思った。
「井の頭線下北沢の西口寄りのホームで、6時に・・」電話の向こうで声を潜めるように京子が言った。
 
  美智雄は6時20分くらい前に下北沢に着いた。ホームに着いては出て行く電車が巻き散らす風にコートの裾が揺れていた。
暫くして時計に目を遣ると6時だ。
電話の京子の言葉を思い出しながら、渋谷方面から次々にホームに入って来る電車のドアを確認しては時計を見る。
6時を10分位過ぎた頃、閉まる電車のドアに気を取られていた美智雄の背後から京子の声が聞こえた。
「御免なさい、待たせてしまって。帰りがけに富山さんから急なアシストを頼まれて遅くなってしまって」
京子は頼まれたアシストを済ませると、渋谷の駅まで走ったとの事だった。
おまけに電車が帰りのラッシュで混んでいたせいか額にうっすらと汗を滲ませていた。
「大変だったね、お疲れさん」美智雄はそう言いながら額の汗にハンカチをあてている京子を労った。
「じゃあいいかな」美智雄は京子がハンカチをバックにしまったのを見届けてから、西出口に向かって歩き出した。京子も外していたコートのボタンをかけ直すと一緒に歩き出した。
下北沢は南口からは繁華街が広がっていて店も人も多いが、西口は打って変わって人通りは少ないし店も少なく静かなものだ。
「何処でもいいかな?何処か行きたい所有る?」
「私は知っている処は有りませんから、何処か有ります?」美智雄に並んで歩きながら京子が聞いた。
「小田急の電車の中から『一人っ子』という看板が見えるんだけれど、そこに行ってみようかと思って」
この辺りは店が少ないから、そこしか心当たりは無かった。
「飲み屋さん、スナックかな」西口から寂れた商店街の間を抜ける下り坂を歩きながら京子が呟いた。
「確か看板に『ジャズ』とか書いてあったからスナックだと思うんだ」
下り坂を五分も歩いた処に小田急線の踏切があり、その脇に店の赤い看板が見えた。
店の外には、洋酒の瓶等が乱雑に入れられているケースが幾つも重ねてあり、ケースの間を抜けると古い木製の扉があった。
「わ、大人の雰囲気ね」と扉を開けて先に中に入った京子の一声が聞こえた。
店内は薄暗く、クリスマスのように小さな電球がいたるところで瞬いている。
「雰囲気いいみたいだな」美智雄が呟いた。
美智雄が毎日帰りの電車でここを通る時に、車窓から見えるガラス越しの灯りに、何か拘りを感じたことがあったが、まさか来ることになるとは思わなかった。
二人は、店の真ん中のテーブル席に座る。
店員が挨拶をしてやって来ると軽く上体を曲げメニューを広げた。
「僕は先ずビールを、京子さん何にする?」
「私は・・」メニューを指さして。
「この白ワインをグラスで」
「摘みは何にしようか?」
「そうね、カマンベールにシーザーサラダなんかどう?」
美智雄もメニューに目を通し、「いいね、それにチキンのソテーを」と店員にオーダーした。
京子が店内をさり気なく見回しながら、「一人っ子という名前、お店にぴったりのような気がする」
「そう、この雰囲気は気に入った?」と美智雄が微笑みながら言った。
「うん、何か落ち着いていて、ジャズが流れているなんて、大人の一人っ子という感じね」
「確かに、ちょっと薄暗い中に煌めくような照明もいいね、京子さんジャズなんて好み」と美智雄が聞く。
京子は右手の人差し指を立て、「詳しくは知らないけれど、この曲ってひょっとして『枯葉』かな」
「ほう、知ってるんだ」
「私でもわかる、有名でしょこれって」
「そう、スタンダードな曲だね、このピアノ、ビル・エバンスかな」
「美智雄さん詳しいわね」
「トランペットやサキソフォン・ボーカルでも聞けるけれど、ピアノもいいね」
 店員はドリンクを持って来るとテーブルに置き、トレンチを脇に挟み店の奥に戻った。
「どう、会社の方は、仕事は順調?」美智雄がビールを一口飲んでから京子の顔を見た。
京子もワインを飲んでからグラスを置いて、「相変わらず、出張の前は書類の出し入れで忙しい事があるけれど、毎度のことですから」
美智雄は残りのビールを一気に飲み干しながら、「愛知の協会とは上手くやっているの、あそこの八神さんだっけ?結構気難しい人だという話をよく聞いていたけれど」
京子がビールを注いでくれながら、「富山さんはやり手だから、大丈夫みたいですね」

保証会社の仕事の話が一段落し、美智雄のクレジット会社の話も終わった頃、暫く真空空間にいるような間が空いた。京子の表情から笑みは消えていた、
「私、実はバツイチなんです」
ジャズの音が突然小さくなったように感じられた。
  京子は、美智雄が入社する以前から保証会社に入社していた。その前はT大を卒業後、婦人警官をやっていたらしい。
京子の話では、警察官と結婚したのだが、その元夫は刑務官に転勤を命ぜられてから次第に家庭内暴力を振るう様になり、耐えられずに離婚したとの事だった。
美智雄は、京子がどうして突然自分にそんな事を言ったのかわからず、暫く黙って京子の顔を見つめていた。「暴力って、そんなに酷かったんだ」
大の男それも警察官が手加減しないで暴力を振るったとしたら、被害者は堪ったものでは無かっただろう、ましてや女性だし。
「ええ、暴力は段々とエスカレートし、身体中に痣や傷が絶えなくなり底知れない恐怖感を感じたんです。元の警察署の上司に相談し中に入って貰い、離婚届に判を押させると、逃げるように住んでいた家を飛び出し実家に戻ったの」
目の前の料理には手も付けず、両手の拳を握りしめた京子が美智雄の目を見ながら話した。
美智雄は一旦テーブルに目を落とし溜息を吐いたが、すぐに顔を上げて京子の目を見つめ、「僕がどれ程君の気持を分かってあげられるか、でもとても大変な事があった事はわかる」
場の雰囲気を変えようと笑顔を見せながら京子が、「御免なさい、つまらない事を言って、私の話は終わり」
その言葉とほぼ同時にサキソフォーンのメロディーが流れ始めた。
「済みません、ビールお願いします、黒いオルフェか・・」美智雄はビール好きだ。
「黒いオルフェって、映画で知られているこれ?」と京子が右手の掌を少し浮かし気味にした。
「アートファーマーの演奏じゃないかな」
京子は、改めて、「美智雄さん、本当にジャズに詳しいのね」と話した後、付け加えるように、「そして優しいし、誰かさんとは・・」と再び物憂げな表情を浮かべると斜め上を見上げた。
美智雄は京子がまたパワハラのことを思い出したのかと思って、「もう追いかけては来ないんでしょ、大丈夫だよ」と励ます。
京子は小さく被りを振り、「あの人のことはさっき話したとおり、もう関係ない。実は会社で・・」とまた違う話だという表情をした。
「まさか会社に嫌いな人でもいるわけでは」美智雄は可笑しな質問かとは思いながらもそんな気がした。
京子が少し顔をしかめる様に、「新井さんって、美智雄さん知っているでしょ」
チーズを食べながら美智雄が、「新井って僕と同年齢の関東の担当だったあいつ、新井がどうかしたの」
「新井さんがね、ちょくちょく私に言うの」
「何んて、あいつは会社に長くいるし、いろいろ仕事には詳しいけれど」
「私が離婚したことは何時の間にか社内でも何人かの人が知るようになって、それだけならいいんだけれど・・新井さんがね、私に『ホテルに行こう』ってしつこく誘うの」
美智雄は飲んでいたビールのグラスを急に口元から外し、「ホテルに誘うなんてどぎついことを、まさか仕事中に京子さんの席に来て言うんじゃ無いでしょ」
「ほら、食堂で休憩とか出張の準備をしている時などあるでしょ、それで二人だけになった時に、しつこいんだ」京子が少し残ったワインを飲み干した。
美智雄が京子に同じワインでいいか確認してから、店員にオーダーして、「露骨にそんなこと言うなんて、京子さんが独身になったからって、人の弱みにつけこんで普通そんな事を言う人はいないよ」
京子はテーブルに頬杖を突き、「新井さんだけよ、あの人モラルって持ち合わせていないのかしら」
美智雄はビールの一点張り、もう一本オーダーすると、「僕が居た時にはそんな風には見えなかったけれどね」
先程美智雄がオーダーしたワインが来ると、早速グラスに口を付けながら京子はやや酔ったのか、「私だって子供じゃあるまいし、貞操観念が高いわけではないけれど、嫌だなああいうギラギラした人は、」
 美智雄が、「正にセクハラそのものだな、嫌っているということが分からないのかな、京子さんを傷つけているということが」と京子の胸中を察するように苦い表情をした。
京子が重ねて済まないという表情をし、話題を変えた。
美智雄の居た頃の思い出話や失敗談など。
美智雄が戻り始めた雰囲気を醸し出すように、京子の顔を見て笑顔になる。
二人の会話は、再び共通点である保証会社の話に変わった。そして話は尽きない。まるで以前から仲の良い飲み友達だったかのように、息が合っていた。
 
下北沢のスナックの夜は更けていく。
終電に間に合うようにと美智雄が気を利かせて、「そろそろ引き上げよう、腹一杯だよ、新宿まで送って行くから」
二人は店を出て並んで来た道を下北沢まで戻り、新宿まで小田急線に乗る。
京子の実家はメトロ丸の内線の中野坂上、美智雄は小田急線だが新宿からはロマンスカーで家に帰る。
美智雄がメトロの改札口の外から、「また電話していいかな」
京子は改札を抜けると振り返って、「楽しかったな、また会いましょうね」
二人共、手を振ってから互いの方向へと歩いて行った。

 それから3週間もして、美智雄は全国出張を終えて帰って来る時に、機内から眼下に東京の夜景が見えた、何故かロマンチックな気持ちになって呟いた、「京子さんと飲みに行くか」
そして、ふと、二人でこんな夜景を見れたらいいなと思った。

 美智雄は京子に電話をした、「もしもし、北陸担当の京子さんをお願いします、あ、私は上野と言います」
あまり京子に変な噂が立つと拙いだろうと思い、偽名を使い声色で。
 
 それから、美智雄と京子は何度となく飲みに行った。
 いろんな話をし、時には笑い転げ、同じ事を考え、悩み、そしてまた笑った。
 二人の間にあった薄いベールのようなものは、何時の間にか溶けるように無くなり、一人の男とそして一人の女の心に残ったものは、温かい炎だった。

 そんな12月の上旬、二人は週末の金曜日に待ち合わせをしていた。新宿駅の西口の京王デパートの前が待ち合わせの場所、会社が終わった時間帯だから人通りが多かった。


「お待たせしました」茶目っ気のある笑顔を浮かべ、人込みを掻き分けるように京子が現れた。急いで来たのか綺麗に鋤いた長い黒髪が揺れている。
「忙しかったようだね」と言いながら美智雄が西口のパブに向かう、京子も遅れずにとやや早足になり並んで歩いた。
美智雄は、一目見て如何にもパブらしい店の入口から奥のテーブル席に直行し、「この席で良かったかな」と京子に聞いた。二人は店の床全体に敷き詰められた、臙脂にいろんな色が混ざったペルシャ絨毯の奥のテーブルに陣取り、膝にナプキンを少しずらして2つ折りにした。
若い店員がいらっしゃいませと挨拶をしてメニューを持って来た。
「いろいろあるね、京子さんお好きな物を、先ずはドリンクだね」と美智雄がメニューを指差した。
美智雄は専らビール党、偶にはワインを飲むがやはり最初はビールで、「京子さんはいつもの白ワイン、それともカクテルかな」と慣れた口調で京子に聞いた。
京子はメニューのドリンクの欄を見て、「今日は先ずこのキールにしようかな」と指差した。
「それはどういうカクテル」と美智雄が店員に聞いた。
店員が答える、「白ワインにカシスが入っていて、そんなにアルコール度数は強く無く、上品な味わいで飲みやすいですね」
美智雄はカクテルは殆ど飲まないから京子に、「カクテルにも詳しいんだね」と感心したように聞く。
京子は、「そうでもないけれど、今日はこの妖艶な赤紫が気に入って」とグラスを見る。
その後二人の話は、何時ものように保証会社の社員や仕事の事など。
京子が言った、「このパブの食事も美味しかった。美智雄さんと食事をするのは本当に楽しいわ。いつまでも、こうやっていられれば・・」
美智雄は、そう言った京子をちらっと刺すように見た。
京子の色白の顔が一層透き通って見え、黒い髪を際立たせていた。
美智雄は暫く何かを考えていたが、思い切ったように言った、「何か夜景の見えるホテルに行きたくなったな、まだ時間は有る?」
京子は整った人形のような表情に変わると、「ホテル・・いいわ、綺麗な夜景が見えるところがいいな」

パブを出ると、師走を身近に控えた新宿の街は意外に落ち着いていた。
美智雄が都庁の方を指差して言った、「ワシントンホテルがいいかな」
25階で、ドリンクを飲みながら見る新宿の夜景は綺麗だ。
美智雄が夜景を眺めながら言った、「本当に・・綺麗だ」
京子も夜景を見ながら、「・・溶け込んで行きたいくらいの美しさ」
夜景を見ながら美智雄は、(京子もひょっとしたら、自分と同じ事を考えているのでは・・)と思った。

1時間くらいは居ただろうか。
美智雄は、「ちょっとトイレに」と席を立つと、トイレの曇り一つ無い大きな鏡に映った自分の顔を見詰める。
美智雄の頭の中に、今までの京子とのできごとが、走馬灯のように駆け巡る、「楽しかった・・そして京子を誰よりも愛している。しかし・・自分には京子を幸せにする資格は・・少なくとも自分だけが幸せになれたとしても・・ならばどうするべきか」
鏡は、涙を滲ませながら迷い続ける憐れな男を映したまま、何も語らない。
美智雄は鏡から目線をはずすと、肩を落とし洗面台に両手をつき、大きな溜息をつきながら「所詮・・美女と・・野獣か」と呟いた。
席に戻ると、美智雄はもう一度「遠くに見える」夜景を見つめてから、「・・そろそろ引き上げようか」と京子に言った。
京子は、そんな美智雄の横顔を見つめたまま黙っていた。

 ホテルを出て並んで歩いた、何度、そうして歩いたことか。
 夜道に京子のブーツの足音が響く。
地下道に差し掛かる頃、美智雄が話しかけた。
「京子さん・・」
京子は黙ったまま、ただ、美智雄が何を言うのかと足音が小さくなった。
 美智雄が、京子の目を見ながら言った、「京子さん、もう一度、結婚する気はない?」
 その言葉が、突然、京子の胸に突き刺さった。
 京子の足が止まる。
「けっ・・こん・・」
「勿論、若し、良かったらだが・・話を聞いてくれる?」
 美智雄は要点のみ話した。
ホテルを出る前から此処まで、京子の頭の中にはいろんな事が浮かんでは消えた。
  しかし、美智雄と一緒に築いてきたものが、容赦なく壊れてしまったことに間違いはなかった。
京子は、遠くに行ってしまった美智雄の顔を見つめた。
駅まではまだ長い地下道が横たわっている。
京子は何も聞こえないかのように黙っていたが、「愛している・・だから・・もう何も言わないで・・」
どちらとも無く二つの影が重なる。
 京子の目からは、瑠璃の様のように光る涙があふれ出し、二人のコートに散りばめたように拡がる。
美智雄はしっかりと京子を抱きしめていた。

いつもの改札口が、今日の二人には違って感じられた。
美智雄が京子に、「1週間後に電話するから、詳しいことはその時に」
京子も、「わかりました、考えてみる」と頷いた。
  手を振って別れたのはいつもと同じだった。


12月も中旬の週、美智雄は京子に電話をした。
京子の返事は、「一度会ってみます」とのことだった。
電話が切れた時、美智雄は、「これで、良かったんだ・・」と自分に言い聞かせるように呟いた。


京子と一馬の待ち合わせについては、美智雄が、二人に連絡を取り、手筈を整えた。
  美智雄は、「12月24日の金曜日、午後7時に新宿のプリンスホテルの25階で待っています」と二人のスマホにメールを送った。レストランは丁度クリスマスと重なり、予約を取るのに苦労をしたが無事取れた。

高杉一馬と美智雄は大学時代からの友人だ、大学には湯河原の自宅から通っていた。
大手の自動車会社で車の部品を扱っていて、メカにも詳しい。
端正な顔立ちをしているが、不思議と浮いた話は聞かなかった。
勤めている会社でも女性から人気が合ったようだが、結婚とまではいかなかったようだ。
彼の性格は誰よりもキャンパスの4年間を一緒に過ごした美智雄が一番良く知っている。
美智雄は、京子から暴力を受けて離婚した話を聞いた時にも、何故か優しい一馬の顔が浮かんだ事を思い出した。
真剣に京子の身を案じるのであれば、自分はどうするべきかと悩んだ。そして、自分にしてあげられることはこれしか無いと思った。
相性というものは本人同士で無いとわからないから、会ってもらうのが一番だと考えた。

 
 当日、美智雄は約束の時間よりも早めに行って予約席に座っていた。
此処は新宿の東口に在り、歓楽街の歌舞伎町に近いブラウン色のホテルで、西武新宿線に直結している。西口のホテルとはまた少し異なるが、夜景が美しい。
先に数馬が来た。美智雄と一馬は仲が良かったし、話題には事欠かなかった。
京子が定刻に現れ、三人揃ったところで、美智雄が二人の紹介や馴れ初めなどを話した。

 
1時間も経った頃、美智雄は席を外した。
二人の会話が次第に小さくなっていくのを感じながら、ホテルを後にした。

 
美智雄は東口から大ガードをくぐって西口に向かう。
京子と最後に行ったワシントンホテルが遠くに見えた。
師走の冷たい風が胸の中をふき抜ける。
美智雄は、京子の色白の顔にくっきりと映える長い黒髪を思い浮かべ、
「・・白いオルフェ・・」
 と呟く・・人込みに紛れる様に・・姿が見えなくなった・・。

白いオルフェ

旧い作品なので、校正等は一切なし。

白いオルフェ

純愛というよりも、偶々の目巡り合わせと別れ。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-11-26

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