泡の時代のことだった(バブル崩壊のころのお話)
1)おれんちの家族
久しぶりに家族全員ががいる日曜日の朝飯時だった。
「おれ、国体に出るんだ」
ちょっと得意げになった言葉に、親父が多少の関心を示す。
「ふぅん、なんの競技だっけ?」
「え~? 忘れちゃったの? 冬季の大回転じゃんか」
「ああ・・・・・・アルペン・スキーの。そういえば子供の時から続けてたよな。そうか、東京都代表か。ま、しっかりやれ」
まぁ、親父はこんなものだろう。
銀行の支店長代理という微妙な立場の彼は、最近、とみに寡黙だ。
心になにか鬱屈というか、わだかまりというか、心配事があるようだが、そういったことは一切、口にしない男なので家族と言えどもわかりようがない。
「あらぁ、がんばったじゃない。応援には行けないけど、親に恥かかせないようしっかりね」
母の軽い返事。
彼女の関心は講師をしている自分の趣味が大半で、おれのことなんか「無事、これ名馬」程度にしか思っていない。
「国体? 国体ってなんだっけ?」
兄貴はメガネを押し上げながら、関心すらなさそうだ。
「国民体育大会。ったく教科書に書いてあることしか知らねぇのかよっ」
ちょっとスゴむと、急いで訂正した。
「あ、国民体育大会ね。略しちゃうから、わかんなかったんだよ。『少年A(高2・3)』部門ね。でも、この言い方って犯罪者みたいだよねぇ。あははは」
イヤミなヤツだ。
「そんなん、ど~でもいいってこと。どうせ兄貴は出られねぇんだし。ごっそさん」
適当に切り上げる。
おれの両親は頭脳重視で長男教でもある、上級ホワイトカラー特有の「今時の親」だ。
T大にけっこうな成績で入学し、官僚を目指す兄貴には関心があるが、次男で学力のあまり振るわないおれに向ける眼差しは、ま、オマケ程度だ。
専攻するスポーツに関しても「NO,1になれるのはひとりきりなんだから、その他は後々つぶしが利かない」とあまりイイ顔をしない。
すでに夏休みに入っているおれは、そのままバイトの面接に向かう。
年中無休のところだから、土日だろうが祝日だろうが面接は受けてくれる。
ちょっと荒れた感じの、小汚い会議室らしい部屋に面接官と2人きりだ。
どう見ても人事の人ではなく、適当に「あんた、今日のバイトの面接、頼むよ」と押し付けられた感じの眼鏡カマキリだった。
痩せギスの顔にでっかいメガネの彼は、見るからに無気力でいいかげんで、なによりも眠そうに見えた。
それがこっちの付け目でもあって、おれはまだ高2だから、高校生の深夜採用はないのを知りつつやって来たのだ。
「夜中は人手不足だから、ガタイが良ければ中坊でも採る」というウワサは、事前にしっかりサーチしてある。
つまり、かなりのブラックだってこと。
眼鏡カマキリが覗き込む履歴書は、そのまま兄貴の履歴だ。
年齢はバレないように、抜け目なく干支まで覚え込んである。
「ふぅん。T大ね。で、そんなあんたがなんでここ?」
待ってマシタ。
こういう場合、100パーセント出る質問だ。
「はい、実は、ウインター・スポーツやってまして。夏休みにバイトして、ストックでも買おうかなと。あとはここで体を鍛え、根性も入れたいと思いまして」
これは 事実だったからスラスラと出た。
「あっ、そ。ま、ガッコがガッコだから、おベンキョも大変だろ。続くだけ続けてくれりゃいいから。体でも壊されたらこっちが困るんだよ」
実に正直な言い分だ。
労災が嫌なのだろう。
「あ、はい。気をつけます」
「うん。じゃ、明日からね。20時から8時まで。休憩は1時間。給与は月末で軍手は支給だから。服装は適当にシンプルなやつで、荷物に引っかかるようなのは当然ダメ。レーンは33番。あとは現場のコに聞いて。じゃ・・・・・・」
形式だけの、拍子抜けするほどあっさりした面接だった。
確かにウワサどおり、デカくてフケた中学生なら余裕で通るかもしれなかった。
それでも眼鏡カマキリは去り際にヒトの背中をバシッと叩いて言った。
「うん、いい体してるワ」
力仕事の採否を決定する面接官らしい態度と言葉は、ただそれだけだった。
2)バイト先の現実
翌日の夜、ホンダの軽量バイク「ズーク」にまたがり、少し余裕を持って5分前には出勤した。
おれのこの体験は1992年夏のことだから、今のアサカワ運送の労働形態は大分様変わりしているだろうが、当時も11時間労働で日給1万、現在も時給800~1,000の給与は悲しいくらい変化がない。
自分の33レーンにたどり着いたとき、丁度、ゴガンッてな感じでコンベアが止まり、昼担当の連中が一斉に持ち場を離れ、自分のチャリやバイクに殺到していくところだった。
汗みずくの衣類をその場で着替えているのは、ちょっと遠くから通うバスや電車組みだ。
今でこそ、更衣室や最寄の駅から専用バスが出るようだが、当時はそんな親切は薬にしたくてもなかった。
ほんの5分か10分の交代時間が過ぎると、突然、ガゴンッ、ゴガガガッ、ウィヴォ~~ン。
濁音だらけの音がしてベルトコンベアがいきなり作動し始めた。
同時に、
「ぐおぉらぁぁ、早くしろおぉ、張り飛ばされてぇかあぁっ」
罵声が広い倉庫にアォオ~ンと響き渡る。
L字のメイン・コンベアの先に11トントラックが到着していて、停止時間の間中待たされていたドライバーが殺気立って当り散らすのだ。
馬鹿でかいセンター内は、L字のメイン・コンベアから直角に30以上の支線が出ていて、指定の番号によってそれぞれの配送地域に割り振られている。
おれの33レーンは7132だった。
それっとばかりにお仕事開始だ。
かなりのスピードで流れすぎる荷物の番号を動体視力で見極めて、
「7132、7132・・・・・・」
と、経文のように唱えながら自分のレーンに引っ張り込む。
レーンはやっぱりコンベアになっていて、流した先にいる小・中型トラックの運ちゃんが荷積みをし、その地域のお客様に届けられる仕組みなのだ。
つまり、L字が幹なら両側に伸びる支線は枝で、それぞれがいくつかの「~町」を担当する。
レーンの担当者は頻繁に変わるが、常に募集しているので大した欠員もなく、日々の業務は回転していくのだ。
口を利くものはだれもいない。
時折、稼動の騒音の向こうから「ハッ」「オッ」「フンッ」というような気合と、引っ張り損ねた「あっつ」「ちくしょっ」といううめきが聞こえるだけだ。
とにかくコンベアが速すぎる。
いつだったかの真夏の風のない深夜、新米がついに怒涛の流動に目を回してしまい、大切なお客様の荷物の上に嘔吐してしまったという話が嗤えない。
いや、身の毛もよだつ伝説はまだまだある。
今で言う熱中症だろうか、気分が悪くなってトイレに駆け込んだのはいいが、便器に顔を突っ込んだまま前後不覚になっていたとか、逆に水を飲みすぎて下痢になったが、便所に行けるのは12時間中、たった1度の休憩時間だけだから、ガマンにガマンを重ねているうちに突然の大放出。
あまりの臭さに近隣レーンがゲロだらけになったという、他人事ながら、背筋が寒くなるような話もある。
3)新入りいじめ?
高2でもおれはまだ余裕があった。
膝上くらいの、変に低いレーンにかがみこむ不自然な姿勢の持続でもそれほど苦にならないのは、国体まで勝ち進んだ筋力のおかげだ。
そのうちに7132の番号がやけに増えてきた。
(お~、忙しくなったな)
と、思う間もなく、ひしめく7132軍団に圧倒される。
後続レーンはまだ37番まであるから、力に任せて手当たりしだい引っ張り込むわけにも行かず、目と神経を使う。
そのうちに企業からの30~40キロの梱包が、立て続けに数十個も集中する。
これは形で識別できるから即座に手を伸ばすも重さに負けて手間取る。
熱帯夜の真っ只中でもエアコンなんかないから、滴る自分の汗で床がすべる。
バランスをくずすと自分の足に落としそうになるから、早急に安全靴を買ったほうがいいだろう。
それにしても7132の大洪水は留まる気配がない。
さすがのおれも眩暈がしてきて、時々意識が朦朧として集中が途切れるようになってきた。
(やべっ)
無理にでも緊張を維持する。
「33番っ、おせえんだよおおおぉっ。荷溜り見ろおぉ、ぶゎっかぁぁぁっ」
突然の怒声に、ハッと意識を取り戻す。
見れば、メイン・レーンの末端に取り損ねた荷物を貯めておく空間があって、そこが溢れんばかりに満杯状態だ。
「え? あ、あ~、どぉしよう」
思わず硬直する。
「ぼぉけぇぇっ、ベルコン(ベルト・コンベア)逆転するぞおぉ。手間かけんなぁぁ、くずがあぁっ」
同時に、ンゴゴンッという感じで荷物が逆走してきた。
再び死闘が始まる。
(え~? なにこのシステム。空港みたいに楕円形のベルコンにすりゃいいじゃん。手間かけさせてんのは、おめ~らだろ?)
一瞬、正論がアタマに浮かぶが、この場合、そんなものは屁のつっかい棒にもならない。
とにかく荷にむしゃぶりついて、ひたすら引く、引く、引く。
ジジッ、ジギギリリリリリ~ンッ。
火災報知機そっくりの音が大音量で響き渡る。
(ええっ? 今度はなに?)
ビビって及び腰になったが、幸いにも休憩時間の合図だった。
だれもおれなんかには構いつけもしないから、ヨタヨタとみんなのあとについて休憩室に倒れこむ。
まあまあの広さの部屋だが、パイプ椅子と自販機がズラッと並んでいるだけだ。
現役のブラック企業らしく、自販機の飲み物や食い物は社員割引もない正規の値段、爆睡させないためかベンチやテーブルも見当たらず、窓が広々と開け放してあるだけでエアコンもない冷酷さだ。
一応スポーツ経験者なので、急速に冷水を補給するのは体を冷やしてよくないと知っているから、隅っこの椅子でゆるゆるとエヴィアンを飲み下す。
さすがに飯を食う気はしない。
(まぁ、夏と年末年始は半端ないっていうけど、フツーじゃねぇよ。ったくぅ)
そんな感慨が浮かぶ。
だが、
(いや、待てよ)
ふと、気がかりが浮上した。
(コレって、イジメじゃねぇの?)
思い返せば、初っ端から周りがおかしかった。
内情を全く知らないからそんなもんかと思っていたのだが、なんのマジナイか、先輩たちが荷物のいち部を流さずに、それぞれ自分の周りに積み上げていく。
理由もわからず、そんな行動を詮索するヒマもなかったが、今考えればあれが7132ではなかったのか?
確かにある時期から7132が爆発的に増えたのは、恐らくなにかの合図とともにそれをいっせいに流してきたからだ。
(ちっくしょう、新人つぶしかよ。きったねぇワ)
腹が立ったが、それ以上に心が痛んだ。
おれは他人様をいじめたことも、いじめられたこともない。
むしろ、小さいときからやってきたアルペン・スキーの実績で人に好かれ、褒められてきた。
妬みや個人的好き嫌いはあっても、それがいじめに発展したことはないのだ。
暗澹たる気持ちになった。
4)アサカワのランボー
おれは上目遣いであたりを見回した。
ものすごく恨みがましい眼差しだったと思う。
バチッと目が合ったのは、殺人レーンといわれる1・2番を同時担当する30歳くらいの人だった。
川越(かわこし)さんといって、もともと筋肉量の多い人らしく、逆三角形の見事な体をしている。
ボディビルダーのように作った筋肉ではなく、実践で鍛え上げられた体型は、運動をやっているおれでも見とれるくらいだった。
濃い顔つきと目の辺りが、当時大人気だった映画スター、シルヴェスタ・スタローンに酷似しているので、「ランボー」と呼ばれている。
ランボーはスタローンの出世作になった映画だ。
「これってイジメですよね?」
人懐っこい微笑にほだされて、憤然と打ち明けていた。
アルペン・スキーの監督やコーチは30代が多いから、その年代の人は気分的に話しやすい。
「やる気なくしちまいましたよ。本当に忙しいならかじりついてでも付いていきます。でも、違う。あいつら、ワザと溜めといてから流すんです。ったく、底辺の考えることは理解不能です」
末尾はちょっと問題発言だったが、ランボーは楽しそうに笑顔を深くする。
「あはは、音を上げたかい? 新人の通過儀礼だよ。4,5んちは続くからそのつもりで。ここには精鋭しかいらない。体力のない者や甘ったれ、いいかげんな気持ちの連中は早い段階で振るい落とすに限る。そのほうが本人や会社のためになる。ケガをするのはそういう連中が生半可に慣れてきて、業務を甘く見るからなんだ」
「ああ~。はぁ。なるほど・・・・・わかります」
どうやら陰湿ないじめではないようだ。
それだけでも心が軽くなって勤労意欲がわいてくる。
事をわけた話を聞けば、確かに納得できる理屈だ。
「知らなかったの? バイトは初めてかな。後半も同じことが続くから、キツイと思ったら早めに会社側に申し出てね。人員の振り分けがあるから。バックレるのだけはやめてくれないとみんなが困る」
彼はおれが仕事のハードさに負けて苦情を言ったのだと思っている。
それがちょっと不本意だ。
「いや、続けますよ。イジメかなぁと思ってシャクにさわっただけで・・・・・・イヤだなぁ、おれ、そんなにヤワじゃねぇっすよ」
おれの自負をランボーは素直に受け止めてくれる。
「うん、そうだね。期待してるから」
後半5時間はびっくりするほど速く過ぎた。
相変わらずの大洪水は同じだったが、溜め込みの理由に納得できただけで人間はこんなにも変わるのだ。
夜が明けて8時に交代をすませ、川越(かわこし)さんに挨拶をしてから娑婆に出る。
目がシパシパするほど疲れてはいるものの、徹夜明けで気分はハイだ。
多摩川を渡る広々した幹線道路のほとりにそびえ立つ配送センターは、朝日に照り映えて見とれるくらい美しい。
「おお~」
と、思わず愛社精神がわきあがりそうになったが、残念ながらこれはお隣のクロシロネコ便のほうだった。
当時からクリーンで優良なホワイト企業で、姑息な親方日の丸郵便局と配送バトルを繰り広げるという気概も持っていた。
人気も絶大で、人がやめないから求人はめったにない。
「あ~、本当はこっちがよかったんだよね~、クロシロが」
ボヤきながら、あらためて我がバイト先を振り仰ぐ。
そしてギョッとした。
道路から丸見えの外壁には、醜悪な半裸の人物のイラストが、でかでかとあたりを睥睨している。
は、恥ずかしい。
「男のフンドシのケツなんか、商標にすんなってのっ。嫌がらせかよ」
センスよく愛らしいクロシロネコ便の猫ちゃんマークの隣がコレじゃ、ケンカ売ってるようなものだ。
いや、驚いたことに実際に売っていたのだ。
「うおおおおおぉ~っ。打倒クロシロおおおおぉぉっ。死ねぇっ、クっ・ロっ・シっ・ロっおおおおぉっ。倒産、倒産、と~さあぁぁぁんっ」
突如わきあがる怨嗟の声は、まぎれもないアサカワ運送の社員たちだ。
たぶん、朝礼だ。
恥も外聞もない絶叫は、恥ずかしながらクロシロネコ便の方々に筒抜けだろう。
「やぁめぇろぉっ、ばぁかぁぁ、3才児かよおぉっ」
自社屋に怒鳴りながら手を振り回す。
きっと通行人から見たら、暴言を制止する正義の味方に見えたかも??
でもその実、おれの心象はただ単に、黙ってアサカワの配送センターを去るのが無性に腹立たしかったのと、どうせガナっている社員たちには聞こえないだろうと踏んだからだ。
ブラックの低レベルに心底あきれた出来事だった。
5)コレもんが入ってきた
それから1週間ぐらいした、いつもの始業前だった。
最初の4日間、荷物をみんなで溜め流しする『新入り歓迎会』もクリアし、先輩たちがおれを仲間と認めてくれたことを実感できたころだ。
「おぉいっ、集合ぉ~」
面接のときに対面した眼鏡カマキリがやってきて、手招きする。
こんなことは滅多にないから、みんな「????」ってな感じで集まった。
「ああ、え~。明日から新入りが来るけど、川越(かわこし)、新入り歓迎会はやめとけよ。かかわるな。いいか、かかわりあいにはなるな。それから37番、おまえは日野センター行け。家から近くてイイだろ。以上っ」
有無を言わせぬ采配だ。
「えええぇ~? どういうことですかぁ?」
全員が疑問符にざわめく。
「うっせぇえな。コレ。コレもんだよ。親父さんが言うには若頭だと。な? わかったらかかわるな」
「あ・・・・・・はい」
素直にうなづくものの、
(イヤなモノが入って来ちまったな)
という実感はだれもが否めない。
ヤクザの符丁で親父さんは組長、その右腕になるのがNO,2の若頭だ。
「あっちゃぁ、きっと兵隊集めだ。明日からバックレようかな」
暴走族上がりが尻込みする。
彼のその様子を見て全員の脳裏に浮かぶのは、モンモンに覆われた全身に、ツルピカにマルメたアタマ、小指の先が消えていて、ヤッパの傷跡だらけ、笑っても目は笑わない陰惨な眼光に、ひたすらケンカで鍛えたガタイ、懐には拳銃を呑んでいて、彼に睨まれたら最後、行路死亡人の末路しかない。
年齢的には4,50代といったところだろうか?
と、勝手に妄想して勝手にビビってしまう。
「立川の山口さんとこのヒトかね? ほら、フロント企業(実態を誤魔化すために立ち上げている会社)で専務やってる」
自衛隊くずれも怖そうだ。
彼はバブル全盛だった当時、全く人気のなかった自衛隊のお世話係(勧誘員)につかまって、「年少行くか、自衛隊入るか」と2択を迫られ、自衛隊を選んだヘタレ不良だ。
残るカタギの連中はいきなり垣間見せられた裏社会に半信半疑で戸惑うばかりだ。
「まさか」
ランボーが笑う。
「違うな。山口さんは大人しいヒトで立川警察とも仲がいい。専務は昔は鳴らしたらしいが、今は商工会議所の理事でオモテでは腰の低いオジさんだ。投資やIT、婚活パーティで美味しく稼げてるのに今さら兵隊集めもないよ。下部組織の族のアタマだろ。若頭ではなくて若衆頭」
「はぁ、なるほどねぇ・・・・・・」
確かにそっちのほうが説得力と信憑性がある。
「ああ。NO,2なわけないですよね。・・・・・・そういやエンペラ(ブラック・エンペラー)かスペクタのヒトかも」
族上がりがやや安心した声を出したとき、ゴガンッと音がしてベルコンが動き出した。
モタモタしてはいられない。
全員が横っ飛びで定位置につく。
「新入り歓迎会は平等にやるから」
川越(かわこし)さんの声が聞こえた。
(え? かかわるなって言われてんのに?)
マジメな高校生のおれはちょっとビビッたけど、ま、コレもんだからといって手加減したら、公平を欠くのは事実だ。
ランボーはブレない人なのだろう。
6)4日で消えちゃった
注目の37レーンに現れたのは、ガッチリ体型の20代だった。
背はあまり高くなく、ちょっとずんぐりした猪首の彼はレスラーのようにスタミナがありそうだ。
タンクトップの下の筋肉は労働ではなく、筋トレで得たようで、ガン飛ばしてるわけでもないのに目つきは鋭い。
(へ~、時間厳守なんて、コレもんもエライじゃん)
変なところに感心する。
レーンはおれから1人置いた真後ろで近いのだが、業務が始まると後ろなんかチラ見する暇もない。
ひたすら怒涛の荷物集団に集中する。
彼の担当は最終レーンでそれ以降の地域はないから、ひたすら自分の担当番号を引っ張り込めばいいのだが、取り損ねた36本分の他地域番号も流れてくるから、ま、苦労は同じか。
そのうちに新入り歓迎会が始まったらしく、目の回りそうな流動が目の前を過ぎていく。
おれも溜め込んだものを少しづつ放出しながら、忙しく目配りして自分の荷物を取り込む。
歓迎するほうも楽ではないのだ。
「ぐぉおらぁぁ。モタつくなあぁっ、遅っせえぞおぉ。ばっきゃろぉっ」
古参の罵声とともに 逆回転が始まる。
カタギに怒声なんか浴びせられたことはないのか、一瞬、ギッと彼の目の色が変わったが、すぐに集中していく。
どんな理由でこんなところに来たのかは知らないけれど、やる気を見せているのは好ましかった。
「おい、偵察してきたワ」
休憩時間に自衛隊のくずれがささやく。
「あいつ、やっぱ車で来てる。三下が運転してて、なんとスカイラインGT」
そういえば、コレもんの姿は休憩室にはない。
エアコンのきいた自分の車でくつろげるとはいいご身分だ。
「ケンメリだよ。あ~っ、ケンとメリーのスカイラインっ。20年前の車だけどプレミアついててカッケェんだ。イイよなぁ。あのシャコタン(車高短)、踏み切り渡れねぇぜ。そこがグッとくる」
身もだえする彼に暴走族あがりが返事する。
「え~? 20年前じゃ、生まれてねぇけどぉ。今のご時勢、やっぱカウンタックかアストンマーティンでしょ」
「バ~~カ、いくらすると思ってんだよ。あ~あぁ、ホント、自衛隊も暴力団も偉くなんなきゃなぁ。現実はキビシ~イッ」
陸自でも彼は一兵卒で終わったのだ。
世の中の一端を垣間見た感慨深い言葉でその話に終止符を打つのを聞いて、高坊のおれでもなんとなく社会の現実を知った気がした。
コレもんは次の日もその次の日も運転手付でやってきた。
時間厳守も車での休憩も変わらず、積極的な係わり合いは向こうから避けているようだった。
そして、4日目に消えた。
「ああ~、あと1日だったのに」
「ど~でもいいけど、けっこうイイ線いったほうじゃねぇの?」
兵隊くずれと族上がりは残念そうだったけど、古参の人たちはほとんど関心を持っていなかった。
どんな家業来歴の人が来ても長く続けられなければ価値はない。
彼らベテランに仲間扱いしてもらいたければ、石にかじりついてでも新入り歓迎会をクリアするしかないのだ。
「上納金が足りないか、組の金にアナでもあけたんだろ。今は体で払えっつっても指つめじゃないから」
川越(かわこし)さんが笑いながら穿ったことを言う。
この人はなぜか裏社会に詳しい。
お仲間の暴力団ではないようだから、ガタイから言って、敵対する丸暴のエージェントだろうか?
なんとなく謎の多い人だった。
7)お礼参りは求人だった
「ねぇねぇ、きのう、コレもんの車に乗ってったでしょ。なにかあったんですか?」
「お礼参りじゃんかねって、ちょっとビビりましたよ、おれたち」
「ああ? 見てたのか。目ざといな」
休憩時間に族上がりと自衛隊くずれが、川越さんと話している。
まわりもなんとなく聞き耳を立てているようで、ざわめきが少し止んだ。
「親父さんが来てくれって言ってるって頼むんでな、いっしょに行ったよ。おれが行かないとヤツは多分、叱られる。それじゃ、かわいそうだろ」
「え? いや、まぁ、そうですが・・・・・・ヤベって思わなかったン?」
族上がりが心配するのも無理はない。
新入り歓迎会を川越(かわこし)さんが主導したことは、眼鏡カマキリが3日目に気づいて、コレもんにチクったらしい。
古参の1人が「川越(かわこし)が、川越(かわこし)が」と繰り返す言葉を聞いているのだ。
自己保身のカマキリらしい所業だろう。
「あはは、歓迎会の逆恨みとか? ないない。あったとしてもフクロにされるくらいだよ。最近、国家権力の取締りがキツイからね。ヤツラは強いものとは絶対に戦わない。それが日本の任侠とは違うところだ」
「ええ、まぁ・・・・・・」
川越(かわこし)さんの話は、こんなものだった。
いつもどおり業務終了と同時に自分の車に向かうと、なぜか数人の人影がある。
かまわずズカズカ近づくと、いたのは三下に囲まれたコレもんで、親しげに礼をしながら話しかけてきた。
やはり、どう見ても若頭ではなく若衆頭程度だ。
「あっ、ご苦労さんです。あの、ちょっとお話が。いや、うちの親父が川越(かわこし)さんにお会いしたいって・・・・・・その、時間は取らせませんし、また、ここまで送りますので。ちょっとだけ」
「ふ~ん。あんた、おれを連れて行ってアサカワで4日目からバックレた埋め合わせかい? い~よ。行こう」
「えっ? ほんとに? いや、もう、ホント、あ、ありがとうございます」
相手はこんなに簡単に承諾するとは思っていなかったらしい。
かえってとぎまぎしながら車を出した。
行った先は昭島側の多摩川の堤防上にかかる河川敷で、小高く造成した屋敷は堅牢豪奢だが土地は不法占拠だ。
立川の山口さんの息のかかった末端の組で、会社に例えるなら孫会社程度か。
親父は60代の赤ら顔の男で、老人特有の落ち窪んだまなざしが、今で言うプーチンに似ていた。
「いや、お初に」
米大統領を思わせるでかいマホガニーの執務机の向こうから、座ったままちょっと頭を下げてくる。
子分どもがすかさず茶と菓子を出してくるのを見ると、統制は良く取れているようだった。
「うちのコレが」と言いながら、不動の姿勢で突っ立っているコレもんに目をやる。
「あんたのことをホメてましてね。ま、どんな事情でアサカワにいるのかは知らんが、うちもちっけぇ組なんで、ま、いい人材がいれば採用したい。うちは貸金業がメインだが、取立てにバックレる連中も増えているのが現状でね」
この当時の1992年には実はバブルは徐々に崩壊しつつあった。
1991年末あたりから、すでに力のない小企業の倒産が相次ぎ、自殺や失踪も増えつつあったが、数字や社会の人々の実感には現れていなかった。
まだまだマスゴミも気づいてはいなかったが、借金の返済に「臓器を売れ」などといわれる時代になっていたのだ。
「親父さん。気持ちはありがたいが、おれはカタギが好きなんですよ。おれんちは古い家柄でね、平安末期にはすでに武士として台頭していた。川越(かわこし)ってのは川向こう、つまりあの世を顕していて、それを苗字にしたのは常在戦場の武士の心意気でね。おれはだれの軍門にも下らない。今は武運つたなく会社をつぶしちまって風来坊だが、また、返り咲く日もあるってことです。だから、お誘いには添えませんワ」
「川越(かわこし)さぁん、あんた、これから不景気になるよぉ。日本はアメリカのハリウッドを買ったりして好景気を謳歌してるが、先行き落ち目だ。ま、就職の誘いがあるうちに乗っといたほうがリコウってもんだぜ」
さすがに社会の裏や弱者に食い入って食い荒らす家業だけに、世の中の暗転は敏感に察知している。
「それにあんた、稲村会の若頭山田二郎さんとえらく懇意だってな。そんなら、この世界に半分足を突っ込んだも同然だ。先祖が武士だかなんだか知らんが、人殺し集団だった連中だ。目くそ、鼻くそを嗤うってのもおかしな話と思わんか?」
ちょっと奥の手を出してきた。
イキがってばかりの兵隊がいくらいてもこれからの世の中は乗り切れないのだ。
指導的立場に立てる人材が喉から手が出るほど欲しいのは、表も裏も変わらない。
「え? おやっさん、今、なんて言った?」
じんわりと口調と態度が変わる。
「山田さんと立川の山口さんは横のつながりがあってツウカアだから、そのあたりから聞いたんだろうが、おれの名前出しちゃ、山口さんに迷惑がかかる。山田さんが緘口令しいてるのは親父さんも承知だろ? おれの前だからいいって思ったんだろうが、こうして三下だって聞いている。ま、禍の元の口はつつしみな」
しばらく沈黙が続いた。
意外な展開に、そばにいたコレもんは席を外すべきかとオドオドしている。
「いや、あきれたよ。カタギに脅されるとは・・・・・・」
やがて親父は赤ら顔をほころばせる。
「わかった。川越(かわこし)さん、おれの失策だ。気にせんでくれ。ま、気が変わったらいつでも歓迎だよ。おい、お客様がお帰りだ。丁重にお送りしろ」
コレもんが飛びつくように、親父の言葉に従ったのは言うまでもない。
これがお礼参りの顛末だったが、川越(かわこし)さんのみんなへの話には当然ながら、稲村会も若頭山田二郎の名前もなかった。
ここで真相を言っておくと、川越(かわこし)は、当時は若頭、今は稲村会総長で未だ健在の山田二郎の、ある私的事項の有能な教師だったのだ。
山田はそれに幾分の恩義を感じていたらしく、
「川越(かわこし)先生。なにかあったら遠慮なく言ってください。若い者を差し向けます」
と、約束している。
それに対し、彼は
「山田さん、ヤクザに世話になっちゃお仕舞いだよ」
と答え、山田はちょっと絶句したが、すぐに苦笑して
「ヤクザにはっきりヤクザって言ったヒトに会ったのは初めてだ」
と、返している。
川越(かわこし)がなんの先生だったのか?
それは現在のところでは、現実的なさしつかえがあって語れない。
まぁ、軍用ヘリか戦車の操縦か、ミサイルや毒ガスの製作か、はたまた傾国の美女の攻略法か、単なる勉学の家庭教師か?
およそ想像でき得る限りの事柄で、読者が言い当てることがあれば面白いだろう。
8)バブル崩壊がやってきた
夏休みのバイト稼業もあと2週間ほどになったころ、自衛隊くずれと族上がりが相次いでやめてしまった。
前々から何度か聞かされてはいたのだけれど、どうやら本気でホストになったらしい。
筋肉質でガタイがいいとモテるのだそうだ。
2人とも、こんなところで働いている連中には珍しく、口達者で調子が良かったから、確かに適職かも知れなかった。
おれは彼らの他に付き合うやつもいなかったから、しばらくポツンとひとりでいた。
アサカワあたりで深夜に汗水たらしている者は人付き合いが苦手なコミュ症が多い。
お互いになんとなく接触をさける風潮だから、別に浮いているわけではないので気にもならなかった。
「ひとり? 朝飯食いに行こう」
振り向くと川越(かわこし)さんだった。
おれがやめた2人とつるんでいたのを知っていて、気を使ってくれたようだった。
近くのラーメン屋に転げ込む。
このあたりの店は配送センターの連中を当て込んで、朝は7時半ごろから開店している。
このころはおれの体もすっかり業務に慣れ、徹夜明けでもガッチシ腹が減るのだ。
定番の醤油ラーメンと2ギョーザ、肉野菜炒めを頼むと、うれしいことに川越(かわこし)さんがおごってくれた。
仕分けに参加して1年半ほどらしいが、古参の中でも特に一目置かれている人におごってもらえるなんて感激だ。
「あの、ここに来る前はなにやってたんですか?」
さっそく常日頃気になっていたことを聞いてみる。
「ん? 事業やってた。いちおう社長さん」
ニコニコと気軽な返事が返って来た。
だが、彼の語った越し方には、社会の冷酷さ、理不尽さがにじみ出ていて愕然とせざるを得なかった。
川越(かわこし)さんは大学卒業後数年の1989年、すでに友達と2人、会社を立ち上げていた。
当時は起業する若手事業家には返済期限付きの補助が出ていたからそれを申請し、折からのエコ指向の先端を行く、リサイクル紙製品を手がけたのだ。
少量のプラスティック成分を混ぜて柔軟性と強度を付加した動物のスケルトン標本や飛び出す絵本、きれいな中間色を生かした棚・収納箱・小デーブルなどの家具、海外旅行ブームに乗った使い捨て下着やシャツの類は手軽さもあってけっこうウケた。
そんなにわか実業家の彼らに目をつけたのは大手企業だった。
量産を条件に取引を持ちかけてきたのだ。
当然、機械化しなければ要望に添えないから、銀行に融資を打診すると「是非借りてください」と言う。
これで事業拡大の夢が叶う。
友人は大喜びだったが、川越(かわこし)さんはイヤな予感がしていた。
アメリカではすでにバブルは崩壊していて、親たちが常々言っていた「アメリカがくしゃみをすれば、日本経済は風邪を引く」という古いことわざを思い出したからだ。
彼の予感は当たった。
後に経済学者の言う『1991年バブル崩壊の予兆』はなんと3ヶ月後のことだった。
予想もしない地価と株価の大幅下落に、言い寄ってきていた大手はあっさりと手を引き、膨大な借金だけが残った。
ただ、幸いしたのは、巷はまだまだバブルの余韻に酔っていて、事業の整理は比較的スムーズに進んだことだ。
それでも1,600万が残った。
この事実は彼らに重くのしかかり、いわゆる銀行の「貸しはがし」の走りとなった厳しい取立てに友人は失踪し、川越(かわこし)さんだけが矢面に立っていた。
おれが知らなかったとはいえ、彼はとても人におごってやるような経済状況ではなかったのだ。
9)銀行はなんのため?
「ねぇ、親父。ちょっといい?」
おれは親父の部屋のドアをノックしていた「聞きたいことあってさ」
銀行の書類らしい紙に向かっていた父が振り向く。
「ん? いいよ・・・・・」
軽い笑顔が、なんだか少しやつれたようだ。
「だいじょぶ? 忙しい?」
「いや、多忙はいつものこと」
親父は片隅のコーヒー・メーカーで2人分のコーヒーを入れ、おれはその前のイスに座り込んだ。
「なんだ? 深刻そうだな。国体出場が取り消しか?」
「あはっ、まさか。そっちは順調」
ちょっと言いづらい気はしたけど、質問を口にしていた。
「ね・・・・・・あのさぁ、え~と、その、つまり、貸しはがしって知ってる?」
一瞬、絶句するのがわかった。
おれを見る目が険しくなる。
「融資相手に対し、期限前に返済させることだが・・・・・・なんでそんな言葉知ってる?」
「うん、おれのバイト先に、実際にそういう目にあっている人がいるんだ。今の銀行はおかしいよ。銀行の本来の理念と目的は有望な企業や個人を見極めて、融資することによって事業を発展させ、同時に経済をも活性化させることって習ったよ。それなのに逆のことやってる。父さんのトコはやってないよね。一部の悪質な銀行だけだよね」
親父はため息のような太い息をついて、ちょっとそっぽを向いた。
「政憲(まさのり)。おまえは経済原理を知らない。経済は常に拡大、発展の宿命を持つ。停滞、縮小は許されない。だが、永遠の拡大などありえない。来るべき時がきたんだ。世界的な不景気がやって来る。貸しはがしはお父さんの銀行もやっているよ。貸し渋りもね」
「ウソ・・・・・・。だって、銀行は担保取るじゃん。企業はどうなろうと銀行だけは損をしないようにって。それじゃ二重取りだ。詐欺だよ」
「詐欺なんかじゃない。株価が下がり、不動産も価値を失いつつある。担保価値などほぼないに等しい。その埋め合わせをしなければならない。銀行が破綻したら、国家の屋台骨が揺らぐんだぞ」
はっきりとは言わなかったけれど、親父の言葉は巨額の不良債権を暗に示していた。
資金繰りに悩む中小より先に、銀行が先行きの不安を抱えてしまっていたのだ。
「じゃあ、お金借りていた人たちはどうなるの? 担保に会社差し押さえられて、運転資金も取り上げられて、つぶれるしかない」
「その救済は政府の仕事だ。財政再建策を打ち出すはずだよ。今の状況は銀行がケツまくってるように見えるかもしれない。でも、そうじゃない。銀行も自分を守る権利があるからだ。今、お父さんたち行員は銀行を守るために一生懸命だ。これ以上、円高を促進させないためにもね。世の中の人たちは安く海外旅行が出来る、なんて浮かれてるけど日本の輸出収支はガタガタだ。これで景気が良くなるものか。だが、それを世間の人に知らせてはいけない。パニックになるからだ」
「う~ん。でも・・・・・・え~と・・・・・・う~ん」
おれは次の言葉が出なかった。
変だ、なにか違う、なにかが間違ってる。
そう思いながらも、反論する明確な言葉が思いつかない。
父はおれが納得したと思ったらしい。
冷たくなったコーヒーをグッと飲み干して書類のほうに向き直った。
「じゃ、話はおしまいだな」
「うん・・・・・・ありがと」
おれは釈然としないまま部屋を出た。
のちに大ヒットしたTVドラマ『半沢直樹』の世界がジワジワと日本の現状になりつつあったのだ。
時代の渦中にある人は、案外それに気づかない。
2022年のこの昨今の世相も、これといった好景気の裏づけがないのに、国家が金を出し銀行が金を貸す。
地価は上がり、マンションも一戸建ても高騰しているにかかわらず、売れ続けている。
これは30年前ほどではないにせよ、小さなバブルの再来とはいえないだろうか?
10)ランボーと飲んだ
8月30日になった。
明日でもう、バイトは終了だ。
名残惜しくて続けたいけど学校が始まってしまう。
おれは、
「お世話になった川越(かわこし)さんにお礼がしたい。1度だけでいいからおごらせてください」
と、数日前からしつこく頼み込んでいた。
「じゃぁ、なんか買い込んでおれのうちに来るか? さしつかえなきゃおれんちから最期の仕分けに出ればいい」
最初、笑って辞退していた彼が根負けしてそう言ってくれた時は天にも昇る気持ちだった。
当日は近所のコンビニで3リットル缶ビールに寿司・やきとり・各種チーズ・揚げ物や焼き肉の盛り合わせ・サラダ・甘いケーキとやたらに買い込んだので、
「大丈夫か? 食えるのか?」
と心配されたほどだった。
川越(かわこし)さんは車でほんの2~3分の多摩川の堤防下に住んでいた。
こんな浮かれた時代によく見つけたなぁと思える安アパートで、なんと四畳半一間だ。
家具は3段のカラーボックスを2つ横にしてパソコンを乗せているほかは、安物の扇風機とプリンターしか見当たらない。
半畳ほどのキッチンには小さなシンクとひと口のガスコンロ。
それでも長押にかかる数着のスーツとネクタイ、カバンの類が、彼の華やかな社長時代を物語っていた。
アルマーニやグッチ、カルティエなどの、当時の一流人気ブランドだ。
おれがボックスに酒や食い物を並べている間に、彼はかいがいしくおれ用の綿毛布を干してくれた。
まだ、タグがついているまっさらで、バーバリーのロゴがあった。
「ここは日当たりだけはいいからな。だけど水害が来たらイチコロだ。昭和の多摩川水災ってスゴかったらしいよ」
屈託なく笑う顔は、とても借金に追われる人には見えない。
ランボーはどんな状況でも、希望は失うまいとする人らしかった。
楽しく飲み食いしながらいろんな話をした。
おれも1杯だけピールを飲ませてもらったから、その酔いであんまり覚えていないのだけれど、ひとつだけ忘れられない。
なにかのきっかけで自分の家の話をしたのだ。
「親父は銀行員で・・・・・・」
何気なく口走ったこの言葉に、自分でハッとした。
川越(かわこし)さんは一瞬だけ傷ついた顔をしたけど、すぐに平静に戻って、
「そう。大事にしてあげな。お父さんも苦労している。ともに時代の被害者だよ」
と言ったのだ。
おれたちは20時からの業務に備えて11時前には半分だけ雨戸を閉めて陽をさえぎり、蚊取り線香をつけて横になった。
目の前の堤防の斜面からサヤサヤと風が吹き込んで、夢のように快適だ。
だけど、隣で眠りについている彼の表情は苦労そうにゆがんでいた。
額に刻まれたままの深い縦皺が隠し切れない苦悩を示している。
おれはこの時初めて、世間でよく言う『やり場のない怒り』がどんなものか知る気がした。
おれの中に生まれたマグマのように鳴動する社会に対する不信と憤りは、その日、おれを眠らせなかった。
おれは輾転反側(てんてんはんそく)を繰り返しながら、狭くて古い天井をにらみ続けた。
11)おれんちもどうなるのだろう?
それっきり、ランボーと会う機会がないまま、冬になった。
1993年2月1日から鳥取県大山町で開催された、第48回冬季国民体育大会アルペン・大回転で、おれはなんとか3位に食い込んで東京都の面目を保つことが出来た。
多くの人が祝ってくれ、表面的には何の問題もない世相に見えたが、その年はしょっぱなから『山形マットいじめ殺人事件』や『能登半島地震』『ニッサンの従業員削減計画』など、将来的暗雲を思わせる出来事が起きている。
また、この年、水面下で進行していた銀行の貸しはがしはついに表面化し、借り手の企業側は訴訟に持ち込むことが多かったが、いづれも敗訴している。
就職氷河期が到来し、ニート、フリーターなどの新語が巷に踊った。
「あれ? お母さん、明日の準備は? 教室行かなくていいの?」
兄貴の声が聞こえる。
「うん、いいの。アートフラワー教室は閉鎖になったの。生徒さん減っちゃったから。講師のわたしもクビ」
母の言葉にドキッとする。
「不景気だからね。でも、日本の官僚は優秀だし、ぼくはガッコがあと2年だし、そのころには回復してるよ」
慰め顔の兄貴はあきれるほど楽観的だ。
統廃合に踏み切る銀行も出てきている昨今なのに・・・・・・。
父はほとんど泊り込みのような形で今夜もいない。
なんだか、それがむしょうにムカつく。
「親父が今、なにやってるか知ってる? 貸しはがしや貸し渋りやって社会経済を悪化させてんだよっ」
ほとんど八つ当たりに近い感情のまま、そんな言葉を叩きつける。
母も兄貴も一瞬のうちに凍りついた。
親父や家族に当り散らしてもなんの解決にもならない。
川越(かわこし)さんの言うとおり、ともに時代の被害者なのだろう。
だが、それがなんになる?
本来の銀行業務を放棄した銀行は、どう言いくるめようと加害者だ。
「友達んトコ行ってくる」
深夜だったけど、そのまま家を飛び出した。
足はなにかにすがりつくように、川越(かわこし)さんのアパートに向かっている。
留守ならば、たぶんアサカワにいるだろう。
駐車場に彼の車はなかったけど、いちおうアパートを覗いてみた。
(え?)
表札が違っていて、見慣れぬチャリが置いてある。
(ふ~ん、アパート替えたのかな?)
去年の8月30日にいっしょに飲んだ思い出がよみがえる。
彼はいみじくも言ったのだ。
「借金返済して、ここから出て行く時がおれのミッション・コンプリートだ」
とりあえず、アサカワに向かった。
懐かしい配送センターは相変わらずの怒涛の流動だ。
だけど、ランボーが担当するはずの1・2番レーンには古参の人と、もう1人、知らない人の姿があるだけだった。
「清水さん、お久しぶりです。ちょっと、いいですか?」
遠慮しいしい声をかける。
「あ? なんだ、おめえか。いいけど、先に休憩室行ってろ。すぐ休憩だ」
忙しそうにしながらも、清水さんはニコニコと返事をしてくれた。
12)おれの中に生まれたもの
川越(かわこし)さんは過酷な運命をたどっていた。
おれがアサカワを去って4ヶ月ちょっとたった1月半ば、借金の担当者が変わった。
その銀行員は、彼より年上の40代の家族持ちで、自分の銀行から優先的に安く金を借り、それで家のローンを組んでいた。
こんな時代でなければ何事もなかったが、採用過多でダブついていた年代の彼は、真っ先に『肩たたき』にあったのだ。
「川越(かわこし)さん、申し訳ないですが、月々の返済額をもう少し増やしてもらえませんかね。上司から仕事に誠意を見せろって言われてて。ねっ、毎月1万でも2万でも・・・・・・お願いしますよ。じゃないと、僕、リストラなんです」
泣きつく言葉にウソはなかったが、ランボーにしても限界だった。
ひと晩に2レーンを担当して2万の収入を得ているものの、週1の休みを入れなければ体が持たない。
それに最近、1ヶ月にほんの数度だけれど、夜中に息苦しくて目が覚める。
その時、なんとも言えない危機感というかイヤな気がするのだが、朝になると忘れている。
彼の体が音を上げ始めているのは確かだった。
憔悴した銀行員を見るのは立場が同じだけにつらかった。
お互いに金に鼻面を引き回され、鬼に責められる地獄の亡者のように無力に蠢くだけだ。
頼るべき両親はもう亡くなり、受けた相続も起業と借金返済ですでにない。
秋まで乗っていた中古車も維持しきれず手放していた。
窮した彼が向かったのは父親の弟のところだった。
だが、製造業を営む叔父も、道路から見てわかるほどの窮状ぶりだ。
2月の風の吹く寒い日だった。
彼はそのまま引き返し、乗り換えのために立川のホームに降り立った時は夜になっていた。
朝から水一杯飲んでいない。
昨日からの息苦しさが今になっても消えないのは、風邪でも引いたのかも知れない。
少し休みたくなって、ベンチに向かった時だった。
突然、自分の周りから酸素が消え去った。
もがいて呼吸を維持しようとしても肺を膨らませることが出来ず、メリメリと音を立てて肋骨が内側に収縮する気がした。
そのまま彼は倒れ、救急隊が駆けつけた時はすでに手の施しようがなかったのだ。
おれは清水さんにおごってもらった炭酸を握ったまま、子供のように泣いた。
ランボーはもう、永久に『ミッション・コンプリート』と微笑することはないのだ。
時代に殺された多くの無辜の人々の墓標を、もし見ることが出来たら、おれたちはそこにどのような悲嘆の物語を見出すだろう?
おれはそれっきり、アルペン・スキーをやめた。
国体まで行ったという未練はなかった。
みんなスポーツに勇気をもらったとか言うけれど、それは幻想に過ぎない。
スポーツはなにも生産しないからだ。
それより、おれは事業家を目指したい。
人々の需要に沿うものを生産し、雇用を促進し、経済に寄与するのだ。
どのような世の中になってもすべての企業が倒産するわけではないからだ。
高3のおれにはまだまだ、学びの時間がある。
じっくり構想を練る猶予が残されているのだ。
出来れば川越(かわこし)さんの跡をついで、リサイクル紙製品を手がけたい。
浪費の時代のあとにはその反省から、資源を大事に使いまわす世の中になることは、川越(かわこし)さんの初期の成功からも見て取れるからだ。
休憩時間が終わり、清水さんがおれの頭をゴゾッとなでて去ってからも、おれはそこに居続けた。
最初、怒涛のように感じた悲しみと憤りは去り、ランボーとすごした去年の夏の思い出が心を優しく慰めていた。
やがて、おれは立ち上がり、そっと休憩室を出た。
外に目をやると、夜の闇がまだ、黒々と世界を覆っているのが見えていた。
泡の時代のことだった(バブル崩壊のころのお話)