創作をすると死にいたる病
第1話 病院へ
<1>
――死にいたる病とは絶望のことである。
Kierkegaard “SYGDOMMEN TIL DODEN” 1849
20**年X月、世界中に流行り病が席巻した。
しかし、この病では人々はマスクもせず、政府も都市封鎖を行っていない。
ボクは体がだるい。
頭も現実の複雑すぎる風景が入ってこない。ずっと白昼夢を見ているようだ。
ボクは妻が剥いてくれた味のしないリンゴを無理矢理口に押し込み、
“ある”単語をインターネットで検索をしていた。
―ATED (Author too Expression Disorder)
ボクが告げられた病名だ。
<2>
初めは、ボクは精神科や心療内科へ通院すれば治ると思っていた。
ボクは仕事のストレスで統合失調症を患っており、薬を毎晩1錠服用していたからだ。
ただ、日に日に疲れがとれず、とうとうトイレに入ったまま10分以上、
家の便座から動くことができないくらいに症状が悪化していった。
見かねた妻はボクを見てこう言った。
「あなた、病院で一度見てもらったらどうかしら」
ボクは、返事をするのも億劫だったが、妻の言葉にこう返事をした。
「君はいつも心配をし過ぎる。ボクは大丈夫だ。それに原因が分からないのに、何処に診てもらった方がいいというのさ!」
妻は、ボクの言葉が耳に入っていないかのように、
ボクにパジャマから外出用の服に着替えて、私の車に乗るように催促した。
ボクは黙って靴下をはき、タウンシューズを履いて、
妻がスマートキーで解錠した普通車の助手席に座ることにした。
妻は、エンジンボタンを押すと、そのまま普通車を発車し、
ボクの住む町とは少し離れた山奥の方へと車を走らせた。
「どこへ行くんだい」
ボクは死刑台に上る囚人のような気分で妻に尋ねた。
「この先にある病院よ」
妻は、ボクの方へ顔を向けるでもなく、淡泊な返事をボクに突き返した。
何でも、ボクが現在悩まされている症状に詳しい医師が山奥に診療所を設けているとのことだった。
ボクは運転する妻にこう言った。
「君はボクが死ぬと思うかい」
妻は、再びボクの方へ顔を向けるでもなく、登記官のような口調で淡々と話した。
「最近のあなたの様子はおかしいわ。病気の人ほど自分は病気でないと言い張るものよ。一週間前に、病院に夕方16時30分で予約しておいたから、あなたは受付の窓口でその旨を伝えてちょうだい」
<3>
そうこうするうちに、山奥にある妻の予約した病院に着いた。
駐車場は空いている。
妻は「車を停めてくるから」と、私を先に病院の入り口前に下ろし、車を停めに行った。
病院の扉は手動の引き戸だった。
理由は、ここら近辺で熊が出没しているためだと、張り紙に書いてあった。
ボクは、かなり力を込めて開けないと動かない引き戸を、
今出せる力の8割ほどの力を使って何とか引き戸を開けることに成功した。
受付窓口では、用件を手短に伝えると、
受付の事務員がハンディ体温計でボクの体温をチェックした後、
バインダーとペンの付いた問診票をボクに渡し、記入の上、受付まで返却するように求めた。
ボクは、紙の上に書いてある文字の情報はまったく頭に入らず、
書くべきところは書いて、
受付の事務員に渡したところ、
受理してくれたので、ボクは自分の診察の番まで待つことにした。
妻が、引き戸を開けて病院に入ってきたのは、ちょうどその時だった気がする。
ボクは、病院にある熱帯魚の観賞用水槽が視界にボヤッと入っているということを認識するだけで精一杯だった。
「モグラさん、どうぞ」
ボクの名前が呼ばれたので、妻と一緒に診察室に向かうことになった、
第2話 病名宣告
<4>
診察室の扉を開くと、診察室の壁は、数多の賞が入った額縁で埋め尽くされており、手前の椅子には、50歳前後の牛乳瓶の底のようなレンズの入った眼鏡をした医者が座っていた。
「モグラさん」
ボクは医者から名前を呼ばれ、軽くうなずいた。
「今日はどうなさいましたか」
医者がボクにそう問いかけたが、ボクは頭の中にある言葉という抽象的な記号を、目の前の他者に向けて発信することができず、事の経緯は妻が代わりに話してくれた。
妻の話を一通り聞き終えた医者は、ボクにこう尋ねた。
「現在のお仕事は何をされていますか」
「事務員」
ボクは単語でしか答えることができなかった。
「趣味で何かなされていることはありますか」
「ネット小説」
またしても、ボクは単語でしか意思疎通ができなかった。
<5>
「ふむ・・・」
医師は神妙な顔でボクを見て、ボクの病名を次のように伝えた。
「モグラさんの病気は、ATED (Author too Expression Disorder)という病気です。この病気の定義は、創作活動に営む人間が、自身の思想・感情を表出する際に、アウトプットに対するエネルギーの消耗が過度に増大し、最悪の場合、自身の代謝・生命活動に必要なエネルギーも消尽し、死に至ると学術書には説明がございます。この病気は日本での症例はまだ多くありませんが、ヨーロッパ諸国では感染例が確認されているという報告を受け取っています。症状が確認されている患者は、芸術家や小説家、クリエイターなどの日常的に創造活動に従事している層が多いとのこと。現在、この病気に対する確固たる治療法は確立されておりません。ですが、患者は普通どおりの社会生活を過ごしていると、症状が徐々に快方に向かうという研究結果も報告されています」
医師の学会報告のような教条的な説明は正直ボクの頭の中には入ってこなかった。
だが、妻はカルト信者のように医師の説明に没入し、フンフンとうなずいては、何やら質問を繰り返していた。
「では、この病気は日常的な創造活動・アウトプットの機会を制限すれば、体調は回復するとのことですの?」
妻は、学者のような風体の医者に尋ねた。
「先ほども申し上げましたとおり、現段階では、この症例に対する画期的な治療法が確立されておらず、専門的な知見から、客観的な解答を出すことはできません。しかし、ヨーロッパ諸国では、ATEDに発症した創作家の人間が、一旦、日常生活における創作活動を中断し、療養に入ると、症状が回復したという報告が多数なされています。帰納法的に考えれば、奥さまのご指摘が最も確からしい治療法になるのでしょうなあ」
<6>
その後も、医師と妻のやり取りは続き、10分ほどしてボクは診察室から出ることができた。
この病気に対する治療法が確立されておらず、薬の処方もされなかったため、診察台は初診料のみとなった。
家までの帰り道を妻が車で運転している中、ボクは終始上の空だった。
妻は、ボクにこう諭す。
「あなた、今回を機に、今取り組んでいるネット小説投稿をお止めになったらどうかしら。お身体の方が大事よ。あなたは、まだ27歳で、私もあなたとの間に子どももできていないのだから、あなたに先立たれては困るわ。ね。そうだ、夕方私と一緒に30分ほどウォーキングしましょうよ。外の空気を吸いながら、健康にもいいことですし。症状が回復するかもしれませんよ」
妻には、申し訳ないが、今のボクには、まったく言葉が届いてこなかった。
ただ、ボクに病名を名づけた、胡散臭い権威を象徴する医者と、その医者の言葉に盲信し、ボクを心配しているかのように見えるボクの妻に、ある種の嫌悪感が湧いてきたのは確かだ。
「うん。考えてみるよ」
妻の提案にこう返すものの、ボクは生の実感をつかめず、かといってこれからどうするかの将来について考えをめぐらせることもできず、人里離れた山奥から、次第に猥雑な看板や人声に充満した元のボクの住み慣れた家に戻ってきたのだった。
第3話 生の実感
<7>
―あれから、2週間が経つ。
ボクは、パソコンで刺激の強いブルーライトを浴びながら、
ATEDという無機質な単語を検索していた。
日本では症例が少ないらしく、日本語で書かれたホームページは見つからない。
ボクは仕方なく、キーボードで打つにはスペルの多い、
等質に並んだマスの目のようなキーボード上のアルファベットに指を移し、
検索エンジンを再度クリックした。
すると、いくつかのPDFデータ化された論文がパソコン上の画面上に並んだ。
ボクは、英語が読めるわけでもなく、検索上位の論文を片っ端から当たろうと試みた。
しかし、それは徒労だった。
ボクは、PDFの論文をダウンロードし、
データ上の英文を一文ずつ、ブラウザの翻訳ツールにコピー&ペーストした。
しかし、翻訳機能は、学術上の専門用語に一対一で対応しているわけではなく、
翻訳で表示された文章は、空中分解した、
まるで、楽譜上の音符が、規則どおり並べられず、
そこには、ただ独立した記号が、物理的に集合しただけのような、感じであった。
<8>
もう、こんな時間つぶしはよそう。
何よりボクは目が疲れていた。
ボクは、保存用ポリ袋にポットで沸かした180ミリリットルのお湯を入れ、
タオルで巻いたものを自分の目頭の上に置き、ソファで横になった。
妻が台所から戻ってきた。
ボクには味のしなかったリンゴを、フォーク片手に口に入れ、
ソファで寝ているボクにこう尋ねた。
「あなたの病気ってどんな感じなのかしら」
妻は、ボクと気持ちを共感したいのか、こんなやり取りが続く。
「頭がボウッとして、テレビやインターネットの情報が右から左にすり抜けていく感じで。
でも、キミの言葉はボクに届いているから心配しないでおくれ」
ボクは嘘をついていた。
傍にいる妻の言葉も、今のボクには、情報のようにしか受け取ることができなかった。
<9>
ボクは病気になってもなお、毎日の精神活動を止めることはできなかった。
気づけば、自席のパソコンを起動させ、ネット小説編集画面を開いていた。
ボクは、自分の内側に抱えている<しこり>を吐き出さずにはいられなかった。
妻の言葉に耳を傾けないキミは大馬鹿者だ。そう罵る人も少なくないと思う。
妻の言っていることは<社会的には>正しい。
ただ、ボクはその<社会的に>正しい言葉をボクの胸の内に取り入れることができなかった。
ボクは、生の実感を、自分の思想を吐露することで感じていた。
皮膚の皮がすべて剥がれた状態のむき出しの肉体を外気に曝す。
すごくヒリヒリする。
そして、パブリックな世界で醜い姿を露呈することはすごく勇気のいることだ。
――ボクは<書く>という行為をしていた。
初めてボクは、日常の言語空間に戻されるような気がしていた。
ボクは主体を取り戻していた。
ボクは生の実感を生々しいくらい感じることができた。
ボクは書いた経験を<読み>、初めてそれを自分の血として肉として統合することができた。
創作で創造されているのは物語という客体でなく、このボク自身だった。
ボクはその夜ひどく衰弱し、夕食をとることができず、
ソファで横になっていたことを、後日妻から聞かされた。
第4話 創作のない世界とは絶望である
<10>
朝になっていた。
妻は書き置きを残して先に仕事に向かったようだ。
食欲のない私のために、小皿に切った柿を入れ、ラップで封がしてある。
妻は、保険会社で内勤の営業事務をしている。
計数感覚と他者との共感感情が強い、社会性を持った女性だった。
妻は、他者に与える側の存在であると同時に、
「義務」という重力に対して、権利という抗力をもって、均衡を保てるほど、
社会の摂理に明るい人間だった。
ボクは、妻とは対極の星の下に生まれたのだと思っている。
妻が暮らす星の重力では、ボクは押しつぶされてしまうだろう。
他人に何かを与えるということは、
同時に与えられる側の人間に対し、権力を行使することになる。
力という概念は、同時に行使と制御についての体系を生み出す。
力の行使は権利の体系を、力の制御は義務の体系を構築する。
ボクはこの力という概念を好きになることができずにいた。
なぜなら、力という概念で構築された世界は、理不尽で不平等で人間臭い世界だからである。
<11>
ボクは柿を一つ口に入れ、それから再びパソコンに向かい、小説を書いた。
――ボクは人間として生を授かっている。
人間として生まれた以上、ボクは権利と義務で構築された世界を生きる必要がある。
力のない者には辛い世界だ。
なぜなら、ボクが生きる世界は、
力のない世界へ逃避しようとすることは許されざる罪だからである。
力への逃走が許されない世界で、
力に対する懐疑的な思想、青少年が抱くような反抗期の精神をもって生きることは、
身体が焼けてしまうような激しい痛みを伴う。
ボクに宗教心はない。
しかし、ボクには、
力に抗うための、自分の足で、
か細い自分を支えられるような拠り所が必要だった。
それは、ボクを創り出す物。それは哲学である。
そして、力からボクを解放する術。
ボクがボクとして活動するための技術が芸術であり――ボクにとっては「小説」だった。
創作のない世界とは絶望であり、ボクにとっては「死」を表しているに他ならなかった。
<12>
この流行り病は、人間の神に対する冒涜に対する神々の怒りなのかもしれない。
プロメテウスが天界の火を盗んで、
その後、人間界に災禍がもたらされたとギリシア神話は伝える。
古代から、人間の創造を阻むことが、ある種の至上命題だったかのように読み取れなくもない。
人間の歴史を見ても、創造者・創作者は迫害の歴史に曝されてきた。
この病は、創造という営みを宗教的・社会的にではなく、
生態学的に蝕もうとするものなのかもしれない。
ボクは生物学的な死を避けるために、創作活動を止めるべきなのか。
ボクは、ただ慣性の法則のように、現実の社会において運動を続けていればよいのか。
ボクは、社会で語り得る言葉を使いこなすことができないにも関わらず、
社会で流通する言葉・思想だけを頼りに生きることができるのか。
それが、ボクにとって生きるということなのか。
ボクは過去の社会弾圧に曝され、転向を迫られた人間の生き様など知らない。
ボクは、過去の焚書坑儒によって焼かれた数多くの本を知らない。
ボクは正統派の宗教を批判して破門された修道士を知らない。
ボクは自分の生きている証を、
自分の思想に沈潜し、それを書き著わすという方法でしか実感することができなかった。
ボクの命はおそらく限りがあるのだろうけど、それでも書き続けていたかった。
この病気の恐ろしさは、
創作活動を継続することで死に至るという病理学的な事実よりも、
この病気の流行が、人間の根源である創造という活動に黒い影を落とし、
力という生臭い概念のみが社会全体を覆い、
ボクには絶望的だと思えるこの状況を、
この世界で誰一人も絶望的だと思わない世界が構築されるということ。
ボクは、ネット小説に自分の思いを告白し、電源を落とした。
第5話 エゴイストであること
<13>
気づけば昼になっていた。
ボクは自宅療養中ということになっていた。
この病は社会生活を過ごすことで、快方に向かうと医者から説明を受けたが、
ボクは黒いスーツを着て、履き心地の悪い革靴で固いアスファルトの上を歩き、
懸命に生きようとする自分の姿を想像することができなかった。
妻もボクの気質、生まれ育ち、ものの考え方を理解しているので、それ以上何も言わなかった。
ボクは妻に<何か>を与えることができず、
創作活動以外の時間は白昼夢を見ることしかできない。
ボクの手は日に日に血色が悪くなっていき、
白濁色の肌に青い血管がくっきり見える手首を見ながら、
再びパソコンを開き、ネット小説を編集していた。
ボクの投稿した告白に一通のファンレターが届いていた。
<14>
>高越遊民さん
>いつも投稿拝見しています。ヴェイユです。
>私も最近体調が悪くて、最近投稿できてないです。
>体調が戻ったら、前みたいに高等遊民さんと高尚な対話を楽しみたいです!!
>高等遊民さんって純粋なエゴイストですよね・・・
>もちろん、世間的な解釈でいう悪い意味ではなくて、私は創作家として非常に尊敬しています
>私も今の<力>が支配する社会に生きているのがすごくツライです・・・
>協調とか、空気とか、和とか、全体とか、
>高等遊民さんのいう<重力>耐えられないですね・・・
>社訓とか校則とか、果ては法律も
>「社会人としての人間はエゴイストであってはいけない」という
>一つの価値観を強いているようで、私は思わず来ているだけで吐き気を催してしまいます。
>「ヴェイユさんは普段の生活で<我慢>されているんですね・・・」
>「集団のために働いたり、自分らしくないことをしなければならなかったりすると、
>自分は自分だけのものなのに、誰かの所有物
>―奴隷であるかのように思い惨めになってしまいますよね」
>「そういうことやっていいの、と思うことでも
>集団の利益や集団を守るためにやらされることはツライですよね」
>「ツライことがあったら、小説の世界に逃げてきてもいいですよ」
>「他人のことなんてどうでもいい、という思想が許されるのが小説の空間です」
>「ヴェイユさんは小説家に向いていると思いますよ」
>「ヴェイユさんの書く小説、楽しみです」
>「ボクは自分の勝手気まま、やりたい放題に創作活動をしています」
>高等遊民さんのプッシュがあって、今、私は<書いて>います。
>最近流行り病がチラホラ出ているようです。
>高等遊民さんは純粋な創作家だから心配です・・・
>お身体には気をつけて
>ヴェイユ
<15>
ファンレターの送り主である、ヴェイユさんのペンネームの由来は、
フランスの思想家のシモーヌ・ヴェイユから取ったものだとボクは思っている。
ヴェイユさんもまた、在野の哲学者であり、闘う詩人であった。
ヴェイユさんも、流行り病 (ATED) により精神 (Geist) を削っているのだろうか。
ATEDによって死に至ったとしても、精神の<容れ物>である質量は、
器官 (Organ) は、生命活動を、自然の定めに従って、続けているのかもしれない。
それはちょうど、ボクが朽ちたとしても宇宙 (Space) は<在る>ように。
しかし、それは宇宙 (kosmos) ではない。
人間 (human) のない世界だ。
人間のいない世界は自然――自ずから然りの世界だ。
そこは、必然であり――<自由>という概念が存在しない世界だ。
ボクらは自然が所与とする重力に逆らうことができないように、
自然法則に反した空間―秘密で、私的で、虚構で、激しく混沌とした<何か>を創り出すことは許されない。
人間が生み出した「力」は、
自然の世界に、複数の自由意志を持った人間が存在するという条件を付与したことで、
生成した現象である。
人間という<自由>の象徴が皮肉にも<存在する>という事実によって、
自己否定を迫られるという逆説。
一度、自己否定を迫られた人間は、再び<人間>であろうとするために、
自己を創造し、<自由>の存在を証明しなければならない。
これは、人間が人間たらんとするためには、不可欠な手続きなのだ。
この流行り病 (ATED) は、自己の証明の機会を人間から遠ざける。
それは、数学で必要な<証明>が、「自明である」という一文で終わるようなものである。
第6話 会社員という地上の摂理に縛られた人種
<16>
家の鍵を回す音が聞こえた。
妻はいつもどおり、午後5時32分に家に帰ってきた。
妻が帰る時間が<いつもどおり>なのは、妻は残業をしない性格で、
いつも職場近くのバス停の午後5時7分発のバスに乗り、
午後5時22分に自宅近くのバス停で下車し、
歩いて10分で家に着くからである。
妻は合理的な人間であるので、
雇用契約書の勤務時間の条項に定められた勤務時間以上の時間働くことはないし、
雇用契約書の文言どおり、
拘束時間の間は労務を供給し、その対価として賃金を得ていた。
「おかえり」
「あなた、体調はどう?」
「相変わらずだよ。洗濯物は畳んでおいたし、部屋は掃除してある」
「あなたはまるで家政婦さんね。生まれ変わったら、次は素敵な奥さんに生まれ変わっていると思うわ」
「ボクは、人間に生まれ変わることはもういいかな」
「あなたらしいわね」
「ボクが奥さんに生まれ変わったとしても君には敵わない」
「まあ、うれしいことですこと」
しばらくすると、妻はアイスコーヒーをコップに入れ、クッキーに手を伸ばし、ブルーレイレコーダで予約していた韓国ドラマの視聴をはじめた。
ボクは、テレビを見ている妻に尋ねた。
「君は仕事が嫌じゃないのかい?」
「仕事に好きも嫌いもないわ。収入を得る手段が働くしかないから、働いているだけのこと」
「じゃあ、君は十分な収入があったとしたら、働かないのかい?」
「もちろんですこと」
「ボクはそれを聞いて安心したよ」
「どうしてですの?」
「いや、立身出世とか、自己実現とか、そういうやましい動機じゃないってことさ」
「あなたは今の私がいいですの?」
「君は常識人で、スーツを着ていかにもっともらしい雰囲気を出しながら、地位や世間体に執着する俗世にまみれた人間より、よっぽど最高だよ」
「まあ、嬉しいこと」
<17>
妻は録画してある韓国ドラマを視聴するときは、コマーシャルを早送りして視聴するので、
正味45分程度、視聴が終わった後は、台所で夕食の支度をしていた。
「あなた、まだ食欲はないですの?」
「うん。ボクはいいんだ。働かざる者、食うべからずというしね」
「食生活をしっかりしないと、頭も働きませんわよ」
「ボクには頭を使う場面があったとしても、それを役立てる機会はない。あったとしても、君とのやり取りで気の利いた言い回しができないか考えるだけさ」
「まあ、口のお上手なことですこと」
その晩、妻はクラムチャウダーを、ボクはもやしのナムルを夕食にしていた。
妻とは、こんな感じで会話をして、毎日を過ごしている。
時々、妻は職場の愚痴をこぼす。
「あなた、聞いてくださいな。今日、上司と面談があったのですけど、君は仕事が早く、ミスもないが、自分の与えられた範囲でしか仕事をしないね。君のような仕事のできる優秀な人材が、決まった枠の中でしか、活躍しないのはもったいないし、会社にとっても損失だと考えているんだ。どうだい、もっと前のめりになって、仕事に取り組んでみる気はないかい。周りに気を遣うようであれば、それは問題ない。そういったことの調整は管理職である僕の仕事だから、というのですよ」
「すごいじゃないか。君は上司から期待されているんだよ。うらやましいね」
「うらやましいものですか。オブラートに包んでいるようですけど、要は、君は決まった仕事しかしない。会社としては、自分の仕事の範囲以外の仕事も、空気を読んでやってほしい。君にはその配慮が足りない。こう言いたいですのよ」
「会社というのは、そういうところだからね」
「実際に、細々とした仕事をしている人は、それだけで手一杯ですのに、上司は現場のことを分かっていませんわ」
「上司というのは、そういうものだからね」
「しかも、子どもがいる人、生理痛でつらい人、仕事で成果を出してもいつまでも<女の子>扱いで一人前として認めてもらえずくすぶっている子も多いのに、上司はそのあたりが見えていないのですわ」
「組織で出世する人間は<さもしい>からね」
妻はストレスが溜まると、夕ご飯の時間帯に、口に出してはボクに話しかけていた。
妻の語る<低俗な>職場の同僚の話に気分の悪さを覚えながら、
つくづくスーツを着た人間が胡散臭い生き物だと思った。
愚痴をこぼしてもなお、職場に通う妻の心理がボクには理解できなかった。
<18>
確かに、ボクが妻の分の収入を得ていたならば、妻は働く必要がないのかもしれない。
しかし、ボクが気になっているのは、
妻は職場の愚痴をこぼしているのに、
なぜ精神を病むことがないのか、ということだった。
ボクは、会社で働く人間を高貴な人間だと思ったことはないし、
自分を清貧な人間だというつもりはない。
ただ、社会的地位のある人間と話す機会があった際も、
なぜ、このような世俗にまみれた人種が
高貴な身分を得ることができたのかを理解できないことがしばしばあった。
ボクは、なぜ会社員という人種が、
低級な娯楽や、取るに足らない世間話をしきりに好むのかも理解に苦しむことがあった。
ボクは、なぜ管理的な立場にある人間が、
いかにもまっとうなことをしていると言わんばかりの根拠の薄弱な主張を並べ立て、
それに他の人間が追従するのかが理解できなかった。
―会社員というのは思考停止しているのだ。
自分の頭で考えることができない。
自分の頭で考えることを禁じられているのだ。
正体不明の重力によって。
そのことで、都心の高層ビルにネクタイを締めて働く会社員の顔は、
皆、制御装置が搭載された機械と化している。
ボクは、こんな背景から、
「創作」というのは、一人内にこもることでしか実現できないと考えるようになってしまった。
「創作」は私的な空間以外では、不可能なのだと。
しかし、現代社会は、個人が私的な空間を保持することが難しいほど、
分業化し、官僚化し、複雑化し、監視社会と化している。
流行り病(ATED)は社会生活を営むことで、症状が回復すると医者に伝えられたが、
ボクは逆に再び社会生活に身を置くことで、
二度と「創作」活動ができなくなるように思えて仕方がなかった。
「死」への恐怖以上に、
<創作>できない<自分>、<自分>でない<自分>を肯定することが怖くて仕方がなかった。
第7話 死を待ち望む
<19>
妻は、お決まりの質問をボクに尋ねる。
「小説家になれば良いじゃありませんか」
「ボクに小説家になってほしいのかい?」ボクは妻に返事を返す。
「だって、ネットで小説を書くあなた、生き生きしてますもの」
「今じゃ創作をすればするほど、心身ともに枯れていくけどね」
「あなた、これからの人生も創作を続けたいのじゃないのかしら。だったら、より長く執筆人生を送るために、今は創作とは違う、実社会の風に当たるのも良いのじゃなくて」
「ボクはこれ以上、生きていたいと思わないからいいのだよ」
「また、そんな寂しいことをおっしゃる」
「キミと出会えて良かったし、最悪、ボクは社会の汚れに曝されることなく、純潔な魂を保っていると考えている。このまま、死に至るのであれば、それはボクにとっては好都合さ」
「あなたはまるで仙人様のようですね」
<20>
ボクは<小説家>として天寿を全うしたい訳でもなかったし、
小説家として糧を得ることをそもそも考えていなかった。
<小説家>という響きは、
大衆に迎合して、小説という商品を打って、対価を得ているようなイメージがつきまとい、
ボクは好きになれなかった。
かといって、高尚な芸術としての形を志向していたわけではない。
ネット小説というのは、ボクが欲する<創作>の最も適した表出活動だったのだ。
そこは、秘密であり、匿名である。
ボクは、業として小説を投稿しているのではなく、
単なる道楽の一環として創作しているだけである。
ボクは、読者が読みたいものを書いている訳ではない。
最悪、読者などいなくても良い。
ボクは、
純粋に自分のエゴイスティックな部分を客体として見つめたいという一種の倒錯した性癖から、ネット小説を投稿しているに過ぎない。
ボクは小説の中で、社会でタブーとされることをやってみたいのである。
―まさに、プロメテウスがゼウスから火を盗んだように。
小説の中には、道徳も規範もない。
小説でボクがどんな犯罪を犯したとしてもボクを裁ける者は一人もいないのである。
現にボクは、小説の中で職場の上司を殺しているし、自分の父を殺している。
モノを略奪しているし、女性を凌辱している。
ボクはあらゆる権威を否定しているし、あらゆる規範が無意味なことを論証しているのである。
ボクの<創作>の世界では、物理法則が適用されていない。
ボクは、重力に服していないし、<力が作用する>という概念がないのである。
このことによって、ボクは、よりあらゆる事物の深奥に沈潜できるし、ボクは既存の価値を疑い、隠されていた新たな価値を発見することができていた。
<21>
当然のこととして、ボクの精神・身体は日に日に病魔に蝕まれている。
ボクは書くことに対して、以前のように快楽を感じなくなっている。
精神がピアノ線のように張り詰め、ネット小説の一文を繋ぎ出すのでさえも、
自分の頭を雑巾で絞ったように、
雑巾の含んだ水がしたたり落ちるような勢いでしか書くことができないでいた。
それゆえ、ボクは、自分が真に欲していることは何かを、
一文一文吟味しながら、文章を表出せざるを得なかった。
そこに、天衣無縫という言葉はない。
ボクは一文一文をキーボードでタイピングするたびに、
自分の身体がタトゥーで彫られているかのような、
自分の皮膚がえぐれるような痛みを常に感じていた。
しかし、病気が進行するにつれて、
ボクは<書く>こと以外に何も考えられなくなるほど、
自分のエネルギーが削られていく現状を好都合だと捉えていた。
いままで感じていた劣等感も、過去の人生に対する後悔も、妻に対する申し訳なさも、
今はボクの頭から消えてしまっている。
ボクは、このまま消尽して、空になって消えてしまいたい。
小説を投稿するたび、頭をよぎる自分がいた。
「あなた」
妻の音がする。
ボクは妻がかわいそうだと思った。
なぜなら、妻はこの病気で死ぬことができないだろうから。
社会生活を送ってストレスを蓄積しながら、息絶えるよりも、この病気で命尽き果てた方が、
生の時間を有意義に使い果たしているのではないだろうか。
ボクは妻が憧れる合理的な生き方をまさにしているのではないだろうか。
きっと、このネット小説の空間にも、
この病気による死を待ち望んでいる者も多いのではないだろうか。
なぜなら、この病気によって死ぬことで、
自分は<自由>だったという証明が可能になるからである。
第8話 美容院へ
<22>
ボクは、風呂に入った後、
衰弱しきった背中を椅子に押しつけ
パソコンを起動させ、ネット小説投稿画面を開いた。
ボクは、ヴェイユさんに対して、次のように告白していた。
>ヴェイユさん
>いつもコメントを寄せていただきありがとうございます。
>高等遊民です。
>
>突然の話で驚かせるつもりは毛頭ないのですが、ボクの余命は残りわずかです
>
>日に日に体力が、吸い取られていくような感覚です
>
>ボクの投稿を毎日閲覧してくださっているヴェイユさんはもうお気づきでしょう
>
>ボクは、一文をネット上で刻みつけるだけで精一杯の状態です
>
>でも、ボクはこうして死ぬことを待ち望んでいます。
>
>ボクは、自分の病気のことを<創作をすると死に至る病>と名付けました。
>キェルケゴールの死に至る病というタイトルからとっています
>この場合の死に至る病は、ボクにとって希望です
>ボクはもう少しで自由になれます
>ヴェイユさんには、ボクの心情を分かっていただけるでしょうか
>
>ボクは貴女とは、秘密を共有したいと思っています
>ボクは自分が行っている犯罪行為を貴女と共有することが好きなのです
>貴女のおかげで、ボクは価値の深淵に入り込むことができました
>
>ボクは残りの灯火のようなエネルギーをこうして創作に注ぎたいと考えています
>ボクは、読者に自分の創作物を読んでほしいと思わないものの、
>あなただけには読んでほしいのです
>高等遊民
<23>
しばらくして、ヴェイユさんから返信が帰ってきた。
>高等遊民様
>いつも、コメント楽しみに読んでいます
>ヴェイユです
>
>高等遊民さんにそう言ってもらえると素直に嬉しいです
>私と犯罪行為を共有したいだなんて、ずいぶん私に対してずいぶん意地悪しますね^^
>ここまで、エゴイスティックな貴殿を創作家として尊敬していますよ
>
><創作をすると死に至る病>ですか・・・
>高等遊民さんが、死が近づいているのを分かっていながら、
>創作するのか、少しだけですが分かった気がします
>
>ここで命尽きるのはもったいないですね
>でも、この世界で生き続けることは、人工呼吸器をつなぎながら、
>たくさんのチューブに自己の身体をつなげられて、延命するようなものですからね
>結局、<生きる>って何なんでしょうね
>
>私たち人間が直面するにはあまりには重たい問題だと思いますよ
>その問いに対し、高等遊民さんは一人立ち向かっていたのですね
>私には、その問いに立ち向かう資格もありません
>私は自分が死ぬ前に一度、自分の生の叫びを誰かに共有したいですね
>かわいらしい、瑞々しい声ではないですケド
>ヴェイユ
<24>
ボクは、朝起きてリビングに戻ったところ、
妻から「あなた、前髪で顔が隠れているから、そろそろ切ってらっしゃい」と言われた。
内心、妻の助言が鬱陶しく思ったが、反論する理由もない。
ボクは渋々、妻の行きつけの美容院に電話を入れ、髪を切ることにした
玄関にある、黒ずんだタウンシューズを履いてボクは、徒歩で美容院へ足を運んだ。
この美容院は住宅地の中にあり、ボクの家から歩いて5分ほどの距離にある。
看板のない、住宅地の中にある美容院は、普通の一軒家と何も変わらない。
インターホンを押し、ボクは要件を申し上げた。
「すみません。先ほどお電話差し上げたモグラと申します」
「あら、いらっしゃい。××さんの旦那さんね。カットの予約で良かったかしら」
玄関で迎え入れてくれたのは、
40代後半と思われる茶色のサロンエプロンを着た美容師の女性だった。
ウルフカットのグレーヘアの髪に、口にはマスクをつけ、目はアイラインで切れ長にしていた。
「今日はカットですね。担当させていただくシマリスです。よろしくお願いします」
ボクは、シマリスさんの挨拶に対し、軽い会釈をし、
そのまま、ヘアカットを行う椅子の位置まで案内され、散髪マントを上からかぶせられた。
「モグラさん、髪を切るときだけ、少しマスクを外させていただいてよろしいでしょうか」
「別に差し支えはありませんよ」
そう言って、ボクは、口元のマスクを外し、ズボンのポケットにしまった。
「旦那さん、今日は珍しいですね。なぜ、急に髪を切りに?」
「妻から、髪を切るように催促されてね」
妻と、シマリスさんは美容室で知り合いになり、
シマリスさんはボクのことについて、妻を通して知っているらしい。
「髪型はいかがなさいますか?」
「短めに切ってもらっていいよ」
ボクは、そう言って、前回髪を切った後の、
スマートフォンの顔写真をシマリスさんに提示した。
「かしこまりました」そう言って、シマリスさんはスタイリングスプレーを持ち、
ボクの髪の毛に向けて噴射した。
「すみません。少し濡れます」
「ええ」ボクは、シマリスさんの言葉に軽く返事をした。
「お身体の方は大丈夫ですか?」シマリスさんは尋ねた。
「三途の川に片足を突っ込んでいますね」ボクは冗談交じりに答えた。
「自分が死ぬかもしれませんのに、ずいぶんとユニークな方ですね。
奥さんからのお話どおりです」
マスク越しで表情が読み取れないが、美容師は笑っているようだった。
「旦那さんがそんな調子ですと、奥さんは非常に悲しみますよ」
シマリスさんは、ボクの髪をすきながら言う。
「ボクは、妻には幸せになってほしいので、
ボクが死んだ後は、もっと妻を大事に思ってくれる人と結ばれてくれればいいと思っているよ」ボクは他人事のように、シマリスさんに答えた。
シマリスさんは、愛想笑いを浮かべながら、
エプロンから別のハサミを取り出し、真剣な目つきで、ボクの髪を切っている。
しばらくして、シマリスさんは、ボクがネットで小説を投稿している件について尋ねた。
「モグラさんは、ネットで小説を執筆されているそうですね」
「うん、完全に道楽だけどね」
「モグラさんって変わってますよね」シマリスさんはいう。
「なぜ、モグラさんのような、知的で有能な人が、
社会生活を楽しくないなんて言うんだろうなあって」
「ボクは、高等遊民だからね」
「ごめんなさい。勉強不足で。その「高等遊民」とは、どんな人なのですか?」
「まあ、学問や芸術にかぶれて、まともな社会生活を送れなかった人間たちさ」
「ふふっ。面白いですね」
ボクは、シマリスさんは、こんな調子で会話しながら、美容室で髪を切ってもらっていた。
第9話 宥恕を乞う
<25>
「モグラさんの、書いた小説、読んでみたいですね」
シマリスさんは、目を半月型にして言った。
「多分、ボクの書いた小説はシマリスさんが期待する内容のものではないですよ」ボクは言う。
「ふふふっ。私、みんなから変わってるねって言われるんですよ。この前もモグラさんの奥さんに、シマリスさん、あなたって占い師みたいな人ねって言われましたもん」
「ボクもシマリスさんのこと、変人だと思っていますよ」
「あら、どうしてですか」
「ボクみたいな畜生にも慈悲の言葉をかけてくれる」
「それがお仕事だからですよ」
シマリスさんは、一旦手を止めて、360°の方向から、ボクの頭を見て、ボクに鏡を向けた。
「今、こんな感じで、カットしてみました」
シマリスさんは、細い手首が見え隠れする腕で鏡に映ったボクの頭を見せてくれた。
「ボクらしくないイメージになりましたね」
ボクは、若干照れた表情でシマリスさんに感想を述べた。
「もう。モグラさんの頭を担当するのは大変だったんだから」
シマリスさんは、ボクにわざとらしく嫌な顔をする。
「それは、どうしてでしょう」ボクは、意地悪っぽくシマリスさんに尋ねた。
「モグラさんは頭がヨーロピアンだから」
「ヨーロピアン?」
「日本人は、頭にハチがある形が多いんだけど、モグラさんは長頭型なの。ホラ、ヘルメットを着けたとき、どうも頭に合わないと思ったことはないかしら」
「確かに、自転車通学の時のヘルメットだったり、メーカに勤めていた時に支給された、工場に入るときのヘルメットは、どうも自分の頭に合わなかったですね。でも、それは、ボクが普通の人と価値観が外れているから、こういう風に認識してしまうと思っていました」
ボクはシマリスさんの指摘に納得してしまっていた。
「あなた、女の子だったから、女優さんにだってなることができた骨格なのよ」
シマリスさんは、もったいなさそうにボクに言う。
「そういえば、髪を切る前にボクの頭をしきりに触っていましたね」
「あなたの頭の形を堪能してたのよ」
「ボクが死んだら、頭蓋骨だけ、シマリスさんの家に置かせてもらってもいいですよ」
ボクは冗談交じりにシマリスさんにいう。
「縁起でもないこと言わないの」シマリスさんは、そう言いながらも、笑いながらボクの相手をしてくれた。
<26>
「私、息子をなくしているのよ」神妙な顔つきで、シマリスさんはボクに言う。
「妻から聞いています、今年でちょうど20歳になるはずのお子さんですよね」ボクは答える。
「2年前に、他界したわ。ずっと病気がちで、医者からも20歳まで生きられるかどうかだなんて。生まれたときから、息子は先天性の病気だったの。外遊びもできず、ずっと病室暮らしだったから、暗い子だったけど。すごく優しい子だったわ。私が夫と離婚して、私一人で、息子のことで悩んで。息子を産んだ自分のことを憎らしくさえ、思ったわ。それでも、息子は私のことを気遣うばかりか、私に希望を与えてくれた」
「優しい息子さんだったんですね」ボクは、目元に涙が溜まっているシマリスさんに、そっと言葉を返した。
シマリスさんの息子さんのことは、妻から聞いていた。
息子さんは生まれつきの病気で、シマリスさんの旦那さんは、
病気の息子の存在を目の前の現実として受け入れることができず、生後まもなくして、離婚。
そこから、シマリスさんは女手一つで、息子さんと向き合ってきた。
「息子も、モグラさんといっしょで、小説を書いていたの」シマリスさんはボクに言う。
「そうなんですか」ボクは、気の利いた返事が浮かばず、そうシマリスさんに答えるしかなかった。
「息子は恋愛小説を書くのが好きだったの。今ごろ生きていたなら、かわいい彼女でも作って、楽しい学生生活を送っていたでしょうね」
「ボクは自分が生きているのが恥ずかしいですよ」そう、ボクはシマリスさんに漏らした。
「息子さんのような、何の非がない者が夭逝し、ボクのような自分勝手な人間が今生きている」
「モグラさんは自分勝手ではないわ」シマリスさんは、ボクに言う。
「モグラさんはすごく純粋な人よ。理不尽で不平等な社会をひどく憎んでいる。そのやりきれない感情を小説という形式で表現している。違うかしら」
「シマリスさんは、聡明な方なんですね。ボクはヨーロピアンにも負けない個人主義者で、エゴイストですよ」ボクは、シマリスさんの言葉を否定するかのように、素っ気なく答えた。
「モグラさんは自分をエゴイストだと受け入れているし、何より、自分の頭で考えることを放棄しない人だと思っていますよ」シマリスさんは、素直に言葉を受け止めることのできないボクにそう言う。
「シマリスさんの言葉に救われました。ありがとうございます」
散髪マントをボクの首から外し、床に落ちた髪をきれいにするシマリスさんにボクはこう言った。
ボクは、レジの前で4,200円ちょうどをコイントレーに置き、会計を済ませた。
「また来ます」ボクは、美容院から出るときにそう答えた。
「いつでもいらっしゃい」シマリスさんは、接客スマイルとはまた違った笑顔で、ボクの帰りを見送ってくれた。
<27>
ボクは、家の鍵を開け、妻のいるリビングに入った。
「あら、さっぱりしたじゃない」妻はボクの顔を見るなり、そう言った。
「君の行きつけの美容院はいいところだったよ。シマリスさんが担当してくれた」
「シマリスさん、元気そうだったかしら」
「いろいろ、つらいことがあっただろうから、本当のことは分からない。でも、ボクの前では明るく振る舞っていたよ」
「あなたとシマリスさんの息子さんは共通の趣味があったし、きっと話も合うと思ったのよ」
「ボクは、シマリスさんの息子さんほどできた人間じゃないよ」ボクは、妻にそう言う。
「あなたは自分の優しさに気づいていないだけよ」妻は、こう口にしてリビングを後にした。
「買い物に行ってくるわね」妻は、車のエンジンをかけ、買い物に出かけていった。
ボクは、パソコンの電源をつけ、
小説投稿サイトに、あと何ページ入力できるか分からない、自身の小説に文章を連ねた。
久しぶりに社会的な交流を行ったおかげもあってか、今日のボクは書く余力があった。
ボクは、この余力のある間に、ヴェイユさんにコメントをしたいと考えていた。
>ヴェイユさん
>
>お元気ですか。高等遊民です。
>今日は、体調が良いので、久しぶりにまとまった量の小説を投稿することができました
>
>ボクの<創作をすると死に至る病>は、
>社会生活と両立することで症状が快方に向かうというのは、本当のようです。
>でも、きっとボクの症状はまた元に戻るでしょうね
>
>ボクは今日、髪を切りに行ったのですが、
>美容院の女性から、「あなたは自分勝手な人間ではない」と言われています
>妻からは「自分の優しさに気づいていない」と言われています
>ボクは、自分を偽って生きている人間ではなく、自由に振る舞っていたと思っていたので、
>他者から、そんな言葉を頂いて素直に受け止めることができていません
>
>ボクのような、自由に生きていた人間が、他の人に相談するなんて大変自分勝手ですが、
>ヴェイユさんにだけ、胸の内を明かしたいと考え、コメントさせていただきました
>
>ボクは、<許された>ことがないのです
>この事実をどう受け止めればよいでしょうか。
>
>高等遊民
ボクは、言葉だけが頼りの、ネット空間で、
ヴェイユさんの<許し>の言葉をただ待ち望んでいたのだった。
第10話 恩寵
<28>
投稿をして30分ばかり経過して、ヴェイユさんからボクの編集画面に返信が来た。
>高等遊民さん
>
>ヴェイユです
>コメント拝読いたしました・・・
>
>「自分が何者であるかを分からないうちに、人に理解してもらおうなどと思うべきではない」>(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』)
>
>高等遊民さんは自分の優しさにようやく気づいたのですね。そして、無遠慮にも私から許しを>得ようとしている^^
>それでも、私はそんなあなたを<許し>ましょう。
>
>シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』から以下、引用いたします。
>「悪は神秘の根源であり、苦痛は知識の根源です」
>「本当になんでも話せるのは、二、三人のあいだだけでしょ」
>
>私からも高等遊民さんにお伝えしたいことがあります。
>ラシーヌの一節です。
>「私が抵抗できたでしょうか、希望を砕くあなたの魅力に」
>「何ですって!」
>「私はあまりにも踏み込みすぎました。分かっています。理性がこの激情に屈しているのです。>でも、沈黙を破り始めたのですから、続けなければなりません。あなたにお伝えしなければな>りません。一つの秘密を。私の心は、もうそれを閉じ込めておくことができません。」(Phèdre-Jean Racine)
>P.S.
>今日、美容院で髪の毛を切りに来てましたよね
>すっかり、男前になったと思います
>私も、気合いを入れて担当させていただきましたので
>また、いつでもお尋ねくださいな
>ヴェイユ
<29>
それは、突然のことだった。
シマリスさんは亡くなった。
死因は睡眠薬を過剰摂取したことによるものだった。
シマリスさんに身寄りはいなかった。通夜の予定も未定だ。
妻とボクは、シマリスさんが営んでいた自宅兼美容室の前に花を手向けた。
美容室の周りには、自治体の人間が遺品整理を行っているところだった。
ボクの中で何かが<ぽっかり>空いたような気持ちだった。
「シマリスさん、天国に行ってしまったね」妻は、嗚咽をこらえながら言った。
「今ごろ、死んだ息子さんのそばにいるさ」ボクはそっと妻に対して言った。
「私は彼女の理解者になってあげることができなかった」妻はボクの肩によりかかり、目元には熱い滴が、ボクのスウェットを濡らした。
「彼女は懸命に生きた。全身全霊をかけてね。ボクは彼女が死ぬ直前に、本当の彼女を見た。彼女は、何も思い残すことなく、天国へ旅立った」ボクは、もたれかかる妻のつむじを見ながら、そう言った。
ボクと妻は、美容院の前に花を手向けた後、静かに家へ戻り、コーヒーを飲んでいた。
結局、人は自分の抱える秘密を他者と共有することができない。
たとえ、その営みが<創作>という手段であったとしても。
外は雨の匂いが充満している。
しばらくすると、小雨が昼過ぎから降り注いだ。
妻はボウッとした様子で、録画していた韓国ドラマを見ていた。
ボクは、パソコンの電源を入れ、何事もなかったかのごとく、
いつも通り、ネット小説の編集画面を開き、キーボードをタイピングしていた。
<30>
>人は、誰だって、凄惨な現実を前に、仮の―ペルソナの自分を演じている
>社会という巨大機構を前に、ボクたちは役者になり、
>日々、ペルソナの自分を演じているのである
>生きるというのは客商売のようなものだ。
>出会う人間、降りかかる出来事を選ぶことはできない
>現代社会は、本当の自分を曝すには、あまりにも障害が多すぎる
>だから、本当の自分は静謐な、<創作>の蘊奥の中に閉じ込めておかなくてはならない
>今日、ボクの愛しの人が死んだ
>ボクは全身全霊をかけて、このやりきれない感情を表現する義務があると考えている
>たとえ、そうすることによって、我が身が朽ちたとしても
それから、ボクは、かなりの文章を自分の投稿画面に綴っていた気がする。
電源のつないであるパソコンは、
ボクの手が動き続ける限り、ブルーライトの光を発し続けている。
人間は神の近似であり、写像に過ぎない。
ボクらが生きる社会というのも所詮は虚構に過ぎないのだ。
ボクに、虚構の中の偽りを問いただすことなどできるだろうか。
人間一人の力では、無理なのだ。押しつぶされてしまうのだ。埋もれてしまうのだ。
ボクらは虚構を構成する、存在などするはずのない一般法則を仮定し、
それに服従するしかほかにないのだ。
それでも、抗いたいのだ。
押しつぶされたくないのだ。埋もれてしまいたくないのだ。
<創作>をすることで、死に至る運命に直面したとする。
創作をすることで、悲劇的な結末を迎えるかもしれない。
それでも、ボクは運命に抗いたいのだ。
ボクは、目の前の現実を受け入れたくないのだ。
ボクは、<自由意志>を所持していることを確かめたいのだ。
ボクは、途中から小説投稿の画面で遺書を綴っていたようだ。
ボクのパソコンは、ひとりでにブルーライトの光を発し続けている。
その後、ボクがどうなったのか、ボクは知らない。
<完>
創作をすると死にいたる病