悪党の花 ──藤村安芸義のピカレスク──(未完)

未完です。

  1

 藤村安芸義のような男の死に様には、何か金属的にカンと晴れわたった、青く乾いた虚空を連想させるよう、往々ひとは死の時(きた)れば空われて、しろい光に導かれるイメージ想うけれども、かれの如き男には、そんな恩寵来やしない。ただうす暗くほの青い現実が、のっぺりとかれを照らすのみである。しかしその風景に、ある種花の香気を曳くものがあると夢想するのもまた、人間の情といえるのかもしれぬ。
 悪党。
 そうであった。確かに、そうであった。如何にも犬死の相応しい、魂の堕落した男、良識の意味において、良いところなんぞただ一つとなかった。かれ、もしや幸福に生涯を終えたならば、現実の理不尽なるもの、むしろ逆説的に証明したかもしれぬ。然り。そういうことも、現実にはあるものだ。現実というものは、むしろ理不尽であればあるほどに、剥かれ磨かれる如くに美しい。しかしかれは死んだ、惨めに、おぞましい形状で、けがらわしい路上に横臥わって。
 かれはこの犬死という生の終点、もしや意図していたのかもしれない、藤村は無頼にしてまさに組織の駒と利用され、そのうごきはビリヤードの如く細心の計画と技術を込められた人工的なそれであった、その死に方に、意外性なぞあるわけがない。かれは組織に所属しない悪党だった、武闘派だった、いわくグレーゾーン、ひとに悪を投げつけるものは、悪を投げかえされる覚悟をしなければいけないものだ。殺した人間は数知れない、むしろこうでなければ、悪人の最期としての様式は成り立たないであろう。
 然るにこの幽かに薫る花のいきれはなんであろうか──そいつ、けっしてかれの為したありとある悪行を肯定しやしない、だが、この鼻のつくような死骸のにおいに混じった、魂の流した鮮血の薫、それ地獄で視た薔薇のそれにもみまがうほどの、鮮明な美をもって我々に迫るよう。
 作者はこの花の形状・薫・色彩・音楽を(はっきり)と識るために、かれの生涯、先ずもって死の風景画より逆算し次に起点を把握、そこからの轟くが如く凶暴なうごきを綴って畝のように不合理な陰翳をうつろう生を追い、かの「花」の正体、この文章全てを賭けて追及してゆく所存である。

  *

 ──いち輪の花をもつ女があった、藤村の死骸のかたわらであった。
 とすると、かれはもしや、ひとを愛したか──まだ、判るまい。
 女は、まるで仄かなマリアの霞のようにかれの骸に淡く蔽いかぶさり、その情景は荘厳な瞼がしゃんと銀の音立て降ろされたかのよう、されば一粒、唯一粒をその清んだ眸からかれの石膏の如くざらついた硬く淋しい頬を熔かすように落し、罪と悪を冴え冴えと映えさせるように濡らしたかと想うと、さながら夏の俄雨、さっときえ往くようなてばやさでゆびで拭い、先刻まで泣いていたのが嘘のような毅然とした顔をし、すたすたとその場を去ったのだった。

  *

 藤村は南の治安の悪い地域、いわく福岡の都心から離れたところで産み落とされ、秋善という似合わない名をつけられた。秋に産れた児よ、善く生きるのだ。そんなメッセージがあったようだ。
 後年、かれは当然のようにこの名をきらい、安芸義というパンキッシュな異名を非公式に名乗るようになったが、しかしかれ、だれからも藤村としか呼ばれやしなかった。
 藤村──はや、そいつ記号であった。
 有償の暴力・殺人をひき受ける、死をも恐れぬ荒くれ者を暗示するそれ。そもそもかれに、名前なるものが似合うわけがない、何故といい、名というものは本来所属と他者との区別性を説明するものであるが、藤村、けっしてなにかに所属することに耐えられるような人間ではない、くわえて、生粋のワガママ、もてあます凶暴な血、とくに鍛えずとも隆々と盛り上がり暴力の意欲迸る肉体、この「個性」なぞという胡散臭い領域から見事幼稚そのものへ堕落したような根源的(プリミティブ))な性格に、しっくりと似合う名前なぞないだろう。やはりかれ、アウトローに産れついたといえるのかもしれぬ──ここ、保留と懐疑が必要だ。
 幼稚園から不登校であった、時々現れたが、気に入らないことがあると劇しい暴力衝動のままに園児を殴り飛ばし、誰のいうことも聞かず、時に教諭へもささやかな筋力とその年齢にしては卓越した狡猾さで暴力を行使した。むろん体力には雲泥の差があったが、大概その周到な準備によって、そいつは成功したのだった。前述したように、かれは時々しか来なかったので、幼稚園教諭はいつ「あいつ」が現れないかとわなわな怯えて過ごし、終業になっても姿を現さなかったら、ほっと一安心さえしたのだった。
 幼少期、藤村は殆ど幼稚園に行かないために、まっさらに垂れ流されたような時間をもてあまし、すれば大自然に、さながらびっしりと菌の付着した穢い蝙蝠の如き心持で、べったりと張りつき疎外のいたみを感受しながら過ごしたのだった。緑と青、ほか様々のとりどりの色彩豊かな美しい大自然に縋りついた、黒々とわななく異形のわが身。そう、みずからを見ていたようだ。然り、自己憐憫である。かれにもやはり、淋しさと甘えがあったようだ。否。その孤独と体力、残虐性故に、組織の連中から強いとみなされることも多かったかれであるが、むしろそれ等、かれの宿命ともいえるほど根源にわだかまった、藤村の弱さともいえたのかもしれぬ。
 お世辞にも栄えているとはいえないこの福岡の田舎では、大自然と不良少年だけは必要以上に存在していたのだった。かれ、とりわけ珍しいタイプではなかったようである。唯、不良グループに所属することを、激しくきらった。徹頭、徹尾、一匹狼であった。
 砂漠のような果てのない砂浜に、わが淋しさを、祈るがように埋める。そんな心持でかれ、海辺の風景に横臥して、その不在の愛情で胸をひらくような海と空を眺めるのを愉しんだ。家庭でも学校でも鼻つまみ者、かれを愛する者なんてただ一人としていなかったようだが、しかし、六歳程度のかれであっても、この海の孤独が絶対的な観念であるということ、救いのない救いに身を沈めることは、ある種の憩いをかれに与えてくれるということを、本能的に嗅ぎとっていたのかもしれない。
 かれはあらゆる生命は孤独をコアとし疎外に繭と覆われていて、孤独ではないもの、すべて結びつきの幻想ではないかと疑っていたのだった。十四で童貞を喪った時、かれはこの仮説はもしや間違ってはいないのではと疑った、何故といい、情事なる行為とは、ある種孤独をぶつけ合い叩いて双方から昇る音楽と結び委ねさせ、あたかも魂の深い領域で交合したかのような錯覚、孤独の不連続性なるものを仮に溶かして誤魔化すような、奇異な作用を与えるように感じられたから。情事ですら、交合の幻とちかとえるがための、淋しさと淋しさのぶつかり合いでしかない。思い遣りというものに欠けているせいだろうが、かれには、そう想えた。
 小学校に入ってもほぼ不登校、友人もできず、藤村は崩れた服装で週に一度程度登校すれば、上級生に喧嘩を売り、用意周到に武器を隠しもったかれ、すべての喧嘩で負けなかった──勝った、とは、いい切ることができぬ。というのも、けっしてかれすべての喧嘩で打ち負かしたわけではないし、あるいは暴力以外の尺度を持ってきさえすれば、あらゆる物差し、かれに「敗北」を測り突きつけていたから。卑怯。喧嘩のやり方は、そうですらあったようだ。故に旧い任侠道をさえも、かれの行為を劣悪だとみなした。競争社会の脱落者(非参加者か?)、日陰者、アウトサイダー、嗚。そうであった。
 あれ程までにも残酷な方法で、しかも事前の法律の学習により警察沙汰の領域をぎりぎりでとびこえない程度で抑える暴力のやり方、校内のかれの評判は地よりも低く、なんとか会に入るほか将来はないと憎々しげに噂され、しかしかれ、評判なぞというものはやどうであっても好いのだった。ひとに評価されたいという欲望がないのではないのだ、もしや他者からそれを受けたならば、或いは愛されたならば、ごくごく普通に喜びをえるのが藤村である。かれ、そんなしろものをはなむけされること、はなから諦め切っているのである。老年。もはや、そうであった。その少年、キラワレ者の、老人であった。自分は愛されない種族、制御不能な、良識からはみだす衝動に生まれついた種族、絶対的に社会に適合できない種族として既に自己を定義し、シャッターを降ろし外界からしんと閉ざしている淋しい少年、そいつが藤村秋善なのだった。
 学校にも行かず図書館にかよい、ひっそりと、読書をした。やがて月が昇るような風景をみた、剥かれ剥がれるが如く世界が異様な燦きを以てかれの眼前に迫った、美しいといい切ることはできぬ、しかし、むしろ硝子盤のような壮麗な現実というものを視、その天蓋の向うのまっしろな光と音楽を夢想した。されば憧憬というもの、そいつへちからいっぱい、無為に腕を振るようになった。
 真、善、美。
 かれはその、科学的な哲学の界隈において時代遅れの匂さえする言葉に、光を、みた。音楽を聴いた。肉体の深みから昇る、音楽の如くのびのびとひろがらんとするそれ等への欲望と、天に張りつめられた三の光の絵画との、ふしぎな、絶対的に連続しえない調和をみた。不連続の、生命の俗性・蒼穹の聖性とのいびつな不協和音、馴染まぬ色彩のかっとみひらかれるようなどぎつい印象風景、ぎこちなく、双方の乖離のあしおとさながらのグルーヴと、いまにも平伏せよと要請するがようなバッハの荘厳なオルガン、それ等光と音楽の共同舞踏、それかれの官能を(きつ)くきつく締め打つ絶世のしらべであったようだ。あらゆる人間を軽んじ、世間を傲然と白眼視する非行少年の藤村、あろうことか、それ等を尊敬さえしちまったのだった。
 されば藤村は、自己を、「誤り」と「悪」と「醜」の種族であると定義したのだ、世界は健常であるがゆえに、天の絵画のそれとべつの意味での真善美、すれば三の世界観の色彩は変貌し醜い罅に割れ、天は金属音を立て遥くとおくに跳ねあがってかれを撥ねつけた、世界、そして世界に不適切なかれ、だんだんに乖離して往ったのだった。現実が痛ければいたいほど、激痛に軋みながら、疎外者の乖離の意識を深めて往った。生が余りに痛かったゆえの適応の意欲、そうともいえるかもしれないが、そいつによって為されたこいつ、もしや呪いであったのかもしれぬ。
 というのもこの疎外の苦しみ、少年期を一時的に生き抜かせるためのそれであったのだけれども、かれ、生涯それから逃れることも能わなかったのだ。
 家庭はかれには辛かった。毎夕毎夕、帰りたくない、帰りたくないと泣きそうになりながら、疵だらけの脚をむりにはこんでいた。寝る場所がないからであった。草花のうえで寝ると、いつ誰に復讐として襲われるか分らないのである。
 愕かせるであろうか?
 藤村の両親は、至極、真っ当であった。経済的に、常識的に、家系的にすら、申し分なかった。
 良識を守り、ひとと協調し、しかし、ひとにどう想われるのかというものを病的なまでに怖がる体質で、かれ等、息子が不良であることを受け容れられる筈もなかったようだ。また、秋善の苛立ちやすい憂鬱な気質は父親譲りで、かれはしばしば息子や妻、使用人に暴力をふるっていたのだった。いつも眼元に暗みを籠らせていた、頬は石膏のような粉状の冷たさを示すよう、唇は柘榴さながらに紅い、その表情のうごきには、まるで銀に照るナイフのような鋭利な暴力の匂を漂わせていた。こいつ等、悉くが秋善に遺伝したようである。父は地元では名が通る国立九州大学の法学部を出た経営者、事業の調子は上々、誰もがうらやむ家庭をつくりあげたというパブリックイメージがあり、本人の自尊心も昇るように太った、しかし、秋善は家を、否、「家」という概念さえをも、炎ゆるように劇しく憎んだ。秋善、この家の癌のような存在だと噂されていた。
 藤村家は旧い武家であり、また当時、まだそいつを誇って当然だった時代・地域でもあった。かれは、そういう教育を受けたのだ。かれの反社会性とそれとの関連を語りえるものを作者は所有しておらぬ、しかし、そういった右翼的なものが余りにかれに合わなかったこと、それをいい切ることができるのである。されば秋善はヤクザなる任侠道を標榜する集団に入ることを徹頭徹尾拒み、家にも、親分なる悪党の首領にだって一切の敬意を払わず、唯金銭等の損得でのみその勢力と関係しみずからの身を危険に晒したが、何がなんでも組に所属しないという決意をさせた、いわば所属する集団全体への愛なものへの憎悪、旧日本的なものへの絶望、おそらくや、少年期の環境、いや、嫌悪と憧れに起因しているのかもしれぬ──ひとの思想は、おのおのの嫌悪と憧れに追従するのではないだろうか? 所属する集団への愛への拒絶乃至絶望は、かれのモットーとさえいえるようだ。
 武士道教育というのは、作者の独自研究であるけれども、いわく本来備わっている人性への全否定である。ワガママを体罰で叩きたたき、元来の形状を圧し潰すという教育である。「これをやりたい」、されば暴力。禁止。すれば武士道という様式に縋るよりほかのない、破る勇気さえない、家全体をみれば甚だ強く、個人をみればすこぶる脆弱な、ものさびしい奴隷戦士ができあがるのだとかれはかんがえた。従うことに、あろうことか安心をおぼえるようになるのだ。
 秋善はつまり、ワガママがすぎたのだ。みずからの思想・行為を外部に決定され、否応なしに従わねばならぬことに、血の沸き立つような憤りを覚えた、鬼のような自己本位、血が、滾るほど熱く、どうしようもなく、凶暴であった。湧き上がる衝動を出発点に、煮詰め瑕つけ硬質に固着させ、背骨に銀の液そそぎこみ、さればわが戒律を構築する、そんな生き方がまだ向いているのかもしれぬ。

  *

 八歳で、母が病死した。ここに特筆すべきことがないことが、かれの女性観をむしろ雄弁に、詳らかにものがたるようだ。母との関係は希薄であった、憎しみ、それをすら薄かったようだ。

  *

 十四歳であった。父を、殺そうとした。
 愛してすらいない、そう想っていた。愛してくれなかった。そう憎んでいた。こいつは逆算すれば明瞭たる姿で自己欺瞞を理論的にあかるめるのに、かれ、どうしてもそれから逃げ、互いの愛の不在を信じていたようだ。愛されていないというのがかれの現状の片側の説明となりえ、愛していないというのがかれの精神の片側を埋め、作者からすれば、思考の義務からの逃避であった。
 家に誰もいない、秋善、独りきりで父の帰りを俟っていた。扉の近くに佇み、鍵音、頭に血が昇る、扉がひらけば父という中年の男の腕をぐいと引っ張って玄関に叩きつけ、暴力が開始された。
 白い、石膏のざらついた壁が、のっぺりとそのシーンを囲い視ている。そいつは巨きな白目のようで、ケタケタ無言で花のように嗤っている。…
 ──無我夢中で父を撲りながら、かれは、なにか炎の如くに噴きだす、憎悪のままに従われる外部への凶暴な迸りと逆流して、しずかな、神経的な、かぼそくも強靭な繊維のようないたみを感受した、それ渦巻く観念にも似ている、いわば、肉体的に無感覚のそれであった。良心。けっして、そうとは、いえまい。いっては、不可(いけ)ない。唯、敢えて名づけるのなら──愛を巡る何らかの疵。それであるかもしれぬ。
 こつぜんと逆流したしずかないたみ、背を蔽い被さるようにあたたみの光として圧しつけられた、ふっと躰くずおれて、くいと背を折り血の散った父の腹を抱きすくめる、あたたかみの光・冷然にして無機質な音楽との神経の軋むような乖離の情、秋善を激痛と襲い、ついに幼児さながら泣きじゃくりはじめて、はや、表情を変えることなき父の頬を大切そうに掌で包んだ。はや骸と化したかれを、抱き竦めた。吐きだす息はうす汚れ、むっと臭く、浮くように淋しかった。
 愛していた、そう、気づいた。劇しく、はげしく憎むほどに。愛されていない、そんなたかが推測で、たといある程度がそうであったとしても、愛が不在しているというたかがそれだけのことで、恨みをもち殺さんと、幾十も拳を振り下ろすほどに。
 脳裏で追憶が昇る、幼少期であった、父とふたりで蛍を見にいったことがあったのだった。ふだん支配的で、つねに苛立ち、優位に立つことに執着をして、すこしでもプライドが傷つくと不機嫌さを蝿音のようにブンブン振りまく父親をかれ嫌っていたが、「危ない」、そういって、かれのちいさな掌を、そっとにぎってくれたのだ。果敢ない風が流れながれて、それ、はや流るるままに往ってしまった。肌をかよわき光と辷るそれであった。して、緑を越え、森の深みへ這入り、暗みが降ろされて、その間中かれ等の掌は結ばれていて、やがて、蛍が現れた。かよわき星のようであった。どこかあたたかみのある、ほうっと果敢ない命の光であった。憧れにも似ていた。霧消する運命だと教えてもらった。そこにはやはり、父にとって何か右翼的な美学ともいうべくものがあったかもしれないが、この風景、焼き付けるほかはないのだと、秋善はくるおしい想いをした。蛍のみではなかった。掌の、あたたかみの光を。利き腕の逆、左手であった。かれは父の殺害以来、左手を暴力に使ったことがない、死に至るまで。約束。「わたし」との、約束であった。
 俺は、愛されていたのだ。唯、もっと、愛されたかったのだ。愛されて、愛されて、充分に愛され赦されたという実感のふかふかとあたたかい寝台に寝そべって、ぐっすり睡ってみたかったのだ。それだけだ。嗚。それだけであった、かれのいたみは、平凡であった。それ故に、世にも痛いくるしみであったのだ。
 かれは父という「藤村家」の王の流す鮮血に濡れた、罪ぶかき呪われたオイディプスの手を眺めた、照る月光をちらちらとうつろわすようにして、様々な角度でそいつを視、ましろい艶はなかった、罅割れた薄灰の荒んだ手は乾いたようにぺりぺりとそが光を剥ぎ落し、あらゆる健全な光を撥ねのけるよう、ただ深紅の鮮血だけが染むように似つかわしく、貴様は賤しい身分の秩序から外れたカインなのだと、まるでカタカタと金属を降らすような不穏な音で讃えていた。俺は生涯幾たび手を洗っても──と、かれはかんがえる。この罪を剥ぎ落すことは、不能なのだ。
 然り。殊勝である。
 ここにひとつの、余りにも数すくない、秋善の美徳が発見されうる。
 かれは気付いたのだった、はや、自分をこのように愛してくれる人間はいないのだと。みずからの手により葬ったのだ、自業自得、そうとしかいえないのだと。

  *

 ある幸福な人間たちが考えるよりも、一部の子供の流す涙というものは、大人のそれよりも大粒で、渇ききり、しかも冷たいことがある。作者はこれを、断言する者だ。
 もしそんな読者がいたとしたら、作者は、全身全霊でその感覚の存在を肯定しよう。あなたは苦しんでいる。あなたは確かに苦しんでいる。そうだろう。君がそう想うなら、そうなのだ。地獄は世界に宿らない、ひとの眸に疵と宿る。主観でいいのだ、アルチュール・ランボオの『地獄の季節』を読むといいよ。すれば共に生き切ろうと、哀願しようじゃないか。それでいいのだと、苦肉の貌で現状と君のいたみを肯定し、それをもまるっと愛するほかはないのだと、わたしは呻くよりほかの方法論を知らぬ。
 ひとの人生には、他者には視えぬ文脈が、必ずやある。されば不可解を不可解のままにし、もしかれが愛する他者であるならば、そのままに抱き締めるしかない。

  *

 少年院。集団への強制的な所属。それは、時が経てば経つほどに、自分は父親に似ていると実感をするための必要な手続きであった、かれがこれまで逃げていたことであるが、他者と関わるということは、他者と自己の差異、類似、位置等をおしえ、自己の再生を促すこともある。かれはわが気質に、憎しみと、嫌悪と、甘えと自己憐憫の交合して産み落とされた、それ等へのどうしようもない愛らしさをおぼえるのだった。父の気持、いたみが解った気がした。かれはたしかに猛省をした、しかし、善良な市民になぞむしろなる気はなかった。
 嗚、復讐。世間へのそれ。そんな気分にすら、ならなかった。生き切る。唯、そいつを決意した。
 時々、青空をみた。美しいと思った。女の衣服を暴行と破り裂くように、ズタズタに引き裂いてやりたくなった。青空をすら、自分よりも優位に立っているということが憎たらしく、しかもそいつ、地上の苦痛をしりめにあっけらかんと美しさを誇っている。ステファヌ・マラルメは幼稚であった、実は俺よりも犯罪者的だ、そんなふうにすら思えた。
 父親殺しは、たとい少年であっても、重い罪である。しかも父は社会的に申し分なく、幾らかの家庭内暴力はあったものの、殆どの原因が秋善の気質と努力の欠如、そして残酷性であると裁かれた。なまじ本を読んでいるかれ、「法的善悪と道徳的善悪はべつだ」と薄汚い声で吐き捨てたが、しかし、どんな道徳がかれを善だと裁くであろうか?

悪党の花 ──藤村安芸義のピカレスク──(未完)

悪党の花 ──藤村安芸義のピカレスク──(未完)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-11-17

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