『柔らかな舞台』/『INSPIRER』
一
意識という観測地点が自然に覚えてしまう主体性の感覚は、別の意思主体を前にしてそのままでは保てない。なぜなら社会生活を送る上で必要となるコミュニケーションの形成には、各人がそれぞれの仕方で認識する世界にどうしても生まれてしまう偏向性を調整して一時的にでも理解可能又は共有可能な「世界」として語り合う余地を作り合う過程が欠かせないからだ。喩えるなら知覚と共に得てきた感情経験でコーティングされた世界に対する意味認識の濃度を薄め、他人のそれがこちらの世界に浸潤することを許す。あるいは互いのバックボーンを擦り合わせてフリクションを解消し又はその表面に生まれるざらつきを滑らかにする努力をする。さらには大小さまざまなタイルを敷き詰めて誰もが歩ける道を作り、材質の異なるものをバランスよく積み上げてモザイク豊かな床や壁として雨風凌げる建物とする。そうしてやっと朧げな姿が見え始める一時的で仮想的な「世界」の元、肩を並べて過ごす時間と場所が実体としての形を現実のものにしていく。次第に生まれる「それがある」又は「それが当然だ」という行為主体の態度。それがどんなに残酷な現実をもってしても消し去れない可能性を「世界」の只中で育むから、コミュニケーションは現実と可能性との間の堅固な架橋を果たす。コミュニケーションの本質はこの点にこそある。
偏向性の調整に必要な主体性の感覚を疑うことをイメージすれば、遅刻するのが嫌だからいつまでもぬくぬくとしていられたはずの布団の中から這い出てきてその身を勢いよく真冬の早朝に投げ出し、肌を刺す寒さに耐えることに似るが、自らの身体とは別の自然的原理に基づいている(としか思えない)意思を持った現実的存在としての他人又はその主体性を否定し難い意思活動を示唆する視線といった挙動が齎す「自分だけではない」という単純な心象が働きかける主体性の譲歩は間違いなく社会性の萌芽となるだろうし、翻って「私」に対する問いとして深まってもいくだろう。その起源が不明瞭な「私」と「私」が出会うからこそ人としての成熟性を促せる。その一歩が豊かなものにならないはずがない。
さて、上記したところに従うなら不特定又は多数人に向けた表現物の制作に取り組む者が撮影のために被写体に向けるカメラのレンズによって代替される他人としての視線こそドキュメンタリー映像には欠かせないと主張することができる。なぜならカメラ=他人の視線を直に向けることで被写体の主体性を丸裸にし、生(なま)の真実を映像と音声で記録できる。要するにそれは撮影者と被写体との間のコミュニケーションの有り様をこそ記録すべきことになるから、ドキュメンタリーとしての映像表現はそれぞれの主体性を暴き立てることを核心とすると考えを発展させることが可能となる。答えとなるべき現実を捉えることに専心するなら、この手法によるのは妥当といえるだろう。
しかしながら、ドキュメンタリ―映像の意義についてこう考えることはできないだろうか。すなわち他人の存在ないし視線で暴き立てる前の、被写体が文字通り「生きる」極めて主体的な世界の実際を可能な限りで記録して、観る側がいつか当事者として対面するその時の振る舞いを決定できる重要な資料とすること、それこそがドキュメンタリー映像の真の価値ではないか。被写体と撮影者との間のコミュニケーションの結果としてでなく、被写体と鑑賞者が将来にて行うかもしれないコミュニケーションの形成に向けて何をすべきか、何を心掛けるべきかという準備段階を彷徨う有意義な視点としてのドキュメントとなることを何より目指すべきなのではないかと。
かかる見方を採用する時、カメラのレンズが代替する他人としての視線はかえってドキュメンタリー撮影の目的を最も阻害する要素となる。寧ろコミュニケーションに臨む当事者の手元に渡るべきテキストとしてドキュメンタリー映像を残すのなら、脚本ありきのフィクショナルな映像表現を駆使してアナザーな現実「世界」を記録することが最善の選択になるだろう。そして生々しさを保つ生きた資料の延命の為に欠かせないのが被写体の主体性を尊重することと裏腹である以上、カメラのレンズが代替する他人の視線を逸らす為に施されるべきトリッキーな工夫がドキュメントの全てを決める。
二
あらかじめ用意された文献の、指定された箇所を朗読してもらう「マウリッツ・スクリプト」又は「彼女たちの」で採用される手法。あるいは伝統音楽の分析と現代的視点に基づく再制作や出演者間の対話を踏まえたテキスト又は家族史を読み上げてもらう「ヒア」で採用された手法。さらには映画音楽の学生や卒業生たちと一緒に撮影する中で、原色パネルの重複効果と物と人の位置関係をクロスさせる即興的表現を行った「オブサダ」におけるアプローチ。
東京都現代美術館で開催中の『柔らかな舞台』はオランダ生まれの映像作家、ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ(以下、「ファン・オルデンボルフ」と記す)が手掛ける映像作品を展示する。
ファン・オルデンボルフは移民大国であるオランダで深刻な問題となり得る移民とアイデンティティの関係や映画業界に旧態依然として蔓延っている男性優位の家父長的な体制にまつわる問題又は舞台を日本に移してジェンダー問題に取り組んだ二人の作家、林芙美子と宮本百合子のそれぞれの出自や辿った経歴の大きな違いを基軸に世代や国籍を異にする人々の間で交わされる意思と言葉を瑞々しいテキストとして掬い上げようとするのだが、主として出演者間で交わされる議論の場面の合間に先述した朗読や音楽演奏といった表現行為を介在させる。
カメラを前に行われるこれらの行為は、そこに台本があるにせよそうでないにしろ、求められる表現の域を出ない。ゆえにある種の型に嵌った演技に類するものとしてスクリーン上に流される。しかしながら、それがかえって議論の場面でどことなく漂うカメラの前の出演者の凝りを打ち消すから不思議で、行為メインのシークエンスにおいてこそ撮られる側の主体性が剥ぎ取られているのではないかと錯覚する程にリアルを担保する。テーマを掘り下げるという目的からすれば余計な遠回りとしか思えないこのパートを観ている間にドキュメンタリ―として把握されようとしていた「現実」が波打ち際に追いやられ、論理的かつ一方的に刻まれた痕跡の問題ぶりを露わにする。つまりは映像の向こうで繰り広げられている議論に参加している人々の間でのみ交わされる言葉によってそれらが残されたという事実が明滅させるシグナルに気付けるだけの時間的余裕が、ファン・オルデンボルフの映像表現では繰り返される。ゆえに可能となる正解か否かに向けた判断の留保、観る側に生まれる慎重さが生ける資料としての価値を高める。
かかる価値に関しては、ファン・オルデンボルフが映像表現に講じた理解を阻む仕掛けについても言及しなければならないだろう。例えば「彼女たちの」の画面上に異なる映像を同時に走らせるために施された左右分割の画面編集や、バウハウスで学んだ女性建築家と社会活動家としての側面をもった女性文筆家の二人がそれぞれに取り組んだ建築と人種を巡る思想的不協和音を取り上げる「二つの石」においてファン・オルデンボルフが仕掛ける、本編を流すメインスクリーンの下方に字幕表示の小さなスクリーンを配置し、リアルタイムな会話や声の日記を忙しなく流して観る側の情報処理を困難にする工夫は設営上のデザインとして鑑賞者の目を楽しませる一方で、取り上げられているテーマに対する答えないし主張を見えなくする。何が言いたいんだろう?という疑問の感触を引きずったまま次々に始まる場面を観なければならないために、各映像作品が何度も読み直さなければならないテキストぶりを増していく。愛読すべき本に匹敵するリピートを、だからウェンデリン・ファン・オルデンボルフは手掛けた各映像作品に対して求めているといえる。観る側の世界の露わにする資料ではないからこそ可能となる価値の保ち方をかの映像表現者が計算尽くで実践していると評価できる。
三
表現手法によって内包される可能性の大事さはTOKYO INTERNATIONAL GALLERYで開催中の友沢こたお(敬称略)の個展、『INSPIRER』でも存分に拝見できた。
以前記したように、彼女の絵画表現は質感たっぷりのスライムをモチーフとなる人若しくは人形に覆いかぶせ又は部分的に占有することで可愛らしいシルエットの異形を露わにしたり、あるいは骨肉が形作る造形美を妖艶に際立たせることをメインとしつつ、他方で透明度の高いスライムが歪めてでも伝えるモチーフとの接触面における豊かな色彩表現を極めて絵画的にかつポップに楽しませるものである。
かかる絵画表現の基本線は本展でも変わらない。しかしながら、展示されている作品のどれからも画面外の事柄を表現するために画面上の全てが描かれていると感じられて、その絵画表現の可能性に心が躍った。
例えば顔つきやシルエットのいずれにおいても可愛らしさを隠さない二体の人形のそれぞれをスライムで覆った対となる作品では、その一方で不透明な乳白色のスライムを唇を尖らせる口周りでのみ解放し、他方で真っ赤なスライムに全身を覆われた人形の平然とした顔つきと崩れないポージングを透かして表現する。かかる二枚の好対照からイメージしてしまう呼吸と窒息の相性の悪さは人の生死に直結するのだが無意識に行っていたはずの呼吸を装着するマスクの下で、掛けている眼鏡を曇らせながら行う妙な気まずさがまた内心で面白く、観る者を巻き込むその仕掛けにはしきりに感心した。また友沢こたおの絵画表現として筆者が特に感銘を覚えるスライム内部での色彩表現についてはたっぷりと波打つドアップの一枚があって、それを楽しめる充実した時間を過ごせたのだが、しかしながら本展のハイライトとして特筆すべきはモデルとなった人物の顔の上からスライムを垂らした絵画表現から伝わる(と筆者個人が錯覚した)「人間」存在の強さである。
恐らくは画家ご本人がモデルとなったと思われるモノクロームの一枚にて粘度の高さをたっぷりと表現する真っ白なスライムが強調するのは、しかし奇妙や滑稽といった感情的反応ではなく、その器となったかのように見えるモデルの物的存在感であり、また纏められた髪の毛の質感であった。その隣で鑑賞できる一枚においては、漂白されたかの様な色味と埋まったかの様に見えて仕方ない首周りの不自然さで陶器を想像させるモデルがその顔に真っ赤なスライムを貼り付けて、物としての光沢を美的に保ち続ける。そのさらに隣にある一枚はチューブから出したかの様な直線的な形のスライムを三本ずつ、モデルとなった人物の目と口の辺りに縦に並べるだけの表現ぶりであるために、最も人物に意識を引っ張られる作品であったのだが、会場で感じ取ったその凄みをどう言葉で表せばいいかは今も迷う。腫れた唇に見えると意地悪く揶揄できそうなスライムとモデルの共演も、ダイレクトな情報として感知してしまう「その人」の肌実感に解消されて筆者の中で穏当になる。匿名性のケースに包まれて、「その人」は一般的な魅力を露わにする。それが余りにも好ましくて夢中になって鑑賞してしまった。有難いことにギャラリー内では撮影が許されたのでかかる一枚も写真として記録したのだが、そのイメージを何度見直しても直に覚えた内なる感触を再現できない。だから筆者としてはこの一枚は実際に目にすることを強く勧めるが、その感動は画家の表現手法の懐の深さと等価だと記すことだけはこうして行えるからこれまた不思議なのだ。
四
鑑賞した時に思ったことをこうして記すことを筆者は好むが、それは表現者が行ったことに覚えた感情的経験を追いかけてこそ味わえる楽しさなのだと常々思う。
予めこうだとかああだとか言葉を尽くして観るのでは迫れない何かがあって、それに迫れたとは決して思えない不満足な感じが尽きることのない想像力への信頼を生んでいる。それを強く感じて、それを心から楽しんでいるから、絵画としての正統性でも話題集めでも何でもいいので、作り手においてはまずは自分と向き合って好き勝手にして欲しいと願っている。それを追いかける心情面でのドライブがあらゆる分野からの素晴らしい批評をも生むのではないかと期待もしている。だから、こと表現に関しては主体性なんか剥ぎ取らなくていい。由来不明の不鮮明な存在として関われる「世界」こそが最も求められる謎なのだから。
そのことを確信できた『柔らかな舞台』と『INSPIRER』であった。興味があれば是非、会場に足を運んで欲しい。
『柔らかな舞台』/『INSPIRER』