美術室のセンパイ
母親のいない卒業式は、昨夜までの極寒が嘘のような小春日和だった。教室に吹き抜ける風はわずかな涼しさを頬に含ませ、いよいよ卒業なんだという高揚感と、痛みに近い寂しさを湧き上がらせる。眼の前の黒板には、三原色と白をふんだんに駆使した彩色文字が浮かんでいる。
『三年二組の皆さん 卒業おめでとう!』
あの粉の集合体に、心はこもっているんだろうか。私は、昨年美術部にて大っぴらに叱られた記憶を蘇らせていた。
なぜだか私たちは、何処へ行くとも知らぬ三年生に共同制作の絵画をプレゼントすることが義務付けられていた。たとえコンクールの期日を控えた有望部員だろうと、家に小さな弟妹を待たせている孝行部員だろうと、「共同制作」という名の受け継がれる呪いは私たちをがんじがらめにしていた。
私はそれが嫌で嫌で、体調不良という最終兵器を酷使して窮地をしのいでいた。しかしとうとう、というか当然に、サボりを怪しまれる段階へと至ってしまった。先輩方からは冷たい視線を浴びせられ、同級生との距離も次第に遠ざかっていくのをひしひしと感じていた。
そこに現れたのが若草先輩という現人神だった。彼女は純朴な顔つきをしている穏やかな少女で、長い黒髪の先端をうっかりキャンバスにひっ付けては、しばしば底抜けなレモンイエローに染めていた。
「すずちゃんたちも無理しなくていいんだからね、卒業制作」
彼女は事あるごとに慈悲の手を差し伸べては、我々のすさんだ心を潤してくれていた。彼女ならば、「この悪習を滅ぼしたい」という願いを聞き入れてくれるやもしれない。願望に近い展望を抱きつつ、ある日、放課後の空き教室にて先輩へ頭を下げた。
「あのっ、私が卒業制作になかなか参加できないって理由、先輩の口から言っていただけないですかっ。というかこの制作自体、後輩たちの自主参加だってことを知らしめたいんです」
「……どういうこと?」
「こんなのおかしいと思うんです。私だって、みんなだって塾とか習い事で忙しいのに、なんにもならないことに時間を費やして、足の引っ張り合いばっかりして、それで出来たものを貰った所で、先輩方だって嬉しくないんじゃないかって」
「そう……そうかもしれないね、すずちゃんの言うことも……わかる気がする」
彼女の歯切れの悪い返事は、おもむろに私の表情を輝かせた。
「じゃ、じゃあ、言っていただけるんですかっ!」
「う、うん。一緒になんて言うか、考えよっか」
「はいっ!」
私たちは夕陽の差した教室にて、顔を付き合わせて喋り続けた。気づけば橙色の顔は薄暗く染まっていて、私は二人の間に育まれた秘密を大切に抱えながら、彼女に別れを告げたのだった。染み付いた孤独なんか消え去ってしまっていた。間違いなく私たちは絆で結ばれているんだと、しみじみ感じていた。
そう、信じていたのに。
一週間後。私は久々に美術室へ足を運び、意欲的に共同制作へ参加しようとしていた。それは芯のない気まぐれではなく、若草先輩の口利きを信じきっていた故の行動だった。先輩には「時間がどうこう」とは言ったものの、私は別に、この活動で青春が浪費されていくことなんてどうでもよかったのだ。「所詮は部活に行こうと行かまいと、母親の愛情を受けられない時点で、私の人生に『充実した青春』はないんだ」。それは自己洗脳の賜物だった。
仲の良かった友人たちが、暗黙裡の強制労働の中で浅ましく変わっていく。意欲的でない者を蔑み、過度に働くことを当然とみなす。私はその様をまじまじと見ているのが辛かった。昔読んだ小説に、無人島に漂着した少年たちが次第に狂乱し、ついには殺し合いに至ってしまうものがあった。美術室はあの孤島とよく似ていた。
でも先輩の行動のおかげで、彼女らは重圧から解放されているはずだ。完璧には呪いを解かれていないとしても、紐で繋がれた行動範囲くらいは広がったんじゃないか。
「ねえ、すず」
不気味なほど波のない声が聞こえ、私は思わず固まってしまう。それは毎度のように絶対零度の視線弾を撃ち込んでくる、七原という同級生の女子だった。彼女は美術部カーストのてっぺん近くに腰掛けては、我らが学年のリーダー的な役割を務めていた。もちろんそんなポストは誰も頼んでいなかった。しかし彼女は「仕方ないなぁ」と言った風にムノウな私たちを統率し、私たちも甘んじて彼女の支配を受け入れていた。
私は別に彼女を嫌っているわけではなく、むしろどんな形であれ、積極的に私へ構ってくれる様には安心すら覚えていた。が、あの頃は話が違った。彼女の視線が「共同制作から逃避する私への批判」を示していたのは明白だった。案の定、次のセリフは針のごとく鋭い一発だった。
「なんで共同制作に来ないの?みんな大変だから手伝って欲しいんだけど」
「ごめん、塾とかあって、お父さんも塾代、出してくれてるから、サボれなくって……」
「何それ。塾あるのはみんな一緒だし、だから先輩への感謝を示すために我慢してやってるんじゃん」
意味がわからなかった。後輩たちの苦しみ足掻く惨状を披露することが「先輩への感謝」なのかと思ったけれど、当然そんなはずがない。
言葉に詰まっている隙に、彼女は批判のナイフで何回も私を殺した。作為的な大声が室内に響き渡る。
「すずちゃん、先輩のことも同じ学年の子たちのことも、本当はどうでもいいんでしょ?そんな態度でここにいるなら、部活辞めてもらった方がいいよ。私たちはあなたと違って真剣だから」
知らぬ間に、部屋中の眼差しは束になって私を刺していた。風景画を描いている先輩も手を止め、スマホとにらめっこしていた後輩もそれとなく横目で一瞥し、談笑に花を咲かせていた同級生も明らかに私の方へと意識を飛ばしていた。
その視線に込められた感情は何か。私への怒りか、哀れみか、同情か……。どちにせよ当時の私には、全てが敵と化したようにしか思えなかった。四面楚歌である閉鎖空間から逃げ出そうと、思わず目線は廊下へ続く扉へと向いてしまっていた。
たまたま、本当に偶然に、若草先輩はそこにいた。彼女は分厚い英単語帳を机に開きながらも、色白い顔だけはぼうっと私を見据えていた。不意に、二人の視線は衝突してしまった。
彼女は私にとっての蜘蛛の糸だった。この生き地獄から抜け出す方法はただ一つ、彼女が私を庇ってくれる以外にない。今にも萎れそうな心をグッと持ち直して、私はじっと、彼女の茶色い瞳へと期待を寄せた。
しかし次の瞬間。
垂らされた糸は、いともたやすく千切られてしまった。彼女は何も言わずにプイッと顔を背けると、単語帳をギュッと抱え、美術室から逃げるように去っていったのだ。現状を把握しきれぬまま、私の鼓膜に非難の声が轟々と響いた。
「ねえ、ぼうっとしてないでなんか言ってよ。ちゃんと参加して部活を続けるか、それともみんなのために辞めるか。今決めて」
一刻も早くここを出るための選択肢は分かり切っていた。
いつしか空っぽの心の中では、私が言ったはずの言葉が何度も繰り返されていた。
「じゃあ部活、やめるよ」
異端部員への注目の視線は、異邦人を追い払うような斥力へと化けていく。その様がなんとも気持ち悪くって、七原による落胆と侮蔑入りのため息を背に、私は美術室の外へとスタスタ歩いていった。もう、若草先輩の姿はどこにも見えなかった。
その後、帰宅部の仲間入りをしてからずっと、私は彼女に会いたいと思い続けていた。会ったところで何がしたかったのか。本意の追求か、巻き込んでしまったことへの謝罪か、今の私にはもう思い出せない。
ただ一つの事実として、若草先輩は卒業を前にして美術部を辞めてしまったらしい。その後はなんの巡り合わせか、友人から聞いた彼女のクラスを訪ねても、学校中を探し歩いても、あの物静かな後姿を見つけることはできなかった。
そんなこんなで、とうとう私の卒業する番が回ってきても、胸中では一塊の心残りがしつこく存在を主張している。私と彼女を繋げるものはこの中学の景色以外にない。私はこれからもずっと、彼女のイメージを更新できないままでいるのだろう。
和やかな笑顔と、逃げる背中と、どこかくすんだレモンイエロー。
美術室のセンパイ