琳派と継承
一
人の身体の外で息づくものを知覚する。その動く様を目にし、動く度に立てる音や発する鳴き声などを耳にし、生命をもって活動するその物的存在感や肌で実感する気配にも触れてこの世の他律的側面を認識し、自然という名の、未知と期待と畏敬が混和する世界の扉は開いていく。
風に吹かれる命が繁茂する野山を駆け抜け、好奇心を胸に抱いて行う生態観察はときに理解という目的の元で人間社会のロジックを無遠慮に振るう行いを人に許してしまうが、その最中においても思わずその手を止めて、目の前で起きていることを只々じっと見つめてしまう瞬間は訪れる。種の存続に向けて営まれている向こう側の振舞いを具に見つめ、花咲く色や現にとどめている草木としての形に意識を把握され、ひいては心を奪われて見惚れたままに動けなくなる。移り変わる四季折々の変化が大きく残す日々の折り目から遡り、指で掬えるものに向けて覚えたり又は思い起こされるものの言うに言われない感触の軽みが不明瞭な言葉を刺激して、目の前の事象を特別なものにしていく。
感傷的なものであれば、それは実に個人的な体験だろう。けれど図らずも開いた紙面の上に気持ちを乗せたまま動かした手で写し取ったものを見る度に、描いた本人以外の誰もが同じ感情を抱いてしまうのだとしたら。
複雑な形をした対象も、各部分で把握し得る単純な図形的特徴を複合させて認識するという情報処理過程が人の身体一般で行われているという知見に基づけば、五官の作用で認識する自然の形は見る人によって違わないと考えられる。ここに3D映像を作り上げる視差のある左右の画面から、ほんの一コマのズレも見逃さない精緻な視覚作用で認識できる図形的な整序に対して人が覚える美しさをも加味すれば、誰もが感動を覚える自然描写というものが成り立つ可能性は否定できない。
例えば商品に施されるデザインの有用性などは、かかる可能性に根拠を置くといえるだろう。消費者となる誰もが思わず手にしてしまうデザインによって他の商品との差異を図り、購入への動機付けを働きかけて購入後の商品価値を体験させ、シンボリックな記憶に基づく再購入を促す。これらの過程のいずれにおいても欠かせないデザイン性は不特定又は多数人の間で同じく認識されると仮定するからこそ、一般的な評価も期待できる。そうしてこそ問題解決手段としてのデザインの意義は十全に果たせる。あるいは人の一般的な身体的機能の上で捉えるデザイン性だから時代や文化を超えて評価され、相互に影響し合って踏襲されてくといえるのだろうし、その時々の時代的要請に応じた独自の発展を遂げても何ら不思議ではない。
その画風に、優れたデザイン性を認められる琳派の発展は正にそうだと指摘できる。平安期の王朝文化を結実させて花開いた安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した本阿弥光悦の書に金銀泥絵の下絵を提供してクリエイティブな競演を行なっていた俵屋宗達が下絵図工から画家へと転身、薄い墨が乾く前に上から濃い墨をたらし、敢えてにじむらを作り上げて面的な広がりをボリュームよく表現するたらし込みなどの画期的な画風で描いた作品を残した。それらを尾形光琳が模写して学び、独自の表現として究めていった技芸を、さきの俵屋宗達の作風と共に模写して学んだ酒井抱一がさらに引き継いで、発展させたのがいわゆる江戸琳派。他方で、図案家であった神坂雪佳が大胆な翻案を施して明治時代の遷都により衰退の一途を辿っていた京都工芸の文化の中で琳派の画風を復活させた。これらの展開には狩野派のような血縁関係が全く関与しておらず、100年跨ぎの時代的なダイナミズムが認められる。
空間的に追えば琳派の表現の影響は国内にとどまらないのも特徴的である。例えば20世紀初頭のアール・ヌーヴォーが取り上げる植物文様からして琳派らしさを認められるし、あるいは2001年発行のエルメスのブランドPR誌の表紙には神坂雪佳が描いた「八つ橋」が採用されており、社会的文化的な違いを超えて評価される表現ぶりを肯定できる。その一端をパナソニック汐留美術館で開催中の『つながる琳派スピリット 神坂雪佳』展で存分に堪能できるのは、だから貴重な機会といえる。
たった一つの点を乗せるだけで生まれる絵画の空間性に、モチーフとなる植物の枝葉や蔓又は花弁の様子が描く直線美ないしは曲線美を際立たせるように配置する。古来から人々に好まれてきた四季の風景を彩る鳥などの生き物の形象の美しさにも同じ視線を送り、バランスよく登場させて画面外の時季を提示する。図形的美の上に乗せられる社会文化的記号の象徴性は金紙の背景で特に目立し又は落ち着きを齎す銀紙の上では時間経過を神秘的に遅らせる。
酒井抱一の「桜に小禽図」や、筆者が敬愛する速水御舟にも影響を与えた鈴木其一の「春秋草木図屏風」を鑑賞していて感嘆したその空間構成力は間違いなく写実性に優れた高い技術力に裏打ちされたものと素人目にも直観できる程であり、琳派に括られる画家全般に適用可能な評価軸といえる。しかしながら琳派が真に優れているなぁと実感するのは画家がその遊び心を発揮して心地よさげに描いたのだろうという想像を掻き立てる、今でいうヘタウマの表現を画面いっぱいに展開する作品を目にするときであった。
例えば中村芳中の「白梅小禽図屏風」ではたらし込みを生かして描かれた幹の異様な存在感に対して幹に止まる小鳥又は咲いた梅の花の描写の、簡素に過ぎる印象が作品全体の感想を凸凹にし、かの小鳥の赤き嘴が代表するどこか憎めない抜け感が諧謔精神をとにかく刺激して愛着たっぷりの評価を口にさせる。
あるいは神坂雪佳の「狗児」では柔らかい輪郭線で包まれるよう描かれた二頭の子犬が太く伸びた竹の隙間に白と茶色の身を置いているが、そのうちの白の一頭は地面を這う目の前の蝸牛を興味津々で見つめている。そのつぶらな瞳が追う蝸牛は画面奥に進んでいる最中なので、その丸いフォルムの殻と二本の角を幼き頃の感覚で鑑賞者に把握させるが、その様子を捉える画面上の真っ黒な竹と真っ白な子犬との間の色彩的な位置関係も手伝って、その様子が愛らしく思えてくるところに茶色の一匹と合う目線。振り返った格好でこちらを見つめるその子犬もまた蝸牛と変わらない興味を鑑賞者に向け、同等のものとしてこちらを取り扱い、結果として皆が等しく絵画の中に導かれる。視線の交差という仕掛けの上に描かれた「狗児」に込められた遊び心は緩めた頬で温まる人の心情をしっかりと予見して写実から適度な距離を保った三本の竹の、真っ直ぐに育った時間にその背中を預けて心から寛ぐことを勧める。
それは技術的に突き詰められる局地的世界、そこから舞い戻ってきてこそ生まれる余裕。あるいは技術的に高く評価できる箇所と対比してこそその良さを鑑賞し尽くせる、下手な部分。いわゆるヘタウマの絵画表現こそ「絵を描く」ことの上手さに根拠付けられてはいなければならない。
表現主義全般にいえるかもしれない、このヘタウマを巡る対照性は現在、国立西洋美術館で開催中の『ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展』で拝見できたアンリ・マティスの作品を見ていても感じられたことである。例えばマティスの絵画表現を集中的に見れる展示コーナーにおいてその最初を飾る人物の形を描いただけの素描から伝わるものはそこからの展開を幻視させる程の空間性であり、形成されつつあるその密度に思わず唸ってしまった。マティスならではの正確でない人物描写も目を楽しませる装飾性も、骨太な絵画世界を基礎づける空間の上でこそ成り立つ表現であると一気に了解させられる。その表現技法が辿り着いた一つの境地とした思えなかったマティス作、「シルフィード」は死ぬまで忘れないと固く心に誓った一枚であった。
二
絵画表現とデザインを分けるものは何かと考えると、端的にいって手段を講じて解決すべき現実問題の有無になるのだろうが、かかる「現実」をより意識的に掘り下げれば完結した表現物に担保されるリアリティが実物としての商品や対価を支払って受けられる無形のサービスの効用に直結すべきなのがデザインであり、これに対して表現されたリアリティが描き手と受け手の双方を行き来する想像的情報群として共有され、現実的に処理されるのが絵画表現といえないか。
要するに表現されたデザインはその対象となる商品やサービスを書き換えてはならないし、塗り替えてはならない。これに対して、絵画表現は有機的に結合した情報群として鑑賞者の脳内で処理される「世界」を乗り超えていいし、根本的に塗り替えてしまってもいい。つまり絵画表現において「現実」問題は解決すべきものにはならない。その表現にどれだけ優れたデザイン性が認められても、人の身体で接触可能な外界に回帰する必要はない。この点で創造のかぎりを尽くせるもの、それが絵画表現でありかつデザインとの間で引かれるべき一線といえるのではないだろうか。
かかる考えのヒントになるかもしれないと思い出す、神坂雪佳の図案集の素晴らしさとその絵画表現の面白さの違いは会場内にあった。図形的美などの点で共通項の多い表現行為が有する興味深い異和。それを楽しめる『つながる琳派スピリット 神坂雪佳』展を是非ともお勧めしたい。
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