冒険に出る二つの動機

学生時代の習作です。
「落下から始まらない」物語です。

内容にも構成にも文体にも、若気の至り(笑)が充満している気がしますが、この二人の物語は嫌いではありません。
少々長いですが、お付き合い頂ければ嬉しいです。

 口上

 私はこれから一つの文章を書き上げようと決意しているが、それが手記なのか、小説なのか、それ以外の何かであるのか、実はそのあたりがはっきりしない。そんな頼りないことで、どうして文章が出来上がるのかと言うと、それはこれから書き記す内容の殆どが、また別の文書から書き写される物だからだ。
 つまり、その元の文書が、手記なのか、小説なのか、それ以外の物なのか、私には判断できないのだ。
 話がどんどん頼りなくなってしまって申し訳ないが、それでも、一つだけ確固たる事実があって、それは私がその元の文書の中に明らかに「物語」を見いだした、と言うことだ。だから、私が書くものが「物語」であることだけはここで約束できると思う。
 とは言え、そんな事情もあるので、本文に入る前に少し言い訳めいた口上を書かせて欲しい。最初に、私とその元の文書との関わり合いを少し説明しておきたいのだ。
 私が最初にその文書を手にしたのは、高校を卒業する年の六月だった。
 その文書は、大学ノート二冊か三冊かに書かれていた(ノートの数について、はっきりしない理由は後述する)。そのノートは、ビニール袋に納められ、さらにガムテープで何重にも巻かれ、校舎屋上の換気口の中に隠されていた。
 私がそれを発見したのは、二つの偶然が重なった結果だった。
 一つ目は、たまたま、私がその時その場所に居たと言う偶然。二つ目は、一羽の鳩がそこに巣をかけたと言う偶然。その二つが重ならなければ、私はそのノートに出会うことはなかっただろう。
 ただし、前者については完全に偶然と言い切ることも出来ない。実を言えば、私は屋上にしばしば足を運ぶ常連だったからだ。
 その理由は、当時の自分自身には、はっきりしていなかったが、今ならある程度冷静に説明することが出来る。
 大げさに聞こえるだろうが、当時の私にとって、屋上とは自分の存在を再認識する場所だった。
 屋上という場所、そのコンクリートの平面は、四方全てが生死の境界線と考えることも出来る。その境界を一歩踏み越えた瞬間、私は死へ向かって落下することになるからだ。
 そう言う場所へ何度も足を運ぶことで、その境界線を踏み越えないことで、私は自分自身の生を確認していたように思うのだ。それは、勿論思春期特有の偏向した思いこみの結果だったろうし、今の私自身にしても、当時の自分のそう言った心情を、苦笑抜きに思い出そうとすることは難しい。
 ここで、こんな内訳話を書いたのは、その文書と出会った「屋上」という場所が、私にとって「特別な場所」だったことを、少しでも伝えたかったからだ。
 ところで、実はこの出会いの後、私が屋上へそれほど頻繁に足を運ぶことはなくなってしまった。
 それは、屋上がそう言う意味で「特別な場所」では無くなったからだと思うのだが、その理由が、この文書との出会いだったことは間違いない。その辺りの理由を上手く説明することは出来ないのだが、私は、これから書く「物語」のおかげで、死に取り囲まれたような場所へ行く必要が無くなったことだけは確かなのだと思う。
 ともかく、何度も足を運んだその屋上で、聞き慣れない奇妙な音の出所を探す内に、私は屋上に設けられたフェンスの脇に突き出す、その換気口に辿り着いたのだ。
 その奇妙な音は、換気口の奥から聞こえてくる鳩の雛たちの鳴き声だった。上半身を突っ込んだ換気口で私は彼らを見付け、同時に、その巣のそばに奇妙なビニールの包みを見付けたのだ。
 好奇心から、私はその包みを手にとり、中を開いてみた。ビニールの包みにはノートの束が二冊(と、その時の私は思っていた。ノートの数がはっきりしない理由については、この後詳しく触れる)入っており、そのどこを開いてみても、ボールペンやシャープペンシルで書かれたらしい細かな字が黄ばんだページを埋め尽くしていた。
 内容は、手紙のようでもあり、何かを回想しながら記された手記のようでもあり、或いはその体裁を取った小説の下書きのようでもあった。日付らしい物はどこにも書かれていなかったが、ノートの体裁から、少なくとも四五年前の物に違いないことは推測できた。
 書き込まれた内容はかなりの分量で、その日の昼休みや放課後だけでは全てに目を通すことも出来ず、結局、四日間、私は屋上へ通うことになった。
 全ての頁を読み通した後、当時の私は、その内容が私的な体験の記録に間違いないように思った。少し迷ったが、私はこのノートを元あった場所に返すことにした。これを書いた本人か、それを託された人物が、手元に置くには抵抗を感じ、かといって捨てることも出来ずに、あんなところにひっそりと置き捨てていった心情が分かるように思ったからだ。私は、改めてそのノートを元のような形に梱包し、換気口の奥へ戻しておいた。
 その後、鳩の雛は立派な成鳥に育ち、学校に近い神社の境内に放たれた。
 一方の私は直ぐには立派な大学生に育てず、行く宛のない受験浪人として校外へ放たれた。
 再び私がそのノートを手にするのは、一浪して入った大学の三年生が終わる頃のことだった。高校の後輩から、校舎が建て直されるという話を聞いた私は、一寸感傷的な気分で母校を見納めに行き、ふと、あのノートのことを思い出したのだ。
 まだ残っていた顔見知りの教師と少し思い出話をした後、私はあの換気口を目指して屋上へ出た。
 その日は朝から曇り空だったが、その時間には地平線の雲が少し切れ、沈みかけの太陽から放たれる下方からの陽光に染め上げられた雲が、赤い天蓋のように頭上に覆い被さっていた。フェンスによじ登って目指す換気口の中へ手を差し入れると、直ぐに記憶の底に残されていたものと同じ感触があった。
 ノートをつかんだまま、よじ登っていたフェンスから飛び降り、手の中の物を確かめたとき、私は呆気にとられてしまった。
 私が最初に発見したノートは二冊だった。
しかし、その時私が手にした束の中には、三冊のノートがあったのだ。
 私はノートを持ち帰ると、丹念に読み返した。
 そして、信じられないことだが、全てを読み終えた後でも、私はどれが三冊目のノートなのか分からなかったのだ。
 多分、私が最初の発見の時に何故か三冊を二冊と思いこんでしまっただけなのだと思う。全ての文章を読み終えて、その全てに覚えがある以上、それ以外に考えようがない。しかし、私は二冊のノートのどうにもならないほど生々しい映像を記憶している。
 片づかない気持ちを持て余した私は、三日の逡巡の後、一つのことを決意した。このノートの文章を全て書き写すことにしたのだ。丹念に分析することで、私の思いこみの理由が分かるかもしれないと考えたのだ。
 色々考えた末、作業にはパソコンを使うことにした。少しでも時間を短縮できると思ったのと、すでに腐食の進んでいるノートを見て、劣化の少ない形で保存したいと思ったのだ。それで、まず私がしたのは、三冊のノートの全ページをスキャナーに通し、画像として保存することだった。手元で開きながら引き写す作業には、ノートの状態が耐えられないように思えたのだ。
 さて、それから日に数ページの割合で、私はノートの内容を画像からテキストに書き起こす作業を続けた。
 直ぐに気づかざるをえなかった事実は、この元のノートがどうやら一人の手による物ではないと言うことだった。元々、目次のような単なる事件の箇条書きや、一人称の手紙の様な文章、同じ一人称でも小説のように見える記述、といったものが混在している状態だったのだが、明らかに途中から筆跡の違う箇所が少なくとも四カ所見つかった事が決定的だった。しかも、そのそれぞれが、別の筆跡に見えた。
 この時点で、誰かの個人的な手記という、最初の思いこみは完全に否定されていたが、さらに、それらの文章のかなりの部分が、直接ページに書き込まれているのではなく、違うノートから切り取られたページを貼り付けてあるということにも、今回初めて気がついた。時の経過にさらされて、ノートの殆どの部分がぼろぼろに痛んでいるとはいえ、何故最初の時にそこに気がつかなかったのか、私はまたしても消化不良に似た不快感を味わうことになった。
 おそらく、私がこの文章の元にしているノートには、さらにその元のノートが(おそらく数冊)あり、ことによると、その元のノートも、ほかの記録を参照して書かれた物かもしれないのだ。
 そのことで私がなによりも困惑したのは、このノートから私が読みとったと思った物語が、誰によって語られているのか分からなくなってしまった事だった。もしかすると、この文書の中には初めからそんな物語は書かれていないのかもしれなかった。
 ほぼ二ヶ月かけて、全ての文章を写し終わったときには、私は新たな決意を固めていた。
 もはや、ノートが二冊だったのか三冊だったのかと言うようなことは些細なことになっていた。私がどうしてこのノートを再び手に入れようとしたのか、全てを書き写そうなどと企てたのか。それは、最初の時、この文書の中に読みとったあの物語に再び出会いたいという想いがあったからに違いなかった。
 この物語に何故これほどの愛着を覚えているのか、実は自分でもよくわからない。たとえば、それは、旅先で一時だけ邂逅した風景にもう一度出会いたいという気持ちに似ているかもしれない。いずれにしても、私は決意したのだ、見失ってしまった物語を私自身の手で書き直すことを。
 長い前口上になってしまったが、つまり、それがこの文章のことである
 基本的にこのノートの記述は、二人の登場人物が、一人は「私」を、もう一人は「僕」を一人称として、交互に出来事を語り継ぐことで進んでゆく(だから、二人分の筆跡があってもそれは別に不思議なことではない)。手記のようだったり、往復書簡のようだったり、また、あからさまに筆跡が変わっていたとしても、このスタイルだけは変化しない。最初の方で触れた「目次」の様な部分をのぞいて、ノートを埋め尽くす文章は、全て、執拗なほど一人称に固執して書かれているのだ。
 従って、私がこれから書く物語も「私」と「僕」という二つの一人称が混在する物になる。明らかな利点に目をつむっても、三人称を使って小説のように記述しなおす事に、どうしても抵抗を感じたからだ。
 とは言え、単純に出来事の順序通り、時系列に沿ってこの二つを混在させると、余りにも込み入った体裁になってしまうので、ここではセクションごとに「私」「僕」を入れ替えることにした。ある出来事を「私」が語る章があれば、次に同じ出来事、あるいはそれに続く出来事を「僕」が語る章が続く、と言うことを繰り返していくのだ。ただし、それぞれの章の間や、その途中に、三人目の一人称であるこの私が顔を出すに違いないことは予めお断りしておく。
 都合の良いことに、ノートの文章は、あるまとまりごとの先頭に、見出しのような文章、又は言葉が掲げられているので、これを章のタイトルとして使うことが出来る。見出しのないまとまりもあるが、その場合は目次のような部分から言葉を借りてくることも出来る。
 さて、これから始まるこの物語は、ある地方都市を舞台にしている。ここでは名前を****町にしておく。元の文書で使われている名前は明らかに存在しない架空の名で、しかも文中で幾つかの名前が無造作に取り違えて使われている。改めて名前を付け直すのは気が進まなかったので、こういった表記にする。「*」の数なども含めて、伏せ字の選択に特別な意味はない。
 架空の名と書いたが、この物語の舞台の町や、その登場人物たちが実在しているかどうかは、私にとってそれほど重要な問題ではない。とはいえ、私の高校や近隣の中学の通学に使われる路線に、この物語の記述と近い所がないか調べたこと、その結果該当しそうな町を一つ見つけたことは正直に告白しておく。
 さて、いい加減、そろそろ物語に取りかかろう。
 最初の章は「冒険に出る二つの動機」と呼ばれている。これは、元々のノートの、全体のタイトルにも掲げられている言葉である。


 1 冒険に出る二つの動機(私)

 夜明けを待ち侘びて家を飛び出し、始発の電車に飛び乗った。電車を乗り継いで行く度に乗客が多くなり、最後に乗り換えた電車は、途中から通勤通学の人々ではち切れそうな有様になった。
 満員電車は苦手だった。
 車両に充満した人々の視線が苦手なのだ。手元を見たり、中吊りを見たり、窓外の景色を眺めたり、いずれにしても、他者の視線と交差しないように皆が彷徨わせている、その視線が。空いているときならそれほどでもないが、こうやってすし詰めの状態になると、無数の視線はあっという間に飽和して、私に目のやり場を失わせてします。
 今もまた、私は息詰まるような車中の眺めから目をそらして、何の意味もなく膝の上に組んだ自分の手へ視線を落とした。指輪もマニキュアもない手。思ったよりも肌が荒れている。
 ああ、そう、だから私は満員電車が苦手なのだ。飽和した他人の視線に取り囲まれることで、結局、自分の視線も、思考も、自分自身へ内向してしまうから。
 そろそろ私が姿を消したことに家の者が気付いた頃だろうか。何も言わずに出てきてしまったが、まさかこんな所にまで出かけているとは思いもよらないだろうし、今日中には帰れるつもりだから、そんな大騒ぎにはならないだろう。私だってもう子供じゃないのだから。
 それでも、咄嗟に引っかけてきたデイパックに入っている携帯電話の電源は切ってあった。
 そう言えば、化粧もしてこなかった。デイパックに、簡単な化粧品の入ったポーチがあるはずだから、どうしても気になったらそれを使えばいい。
 とは言え、これから向かう町に知り合いがいるとは思えなかったし、何というか、この道行きとお化粧は、ちょっとちぐはぐな感じもする。多分、ポーチの出番はないだろう。
 それでも念のためリュックを開いてみた。
 小さなポーチが入っていることを確かめる。ポーチの脇には、何とかみつけだした昔の年賀状が見える。当面、この変色した葉書だけが唯一の手がかりなのだ。
 その葉書を目にした途端、あの言葉が頭の中で閃いた。それは、あの日以来私が心の中で繰り返し続けた疑問の言葉で、私が今ここにこうしている理由の全てだった。
 「彼はどうして覚えていたのだろう、あんな昔の約束を。」
 確かめるように口の中で呟いてみる。
 潮が引くように周囲のざわめきが遠去かって行くのが、耳鳴りと共に感じられた。

 彼はどうして覚えていたのだろう、あんな昔の約束を。
 あの時、私はまだ物心もつかない子供で、だから、あれは「私」がまだ私でさえなかった遠い昔。
 それほどに昔の約束を、何故、彼は覚えていたのだろう。あの時、既に彼は大人だったから、と言う理由だけだろうか。
 それから二十年が過ぎ、「私」は私になり、彼は死の床について、彼であることを終えようとしている。
 そして、少なくともその間の歳月に彼はその約束について私に何か求めたことはなかった。彼の口からその約束のことが語られたことさえ一度もなかったと思う。多分、彼には分かっていたのだ、その約束をした時、「私」がまだ私ではなかったということが。だから何も言わなかったのだ、私には。
 それとも、もしかすると彼も忘れていただけなのかもしれない。
 最近になって調子の狂い始めた彼の心の時計が、彼自身も忘れていた記憶を蘇らせたのだろうか?
 分からない。
 分かっているのは、白い壁の部屋で白いシーツの上に横たわった彼の口から、あの約束が語られたということ。
 彼の入院は既に二回り目の冬を越え、三度目の春を迎えていた。入院当初の緊張感は既に失われ、今度の私の訪問は、その前の時とのあいだに三月を数えていた。
 いつものように、彼の顔を確かめ、二言三言の会話をし、彼の夕飯を目安に帰って来る、それだけの訪問のはずだった。
 帰る直前、ベッドサイドに置いてある彼の携帯ラジオの電池が切れていないか確かめようとイヤホーンに手を伸ばした時、不意に彼が囁いたのだ。
 夏になったらあの秘密の場所へ連れて行ってもらうのを楽しみにしていると。
 何のことだか分からないままに、私は曖昧にうなずいた。唯、彼の目に一瞬よぎった、最近では見たことも無い強い輝きが気になった。「悪戯っぽい」とでも言えそうな、明確な意志をそこに感じさせられたのだ。
 その光が私を不思議なほど動揺させた。
 もう何年も、彼の瞳にそんな意思の光を見付けたことはなかった。
 入院する少し前から、彼は身の回りに曖昧な霞をたなびかせる特技を発揮していた。これが所謂老人性痴呆症だと、周囲は一様に来るべきものが来たと言う顔をした。一人で良い子を決め込むわけではないが、私には、その霞の向こうに彼が何か鋭いものを隠し持っているのか、それとも本当に彼の心すべてがぼやけてしまったのか、分からなかった。
 もしかしたら彼は人生の終わりを迎えるために、自分の心と周囲の世界とを切り離したいと思ったのかもしれない。
 それが、彼の肉体だけではなく、魂までも失われつつあるということを認めたくない、少なくとも直視したくないという願望にすぎないことは分かっているつもりだ。
 それでも、そんな何かがあるような気がして仕方なかった。
 そして、黄昏の病室で彼の目に一瞬閃いた輝きを見た時、その何か鋭いものが、霞の隙間から垣間見えた様に思えたのだ。
 そして、彼の瞳の輝きと、彼の言葉について考え続けている内に、やがて、私自身の記憶の奥底からも、いくつかの断片が浮かび上がって来た。
 半ば朽ちた石造りの祠。
 プレートを剥ぎ取られ、その目的を失った石碑。
 胸を突くような草むらの中で、その二つのものを見ている幼い自分と一匹の猫。
 そのイメージすべてを包み込む潮騒。
 そこは、私が彼を連れて行くと約束した秘密の場所。
 私は忘れていた。
 彼は何故覚えていたのだろう。
 私は何故忘れてしまっていたのだろう。
 私は、その謎を解かなければならなかった。
 限られた時間の中で。
 彼の命がまだ残されている間に。

 ふと周囲の静寂に気が付いて、私は我に返った。
 いつのまにか、車内には私一人が取り残されていた。視界一杯にひしめいていた人々が、突然消えてしまったという、その錯覚が激しい非現実感を引き起こしていた。
 他の乗客はどこかの駅で降りてしまったのだろう。それがどこかは丸で分からないのだが、そう考えるしかなかった。
 私は現実感を取り戻そうと必死で考えていた。しかし、その努力はどうしてもうまく行かなかった。
 そうしている内に、車内アナウンスが、私の目的の駅名を告げた。


 1 冒険に出る二つの動機(僕)

 車内のざわめきはいつの間にか消えていた。獲寝入りをやめて、ゆっくり目を開く。通勤通学の人を充満させていた車両の中には、今は僕一人。少し派手さには欠けるけどこれが僕の冒険の始まり。
 僕の中学校がある駅を通り過ぎてから、もう1時間以上過ぎている。今ごろは1時限目が終わりかけている頃だ。友達から電話かメールが来ていたかも知れないけど、携帯電話の電池が切れているから分からない。
 そもそも、電車に乗って、携帯電話の電池切れに気が付いたことが、僕に生まれて初めてのエスケープを思いつかせたのだから。
 エスケープ。
 それだけで、僕にとってはもう十分すぎる「冒険」と言えるだろう。
 でも、そうじゃない。それくらいで満足していてはいけないのだ。
 僕は、これから一日かけて、今までの僕を変えてくれるような、昨日までの自分がどこかにいってしまうような、そんな冒険と出会いたいのだ。
 とは言え、高揚する僕の心の中の、その底の方で、簡単にはねじ伏せられない罪悪感が浮かび上がろうともがいている。無駄と知りつつも、ひとしきり忘れようと努力した後で、結局、僕はその罪悪感に正面から立ち向かうことにした。
 時々ぶつぶつと声にしながら、僕は必死で自分に言い聞かせた。

 ・・・お伊勢参りの昔から、日本人は無類の旅行好きだと、どこかで読んだことがある。僕の今日のささやかな旅立ちもそんな血の衝動なのかもしれない。いや、それ以前にホモ=サピエンスという種そのものが活発に移住をする性質をもっているとも読んだことがある。中でも僕達モンゴロイドは、ユーラシアから南北アメリカまで、気の遠くなるような長い旅をしたのだ。凍りついた海の上を歩き、或いは広大な太平洋を粗末な小舟で渡り。
 だから、人間として、僕は冒険をもとめるんだ。もっとも人間らしい衝動の一つに、僕は従っているだけなんだ。だから、なにも恥じたり、うしろめたく思ったりする必要はないはず・・・。

 気が付くと、左右の車窓には赤茶けた地層の帯がダラダラと流れている。
 列車は切通しの間を走っているらしかった。
 不毛な思考の底から眺めると、その光景のあまりにも地に足のついた現実振りは、一寸ショックだった。
 レールの継ぎ目にあわせて列車が歌う規則正しい階音も、心地よく、あまりにも平和に響く。自分で勝手に盛り上げておいてなんだが、「人間として求めた」なんて、壮大な冒険にふさわしいメロディとは思えない。
 追打ちをかけるように、車掌の間延びした声が次の停車駅に近付いたことを知らせた。
 僕は立ち上がる。
 いつまでもこうやっていては「冒険」は始まらない。
 他人の敷いたレールに乗って走ること、それは、今までの僕が飽きるほどやってきたことだ。僕の毎日は、定められた通学路を歩き、定められた学校へ行き、定められた良い子を演じる毎日だった。いや、「演じる」なんてものでさえなかった。何かを演じている、仮面の内側の「本当の僕」はいなかったから。僕の中には「良い子の僕」以外には何もなかった。それは、つまり「僕」なる人間が本当の意味では居なかったということ。
 そこにいたのは、強いて言えば、周りから要求された形を不器用に反復している不思議な生き物。その「形」を教えてもらわなければ、生き物でさえなくなってしまうほどに空虚な何か。
 だから僕には冒険が必要なのだ。
 他でもないこの僕だけがくぐりぬけ、僕を誰でもない「僕」に変えてくれるような冒険が。
 列車が停まる。
 ドアが僕を誘うように開く。
 僕はホームヘ降りる。
 この一歩から、「僕」が始まるのだ。
 満を持して踏み出される第一歩は、何故か地面に届かなかった。
 何が起きたのかまるでわからなかった。
 最初に理解しなければならなかったのは、自分がホームのコンクリートの上に倒れこんでいるという事だった。しびれる様な腕と足の痛みが、声高にその事実を訴えていた。
 「ごめんなさい!」頭上から女の人の声が飛んできた。
 必死で顔を上げると、一人の女性が申し訳なさそうに僕を見下ろしていた。
「ごめんなさい、慌ててたから。」
「あの、大丈夫です。」
女性が僕に手をさしのべる気配に、慌てて首を振って言う。
「本当に、大丈夫です。」
「そう・・・。ごめんね。」
 女性は、頭を下げると、そのまま改札の方へ足早に去っていった。
 まだ痛む手足を、ゆっくりとたぐりよせる様にして立ち上がる。制服の膝が磨いたように光っているが、破れてはいない。裾をまくりあげてみると、外傷にこそなっていないが、膝の下辺りがうっすらと青アザになっている。
 痛みはゆっくりと退いて行ったが、入れ替わりに、何となく落ち込んだ気持ちが首をもたげてきた。
 初めからケチがついた。
 そう思うと、怒りに近いイライラが沸き上がってくる。くるけれど・・・、怒りの風船は膨らみきるまえに縮んでしまった。
 溜め息。
 何とも言えない貧相な気持ちの僕をホームに残して、傍らでは列車が発車して行く。
 帰りたい。
 そんな言葉が不意に浮かび上がってくる。
 それにしても、あの女の人は何をそんなに急いでいたのだろう。

 *  *  *

 ここまでの第一節は、それぞれの一人称の文章がほぼ同じ筆跡によって最初から最後まで書き続けられ、その為か、物語の書き出しとしてほぼ破綻無くまとまっている。元の文章には幾つもの抹消や挿入があるのだが、その殆どは最初の文章と同じ人物の手による推敲の跡のように見えるし、事実、入り組んで並べられていた「私」と「僕」の文章をこうして一つながりに書き起こしても、殆ど違和感がない。
 実際、多くの章が、意外なほど破綻無くまとめられているのだが、その中で問題が多いのが、これに続く第二節である。時間的にも、出来事の上でも幾つかのどうしようもない矛盾を抱えているし、全体としても妙なぎこちなさが感じられる。
 可能な場合は、文脈が繋がるように部分的な修正を私が加えているが、どうしても解決できなかった矛盾については、私の断り書きを挟んで元の文章をそのまま書き写している。
 ここでは、章のタイトルにも混乱がある。それは、本来はこの後の文章が、別々の章として構想されていたことを意味しているのかも知れない。しかし、扱っている出来事の大部分が重複しているので単純にそう納得も出来ない。
 ともかく「ここに居る二つの理由」或いは「交差点/旧家」と呼ばれているのは以下のような文章である。


 2a ここに居る二つの理由(私)

 「これ位のことは覚悟していた。」
 その時の私は、何度も、何度も、そう自分に言い聞かせていました。
 その時、途方に暮れていた私の前にあったのは、ありふれた住宅地の交差点。
 擦り減ったアスファルトの路面。
 所々に錆を浮かばせる褪せた黄色の支柱とその上のカーブミラー。
 制限速度20キロを指示する道路標識。
 これと言った特徴が何一つ無い最大公約数のような交差点。
 その視界に私が探していたのは、私自身の生家です。その交差点の真下に、私のかつての生家が埋まっているはずでした。
 ただ一つの物的証拠とも言える二十年前の年賀状。家中の書類をかき回して見つけ出したその葉書の宛て名を頼りに、私はそこを捜し当てたのでした。
 当時私の住んでいた****町は、今は隣町と合併して市になっていました。私の葉書の住所は、既に十年も前から旧地番になってしまっていたのです。今は存在しないその住所がどこなのか調べる間は、一寸した探偵気分でした。警察や郵便局では分からず、市役所の方で現在の番地を教わりました。
 同時に、私の生家が再開発の波に飲まれてしまったことも、その地域の当時の居住者の殆どが同じ波によって何処かへ洗い流されてしまったことも教えられてはいたのです。
 だから、本当に、これ位のことは覚悟していたつもりでした。
 とは言え、全く別の日常に塗り込められた、徹底した変貌を実際に目の当たりにすると、やはり落胆は大きいものでした。実際にここにたどり着くまでは、風景なり地形なり、何かしら当時の記憶を喚起させてくれるものがあるかもしれないと言う、漠然とした期待を捨ててはいなかったのです。
 彼・・・私の「おじいちゃん」が足しげく通って来た****と言う町は、その跡形さえ残さずに新しい町によって埋め尽くされてしまっていました。
 当時、今よりずっと本数も少なく、速度も遅い電車を乗り継いで、彼は初めての孫に会うためにこの町に通い詰めたという話です。
 この町での「私」の遊び相手は、猫と母と彼でした。
 物静かでいつも何かを考え込んでいる様な彼を、他の孫たちは敬遠しがちだったけど、私は平気でした。それはきっとこの町での思い出があったからだと思います。
 勿論、その後私が長じるに従って、彼の存在も、猫も、共に日常の背景へ後退して行きました。
 だから、実を言うと私は彼のことを殆ど知らないのかもしれないし、もしかすると、自分で思っているほど好きでさえないのかもしれません。
 けれど、彼が私を愛してくれたのは、恐らくは二十年も昔の、「私」との友情があった為。
 多分、それが私の最大の動機だったのです。
 私は遅ればせながら彼が二十年変わらずに示し続けてくれた友情に応えたいと思っていました。あの秘密の場所を捜し出し、彼との約束を果たすことによって。
 その私の前には、私の感傷などではびくともしないほどの、確固たる、ごく当たり前の交差点がありました。
 そして、そこに君が現れたのでした。


 2b 交差点/旧家(私)

 その少年は、かなり長い間こちらをジロジロ見ていた。
 学生服に学生帽が、平日のこんな時間には少し目を引いた。けれども、その実直な制服の着方を見ると単純に学校をサボっている不良少年とも思えない。顔立ちに幼さが色濃く残っているから恐らくは中学生だと思うけれど、その目だけはどうした分けか私を鋭くにらんでいる。別に身の危険を感じるほどの目つきではないが、気持ち良くはない。
 少年はそれまでじっと立っていた電柱の下から離れて、私の方へ小走りに駆け寄って来ると、やおら話しかけてきた。
「どこかへお急ぎですか?」
 間近に近付いて来られて初めて、私は彼に以前会っていることに気が付いた。慌てて電車から駆け出した時に突き飛ばしてしまった少年に間違いなかった。
「そう言うわけでもないんだけど・・・。」そう言いながら、さっきのことを謝るかどうか考えていた。彼が私のことを覚えていたのは間違いない。こうして話しかけて来たのはもしかしたら謝罪を求めてのことかもしれない。
「旅行ですか?」
 私のことを道に迷った旅行者だとでも思ったのだろうか。考えのまとまらないまま、私はその前と同じように嘘にならない程度の曖昧な答えを口にした。
「ちょっとした身上調査をしているんだけど。」
 その言葉を聞いて、あからさまな不審と好奇心の両方が少年の瞳に閃いた。ほんの少しの間、二人の間に横たわる沈黙。けれど、その短い間に私の心の中では、一瞬沸き上がった妄想が停めようも無いほど爆発的に膨らんでいた。
 私はその誘惑に抵抗しきれなかった。
 十分意味ありげに見えるように、わざとらしく溜め息を一つ挟んで、私はおもむろに沈黙を破った。
「実は、ある死にかけた老人がいてね、病床でうわ言を繰り返すのよ。わしは昔ある場所に宝を埋めた、それを掘り出してくれって。痴呆気味の老人の戯言だと思うから、勿論、周りの人間は誰もそんなことは信じなかったわ。」
 再び意味ありげに沈黙を挟み、さりげなく少年の表情を盗み見る。口元に戸惑いのひきつった笑いが浮かんでいるが、まだ話そのものは聞いている顔だ。
「ところが、彼のただ一人の親友は違ったの。勿論、宝なんて信じちゃいないけど。それでも、死にかけている親友のために出来る限りのことをしようと考えたのね。それで、私に探偵の仕事ができたと言うわけ。その老人の過去について調査をするようにって。」
 少年の顔には取り澄ました無関心があったが、それが装われたものであることも、話の続きを待っていることもなんとなく分かった。
「老人が宝を埋めたというのがこの町で、今から二十年前のこと。彼に思い出せた手掛かりは、崩れかけた石の祠、プレートを剥がされた石碑、あとは、そこが草むらで、潮騒に包まれるほど海の近くで、多分岬か何かだったってことだけ。君、もしこの辺りに住んでいるのなら、今言ったことから思い当たる場所がないかしら。」
 少年は少し考えて、首を振った。
 どう考えても彼の生まれる前の話なのだから当たり前だ。
 私は少年に一言礼を言って、逃げるようにその場所を立ち去った。早くその場を離れなければ、顔中に笑いがこみあげてきそうだった。
 詫びを入れさせるつもりで詰め寄って来たのであろう不良少年を、口八丁で煙に巻いてやったと思うと愉快だった。別に、謝るのが嫌だった分けではないのだけれど、今の探偵ごっこ気分に水を差すようで気が進まなかったのだ。
 勿論、全部が嘘という分けでも無い。
 あの場所に宝物が埋まっているのは本当のことだから。ただ、それを埋めたのは私自身なのだけれど。いや、私になる前の「私」が。
 「私」は彼と約束したのだ。母にも内緒の、「私」と、「私」の無二の親友である猫しか知らない秘密の場所に彼を案内することを。そして、そこに埋められている「私」のとっておきの宝物を彼に見せることを。
 この次に彼が遊びに来るときに、そこへ彼を案内する。
 それは、彼が「私」と猫との同盟に加わるための大切な儀式。恐らく彼はそう思っていたのではないだろうか。
 けれども、その約束は果たされなかった。
 私の家族は彼の再訪を待たず****町を離れたから。そして、「私」は直ぐに、約束も、秘密の場所も、宝物も忘れてしまった。
 あの頃の「私」は、とりまく世界のいたるところを秘密の場所にしてしまう魔法を持っていたし、「私」はその魔法を使うことに夢中だったから。
 けれど、彼は忘れなかったのだ。
 私が「私」のことさえ忘れてしまった、長い歳月を経ても。
 再び、私の中に闘志が湧き上がっていた。
 まだ、そんな簡単に諦めてしまうわけにはいかない。
 ふと、私は自分がひどく空腹な事に気が付いた。そう言えば昨夜から何も食べていなかった。とりあえず、何か食べて、せめて考えてみよう。
 一日はまだまだ残っているのだから。


 2a ここに居る二つの理由(僕)

 駅を出ようか、それとも腹痛か何かを遅刻の理由にして学校に戻ろうか、人気の無いホームで僕はかなり長い間悩んでいた。
 膝の痛みはその間にすっかり取れたけど、一旦落ち込んだ気分の方はそんなに簡単には行かなかった。
 それでも駅から出ることに決めたのは、一度思い立った事だから、と言うなんとも優等生っぽい理由からだ。これほどに良い子なのだと、さすがに自分でも呆れたが、その諦めに近い気分も僕が決断するための大きな助けになった。
 僕は少し軽くなった気分で改札まで行き、そこでいきなり絶望的な事実に直面した。
 僕は定期券で電車に乗っていたのだ。
 もちろん乗り越した分を清算すれば駅から出られる。それくらいの現金なら持っている。が、自動精算機が見あたらない以上、清算するには駅員と直接対面し、言葉を交わさなければならない。こんな時間に、こんな駅で、学生服では、僕はサボりましたと宣伝しているようなものだ。駅員に見咎められ、学校に連絡、なんてことになったら・・・。
 実を言うと、かつてこれに似たどんな行為もしたことの無かった僕には、学校に連絡された後に何が待っているのかさっぱり分からなかった。もちろん、そもそも駅員が今の状態の僕を見咎めるのかどうかも何とも言えない。田舎風の堅い教育方針の学校のことだから、既に家へ電話が行ってること位は想像できるけど、両親共働きで家には誰もいないし、それで何が起こるのかはまるで分からない。
 分からないとは言え、分からないなりの漠然とした不安は十分すぎるほどのストレスだ。
 〈せめて車中で降りる間際に清算しておけば良かったのに。〉
 〈大体何故この駅には自動清算機も自動改札機もないのか。〉
 〈あるはずもないけど、私服の着替えでもあれば。〉
 そんな、今更考えても意味のない事と、今の自分が学校や大人にどう取り扱われるか、と言うよりどんな罰を受けるのか、についての様々な想像とが僕の頭の回りをグルグルと飛び回る。結論なんて出るはずも無いこの思考の堂々巡りから抜け出る一番簡単な手段は、反対のホームへ移動して電車を乗り継ぎ、学校へ戻ることだ。
 そうしない理由はどこにもなかった。
 考えて見れば、今の僕ではない「僕」になろうとなるまいと、今日の事でその「僕」なり僕が怒られるのは間違いないのだ。好き好んで怒られたいと思うほど僕だって酔狂じゃない。
 それでも、僕は踏みとどまった。
 「冒険」の側に。
 つまり、僕は全速力で改札を走り抜けていたのだ。
 そのまま息が続かなくなるまで、僕は見知らぬ町を縦横に走り続けた。
 とうとう走れなくなって、電柱にもたれるようにして立ち止まった僕は、息苦しさに霞んだ眼差しを背後に向けた。誰も追いかけて来てはいない。
 何もこんな方法でなくとも、堂々と清算をすれば済んだ事なのにとは、走っているあいだから考えていた。第一、無銭乗車なんて一番みっともない犯罪だと僕は前から軽蔑していたはずだった。
 それでも、何故か僕はひどく愉快な気持ちを抱えていた。そして、その愉快さに戸惑っていた。僕は慌てて高揚した気持ちを押さえ込もうとした。
 せめて顔だけでも厳粛な表情にしようと口元をこわばらせながら、気持ちを引き締めようと改めて辺りを見回してみる。
 これといって特徴のない住宅地。急な運動に汗ばんだ僕には少し暑いくらいの豊富な日差しの中に、当たり前の住宅地が見える限り連なっている。
 額に浮いた汗を制服の袖で拭いながら、僕は一つ隣の交差点に立ち尽くしている人影に目を留めた。
 少しの間、記憶の検索をして、僕は確信した。
 あそこに立っているあの女の人、あれは駅のホームで僕を突き飛ばして行った「彼女」に間違いない。
 そう思うと、もう愉快な気分ではなくなっていた。


 2b 交差点/旧家(僕)

 僕は、勿論、貴女にからかわれたに違いないと思っていました。
 貴女の突飛な話の木霊を頭の中で何度も聞きながら。
 あの時、貴女に話しかけるまで、僕は駅からずっと貴女の行動を追い続けていました。
 僕の冒険の出鼻をくじいた貴女との出会いに、何か宿命的なものを感じていたからです。
 勿論、誰かの後を尾行するなど、穏やかではありませんが、その穏やかでない部分に、いかにも冒険めいた高揚感を感じても居ました。

 *  *  *

(注/ここで、「僕」の行動が前節と食い違ってしまっている。ただし、時間的には「私」が郵便局や市役所や警察署を巡っている間もずっと駅で考え込んでいたとするよりはこのほうが理解しやすい。或いは、「僕」が改札を出てから「私」に出会うまでに、このノートで触れられていない空白の時間があるのかも知れない。とは言え、後の章で改札を突破したことが「僕」の心理描写の中で繰り返されるので、前節の表現が直ちに誤りや脚色とも言い切れない。)

 *  *  *

 ついに貴女に話しかけた時は、僕の冒険の出端をくじいた「貴女」と言う障害を粉砕するつもりでした。貴女が途方に暮れたように立ち止まった時、僕はそのつもりで近付いたんです。だから、痛烈な皮肉のつもりで、ボケッと立ち尽くしている貴女に「お急ぎですか」なんて話しかけました。
 あの時、貴女は僕が誰なのかすぐに分かったはずです。表情にも声にも動揺があったから。
 それで、何かはぐらかそうと、あんな話を持ち出して僕をからかったのだとは、思いました。いえ、確信していました。
 それでも僕の、押さえようもなく沸いて来る好奇心が、貴女のその「でまかせ」に好意とも言える関心を寄せていました。
 勿論、貴女を本物の探偵だとはとても思えなかった。
 別に、女性だからと言うだけの理由ではありません。
 貴女の身にまとう雰囲気には、人生の裏表を見つめ尽くす探偵という商売から連想されるものとは甚だしい落差があったからです。
 大体、探偵という商売に関しては僕にだって色々と思うところがありました。もともと探偵というのは、その原点であるシャーロック=ホームズを思い出せば分かる通り、産業革命以降の近代化された都市に発生した、現代の都市の悲哀をかかえた職業なのです。
 日本においても確か夏目漱石が「近代の不幸は誰しもが探偵のようにならなければならないことだ」なんて言葉を残しています。いかなる縁故もない他人同士の雑多な集積でしかなく、互いの無関心を暗黙の了解として自らの幻想のテリトリーに閉じこもりつつも、その無関心さに耐え切れず互いを盗み見合う。そんな現代の都市生活者の、言わば象徴とも言える職業、「探偵」。
 どう見ても大学生のようにしか見えない貴女からは、そんな緊張感も暗い影も何も感じられませんでした。
 それでも、それが一流のカムフラージュなのだろうかとも考えてはみました。確かに、人の目を忍ぶべき探偵が、いかにも「探偵でござい」って格好をしていたのでは商売上がったりでしょうから。
 けれど、僕は何故か確信していたのです。
 貴女は「探偵ごっこ」をしているのだと。丁度この僕が「冒険ごっこ」をしているのと同じように。そうでなくて、どうして人をからかうのにとっさに「探偵」を自称したりするでしょう。普通の人ならもっとまともな嘘をつくでしょうし、本物の探偵ならもっとうまい嘘をつくに違いありません。
 どう考えてみても、いきなり「探偵」を自称するような人物は「探偵ごっこ」の真っ最中だとしか思えないのです。
 根拠はありませんでした。あえていえば、何の下調べも準備もして来たとは思えない貴女の無謀さ(何しろ手ぶらで、地図さえ広げていませんでした)と、こうして学生服で冒険に出て来た僕の迂闊さとの間に、何か共通した所を感じたのでしょう。
 いや、それよりなにより。
 「探偵ごっこ」と「冒険ごっこ」。
 どちらも同じくらい僕をわくわくさせる言葉でした。
 あれこれと考えながらも、結局のところ、僕はこの後も貴女の後について歩いていました。もちろん悟られぬように。息を殺すようにして。
 一歩間違うとストーカーのようで、自分でもやばいと思いましたが、言うまでもなくあれは「尾行ごっこ」で、僕の頭の中では何故か「シャーロック=ホームズの冒険」という言葉が霧のロンドンを走る馬車の映像と共に渦巻いていました。
 実際、午前の明るい日差しの中を歩きながらも、何故か頭の中の映像はガス灯の点る深夜の街で、僕自身が見つめているのは、どちらかと言えばその夜の光景だったように思います。
 僕は心の中で、コートの襟を立ててついてくるワトソンにむかって語りかけてさえいました。「今彼女は行くべき場所を見失って、とりあえずコンビニを探しているのだ。何故なら、もし彼女が本当に地図を持っていないならば、遅かれ早かれそれを買おうとするはずだし、それならば調査中に腹ごしらえをするための食料もついでに調達しようと考えるのが普通だからね。」
 果たして、辺りを見回しながら足早に歩いていた貴女は、コンビニを見つけるや迷わず飛び込んで行きました。僕は心の中で快哉を叫びました。相棒が心配そうに店に入るかと聞くのにも余裕たっぷりに答えます。
「なに、大丈夫。尾行に気づいて僕らを巻くためなら、出入り口が一つしかないコンビニになんか入らないよ。足取りから見てかなり焦っているからすぐに出てくるよ。」
 思った通りに、貴女は十五分と待たずに通りへ戻って来ました。それも、一方の手に地図と、他方に一見して食料と分かる袋を持って。

 *  *  *

 見ての通り、ここでは同じ一人称でも小説調の文章と語りかけの文章とが混在している。時制についても、前者は現在形で、後者は回想形式での過去形で書かれている。しかし、回想しながら現在形の小説で書かれた文章と、回想をそのままの形で記述した文章と、どちらの文章が実際の出来事に時間的に近いのか、或いは遠いのかという判断をする方法はない。したがって、この文章について吟味してみても、下車してからの「僕」の行動の食い違いについて解決する手がかりは得られない。そこに時間経過の上でも矛盾が感じられる事もすでに指摘したとおりだ。
 この交差点の場面は、「僕」と「私」の出会いの場面であり、このあと展開される物語の要にあたる部分だ。実際、駅の改札は、「僕」の心理的なシンボルとしてこの後も何回か登場することになる。
 a、bとに分けたこの節は、本来は別々の物語へと伸びる異なる枝だったのかも知れない。しかし、最終的な物語がどちらの枝に続くものなのか、私は今も判断できずにいる。
 しかも、この後に、「僕」と「私」の出会いの場面が再び繰り返されてしまうのだ。もしかすると、第三節以降の物語は、この第二節のどちらの枝にも繋がらない、また別の物語なのかも知れない。
 第三節は「波止場/猫の死」と呼ばれている。


 3 波止場/猫の死(私)

 目の前には、コンクリートの堤防で直線的に区切られた海岸線がある。海はテトラポットで埋め尽くされ、少し腐敗臭の混じった潮の香りが鼻一杯に充満している。振り返ると左右に倉庫が連なり、ところどころ、その透き間を埋めるように貸ボート屋だの釣り具屋だのが見え隠れしている。
 非の打ち所のない典型的な「波止場」を前にして、私はまたしても立ち尽くすほかなかった。
 当時、わずかに四歳の私が行動できた範囲は、せいぜい一キロメートル四方というところだろう。それを目安にして、私はとりあえず海岸線を虱潰しに見て回るつもりで地図を買った。
 かつては私の生家だった交差点から、海岸までが直線でほぼ一キロメートル。一応そこを基準にして左右一キロの海岸付近を今まで歩いて見たが、草むらは勿論のこと、石碑や祠らしきものも皆無だった。岬のような場所もなく、ひたすら今も目の前にあるような風景が飽きもせずに続くだけ。
 たったの二十年で、漁業と農業の海辺の街は、跡形もなくコンクリートの港町の下に埋められてしまったらしい。
 絶望が、むくむくと胸の中に沸き上がってくる。真っ黒な塊に胸を塞がれるような、息苦しさ。その苦しさにうろたえて、再び視線を周囲に泳がせる。
 一面にアスファルトとコンクリートに取り囲まれて、どこにも心を晴れさせるような逃げ場はなかった。この下に閉じ込められているのだ。私と彼の約束の場所が。そして宝物が。
 目の前に広がる「波止場」という確固たる現実は、同時に取り返しようもなく二十年の過去と現在とを隔てる堅固な壁だった。
 なすすべもなく、とりあえず煙草に火をつける。
 煙と共に最大級の溜め息を吐きながら、何故か私は毛むくじゃらの柔らかい塊がその身を擦り付けてくる感触を思い出していた。
 それは、あの猫を失った小学校六年生の春以来、ずっと私の心の中に住み着いている心象だった。

 小学校六年生の春、生まれて初めての「死」に直面したその時に、私が必死で理解したのは「生きている」という事がどう言うことなのか、だった。
 猫はその頃にはもう随分くたびれた老猫で、一日中ただ日向で眠るだけの生活だった。
 それでも、彼は私の一番古くからの友人だったのだ。
 そのことに気が付いたのは、学校から帰って来て、母から彼の死を聞かされた時だった。その時に初めて、私はそれまでの彼が「生きていた」ということと、「友達だった」と言うことが分かったのだ。たとえ、日に数度の挨拶を交わすだけであっても、それがもはや私の生活にとって殆ど何の意味もないことであったとしても。それでも、彼はそこに「生きていた」。その言葉が過去形であること、そしてもう二度と現在形にはならないということが、私をひどく悲しませた。
 その悲しさから私が理解したのは、「生きている」と言うことは、その生きている何者かと私とがまた「会える」ということであり、「死」と言う壁をはさんで一度過去形になってしまった「生きていた」や「会えた」は、どれほど望もうとも、絶対に、永久に現在形に戻すことが出来ないと言うことだった。
 それは、猫の死が私の心に開けた隙間が、決して塞ぐことの出来ないものだと言う意味でもあった。
 それでも私には「また会える」大勢の友達がいたし、また増え続けてもいた。その多くの再会と出会いは、少しずつ私の心から痛みを取り除いてくれたけれど、同時に私はその中の大部分を再び失うに違いないのだとも知っていた。
 何かを失う度に、私の心はきっと、あの猫の記憶、その柔らかい毛むくじゃらの感触を思い出した。それは、私がむなしく幻に見る「決して取り戻すことの出来ない何か」の原型だった。同時にそれは、あの毛だらけの、私の初めての友達を思い出す、今となってはたった一つのよすがでもあった。

「失礼ですが、あなた、腕が悪いんじゃないですか?」
 不意にそう声をかけられて、驚いて顔を上げると、そこにはあの少年の少し呆れた顔があった。
「もしかして、さっきの話の、その謎の岬にたどり着くまで海岸沿いを歩くつもりだったんじゃないですか?」
 図星。返す言葉もない。
「あなたの言っていたおじいさんの話って、二十年前のことでしたよね。今あなたの立ってるこの辺って、どう見ても埋立てられた土地だと思いませんか?それも、たぶん二十年以内に。」
 その言葉に私の顔がどんな表情の変化を見せたのか、少年は一寸苛々した調子で付け加えた。
「それと、あなた全然気が付きませんでしたね。僕があの後ずっと尾行してたこと。」


 3 波止場/猫の死(僕)

 その言葉を聞いてなお、自称探偵の彼女は顔中の筋肉を弛緩させたその表情のまま阿呆のように突っ立っている。
 その余りと言えば余りに間の抜けた顔に、こっちまで何となく二の句が継げなくなってしまった。
 どこから見ても「ブルーな思いに沈んでます」としか解釈の出来ない姿で波止場にただ立ち尽くすという、見ているだけで赤面しそうになる彼女の様子を見かねて、とうとう僕は話しかけてしまった。それは、自分からこの尾行ごっこをやめる、という選択に外ならない。当然、僕はかなり長い間考えた(あの醜態が今にも終わるのではないかと虚しく期待しながら)。尾行ごっこを今やめるのは何としても惜しかった。けれど、結局は心の奥底をくすぐるような激しい羞恥心に負けた。
 それに、彼女がこのまま調査を終えてしまっては、当然僕の尾行ごっこも終わりを告げるのだから、余り選択の余地はなかったのだ。
 いざ話しかけて見ると、僕の胸に充満した未練が嘲笑的な言葉と態度になって彼女に向けられることになった。
 自分の心の中のストレスを無遠慮に人へ注ぎかけることは、妙な心地よさを伴っている。面と向かって相手を尾行していたと告げる瞬間にいたっては、殆ど「痛快」と呼んで良いほどの気分を僕は味わっていた。
 そもそも彼女を尾行し始めたのも、もしかすると僕の方が探偵ごっこを上手に出来るという優越感の為だったのかもしれない。
「私を尾行してたんだ。」
 そして、これほどの沈黙の後にぼんやりとそう呟いてしまうような彼女の間の抜けたところがますます僕を有頂天にする。
「ええ、あの後ずっと。」
「そう・・・全然気が付かなかった。」
「みたいですね。」
 再び沈黙。
 何なのだろう、さっきからのこの沈黙は。彼女はこの沈黙の間に何を考えているのだろう。すぐに考え込んでしまうタイプなのだろうとは、交差点で話した時から薄々感じていたし、この波止場での恥ずかしい行動を見た今では確信していた。それにしても、ひとしきり話す度にこう黙り込まれたのではやりにくくて仕方がない。
 日頃から思っていたのだが、沈黙はどこかに卑怯な感じがする。沈黙している本人が何を考えているにせよ、考えていないにせよ、その沈黙の間に考えなくても良いことを相手に考えさせるということになる。
 勿論、ただ黙って何も考えずに待てる人もいるのだろう。待っている間に考え始めてしまう方の勝手と言えばそれまでだ。
 けれど、この「勝手と言えばそれまで」の部分に、沈黙常用者のずるさが潜んでいる。
 そう仕向けていることを自覚しないことで自分を免責して、結果、すべて責任を相手の主体性へ押し付けてしまう。悪気がないのが一番たちが悪いとはよく聞く言葉だけど、これこそ正にそんな例だ。
 そんなことを(考えなくても良いのに)考えている内に、いったん落ち着いていた僕の苛々がまたくすぶり始める。
「ちょっと、地図を貸してもらえますか。」
 こんなことをしていても時間の無駄だと言わんばかりの態度に映るように期待しながら、出来る限りの不機嫌な声音で僕は沈黙を破った。
 彼女から地図を受け取って、昔の海岸線を探してみる。0メートルの等高線を頼りにと思っていたのだが、直ぐに、道路を基準にした方が確かだと気が付いた。
 埋め立て再開発で整備された直線的な広い道路を海の方からたどって行くと、或る所でうねうねと曲がりくねった細い道に分岐してしまう。旧道とのバイパスを見間違わなければ、昔のこの町の広がりと海岸線との大まかなアウトラインを作れそうだった。
「あ、印とか、自由に書き込んでもらって構わないよ。」
 いつの間にか僕の手元をのぞき込んでいた彼女がぼそりと言う。
 僕はカバンを開いて筆記用具を取り出すと、最近の開発地域と旧市街地の境界と思しき部分に赤いマークをつけ、さらにそのマーク同士を線で結んでみた。
 細長い、いびつなピーナッツ状の図形が地図の下半分に出来上がった。
「あ、ここが、その老人が昔住んでいた家があるところなんだ。」
 恐る恐るとでも言いたくなるほど気を遣った様子で、彼女は地図の一点を指さした。
 ピーナッツのくびれた部分から海側へ少し外れた部分だった。
 そこが、僕と彼女が二度目に出会ったあの交差点であることは直ぐに分かった。
 僕はそこに大きな赤いバツ印をつけると、顔を上げて言った。
「じゃあ、図書館に行きましょうか。」
 何故か、彼女の顔が、どことなく笑みを浮かべているように見えた。


 4 図書館/地図と心(私)

 どうしてこんな事になったのか、よく分からなかった。すっかり少年のペースに乗せられる形で、私はいつの間にか市立図書館の閲覧室に居た。
 図書館とはいっても、この建物自体は昔の渡船場に隣接した歓楽施設だったそうだ。ホテルのような、図書館には似つかわしくない派手な外観をしたこの建物の中には、一昔前までは結婚披露宴なんかもできる広めの食堂や、展望ラウンジ、ゲームコーナーに一寸した宿泊設備までそろっていたと言う。
 今私の居るこの閲覧室と言うのが実はその食堂を改装したもので、足元にはさすがに色こそ褪せているが、真っ赤な絨毯が一面に敷き詰められている。こうして腰掛けている椅子にも、目の前のテーブルにも、どう見ても図書館の備品らしからぬ妙な派手さがある。あまつさえ、照明はヤニにくすんだシャンデリアがそのまま吊るされていた。
 どこを見回しても直ぐにそんなミスマッチの一つや二つが必ず目に入るのが初めのうちは面白かったが、そろそろ目が疲れて来てもいた。
 かつてはテラス状の二階席だったと思われるこの席は、真鍮製の手摺りがついた螺旋階段で広い一階へとつながっている。一段高いここからは、丸いホールの構造をしている閲覧室全体の広々とした姿と、全面ガラス張りになっている壁に広がるおだやかな海の眺望とが一目で見渡せた。
 穏やかな海と言ったが、穏やかすぎると言っても言い足りないほどだ。湾の奥のここから見える海面には、白い波頭さえまれで、まるで油を浮かべたようななだらかな海面の起伏がのっぺりとした陽光を照り返している。
 どこぞの海辺の観光ホテルの大食堂としか思えない(まあ、事実その通りなのだが)この場所からその光景を眺めていると、不意に大きな欠伸が込み上げて来た。
 図書館の閲覧室とは言え欠伸くらいで咎められることはなかろうとは思ったが、それよりは向かい合わせに座って一心に分厚い本に見入っている少年の前で、ということに不謹慎な感じがして、私は慌てて欠伸をかみ殺した。
 私の視線に気が付いたのか、不意に少年が顔を上げて私と視線を合わせた。
 なんとなく決まりの悪い思いがして、手元の地図に素早く目を落とす。
 少年に手引きされるままに、私はこの図書館を探し、その郷土資料室を探し、さらに祖父の住んでいた時期から現在までの全ての地図を捜し出した。
 少年が書き込んだ目印で当たりをつけながら、私が買った地図に昔の海岸線を復元して行く作業は、手間こそかかったが意外なほど面白かった。
 その成果が、今こうして目の前に広げられている。
 発見も多かった。
 なにより驚いたのは、私の旧家が当時の海岸線からほんの200メートルしか離れていなかったということ。海までもっと遠かったように漠然と感じていたから、これは当時の私の小ささを目の当たりにするようで面白かった。多分、当時の私の行動範囲は思っているよりもずっと狭かったのだろう。
 さらに、駅からも私の旧家のあったあの交差点からも見えていた丘が、実は昔の岬の根元の部分に当たることも分かった。その岬を海と反対にずっと延長すると、電車の走っていた切り通しを挟んで内陸の山地にまで繋がるらしい。****町は、海と山とに挟まれた、意外なほど小さな町だったのだ。
 当面の目的地は、旧家からの距離と、潮騒のイメージとを併せて考えれば、この岬の付近になるはずだった。それが半分しか残っていない事が大きな不安材料だったが、具体的な目的地としてはそこ以外に適当な場所はなかった。
 何度も繰り返した思考の道筋をそこまでたどって、私は再び顔を上げて少年の方を眺めた。
 私が地図の作成と分析をしている間に、一方の少年は同じ郷土資料室から山ほどの古い本を引っ張り出して一心に読み耽っていた。私が地図を完成させても未読の方である彼の右手側の机上にはまだ一抱えもある本が積み上げられていた。私は時々地図を見直したり、この図書館の奇妙なつくりを眺めたりして、今まで時間をつぶしてみたが、それでも少年の作業が終わる気配は感じられなかった。
 そして、今あらためて見ても、未読の山には厚いのや薄いのや様々な本が積まれていた。
 それにしても、この少年はどうして今ここにいるのだろう。
 彼にとって、私の手際の悪さが見るに堪えられなかったらしいということは分かっていた。それで、見かねてこうして手伝ってくれていることも確かだと思える。
 そんなことは分かっているのだが、そもそも彼がどんな考えで、私の行動に興味を持ち、尾行までして来たのかが分からない。底抜けに親切なのだろうか。いや、底抜けに親切な人なら、誰であれ尾行したりはしないだろう。尾行していたことを告げられたときは、正直、私だって交番を探して走り出そうかと思ったくらいだ。かと言って、普通の好奇心ではここまで付き合うことは出来ないだろう。どう考えても馬鹿馬鹿しいだろうから。
 結局、そういう非合理的な行動の中に、この利発な少年の齢相応の幼児性が現れているのかもしれない。そう考えるのが、一番簡単に納得が出来るのは確かだった。
 けれど、私よりも抜け目なく働くらしい彼の知的能力と、今ここにいるという行動をとらせた幼い判断能力とのギャップには、どことなくちぐはぐなものを感じさせられる。
「どうかしましたか。」
 不意の少年の囁き声に我に返る。
 不審そうに私の顔をのぞき込む少年の目に、私は思わず赤面していた。


 4 図書館/地図と心(僕)

 「どうしました?」
 無遠慮に自分に注がれる彼女の視線に耐えられなくなって、僕は彼女に問いかけた。
 彼女は慌てて首を振ると、とっさに考えたとしか思えない言い訳を口にした。
「いや、何の本を読んでいるのかなって、思ってね。そんなにたくさん。」
 どうせ何か失礼なことでも考えていたのだろう。僕の口元には、多分そんな苦笑いが浮かんだのだろうと思う。彼女の表情が一瞬曇った。
 その途端、唐突に、僕自身が失礼な品定めの眼差しを何度も彼女に向けたことを思い出した。
 波止場で最後に彼女が見せた笑顔。あれは今の僕と同じような苦笑いを浮かべた顔ではなかっただろうか。
 そう思った途端に、僕は自分がここにいるという現実に突然向かい合ったような気がした。まったく見ず知らずの女の人を前にして、今まで来たこともない変な図書館で、今、僕は一体何をしているのだろう。
 怖いわけではなかったが、寒気に似た妙に生々しい心細さに、思わず身震いが出た。
 逃げ出したいような、落ち着かない気持ちに無意識のうちに堅く目をつぶる。自分の動悸を耳元で聞きながら、僕は必死だった。逃げ出さないように。あの駅の改札のように駆け出して仕舞わないように。
 「地図って言うのは、面白いものね。」出し抜けに、目の前の彼女が言った。
 思わず目を見開いて彼女の顔をまじまじと(またしても)見てしまう。
「こうやって見ると、昔の****の残骸が無秩序にあっちこっちにあるんだよね。昔の町は、新しい今の町に成長して、姿を変えてしまうんじゃなくて、少しずつ、新しいものが昔の物の上にデタラメにのっけられて行くんだね。だから、今の町とか、昔の町とかって、簡単に決められないものなんだなって、考えてみると面白いよね。」
 ちょっと呆気に取られた格好の僕にお構い無しにそこまで淡々と語ってから、彼女は急に何か思い出したように笑った。「ごめん、さっき私のした質問がそのままだったね。」
 その白々しさを隠そうともしない言い方に、思わず笑みが込み上げてくる。このちぐはぐな話の繋がりが、彼女なりに気を遣った結果なのだと分かったから。
 僕はなんとなく人心地ついた気持ちで、いつか本で読んだことを口にした。
「人の心も同じだって言いますよ。人の心も、段々に成長して姿を変えて行くんじゃなくって、子供のころの色々な心象や性質はそのままで、その上に新しい知識や経験がパッチワークみたいに継ぎ合わされて出来上がってるんですって。その本も町を使って譬えていたと思うんですが、古代ギリシャの建築と近代的な超高層ビルとが同時に、雑多に入り交じって機能している町みたいだって。」
「読書家なんだね。」
「活字を見るのが好きなだけですよ。それに、活字を読んでると勉強してるって誤解されて、褒めてもらえますから。」
「かわいげの無い。」
「そうかもしれませんね。」
「でも、今その山のような本を読んでるのは、私に褒められるためじゃないんでしょ。」
「ああ、これですか。これは、風土記とか、ここの地元の郷土誌研究家の本とか、昔の観光案内のパンフレットとか、その老人が言っていた石碑とか祠の事を扱ってるものがあるかもしれないと思って。」
「ははあ。」
 妙に間の抜けた声に不意をつかれて僕は言葉を上手く継げなかった。一呼吸間を置いて、改めて続ける。
「その古い地図の岬に、祠も石碑も記載されてないでしょ。それが気になったものですから。」
「老人の見た二十年前に、もう石碑のプレートは取り除かれていたそうだし、祠の方も崩れかけてたって言うからね。」
「岬っていうのは、大抵の場合、他の土地から区別されて、特別な場所とされてるものなんですよ。なんとか鼻なんて変な名前つけられて祭られている場所に行ったこと無いですか。はなってのは突き出た地形のことで、場所によっては岬の意味になるんですけど。この辺りだと長崎鼻って場所がどこかにあったはずですけど。」
「・・・詳しいね。」
「その老人の話どおりに石碑や祠があったんだとしたら、その岬もそうやって祭られていた場所なんだろうって思うんですよ。だから、もし相当昔に移転されたんだとしても、そういう記録くらい残っていそうなものだと思ったんですけど・・・。」
「見つからないんだ。」
「一応いくつかそれらしいのは拾い上げてるんですけど。確実なのは今のところ一つもないですね。」
「なんか、悪いわね、色々手伝ってもらっちゃって。」
「いいですよ。面白い話もいくつか読めましたし。お地蔵様の話なんかで、調査には直接なんの役にも立ちそうもない昔話ですけど。個人的には楽しかったですよ。」
「そういえば、まだ君の名前を聞いて無いんだけど。」
 ちょっと考えてみる。
 彼女を前にして、僕がここにいる理由。さっきは混乱してしまったけど、今はもう分かっていた。だから、名乗るべき僕の名前もそれなりのものがいい。
 少し深く息を吸って。
 僕は、彼女の探偵ごっこの仲間入りをしたいのだから・・・
「あの、ワトソンでいいです。言いづらければ、そうですね、コバヤシ少年でも。」
 ほんの一瞬の戸惑った表情の後、彼女の顔は、今度こそ見まちがいようの無い笑顔に変わっていた。

*  *  *

 ここまでの第三節と第四節は、その前の第二節とは打って変わって破綻無くまとめられている。場面が大きく変わることもあって、私もこの部分を二つに分けたし、元のノートでも別々のタイトルを与えて別々にまとめているが、場面転換を挟んでも、心理的に連続した記述になっている事からも明らかなように、この第三節、第四節は、一つながりのまとまりと考えた方が良いように思う。
 この部分は、前にも述べたとおり「僕」と「私」の、三度目の出会いの場面である。やはり前に述べた、「改札」のモチーフも登場している。そして、第四節は、四度目の出会いの場面といえるかも知れない。ここでやっと二人はお互いを呼び合うための名前を手に入れるからだ。
 さて、これ以降がこの物語の後半部分になる。
 この後は、私も口を挟む事は出来るだけ控えようと思う。私が見つけたと思う物語を、この文章読んでいるあなたも、できるだけ同じ形で見つけ出せるように。


 5 岬/たくさんの坂を登って(私)

 コバヤシ少年が資料のコピーを取っている間に、私は図書館の売店でもう一人分の食料を調達した。
 それから、連れ立って表へ出て、気持ちも新たに調査を再開する。
 すっかり助手を決め込んだ少年は、私の事を「先生」と呼び始めた。まあ、「ホームズ」などと呼ばれるよりはずっとマシだとは思う。
 そろそろ昼も近付き、日差しが暖かい。海岸沿いの図書館から、来た道を辿るようにして駅の方へ戻る。こんもりと住宅を茂らせた丘が左手に近付いて来た。何度も地図で確認していたのだが、その丘が岬の一部であるとはどうしても思えなかった。
 コバヤシ少年の提案で、いったん駅の近くまで戻ってから調査を再開することになっていた。岬の根本から海側へ向かって移動しながら調べて行くつもりなのだ。
 丘の後端へたどり着き、二人して顔を見合わせる。打ち上げられた難破船の様に、住宅地の真ん中に岬の残骸がそそり立っていることを想像していた訳ではない。いや、そうではないつもりだった。
 しかし、どうも、かなりそれに近い線で考えていたらしい。
 何故なら、私たちは途方に暮れていたから。
 私たちの立つここは、地図の上では岬の後端部に間違いなかった。
 私たちは立ち止まっていた。しかし、それは地図の印の上で立ち止まっただけであって、どこかに足を止めさせるような目印があったからではなかった。私たちを取り巻いているのはこれといって特徴のない住宅地であり、それはここにたどり着くまでの道中と何一つ変わるところは無かった。
 二人して顔を見合わせる。お互いの顔に戸惑いと失望の色を確かめ合うように。
 改めて地図を眺め、また辺りを見回す。ここに間違いはない。そして、注意して見ると、岬のあったはずの方向には、ゆるやかな上り坂があった。
 勿論、選択の余地は無かった。私とコバヤシ少年は調査開始前だというのにすでに重くなった歩をその坂へ進めた。 
 坂を上り、坂を下る。
 下り終わったらまた上る。
 私たちは、大まかに言って、丘を輪切りにする軌跡を描きながら移動し続けた。気持ちは高まらず、自然、会話も弾まなかった。
 私たちは黙ったまま歩き続けた。
 注意深く辺りを見回すことだけは二人とも怠らなかったが、勿論、それ以外に何一つ出来ることはないのだ。せめて何か興味を引くものでもあれば口を開けるのだが、不幸にしてそんなものはなかった。
 一つ発見したのは、昼近くの住宅地というものが驚くほど静かだということ。
 深夜の静けさとは違う。
 音を立てるものがいないのではない。風の音は勿論、鳥の囀り、近くや遠くを走る車の音、上空を過ぎる飛行機の音。周囲は様々の音で満ちている。それにも関わらず静かなのだ。明るさに満ち、取り巻く状況音も豊かなのに、その芯をなすべき中心の不在。それがための、どこか不自然な静寂の印象。
 それはどこか現実離れした、夢の中のような奇妙な印象だった。
 今の私たちのやっていることも、同じくらい現実離れしている。連想は速やかにそこまで繋がってしまった。
 そう思うと、私たちを取り巻く情景はこの道行きに相応しいと言えなくもない。勿論、それは何の慰めになる訳でもなく、殆ど徒労に等しいと言う事を自分でも認めているだけのことだ。
 コバヤシ少年は何を考えているのだろう。これといった感情のない表情で押し黙ったまま、私の少し後ろをついて来る。
 つまらないに違いない。
 一寸良心が痛んだ。
 勿論、私が強制して連れ回している訳ではない。彼がついて来ているのは彼自身が選んだことだ。そのことに良心を痛めている訳ではない。
 最初に、私は彼に嘘をついた。恐らく、彼の聡明さの前に私の粗雑な嘘などとっくに見破られているだろう。ここまでの経緯から、そのことを認めるにやぶさかではない。
 それでも、ここまで付き合ってくれている彼の善意に対して、私の初めの嘘は不誠実だ。
 私はいつのまにかこの少年に好意を抱き始めていた。この探偵ごっこを、この少年と一緒にやっていることが楽しかった。少年は私に欠けている部分を埋めてくれる。それは、ゲームを共にする相手としては、望むべくもない条件だった。
 そして、その好意に比例して、私の中で良心の痛みが次第に鋭さを増していた。私は嘘をつくことで彼との関係を始めた。それは、多分、どこかで清算しなければならない。
 また一本の坂を下り終わり、折り返す。
 地図に目を落とす。
 まだまだ、上るべき坂は多かった。


 5 岬/たくさんの坂を上って(僕)

 ブロック塀、石垣、生け垣、路地、電柱、レンガの壁、鉄柵、犬、道路標識、ガレージ、プランター。
 概ねそう言ったものの連続が、途切れなく視界を流れて行く。細かく見て行けば、一軒一軒の家も、一本一本の路地も、一つとして同じものはない。ないけれど、つきつめて考えればやはり単なる住宅地がだらだらと続いているに過ぎない。それは、控えめに言っても欠伸を誘う状況だった。
 前を歩く彼女の足取りも、めっきり重くなっていた。高揚していた気持ちはとっくに失われ、興味を向ける対象も見つけられず、今の僕らを歩かせているのは、ほぼ義務感と言っていいものだった。
 その殆どが無駄であったとしても、とりあえず歩き続けなくては目的の場所は見つけられないのだ。もちろん、歩き続けて発見するのは、たどり着くべきその場所がないということだけかも知れない。
 一体僕は何をしているのか。
 少なくとも楽しくは無い。
 上りだった坂が下りへと変わる。
 そしてまた上りになり、また下りになる。繰り返し。繰り返し。
 それでも、ここで彼女と別れようという気には何故かならない。
 「乗り掛かった船」とか「毒食わば皿まで」とか、そんな言葉が思い浮かぶけれど、何か、僕はもっと積極的に彼女の後をついて歩いている気がする。
 失礼だが、彼女の容貌や何かの魅力が僕を惹き付けているわけではなかった。
 少し考えて、ある決定的なものが僕には無く、それを持っている彼女について行くことでその欠落を埋めているのだと思い当たった。
 僕の欠落とは、つまり「目的」だ。僕の中には「冒険をしたい」という思いがあるだけで、具体的な目的が何一つ無かった。
 僕は突然理解した。冒険について考えて見たところで、何の目的も持たない人間には決して冒険が出来るはずも無いということを。冒険とは、読んで字の如くある行動の過程に対して「危険を冒すこと」の呼び名に過ぎない。「冒険に行く」のではなく「何かをするために冒険する」のだ。
 多分、最初から薄々は感じていたのだと思う。だから僕は今こうして彼女の背中を見続けているのだ。
 もしもこの背中を今失ってしまったなら、僕には何も残らない。
 それは恐るべき考えだった。
 彼女との探偵ごっこが終わる時は、僕の冒険が終わる時でもあるのだ。
 僕は不意に思い出した。
 父がサンタクロースの正体を明かそうとした時のことを。
 小学校最後のクリスマスの日、彼は僕にその秘密を打ち明けようとしていた。
 僕にはそれが許せなかった。
 今更説明されなくても、それくらいのことは察しがついていた。それでもサンタクロースは僕にとって大切な幻想だったから、たとえその幻の本人であっても、それを予告もなく無残に破壊する権利があるとは思えなかった。
 なにより、それは僕が望みもしないうちに彼自身が勝手に始めたことなのだ。
 彼は自分勝手に僕の中に大切な幻想を育て、それをまた勝手な都合で打ち壊そうとしていた。
 僕は生まれて初めて自分の親に心からの怒りを感じ、泣きわめくという行為でそれを表現した。
 結局、僕の抵抗は功を奏し、魔法を解くはずの言葉は聞かずじまいになった。
 それでも僕には強烈な敗北感が刻み込まれた。同時に、気が付かないうちに自分の大事な物事を人に依存することへの恐怖も。
 今また、その恐怖が生々しく蘇っていた。
 何故なら、僕は知らず知らず彼女に依存していたから。彼女が僕に信じさせようとした嘘に。
 それが嘘であることは最初から明白だった、それも、父のサンタクロースごっこの時と同じ状況だった。
 坂を上り、上り終わり、そこで前を行く彼女の足が止まった。
 その背中越しに見える風景が、僕の足も止めさせた。
 始まりとは対照的に、丘の終わりははっきりとしていた。家並みは唐突に消え去り、嘘のように開けた視界には広い空と、海と、市街地のパノラマが順序よく積み重ねられている。足元の、雑草と蔦に覆われた急斜面は、この先に続いていたはずの岬が削り取られた切り口そのものだった。真一文字にその斜面を這い降りる石段が、冷徹に外の道はないのだと教えている。
 はるか昔にこの岬を断ち切ったその断面が、たった今、僕たちの進むべき道を見事に断ち切ってしまった。
 彼女はゆっくりと僕の方を振り返って、例によって少し沈黙を挟んだ後に言った。
「とりあえず、お昼ごはんにしようか。」
 他に何一つ出来ることが無いのだから、僕に異論があるはずもなかった。 


 6 子供達の場所/本当のこと(私)

 ここからは、二つの****町が一望出来た。
 一つは、ここから海の方へ開けた視界に広がっている埋立地を中心にした現在の整然とした市街地。もう一つは、私たちの足元の急斜面の下に見える雑然とした昔の町並み。
 そのパノラマを眺めながら、私とコバヤシ少年は、その斜面を一直線によじ登って来る石段の頂上に、狛犬よろしく左右に別れて座っていた。
 早朝の大移動から、休みなく今まで歩き続けた疲労が、鈍く両脚と頭にまとわりついているような気がする。並んで石段に腰掛けた二人の膝の上には、それぞれの昼食が載っているのだが、私は勿論、多分、コバヤシ少年も機械的に食事をしているだけだ。
 コバヤシ少年の膝の上にはサンドイッチと並んで図書館でコピーしてきた資料も広げられている。しかし、その紙束を繰る彼の手つきにも活気が欠けていた。
「手掛かり無しって顔ね」私の言葉に、彼の眉間に深い縦皺が刻まれる。
「どうも納得出来ないんですよ。風土記にも地図にも、観光案内まで見ても、この岬に記念碑だの祠だのがあったって記述が無いんです。ここまで記録に残らないって言うのも逆に不自然じゃないですか。」
「何か、個人的な記念や信仰上の物だったのかな。」
「そんなところかなあ。でも仮にも神様ですからねえ。」
「昔の家なんか訪ねると、よく庭に土地神様だのお稲荷様だのを祀った小さな祠があるじゃない。あんな感じの物だったのかもしれないよ。」
「そう、それなんですけど。」少年は急に勢いこんでそう言ったが、口の中に充満したパンに気が付いて後を続けられなかった。懸命に咀嚼して、嚥下して、口の中が空になったのを確認してから漸く言葉を継いだ。彼のその一連の動作が、何となく私を微笑ませた。
 その笑いがあまり面白くなかったのだろう、少年は少しムッとした様子でこう言った。
「それなんですけどね。そこは宝物を埋めるくらいだから、あまり人目にもつかないような、或いは人が見過ごしがちな、そんな所でなきゃ困ると思いませんか。」
 私には彼の言葉が意味するところが咄嗟には分からなかった。私の顔に浮かんだ訝しげな表情に、少し苛々したように少年は言葉を継いだ。
「だから、宝物を埋めるような秘密の場所が、吹きっさらしの、広々とした岬の先なんてどこか不自然だと思いませんか。」
「ああ、成程。」
「どこか、村外れの入江の奥だとか、大潮のときだけ入り口が現れる海中洞窟だとか、それはあんまりにもドラマじみているにしても、何か、そういう場所じゃなくちゃいけないような気がするんです。」
「う・・・ん。」
そう、大人にとってはそういう考え方も成り立つ。そうなのだ、私の有能な助手はまだ知らないのだ、その宝物を埋めたのがまだ物心もつかない子供だったなんてことは。
「でもさ、もし、仮にそんな場所だったとしても・・・」咄嗟に口にしたその「IF」が、自分をごまかしている言葉だと気が付き、胸の奥に自己嫌悪の痛みが走る。嘘を重ねずに、でも本当のことを言うのも避けている。私は殆ど必死に、口に仕掛けた言葉を最後まで吐き出そうとした。
「こんなふうに、地形まで変えてしまうほどの時間の流れが相手なのよ。そんな、秘密の場所なんて・・・。」
言い終わる前に、少年が後を受けた。
「跡形もなく、埋められてしまうか、削られてしまうかしてるでしょうね。」
そう言うと、コバヤシ少年の顔に初めて諦めを含んだ苦笑いが浮かんだ。
 鏡合わせのように私も苦笑いを浮かべる。けれど、お互いの笑いの向けられた物はまるで違っていた。
 そう、私は気が付いたのだ。少年の顔に浮かんだ諦めの表情に安堵している自分に。
 これ以上彼を騙しながら宝探しを続けることが私には苦痛だったのだ。そして、その目の前の苦痛からとりあえず逃げ出そうとしているのだ。
 私の顔に浮かんだのは、その押さえられない自嘲だった。

 ある時、壁に突き当たる。
 それ以上先へ進めなくなる。それ以上続けられなくなる。それ以上考えることができなくなる。
 その時に感じるのは、その壁の厚さや高さではなくて、自分の無力さ。
 ぶつかって、両手両足に目一杯の力を込めて、押し続けても、微動だにしないその壁。疲れて、息を切らして、その時に感じるのは、鉛のような手足の重さだけ。
 そのまま立ち止まって、動かない。
 そして、私はどうしただろう。
 例えば、
 どうしても解けない微分方程式。
 どうしても食べられない野菜。
 どうしても描けない空の美しさ。
 どうしても上がらない偏差値。
 どうしても捕まえられないポプラの上の蝉。
 どうしても覚えられない有機化学の化学式。
 どうしてもやめられない煙草。
 そして、どうしても許してもらえない嘘。
 私はなにも出来なかった。ただ、その壁に背を向けてまた歩き始めるだけ。
 一つの壁から、別の壁までの間。それが、今まで私が歩いて来た道程の全てなのかも知れない。
 それは、向かうべき先を持たない、問うべき意味も持たない、獲得するべき何も無い、私が何も出来ないことをただ確かめるためだけの歩み。
 おびただしい壁に囲まれて、とうとう一歩も踏み出すことが出来なくなって、立ち尽くし、途方に暮れる。
 そして、それでもまだ考える。
 私には何が出来るんだろう。


 6 子供達の場所/本当のこと(僕)

 例によって、彼女は長いこと沈黙を続けた。もっとも、今回は僕自身にも沈黙が必要だったから特に苦にはならなかった。それどころか、彼女が不意に口を開いた時に初めてそれまでの沈黙に気が付いた位だった。
「小さいころに見つけた秘密の場所って、たった二三日で、もうどこだったのか分からなくなったりするのよね。まあ、単に私の物覚えが悪かっただけかもしれないけど。」
 自分の思考に沈んでいた事もあって、僕はあまり何も考えずに生返事をした。
「この国の子供は神様と仲が良かったそうですから。」
 彼女の戸惑った表情を見て、初めて、僕は自分が突飛なことを口走ったことに気が付いた。
「カミサマ?」その素直な問いかけが、さらに僕を追い詰めた。照れたように、曖昧に笑いながら僕は答えるしか無かった。
「すみません。その、忘れて下さい。僕、つい、仕入れたての知識を衒ってしまいたくなるんです。いつも、止そうとは思ってるんですけど。」
「そこまで匂わせておいて止める方が余っ程悪趣味だよ。何の話?」
 少し迷いの沈黙を挟んで、僕は観念した。
「そうですね。あの、お地蔵様って、日本中にあるじゃないですか。いるって云うべきなのかもしれませんが。で、子供って、ああいうものを見ると、何故か悪戯したくなりますよね。」
「うん。」
「昔から、やっぱり色んなお地蔵様が、川に投げ込まれたり、全身に泥をかけられたり、「こぼち地蔵」って言うんですけど、さっき読んだこの地方に伝わる民話なんて特に酷い話で、石で叩かれて壊されたりしていたんだそうです。」どうしようもなくなめらかに滑り始めた自分の舌と、満更でも無く高揚し始めた自分の気持ちとが恨めしかった「そうすると、やっぱり大人が怒るんですよ。何て罰当たりなことをするんだって。ところが、そうやって小言を言った大人には決まってお地蔵様の祟りがあったって云うんです。石で壊されてしまうこの地方のお地蔵様なんかも、子供達を叱った男の夢枕に立って、私が子供達と楽しく遊んでいたのを、お前は何も分かってないくせに何故邪魔をするんだって、散々に叱ったんだそうですよ。こんな話が日本中にあって、だから、どうも日本の神様は子供達の遊びについてはメチャメチャ寛容なタチみたいなんです。さっき聞かされた秘密の場所なんて言うのも、そんな神様達から子供達への贈り物、って言うか特別サービスみたいなものなのかもしれないな、って思ったんです。」
 どうも、予想していた以上に感銘を受けたらしい彼女の表情に僕は少し動揺した。真剣に何かを考えこんでいるらしい。
 けれど、またしても沈黙が続くのだろうと思った僕の予想を裏切って、彼女は直ぐに口を開いた。
「そうすると、あの秘密の場所に祠があったのはなかなか意味深ね。それも、今となっては幻の祠だしね。」
 何故か、ギクリとした。
 一瞬の間に目まぐるしい思考が頭の中を駆け巡る。
 彼女は何故急に、幼い頃に見失った「秘密の場所」の話なんか持ち出したのだろう。
 老人の宝物が埋められていると言う「秘密の場所」への手掛かりを失っている今この時に。
 そして、たった今語られた「祠のある秘密の場所」は、そのどちらについてのことなのか。
「あのね・・・」
「ちょっと待って下さい。」
 彼女の言葉を断ち切ろうとする僕の声は、自分でも驚くほど鋭かった。当然、彼女の顔にも驚きが、いや、むしろ恐れにとれる表情があった。
「もしかしたら、何か本当のことを言おうとしてるんじゃないですか。」
今度こそ、まぎれもない恐れが彼女の顔一面に広がった。すかさず僕は彼女を睨みつけた。その怯みを取り逃がさないように。
 視線をそらすまいとする彼女の必死の努力が手に取るようにわかる。
 しばしの睨み合い。
 けれど、何故か耐え切れずに目をそらしたのは僕の方だった。
 恐る恐る、彼女が口を開く。
「あのね・・・。」
「ねえ、僕くらいの歳の男の子が一番腹が立つことって何だかわかりますか。」
「え・・・。」
「それは、自分が馬鹿だって思われたり、それをわざわざ説明してもらったりすることです。」
 そう、今更本当のことを説明されなくても、僕は最初から彼女が嘘を付いたことを知っている。それくらい分かっている。そんなことを今更弁解しようと言うなら、それは卑怯というものだ。
 僕の言葉の意味を推し量るように、彼女はしばらく沈黙していたが、それでも食い下がって来た。
「いや、それはそれとして、これは私の誠意の問題だから。」
「今まで十分すぎる位あなたは僕に対して不誠実だったじゃないですか。それを、今更あなたの良心を満足させたくなったからって、僕にストレスを押し付けるなんて虫が良すぎると思いませんか?」
「そんなつもりじゃ・・・。」
 僕の癇癪は爆発した。
「僕は僕の好きでこうしてるんです!それでいいじゃないですか!僕をあなたの自己満足の道具にしないでください!」
 叫んで、ひざの上の物を振り落としながら僕は立ち上がり、そのまま目の前の階段を駆け降りて始めていた。
 僕はとうとう彼女の前からも駆け出してしまったのだ。
 怒りで駆けだしたのではなかった。最後の自分の言葉は、口にした瞬間に、そのまま自分に跳ね返って来ていた。だから、逃げ出したのだ。
 泣き出しそうだった。
 背後に、彼女が追いかけてくる気配は感じられなかった。


 7 二つの突破(私)

 私は君を追いかけられませんでしたね。
 それは、君を追いかけて、追いついて、その時に言うべき言葉が思いつかなかったからです。
 コバヤシ少年は、あっと言う間に石段の一番下まで遠ざかり、そのまま雑然とした旧い方の町並みの中に紛れてしまっていました。
 もうどこへ走り去ったのか大まかに見当をつける事も出来ませんでした。
 しばらくの間、私は放心したように石段にばらまかれた書類と食料品を眺めながら、座り込んだままでした。
 陽光を照り返す石の肌を見つめていると、涙が出そうになって、目を閉じました。
 真っ暗闇に、またあの猫の感触を感じていました。
 私は、また大事な物を失ってしまった。
 その言葉だけが、頭の中をぐるぐる回ります。
 その言葉を振り払いたくて、私は必死で考えました
 それは、こんな風なことだったと思います。

 「価値観」と言う言葉を覚えたとき、私は魔法の言葉を知ったのだと思いました。いえ、真理の一つを手に入れたのだとさえ信じたのです。
 あれは多分、中学に入ってすぐの事。
 私にとって「価値観」の意味は、どんなものでも、その価値の大小を決めるのはその物自体の性質ではなく、その判断の基準なのだということでした。
 初めから「大切な物」や「つまらない物」が存在する訳ではなく、そこにあるのはただの「物」。それを、見る人がそれぞれの基準で「大切だ」と思ったり「つまらない」と思ったりするに過ぎない。
 以来、不条理に思える失望や拒絶を受けるたびに、私は胸のうちで唱えるようになりました。
 「価値観の違いね。」
 そう唱えてさえおけば、私の大切な物は大切なままに胸の奥にしまい込んでおけると思ったのです。
 しかし、それで幸せな気持ちでいられたのはほんの少しの間だけでした。
 繰り返しその言葉を唱える内に、私は気が付きました。
 私にとって大切な物の殆どは、私以外の人には何の意味もない物だということに。それは、その誰かにとって大切な物が私には何の価値もないのと同じこと。
 そして、それは自分以外の誰かと関わって行くことが失望の連続になることも意味していました。
 何故なら、誰かと関わることは、互いの価値観を関わらせる事にほかならないからです。
 大切な物って何?
 無邪気にそう尋ねあって、結果傷つけ合って、それを繰り返すうちに、段々そう尋ねることが怖くなる。それ以上、自分の大切な物を失う事が怖くなるのです。
 「価値観の違い」で、それを慰める事は出来ませんでした。だから、やがて、入れ替わりに違う言葉が私の中に根を下ろしていたのです。
 「本当に大切な物なんて無い。大切だと思い込んでいるだけ。あなたも、私も、みんなも。」
 そして、私は私を笑うようになりました。
 傷ついたと思い込むのは止めよう。大切だと思い込んでいるだけなんだから。ただの思いこみなんだから、傷つくはずがない。
 そう考えても、胸の痛みが和らぐことは一度もありませんでした。そんな自嘲が何の助けにもならないことなどは、いい加減わかっているはずなのに・・・。

 そんなことをぼんやり考えながら、目の前の風景に向けて、私は溜め息を繰り返していました
 考え事だけでは足りずに、煙草を咥えてみました。落ち着かない時の習慣になってしまっているのだと自覚はしているのですが、その誘惑に抵抗出来たことはありません。
 灰を落とした足元の石段は、見事な遠近法で鋭く先細りながら町並みへと落下しています。その先へ視線を誘われながら、また考えます。

 コバヤシ少年を追いかけるべきだったのだろうか。
 けれど、追いかけてどうしようと言うのか。
 そもそも何のために追いかけるのか。それこそ私の良心の呵責を彼で慰めるだけの、自己満足ではないのか。そうならない様な言うべき言葉など、私が持っているはずが無いのだから。
 だから?
 だから、いつものようにやり過ごそう。このまま、ここに座って。
 今どれほど心が痛くても、いつかは通り過ぎて行くものだと自分に言い聞かせて。決して心の震えに身を任せないように、じっとやり過ごす。何も望まず、何も求めず。
 嬉しい時も、辛い時も、いままでそうやってきたように。

 あれは私が学級委員だったから、多分中学の二年生か一年生の時のこと。
 もう冬に近い晩秋で、放課後に始まった、だらだらと長いばかりで結論の出ない会議をようやく終える頃には、短くなった日はすっかり暮れてしまっていました。下校時刻は二時間も前に過ぎ、校内には私たち委員と宿直の教員だけしか残っていないはずでした。
 ところが、校門までたどり着くと、私は一人の友人がそこに立っているのを見つけたのです。
 驚いて、何をしているのかを私が問うと、彼女は事もなげに待っていたのだと答えました。
 彼女が「私を」待っていたのだと気づくのには少し時間が必要でした。そして、その事に気が付いて、私はあらためて驚き、そして、うろたえたのです。
 私も彼女もバスで通学していました。彼女は、いつものように一緒に帰るつもりで私を待っていたのだと言います。でも、バスの方向が正反対の二人が一緒なのは停車場までのたった十分ほどの道程に過ぎません。その十分の間、私と他愛もない会話を共にするためだけに、彼女は二時間もこの校門に立っていたのだと言うのです。
 私は感動していました。
 そして、その彼女の何気ない友情に応えたかったのです。
 けれど何も出来ませんでした。
 自分を笑うようになってから、私は何かを誰かに求めたことがなかったのです。だから、求められてどう応えるかなど全く分かりませんでした。
 私はただ立ち尽くしていました。
 その私の沈黙が、彼女を不安な顔にしました。
 その表情に、私は益々何も言えなくなりました。
 暗い校門で私と彼女は向かい合ったまま、ただ立ち尽くしていました。
 せめて、あの時笑えていれば、もしかすると、その笑いでなにもかもが変わっていたかもしれないのに・・・。

 まとまりのない事を、熱に浮かされたように考えながら、私はのろのろと、立ち上がっていました。
 何をしようという考えはありませんでした。ただ、それ以上じっとしている事が苦痛だったのです。私の頭の中では、幾何学の狂った迷路のような、捕らえ所の無い不毛な思考がその間もうなりをあげつづけていました。

 せめてあのとき笑えていれば。
 そうしたら?
 おじいちゃんに突然「求められた」ことにうろたえて、こんな所まで来るなんてことはしなかったかもしれない。
 そうだろうか?

 半ば無意識に、私は君がばらまいて行った品々を拾い集めていました。
 これまでどんな生き方をしてきたにしろ、祖父のあの言葉を聞けば、私はやはりここまで来たでしょう。今と同じように。
 だから、結局、同じように君を傷つけて、こうして途方に暮れていたでしょう。
 同じなのです。
 何かが、私の中でねじり合わされ始めていました。
 そう、同じなのです。
 君を追いかけられなかった「私」。
 友人を傷つけた中学時代の「私」。
 二十年前の、すっかり忘れていた約束をあわてて果たそうとしている「私」。
 その「私」のことをああでもないこうでもないと考え続けている私。
 何故こんなにも私は同じ「私」について考え続けるのでしょう。
 「私」を責めるためでしょうか?
 「私」を庇うために?
 多分、両方なのです。私は「私」を責め続け、庇い続ける中で、「私」を何とか許せるようになりたいのです。そうでなければ、どうして私は過去の自分の罪にこうやって拘泥し続けているのでしょう。
 過去の自分を考えるのは、その自分を忘れられないから。忘れられないのはその自分を思い出すのが苦痛だから。苦痛なのは、その自分を許せないから。そしてまた考え続けるのは、いつかその自分を許せる事を無意識に期待しているからなのです。
 私は私を許せるようになりたい。
 罪の意識を感じる事なく生きて行けるようになりたい。
 そんな事のために私はこんなところまでやって来て、変わり果てた生まれ故郷を彷徨っているのです。

 出し抜けに、私は石段を駆け降り始めていた。
 全速力で。
 不意に込み上がってきた笑いを押さえるにはそうでもするしかなかった。歯を食いしばって、必死で駆け降りる。
 今は、自分を笑って、自分を慰めている時ではなかった。
 私はコバヤシ少年の傷ついた気持ちに言うべき言葉が無くて途方に暮れていたのではなかった。
 彼の気持ちに応える言葉が思いつかなくって沈黙していたのでもなかった。
 彼の友情に応えたくてこうやって家を飛び出して来たのでも無かった。
 私は「私」のために、「私」を許すために、こんな事をしているのだ。
 自己満足?
 そのとおり。
 私が黙ってしまうのも、立ち止まってしまうのも、自分を慰めるのに忙しいからだ。
 なんのことはない、その一つの事が全ての原因だったのだ。
 コバヤシ少年が怒るのも無理は無い。
 笑いの発作が、吐き気にも似て、波打つように繰り返し襲って来ていた。
 私は必死に耐えていた。
 今ここで私が私を笑う事は、私の中の彼を笑ってしまう事なのだ。
 石段はすでに終わっていたが、私は立ち止まることが出来なかった。私は、雑然と枝分かれし、結び付き合う狭い路地を縫うように走り続けていた。
 走りながら、右に左に慌ただしく視線を走らせる。
 私は探していた。
 何を探しているのかよく分からなかったが、私は何かを探していた。
 コバヤシ少年の姿かも知れない。
 上り坂や下り坂でそうだった様に、秘密の場所に至る為の手がかりかも知れない。
 走り続けながら、路地へ、車の蔭へ、看板の後ろへ、視線を向ける。
 路肩に駐車している軽トラックの蔭を覗き込んだ時、突然、既視感が身を貫く様に襲いかかって来た。
 私は思わず立ち止まった。
 その感覚を取り逃がしてしまってはいけないのだと、心の何処かが叫んでいた。
 強烈な既視感の向こうから浮かび上がってきたのは、懐かしい毛むくじゃらの感触。
 そう、あれは確かこの町を離れた後、小学校に上がる前後のことだった。猫が突然いなくなったのだ。私はちょうど今と同じように家の近所を走り回って、自動車の下や植え込みの中と言った物陰に彼を捜し続けた。
 確か、猫は二日目の夜に自分で帰って来たはずだ。両親に宥められて無理やりベッドに入れられていた私が、最初に彼の疲れ切った声を聞いたのだ。
 ほんのわずかの間で、彼は随分な汚れようだった。そして、その事を悲しむ以上に、私は不思議に思ったのだ。
 彼の体に染み付いている松脂の匂いを。
 その匂いに感じた不思議な疑問。
 あの時、私は思ったのだ、
 彼は、あの秘密の場所へ一人だけで遊びに行ったのだろうか?


 7 二つの突破(僕)

 僕は歩き続けていた。
 立ち止まることは出来なかった。
 そして、歩き続けながら、考え続けていた。
 彼女が、恐らく自分の良心の痛みに耐え兼ねて、僕へ本当の事を打ち明けようとした事は、どう考えてもルール違反だった。
 僕たちはその嘘を共通の枠組みにして一つのゲームを共にしていたのだから、それを一方的に打ち消そうとすることは、僕たちの関係の基盤そのものを勝手に壊してしまうことに他ならない。何度考えてみても、それは許しがたいことに思えた。
 けれど、石段の上の叫びと同じように、彼女への反発はそのまま自己嫌悪につながってしまう。
 僕は彼女が自分の事しか考えていない事が許せない。
 それは裏返せば、僕が、僕の幻想を彼女に支えてもらいたかったと言う事なのだ。
 それが甘えだとしても。
 勿論、甘えなのだ。自分の幻想くらいは自分で守るのが当然だと思うから。
 だから、彼女へ怒りを向けることは、自分の弱さを責めることになる。
 僕は、彼女と自分の間を、怒りの波と自己嫌悪の波に交互に乗りながら往復していた。
 僕は、自分の事しか考えられなかった彼女が腹立たしい。けれど、それは僕が自分の弱さを自分で守れないからだ。自分の弱さについて、彼女に腹を立ててみてもどうにもならない。
 僕の思考は完全にそのループにとらえられ、脱け出すことが出来なくなっていた。
 どこまでも歩き続けながら、いつまでも考え続けていた。同じことを、同じように。胸が悪くなるような不毛さを感じながら。
 飽和しかかった感情が、何故か涙を込み上げさせている。
 視界を流れる風景が、その輪郭の鋭さを失い始めていた。
 僕は何をしているのだろう。こんな冒険を思いつかなければ、いや、あの時、改札口を駆け抜けてしまわなければ、今頃は給食を詰め込んで血の巡りの悪くなった頭で、午後の最初の授業を聞き流しているだろう。
 今の僕には、それは目もくらむような平和な情景に思えた。
 いや、せめて、あそこで話しかけずに尾行を続けていればよかったのだ。そうすれば、図書館に行くことも無く、恐らくあのまま調査も進展せず、そのうちに僕も飽きてしまって平和に彼女から離れて行けただろう。
 そして今日という一日を無為に過ごすのだろうが、それでさえ、今の僕には最高に望ましいものに思えた。
 要するに僕は今日という日の何も彼もから逃げ出したいのだ。
 立ち止まれないのも、考えることを止められないのも、その逃げ道を見付けたい一心からなのだ。
 けれど、うまい逃げ道は見つからない。そもそも、そんなものは無いのかも知れない。だから立ち止まれない。
 それで、同じ思考の輪の上を回り続けているのだ。
 彼女は何故急に本当のことを言おうとしたのだろう。何故嘘を付き続けられなかったのだろう。何故罪悪感に耐え続けてくれなかったのだろう。それは二人の平和を守る事になっただろうに。彼女が勝手についた嘘なのだから、それは殆ど彼女の義務とさえ言えるのに。
 けれど彼女は耐えられなかった。それはもう取り返しの付かない事実。
 僕はどうすればいいのだろう。
 それが分かれば立ち止まれるのだ。
 もう足が痛かった。
 息も切れていた。
 考え疲れてこめかみに鈍い痛みさえ感じている。
 何をどう考えれば良いのかさえ分からなくなっていた。どうやって考えれば、僕がするべき事までたどり着けるのか分からない。
 もしかすると、僕はこんなふうに何かを考えたことが無かったのかもしれない。知っているというだけの事を、生意気に口にして、自分が物を考えているのだと誤解していたのだろうか。
 誰かが考えたことを、そのまま頭の中で繰り返すことと、自分で考えることの違いが僕には分かっていないのかもしれない。どんな難しいことでも、人が考えたことを繰り返すだけならば、自分で考えたつもりになることは簡単だ。そのことに全く気が付かないまま、僕は自分には難しいことを考える能力があるのだと、それどころかそれが得意なのだと思い込んでいたのだろうか。
 その誤解に気が付かないまま、冒険に出なければいけないと考えたつもりになって、その結果こんなことになっている。
 冒険に出たりする前に、僕は、何よりもまず自分で考える力を獲得するべきだったのかもしれない。
 けれど、今更そんなことに気が付いた所で僕は自分の足を止めることは出来ない。
 しかし、そう思った瞬間、僕の足は思いもよらなかった理由で止まった。
 僕の目の前に駅があった。
 駆け抜けて行ったあの改札があった。
 僕の足はその情景を前にして立ち止まっていた。
 まだやり直せるかもしれない。
 また電車に乗って、違う駅で、例えば学校のある駅で、もう一度改札をくぐって、初めからやり直せるかもしれない。
 何も思いつかずにこうやって歩き回ることしか出来ないのなら、それだけが僕に出来ることなのかもしれない。遅かれ早かれ、僕はここにたどり着く他は無かったのではないだろうか。
 両肩から力が抜けて行った。
 それは、昔の紀行文の中で読んだ言葉だったろうか、どんなに無目的に旅を始めてみても、その終わりに必ず「家へ帰る」と言う目的が待っているのが面倒臭い、と言うのは。反対に、還るべき場所を探すためだけに旅へ出続けるのだ、という言葉もどこかで読んだことがある。
 僕の冒険も、どんなに今と違った展開をしていたとしても、その最後の情景は同じだったのだろう。それがこの町でなかったとしても、同じように駅の改札をくぐって、家へ帰る。考えることさえ忘れていた程、分かり切った事。
 もし今ここで目の前の改札をくぐったとしても、それは同じ情景に過ぎない。
 その時抱えている気持ちは丸で違うものかもしれないけれど。
 今のこの気持ちで電車に乗るのは、確かに辛い。
 せめて、あの石段の上で諦めて帰ることにしていれば、その方がどれくらい楽な気持ちで家路につけたか分からない。
 じっと駅を見つめたまま、僕は深くため息をついた。こんな形で彼女と別れたくはなかった。あのまま食事をして、お互いを慰め、労い、重い足取りであっても一緒にここまで来て、そして別れたかった。
 「こぼち地蔵」の話だって、その道々で話していれば、もっと楽しい話しになっていたはずだった。
 そう、あの話には僕が特別に気に入った後日談があったのだから。
 「秘密の場所」の発見を断念した後ならば、それはこの調査を締めくくる気の利いたオチにさえ思えたはずだ。
 ある地元の郷土史家がその「こぼち地蔵」を特定しようとして調査をしたのだが、結局発見できなかったというのだ。昔話が広まった事で誰も子供を叱れなくなってしまい、石で叩かれるままになってしまった地蔵はそのまま削られ続けてついに無くなってしまったのだろうと、その郷土史家は結論していた。
 どことなく、僕らの調査と類似を感じさせる話だと思うのだ。伝説になってしまったその地蔵と同じように、彼女とその祖父の秘密の場所も時間の流れの向こうで伝説になったのだと思えなくも無い。
 もちろん、その郷土史家の結論が冗談だということは分かり切っている。いくら何でも形がなくなるまで石像を削り続けると言うのはあり得ない。せいぜい首を失う程度で、体の部分まで壊されることがあるとは思えない。
 シルクロードの磨崖仏ではないのだから、穏和なこの国の気候の中で、そう簡単に全てが失われることなど・・・。
 何故か、その連想が僕の思考の流れに急ブレーキをかけた。何処かが引っ掛かった。
 何だろう。
 磨崖仏を思い浮かべたとたん、心の中で何かが瞬いたのだ。
 磨崖仏・・・。違う、そうではなくて、崩壊した磨崖仏の方だ。その枠組みだけが、崖にアーチのように空しく口を開けている。丸で、そう、プレートを剥ぎ取られて目的を失った石碑の様に!
 ・・・勿論ただの連想だ。彼女の言葉に繋がる様に、無理やり希望的なこじつけをしているのだ。
 そうだろうか。
 お地蔵様と聞いて、つい全身を削り出した石像を思い浮かべていたけれど、レリーフ状に作られたものもたくさん有るはずだ。それが昔話のように削り取られてしまったのだとしたら、それはプレートを失った石碑に見えることも十分有り得るんじゃないだろうか。
 とくに子供の目には、その二つを区別することは難しいかもしれない。最初に石碑だと思ってしまったなら、その誤解はなかなか解けないだろう。
 それに、祠と石碑が並んでいたという今一つしっくり来ない話しもそれで納得できる。御神体と、それを祭るための祠だったとしたら並んで建っていることに何の不自然も無い。
 それより何より、これは今迄で一番具体性の有る、追求するべき手掛かりだ。
 僕は突然高揚して来た気持ちを持て余していた。
 そう、図書館の資料のコピーの中には郷土史家が調査した時に使った地図の写しも有った。あれを元にして、今の地図上に調査対象を探すこともできるはずだ。
 僕は改めて駅の改札口を見つめた。
 二つの選択が目の前にあった。
 一つには、このまま家へ帰ること。
 もう一つは、彼女の元へ帰って、投げ捨てて来た資料を見て、そして、なんとかまた調査に加えてもらうこと。
 僕は深い深い溜息をついた。
 選択の余地があることが、これほど心を和ませる物だと、初めて知った。
 ついさっきまでの僕は、為す術もなく、ここに立っていた。それが今、僕には選ぶことが出来る選択肢があるのだ。
 これまでの不安を埋め合わせるように、さらに溜息一つ分だけ、僕は安堵感を味わってから、僕は走りだした。
 彼女と別れた石段へ向かって。
 駆けだした僕の顔は笑っているに違いなかった。
 僕は何故あんなに怒っていたのだろう。
 確かに彼女は探偵ごっこというゲームをぶち壊しにした。
 けれど、「ごっこ」ではない、本当の調査の目的はそのまま残っていたのだ。そして、僕は探偵ごっこと同じくらい、その調査にも魅力を感じられるのに。
 僕のしたことは取り返しのつかない事だったかもしれない。
 けれど、僕は彼女の元へ帰るしか無いのだ。
 僕が、彼女と一緒に冒険を続けることを心から望んでいる以上は。


 8 石段の上/迷子のセオリー(私)

 太陽は中天を越えて西の空へ進んでいた。
 私を取り巻いているのは、もうさっきまでの夢幻めいた静寂ではなかった。一日の終わりへ向けて慌てて息を吹き返したように、どの通りも賑わい始めている。学校帰りの学生達、夕飯の買い物に忙しい主婦、夕刊の配達を始めるオートバイ、慌ただしく走る配達のトラック、そんな人通りと車通り、そして犬の吠え声までもが、突然精彩を帯びて、それがまるで私の焦りを追い立てているかのように思える。
 そう、私は焦っていた。
 コバヤシ少年の姿を見付けられないから。
 新たな「松脂の香り」という手掛かりを見いだした、あの猫の啓示の直後から、私は彼を捜し始めていた。
 私が出口の無い迷路でもがいているうちに、私の無意識は見事に一つの壁を突破して見せたのだ。何を探していたかも分からないままだったのに、私が探していたものの一つ目は見つかった。それはやはり、あの秘密の場所を捜し当てるための手掛かりだった。
 そうであるならば、次に私が捜し出さなくてはならないのはコバヤシ少年以外にあり得なかった。
 今度は私自身が突破しなければならなかった。
 答えの半ばは無意識が出してくれている。私がするべきなのは「コバヤシ少年」を主語にして「私」の質問を繰り返す事。
 あの時、コバヤシ少年は「私」がどんな言葉をかけることを望んでいたのだろう。
 今、コバヤシ少年は「私」がどうすることを望んでいるだろう。
 その上で、「私」は決断すればいいのだ。「私」が彼にそうすることを望んでいるのか、そうするべきだと思うのか。
 「私」は決断した。
 もし彼がそれを望んでいるのなら、「私」は彼と一緒に調査を続けたい。
 手にした新しい手掛かりが、胸の奥で白熱しているように思えた。そして、その光と熱は、彼と共有して初めて私の喜びに変わるはずなのだ。だから、何よりもまず彼を探さなければならない。
 私は思いつく限りの場所を捜し続けた。私が彼と歩いた道という道、彼と訪ねた場所という場所。けれど、どこにも少年の姿は見つからなかった。
 最初に出会ったあの駅から、もう家へ帰ってしまったのかもしれない。そうだとしたら絶望だった。私はコバヤシ少年ではない彼自身のことは殆ど何も知らないのだから。
 それでも、何故か、後悔の気持ちは湧かなかった。今となっては、コバヤシ少年もあの猫の感触と同じ、運命の一部分なのだという漠然とした思い込みが有ったからだ。だから、彼が私から失われるときには、そうなることも運命づけられていたのだと、納得できそうな気がしていた。
 けれど、それは、全てのするべき事をした後、考えるべき全てを考えた後での話だ。
 考える。
 無意識に任せたりせず、今度こそ「私」が考える。
 彼だって、いずれは家へ帰らなければならないのだから、駅の改札で張り込んでいれば、いつか必ず姿を現すだろう。
 駅へ向かうべきだろうか。
 一方、もし彼が私との調査を望んでいるのだとしたら、彼は何処へ行くだろう。
 彼が私との再会を望むのなら・・・。
 唐突に、昔両親から聞かされた迷子のセオリーが閃いた。
 もしも迷子になったら、決して歩き続けないで、立ち止まること。
 もし、コバヤシ少年がまだ私との調査を望んでいるのなら、私たちがお互いを見失った場所、あの石段の上へ向かうのではないだろうか。
 駅か、石段か。
 私は、ついに立ち止まって、荒い息を吐きながら考えた。
 私はどちらで彼を待つべきなのか。
 いや、私はどちらの彼との再会を望むのか。
 落胆し、私との調査ではなく家路へつくことを選んだ彼か、私との調査を続けることを選んだ彼か。
 それならば、答えはもう出ていた。
 私はあの石段を目指して駆け出す。
 全速力で。
 もう分かっていた。
 そこにコバヤシ少年がいてもいなくても、そこで彼を待ち続け、もし彼と再び会うことがなかったとしても、私は自分を笑ったりはしないだろう。
 朱を帯び始めた町並みが、視界を流れて行く。
 もう分かっていた。
 この後、秘密の場所が見つからなかったとしても、私はそのことを祖父に告げることができるだろう。そして、謝ることが。
 すっかり勝手の分かったこの町、あの石段への最短距離を走り抜けることもできる。
 私は石段の麓へたどり着き、そのまま駆け登る。
 息はとっくに切れている。呼吸の度に鋭く肺が痛む。
 ふらつく足を石段に叩きつけるようにして、私は上り続ける。
 目の前を擦り減った石の肌が果てしなく流れ落ちて行き、その映像に感覚が麻痺しかかった頃、不意に視界を覆っていた石の列が途切れた。
 突然開けた視界に思わず立ち止まる。
 そして、その情景の中に、コバヤシ少年の呆気に取られた顔がはめ込まれていることに気が付く。
 私は、荒い息の下から言葉を押し出そうと必死になった。早く声をかけなければ、彼がまた逃げ出してしまうような気がした。
 何度か失敗したが、コバヤシ少年はその間もおとなしく待っていた。
 私は、ようやく一言だけ口にすることに成功した。
「君を、探してたの。」
「待ちましたよ。」
 間髪入れずに返された彼の言葉に、思わず笑みがこぼれる。
 これは、多分あの時に出来なかった笑いなのだ。不意に、私はそう気が付いた。
「ありがとう。」
 私の言葉に、コバヤシ少年もつられたように笑顔になった。
 こんな簡単な言葉を見つけることが、どうしてあの時できなかったのだろう。


 8 石段の上/迷子のセオリー(僕)

 「すみませんでした、あんな、酷いことを言ってしまって。」
 それが、待っている間に考え続けた、本当は第一声になるはずの言葉でした。
 僕は、結局あの石段迄もどっていました。そして、そこに貴女が居ないことを知った時、僕は待つことに決めたんです。貴女を捜しに町へ戻るよりは、その方がいいと思ったからです。
 もし、貴女が調査を諦めて、僕にも構わずにこの町を離れてしまったのだとしたら、それまでのこと。自業自得でしかないのですから。
 それよりも、僕は信じて待つことにしました。
 もし貴女が僕を探してくれているのならば、いずれはここに戻ってくるに違いないと。
 一度は貴女の事を裏切り者だと決めつけた僕にとって、そうやって貴女を信じることは、一つの贖罪行為だと思えたのかも知れません。
 ともかく、僕は貴女を信じて待つことにしました。
 やがて、貴女がこの石段を上って来る時を。
 そして貴女はやって来ました。
 新たな手掛かりまでも携えて。
 お互いの打ち明け話が一通り済んでから、僕たちは各々が見付けた新たな手がかりを、それぞれ相手に差し出しましたね。僕は昔話を、貴女は猫との思い出を、なんだか、変に真面目腐ってお互いに聞かせ合いました。
 それをきっかけにして、僕たちは、額を寄せ合って地図と資料をのぞき込み、何事もなかったかのように調査が再開していました。
 あの瞬間の、言葉で言えないような幸福感を、僕は今も忘れていません。
 僕の信頼に、貴女は最高の形で応えてくれました。そして、それが貴女の信頼に僕が応えた結果だと知った、あの嬉しさを。
 僕の読んだ郷土史家の資料から地図に新しい調査地を示す赤い丸印が、大きく書き込まれました。
 そのころには周囲の町並みはすっかり夕景に変わってしまい、夜になる前にと、僕たちは慌ててあの石段を出発することにしました。
 僕たち二人は、立ち上がり、何となく顔を見合わせましたね。理由もなく唐突に込み上げてきた笑いに紛れさせるようにして、貴女は僕にこう言いました。
 ごめんなさい。最初から、嘘なんかつかずに手伝いを頼んで置けばよかった。
 僕は、不意を突かれて驚いて、同時に、何とも言えないくらい急に恥ずかしさが込み上げてきて、直ぐに返事をすることが出来ませんでした。
 例えば、人気のない道で鼻歌を歌っていたところを突然友人に見られたような、そんな気持ちでした。
 だから、僕は必死で、もう良いですと伝えて、出発を促しました。
 それでも、一つだけ、ただの羞恥と違う所があって、その一点が妙な心地よさにつながってもいました。
 それは、確かな居場所がここにあるのだという自信。言い換えると、貴女が僕を相棒だと思ってくれていると言う信頼。
 もう、僕はただ甘えているだけではない。僕も彼女と目的を共有できている。
 そう信じてもいいんですよね。
 先を行く背中に視線で何度も問いかけます。
 返事はなくても良い。
 僕は信じることにしたのだから。 

 けれど、尋ねたいことは他にもあった。
「彼はどうしてそんな二十年前の約束を今になって思い出したんでしょうね。」
「分からないわ。そんなきっかけになるような事は何もなかったと思うし。だから、本当に出し抜けだったの。」
「それでも、先生はその約束を果たすためにここまで来ているんですね。」
「多分、ね。」
「多分ですか。」
「本当は、そんな大事なことを二十年も忘れてた自分が許せなかったんだと思うよ。だから、自分を許す為に来ているのかもしれない。自分の為にね。」
 何と答えればいいのか分からなかった。
 僕が言葉に窮している内に、彼女の方が言葉を継いだ。
「でも、何よりも、嬉しかったのよ。今になってやっと分かって来たけど、嬉しかったの。彼が、そんなささいな事を二十年も覚えていてくれたことが。だから自分の方がすっかり忘れてたことが、悔しくって、許せなくって、それで結局ここまで来てしまったんだと思う。他にも随分いろんな人を、私は待たせているんだと思うけれど。」
 そう言って、彼女は僕の方を見ながら照れたような笑いを浮かべた。
 その笑顔を見て初めて、彼女が僕を見つけたときに言った「ありがとう」の意味が分かったような気がした。


 9 松藾の中で/僕は泣く(私)

 微かな残照の中で、私とコバヤシ少年は闇に溶け込みかかっているお互いの顔を見合わせていた。
 新たに地図に書き込まれた調査地域は、浄水場を中心とした、町工場と住宅が混在して盛り上がった概ね円形の丘になっている。私たちは殆ど走るような速度で、いびつな螺旋を描く様にその丘を上って来た。
 その間中、私たちは黄昏の風景の中に地蔵らしきものを探して四つの目を凝らし、方々の家の厨房から漂い始めたテンプラやカレーの匂いの中から松の香りを嗅ぎ出そうと鼻をひくつかせた。
 道祖神らしきものは幾つかあったが、松の香りと、「私」の記憶との二つの条件を満たすものはなかった。
 そして、とうとう私たちは丘を登り詰め、立ち止まり、今日の最後の陽光の中で互いの顔を見合わせた。
「後はこの中だね。」私は確かめるように言う。
「行きましょうよ。」コバヤシ少年も自分に言い聞かせるように答える。
 残る調査地は、丘の頂に被さるように建設された浄水場の中だけだった。
 業務時間は既に終わり、目の前の正門は閉ざされている。
 私たちは浄水場を取り巻く塀とフェンスに沿って再び歩き始めた。コンクリート製の塀は私の胸程度の高さしかないし、上に立っているフェンスもせいぜい私の身長程度だから乗り越える事に苦労は無さそうだった。人目の無い場所さえ見つかれば。
 それもすぐに見つかった。
 車道のわきに立てられた、畳二枚分位の巨大な看板が格好の目隠しを提供してくれている。浄水場の他には何も無いところだから車通りも少ない。
 後は、車の切れ目を見て塀に手をかけるだけ。
 それでも緊張した。
 手のひらに汗がにじんでいる。
 少年の方も同じ心理であることは、めっきり口数が減ったことで分かる。
 行こうか、と声を掛けたかったが、それは自分の不安を彼に肩代わりさせようとしているのだと気が付いてやめた。彼だって私以上に不安に違いないのだ。だから、声を掛けるなら違う言葉にするべきだ。
 丘の周囲に沿った緩やかなカーブの向こうから乗用車のヘッドライトが現れ、目の前を通り過ぎて行った。その車のエンジン音が遠ざかり、静寂が蘇る。近づいてくる車の音は聞こえない。
 だから、今だ。
「行こう。」
 言いながら、コンクリートの塀に手を掛け、地面を思い切り蹴る。下半身が最高点に達するところで塀に足を掛けながら片手をフェンスの方へ素早く移す。
 シャン!
 フェンスが無数の鈴のように澄んだ音を響かせる。一瞬、怖じけづきそうになる。必死でもう一方の手もフェンスに掛ける。不安に押し潰される前に。早く。
 一瞬遅れただけでフェンスに飛びついて来た少年と一緒に、何千本の金属の棒を打ち鳴らす。悲鳴のような、警報のような音は、金網たちが侵入者に対して騒ぎ立てているように聞こえる。
 その音に追い立てられるようにフェンスの頂から飛び降りる。私の両足を湿った土と下草が柔らかく受け止める。直ぐ隣にコバヤシ少年も落ちてくる。
 フェンスの内側は潅木と広葉樹の林になっていた。着地と同時に私たちは幾つかの茂みをかき分けながらその林の奥へ駆け込む。
 背後の道路に自動車のヘッドライトが走り、大型トラックが荷台を軋ませながら近づいて来た。
 私とコバヤシ少年の歩みが停まり、その場にしゃがみこむ。むせるような土の匂い。
 トラックは猛スピードで通り過ぎて行った。
 騒音が遠ざかり、完全に消え、何事も無かったように静寂が蘇った。
 既に残照も殆ど失われ、林の中では隣にいるはずのコバヤシ少年の姿も、周囲の闇に溶け込みかかった影の塊の様なものとしてしか感じられない。私自身の姿も影と同化してしまっている。
 無言のまま、二つの影はそろそろと進み始める。調査の方法は今までの延長で無言の了解が出来ていた。勿論、この浄水場の中を螺旋状に回って歩くのだ。
 浄水場の外を取り巻いている道路の街灯と、浄水場の中の道に備えられた僅かな照明、時折差し込んで来る自動車のヘッドライト、私たちが利用出来る明かりはそれだけだった。林の中の、足元を確保するのも難しいほどの暗闇の中で、果たして崩れかけた祠など見つけられるものだろうか。
 闇の中での道行きがどれくらい続いただろう。視界全体でうごめく、不定形な影の舞踊が、めまいに似た催眠効果を発揮し始めている。柔らかな下草を踏み付ける四つの足が刻む単調なリズムも時間感覚を麻痺させる。
 突然、となりで重い物が落下したような大きな音がした。
 冷水を頭から浴びせられて夢から覚めたような気がした。
 私が口をきけないでいると、足元の方から少年の声がした。
「すいません、根っこに足をとられて。」
 尻餅をついたということらしい。助け起こしてやりたかったがこの暗闇ではどうすることもできなかった。
 しばらく身じろぎをするような音が下の方から聞こえていたが、不意に沈黙が取って代わった。
 耳が痛くなるような静寂が続く。
「どうしたの。」耐え切れずにコバヤシ少年に呼びかけて見る。返事は直ぐに帰って来た。
「これが・・・。ちょっと地面を触って見てください。」
 慌てて身を屈め、地面に手を伸ばす。
何かが手のひらを鋭く刺した。
私が慌てて手を引っ込めた気配を察して、コバヤシ少年が言った。
「松葉ですよ。もう一度触って見てください。この辺りの地面は松の落ち葉ですっかり覆われているみたいですよ。」
そう言われてまた探って見る。チクチクする手触り。手のひらに張り付いた物をつまみ上げると、細く柔らかな針が二股につながっている。
「ということは。」頭上を振り仰いで見る。十五メートルは向こうで、針葉樹の梢が影絵になって濃紺の空に張り付いている。
 慌てて立ち上がって、手近の木の幹を触る。ゴツゴツとした手触り。鼻を近づけてみる。どこか喉にからむような甘みを含んだ芳香が鼻腔をくすぐる。
「・・・松林なんだ。」
「立派な松林ですね。」いつの間にか立ち上がったコバヤシ少年が言う。
 その時、風が吹いた。
 もしかすると大分前から少しずつ吹いていたのかもしれない。海辺の町を包んでいた夕凪を押し流すように息を吹き返した風。
 その風が、ついに松の梢を渡り、その途端、波が砕けるような音が私たちの頭上へ降り注いで来た。
 数え切れないほどの松の葉がお互いを打ち鳴らす音。松藾と言うのだろう。沸き立つ大波のような音が、私たちを飲み込んで、押し流してしまうように感じる。
 私は突然気が付いた。
 潮騒ではなく、松藾。
 あれは、この音だったのだ。
「この音よ。」
 私は興奮して言葉にし、繰り返した。
「じゃあ、近いんですね。」
 つられたように、少年の声にも力がこもっている。
 四方に目を凝らす。私を取り巻いているのは依然として立体感を失った影絵。
 懐中電灯も持たずに来たことを後悔する。私の聡明な助手は何故そのことに気が付かなかったのだろう。
 いや、そうだ。もちろん懐中電灯なんて使えない。私たちは此処に忍び込んでいるのだから、そんな人目につく行動は思いもよらないことなのだ。
 はやる気持ちに思考が混乱仕掛けている。
 冷静に。冷静に。
 そう思っても、私はじっとしている事が出来ずに歩き始めていた。
 一旦始まった歩みは、落下運動のように見る見る加速されて速度を増す。
 影絵の舞踊が再び始まり、直ぐに狂ったような乱舞へと激しさを増した。
 松藾の大波と色彩を欠いた舞踊の中で、もはや冷静に何かを考えることなど不可能だった。
 私はただ闇雲に歩き続けた。
 肩や膝に次々に何かがぶつかって来たが、一々かまっていられない。
「先生!」
 後に続こうとしたコバヤシ少年が、私の勢いについて来れず遅れている。
 私はそれでも歩みを緩める事ができない。
 とめられない。
 私の心のどこかが吠え立てる。
「どこなの!」
 繰り返し。繰り返し。
 周囲で沸き返る大波と自分の頭の中の、けたたましい咆哮に耳鳴りがしそうだった。
 だしぬけに、周囲から影絵の群れが飛びのいた。
 足が止まる。
 そこは、林の中にぽっかりと口を開けた草原だった。中心が少し盛り上がった円形の野原の姿が、水墨画のように闇の濃淡で辛うじて見分けられた。
 背後の道路にトラックが差しかかり、ヘッドライトの光条が松林を走り抜けて行く。
 重なり合った木々の透き間を通り抜けて来た光は、草原を照らし出すほどの力は無かった。しかし、駆け抜ける光線に応えるように、野原のいたるところで何かがキラキラと光ったのに私は気が付いた。
 一瞬だけ、何十もの光点が闇の中に撒き散らされたように見える。
 トラックが通過すると、輝きを拭い去るように闇がよみがえった。
 ガラスの破片でも散らばっているのだろうか?
 慎重に足を踏み出そうとした私の動きを、目の前の草原から沸き上がるように聞こえて来た不思議な音が凍りつかせた。
 幻聴を疑った。
 しかし、そう思った途端、さらにはっきりと同じ音が草原に沸き返った。
 私は突然その音の正体に気が付いた。
 それは、まぎれもなく何十匹もの猫の合唱だった。


 9 松藾の中で/僕は泣く(僕)

 ほんの一瞬、木の根に足を取られたその一瞬で、僕は彼女を見失ってしまっていた。
 のろのろと立ち上げあり、そのまま途方に暮れて立ち尽くした。
 目を凝らしても、自分の足下さえ満足に見極められない暗い林の中で、彼女がどこへ消え去ったのか見当もつかない。
 耳を澄ましても、頭上から降り注いでくる松の梢のざわめきが彼女の足音を飲み込んでしまっている。
 反射的に大声を出しかけて、慌てて飲み込む。
 僕たちは此処へ忍び込んでいるのだ。
 見えるか見えないか、その境界線上で蠢く無数の影の群れ。悲鳴をかき消すほどでは無いけれど、僕の声は飲み込んでしまう、猿轡のような風音。
 大声を上げてしまいそうなのは、中途半端に僕を搦め捕ろうとするその二つの圧迫を振り切りたいからだ。
 中途半端な闇に目を凝らして、中途半端なざわめきに耳を澄まして、そこに恐怖を見出してしまう前に。
 勿論、そう思ってしまったらもう駄目だった。
 図書館の時と一緒だった。
 突然魔法が解けてしまった様に、僕は一人きりで見知らぬ場所に居た。
 図書館と違うのは、僕に声をかけてくれる彼女が目の前に居ないこと。
 違う、今ならば声をかけてくれる必要さえ無いはずだ。
 彼女と一緒に居られればそれだけで大丈夫だという確信があった。
 その確信が、恐怖に射竦められて凍りついていた僕の足を前に出すための力になった。
 恐る恐るの一歩を、歯を食いしばるように積み重ねて行く。
 行く当てがある訳ではない。
 迷子のセオリーは?
 決して動き回らずにじっと待つこと。
 でも、僕の足は動いている。
 彼女を信じていない訳ではない。
 僕が耐えられなかっただけ。
 彼女はあの「秘密の場所」へたどり着けたのだろうか。今も捜し回っているのだろうか。
 僕が後ろにいないことには気が付いてくれたのだろうか。この暗闇の中でまだ気が付いていないのだろうか。
 その時、僕の緊張したつま先に何かがぶつかった。
 木の根とは違う柔らかい感触に悪寒が走った。一瞬で腹の奥が冷たくなる。
 僕の足は再び凍りついた様に動かなくなってしまっていた。その足元から、甲高いけれど柔らかな細い声が聞こえてくる。
 子供?
 混乱した頭でとっさにそう思う。同時に、ふたたび足に何か柔らかなものが触れてくる。何かが、そう、身を擦り寄せてくるような感触。
 「猫・・・。」
 安堵に思わず声が漏れた。
 尻尾の感触が決め手だった。間違いなく、僕の足元にじゃれついているのは子猫だ。
 今度は、その声はちゃんとニャアと聞こえた。子猫は一声高く鳴いて、ゆっくりと僕の足を離れた。紙をこすり合わせるような音が次第に遠ざかって行く。
 「君には行く当てがあるんだ?」
 妙に名残惜しいような気がして、慌ててその音の方へ足を踏み出していた。
 ?
 それは暗がりで見えなかった低い茂みだった。ちょうど膝の高さのその茂みは、僕の足の動きをがっちりと受け止めた。
 その必然的な結果が脳裏に閃いた時には、僕の体の足以外の部分は慣性に従って弾かれたように前へ倒れていた。
 膝辺りでパキパキと何かの折れる音。
 咄嗟に前に出した手が敷き詰められた松の落ち葉に触れる。と同時にその手のひらに全体重が落ちて来る。
 到底支えられるはずもなく、僕は前転を失敗したような格好で地面へ転がった。
 痺れるような手足の痛み。
「コバヤシ君?」
 どこか頭上の方で彼女の驚いた声がした。
 その姿を求めて必死で顔だけ上げる。林が途切れて開けた場所であることが辛うじて見分けられた。
「せ・・・。」
 僕が先生と言いかけた瞬間、のっぺりとした黒い草原の中で無数の小さな影の塊が散弾のように弾けた。
 突然の事に呆然となる僕の鼻先を何かが物凄いスピードで走り抜けて行った。
 少し遅れて、彼女も駆け寄って来る。
「大丈夫?」
「今のは・・・一体。」
「猫よ。この広場は彼らの集会所だったみたい。」
 彼女に助け起こされて立ち上がる。制服に付いた松葉と泥を払い落として、改めてその猫の集会所を見回してみる。ほんのすこし中央が盛り上がったほぼ円形の草原らしい。
 他にこれといった特徴は・・・
「先生、あの、真ん中のところ」言いながら、こらえきれずに僕は歩き始めた。何かが草原の真ん中で鈍く光ったのだ。もちろん、逃げ遅れた猫の目ってことも有り得るけれど。
 近づいてみると、そんなものでないことはすぐに分かった。小型の金庫位の直方体が二つ並んでいる。恐る恐る手を伸ばしてみると、冷たい、滑らかな石の感触。
「先生、一寸だけ、照らしてください。ライター持ってますよね。」
 長く焦れったい衣擦れの後、不意に灯ったガスライターの炎が、ワンカップ酒や変な人形や萎れた花や訳の分からない布や紙を充満させた、石作りの質素な祠と、その隣の、石で作られたテレビの様に見えるもう一つの物体の姿を照らし出した。ライターの炎は風で直ぐに吹き消されてしまったが、その短い間で十分だった。
「先生・・・」
「・・・ここだ。」
 押し殺した彼女の言葉が、僕の胸の奥で何か熱いものを爆発させた。
 たどり着いたのだ。やっと、彼女の秘密の場所に。
 感動に身を委ねかけて、僕は慌てて気を引き締めた。まだ、肝心のことが残っていると気が付いたのだ。
 彼女が埋めたという宝物を見つけるまで、まだ気を抜いてしまうわけにはいかない。
「先生、掘ってみましょうよ。」
「ちょっと待って。」
 思いも寄らない彼女の鋭い語気に驚く。
 呆気に取られた僕の隣で、彼女は急にしゃがみこんでしまった。混乱に脅えが忍び込み、僕は声をかけることもできなかった。
 長い沈黙が続いた。
 頭上から周囲に移動した松葉のざわめきが、潮騒に似て僕たちを包み込む。
 出し抜けに、その遠いざわめきを引き裂いて彼女が笑い始めた。
 始めは押し殺した忍び笑いだったものが、直ぐに弾けたような大笑に変わる。
 笑い声の下から、必死で言葉が吐き出されて来た。
「思い出したわ・・・そう。・・・私が埋めたのは、つまり、松脂の塊だったのよ。」
「なんですって?」思わず僕が上げた頓狂な叫びに、彼女はようやく笑うのをやめた。
「怒らないでね。あのね、変だと思ったんだけど。確かにここにあるのは私の記憶と同じものなんだけど、唯一つだけ違う所があって。確かに松林からほのかに松脂が香ってるけど、あの、記憶の中の松脂の香りはもっとずっと強烈なものだったの。で、変だと思った途端に思い出したわ。松脂の香りは、宝物その物の匂いだったの。宝物は松脂だったのよ。」
「なんだって、そんな物を。」
 多分、僕の声が憮然と聞こえたのだろう。彼女は丸で張り合うように不服そうな、でも決して不機嫌ではない声音で答えた。
「だから、怒らないでねって言ったのに。あのね、彼は、私の祖父は一つ宝物を持っててね。何でも偉い人から貰った物らしいんだけど、それは、昆虫の羽が入った琥珀を使ったカフスボタンで、私に自慢して見せてくれたことがあったのよ。それは本当に奇麗で、羨ましくってね。それで、その奇麗な石は何なのか教えて貰ったんだけど。知ってるでしょ、琥珀の出来方。」
 勿論。琥珀ははるか昔の樹液が化石化したもの・・・。
 そして、そのまま言葉を失ってしまったことが、彼女に僕が真相にたどり着いたことを確信させたようだった。
 彼女は愉快でたまらないように聞こえる声で言った。
「そうなのよ。それを聞いて、ちっちゃな私は直ぐに林で松脂を集めたの。それをこの秘密の場所に埋めて、琥珀が出来るのを待ったのね。・・・それはもう楽しみにね。」
 そう言って彼女はまた笑った。僕も一緒に笑いたかったけど、何故か、何かが胸に込み上げて来て出来なかった。妙にヒリヒリする喉から必死で声を絞り出す。何も言わなければこのまま泣いてしまいそうだった。
「どうします。掘ってみますか。もしかしたら、何か出てくるかも知れませんよ。」
 彼女は僕の様子に気が付く風もなく軽やかに答えた。
「やめておくわ。もう子供じゃないんだから、神様のお休みの邪魔をするのは余り良くないんじゃないかな。それに祖父が楽しみにしてると言ったのは、ここに連れて来て貰うことで、宝物を見せて貰うことじゃなかったしね。多分彼は知ってたんじゃないかしら。宝物の正体を。」
「じゃあ、無駄じゃなかったんですね。今日の調査は。」
 心のどこかがほっとする。笑ってごまかしてしまうには、僕にとって今日という一日はすでに余りにも大切な物になってしまっていた。
 無駄じゃなかった。
 その自分の言葉を繰り返して必死で自分を慰める。けれど、胸の奥の妙なモヤモヤは消えない。それどころか、黒く冷たい闇の塊が後から後から沸き上がって来て息も詰まるほどだった。その沸騰する闇の正体は分からない。僕に分かるのは、それが図書館や林で彼女を見失った時とは違う、胸を締め付けるような冷たく切ない肌触りを持っているということだけだった。
「最初から、ここで何が見つかるか知っていたとしても、私は今日ここに来ていたわ。彼が二十年も大事に覚えていてくれた、あの約束をしたのが、私自身だって確かめるために。その約束をした「私」がちゃんと私の中にいるって確かめるために。それが確かめられなきゃ、もう直ぐ彼が居なくなってしまうことを、胸を張って悲しむことも出来ないもの。」
 その彼女の晴れ晴れとした口調と言葉が、不思議なほど遠く聞こえる。心の闇と夜の闇との中で、僕はすぐ隣に立っているはずの彼女を見失っていた。
 そして、彼女は決定的な、その言葉を口にしたのだ。
「さあ、帰りましょうか。」
 その言葉が、僕の心の何かを壊した。
「嫌です。」
 僕は震える声で言った。
 胸を塞ぐ言いようもない切ない闇、そしてその切なさと表裏一体になって膨れ上がって来た怒りとが、声を震わせたのだ。
「僕は帰りません。」
 その瞬間、とうとう暖かい涙が頬を伝うのが感じられた。悲しくて泣いているのか、怒りの為なのか、分からない。
「どうしたの・・・?」
 彼女の戸惑った声がどこから聞こえて来るのかも分からない。
「まだ何も終わって無いんです。」
「何がどうしたのよ。」
「元々どうかしてたんです。」
「何を言ってるのか分からないわ。」
 何かが喉を塞いで答えられなかった。
 再び松のざわめきだけが存在する唯一の音になった。ポタポタと涙だけがとめどなく落ちる。
「もう、帰らなきゃいけないんじゃないかな。」
 噛んで含めるような口調で彼女は言った。
「嫌です!」
 僕は叫び声でそれに答え、自分の叫びに沸騰してしまった感情を大地に向けた。湿った土に指を食い込ませ、引き裂くように地面を掘る。爪の隙間に土と落ち葉が入り込んで来るのもかまわずに、土を引きちぎるように掘り続ける。
 何かわめいているのかもしれない。
 涙が止まらない。
 馬鹿なことをしているのは、心の隅で最初から分かっている。それでも僕は大地を掻きむしり続ける。
 何故?
 何のために?
 疑問と同じように、答も突然やってきた。
 彼女は彼女の冒険で彼女の宝物を見つけだした。
 僕は?
 僕の手は何も掴んでいない。
 そして、この地面の下にも僕の宝物は埋まっていない。それは分かっている。
 そんなことは分かっている。
 手は止まっていた。痛みで痺れた両手には何の感覚も無い。こんな手では何も掴めない。涙だけは止まっていない。彼女がまだここに居るのか居ないのかも分からない。
 松のざわめきと、どこかで子供が泣いているような声だけが聞こえる。
 その泣き声が自分の喉から絞り出されているのだと気づくには、少し時間がかかった。


 10 仮名の別れ/汽車は今、朝の中(私)

 立ち並んだ家並みに切れ切れにされた朝の陽光が車窓から差し込んでいる。通夜の後、葬儀に出るのはやめてしまった。彼が煙になってしまうのを見なくても、その死は十分に実感出来ている。この世から彼の存在を抹消するための手続きは、私以外の人達に任せようと思う。
 私はコバヤシ少年との冒険談を彼に話して聞かせることが出来た。それ以上望むのは贅沢とも言えるし、彼を自己満足の道具にしてしまうことにもなりかねない。だから、今はもうこの世界にいない彼のために、役に立つ振りをするのは嫌だった。
 午前の中途半端な時間帯に、乗客はまばらだった。柔らかな朝の日差しと、心地よい振動、そしてレールと車輪が刻む間延びした階音が寝不足の脳を快く包み込む。
 もう、この世界のどこにも、彼はいないのだ。
 眠気に汗ばんだ手をゆっくりと開いてみる。琥珀のカフスボタンが一つ現れる。その美しい輝きの中には昆虫の羽が一枚封じ込められている。
 昨夜のうちに祖母にねだって、もらっておいた、彼と私の宝物だ。
 そして、これはコバヤシ少年の宝物ではなかった。最後までその事に気付けなかった後悔は、今でも胸を焼く。
 あの時、泣き崩れた彼をどうすれば良いのか、私には分からなかった。彼が何故泣いているのか理解出来なかったからだ。幸福な達成感の中で、私は少年の心の移り変わりに気が付かなかった。だから、あの時、コバヤシ少年がまるで知らない男の子に豹変したとしか思えなかった。
 私は無力だった。目の前で泣き伏している少年の何一つ理解出来ず、掛けるべき言葉も思い浮かばなかった。それは、丸で見ず知らずの誰かが目の前で泣いているのと何の違いも無かった。
 それまで冒険を共にしていたはずの相棒はどこにも居なかった。そこにいたのは、剥き出しになった一人の男の子だった。その男の子と私は、今日始めて知り合い、半日をともに過ごした。剥き出しになったのは、その二人の関係そのものだったのかもしれない。
 それは即ち、「私」と「コバヤシ少年」の探偵ごっこが終わったということに他ならなかった。

「コバヤシ君、帰ろうよ。」
 あの時、妙に寒々とした現実感の中で私はもう一度彼に声を掛けた。そして気が付いた。わざわざコバヤシ君と呼びかけたのは、彼がコバヤシ少年であることを無意識のうちに確認しようとしたのだ。
 彼がまだコバヤシ少年を続けているのか、それとももう役を離れてしまっているのか。
 私たちの探偵ごっこはもう終わっているのか、そうではないのか。
 終わったのだ。
 それがコバヤシ少年の涙の、私に理解出来る唯一の意味だった。
 もうコバヤシ少年ではなくなってしまった一人の男の子は、私の足元辺りでしゃくり上げながら泣き続けている。彼がコバヤシ少年でない以上、私にかけられる言葉があるはずもなかった。この男の子と私は、もう一度「はじめまして」から関係を築かなければならないのだと分かったから。
 そのためには、私が「先生」をやめなければならない。けれど、その時は、どうすればそう出来るのか分からなかった。
 だから、私にはこう言うほかなかった。
「君・・・泣かないで。それから、出来たらもう一度だけコバヤシ少年に戻ってくれないかな。私と駅まで行って、別れるために。お願い。」
 少年の泣き声が止まり、まだしゃくり上げ続けてはいたが、私に注意を向けたのが分かった。
「僕・・・は・・・。」
 少年の、しゃくり上げる下からの言葉が私を勇気づけた。
「あの、さ、このまま、仮名の二人のまま別れる事にしようよ。駅まで行って、コバヤシ君と、先生のまま、さよならをしようよ。たとえば、もし、ここで今更お互いに名乗りあってしまったら、私は本当の君と、君の演じたコバヤシ少年とをごちゃ混ぜにしてしまうと思うの。君も、私を先生と呼び続けることになるんじゃないかな。それは、多分、不幸なことだと思うの。・・・分かるかな。・・・私もよく分かってないんだけど。何となくそんな気がするのよ。」
 自分の言葉の拙さがもどかしかった。少年に、きっと今、伝えなければならないことがあるはずだった。
「君と私は、コバヤシ少年と先生として出会ってしまったから、今は、その同じ役回りの中で別れるべきなんだと思う。今泣いてる君は、多分本来の君自身で、コバヤシ少年じゃないと思う。まだ、役を離れるには早いわ。冒険は、ちゃんと、出会いと別れで終わらせなくちゃ。そうしないと、私たちはこの冒険ごっこを終わらせられないままで、生きて行くことになってしまいそうだから。大袈裟に聞こえるかもしれないけど。・・・でも、私の始めた冒険ごっこの中で、君が泣くのは変だと思うのよ。それは、もう君が君自身とコバヤシ少年との境目を見失いかけているんだと思う。・・・だから、つまり・・・。」
 言葉が思い浮かばなくなって口ごもってしまった。その時、少年の立ち上がる気配が分かった。
「先生。分かりました。分かったと思います。僕・・・悲しかったんです。ここに僕の宝物が見つからなかったから。でも、当たり前ですよね。これは先生の冒険で、僕はそれにコバヤシ少年として参加してたんですから。」
 裾の泥をはらう音。その音が、何故か頼もしく響く。
「帰りましょう。先生。」
 コバヤシ少年が私の隣に立っていた。
 私は、思わず彼を抱きしめていた。再び私の隣に帰ってきたコバヤシ少年への、私の最高の歓迎の表現だった。
 それは同時に、この直ぐ後に待っている彼との別れを惜しむ気持ちの表現でもあった。
 私の腕の中で、コバヤシ少年が硬直しているのが分かった。突然のことに面食らっていたのだろう。
 私はゆっくり彼を解放して、あえて明るい調子で言った。
「帰ろう。」
 私たちは、暗い林の中をそれぞれの帰るべき場所へ向かって歩き始めた。
 お化粧をしてこなくて本当に良かった。
 林を抜ける頃までには、私の顔に涙の跡を見分けることは出来なくなっているだろうから。
 殆ど口を開かないまま、私とコバヤシ少年は駅まで歩き、そのまま別れた。

 それで本当に良かったのか、それは未だに分からない。私の自己満足でしかなかったのかもしれない。それでも、彼と笑って別れることは出来たのだ。
 あれが私に可能な誠実さの限界だったのだから、それを今更後悔はしない。
 それよりも、今はもっと切実な一つの謎があった。そのために再び私はこうして電車に揺られているのだ。
 もう一度手のひらの宝物を見てみる。
 たった一つのカフスボタン。
 何故か、それは一つだけだった。


 10 仮名の別れ/汽車は今、朝の中(僕)

 勿論、親からも教師からも大目玉を食らわされた。これも勿論、本当のことなど説明のしようもなかったから、僕はひたすらそれがただのサボリだったように振る舞って、神妙に怒られた。
 本当に反省もしていた。
 ちょっと位らしくない事をしてみたからと言って、成長なんか出来やしない。ちょっと人と違うことをしてみたって、特別な人間になれるわけじゃない。そんな簡単なことがやっと分かっていたから。
 きっと、焦る必要はないのだ。いつか、あの「先生」の様に、僕のための冒険がやってくると信じるのだ。その時に後悔しないように、今はとりあえず勇気を蓄えることが必要なのだ。
 今にして思えば、結局僕には勇気がなかったのかもしれない。誰もがすることを、ただ同じようにしているだけの自分、その自分の中の空虚さを正面から見つめる勇気が。
 だから、慌てふためいて「冒険」を求めたりしたのだと言う気がする。
 あの日、探偵ごっこの終わりを彼女に宣告された時にも、僕にはそれを受け止める勇気はなかった。
 多分、今の僕にもその勇気は無い。
 だから、僕はこうして電車に乗っているのだ。今度こそ、学校をサボるなんて余分な演出は無しで、日曜日に、私服で、コバヤシ少年ではない僕自身があの場所に立つために。今度こそ、僕自身で、僕の演じたコバヤシ少年の終わりを確認するために。
 彼女が仮名のままで僕と別れてくれたのも、僕にそのチャンスを残そうとしてくれたからだと思う。
 別れ際の、彼女の突然の抱擁を不意に思い出し、僕は慌てて首を振った。
 あの日以来、何度と無くその場面を思い出しては、落ち着かない気分になって、その動作を繰り返している。
 膝の上で両手を握りしめる。
 あらためて、仮名のままの別れを用意してくれた彼女の思いやりに感謝する。
 あの時、彼女が抱きしめたのは、僕ではなくコバヤシ少年だった。それはよく分かっていた。あれは、冒険を共にした相棒への、彼女の別れの挨拶だったのだろう。
 そして、今度は僕自身がコバヤシ少年という仮名に決着をつけなければいけないのだ。
 電車は学校の駅を通り過ぎ、再び切り通しを走っている。あの日、同じ風景を眺めた僕の気負いを思い出して少し苦笑する。その間に列車は速度を落とし、あっけなくあの駅に停車した。
 ホームに降りる。
 一両挟んだ前方の車両から降りる一人の女性に目が留まる。目の錯覚を疑ったが、それは紛れも無く彼女だった。真っ黒な喪服に身を包んでいるし、お化粧もしている。それでも、間違いなく彼女だった。
 彼女は、僕に気が付かずに改札へ向かって歩いて行く。
 声を掛けようか、けれど、そうしてしまったら僕は再びコバヤシ少年になってしまうのだろうか。それに多分、あの祖父が亡くなったのだ。彼女が友人の思い出を懐かしむ邪魔をするようなことはやめるべきかもしれない。
「あの・・・。」
 けれど、僕はそう口にしていた。
 彼女が振り返り、一瞬考えて、僕の事に気が付く。そして、笑顔になる。
「あの・・・今日はどうしてここに。」
 言いながら、僕はまだ迷っていた。彼女を何と呼べば良いのか。
「実は、とうとう祖父が亡くなったの。それで、これをもらったのよ。」
 彼女が差し出した掌には、琥珀のカフスボタンが美しく輝いていた。その琥珀の中に、昆虫の羽が封じ込まれているのが見える。これが彼女と、そのおじいさんの宝物。
「ところが、見つかったのはこれ一つだけなの。二つで一組のカフスのはずなのに、ケースの中にはこれ一つだけが大事そうにしまわれていたの。」
 彼女はためらうように口ごもった。僕はまだ結論の出ない問題を抱えたまま、言うべき言葉を持たなかった。長い沈黙の後で、彼女が再び口を開いた。
「君こそ、どうしてここに。」
「それは・・・。変に思われるかもしれないんですけど、今度こそ、コバヤシ少年じゃない僕自身の目であの場所を見ようと思って。それで、あの日の事にきちんとしたけじめがつけられるんじゃないかと思ったんです。」
「なるほどね。」
 再び沈黙。でも、彼女は僕のことを「君」と呼んだ。「コバヤシ君」ではなく。
「じゃあ、手伝ってもらえるかしら。」
 彼女が思い切った調子で言った。
「彼は、このカフスボタンを本当に大事にしてたから、一つだけなくすとは思えなかったわ。それで、祖母に聞いてみたのよ。するとね、何と二十年も前から、祖母はこのカフスを見てないって言うの。彼女が尋ねた時は、祖父はどこかで落としたと言ったらしいけど、でも、慌てて探すようなこともしなかったらしいのよ。それで、二十年前ってのが気になっちゃってね。」
 彼女は少し苦笑したように見えた。
「それで、もしかしたら、まさかそんなはずはないと思うんだけど、でも、もしかしたら、あの秘密の場所に、このカフスのもう一つの方があるんじゃないかって気がしたの。彼は実は秘密の場所のことも、そこに埋められている物のことも知ってて、それで、このカフスの一つをそこに埋めてくれたんじゃないか、なんて考えちゃってね。」
 照れたように、彼女は僕に笑い掛ける。思わずつられて僕の口元も緩む。安心したように彼女は言葉を継いだ。
「それで、確かめに来たんだ。あの場所にこれと対になるものが埋まっているのかどうか。無いに決まってるんだけど、でも、現にここには一つしかカフスはないんだから、きちんと確かめてみるのも良いかと思って。それで・・・手伝ってもらえるかしら。」
「・・・ええ。勿論。」(今度こそ、本当の僕が)心の中でそう付け加える。
 多分僕はもうすぐ彼女の名前を知ることになるだろう。そして彼女も僕の名前を知ることになる。
 今度こそ、僕は走り抜けずに改札を出ることが出来るだろう。そして、彼女と二人で再びあの秘密の場所へ行く。そこで何か見つかるのか、見つからないのか、それは分からない。けれど、僕はそこに僕の宝物が無いことはもう知っている。
「ありがとう。じゃあ、行きましょうか。」
 そう言って、彼女は改札へ向けて再び歩き始めた。遅れずに僕も歩き始める。
 並んで改札に差しかかった所で彼女が言った。
「あの、今更なんだけど、自己紹介しようか。」
 僕は笑って、それから頷いた。


 *  *  *

 これで、この物語は終わりだ。
 この後の出来事についての記述は、ノートのどこにも存在していない。だから、「私」と「僕」の本当の名前や、その後について知るための手がかりはない。
 このノートの筆者の誰も、この後の出来事を記述したいとは思わなかったのだろう。その気持ちは私にも分からなくはない。何故なら、私自身がこの後の出来事を創作することに強い抵抗を感じるからだ。想像を巡らすことは出来る。けれど、それを一つの形として書くと言うことには、言いようのないはっきりした抵抗感があるのだ。
 さて、ここで、本文中に取り上げることが出来なかった、ノートの目次のような部分をまとめて記しておく。

 始まりの線路の上
 最初の探索
 交差点
 旧家
 ここにいる二つの理由
 波止場
 探偵とその助手
 図書館
 地図と心
 岬
 たくさんの坂を上る途中で
 打ち明け話
 危機
 逃走
 突破
 石段の上
 子供達の場所
 たどり着いた場所
 松籟の中で
 僕の涙と私の涙
 冒険の終わり、あるいは再会

 比較として、私が採用した各章の表題を改めて並べてみたい。

 冒険に出る二つの動機
 ここに居る二つの理由
 交差点/旧家
 波止場/猫の死
 図書館/地図と心
 岬/たくさんの坂を登って
 子供達の場所/本当のこと
 二つの突破
 石段の上/迷子のセオリー
 松藾の中で/僕は泣く
 仮名の別れ/汽車は今、朝の中

 そう、表題については、私はむしろ自分の嗜好に従っている。目次にも文中にも適当な言葉が見つからないときは、自分自身の好みの言葉を採用する場合もあった。なんと言っても、ノートそのものと違い、この文章は私の物語なのだから。
 繰り返すが、この文章はノートの文章を下敷きにしているが、あくまで私が構成した「物語」なのだ。何故今更改めてそんなことを書いたかと言えば、これから、この文章の末尾にあたって、あのノートが一体何だったのか、誰が、何の目的で記した物だったのか、幾つかの推測を書いておきたいからだ。
 もしあなたが、全く蛇足としか言いようのないこの後の文章にお付き合いいただけるのなら、まず、私の「物語」と「ノート」との関係を思い出しておいて欲しい。

 さて、ではあのノートは結局何だったのか。
 第一の可能性は、あのノートが手記だと言うものだ。
 発見場所が私の高校なのだから、もしこれが手記なら、それは「僕」の手記だろう。自分自身の体験の記述と、その後「私」と「僕」が交わした手紙を元に構成された、「僕」の個人的な手記と言うわけだ。
 彼がそんなものを作ろうと思った理由まで考える必要はないだろう。手記とは、たいていの場合、自分のために、自分のためだけの理由から書かれる物なのだ。
 彼が「私」の一人称の文章までそこに組み込まなければならなかった理由も、私には分からないが、分かる必要もないのかも知れない。
 そして、彼がその手記を誰か(例えば共通体験を持つ「私」)に読ませ、その人物が何らかの手を加える事になった結果が、ノートの今の姿なのかもしれない。
 私の鑑定眼が確かで、本当に四人以上の人物が関わっているとすれば、その手記に手を加えることになった人物を増やす必要があるが、原型が「僕の手記」であったことまでは否定し得ない。
 結局、「僕」は手記を手元に置くことよりは学校に残すことを選んだのだが、その理由は、そこに手を加えた、或いは加えたいと願った人物のためかも知れない。
 この第一の可能性は、記述された文章を額面通りに受け取り、出来るだけ推測を交えずに考えたものだ。しかし、そもそも一人称で書かれた文章が、それが小説であろうとノンフィクションであろうと評論であろうと、手記以外のどんな体裁を備えることが出来るというのか。
 結局、この第一の説明は、この文書の由来を説明したとも言えるし、この文書の構成、趣向を説明したものとも言える。

 次の可能性は、「僕と私の書簡」か「僕の手記」を、何らかの理由で手に入れたか、或いは「僕」か「私」のどちらかからこの出来事について聞かされたかした、第三の人物が、二人の間に起こったと思われる出来事を、それぞれの一人称形式で再現しようとした、一種のノンフィクションだと言うものだ。
 この場合は、幾つかの矛盾した記述も、それを書いた人物がその当事者ではなかった事から生じたのだと推測できる。
 その人物こそが、この「物語」の最初の発見者だったのかも知れない。私が、あのノートをこうやって「物語」として記録したかったのと同じように、彼もまた、自分が読んだ手紙から見つけ出した物語を書き残したかったのだろう。
 そして、他人の話から想像を逞しくしたという罪悪感が、ノートをあんな場所へ封印した理由なのかも知れない。
 これは、私自身の動機から無理に架空の作者を演繹して辻褄を合わせたものに他ならないし、その意味では「説明」でさえないかも知れない。その苦しさは十分承知の上で、一応書きとどめておくことにした理由は、これが、第一の説明と、この後に述べる第三の説明との中間に位置する説明だから、と言う以上のものではない。
 むしろ、この後の第三の説明を適切に理解してもらうために書いたと言っても言い過ぎではないかも知れない。

 そう、最後に書いておきたいのは、もはや推測とさえ言えない、私の空想、ないし願望とでも言うようなものだ。
 それは、あのノートは、紛れもない「物語」として書かれたのではないだろうか、と言うことだ。
 勿論、誰か一人が書き上げた物ではなく、例えば一種のロールプレイング・ゲームの様に、何人もの人物が、「僕」や「私」の役割を演じながら、入れ替わり立ち替わり書き連ねて作り上げた物ではなかっただろうか。
 最初の「僕」又は「私」が、幾つかの文章を書き、それが、次の「私」又は「僕」に引き継がれる。次の「私」から、次の「僕」、或いは「私」へと、文章は引き継がれ、書き継がれたり、書き加えられたりしてゆく。やがて、その連続の中から、誰が意図していたわけでもない一つの「物語」が見つけ出されてゆく・・・。
 私はどうしてもその空想を頭から追い払う事が出来ない。
 そう言う連続小説のような遊びそのものは、ありふれた遊びであり、それ自体が突飛な空想とも思わない。
 しかし、一人称にこだわって記述することで、このノートの書き手達が「僕」や「私」自身として真剣に考え、行動を選択し、結果この物語が見つけ出されていったのではないか。
 つまり、何人もの筆者達の魂の分身として「僕」と「私」がこのノートの中に存在するのではないか、と言う考えは紛れもなく私の願望である。
 思えば、私があの日見つけたのは、ノートの束である以上に「物語」だった。
 だから、その後に誰かが「僕」や「私」として記述を加えていたとしても、その同じ「物語」に再会する事が出来た。
 そう言う事ではなかっただろうか。
 そして、私は夢見るのだ。
 取り壊される旧校舎から私が救い出した、この多くの「僕」と「私」、その中に分け与えられた魂の一部が、私の描いた「僕」と「私」の中にも息づいているのではないかという夢を。

 さて、問題のノートそのものについての後日談で、この物語を締めくくろうと思う。
 全てのページを記録し終わり、この文章の大部分を書き進める間、ノートは再び梱包された状態で私のアパートの本棚にあった。
 私としては、この文章を書き始める頃から、このノート自体は、あの旧校舎へ返すつもりだった。
 このノートを書いた人物(の内の誰か)が、私と同じように校舎が取り壊される噂を聞いて、あの換気口を訪ねることもあるのではないかと思っていたからだ。
 あるいは、すでにその内の何回かの訪問は終わっており、ノートが増えた謎の答えも、そのあたりにあるのかも知れない。いずれにしても、私はこのノートのあるべき場所として、あの換気口の奥以外にふさわしい場所を考えることは出来なかった。
 さて、私は郷里から離れた大学に進学しており、あの旧校舎を訪ねるためにはどうしても一泊以上を覚悟した旅程を考えなければならなかった。
 講義やアルバイトの関係で、なかなか上手く機会を捉えられないうちに、私は風邪をこじらせてしまい、帰省に使うつもりだった数日の休みをアパートの自室で寝て暮らすことになってしまった。
 何人かの友人が見舞に訪れたが、その一人との雑談の中で私はあのノートのことを話題にした。
 熱に浮かされた浅い眠りを繰り返す私の傍らで、彼は殆ど仕上がっていた私の文章を読み、さらに、あのノートを読んでいたようだった。何かしら彼に話しかけられたり、私から何か言ったりもしたと思うが、その辺りの記憶は定かではない。
 彼に自分が眠ることを告げ、彼が帰る時には施錠を忘れないように頼んだことだけは覚えている。
 その時にはすでに日が暮れていたのか、或いはまだ夕暮れの内だったのか、それも覚えていないが、いずれにしても、その次に私が目覚めたのは翌日の朝であり、勿論彼の姿はなかった。
 私の机の上にはあのノートと私の物語が並べてあり、さらに数枚の紙片がその隣に重ねられていた。
 彼の筆跡に埋め尽くされたその紙片を手に取った時は、それが彼の置き手紙か、この物語への感想だと思っていた。
 一瞥して、そうでないことを知ったときの驚きは、その紙片を読み進める内に思いもよらない喜びに変わっていた。
 翌日、私は体調不良を理由に講義もアルバイトも引き続き休むことにして、郷里へ向かい、その日の夕方には、あの屋上に立っていた。
 あの換気口へノートの束を返しながら、私は妙に誇らしい気持ちだった。私が書いた物語の分を加えて、ノートの束は五冊に増えていた。
 そして、五冊目のノートには、最後に加えられた数頁があったのだ。
 そこには、「僕」も「私」も出てこないが、その文章は、間違いなく、冒険を終えた「僕」と「私」への贈り物として書かれたものだった。
 それは、前夜、彼が付け加えた最後の一章だった。


11 冒険に出る二つの動機(彼)

 彼が冒険に出たことに、格別な理由はなかった。
 取り立てて言うほどの理由もなく、彼は近所へ散歩に出かけるような風情でその冒険へ出かけていた。
 彼にとっては、ごく自然なことなのだ。
 そして、理由もないのに、何故か目的地だけははっきりしていた。
 彼は、彼の感覚の中にしか見えない道を迷わずたどって、目指す場所へ向けて長い長い旅を続けた。
 目的地が遠いことは知っていたが、それがどれくらい遠いのかまでは知らなかった。むしろ、知らなかったからこそ、こうやって歩き続けることが出来たのだろう。
 見慣れない路地を抜け、初めての町で眠りにつき、見知らぬ道を、次第に強まる感覚に勇気づけられながら、彼は無心に歩き続けた。
 やがて、懐かしい潮の香りが空気に混じり初め、気が付けば、彼は見覚えのある狭い路地を歩いていた。
 すっかり自信を取り戻した彼は、改めて、力強い足取りで目的の場所を目指した。
 足下のアスファルトは、やがて冷たい感触の地面に変わり、それも直ぐに落ち葉の絨毯に変わった。
 フワフワする足下に、針葉樹の細かな落ち葉の感触が混ざり初め、例の、甘くむせるような臭いが周囲を取り巻き始める。
 そして、彼はその場所にたどり着いていた。
 目の前には丸く開けた野原があった。
 彼が毎日のように足を運んでいた頃と、何一つ変わって居ないように見える。
 しかし、その野原の真ん中に、彼は意外なものを見付けていた。
 一人の老人が、そこに屈み込んでいたのだ。
 一瞬考えて、彼はその意外な人物が、見慣れない人物ではないことに気が付いた。彼の感覚は、むしろ自分がその老人を良く知っていることを教えていた。
 彼は少し迷いながらも、ゆっくりとその老人に近づいていった。
 彼の出現が意外だったのは、その老人にとっても同じ事だったようだ。
 「おやおや」滅多に見せないような驚きの表情で老人は言った。
「お前さん、こんなところで、何をしとるんかね。」
 そう言う老人の足下を見れば、柔らかな地面が浅く掘り返されており、その手には、今そこから取り出されたらしい、土に汚れた小さな木箱が載せられていた。
 彼がじっとその木箱を見つめていることに気が付いて、老人の口元に照れたような苦笑いが浮かんだ。
「ふん。そうか、これか。」老人は、言いながら木箱を握り直し、丁寧に土を払ってから、彼にも見えるように屈み込んだ姿勢のまま、その蓋を開いた。
 木箱の中から琥珀のカフスボタンが現れ、木漏れ陽にキラキラと輝いた。
 彼は思わず顔を近づけ、次いで、そっと手を伸ばした。
「これこれ」老人は慌てたように木箱に元通り蓋をかぶせた。
 目を丸くして見上げる彼を、老人は黙って見つめ返した。
「ふん。そうか、これか。」しばらく考え込んだ後、老人は先刻と同じ言葉を繰り返した。そして、今度は「成る程な」と付け加えると、またしばらく考え込んだ様子になった。
 松籟が彼らの周りを取り囲んでいたが、それでも林の中はひっそりとした様子だった。
「たしかに、お前の言うとおりかも知れんな。」
 とうとう老人が口を開き、木箱をそっと足下の穴の底へ置いた。
 老人が穴を埋め戻す間、彼はその手元をじっと見つめていた。
 すっかり土をかぶせ終わると、老人は立ち上がり、腰を伸ばす動作をした後、何度か手を打って土を払うと、晴れ晴れとした声で彼に言った。
「なるほどお前の言うとおりだ。これはもうあの子の物だから、こんな風にするべきではなかったな。」そして、祠へ向かって一礼し、改めて言った。
「それにしても、誰に呼ばれてきたのか、自分から来たのか、お前も随分遠い道を来たな。お前の脚ではずいぶんとご苦労なことだったろう。それに、家ではあの子が心配しているだろうし。どうする、一緒に帰るか。」
 老人は彼を抱き上げようと手を差し出した。
 彼は、優雅な身のこなしでその手をよけると、老人を見上げ、大きくニャアと鳴いた。
 そして、差し出された手に背中をすりつけるようにして向きを変えると、軽やかに林の入り口まで野原を横切った。
 振り返ると、老人が少し心配そうに、それでも微笑を浮かべながら彼を見送っていた。
 特に理由もなかったが、彼は自分の冒険が終わったことを理解していた。
 彼は十分満足していた。
 そして、今度は彼の帰りを待つ家へ向けて、再び無心に歩き始めたのだった。

《 了 》

冒険に出る二つの動機

習作小説なので、この物語には4〜5位の変種亜種が存在しています。
もう20年近く昔の記憶なので、本当のところいくつあったのか覚えていませんが(笑)
今回掲載したものが一番長いバージョンで、「私」が女性なのはこの形のものだけです。
拙い作品にここ迄お付き合いいたたき、ありがとうございました。

冒険に出る二つの動機

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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