ゆりと智子が海沿いの遊歩道を歩くだけ



 大学四回生の夏休みの終わりだった。
 手を伸ばせば波しぶきに届いてしまいそうな海沿いの遊歩道を、ふたりで歩いていた。
 ただの遊歩道ではない。40~50メートルもある、高く切り立った崖を守るように創られた防波堤。その防波堤の上を歩けるようにした遊歩道なのである。
 防波堤を遊歩道にしたものだから当然、波しぶきが近くまで寄せてくる。
 右手に崖、左手に海をみながら、ふたりは引き返すそぶりもなく歩いていた。
「な、なんか結構歩いたね、ゆりちゃん」
「大丈夫だよ。歩くのは気にならないし」
 智子は隣を歩くゆりを、ちらりと見やる。
 首のあたりで結んだふたつのおさげが風に揺れていた。
「疲れてない? 我慢してないよね」
「平気だけど」
「じゃあ終点までみたいんだけど。行っちゃう?」
「智子がいいなら、別にいいけど。日が暮れたらひとりで帰るから」
(ひとりで帰るとか普通いわねーだろ)
 と思いつつも、一応着いてきてくれることを智子は理解する。
「じゃ、じゃあ、いっちゃうか。終わりの先まで。なんて……へへ」
「怪我だけはしないでね」
 こうしてふたりは、切り立った崖を右手、太平洋の海を左手に、長い長い遊歩道の終端を目指してみることにした。


 きっかけはゆりが運転免許を取ったことだった。
 卒論や就活で忙しいはずの大学四年の夏休みに免許をとるというのが、いかにもゆりらしいが、智子にしてみればまぶしい存在に思えた。
「わ、わたしを置いていきやがって! 社会不適合者仲間だって信じてたのに!」
「一緒にどこか行きたいって思ったんだけど」
 智子はゆりが免許をとったことに対して、置いていかれた感を覚えていたが、『一緒にどこかへ行きたい』と言われては、怒るに怒れない。
「じゃあさ、ゆりちゃん。卒論書きたいから、缶詰旅行しない?」
「缶詰?」
「ちょっとこじゃれた田舎の旅館にさ。ノートパソコンと連絡用のスマホと資料用の本だけを持っていって。そんでおいしいものを食べてお湯にでも浸かっていれば、自然と卒論なんかできてると思うんだよね」
「こじゃれた田舎って例えば?」
「まずい棒と自主制作映画とチャレンジ精神豊富な駅長で有名な、例の電鉄のあるあの街かな」
 そしてふたりは《例の電鉄》のある街へと、小旅行に乗りだし、例の電鉄のある駅前を一通り見て回った。
 漁師町としかいえないが、風情のある街だった。
 駅前から少しはずれた、民家風の定食やでお昼をつついているとき、智子が思いついたように提案した。
「あのさ、ゆりちゃん。せっかくだし、あえてのローカルスポット的なとこみたくない?」
「卒論書く時間なくなるけど。旅館に間に合うなら、別にいいんじゃない」
 予約していた旅館の時間まで、まだ間があるからと、智子はスマホで検索を始める。
 好奇心に動かされる様子は、幼めの顔立ちもあってか、どこか無邪気でみるものの庇護翼を駆り立てるところがあった。


「調べたらなんか近場に絶景あるらしいよ。全長10キロで東洋のドーバーっていわれてるとか。CMとかミュージックビデオにも使われてるんだって。ちょっと坂とか通るけど。ここから歩いて2キロだって」
「大丈夫なの?」
「いくっきゃないでしょ。陰キャだからこそ、キラキラ女子大生が行かないような謎スポットに行っとけば、就活とかでも有利になると思うんだよね」
「あまり関係ないと思うけど」
「例えばさ。ひょろひょろなのに自転車で日本一周しましたってなるだけで輝いて見えるでしょ」
(智子って大人になってから、馬鹿なとこに拍車がかかってるな)
 と、ゆりは思ったが、その馬鹿なところがあるから、ほどよい刺激になるともいえた。
「怪我しないなら、行ってもいいよ」
「そう言ってくれると思った。じゃあ、早速出発しようか」
 そしてふたりは、街のはずれから、勾配のある山道をでて、辺境の高校の前を通り、風車のある農道を超えて、海沿いの国道へでる
 国道を渡ると、遠くに海が見渡せた。
 崖の上にでていたのだ。
「崖だよ、智子。高いね」
「この崖から下る道があると思うんだよね」
「降りる場所探すとこからなの?」
「あ、あれじゃね? 遊歩道。道がみえる」
 智子が下り坂の向こうを指さした。海沿い、崖に沿うようにして、遊歩道が左右に伸びている。
「本当だ。でも進入禁止なのかな。ロープが引いてある」
「このロープから先は崖だから危ないってことじゃないかな。あ、あっちから降りれるよ」
 たんたんと運動靴を慣らして、国道から分岐した脇道に入る。
 坂を下ると、目的の遊歩道にでた。
 正規の入り口ではなく国道の脇道から、遊歩道の中間地点にでたようだった。
 地図によると左に進めば入り口へ。
 右に進めば、別の端へでるらしい。
「これで私もおしゃれ陰キャだな。就活に失敗しても、心の中でマウントとって生きていけるね」
(やっぱり相変わらず歪んでるなあ)
 テンションのあがった智子の背中をみながら、ゆりはそれとわからない程度に微笑する
「長すぎるようだったら、止めるからね」
 遊歩道に吸い込まれるように、ふたりは歩き出す。



 智子が「終わりの先まで」と言い出してから、もうしばらく歩いていた。
「智子。地面とか、ひび割れてるけど。大丈夫なの」
「きっと経年劣化したんだよ」
「この虫、なに?」
「あ……ふ、フナムシだね」
 コンクリートの道にはひび割れができていて、その隙間からはフナムシがうぞうぞと沸いていた。
 終わりの先まで、といってみたものの。
 おしゃれ絶景スポットとはほど遠い道が続いていた。
「確かに崖があって防波堤の遊歩道を歩いているけど。ネットの写真ではもっとおしゃれな遊歩道だったんだよね。なんたって東洋のドーバーだし。もうちょっと歩けば、おしゃれ景観が待ってるはずだよ」
「私はおしゃれじゃなくてもいいけど」
「どうせなら、評判の景色みたくない? こう崖があってさ。夕日が輝いていてね。あ……」
 右手に見えていた崖に変化がみえた。
 遊歩道と崖の間にある、こちらも40メートルほどの陸地のスペースに、重機などが置かれていて、崖の掘削の後が見て取れた。
「崖、工事中かな」
「なんか崩されてるみたいだね」
 切り立った40メートル級の崖には、工事跡の痛々しさがあった。
 ロケ地やCMといった響きとはほど遠いものだった。
「これでおしゃれCMとれるのか疑問だわ」
「映像は加工するから」
 智子は期待したおしゃれスポットが、ぼろぼろだったことに、少し残念そうだった。
「もうちょっと歩けば本物の目的地に着くと思う。きっと看板とかもあるだろうし」
 歩き始めて三十分が経とうとしていた。  ぼろぼろになっていく景色を眺めながら、ふたりはあてどなく歩いて行く。
「でもゆりちゃんさ。よく着いてきてくれたよね」
「普通だと思うけど」



「普通の女子大生って、こういうスポットにくるときは大抵サークルの合宿とかでしょ。あとネットのオフで知り合ったと言い張る実際パパ活のパパとドライブがてら、ちょこっと景色だけみて、疲れたからホテルに戻ろうかってなって、実際こういう絶景スポットとは関係ない、卑猥な絶景行為に勤しむんでしょ」
「いそうだけど。少数派だと思うよ」
 智子はいつになく饒舌になっていた。
 どこまでも続く海沿いの遊歩道という非日常の光景を歩いて、おかしなテンションになっているようだった。
「智子こそ、無理してない?」
「ぜ、全然。そんなことないよ。行きはよいよい、帰りは怖いっていうけど、実際たいしたことないな、っても思うし」
「まだ《行き》なんだから。《帰り》の怖さはわからないでしょ」
「来た道引き返すだけだから同じだよ」
「暗くなるから」
「ゆりちゃん、暗いの怖いの?」
「……怖くないけど。スマホで終点を確認すればいいんじゃない?」
「こういうのは、自分の目で確かめたいでしょ。せっかくの最後の夏休みなんだし……、うおわあ!」
 波しぶきが飛び散り、ふたりの足下を濡らした。
 ゆりは智子の袖を引っ張り、道の端に引き寄せる。
「危ないよ。波は強くないけど」
「おっかしいな。調べたときはもっと砂浜が広くて……波なんて来ないはずなんだけど」
「満潮なんじゃない」
「ゆりちゃんさ、こういうときイケメンだよね」
「メンじゃないけど」
「もうそろ端に付く頃だと思うんだよね」
「あと三十分歩いて見えなかったら、引き返すから。旅館にも間に合わないし」
「わかったよ。ゆりちゃんがいるから、私も無茶できるとこあるし」


 遊歩道がいったん途切れる。
 ふたりの右手、つまり崖側には国道にでる細い道が伸びている。
 一つの区画が終わり、別の区画へと続いているようだった。
 前には、あいかわらず高い40メートル級の崖と、次の遊歩道が続いている。
 ふたりは足を止めることなく、歩を進める
「でも無限に続くと思われた道にも必ず行き止まりがあってさ。なんだ、こんなもんかってなってさ。そういうとき達成感と同時に大人になった気もするよね」
 智子はポジティブに謎の理論を語った。
「……智子って山に登らせたら遭難しよう」
 ゆりはそんな智子に、いつも危うさを感じている。
「そ、そんな風に見えるかな?」
「冬山とか登ったら駄目だよ」
「冬山なんて絶対行かないけどさ。なんかみたの? 映画とか」
「《八甲田山》。冬山に軍事演習をしに行った舞台が吹雪で全滅する話。おもしろかったよ」
「相変わらず映画のチョイスが暗いね」
 しばらく映画の話をしながら、歩いていると、右手に見えていた崖下の景色が、だんだんおかしくなってきた。
 前の区画では崖下の陸地スペースに作業用の重機が置かれていたが、今歩いている区画では、不法投棄のゴミが山になって積まれていた。
 雨水にまみれた廃車だの、ドラム缶だの、判然としない雑多なパーツなどが、崖の影に隠れるように、ぐしゃぐしゃに散乱していた
「なんか、やばいね」
「引き返そうか?」
 遊歩道だった道も、ひび割れがひどくなっている。とても整備されているようには思えない。
「むしろこうなったら、いっそ前に進んでみた方がいいと思うんだよね」


 智子の思考は、明らかに間違いだった。
 ゆりは映画の内容を思い出す。
 八甲田山の映画で死んでいった兵隊達もまた、場当たり的な行動の連続で命を落としていた。実話を元にした映画だったが、実際に軍事演習時の指揮系統を分析した専門書には、曖昧で責任転嫁的な指揮系統ゆえに、命取りになったとする記述もある。
 智子のような『むしろ』とか『いっそ』などの考え方は、やはり命取りになるとゆりは踏んでいた。
 とはいえ今は夏だし、この遊歩道は冬山じゃない。崖下から遊歩道までの陸地は40メートルくらい確保されている。崖の落石が遊歩道まで飛んでくる心配はないだろう。
 どこまでもこの道を歩いて行ったからといって、怖くなるだけの話だ。
(最後の夏休みなんだから、おかしなことをしてもいいか)
「さっきも言ったけど。暗くなったらかえるから」
 口ではそういいつつ、ゆりは智子についていく。



 ふたりは、若干ひび割れた遊歩道を歩いて行く。コンクリートだから多少割れていても、崩れ落ちることはない。わかっていても、割れた道を飛び越えるときは、妙にわくわくした。
 コンクリートの割れ目からは、赤くさびた金属螺子がにょきにょきはみ出ている。当たって怪我でもしたら病気になってしまいそうな、危険な気配のする金属だ。
 遊歩道は危険度を増していく。
 危険になるたび、ふたりはどきどきしてくる。興奮が心地よくもあったのだ。
「エロ同人だとここらで近隣の村の部族が現れるか、シマにしている地元の漁師会が現れて私たちを拉致すると思うよね」
「智子は、変な本読みすぎだと思う」
「へへ……でも拉致られたらゆりちゃんだけでも逃げなよ。私は貧相だから、そこまでひどいことされないと思うし」
「……智子は自分のことわかってないよね」
「へ? え、あ、えーと。それは私にもワンチャンある的な?」
「そうじゃなくて。もし本当にそうなったらどうするの」
「妄想だからな。現実にそうなったら、普通にさっさと逃げるし。きっとお互い構ってられないから。まあもし襲われたりしたら、どっちかが逃げても恨みっこなしだよね。逃げた方は通報してくれるだろうし」
「……そうだね」
「ゆりちゃん、怒ってる?」
「怒ってないけど。どうして?」
「逃げても恨みっこ無しって、さすがに自分でもちょっと無いなって。思ったから」
「恨みっこ無しなのは別にいいけど。ただ私は逃げないと思う」
「どっちかが逃げなかったら、ふたりとも死ぬとしても?」
「逃げても通報できる保証はないし。ふたりで死ぬなら、しょうがないかな」


 智子は少しあきれた。田村ゆりという人間は、悲惨な運命について、どこか達観しすぎているところがある。
 八甲田山然り。一緒にみる映画も、救いがたい内容のものが多い。進路や人生や人間関係についても、よほどのこと以外は執着しない。
「なんか、ゆりちゃんらしいね」
「ひどいのは、お互い様だね」
 夜の帳が降りてきた。左手にみえていた海が、暗黒に染まっていく。
「真っ暗になりそうだね」
「街灯も何もないから」
 遊歩道の向こうは薄暗がりに消えた。終点はまだまだ先のようだった。
「さすがに無理そうだな。なんか、ごめん。帰ろうか、ゆりちゃん」
「いいよ。私も止めなかったから」
「ってか私たち、生きて戻れるかな……。いやエロ同人みたいに部族がでてきて襲われるとかじゃないんだけど。暗いだけで素直に怖いっていうか」
「……大丈夫だと思うよ」
 視界はかろうじて紺色。もうじき夜の帳が完全に降りる。
 月は見えない。崖に阻まれているため、遠くの街の灯りも見えない。
 帰り道は、来た道を同じ分だけ引き返せばいいだけ。そのはずなのに。
 夜になった帰り道の遊歩道は、永遠みたいに続いている。
 景色は反転。右手に海、左手に崖を見渡して、ふたりは帰り道を歩き始める。

 
 疲れてきたせいもあってか、暗闇の遊歩道を休み休み進む。道に座りがてらスマホで現在位置を調べると、智子は驚きの事実を知った。
「ゆりちゃん。なんていうか……本当すみませんでした」
「どういうこと?」
「ググったら、おしゃれ遊歩道は今は閉鎖されてて。管理はされてるけど、手入れされてないから。今はおしゃれ遊歩道じゃないみたいで……」
「おしゃれじゃないことは、みればわかるけど」
 智子は半分泣きながら、調べたことを話した。
「……今は防波堤の遊歩道は整備されなくて、危険だから、立ち入り禁止のとこもあるみたい。一部では《廃》遊歩道とか、《滅びの景色》なんだって」
「……わかって良かったね」
「いや。ほんと、ご、ごめん。人生最後の夏休みを、こんなことに付き合わせちゃって」
「私は別にいいよ。でも立ち入り禁止なら、看板があるはずだよね」
 涙ぐむ智子とは対照的に、ゆりは飄々としていた。
「も、もしかして、だけど……。私たち正規の道じゃなくて、崖の間から入ったから、立ち入り禁止の看板とか見えなかったのかな……なんて……」
「ありえるね。仕方ないから、今は帰ることを考えよう」
「す、すごくまずい気がする。なんか背筋が、ぞわぞわするし?」
「怖いの? 行きはよいよいとか言ってなかった?」
 帰りの反転した景色。右手は夜の海。
 左手の崖下にはゴミの投棄された惨状がみえる。
 暗い夜の帳に、さびた金属の突き出た遊歩道に、崖に投棄されたゴミ……。
 とても女子大生がくるような、まっとうな場所ではなかった。


「は、走ろうか、ゆりちゃん」
「智子みたいに走るの得意じゃないんだけど」
「なんか……ゴミの山にミッ〇ーマウスの人形がみえた気が」
「気のせいでしょ」
 ふたりは早足で、どこまでも歩いてきた遊歩道を、力を振り絞って、引き返す。
「っていうか、暗くなるの早くない?」
「まだ六時なのにね」
 遊歩道は来たときよりも、崩壊しているような気がした。足下のひび割れは、心なしか大きく、人を引きずりこもうとしているようでもあった。
「喪女だけに廃だな。いや、意味分かんないが。言ってみたくなった」
「……智子は廃じゃないよ」
「うれしいけど。今は怖いのをどうにかしたいね」
 智子はちょっと涙目になっている。
 ゆりは少し考えてから、無言で智子の袖を摘まんだ。
「後ろに、いればいいよ」
「おま……こういうときは頼りになるのな!」
「こういうときはって何?」
「あ、違……そうじゃなくて……なんていうか、袖を摘まむだけとか、ゆりちゃんらしいなって」
「じゃあ、どうすればいいの」
「ゲームとかだと、男の子は女の子の手を握って走るよね」
「されたいの?」
「さすがに走りにくいから、いいかなって」
「じゃあこのままで」
 ゆりは智子の袖を摘まんだまま、前を歩く。智子は足下に気をつけながら進む。
 廃と判明した遊歩道の風景が、夜の闇に紛れて過ぎ去っていく。
 ゴミ溜めエリアを抜け、重機のエリアを抜ける。さびた杭が出てひび割れもあった道が、徐々にまともな道になってくる。
 一本道だから当然だったが、順調に引き返せていた。
 問題は、遊歩道を出る直後に起こった。


「ゆりちゃん。そういえば私たち、どこから入ってきたっけ?」
「国道から道がでていたと思うけど」
「その国道の脇道が、なくない?」
「見えないだけじゃない?」
「あのときたしか左右に分かれたはず。でもその道がない……」
「暗くて灯りもないからかな」
「暗いからって道が見えないなんてことある?」
 ふたりが入ってきた崖の合間の坂道は、どうやら消えているようだった
 智子は瞼の奥が震えてきた。『これはマジでやばいのでは?』と思えてきた。
 灯りはないし、夏の六時台なのに異様に暗いし、来た道は何故か見つけられない。
「まっすぐ進んでみようか。私たちは脇から入ったんだから。遊歩道の端までいけば、必ず出られるでしょ」
「ぜ、全長は確か10キロみたいで」
「地図のGPSはわかる?」
「あ、あと1キロくらい」
「いいよ。歩こう」
 来たときの道が消えていることなどありえないが、深くは考えない。
 ふたりはさらにまっすぐの道を引き返す。
 帰りの道のはずなのに、知らない道を歩いている。


 行きの時にきた道は見えなくなっていたが、まっすぐ遊歩道の入り口まで突っ切る作戦は、正解のようだった。
 道が綺麗になってきていて、『廃』ではなくまともな遊歩道になっていた。崖に投棄されたゴミの山などもなくなっているし、足下のひび割れも少なくなっていた。
 智子は少し安心してくる。
「こ、こっちが正規の入り口みたいだね。なんだか道が綺麗だから。もう大丈夫そうだね」
「終点もみえてきたね」
 遊歩道の入り口には、横張りのロープが左右に張られていた。やはり立ち入り禁止だったのだ。
「つ、着いた~。だ、大学生で事故る奴を、どっかで馬鹿にしてたけど……。気持ちがわかった気がするよ」
 ネットのおしゃれスポットの情報を信じて来てみたものの、立ち入り禁止と気づかず、脇道から入って怖い思いをしてしまう。
 調子に乗った大学生そのもので、我ながらひどいな、と智子は苦笑した。
「袖。離しても大丈夫?」
「うん。ここまで来れば街まで歩けばいいだけだからね」
 ゆりは少し名残惜しげに、智子の袖を離す
 智子は小走りで、とてとてとゆりの前へでる。早く抜け出したいとばかりに、早足になっていた。
 ゆりが、智子の小さい背中を眺めていると、ふいに足が止まった。
「どうしたの、智子」
「ゆりちゃん、変なこといっていい?」
「智子はいつも割と変だけど」
「なんか、いる」
 智子は、震えながら、一歩後ずさった。
 表情には怯えが表れている。
「動物とか、虫とか? 私には見えないけど」
「いや。無いとは思うんだけどね。なんか、その。霊的な? いや私は、霊感はないって思ってたんだけどさ」


「冗談はいいから」
「ごめん、結構ガチで……なんか動けないっぽい。『引き返せ』って、いわれてる」
 智子の目には、青白い人型のものが見えていた。自分でも信じられなかったが、確かにその青白い人型は『引き返せ』と言っていた
「引き返せるわけないでしょ」
「か、片道十キロかあ。た、大変だなあ、なんちゃって……」
 智子は完全に涙目だった。怯えようからは冗談でないことが伝わってきた。
 ゆりが一歩前にでると、智子が言っているものがなんなのかを理解した。
「これのこと?」
 確かに青白い人型のもやが、入り口で通せんぼしている。身長は大人の平均ほど。ふたりよりは大きい。
 心なしか、ケラケラ笑っているようにもみえた。
「そう。そいつ。ゆりちゃんもみえた? いるでしょ? いや、霊的なあれって。やっぱり笑ってるんだね。強キャラほど笑ってるってよく聞くけどさ」
「こういうこともあるんだね」
 ゆりは青白い人型のもやを見ながら、映画の八甲田山の内容を思い出した。
 専門書の分析によると『指揮系統が失われ、意思を通さず右往左往しているうちに、全滅してしまった』とされる。
 ならばこういうときも右往左往しないで、意思を通すのがいいだろう。
 ゆりは青白いものに近づいていく。
「邪魔なんだけど」
 思い切り拳をにぎって、青白いひとのようなもやに振るってみた。
 霊体かと思いきや、何故か『ドン!』と、衝撃音が響く。
(もしかして実物かな)
 ゆりは推測したが、青白いものは霧になって消えてしまったので、正体はわからなかった。


 振り向くと、唖然とする智子がいた。
「大丈夫だよ。帰ろうか」
「ゆ、ゆりちゃん。よく殴れたね」
「逃げないけど、っていったから」
 ふたりで、せーので、入り口へ帰還する。 振り返り横張りのロープに張られた看板をみやると、赤文字で『立ち入り禁止』と書かれていた。
「こ、これは幽霊でちゃっても、しょうがないよね」
「あとでお祓いしてもらおう。それより旅館にいって、卒論を仕上げるんでしょ」
「そ、そだね。私のリサーチだから。きっとおいしいとこだよ」
「智子は詰めが甘いから」
「た、確かに甘いところあるけどさ。メシマズの黒木はもう返上したわけだし。その……幽霊? 撃退してくれたお礼とか、したいし」
「危ないことしないなら、もういいよ」
 ゆりはまた智子の袖を、ちょいと摘まんだ。 智子は、なんだかもどかしく思えたので、ゆりの手を取った。
「とにかく、その。ありがとうね。ゆりちゃん」
「智子が元気なら、それでいいよ」
 不器用にお礼をいう智子に、ゆりは小さく手を握り返した。


4 


 予定より大分遅れて旅館にチェックインしてから、ふたりはご当地の料理を食べて、温泉に向かった。
 隣り合って露天風呂に浸かって、一息ついてから、智子が口を開く。
「今思い返しても。やばかったね、さっきの」
「智子が絶景スポットとか言わなかったら、こんなことにはならなかったけど」
「……わ、わたしも。なんだかんだで反省してるし」
「もう危ないことしないなら、いいよ」
 智子が殊勝な顔になったので、ゆりはわからないように口元を緩めて、ちゃぽんと、肩までお湯に浸かる。
「でも、ゆりドンが霊体に聞くとは思えなかったね」
「ゆりドンって何?」
「あ……私が心の中でよんでるゆりちゃんの一撃っていうか。DVのことなんだけど」
「口で言ってわからない相手には必要だけど」
「あ、生ドンはやめてね」
 お風呂に入っている状態だったので、智子は少し危惧した。
「生ドンって。馬鹿だな……。しないよ。今は怒ってないし。痛くするつもりはないし」
「その割にゆりちゃん、口より先に手がでるよね。おかげで霊的なものも撃退できたのはあるけど」
「私は良かったよ」
「ええ? 霊的なものにあったのに!?」
「少しびっくりしたけど。智子じゃないと、こういうことには合わなかったから」
 のぼせたのか、ゆりの顔は赤くなっていた。「や、やっぱり私が疫病神ってこと? そりゃ確かにエターナル喪女だけどさ……」
 智子はどこか萎縮しているところがあった
「……そうじゃないよ」
 智子じゃないと。智子だから。
 この意味の指すニュアンスが、上手く伝わらない。
「先にあがってるから」
 伝わらないことがもどかしいので、ゆりはせっせとお風呂からあがる。智子の言葉を待たずに、距離を置く。
 ゆりがお湯からでてから智子はいつもどおりに戻ることにした。
(これは、気にしてないってことか。別の意味がありそうだけど。めんどくさいから、普通にもどるか)
 そのほうがゆりも話しやすいと思ったからだった。



 部屋に戻ってから卒論にとりかかろうと思いはしたものの、疲れがどっと寄せてきた。
 ふたりはどちらともなく畳の上で横になる。
 机の下で、寝転がる同士で目があった。
 示し合わせるでもなく、今日はもう寝てしまおうという空気になったので布団を敷き、灯りを消した。互いに静かになってから、ゆりの方から口を開いた。
「智子。起きてる?」
「起きてるよ」
「智子じゃないと、って思ったのは」
「ああ。さっき温泉入ってたときな」
「何をしても嬉しい思い出って。たいてい智子だなって。そう思ったから」
「いや。今日のはどう考えても私が疫病神なんだが」
「智子のそういう自虐も含めてだし。それに疫病神じゃなくて普通に旅行しただけだったら、今日のことは忘れちゃうと思う」
「ゆりちゃんってさ。刺激に飢えてる人? 痛みを知らないと生きてる実感が沸かなかったりするとか」
「違うけど」
「……冗談だよ。シリアスっぽかったから」
「本当にわかってる?」
 ゆりが尋ねると、もぞもぞと布団が動いた。智子が寝返りをうったのだ。暗がりの中で、智子の大きめの瞳が煌めいた。ゆりの方をみている。至近距離で眼が合う。
「ゆりちゃんが言いたい良い感じの思い出ってさ。キラキラ女子大生のやるようなキラキラしたことよりも、ダークな方がいいってことだよね」
「少し合ってる」
「まあでも、思春期に最強の喪女だった私としてはさ。わからなくもないよね。雑誌にあるようなステレオタイプなことしても、全然特別感なんかないし。共有できる奴が多すぎることをやったって、取り替え可能ってことなわけじゃん。取り替え可能だから扱いも雑になるし。陽キャマウントの勝負になっちゃうよね」
「それもあるけど。智子はさ。今日のことで、ずっと……」
「ずっと、なんだよ? ってかずっとの時点で、重いことはもうわかっちゃうからな?」
「ふふ……」


 ゆりは動揺する智子をみて、何故か胸が軽くなる。
「あのさ智子。どこかで終わっちゃうにしても。しばらく合わなくなっちゃってもさ。また合ったときに、なんでもない風にいれたら。いいなって」
「それが普通なんじゃないかなって思ってたけど。たしかにおばさんになっても、高校の同級生と合えるってのは、レアなのかもな」
 ゆりは息を止めて、目を瞑った。
 自分ではとても言えそうに無いから、智子の言葉を待っていた。
「まあ私はゆりちゃんとは、おばさんになっても、なんでもない風にして会えると思うけどね」
 ゆりは眼を瞑って、ふとんに顔を埋めた。
 自分が欲しい言葉を、彼女がくれたからだった。
 同じだけのことを、返したいと思った。なのに言葉がでてこない。
 いつも言葉にしたくない。智子が話すことは現実になりそうなのに、自分ではうまく話せない。
 ゆりにしてみれば自分の言葉は、饒舌になったり過剰になりすぎると、叶わないような気がする。
 なのに智子の話すことは、何気なく話しているようでいて、叶う気がする。
 だからゆりはいつも、智子が話すのを待っている。
 ゆりは、ふとんにうつ伏せになって「私も」と呟いた。聞こえないように呟いた。
「ゆりちゃん? 寝ちゃった?」
 ゆりは応えず寝たふりをしながら、まどろみに任せた。
 いつもこうして智子に頼っている。だからこそ、幽霊くらいは倒してあげよう、とも思う。助けられているのは、自分のほうなのだから……。


 ゆりはしばらく寝付けずにいた。考えが纏まらず、考えごとを巡らせていたからだった
「智子。起きてる?」 
 返事はなかった。耳を澄ますと寝息だけが聞こえた。
「さっきの返事だけど。もう会えない別れとまた会える別れがあるけど。もしも疎遠になったりしても。大丈夫だと思う」
 智子と知り合った頃は、自分に近い人間だと思った。
 内気で、一人でいることが気にならなくて、多数の人と考えを合わせられなくて、物事を斜に構えて眺めている。
 だが一緒にいるうちに、ゆり自身とは何かが決定的に違っていることに気づいた。価値観が似ているのに、向いている方向が時々違う。
 この方向の違いが、ときどき不安でもあったが、六年も一緒にいるのだからとっくに受け入れている。
「卒業して距離が離れても。智子とはそもそも別れにならないと思うよ。三年くらいたっても、何も感じないで。昨日会ったみたいになれると思う」
 寝息を立てる智子の背中に、ゆりはあやすように語った。
「今はこれが精一杯だけど。いつか智子みたいに恥ずかしいことを、面と向かって話せるかもね」
 眠る智子の背中に、秘めていたことを囁いてから、ゆりは背中を向けた。
 思いのほか布団が近かったから、背中があたった。しばらく背中の温かみを感じても、ばちは当たらないだろう。
 智子の背中の温みで、ゆりの中の不安が溶けていった。
 卒業を控えて、離れることが不安だったんだと、ゆりは今になって気づいた。
 それも、もう大丈夫だとひとり納得する。
 智子とは別れが成立しないことは、もうわかってしまったのだから。
「それだけ。おやすみ……」
 眠る智子にゆりは呟く。
「ん……おやすみ、ゆりちゃん」
 智子が声を返してくる。
 ゆりは驚いて目を見開いた。聞かれてるとは思わなかったからだ。


「起きてたの?!」
「眠りかけてたのに、めっちゃ話しかけてくるから、そりゃあ眼が覚めてもおかしくないでしょ」
「……どこまで、覚えてる?」
「いつか私みたいに恥ずかしいことを話せるようになりたいとか……。そこからだよ、聞いてたのは。ってかなんだか恥の多い人生みたいだね。へへ……。ぐぅ!」
 ゆりは智子の背中に鉄槌をくだしていた。
 それだけでは飽き足らず、智子の布団も奪ってしまう。
「ちょ、布団は返せよ。夏だからって夜は冷えるんだぞ」
「智子が、悪いんだから」
「なんだよ。情緒不安定のかまってちゃんかよ! ってか寝てるとこ起こして鉄槌するほうが悪いし」
 智子が布団を剥ぎ取ると、ゆりは一見しただけではわからないような、彼女らしい微笑を浮かべていた。
「まさかゆりちゃん、霊が憑いてる?」
「違うけど。こういう喧嘩もしたほうがいいのかなって」
「喧嘩売ってきたくせに『こういう喧嘩もいい』って思うのって、達観してるよね」
「智子と喧嘩できたから、いいよって思ってる」
「よくわからんけど。寝ようか、ゆりちゃん」
「うん。こんどこそ、おやすみ」
 ふとんをぐしゃぐしゃにしながら、ゆりが背中を向けて眠ると、智子のほうから背中をくっつけてきた。
 ゆりは再び温みを感じて、まどろんでくる。
 わからないと言いながら、いつも智子は大事なところをわかっている。


 ゆりの運転する車で、住んでいる街まで帰る。親から借りてきた軽自動車だ。
 助手席に座りながら智子は、昨日の夜を思い出し、
(現実の百合だったら、あのあと良い感じに発展したりするのかもな)
 と想像してみる。
 蒸し返して、茶化してみることも考えたが、大事なものを踏み越えてしまいそうだったので、想像するに留めた。
 代わりに、いつかみた映画のことを話した
「前一緒にみた映画あるじゃん。冷戦時代のチェコスロバキアで、医者の男がヤリチンの話」
「身も蓋もない要約やめなよ」
「最後のシーンさ。女とふたりで、田舎に引っ込んで、なんでも無い風に事故って死ぬじゃない」
「ふたりを知る別の女の伝聞体で語られるやつだね」
「映画だとさ。車に乗ってる視点で、フロントガラスの景色がアップになって。光りに包まれるじゃん」
「私は生の軌跡の隠喩だと思った」
「今の私達もそうなんじゃないかって」
 ゆりはうまく応えられず、言葉につまる。
「きっとさ。映画をみたから。私たちは、ただ一緒に車に乗ってるだけでも、フロントガラスの何気ない景色をみていても、こういう映画のことを思い出したりできるんだよ」
 智子がどや、という風に一息ついた。


「じゃあ私たちも、永遠みたいだね」
 ゆりは口を滑らせた。すぐにはっとなって、口元を押さえる。
「ゆりちゃん、たまに中二なとこあるから。引き出せて良かったよ。へへへ……」
 智子はにやりと笑った。
「違うから!」
 ゆりの肘鉄を智子は回避する。
「おっと。集中しないと事故るよ。へへ……。映画みたいに」
「そしたら霊になって、智子にまとわりつくから」
「ゆりちゃん、リミッター外れると振り切れるタイプ?」
「智子に、合わせてるんだよ」
「まあ、いいけどね。こういうサブカル映画みたいだし」
 親から借りてきた軽自動車に乗って、ふたりは日常と非日常の合間を走っていた。他人になるには、あまりに日常に同化していたし、非日常も共有していた。
 瞼の内側には、どこまでも続く海沿いの遊歩道が焼きついているし、眼を開くと助手席には智子がいる。
 どこにでもある、つるんでいるだけの女子のはずなのに、ふたりはいつも唯一感を抱いている。何者にも発展してもよさそうな唯一の感情を、何者にも育てないままに、『友人』という言葉に押し込めている。
 とても恵まれたことだなと、ゆりは思った。いつか、これから獲得する多くの記憶に、押し流されてしまっても。
 智子は智子で、内気なぼっちだったからわかることもあるんだなと、妙な感慨を覚える。
 別の友人も、いるけれど。
 それでも特別な時間を過ごした、そのとき隣にいた人は、いつだって唯一だったから。


 智子が助手席から降りて手を振り、ゆりは少しだけ表情を緩めて小さく手を振り返す。
 ドアを締めると、ガラス越しに互いがぼやける。
(初めて名前を呼ばれたときもこんな感じだったな)
 何気ない繰り返しの合間に、非日常の記憶としてあのときの遊歩道が蘇って、日常の記憶には運転席と助手席があって、こうした記憶や風景が、互いの中にそっと住み着いて『永遠』になっている。
 そんなことを考えながらもゆりは、智子ならこういうめんどくさい考えもわかるだろうなと、妙に確信していた。
 確信があるだけで、寂しさは、薄らいだ。
 ゆりは運転席でひとり、それとわからない風に微笑する。

ゆりと智子が海沿いの遊歩道を歩くだけ

ゆりと智子が海沿いの遊歩道を歩くだけ

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更新日
登録日
2022-11-09

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