後ろ髪曳くように

26歳の時に書きました。すこし書き直しました。

 杯は倒れて了った、きんと硝子音がした。
 カーテンは閉め切られ、狭苦しい部屋は仄暗い。男は独りきりである。なみなみと注がれていた水は、まるで背を向けるように後ろめたげでありながら、のびのびと忍び這うようにして机に拡がった。床に垂れる水音は淋しげで、冷たく、硬質であった。安芸津はそれ、滴らせるままにした。横臥す杯に投げる視線は虚ろであった。
 かれもまた、水のような自己を自覚していたのだった、はや、器はうしなわれていたのである。以前はそいつ、あるいはあったかもしれぬ、もはや、よく覚えていないけれども。されど、生き切る──かの月照る蒼白の積雪にそそがれる、「わたし」の純化された真紅の鮮血、死の円が生の弧を孕み蒼銀の雷鳴と迸る命の祈りの歌、いわく、美しき死のときまでは!
 然り。生の能力なくして、その価値なぞ関心すらなく、その意味さえ知らぬとふてぶてしくも吐き捨てて──無精な口調に反し、顔付はいまにもくしゃと泣きだしそうであったけれども──しかし、唯その意欲、唯その意欲だけがある! 生き、切る。生き、切る。嗚。
 存在。生きるということを考えて、まずもって先行して在るもの。そのチェックリストさえ満たしているならば、生きうる意欲、元来何であろうと個の自由である。撰びとるうごきは自在である。その自由自在、まるで翔べない翼を重たく垂らす巨鳥のそれにも似ているよう──たとい天へ飛び立つことができなくとも、翼を無為に徒にばたつかせるのは自由であり、勇壮に地を蹴り焦がれる天蓋へ跳び昇って、宿命に撥ねられてだらしなくも土に横たわるのもまた自由、その、どうであっても大して変わりやせぬ創意工夫、はや無限の可能性を宿す。ここに果して、人間の生きざまの偉大性ありや?
 ひとはこんなカランと乾いた音をしか立てぬニヒリズム、思想なぞという高尚なものではないというけれど、それ端然りともいえるものだ、こいつ、単なる情緒的気分、そがやつれ切った世界観は、瞼の裏側の問題でしかない。内的なそれだ。地獄とは、眸にしか宿らぬ。朝陽が熔かし洗いながすなぞ、往々にしてある。
 生き、切る。されば、美しく死ぬ。
 そのためにかれが決意したのは、外界へ働きかける行為ではなくして、なぜか完璧な身形なのであった。かれはいまにも往き場なく崩れ、朦朧と漂わんとする自己を、あろうことか身形を整えることによって、その形状に自己を這入りこませ、どうにか形式づけようとしていたのだった。ひとびとはかれを単なる着道楽と見たけれども、嗚然り。着道楽なら、まだ、好かった。おびただしい出費と乏しい収入により、家計は火の車であった。親へ仕送りを頼みこむのは頻繁であった。
 かれがこうまでして求めていたもの、それは生の形式と絶対的なものからの命令なのであった。かれは巨大な観念にがしと誘拐されることを希む、「(わたし)」ばかりつよくておのれなき、脆弱きわまる男なのであった。自己実現、それなぞかれには高級すぎて、読解さえ不能である。かれは自己実現やら自己肯定感なぞという言説の散れる文章をみれば、途端に失語症になる。
 いわばかれ、生の方法論の衣装だけを先払いし、生き様の証明によってそれを生に還元することから逃げ続けている愚か極まる人間で、然り、ボオドレールおじさんのような偉大なるロクデナシと比するならば、ダンディの風上にも置けぬ鼻持ちならない卑しき男なのであった。
 卑しい──この、もの悲しくかよわき風さながらの、愛すべき響きよ。そいつ、恭しくも自己へ贈呈せざるをえぬのは、かれをして砂に轢かれるような乾いた笑いをひきおこす。
 インターホンが鳴った、かれは自分の家にそれがあったことを久々に想い起こした。来客なぞ、いつぶりであろう。重い腰を上げ、扉へ向かう。未知のできごとへの期待に、こころはほんのりと浮かれていた。しかし、たいしたことは起こりまいという自己防衛だけは忘れない、安芸津は、そんな男であった。徹頭、徹尾、そうであった。
 扉を開ける。知らないひとである。来客の顔は俯き気味で、癖のつよい前髪のためよく見えない。小柄な安芸津より、さらにやや背が低い。体つきは華奢である。どうやら、少年のようだ。かれは顔を下へ向けたまま、教師に疎んじられる陰気な生徒がよくするように、瞼だけをぱっくり剥いて上目遣いになり、憂鬱にうねり垂れた黒髪のすきまから、外界すべてが敵であるかのような不遜な眼つきを見せつけて、此方を睨みつけた。白くほそい指先は、力なく垂れさがっている。若干、猫背である。
 男は見つめかえされた刹那驚きに打たれた、というのもかれの顔立ちが、あまりにも美しかったからである。
 元来、安芸津には同性愛の気があり、しかもその愛の多くが、うら若き紅顔の少年達へ向けられていたのだった。通学中の男子学生の集団を見れば、無意識に好みを探すため、視線はかれらの顔の間を泳いだ。どことなく憂いを帯びた美貌の、線のほそい、周囲への軽蔑にしばしば眼をほそめる倨傲な少年、かれ等をとりわけ好いていた。そんな好みの好男子を見つけた時には嬉々として、その少年をこころで抱擁し、じたばたしながら嫌がられる妄想によって、路上で花のように顔をほころばせた。
「どなた…ですか?」
 安芸津、はや二十六であった。自分よりはるか年下の学生に対して敬語を使ってしまう、自分の卑屈さに嫌気が差す。しかし美貌の少年に敬語を使うというシチュエーションに、なにか快いものがあったのも事実であった。
「名前なんかどうだっていいだろう」
 声変わりを済ませたばかりの、暗みのエロスにふっと掠れるような、ひとときばかりの一種可憐な声である。豊かな紅色を誇示する柘榴の薫が、ひとの官能の琴線にいつもひっかかるように、艶やかなざらつきと濡れたような照りかえしのともなう、醒め切ってサディスティックな響きが、安芸津の感じやすい領域をつよく打つのだった。その声質、如何にも「(ノン)の冷たい響き似つかわしい、硬くきらめく反映、めざめるが如く散るのだった。
 銀と群青。かれの声の印象、それであった。背景に柘榴の深紅な暗みが籠っていたが、ほうっと薫るのはその色彩の音楽であった。群青色の夜空、銀に鏤められた湖のおもて、ほうっと沈む硬き月影の蒼白。…
「あなたに詩を見せに来たんだ。部屋に入らせて」
 なんと無礼な少年であろう。しかし男がそれを拒む理由はなかった、なぜといい、かれはこんなにも美しく、冷たく、しかも傍若無人であるから。冷酷そうな眼をした少年の強引さに、かれは夢みるような心地であった。
「まあ入ってください、僕の名前は安芸津です、いや、標識に書かれてあるか。それともわざわざ会いに来てくれたのだから、知ってくれているのかな。僕のような人間をどこで知ったのか解りませんが、詩を見せる相手に僕が選ばれたのは光栄だ。いや、僕は少年時代から象徴詩が好きでね、たとえば…」
「初対面から無駄なことは喋らなくていい。そして必要以上に自分を卑下するのもやめたまえ、むしろ貴様のねじくれた傲慢さがぱっくりと割れてうらっかえしに晒されるぞ。穢いものをみせるな」
「あ、は、はい…」
 男はかれの尊大さが与える快楽に、肌が粟立った。
 少年を部屋に入れている間、この美少年、嘗ては第一級の詩篇「酔いどれ船」を携えて、シャルルヴィルからパリのヴェルレエヌの元に参着した、大詩人アルチュール・ランボオではないかと錯覚した。これはちょっと愉しい想像だった。が、すぐに冷水に覚まされたようにしておのれに否定された。なぜといい安芸津はヴェルレエヌと違い、一行とて佳い詩が書けぬからである。
 ワンルームのアパートメント。床には埃ばかりか散らばった悪書がレントゲンに映る病原菌のように蔓延しひろがって、しかしかれ曰くかれの心臓、磨かれた洋服箪笥は第一級品なのであった。値引きをくりかえしくりかえし購入したそれ、19世紀末のアンティークであった。服そのものにもきちんと毎日ブラシをかけ、洗濯の方法にはだれよりも煩く、嗚、実に無為。無為である。然り。実に無為きわまる行為、しかしその無為性にこそ、かれが渾身をかけるゆえんがあるのだった。かれは人生を無為へ投げこんで、台無しにしてやりたかったのだ──これは本性に裏返せば、それだけ命の声というものを大切に抱き締めているのだ、なぞという鼻持ちならぬ本音を聴いてくれる者は不在であった。
「汚いな」
 少年はそう吐き捨てた。不良のような口調と反して、その眉のひそめかたはどこか高貴であった。嫌悪と軽蔑に細められた眼に、ぞくぞくと鳥肌が立つ心地。この眼差しをみずからへ向けてくれたなら、俺はどんなに悦ぶだろうか…。
「すいません、僕には掃除の習慣がないのです。お話があるのでしたら、いまからカフェにでも…」
「カフェは嫌いだ。未成年は煙草が吸えない」
 カフェじゃないなら吸える、そうとしか聞こえないのである。
 かれはポケットからくしゃくしゃのゴールデン・バットを取り出した。野卑なタッチで描かれた蝙蝠を彩る緑いろのパッケージは、かれの不良な話し方に、如何にも似つかわしかった。男はすべて下心から中古で購入し修理代を払ってまでして獲得したデュポンのライターを取り、火をつけて少年に差し出した。
「…君はなにをしているんだ?」
 驚いたように目を大きくし、その顔、実に好かった。おもわず頬、ゆるんだ。気味わるげな視線で男を一瞥、すれば少年、黙って自分で火をつけ、うまそうに有害なる紫煙を吸い込んだ。
 バットのチープな薫りは、甚だ強烈であった。男は洋服箪笥を買って好かったとこころから思った。なによりも大切な洋服にこんなにおいがつくなぞ、たまったものではない。が、いま身につけている、中古で購入したドレスシャツの着色だけが心配であった。かれ、ドレスシャツは純白と決めているのだ。自分で煙草を吸う際、かれはきちんとヴィンテージのスモーキング・ジャケットを着る。そしてベランダへ行く。隣人に怒鳴り散らされ、怯えてくしゃと泣きだしかねぬ顔をし、さっと火を消す。そそくさと部屋へ逃げ込む。数十分後、さきほどの恐怖も忘れ颯爽と煙草を掴みベランダへ出る、そういう習慣であった。男はとりあえずそれを着用することにした。
「…変な上着だな」
「古いので」
「ふうん」
 少年の関心なさげな態度は、氷にも似た不感症を連想させる。かれの立ち振る舞いは、どこか美しくも素っ気ない鉱石のようである。その拒絶の態度には、なにか人間味のない、無機的な感じがあるのだ。
 かれの硬いこころを燃やすもの、いったいそれはなんであろう?
 沈黙。かおりのきつい煙が昇って、部屋を灰いろに霞ませているのみである。
 会話がないのが気まずいので、男は適当に喋ることにした。
「…尊敬している現代詩人は?」
「いない」
 低い声で吐き捨てる。瞼を重く垂らし、滝に貫かれたような切れ長の眼を斜めから示している。黒々と長い睫に縁どられていた。その一条いちじょうが、流麗な曲線を曳いて、深い憂愁の影を落としていた。灯の影響であろうか、奥にある瞳は洞窟に照る月影さながらの青を反映していて、それは遥かから射すようにし硬く光っていた。
 その流し目の美麗な感じは、ぞっとする程に過剰であった、グラマラスな暗み、そういう蠱惑であった。
「自分以外の生きた人間は尊敬しない」
 尊大である。しかも孤独だ。世界のなかで自分だけが色が違うという矜持、これこそ孤独な少年とくゆうの不遜さ、そして卑しさである筈である。それを大人になっても持ちつづけるのは、身を折るほどに苦しい筈である。かれらの感覚では、自己は世界に含まれていないのだから。安芸津、いわくそれであった。自卑の念に、かれの指先はふるえはじめるのだった。
 然るに少年、かれ立っている。屹立している。そのようすはいかにも清々しい。安芸津はいまにも額を床にこすりつけたいきもちであった。そしてこの美少年のほそく白い腕にがしと身をつかまれ、かれの思うがままとなり、どこか遥かへ導かれたい思いであった。遥かへ、というのはおそらく、月へ。
「…ところで、」
 と安芸津はきりだした。
「詩というのは? なにも持ってきていらっしゃらないようですが」
 少年は手ぶらなのである。空手空拳。そうであった。
「詩は歌うものだ、」
 と、ごもっともなことをのたまう。
「紙などいらぬ」
 して、かれは立ち上がった。
 せつな、その陰鬱にうねり額へ落つる黒髪は、アポロン神のかがやかしい月桂冠となった。豊かな髪の光沢は、われらを惹きつけ然し拒絶する石のひかりであった。蒼白の肌は月光を浴び硝子の反響さながら青みがかるまっさらな雪景色をおもわせ、その澄んだ情景のなかで、月そのものにも似た瞳の青の際立ちは甚だしく、そしてその全体としての印象は、われらを酔わすバアボンの薫りのように芳醇な酩酊を立ちあらわしていた。しかもその絵画には、悲劇的な死が兆してい、それ、かれの眼差しの暗さからくるものであろうか、それとも、かれの肌の病的な白さによるものであろうか。安芸津はかれの姿を見ただけで、まるで阿片でもやったように頭がくらくらとしたのだった。
 安芸津いわく、現代において青がもっとも神経的な美しさを放つのは、真白の情景に置いたときなのである。茶いろの情景に置いたとき、青は忽然と健全さを帯び、病的にして静謐な印象はみるも無残に失われる。そこにはただ、素朴な自然と、あたたかにして親しみやすい肉体美があるのみである。アズーロ・エ・マローネ。イタリアンなラテン男の、色っぽい体臭をふりまくような色彩は、かれの愛するところではない。
 されど青、くすんだ橙いろのキャンパスに置いた際、その印象はもはや美の滅び往く直前期のそれなのである。それこそ、絶世の色彩。頬のこけ、瞼はやや閉ざされ、ピアニストさながらの指先を両頬へあてたような、さながら哀しみに暮れる青年のデッサンのような印象がある。しかしその時代、もはや去っちまったのだった。世紀末の夕陽、はや沈んで了っているのだ。
 すなわち、雪化粧の照りかえす硬き月光の青こそが、真にこの時代にふさわしい、神秘の色彩と結論されるのである。神秘性を喚起する色彩こそが、かれのよわよわしい神経を刺すのであり、乱雑にもまがう精緻にして烈しい指づかいで鍵盤を掻き鳴らした如く、そのやつれた感受性をどっと動揺させるのだ。
 おお、かれが偏愛する唯一無二の花──かのネモフィラよ。どうか、健全なる土のうえに咲くことなかれ。冷たくも硬き陰翳うつろわす大理石、きみはそんな処で、ひっそりと斃れているのがふさわしい。
 少年は、歌った。
 かれの謳いあげたもの、ただ喪失であった、もはや亡き、或いは在ったかも定かではない、ある特異な美であった。架空の美の翳、唯そうであったのかもしれなかった。
 美しい少年は謳った、純粋な愛を、擲つような奉仕を、滅私の情熱を、素直きわまる犠牲を、もの狂おしい悲哀を、芸術に殉じ身を投げた死骸の発する花束のようにグラマラスな薫りを、肉欲無きただ透明ながらす細工のような恋愛を、そのこわれ易いものに内包する、運命に定められた純然たる悲劇を、もはやそれらの喪失した地上を嘆く、真白き空の涙を。
 …きづくと、かれの姿はようよう肉体性をうしなって往き、透きとおった蜃気楼のように変貌して往って、ただ眼にはみえない、みがかれぬいた魂、それの表出させた詩性(ポエジイ)だけが煙のように空へ昇って、おもわす安芸津が手をのばした刹那、立ち昇る煙さえ、その悉くが雲散霧消したのだった。跡には、はやなにもなかった。かれはそれを不思議にもおもわなかったのだった。
 ふと床に目を投げると、悲しいほどに精緻にととのった、真紅の薔薇がころがっていたのだった。それは安芸津のあしもとへ投げ棄てられた、命の焔の残骸であった。かれにはそれが遠かった。然り。遥かとおかった。それを手に取って、大切な詩集に栞として挟んだ。惡の華。かれの、あらゆる人生より愛読している特別な詩集に。ふたたび開かれたとき、真紅の薔薇は、はやなかった。かれの落胆は甚だしかった。

  *

 薔薇を喪った夜から、男は少年に、恋した。
 この恋、そいつにはしかし、ある種の既視感がともなっていたのだった。かれはいわば、初恋の相手に、ふたたび焦がれはじめたといっていいのだった。というよりもかの美は、つねづねかれの視界のすみを蔽う病のようなものではなかったか? その美、ふだんに不埒なものを孕んでいるようであった。くわえてそれは、男をさらなる孤独者へと、技術の卓越しているが故にある種粗雑なテーラーリングで仕立て上げるのだった。かれはその美につねづね自己を糾弾された。生の背後には、つねに巨大な後ろめたさがあった。自己を批判し判決を与える眼ができあがり、それはかれがどんな妄想をしても、どんな遊びをしてもそれに浸ったり、信じたり、愉しんだりするこころを奪ったのだった。いわばかれの在った処、つねに自意識という名の裁判所であった。常に鏡のまえに立っていた、白銀花の蛇の眸の光照るそれ。
 安芸津は仏語もできないのに、ジェラール・ネルヴァルの『黒点』の原詩を印刷し、銀と紺青の彫刻が美しく絡み合った額縁を購入して、それに印刷したものを差しこみ、部屋に飾った。額縁の値段は高くつき、かれは実家に電話して、ふだんの無精なそれと異なる甘えたような口調で送金を要求した。かれはその行為への、背後の眼による批判をむりに押しのけた、「どうしようもない」、ないし「とるにたらない」が、かれの肉体の声のすべてであった。ナイ。ナイ。ナイ。かれの吐く息、ニヒルの暗みをしか発見されえなかった。

  *

 ひさしく現れなかった少年が訪問した。
 男はかれをおもいきり突き飛ばした、その紅の頬へ、幾たびも平手打ちをくわえた。雨のように、少年の華奢な躰へ暴力を降らせたのだった。これは逆恨みだ、と少年の静かな目、めいっぱい責め立てていた。弱く醜いのはお前だと、その無言と無抵抗で示していた。無抵抗こそが少年の拒絶であり、不在というかたちをとった全的な暴力でもあった。理想に向かえないのは貴様だと、その無抵抗の表層が詩的に、ともすれば論理的にかれに教えていた。かれの詩と論理は、おしなべて表層にあらわれていたのだ。そしてかれの無言の攻撃のなべてが、いうなれば男の被害妄想からに過ぎないのだった。否、この少年の美そのものが、或いはこの少年そのものが、安芸津の妄想であったか? 少年はただ、美的に示されているにすぎないのだ。して猫のように奔放に跳ねまわり、あるいは悠々と姿態を横たわらせているのみなのだった。そいつ、時折男の膝に座ってやることがあるが、そのたびに安芸津、「いったいこいつは美であろうか」と訝り、すればそ奴、瞬く間に膝から跳躍して了って、そこにいつまでも留まることがないのだった。留まらず跳ねて去るから、男は美を無我夢中に欲する。そうであるかもしれぬ。その自己本位で気まま、ともすれば残虐な態度が、かれには如何にも蠱惑的だった。それに勝手に惹かれているのは安芸津なのだった、そうであるが故に、男のこぶしの力は憎悪につよまった。
 かれが卑しき暴力をくわえるごとに、少年の美しさはさらに磨かれ、喪失の地平線、遥かへ往って了い、その輪郭線は茫洋な追憶に融けて往って、ただその硬く鋭い照りかえしだけが、男に迫った。胸塞ぐ、それでいて烈しき情念を掻き立てる、燦爛たる照りかえし。それは乳白色の星々の海が彼方で凍てついているような、きんと冷たい真珠いろであった。その美の凄まじさに、おもわずかれは手をとめた。そして四つん這いに倒れ込み、砂金でも探すように掌をよろよろと地に這わせた。傷ついた蛾が地を這うそれのほうが、まだ美しい描写が可能であろう。そこには一途な、生活者の努力があるからである。されどいまここにあるのは惨めさの極みであり、おぞましい現状にほかならなかった。安芸津にはそれが、イヤでイヤで仕様がなかった。自己と現実の真実を認めることが、できなかった。かれはもはや惨めさをしゃぶりつくして、苦みのなかの甘みを味わうよりほかはないのだった。
 もし人生がよろこびとくるしみにぱっくりと分けられ、後者がうわまわった人生に意味がないのなら──まちがいなく俺は、死ぬよりほかはないのだ。されば、苦しみを歓びへ化学変化させなければいけない。くるしみたい苦しみをくるしみえる歓び。生きるのが痛いのは幸いである──コジツケのようにそう想いもしなければ。
「貴様のせいだ、」
 男は叫んだ。
「貴様のせいで俺は現世のあらゆるものに不信と軽蔑の感情をもってしまったのだ。それらの感情のともなった、なにもできない癖に斜に構えた、惨めな劣等者の投げる視線ほど卑しいものはない。」
「解っているじゃないか。けれど自分が劣等者であるという意識から逃れられない人間は、果たして貴様の理想へ向かえるのか?」
 真赤な唇が、ようやく唾液の糸を獅子の目覚めさながらゆったりと引きひらかれた。
 かれの唇は、忽然とグロテスクな色を帯びていたのだった。充血した両生類の皮膚のようなそれは饒舌となり、安芸津の卑しさをつまびらかに批判しだした、美少年の姿はさっと掻き消えていた。ただなまなましく赤い艶をはなつグロテスクな花さながらの唇が、汚らしい床に咲いているのだった。美貌の人間の赤い唇は、ただそれのみをきりとられると、造形美という名の全体性を失い、ぞっとする程悪趣味なエロティシズムをはなひらかせることがある。われわれが美と呼んでいるものがときに露悪的な表現を強いられるのは、これ故ではなかろうか。美の切断された切口が謳われる際、その詩はさながら傷口へのフェチシズムの説明に堕してしまうよう。
「あくせく卑小な人間として生きることを厭い、理想に捧げる高貴な死を希むことは、未成年の特権だ。世界から疎外されているという感覚も、むろんそれに含まれる。貴様は自己本位なんだ。そして自己本位こそ貴様の焦がれる美と対極にあるものじゃないか。貴様が美しく死にたいのは、ただ逃げて死ぬことが虚構の美によって覆い隠され、おのれに自殺の権利を与えられると錯覚しているからだろう。それのどこが奉仕だ。自己に捧げた自殺のどこが美しい?」
「ああそうだ。その通りだ。解っている、解っている! 俺は理想に向かえていない。俺はただ魂の衝動にのみ耳をかたむけ、それに従いたい、死せるときにはその魂が肉から脱獄し、煙のように空へ昇ることを夢みる。肉体から疎外された魂の衝動だけが人間の肉体に奉仕をさせると、俺は信ずる。俺はただ魂の衝動しそらへ打ち上げる鮮やかな閃光を欲する。命の歌。それだ」
 出血した蛭のような花びらは、ふっと嗤った。その吐息、むっと豪奢であった。グラマラスな花々に埋もれ、煌びやかな装飾をして、それらに倦みきった瞳を憂いに沈ませる、堕落した快楽児たちによる、金粉のひといきれ…。
「まあ飲みに行こう、」
 と、いつのまにか立ち昇っていた美少年が素っ気ない口調で提案した。男がそれを断る理由はなかった。なんといってもかれは生活が寂しかったし、ずっと独りでいるのが苦しかったし、たとい素っ気ない態度であろうと、甘やかされそれにあまんじて育った安芸津は、ひとに優しくされることがなによりも好きだったから。

  *

 狭苦しいバーである。塵が舞っている。店員の愛想は悪い。他の客の柄は悪い。臆病な安芸津にはそれがおそろしい。されど、価格が安い。
 安芸津はそこで、明らかに浮いている。着ているものだけは立派だからである。磨き抜かれたドレスシューズは月のように光っている。室内でもジャケットを脱がないのは、かれの自己へ課した制約である、誰をも、安芸津本人をしても認め褒めることのないルールである。かれはその種の疎外については、一瞬誇りに思った。そしてその直後、その滑稽さをだれよりも意識した。他者に与える印象効果の意識による一喜一憂は甚だしかった。安芸津とダンディズムとの距離、まるで無限であった。着用している衣服の権威と、自己の卑しさに乖離を感じた。それは学生時代、教室に含まれることで感じていた圧迫感に似ていた。急に、ネットで中古を購入しサイズを直させた某イタリアメイドのジャケットを脱いで引き千切り、その権威を引き裂きたくなる衝動に駆られた。
 少年の顔を眺めた。なんの関心もなさそうに、安芸津を見つめかえした。かれの意識は沈静した。美しいという気持は、情緒に好く効く。ウィスキーを口に含む。ひさびさの酒である。喉奥を焼く感覚がここちよかった。
「耳にしただけだが、震災中の忘れられない挿話があるんだ、」
 と安芸津は上機嫌で語りだした。
「地震が起こり、瓦礫に閉じこめられた母と赤子がいたらしい。助けが来ない。そこはほんの少しの陽が射しているばかりだった。ふたりは飢えている。先に死ぬのは、赤子のほうに違いなかろう。母はそこで、ある行動をとったんだ。なんだかわかるか?」
「知ったものか」
 安芸津はつぎからつぎへ酒を口にしながら、かれの返答に満足そうにしてつづけた。
「母は近くにあったがらすの破片をとり、みずからの腕の肉を引き裂いて、赤子に血を飲ませて栄養を与えたんだ。ああなんという美しい挿話だろう。君、流血のともなう犠牲こそ、もっとも美しいと思わないかね」
「貴様はそう思うんだな」
「しかしだ。俺はその挿話の結末が、気にいらないわけではないが、ほんの少し改竄をくわえたくなるんだな。その後、ふたりは生き延び、双方とも助かったんだ。そうだ、母は、死んでいないのだ。非道だとは思うが、俺は彼女だけが死んで、赤子だけが生き延びたほうが、美しい話になったと思うね。血を流し、犠牲のために命を投げた死体、そこから立ち昇る魂、これこそ詩に歌うに相応しいと思わないかね」
「貴様は、」
 と、侮り以外なんの感情もくみとれぬ眼差しで言った。
「母親に、死んで欲しかったんだな」
 安芸津は黙り込んだ。いつまでも言葉を発さなかった。考えているうちに、やがて頭に血がのぼった。少年を打つために腕を跳ねあげた。かれはすこぶる気が弱かった、言いたいことをふだん何も言えなかった、とくに職場では、障害者枠の身に卑屈な意識をもっていたために、一切の反論さえしなかった。しかしアルコールが入ると、刹那的な烈しい怒りに身を任せてしまう、弱く甘えた気質を有していた。
 放物線をえがいた拳は、少年の躰からやや外れた。拳は杯にあたった。隣の客のほうへ吹き飛ばされた。屈強な肉体をもつ男の、タンクトップが濡れた。男は立ち上がった。安芸津は平謝りをした。要求されていないのに土下座をした。なにか、快い感覚があった。自分自身のない自分が、なにかに追い従うことが、卑しくも頭を下げることが、かれには快楽だったのだ。結局のところ、安芸津にはなにかを実現したいという欲求がないのだった。あるのは肉体に属する欲望だけで、なにかを為したいという欲求がないのだ。かれ、ただ生きていたくなかった。それがために、生き切ることを過剰に自分に課していた。そのために本を読んだ、服を着た、詩を書いた、そう、詩を書いていた、書いていたのだ! かれは報われないのに詩を書く自分を、ほんのちょっぴり可憐に想っていたが、そのすべてがまるっと無為である。然り。無為である。かれは生が早く終わりを告げることを希んでいた。かれが生きているのは、義務の観念によってであった。生き切ることが義務であることくらい、安芸津の愚かさをもってしても、知っていたのだ。くわえて、どうせかれに自殺なぞできやしなかった。もしその危機に襲われたら、かれは重い躰を引きずって実家に戻り、ふたたび入院でもして、女か美男の看護師に甘えるのであろう。…
 安芸津は男へ外に連れ出され、三度殴られた。その悲鳴は嬌声にも似ていたが、しかし、愛嬌も媚態もあるわけがなかった。まったくもって、ばかげていた。少年はまたどこかへ消えていた。

  *

 ふたたび、少年が安芸津を訪問した。安芸津、かれの姿をみとめた瞬間、狂ったようにまくしたてはじめた。
「いいか、よく聴け。俺の憧れは、もはや亡いんだ。喪われているんだ。死んだ観念に憧れる、これが何を意味するか解るか? 貴様なら解るだろう、なぜならば貴様は、俺の憧憬の影に過ぎないからだ。憧れの残り香、後ろ髪ひかれるような未練によって、悔恨と悲しみばかりを謳いあげる、現代に出現した世紀末の使者ともいえるような、俺を惹きつけズタズタに引きずりまわし、俺に自己嫌悪と後ろめたさばかりを与える、あたかも霊のようなものであるからだ。
 貴様の態度は、デカダンのようなものは、この時代には無為だ。なぜといい現世はけっして日暮れ時なぞではなく、われらを狂わす斜陽のあたる橙いろの時代なぞではなく、憧れのやや残る時代の移行期なぞではなく、もはや憧れが追憶のなかにしかない、すでにそれが地平線へ沈み切って了った、新しい時代であるからだ。斜にかまえて世間を眺め、滅茶苦茶な生活をし、肉体をいじめぬき、退廃的なアートを収集し、ああ、それがなんだ。現代のデ・ゼッサント、かれが何をできるか? 現代において、わが憧れを体現せんとする者は、もっと泥臭く、おぞましい惨めさを引き受けるべきだ。生きることを生きる、こんな当たり前の惨めな苦労を背に負うべきなんだ。デカダンスが好きだという人間は多いであろう、しかし十九世紀末のフランスとは、もはや時代も、そもそも国も、違うのだ。いまデカダンスは世紀の末期にない、もう終わって了ったのだ。俺は現代のこの国において、デカダンス、デカダンと愛着をもって呟く輩は大嫌いだ!
 わが幻は、ゼッサントの偏愛した、追憶に褪せた花弁の色のような、あるいは夕日の燦きにも似た、あたかも古色蒼然たる詩を連ねられた古紙のそれともいえるような、狂気を滲ませた橙いろではない。真白だ。死装束のそれのような、あるいは花嫁衣裳のそれにも似た、神経を打ち、きんといたましい硝子音をひびかせるような、そんなさむざむしい真冬の風景画だ。もはや光は、遥かから硬く照り返すだけだ。しかしそんな色だからこそ、月光の青は最上に際だつのではないか? すでに亡き、横臥す純白に射す月光こそが、神秘に濡らされ青みのかかる幻想の風景こそが、まさに詩に謳うにふさわしいものではないか?
 ああどうか、詩はただ謳うものであれ!
 しかしだ、そのわが憧れ、風景画、それにはな、肉体が無いんだ。だって亡いんだからな。幻としてしか現れることがないんだからな。脈打ち、鼓動し、息づき、生の意欲の張り巡らせ、そんななまなましい肉体性が、いっさい欠けているんだ。そこには死者の魂のほかは何もない、単なる幻の美世界、俺はその様子に安堵していた、なぜというに、肉体のない憧れは、俺に変化を、なんの努力も要求しないからだ。到達不能な幻想に心おきなく憧れられるからだ。達成できない理想世界というものは、ことごとく気力を失わせ、かつ快い自己無価値感に、おのれを堕とすだけだ。
 憧れには、肉体がなければならぬ。もし亡いならば、それを与えなければならぬ。自分の意思で、その選択肢を選びとらなければならぬ。俺は用意された杯が現れるのを待ってはならない。朦朧たる腐った液体である自己を、どうにかこうにか、自分で凝固させねばならぬ。
 しかし俺にはひとつの確信がある、自己肯定・自己実現は良きことである、だが、それ以外にも、たとい現代であろうと、生・死のありかたはある筈だと。
 俺は、もはや亡い観念から、どうしても離れられないのだ。つねづねそのことばかり考えているのだ。こいつは俺の躰にまとわりついて、美しい無音の歌ばかりを聴かせやがる、無音とはつまりは無辜、innocenceだ」
「魂とは、肉体に拒絶する何かである」
「そうだ、その二元論に、俺は固執している。魂、それはないかもしれぬ、否きっとないであろう、しかしその存在を信じざるをえぬ。俺はどうしようもなく、それを信じ込んで了っている。俺は虚数的存在としてそれを在ると仮定し、信じ、愛し、抱き竦めるよ。
 肉体、ともすれば怪物となるのだ、欲望を内包しているからだ、俺はそれを実感した。かつて、俺は醜い獣であった。俺は自分の肉体の形状にも、おのれの肉欲にも失望した。俺には、犯罪者の血が流れている。ともすれば、ひとさえ殺しかねぬ。その醜さを普遍的な人間論に持っていく気はない。しかし、そうであるならば、俺は、それに反抗しなければならない。俺の反逆は、つねに俺自身の肉へ為されねばならない。そうでもしないと、どこへ転ぶか解らない。俺が自己の内部で信じられるのは、魂だけだ。存在さえもしないであろう、やはり虚数めく観念的存在だけだ。だがそれを、信じざるをえぬのだ。
 しかしだな、たとい双方を分離して考えようと、肉体はけっして、軽蔑してはいけないのだ。憎悪も然りだ。その態度は処世術だ。双方の馴れ合いだ」
「俺をどうする?」
「殺してやる。これは俺の、長引きすぎた思春期との決別だ。俺は肉体と魂、その双方の馴れ合いの結果、ただ肉体の不在したプラトニックラブを為したかった、いや為す気もなかった、ただの童貞主義の潔癖症だった。
 貴様には、死者の影だけがあって、肉体がない。貴様じたいが、俺がつくりあげた、実現不能な幻影だった。貴様に憧れるのは快かった、貴様を愛するのは気楽だった、なぜといい、無いのだからな」
 少年の瞳、もはやがらんどうである。蒼白の肌は淡い点描へとうつりかわり、背景と一体化し融けこんでいる。如何なる点へも、焦点が合わぬ。憂鬱にうねる黒髪は幽遠なる象徴画の一要素に過ぎず、まとう衣服は悉くが虚無へ投げこまれた煌びやかな修辞であって、その細い体躯、蜃気楼のように幽かに昇っているのみである。
 安芸津は、青年期のかれをつねづね悩ませていた血の気多き獣性のままに、ばらのそれにも似た悲劇の薫り高い、殉教した反逆の美少年へ銃口を向け、引き金を引いた。して、みずからの精液を、かの死骸の美しい顔へ、エロによる冒涜でなく、あたかも祈祷の塩まきのような心情で、厳粛なる身振で降り注いだ。
 ただかれには、理想に殉うために美しく死ぬのではなく、それがために惨めに卑小に生き切る、義務があったのだ。かれが求めていたのは殉教ではなかった、けっしてそれではなかった、殉教により充たされた自尊心の状態、かれの求めるものの対極にあった。かれは焦がれていた、自尊心がからからに乾いてでもなお撥ね上がる、愛に点火され燃ゆる魂の上げる、鮮やかな閃光を。否、それすらも、愛の翳にすぎぬのに。
 安芸津の根本的主題は、つぎのものであったようだ。愛と信仰、そして死。すなわち──不在というかたちをとる、世界に満ちるすべて。宇宙の暗闇が孕む、久遠の火。

後ろ髪曳くように

後ろ髪曳くように

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更新日
登録日
2022-11-05

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