かさぶた

 いつの間にか、右足の甲に擦れた小さな傷ができていた。靴擦れだった。
 歩いている時から、なんかチクチクするなあと思っていた。本当はズキズキとした痛みもあったが、まさかそんなという考えがどこかにあったので、全くその痛みを気にしていなかった。それでもやっぱり気にはなるもので、会社に到着してからパソコンを出して仕事の準備をしつつ、朝ご飯のパンに齧り付きながらこっそり靴を脱いで確認してみる。すると、やっぱりそこにはちゃんと靴擦れができていた。

 私には、長年愛用している靴がある。ローファーでお馴染みであるハルタの、黒いレースアップシューズだ。マットな革で、程よく丸みを帯びたつま先にローファーよりは少し高いヒール。高校を卒業して大学生になった年の誕生日に母が買ってくれた。五月生まれの私だが、最初に履いたのは確か少し涼しくなった秋口だった記憶がある。もったいなくて履くのを渋る程度に、私は彼のことを気に入っていたらしい。その気持が変わることはなく、今履いているものはもう三代目になる。
革靴は、買ってからすぐの間はまだ硬さがあって少し履きづらい。それでも根気よく履き続けていくと少しずつ自分の足にあわせて革が伸びていき、だんだんと馴染んできてくれるのが分かる。たまに乾拭きをしてクリームを塗ってあげれば、うっとりするような艶がでるところも愛おしい。時間を共にした分だけ、それに応えるように変化をし、深みのある風貌をまとっていく。その様が堪らなくて、ヒール底のゴムがすり減っても二回くらいはお直し屋さんで貼り替えてもらって、本当に限界かな、と思うくらいまで履いてしまうのがもはやお決まりになっている。
 私はオシャレに気を使う方では全くないので、例えば、シャツやトレーナーにジーパンとか、テキトーに着やすいものをテキトーに併せて着ることが多い。それでもこの靴さえ履いてしまえば、どんな格好でもある程度「締まり」を出してくれる。オシャレが得意ではない私を、ほらほらシャキッとしろ、と言うようにこっそり支えてくれる、年上のお兄さんのような存在なのかもしれない。彼にはほぼ一年中、どんな時でもお世話になりっぱなしだ。今日は歩くぞ、と分かっている時などはスニーカーを履くこともあるが、私の普段靴といえばもっぱら彼のことである。

 現役の彼は一年以上前に買ったものであり、それなりの付き合いがあって履き心地も全く悪いわけではない。これまで問題なく履けていたのに、どうして急に靴擦れができるようになってしまったのか。もしかして、と思う大きな心当たりが私にはあった。
 今年の春ごろ、私はハルタでもう一足の革靴を買った。何かきっかけがあったわけでもなんでもないのだが、久しぶりにとてもローファーを履きたくなった。オーソドックスなローファーよりも光沢感のある黒革で、平たくシュッとしたつま先が大人っぽいデザインの一足。お店で買った時に、よかったら使ってみてくださいと、小さなコインを一緒に貰った。サドルという上辺の切れ込みの部分に入れて使うそうで試しにやってみると、学生ローファーとはまたガラッと違った、どこかこなれた雰囲気になる。さりげなく個性が出せる感じがとてもよくて、近頃はこちらのローファーもよく履いていた。
 確かに同時に二足の革靴を履くのはこれが初めてのことだ。ローファーの方も半年ほど履き、最初はカチカチだった革もだいぶ緩んできた。いい関係を築けている。そのせいだったりするんだろうか。私が、他の革靴にも情を持つようになってしまったから。そう思ったら、なんだか急にドキドキしてきた。頭の方に熱が昇っていくのが何となく分かった。なんてことだ。これまでお世話になってばかりで、私の方が一方的に愛を注いでいたと思っていた彼が。ああ、なんて可愛いんだろう。傷は多少痛むけれど、そんなことはどうでもよくなっていた。だって、これは彼がヤキモチを焼いている証拠なのだから。長い時間を確かに共に過ごしてきたことも相まって、私はもう胸が堪らなく締め付けられて、食べているパンなんか放り出して今すぐに彼を抱きしめたい気持ちになった。
 最近はレースアップシューズとローファーと、できるだけバランスよく履くように心掛けている。本当に長く、大切に履きたいのなら、毎日履くような使い方が正しくないことは前々から知ってはいた。だから一見三角関係っぽく見えるこの関係も、かえって皆にとって良かったのかもしれない。今や足の甲にできた靴擦れは、かさぶたになっている。その痕を横目に、私は今日も愛しい靴たちを丁寧に磨いている。

かさぶた

かさぶた

「まっすぐの上のなんてことのない凸」より 2022年

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-30

CC BY-NC-ND
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