君と作る、物語(仮)
第1話 小説のような出会い
ある夢を見ていた。
多分僕がその夢の中にいる間『これは夢だ』とは意識していないと思う。
そこでは大きな満月がなにかにあがくように輝き、潮のにおいが鼻孔をくすぐり、さざなみの音が聞こえている。
夢の中の僕は、隣の林から聞こえてくるコオロギやキリギリスなんかの虫の鳴き声に耳をすまし、見え隠れする満月の光が反射している海を見つめながら、小さな砂浜を歩いている。
左右には林が、目の前には海が広がり、後ろにはちょっとした壁があり砂浜とその向こう側をわけていた。
夢特有の独特な雰囲気がなんだか緊張感を漂わせており、そこにいることに不安とともに期待を感じた。
しばらく見え隠れしていた月がまた雲の後ろから姿を現し、夜を明るくしていった。
月の光に照らされた大きな流木が視界の隅に映り込んでいる。
その大きな流木に腰を掛けると、足元に何かあることに気づいた。
それは───一冊の薄い本。
表紙をめくり中をのぞくと、そこには見覚えのある題名と作者名が書かれている。その本は、僕が初めて書いた短い小説だった。
なぜここにあるのかと不思議に感じたが、懐かしみつつそれを読み始めた。
しばらくの間その本を読んでいると、背後から砂を踏む音が聞こえてきた。
後ろを振り返ると、白いワンピースに麦わら帽子を被った女性が裸足でこちらに向かってきている。
その女性の手には一冊の本が握られている。
その本の表紙は暗い影に隠れてよく見えない。顔には白い靄がかかっていてどんな顔つきをしているのかわからない。
肌は白く透き通っていて、黒く長い髪が風に吹かれて揺れていた。
大きな流木から腰を上げて立ち上がり一歩一歩近づいてくるその子と向き合う。
わずか数十センチしかない距離まで近づくと彼女は立ち止まった。するとその女性のおでこと顎のあたりから徐々に白い靄が薄れていった。
………彼女は泣きながら緩やかに笑っていた。
漫画のキャラのような大きな目に、すっと通った鼻筋、右の目元にはここにしかないというところに小さなホクロがある。
その笑顔は本当に綺麗で儚くて優しいものだった。
笑いながら細めた目から涙がこぼれ、頬を伝い、まるで雨上がりの葉っぱのように顎の先から、涙のしずくが落ちそうになっていた。
そして彼女は持っていた一冊の本を突き出し、こう言ったのだ。
「この世界に、残り続けるような物語を、書こう」
そこで───目の前の景色はなにも書いていないまっさらな本のように白くなっていった。
***
───軽快なリズムを刻むスマホの目覚まし音で目が覚めた。
ベッドの上で布団をかぶっている。
さっきまでどんな夢を見ていたのかぼんやりとしか思い出せない。
誰かになにか大切なことを伝えられたような気がする。
「陽翔はるとー! 起きてるのー?」
「今起きたー」
起きたとたんに階下から声をかけてきた母さんの声が頭に響く。
まだ寝足りない体を回すと、目に入るのは見慣れた景色。
白く統一された少し大きい部屋。ベッドの隣にはパンパンに本が詰まった縦長の本棚が置かれている。
カーテンのかかった窓の前に立つ勉強机の上には大量の教科書や参考書が積まれ、隣にはちょこんと地球儀が置かれている。
頭をぼーっとさせながら布団をどかし、ゴワゴワとした床のカーペットに足をつける。
レースのカーテンを開くと、朝日がこれでもかと目に飛び込んできた。
丘に建つ家からは大きな海が見渡せる。
窓を開けると海のにおいがする風が吹きカーテンと僕の髪を揺らした。
部屋を出て、顔を洗うために一階の洗面所に向かう。
ひんやりとした廊下を歩くと、裸足の足裏から伝わる冷たさに全身が身震いをおこした。
洗面台の鏡に少し幼い自分の顔がうつっている。顔を水で濡らし自分の頭を無理やり起こす。
和室に入り、僕がまだ幼いころに亡くなった小説家だった父の仏壇に向かって手を合わせる。
それが終わるとカバンを二階から持って降りて、制服に着替え、母さんに作ってもらった朝ご飯を食べていると、テレビ越しにお天気お姉さんの快活な声が聞こえてくる。
「陽翔はると、今日夕方から雨降るみたいだから傘持って行っときなさい」
「ありがと、母さん」
椅子から立ち上がり、母さんから折り畳み傘を受け取るとそれを背負ったカバンの横ポケットに突っ込んだ。
部活に入っていないので夏休みの間学校に行く機会は補修ぐらいのもので、久しぶりに履く制靴はなんだか小さく感じた。家を出る前にポケットに携帯とメモ帳を潜り込ませ、ドアノブを握る。
「いってきます」
「いってらっしゃーい」
母さんの送り出す声を聞きながら扉を閉めて僕は車の隣にたたずむママチャリに足をかけた。
僕はタイヤが少し太いそれに乗って坂道を下っていく。
車輪が回るたびに小さくキリキリとなる音を聞きながら僕は木漏れ日を浴びてまたたく間に変わりゆく景色を眺めていた。
いいな、と思った。
田舎のこんな朝は居心地がよく、頬を撫でるそよ風には、なんだか励まされているように感じる。
後でこの感覚をメモしておこう。
夏の終わりと秋の始まりを感じる少し冷えた風を感じながら自転車でゆるやかな坂道を漕ぎ続けること数十分。
隣の山にそびえる学校が見えてきた。僕の通う霧が丘高校だ。
僕が教室に入ると一瞬、クラスメイト達からの視線が向けられるが、すぐにクラスは元の会話に戻り、ざわめきを取り戻した。
席に向かう間にクラスメイト達の会話が耳に入ってくる。
「昨日のライブ中継見たー?」
と女子は手を合わせてはしゃいでいる。
「お前、今週の○○○○読んだか?」
と男子は某有名な漫画の話をしている。
僕はというと窓側の席に着くとカバンの中から一冊の小説を取り出した。
カバーがかけられ、表紙が見えないその本は、主人公の成長が描かれた作品だ。
少しざらついた紙を一枚一枚丁寧にめくり読み進めていく。
「よっ、陽翔はると」
しばらく読み進め17ページ目をめくるところで右肩をトントンと叩かれた。
声をかけてきた長身で坊主のクラスメイトは長谷川はせがわだった。
長谷川はせがわとは一年生の頃に同じクラスになり、それから時々話すような間柄になった。この学校で僕とまともに話してくれるのは長谷川はせがわくらいだ。
「おはよう、長谷川はせがわ」
ぱたんと本を閉じてそう答えると長谷川はせがわは僕の前の席にどさっと荷物を置いて席に着き後ろを振り返って話しかけてきた。
霧が丘高校野球部のエースピッチャーを務める長谷川はせがわの背中からは、なんだか威圧を感じる。
「昨日、矢野やのっちが言ってた転校生ってどんな子なんだろうな」
「さあ、僕はどうでもいいかな」
昨日のホームルームで担任の教師からあらかじめ転校生が来ることは聞いていたが特に興味がないのだ。
「お前なぁ、もうちょっと他人に興味持たないと……だから俺以外に友達いないんだぞ?」
長谷川はせがわの無慈悲なその言葉に、ひどく心が傷つけられた。自分でもわかっていたことだが、改めて口に出されると虚しさが心を締め付ける。
「長谷川はせがわ、もうちょっと言葉をオブラートに包めないのか……」
「あ、悪い。傷えぐっちまったか」
「まあ、いいんだよ。本当のことだしね」
「あ、あはは……」
自分で言ってて虚しくなってくるがこればっかりはしょうがない、入学式の日の自己紹介で笑いを取りに行ったつもりが大スベリしてからというもの、クラスメイトから業務連絡しかされなくなってしまったのだ。
なんて気持ちを落ち込ませていると教室の扉が開き矢野やのっちこと、矢野美咲やのみさき先生が入ってきた。
「昨日のホームルームで言っていたように、今日からうちのクラスに転校生がやってきます」
矢野っちがそう言うが早くクラス中が騒ぎ出す。「男、女?」「すごいかわいい子だったらどうする?」なんて声が聞こえてきた。
高校二年生の夏休みが終わり、数週間たったこんな時に転校なんて珍しい。何か事情でもあるのだろうか。
「はい、静かにー! 楽しみなのはわかるけど、入ってきにくくなるからボリューム抑えてー。……よし、じゃあ入ってきてくださーい」
「はい!」
矢野っちから声をかけられた転校生は良く響く声で返事をして教室に入ってきた。
姿を現したのは黒い髪を腰まで伸ばし、霧が丘高校とは違う制服を着た女子生徒だった。
漫画のキャラ見たく大きな瞳に通った鼻筋、右目の目元には小さなほくろがあり、腕は女の子らしくほっそりとしている。肌は白く透き通り、歩くたびに長い髪が揺れている。
その姿と一つ一つの所作がただただ美しく、思わず見とれていると前に座る長谷川はせがわが振り返り小声で話しかけてきた。
「結構かわいい子だな、タイプではねえけど」
「……うん、そうだね」
すると長谷川はせがわは目を見開いて心底驚いたような顔をして前に向き直った。いったい何に驚いたのだろうか。
「めっちゃ可愛いじゃん」「後で話しかけてみよ」隣の男子たちも転校生の容姿について盛り上がっている。
教壇の前に立ち、周りを見回す転校生と目が合った。
すると彼女はふわりと微笑んだ。右頬にだけえくぼが出来たその笑みになんだか懐かしさを感じた。
……って、可愛い転校生と目が合ったら微笑んでくれたなんて気のせいだ。
たまたまそう感じただけに違いないだろう。本の読みすぎだ。
いないだろう。本の読みすぎだ。
「初めまして、竹内渚たけうちなぎさといいます。仲良くしてくれると嬉しいです! よろしくお願いします!」
先ほどの雰囲気とは打って変わって元気な声で転校生が自己紹介を終えるとパチパチと暖かな拍手が教室に響いた。
転校生はあらかじめ用意されていた席に着くと、さっそく周りの女子に話かけられていた。
僕は女子なんかと関わることが極端に少ないし、これからさき関わることもないだろう、なんて考えてホームルームを聞いていた。
この時の僕は思いもしなかった。
これから彼女と、この世界に物語を残していくなんて……。
第2話 この世界に、残り続けるような物語
学校中にキーンコーンカーンコーンと六時間目の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響く。
ホームルームが終わって放課後になると、僕は荷物をカバンの中にまとめて早々に教室を立ち去った。
いつもどおり図書室に向かう途中、窓の外では秋の糸雨が降っていた。雨が窓枠に当たって、元気に跳ねている。
雨が降り注ぐ校庭では野球部が必死にランニングをしているようだ。
中でも長谷川は先頭を切って時々後ろを振り返り、口を動かし、チームメイトを励ましているようだ。
僕には到底あんな真似できない。誰だってそうだろうが、しんどいことは嫌いだ。
階段を降りてすぐ左、僕は図書室の前で立ち止まった。
霧が丘高校の場合、放課後に残って勉強する生徒のために自習室が設けられており、町には図書室なんかよりも多くの本を管理する図書館があるため、図書室を利用する生徒はあまりいない。
いつものように、部屋の中にはカウンターで居眠りをしている司書の先生以外、誰もいない……と思ったら小さな背中をこちらに向け、部屋の一番奥の席に座り込む一人の女子生徒が。
椅子の後ろに黒い髪を伸ばし、シャンとした姿勢で小説を読んでいるようだ。
その女子生徒は僕が入ったことに気づいていないようだ。読書に集中しているのだろう。
邪魔にならないよう、その女子生徒から一番離れた席につこうと椅子を引くと、椅子の足が床に擦れ、ガガガと音を鳴らしてしまった。
流石の彼女も、その音で教室に自分以外の生徒がいることに気づいたのか後ろを振り返り、その顔をのぞかせる。
右の目元には、ここしかないという完璧さで小さなホクロがある。
その女子生徒は今日転校してきた、竹内渚たけうちなぎさだった。
僕が椅子の背もたれを持ちながら固まっていると、竹内渚たけうちなぎさは一瞬目を見開いてパタンと本を閉じた。
二人とも一瞬の間見つめあい、先に口を開いたのは竹内渚たけうちなぎさの方だった。
「あ、えと、こんにちは!」
僕の存在に気がついた彼女は自己紹介の時みたく元気に声をかけてきた。
視界の隅に映る先生は体をビクッと震わせて、一瞬起きそうになっていた。
背もたれから手を放し、僕も挨拶で返す。
「……こんにちわ」
普段、長谷川はせがわ以外の生徒と話すことがないこともあいまって、転校してきたばかりの、しかも女子に、なんと話しかければいいのかわからない。
「……あのっ私、今日転校してきた竹内渚たけうちなぎさっていって。君って同じクラスの白瀬陽翔しらせはるとくんだよね?」
もう一度二人の微妙な空気を破り、話しかけてくれたのは竹内渚たけうちなぎさだ。
それにしても、なぜ僕の名前を知っているのだろう。一日で僕のような陰キャの名前まで覚えたのだろうか。
「……そうだけど……なんで僕の名前を知ってるの?」
いつも通りだが今日も学校でとくに目立つことをした覚えはない。ましてや僕は委員長でもなければ居眠りしていたわけでもない。
「それはね……君がずっと本を読んでたからだよ。休み時間も読んでたしホームルーム中もこっそり読んでたしね」
いたずらを思いついた子供のようにニヤリと笑いながら竹内渚たけうちなぎさは指摘してきた。
「たしかにホームルーム中も読んでたけど…そんなことで転校生に名前を覚えられるとは思わなかったよ」
「転校生じゃなくて竹内渚たけうちなぎさっていう名前があるんだよー」
「それは悪かった、じゃあ竹内たけうちさん……でいいかな?」
いきなり下の名前で呼ぶなんてことはハードルが高すぎて気が引けた。
「うーん……まあ、いっか」
竹内たけうちさんはニコッと右頬にだけえくぼを出して笑った。
彼女はぽつぽつと落とし物を拾うように、手に持った本を何度もパラパラと親指でめくりながら少しずつ近づいてくる。
「転校初日だからさ学校を探検してたんだけど、放課後の図書室ってこんなに人がいないもんなんだね。図書室で勉強したりするものだと思ってたよ」
竹内たけうちさんは机の周りをぐるりと回りながら、聞いてもいない事情を話しだす。
竹内たけうちさんのまるで放課後の図書室を知らないような物言いに僕は違和感を覚えた。
「……まあ、勉強は放課後に開けられる自習室でやるように決められてるから」
「へえーそうなんだ! 自習室とか開くんだね、教えてくれてありがと」
竹内たけうちさんの声で先生が起きてしまわないか心配になりカウンターを覗いた。
……起きる心配はなさそうだ。先生が起きたからと言ってなにかあるわけでもないのだが。
やがて竹内たけうちさんは僕が座るつもりだった席の右斜め前に座り机に肘を乗せ、指を絡めて手を組み、その上に顎を乗せ話しかけてきた。
「ねえ、陽翔はるとくんは放課後はいつもここにいるの?」
「……っ!」
下の名前で呼ばれたことになぜか驚きと嬉しさを感じ、しだいに顔が火照っていく。
慌てて下を向き顔を隠した。
同級生の女子に名前で呼ばれたことが無いからか、嬉しさと恥ずかしさがこみあげてくる。長谷川はせがわとはわけが違うようだ。(すまん、長谷川はせがわ。)
「陽翔はるとくん、どうしたの?」
また、その声で名前を呼ばれる。温かいような懐かしいようなそんな声の響きに、また、僕の頬は赤くなる。
濃い茶色をした瞳が、僕の顔を覗き込む。赤くなっている顔を見せないように顔に手を当てて「なんでもない…」と返した。顔が熱い…。
「もしかして陽翔はるとくん照れてるの……?」
しばらくどこかの賢い人のように顎に手を当てていた彼女からそんな鋭い質問が飛んできた。
とても楽しそうにニヤニヤしている竹内さんの表情は随分と楽しそうだ。
「照れてるわけないでしょ……」
「うっそだー!だって顔赤いし!さては陽翔はるとくん、女の子に下の名前で呼ばれたことないんでしょ……?」
一応誤魔化してみたもののそれも虚しく、さらに痛いところを突かれてしまった。
思いっきり失礼なことを言われているが間違ってはいないので否定できない。
「……うるさいな、呼ばれたことがないからなんなのさっ」
「んー、なんでもー」
開き直り少しでも抵抗しようとしたが、彼女は柔らかく微笑みながらその黒く長い髪を左右に揺らし誤魔化してきた。
「そういえばさ、あの司書の先生っていつも寝てるの?」
竹内たけうちさんはカウンターの椅子に背を預けて幸せそうに眠る先生に目を向け、尋ねてくる。
「いつもではないけど、よく寝てるかな」
「毎日来てるの?」
「そうだよ」
「飽きないの?」
「飽きないよ」
昔から一人でゆっくり過ごすことが好きだった僕にとって、この学校の図書室は心休まる唯一の場所だった。飽きる飽きないの問題ではないのだ。
「……それくらい本が好きな君を、この私が試してやろう」
竹内さんは、胸を張ってこの時を待っていたかのようにそう言った。
なにか問題でも出されるのだろうか……?
「……?」
「今からこの本を読むから知ってる本だったら言ってね」
急な展開に驚きつつも、落ち着いて話を聞くようにする。
竹内たけうちさんは手に持っていた本のはじめのページを開き、んんっと喉を鳴らした。
エアコンの駆動音と窓に当たる雨の音がしだいに遠ざかり、彼女の吐息と親指で挟んだ紙のこすれる音だけが聞こえるようになる。
「半年前に余命宣告を受けた。
私の身体はひどく悪いらしく、入院してもあと数年で私の命は尽きるそうだ。急な入院から数週間後に病棟の狭い一室で告げられた普通に暮らしている人間は到底知らないような病名を聞き、頭が真っ白になった。
病気についての説明を受け終わると隣に座る嫁の表情はぐにゃりと歪み、泣き崩れた。医者にしがみつき『夫は助からないのか』と答えの知っている問を何度も聞いていた。私はなにも言わずに嫁の背中を撫でて落ち着かせた。
病院からの帰り、嫁はごめんねと謝ったり、話題を変えて励まそうとしたりと終始不安定な様子だった。家に帰ると息子は待ち構えていたのか『おかえりー!』と言いながらぎゅーっと元気に抱きついてきて私も優しくぎゅっと抱きしめた。
結婚して四年、都内の大手企業に就職し小説を書きながら家族三人で順風満帆に暮らしてきたが、神様はそんな私を気に入らなかったらしい。
しばらくなにも考えられず、入院生活を続けていると、ふいに息子の成長して行く姿を見られるはずだったのに、嫁とは老後の生活も楽しく過ごすはずだったのに、とどこにどうぶつければいいかわからないやるせなさが胸の中からわき起こり、その日私は、ずいぶんと久しぶりに泣いた。
私が死ぬまでになにかできないかと考えたとき、すぐに思いついたのは小説を書くことだった。
だから私はこの本を残して行く。自分がこの世界にいた証を遺して逝く。
この作品を読んでくれる人々に、私の思いを言葉で紡ぐように……。」
きりのいいところまで読んでもらい、僕は静かに告げる。
「……この作品、知ってるよ。作者は白瀬湊しらせみなと、僕の父さんだ」
時々小さな息継ぎを挟ませ、読んでいるときに緊張感をただよわせながら、ゆっくりと撫でるように読み進められたその本は、父さんの病気が発覚してからの家族三人の実話をもとにして書かれたた父さんの最後の作品だ。
「そう、やっぱり君のお父さんなんだね……」
「……なんでその本の作者が僕の父さんだって知ってるの……?」
僕らはお互い、確認し合うようにゆっくりと言葉を交わしていく。
わからない。
なぜ僕の父が小説家だったことを知っているのか。
「それはね……風の噂っていうことで」
「なんだ、それ?教えてくれたっていいんじゃないか」
「まだダメー」
竹内たけうちさんはニコッと右頬にだけえくぼを作ってはぐらかした。
どうやら教えてくれるにはまだまだ関係が浅いらしい。
「それにしても、その本どこで見つけたの?」
くされながら、もう一つ抱いていた疑問を尋ねた。
父さんはもともとあまり売れている作家ではなく、最後に書いたその本も書店に多く置かれるような作品ではないのだ。
「……たまたま本屋さんで見つけて、タイトルが気になったから買ってみたんだ。そしたらすごい好きになっちゃって今じゃ私の一番好きな小説なの」
竹内たけうちさんは少しの間黙りこくると、すぐさま取り繕うように言った。
おそらく彼女は嘘をついている。これでは、僕の父が小説家であることを知った理由にならない。
「ねえ、白瀬陽翔しらせはるとくん。君は小説家を目指してる、そうでしょ?」
突然立ち上がり僕の目の前までやってくるとやけに真剣な声音と表情をして竹内さんはそう尋ねてきた。
突飛で、なおかつこのタイミングで聞いてくる質問に僕は思わず気圧されてしまう。
「どうしてそう思うの……?」
「知ってるからね」
どこかを見つめる彼女の瞳には、僕には想像もできないなにかが映っている。
全身でそう感じた。
「……そうだよ、僕は小説家になりたい」
少し後ずさりながらも僕は素直に答えた。
「それはどうして?」
もう、そんな目をされたら、答えるしかないじゃないか……。
上目遣いで見つめてくる彼女の長い髪からは柑橘系の匂いがする。
「小説を書いているときの父さんは、いつも楽しそうだった。自分がもうすぐ死ぬっていうのに、その時だけは目が輝いてたんだ。だから僕はそんな父さんがいつもどんな気持ちで、なんのために小説を書いていたのか、知りたいんだ……」
不思議と彼女になら伝えてもいいと思えた。
今日初めて会ったのに、彼女なら、僕になにかを与えてくれる気がした。
病院のベッドでいつもうたた寝をしていると隣から聞こえるパチパチとキーボードを叩く音で目が覚めた。必死にキーボードを叩いては頭を抱える父さんの瞳の輝きが必死に生を噛み締めているその姿が未だに脳裏に焼き付いている。
「それなら、書こうよ。君と私でこの世界に、残り続けるような物語を、書こう」
彼女のその言葉の重みが、覚悟が、ひしひしと伝わってくる。
まるで濁流のように押し寄せてくるそれは、僕を殴りつけてくる。それは、僕にささやいてくる。お前には無理だ、と一度夢を諦めたお前には無理だ、とそれは、恐れは、悲しみは、怒りは、憎しみは、様々な負の感情が、囁いてくる。
それでも僕は白瀬陽翔しらせはるとは陽の光を浴び白い羽でそれらを振り払って翔ぶ。
「僕は、父さんがなんのために小説を書いていたのか知りたい」
「私は、この世界にいた証を遺したい」
僕らは静かにお互いの覚悟を伝えあった。
「「僕たちで(私たちで)この世界に、残り続けるような物語を、書こう」」
もう、雨は降っていなかった。
第3話 彼女の秘密
「「僕たちで(私たちで)この世界に、残り続けるような物語を、書こう」」
そして目の前の彼女は右腕を持ち上げると、僕に手のひらを向けてきた。
「……?」
僕が首を傾げていると竹内たけうちさんは語気を強め、僕の右手をひったくった。
「握手だよっ!」
突然手を握られたことにギョッとしたが、彼女のその小さな手にはしっかりとした温もりがあることを感じる。
その温かさは彼女の気持ちの温かさを表しているようで、なんだか嬉しくなった。
「よろしくね、陽翔はるとくんっ!」
「うん、よろしく」
竹内たけうちさんはどこか遠くを見つめているような深みをもった瞳で、僕を見つめてくる。
どこか惹きつけられるその瞳を、僕も同じように見つめ返した。
これから僕たちはこの世界に、どんな物語を生み出していくのだろうか。
そんな何もわからない未来のことを考えると不安や期待の矛盾した色々な感情が沸き起こる。
ふと窓の外を見つめると空が雀色に染まっていた。
太陽がもうじき山の陰にすっぽりとおさまろうとしているようだ。
隣の彼女の瞳は、どこか寂しそうに沈みかけの日暈を写していた。
「そろそろ日が暮れちゃうから私帰るね」
「うん、僕ももう帰ることにするよ。まだ雨の勢いが弱いみたいだし」
「よかった、まだまだ話し足りないんだー」
竹内たけうちさんは机の上に乗ったカバンを掴みルンルンと足を弾ませながらドアへ向かっていく。
今日一日で彼女には子どもっぽいところがあるということがわかった。
僕もカバンを持ってカウンターに近づいていく。
「先生、もう帰るので戸締まりお願いします」
〝高木〟と書かれた名札を提げて、ぐっすりと眠っている先生の肩を軽く叩き、幸せな夢から目覚めてもらう。
背中から、竹内たけうちさんの小さな笑い声が聞こえてきた。
生徒が先生を起こす、という画があまり見られるものではないので面白いのだろう。
リズムを刻むように軽く肩を叩いていると、ピクっと頬を動かし、重たそうに瞼を持ち上げた。
「んんっんー、はあー。……今日は、早いんだね」
先生はグーっと腕を伸ばし、左腕につけた腕時計を見つめるとしゃがれた声をして言った。
「はい、雨が止んでくれているうちに帰ろうかと思って……」
「そうかそうか、じゃあ図書室も閉めとくね」
「はい、よろしくお願いします」
僕はペコリと軽く腰を曲げると、身を翻した。入口では竹内たけうちさんが優しい目をしてニコニコと微笑んでいる。
「さようなら」
「さようならー」
部屋を出る際に、高木先生に向かって別れの挨拶をすると隣の彼女も僕に倣ってにこやかに別れの挨拶を告げた。
「はい、さようならー」
高木先生の返しを背中で聞きながら僕はドアを閉めた。
今日で、放課後の一室、僕だけの時間が終わりを告げた。
これからは竹内たけうちさんとの二人だけの時間に変わっていきそうだ。
楽しくなりそうだな。と、僕の中の端っこが竹内たけうちさんとの掛け合いに期待を寄せる。
「ふうー」
大きく息をつき、蛍光灯に照らされた廊下の先にある、東階段を目指して歩き出した。奥の東階段の方が下駄箱に近いのだ。
「ねえねえ、いつもあんな感じなの?」
竹内たけうちさんは霧高(霧が丘高校)とは違うセーターの袖を手の甲まで伸ばし、小さなクマの人形が付いたカバンをゆらゆらと前へ、後ろへ、揺らしながら興味ありげに尋ねてきた。
一瞬、なんのことかわからなかった。高木先生のことかと尋ねると彼女はうんうんと首肯した。
「そうだね、図書室を毎日利用してるのが僕だけだから、いつもあーやって図書室出る時は知らせてるんだ」
高木先生も帰るの早くなるしね、とあとから付け加えた。
しばらく二人で好きな作品の話をしていると、一階の下駄箱にたどり着いた。
外ではもう日が沈み、代わりに満月が山の少し上で空いっぱいに輝いている。
先の青い上靴と、白と黒のバンズのスニーカーを交換していると、大きく開かれた扉から、少し冷たい色なき風が僕らに吹きつけてくる。
隣では竹内たけうちさんが身震いを起こして、セーターごと腕をさすっていた。
「雨、すぐに止んでくれて良かったー。この風が吹いて雨も降ってたら最悪だったよ」
女子は一般的にスカートを履くため、冷たい風と雨を嫌っているのだろう。
扉を抜け二人並んで、学校の窓から漏れ出る光と月の光が照らす道を歩き出した。
降った雨が光に照らされ散りばめられた宝石のように光っている。
「そうだね、結局この傘、使わなかったよ」
僕は歩きながら、白い生地に大きな黒い丸がポツポツとあしらわれている水玉模様の傘を持ち上げて、肩をすくめた。
「その傘っ可愛い!」
「うわっ、急に大声出さないでよ……」
竹内たけうちさんが興奮した様子で大声を上げた。その声に心臓が飛び跳ね、身体をビクッと震わせてしまった。
「ごめんごめん、すごい可愛いと思ってさ……」
竹内たけうちさんはというと、えへへと苦笑を浮かべながら頰をかいている。思わず竹内たけうちさんをジロリと睨んでしまった。
「ふう……というか、この傘のどこがカワイイの?」
僕にはこの傘のどこが声を上げるほどカワイイのか、わからなかった。
「女の子にしかわからないよー」
顔をそむけてごまかされてしまった。
女性のカワイイという感覚を理解するのは難しい。
たとえば、世の中の女性たちは僕から見るとしわくちゃでブサイクな生物をかわいいと言ったり、僕がかわいいと思ったぬいぐるみを微妙だと言ったりする。まさに僕の母がそうなのだ。
「小説家を志すなら異性の感覚もある程度は理解しとないとダメなんじゃないのっ?」
「そうだね、竹内たけうちさんを頼りに学ばせてもらうよ」
「……頼んだよ、私のためにもね」
「……うん?」
突然、やけに真剣な口調でそう告げられた。
僕はまだまだ、竹内たけうちさんのことを知らない。
街灯に照らされた校門付近までやってくると僕は自転車を取りに行くと告げ、竹内たけうちさんを残して自転車置き場に向かった。
暗闇の中、女の子を一人置いていくことは気が引けたが少し一人になりたかったのだ。
自転車を押し進め、錆び付き車輪が回るたびにキリキリとなる音をBGMに、僕は頭を整理する。
まず、たまたまこの学校に転校してきたはずの彼女がなぜ僕の父が小説家であることを知っているのか。
なぜ、僕が小説家を目指していることを知っているのか。
彼女はおそらく、いくつもの秘密を抱えている。
なにより、今まで考えないようにしてきたが『私は、この世界にいた証をのこしたい』という、言葉はどういう意味なのか。
彼女への疑問をいくら浮かべてもそれらが消え去ることはない。
しかし、いつか彼女からその秘密を聞いたら本当に、この世界に残り続けるような物語を生み出せるような、そんな予感がしている。
校門まで戻り、キリキリと音を鳴らす自転車を押しながら、二人でお互いの趣味や、家族の話なんかをしながら夜道を歩いた。
やがてちょっとした住宅街に入り、カーブミラーのあるY字のわかれ道で僕らは別れることになった。この先の道は家々から漏れ出る光によりさっきと比べて随分と明るい。
「あっ、そういえば私たち連絡先交換してないじゃん!陽翔はるとくんスマホ出して!」
「えっ……うん」
言われるがままにポケットからスマホを取り出した。
しかし、誰かと連絡先を交換するなんてことが久しぶりで、メッセージアプリを開いてもどうやって登録すればいいのかわからない。光る画面を前に、まごついている僕を見かねて、竹内たけうちさんは僕からスマホを奪い、登録を済ませてくれる。
「ありがとう」
恥ずかしくなり尻すぼみの感謝を告げた。
「いいよいいよ、よしこれでいつでも連絡が取れるねっ!」
竹内たけうちさんは嬉しそうに笑っているが、おそらく僕から連絡することはないだろう。
「帰ったら試しに連絡するから、ちゃんと返信してよっ」
「わかってるよ」
「ふふっじゃあ、バイバーイ」
ぶんぶんと大きく手を振り、走り去っていった彼女に、僕も軽く手を振り返す。
僕は、元気だなぁと若者の光にあてられたおじさんのような感想を抱いた。
自転車にまたがり、冷たい風を感じながら、坂道を下ったり上ったりをなんどか繰り返し、数十分かけて我が家にたどり着いた。
着替えて、晩御飯を食べて、お風呂に入って、と寝る準備を済ませ、帰ってきて初めてスマホを開いた。メッセージアプリには一件の通知が溜まっていた。
メッセージの内容は単純なものだった。
【急だけど、明日の十二時に最寄り駅集合!よろしく!】
本当に急だったが明日は学校もなく、もちろん友達と遊ぶ約束なんてしていないので【了解】とだけ送っておいた。彼女のことだ、明日も暇だと見越して連絡してきたのだろう。
それはそれで胸が痛むのだが…。
それにしても駅集合ということはどこかに移動するのだろうか、こんな田舎町には寂れた港と神社ぐらいのものしかないので、その線が濃いだろう。
いつもは小説のネタになるようなことを考えながら眠るのだが、その日の夜は長い長い一日を終え、竹内たけうちさんの秘密について考えながら眠りについた…。
君と作る、物語(仮)