沙紀の旅

 弟に名前を呼ばれた気がして、沙紀は目を覚ました。沙紀は、布団の外へ押し出されていたウサギのぬいぐるみを胸もとに引き寄せながら、ゆっくりと上体を起こした。額と首筋、それから背中に、ねばついたいやな汗をかいていた。動悸が激しかった。
 テレビ台の上の時計は午前一時を指していた。暗い部屋の中で、その緑色の蛍光塗料だけが明確に浮き上がっている。半月ほど前から明滅を繰り返していた蛍光灯の豆ランプが、ようやく今、切れてしまったようだ。
 沙紀はウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、部屋を出た。弟に名前を呼ばれたのだ、何かあったのかもしれない。会いに行かなければならなかった。
 音を立てぬよう細心の注意を払って両親の寝室の前を通る。玄関の靴箱から、気に入りのピンクのサンダルを取り出し、履く。
「お父さんもお母さんも、どうせ何も教えてくれないんだから。私のことをいつまでも子どもだって思ってるんだから」
 ぶつぶつと舌の上で不満を転がしながら、沙紀はアパートから抜け出した。
 月が厚い雲の裏側に隠れているせいで、あたりは薄暗い。等間隔に設置された電信柱の明かりを頼って歩かねばならなかった。
 実のところ、これからどこに向かえばいいのか、沙紀にはわからなかった。それもそのはず、沙紀は弟がどの病院にいるのか知らないのだ。
 夏特有の生暖かく、うねるような夜気が沙紀の全身を包み込む。まるで、これ以上先へ進むのをやめさせるように。おうちへ戻って眠りなさいとやさしく諭すように。
 と、そのとき、沙紀の両腕の内側から、ウサギのぬいぐるみが飛び出してきた。
「沙紀、安心しな。僕が弟さんのところへ連れていってあげるよ」
 ウサギのぬいぐるみは空中でくるくると回転しながらコンクリートの上に着地した。そして左手を真横に、右手を斜め上へ伸ばし、ぬいぐるみらしからぬ意思を持ったポーズを決めた。
 沙紀はたいして驚かなかった。彼女にしてみれば、これまでウサギのぬいぐるみが一言も言葉を発さず、まったく動かなかったほうが、よっぽどふしぎだった。
「まず乗り物を用意しなくちゃな」
 ウサギのぬいぐるみは手を顎に当てて、独り言をいった。
「かぼちゃの馬車かしら!」
 沙紀は目を輝かせた。
「相変わらず沙紀はメルヘンチックだな」
 ウサギのぬいぐるみはいったん肩をすくめてみせてから、
「魚たち、カモン!」
 ざわざわした、何か小さなものの無数の気配が背後に感じられて、沙紀はおそるおそる後ろを振り返った。アパートの玄関ドアが、まるで風船のようにふくれ上がっている。
 沙紀がウサギのぬいぐるみに説明を求めようとしたのと同時に、玄関ドアの蝶番がはずれ、その向こうに押し寄せていたらしい魚の群れが一気に流れ出てきた。息をのむ間もなく、沙紀は魚群の中に取り込まれてしまった。
 闇から闇へとどんどん運ばれていく。意識が遠退くのがわかった。しかし、沙紀には恐怖も不安もなかった。ウサギのぬいぐるみが沙紀の手を強くつかんでくれているからだ。
「だいじょうぶ、心配いらないよ」
 ウサギのぬいぐるみは囁いた。沙紀は笑ってうなずいた。
「目を開けてごらん。僕たちは今、夜の町を走っているんだよ」
 ウサギのぬいぐるみの声は、沙紀にひどく安堵感をもたらした。誰かの声に似ていると沙紀は思った。
 まぶたにかすかな風の抵抗を受けながら、沙紀は目を開けた。
「どうだい、乗り心地は?」
 ウサギのぬいぐるみは大手を広げ、得意そうに言った。顔にはつくりものの目と鼻があるだけだが、ほんの少し、長い耳がとがったり丸まったりするので、それで表情に変化があるように見えるのかもしれない。
「私たち、お魚の上に乗ってる! お魚が走ってる!」
 沙紀は、信じられない気持ちだった。驚きの中には歓喜もふくまれていて、一瞬、沙紀の足の先から頭のてっぺんまで、しびれにも似た快感がつらぬいた。
 沙紀とウサギのぬいぐるみを乗せた魚の群れは、車のない、静寂に包まれた国道の真ん中を悠然と移動していく。スピードは車ほどなく、自転車で坂道を下る程度だ。
 道路は片側二車線から一車線に狭まり、橋を渡り、何度も、夜間用に切り替わった信号機の下を通過する。明かりの落ちたビルやデパート、マンションなど、普段見慣れた建物も、高い位置から眺めると新鮮だった。
 やがて前方にこの町でいちばん大きな駅が見えてきた。駅とその周辺は、どういうわけかたくさんの人々が行き交っていて、こうこうと輝いていた。そこだけ見れば真昼だと勘違いしてしまいそうだ。
 ウサギのぬいぐるみは魚たちに何やら指令を出してから、ひょいと飛び降りた。
「僕が切符を買っておいてやるよ。先に行ってな」
「ちょっと、待って!」
 沙紀は大声で叫んだが、魚の群れはそのまま駅の構内に入り、改札口を目指す。ウサギのぬいぐるみはすぐに人波にのまれて見えなくなった。
 改札口を越え、階段を上がる人々の頭上を越えて、沙紀たちはプラットホームに到着した。
 魚の群れはいっせいに身震いを起こし、しんがりから一匹ずつ順番に消えはじめた。沙紀は、いったいどうすればいいのかわからず、動揺した。動揺しているうちに、沙紀を支えていたところの魚たちも消えてしまった。
 高い場所から落下したというのに、たいして衝撃も痛みもなかった。そのことに疑問を抱いていると、お尻の下でうごめくものがある。とっさに横にどけると、太った魚が一匹、いた。魚はかわいらしく尾鰭を振りながら沙紀の目の前までやってきて、お辞儀をした。そしてほかの魚たちと同様、その魚も消えていった。
 沙紀はしばらくの間、座り込んだままぼうぜんとしていた。しかし列車の出発は待ってはくれない。あたりに汽笛が鳴り響いた。
「乗り遅れちゃう!」
 沙紀は慌てて駆け出した。沙紀が乗り込んだ直後、扉が閉まり、駅のホームがゆるやかに流れはじめた。
 沙紀ははっとして、扉をこじ開けようとしたが、びくともしない。ウサギのぬいぐるみがまだ来ていなかった。置いていってしまった。魚たちもいなくなってしまった。これから先は、沙紀一人の力で判断し、行動しなければならない。
 目の前の扉窓の闇に、色白で童顔の、沙紀の顔が映っている。三日月形の眉毛。切れ長の目。丸みのある鼻。
 沙紀は自分の顔立ちに満足していなければ、とりわけて不満もなかった。私はこういう顔なのだとありのままに受け止めていた。だが、やはり、誰かに「かわいいね」と褒められれば、うれしい。はっきり言われなくてもいい、「笑うとかわいいね」でもいいし、「その髪型、よく似合っているね」でもいいのだ。
 そんなふうに、沙紀の容貌を褒めてくれるのは、父親でも母親でもなく、二つ下の弟だった。髪を切ったときや新しい服を着た日などには必ず何か一言いって、沙紀をよろこばせた。また、弟は沙紀の心理的な変化や機微をとらえるのもうまかった。沙紀の中で、弟は完璧な存在だった。
 いつの間にか扉窓の中の沙紀は泣いていた。こちらを見据えたまま、まばたきせず、ただただ涙を流していた。いくらか大人びて見える。列車がトンネルに差しかかると、その顔の輪郭はくっきりと浮かび上がり、トンネルを抜けると、ふたたび町の夜景の中に溶け込んだ。夜景に溶け込んだ沙紀の顔は、ほかの誰でもない、自分自身に対して悔しそうだった。
 やがて扉窓の中の沙紀は、少しずつ、スライド写真のように年を取っていった。目にあどけなさがなくなり、鼻の丸みもなくなり、ほんのりと赤く、うるおいのあった唇が落ち着いてきた。
 扉窓の中の沙紀の成長は止まらず、そのまま三十代、四十代へと入っていく。目尻に小皺ができ、頬がたるみ、顎の下の肉づきもよくなった。全体的に老け込んでいった。本物の沙紀、つまり列車の内側にいる沙紀は、短い悲鳴を上げた。
「もしもし、お嬢さん、どうかされましたか?」
 後ろから、しわがれた声の男性に呼びかけられた。車掌かと思いきや、そこにはシルクハットを被り、マントを羽織った黒ずくめの服装の中年男が立っていた。頬髭を生やし、黒光りするステッキを持っている。立ち姿に威厳が感じられた。時代遅れの貴族といった風体だ。
「お嬢さん、何があったかはしらんが、どうか泣かないでもらいたい。ちょっと私の話を聞いてくれるかね」
 男はやや上向きにめくれた上唇の下から、白い輝きを放つ歯をのぞかせて、言った。
「あなたはすばらしい魚使いだ。あの技術は、どこでどのように習得されたか、教えてくれまいか?」
 沙紀は目もとをぬぐいながら、首をかしげた。
 男は笑って、うやうやしい手つきでスーツの胸ポケットから名刺を取り出す。
「いや、これは申しわけない。まずこちらが名乗るべきでした。私はこういう者です」
 名刺には、世界大サーカス団、団長と書かれている。名前もあるが、沙紀の見たことのない文字、記号に近い文字で、認識できない。
「私はこの目ではっきりと見させてもらいましたよ。お嬢さんが大量の魚を操り、不法で駅の改札を抜けていくのをね。お嬢さん、あれはいかん。ただで乗車するなんて不良のすることだ」
 沙紀は、誤解を解くべく激しくかぶりを振り、友だちが自分の券も買ってくれたのだ、そう弁明した。
「嘘をおっしゃい!」
 男は声を荒らげた。
「どこにいるのです、その友だちとやらは?」
 沙紀はあたりを見まわした。うつむき加減で静かに座っている乗客の中から、あのウサギのぬいぐるみがひょっこり現れてくれないものかと期待したが、だめだった。いつまで待っても現れそうになかった。それもそのはず、沙紀はウサギを待たず、列車に乗り込んでしまったのだ。
「お嬢さん、どうやらあなたは一度、痛い思いをしなければならないようだ。私が懲らしめてあげます、ついてきなさい」
 男は、ついてこいと言いながらも、沙紀の腕を強引に引っ張って歩き出した。沙紀はまわりの乗客に助けを求めようとしたが、さきほどから一言も言葉を発さず、微動だにしない彼ら彼女らを見て、諦めた。
 男は列車の連結部分まで沙紀を連れて来ると、出し抜けに片方のマントを広げた。それで沙紀の体を包み込んだ。
 暗闇の中で沙紀は悲鳴を上げたが、どういうわけか声は響かなかった。何か強大な渦の中に吸い込まれていくのを感じた。
「さあこちらです。歩きなさい、早く歩くのです」
 いつの間にか男は沙紀の後ろで、早く歩けとうながしていた。沙紀はわけがわからぬまま、一方通行の、薄暗くかび臭い道を歩きつづけた。
 明らかに列車の中ではなかった。地面は赤土で、天井には無数の鉄骨が張りめぐらされている。左右には段ボール箱が山積していて、その中からライオンやパンダ、ペンギンなどのきぐるみがのぞいていた。
 緞帳のような重いカーテンの前まで来ると、突然、大きな歓声が沸き起こった。沙紀はびっくりして逃げたくなったが、後ろでかまえていた男に呆気なく捕まえられてしまった。
 歓声のあとに太鼓が鳴り出す。すぐ近くで何かの催し物が行われていることはたしかだった。
「お嬢さん、あなたにはこれから火の輪くぐりをしてもらいます」
 男は声を張り上げて言った。
「もちろん、ただ火の中をくぐり抜けるだけではつまらない。あの魚の群れの上に乗って、あの魚どもといっしょにね、こう、サッとくぐり抜けるのです。こう、華麗にね。なぜそんなことをするのかというと、お嬢ちゃんにね、この興行の成功に一役買ってもらいたいわけだ」
 急におそろしくなってかぶりを振る沙紀を、男は舞台袖まで押しやった。そしてカーテンをわずかにめくり、そのすきまから場内の様子を見せた。
 さまざまなスポットライトの色合いを帯びた舞台上では、ラメ入りの派手な衣装を身にまとった二人のピエロが、右へ左へと、縦横無尽に空中を飛び交っていた。観客席から称賛の口笛が送られ、紙吹雪が舞っている。
 ピエロたちが息の合った空中飛行を終えて着地すると、場内の興奮は最高潮に達した。
「さあいよいよだ! お行きなさい! 観客のみなさんを失望させないよう、しっかりとやりきるのですよ! くれぐれも火傷しないように!」
 男はステッキの先で勢いよく沙紀の背中をつつき、沙紀は躓きながら舞台に躍り出た。天井の隅に設置された大型のスピーカーから、つぎの演目は麗しい少女と魚たちの火の輪くぐりだというアナウンスが流れた。
 沙紀はもう後戻りできぬ状況に陥ってしまった。沙紀が何もせず突っ立っていると、観客席からビールの空き缶が投げ込まれた。それが引き金となり、つぎつぎと小物や紙くずなどが降ってくる。早くやれと催促する声も上がる。
 そのとき、どこからか沙紀を呼ぶ声がした。弟の声ではなかった。沙紀が顔を上げるのと同時に、魚の群れが彼女の体をすくい上げ、背中に乗せた。
「待たせたな、沙紀」
 魚の群れのしんがりには、ペンギンのきぐるみが立っていた。ペンギンのきぐるみはすぐに脱ぎ捨てられ、そこからあのウサギのぬいぐるみが現れた。きぐるみの中からぬいぐるみが出てきたことがおかしくて、沙紀は、驚くよりもまず先に笑ってしまった。
 魚の群れは空中をすいすい移動した。観客は唖然として静まり返っていた。みんながみんな、魔法を目の当たりにしているかのように口を開けている。
「よし、出血大サービスだ」
 ウサギのぬいぐるみが魚たちに指令を出すと、魚たちはなんのためらいもなく火の輪をくぐってみせた。そしてそのまま場内の出入口へと向かっていった。
「沙紀、こんなところで道草くってる暇はないぜ。弟さんのところへ行くんだろう?」
 ウサギのぬいぐるみは沙紀の横に来て、ウインクする。
「安心しな、あの団長はもう追ってこない。きびしく言い聞かしておいたからな」
 どうやってあのひ弱そうなペンギン姿で、ステッキを持った長身の男とやりあったのか、沙紀には想像もつかない。
 魚たちは夜の草原をなめらかに進んでいく。あたりには何もなく、いったいここはどこなのか、判然としない。
 間もなく前方に一軒の家が見えてきた。古めかしい平屋建てで、外壁には蔓草がはびこっている。玄関のドアの脇の窓ガラスが割れている。網戸の破れ目から草が侵入している。
「もうあばら家同然だけど、懐かしいな」
 ウサギのぬいぐるみが言った。
「どうしてこんなところに、おじいちゃんおばあちゃんのおうちがあるんだろう?」
 沙紀はつぶやくともなくつぶやいた。かなり荒れてしまっているが、まぎれもなくそこは父方の祖父母の家だった。
 その家の前で泣いている一人の少女が目に止まり、沙紀は、待って、止めて、と声を上げ、魚たちを停止させた。沙紀はすばやく魚の乗り物から飛び降りた。
「あなたは、誰?」
 沙紀は少女のもとへ駆け寄り、言った。
「あなたこそ、誰?」
 少女は泣きはらした目を沙紀に向けて訊き返す。沙紀の思ったとおり、その少女は沙紀自身だった。
「あなたは、私?」
「あなたも、私?」
 お互いがお互いを指差しながら言い合っていると、家のほうから沙紀を呼ぶ声がした。祖母の声だった。沙紀は返事をしようとしたが、その前に少女が踵を返し、駆け出した。沙紀は慌ててあとを追った。沙紀は私だと心の中でつぶやいた。あの子は偽物だ。本物は私だ。おばあちゃんに証明しなくちゃ。
 玄関からまっすぐに伸びた廊下の突き当たりに、祖母が立っている。少女が飛び込むように祖母の腰に抱きついた。
「私のこと、理恵ちゃんがいじめるの!」
 少女は怒りを帯びた声で祖母に訴えた。
 沙紀はサンダルを脱ぎながら、
「私は理恵ちゃんじゃない、私は沙紀だよ!」
 と大声で言い返す。
「理恵ちゃんの嘘つき!」
 少女はにらみつけるような目で沙紀を見た。
「嘘つきなのはそっちでしょ!」
 かっとなって、沙紀は怒鳴った。
 祖母は黙ったまま、にこにこと笑っている。しかし彼女の手は少女の頭の上にあり、それが沙紀に敗北感を味わわせていた。
 沙紀は、誰か自分の味方になってくれる人はいないかと、弟の部屋に行き、そのとなりの父の部屋にも行ったが、二人ともいなかった。祈るような気持ちで台所に行くと、流し台の前で母親がリンゴの皮を剥いていた。
「お母さん」
 沙紀は母親に呼びかけたが、反応はなかった。
 母親の目は落ち窪み、頬はこけている。髪も白いものが交じっている。
 リンゴの皮は、途中で切れることなく、一定のペースで剥かれていく。どこまでもどこまでもつづきながら、水をたたえた盥の中に落ちていく。
 沙紀はゆっくりとあとずさっていった。後ろへ下がりながらも、心の中ではこんなふうにつぶやいていた。目の前の、この女の人はお母さんじゃない。この人は、私だ。列車の中で見た、窓の向こうにいた、年老いたあの私だ。
 沙紀は悲鳴を上げて、家を飛び出した。サンダルを履くのも忘れて、全速力で魚の群れのところに戻った。
 しかし、魚たちはおろか、ウサギのぬいぐるみもいない。
 その上、ここに来たときは、たしか草原だったはずなのに、今は違う。草原からごく普通の住宅街にすり替わっている。
 沙紀はふいに、両手に重みを感じた。沙紀は、いつの間にか四角い食事用のお盆を持っていた。お盆の上には三つ、弁当箱があった。
「あたし、公園でごはん食べるなんてはじめて」
 すぐ横に、三軒となりの幼なじみの理恵がいた。彼女は首に一つ魔法瓶をぶら下げていて、残りの二つは両腕で抱きしめるように持っている。
「早く行こうよ、沙紀ちゃん。てっちゃん、きっと待ちくたびれているよ」
「テツ?」
 沙紀は理恵を追いかけながら、訊いた。
「公園に、テツがいるの?」
 理恵は、あきれたといった感じのため息をついてから、
「何言ってんの。てっちゃん、先に行くっていって出ていったじゃない」
 弟は病院にいるのではなく、公園にいるらしい。なんだ、そうか、そうだったのか。心配して損しちゃった。ほっと胸をなで下ろすと、体が身軽になった。足取りも自然にスキップに変わった。
「ちょっと沙紀ちゃん、あたしのお弁当、落とさないでよ!」
 児童公園が近づいてきた。入り口の、緑色の柵の前に、補助輪のついた青い自転車が置かれている。まぎれもない、弟のものだ。
 沙紀はいてもたってもいられなくなり、勢いよく駆け出した。すべり台の横のベンチに弟が座っているのが見えた。
「お姉ちゃん、すごいもの拾ったよ」
 弟は何か大きなものを掲げていた。
「ウサギだよ、ウサギのぬいぐるみを拾ったんだ。砂場のへんに落ちていたんだ」
「そんなもの汚いから拾っちゃだめよ」
 沙紀はそう言って、弟からウサギのぬいぐるみを取り上げた。
「それよりお弁当、食べよう」
「うん」
 沙紀たちはジャングルジムの上に登り、そこで弁当を食べた。おいしいねと言い合いながら。
 沙紀と弟はあれこれとしゃべり合った。いつものようにテレビや学校の話だ。
 理恵は無言で月を眺めている。
 月? 沙紀は違和感を覚えた。どうして今、月なんかが出ているの?
 ねえお姉ちゃん、と弟が沙紀を呼んだ。ねえお姉ちゃん。ねえお姉ちゃん。ねえお姉ちゃん。弟は何度も沙紀を呼びつづける。ねえお姉ちゃん。ねえお姉ちゃん。ねえお姉ちゃん。何度も何度も、際限なく呼びつづける。ねえお姉ちゃん。ねえお姉ちゃん。ねえお姉ちゃん。
「ねえ、お母さんってば!」
 沙紀ははっとして公園のベンチから立ち上がった。
「お父さん、お兄ちゃん、お母さんいたよ。こっちこっち」
 目の前には、弟ではなく、理恵でもなく、三十代なかばか、あるいは四十代手前くらいの女性がいて、こちらに駆け寄ってくる男二人に手を振っていた。片方の男性は長身で、痩せている。もう一方の男性は、還暦まではいかなくとも、それなりに年を取っているようだ。腰に手を当てて、はあはあと息を荒らげている。
 沙紀はわけがわからぬまま、三人の大人に取り囲まれた。
「ずいぶんと探したよ。あー、腰が痛い。完全に運動不足だな」
 年配の男が息を落ち着かせながら言った。
「明日、仕事なんだから、勘弁してよ」
 若いほうの男は、ふてくされた顔で夜空を見上げたまま言った。
 この人、弟に似ていると、沙紀は思った。弟ではないけど、もし弟が大人になっていたら、こういう感じだったんだろうな、と。
「さ、帰ろう、お母さん」
 目の前の女がほほえんで手を差し伸べてきた。沙紀は、やはり何もわからぬまま、その手を握りしめた。

沙紀の旅

沙紀の旅

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-24

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