約束したのに

 ――気が付くと、私の足はいつもあの場所に向かっている。
 近所の河川敷、人通りの少ない深夜の時間帯。ここであなたが来るのをずっと待っている。
 毎日飽きもせずによくやっていると、自分でも思う。
 でも、私が行かなかった時にもしあなたが来て、「あぁ、やっぱり居ないんだ」と肩を落としてしまうようなことがあったら、申し訳ないから。
 だから、毎日その場所に行く。あなたが私に約束をしてくれた場所で、もう一度、あなたに会えるのを待っている。

 あなたと私は友人だ。同じような趣味を持っていて、違う考え方をしていて、時々は喧嘩もしたけど、最終的には仲直りをして、一緒に笑う時間の方が長かった。
 あなたはいつも言葉をくれる。私の欲しかった言葉、本当は聞きたくなかった言葉、嬉しい言葉、怖い言葉、とにかくいろいろだ。
 私にとっては、それら全てが宝物に等しい。大好きなあなたから貰った思い出と感情は、生涯を通して私を支えていくだろうと疑わなかった。

 こんな話、普通の友達ならしないだろう。酒を飲んで酔っ払った席でなら、真剣な顔して話しても許されるのかな。
 私は人との距離の取り方がいつもあやふやだ。詰めていいのか解らないし、離れるべきタイミングというものも計り損ねてしまう。
『距離感バグっているよね』――なんて人から言われた時には憤慨したものだが、年々その意味が解るようになってきてしまった。
 私は人との距離感を計るのが苦手だ。だから近付き過ぎてしまうし、離れ過ぎてしまう。
 そうして失った友人の数は多い。現在、私が友人と思っている人達も、もしかしたらこの距離感のバグの所為で、実は友人ではないのかもしれない。

 だけど、あなたはいつも私の問い掛けに答えてくれた。距離感がバグっていると解っていても、距離を詰めてくれた。必要な分だけ離れてくれた。
 そんな付き合い方を意図的にできる人間が居ると知らなかった。だから、最初はわけが解らなくて、あなたが怖かった。
 私は偏屈な人間だと思う。私が相手を好きでも、相手は私を好きではない時が多い。あなたもきっと、私が一方的に好きなだけで、応えてくれるような人ではないと思っていた。
 だから、あなたが私に真剣に向き合って、友達でいてくれると言ってくれたことが、本当に嬉しかった。

 夜の冷たさを感じない。あなたは今夜も来ないかもしれないと、そんな予感で身体が妙に冷えていく。
 ここで何度もあなたを待って、来てくれなくて、また明日も待とうと決めて帰る日々は、誰がどう見ても無益だと思う。私が他人からこんな話を聞かされたら、溜め息を吐いてしまうだろう。
 それでも、もしあなたが来てくれたら――そんな一縷の望みを懸けて、ここへ来る。いつか来てくれると、あなたなら来てくれるからと、自分に言い聞かせ続けている。

「・・・・・・やぁ、こんばんは」

 星の無い闇夜の中、暗い川面をぼんやり眺めていると、背後から声を掛けられた。
 ここ一週間くらい、毎日この時間にランニングをしている青年だ。いや、声は若いけど、星明りの下で見た時、そこそこの年齢だったかな。壮年と言った方がいいのかもしれない。
 彼は私にいつも挨拶していく。そんな親しい関係になった覚えは無いけど、挨拶を返さないと何をされるか解らないので、なるべく邪険にしないようにしていた。

「こんばんは、今夜も冷えますね」
「全くです。でも、走っている分にはこれぐらいの気温がちょうどいいかも」
「そうなんですね」

 とはいえ、私はあまり会話のキャッチボールというものが得意ではない。相手に何と返せばいいのか解らなくて、相槌ばかり打っている。会話を広げるとか、相手に何かを尋ねるとか、そういったことができない。
 しかし、彼は私が口下手でも気にせず、自分の話したいように話していく人だった。

「今もジャージの下は汗だくでして・・・・・・いやはや、汗っかきなものですから」
「それは・・・・・・大変、ですね・・・・・・?」
「そうなんです、今度から着替え持参で走るようかも。冬場に汗まみれで身体を冷やすなんて、風邪をひきたいとしか思えませんよね」
「はぁ・・・・・・そうかもしれませんね」

 その場で足踏みを繰り返しながら、彼はずっと喋っている。私が肩越しに振り返っているだけでも、まるで気にしないのが凄い。
 ひとしきり笑った後、彼は「それじゃあ」と手を振って走っていった。

 彼と話した後、できる限り待ち続けた。やっぱりあなたは来ないみたい。
 今夜はここで諦めて、また明日来ることにしよう。


 今夜も気が付いたら、川面をぼけっと眺めていた。新月の中、星のかすかな明かりだけが周囲を照らしている。
 終電間際の電車が橋を通って都会へと走り去っていく。遠い車の排気音がこだまして、夜が来たのだと実感した。

 私はこの夜の時間というものが好きだ。みんな寝静まって、ひそやかなものだけが活動できる時間だから。
 その中であなたを待っていれば、いつか必ず来てくれると信じられる。聞き覚えのある靴音がするまで、私は耳を澄ますことを止められない。

 でも、聞こえてきたのは彼の走ってくる足音だった。いつの間にそんな時間が経っていたのだろう。

「こんばんは、今夜もまた冷え込みましたね」
「こんばんは」
「いつもそうして川を眺めていますけど、何を見ていらっしゃるんです?」
「いえ、川を見ているわけじゃないんですけど・・・・・・」
「そうでしたか。では、誰か待っている人でも?」
「あ、まぁ、そんなものです」
「え? 本当に? こんな真夜中に待ち合わせだなんて、何だかロマンティックだなぁ」

 今日日言わないだろうっていう単語をさらっと言ってしまえるのが、壮年たる証だと思った。
 ロマンティックなんて言われるようなものじゃない。現に私はロマンが欲しくて待っているわけじゃない。友達を待っているだけだ。

「おや、何か不快にさせてしまいましたかね? でしたら、すみません」

 私はまだ何も言っていないのに、彼が突然謝ってきた。こんなに暗いのに、私の表情が見えているのだろうか?
 確かに、ちょっとムッとしてしまった。茶化されたみたいで気分が悪い。でも、謝られたところでどうしようもない。

「いえ、別にいいです」
「あぁ、そうですか? 本当にすみませんでした」
「・・・・・・」
「でもね、差し出がましいようですけど、女性が一人でこんな暗い場所に居るのは危ないですよ。せめて繁華街とか、この時間まで開いている飲み屋とかでお待ちになった方がいいでしょう」
「いえ、お構いなく。ここが好きなので」
「お相手もそうなのですか?」
「・・・・・・そういうわけではないんですが」
「でしたら、尚のこと、明るい所で待ち合わせなさった方がいいです。宜しければ、そこまでお送り致しましょうか」
「本当にお構いなく。もう少ししたら帰りますから」

 この人が何もしてこないという保障だって無いのに、何で送ってもらうなんて話になるのだろう。
 今夜は何だか押しが強くて、嫌な感じがした。目安にしている時間より早いけど、もう今夜は引き上げようか。ここでこの人に捕まり続けているのは嫌だ。

「失礼します」
「あ、ちょっと――」

 強引に話を終わらせて、私は反対の道へと走って逃げた。追い掛けられたらどうしようと思っていたけど、幸い追ってきてはいないようだ。
 何なの、あの人・・・・・・やっぱり変な人だったのかな。場所を変えた方がいいのかもしれない。
 だけど、あそこが、あの場所があなたと約束を交わした場所なの。そこで待つことにこそ、意味がある。あんな人のために場所を変えるのも癪だ。


 ――私はあなたと友人になってから、人との付き合いをどうしていくべきかを深く学ぶことができた。
 他人からすれば、私とあなたの関係は非常に曖昧で、ともすれば共依存だなどと揶揄されることもあった。否、本当はそうだったのかも。
 だけど、そんな評価はどうでもよかった。私はあなたに認めてもらいたくて、あなたに必要とされたくて、相応しい人間になりたいと必死だったから。
 あなたはそんな私を見ても笑っているだけだったけど。「真面目だよな」なんて、そんな一言で済まされたのが、ちょっとだけ悔しかった。

 あなたはいつも私の話を聞いて、適切な助言をくれていた。それが毎度のことながら、私にとって新鮮で頼もしかった。
 どうしてこんなに私のことを理解してくれているの? ――そんなふうに尋ねたこともある。
 あなたはまた笑って「お前が話したんだろう」と言うだけだった。確かにあなたに自分のことを話してきたけど、それだけで欲しい言葉が解るものだろうか。
 あなただからこそ、できたこと。私は今でもそう思っている。あなただから、私の話を聞いてくれて、理解してくれたのだと。


「やぁ、こんばんは。今夜はちょっとだけ暖かいですね」
「・・・・・・こんばんは」

 昨晩のことなど忘れてしまったかのように、彼は話し掛けてきた。いつものランニング姿ではなく、薄着のパーカーという出で立ちだ。

「今日は走っていないんですね」
「そうなんです、たまにはウォーキングもいいかなって。ずっと走ってばっかりだと疲れますからね」
「そうですか」
「貴女は今夜も人待ちですか」
「まぁ・・・・・・」
「毎日待っていらっしゃるなんて、健気ですね。ひょっとしてカレシさんですか?」
「・・・・・・違います」

 もう少し気が強かったなら、詮索するなと釘を刺せたかもしれない。結局そこまで言えなくて、否定することしかできなかった。
 彼は顎に手を当てて首を傾げてみせた。演技がかっているけど、不思議と似合う仕種だ。

「へぇ、じゃあ、ごきょうだいとか? 友人?」
「・・・・・・友人です」
「ご友人を待って、いつも夜中にここに来ているんですね。お一人で待つのは怖くないですか?」
「いえ、特には」
「女性の一人歩きですし、この辺りは夜になると“出る”なんて言われているでしょう?」
「そういうのはあまり信じていないので」
「おや、そうなんですね。僕は怖くて震え上がっちゃいます。怖くないんですか?」
「それより怖いものを知っていますから」

 ・・・・・・それより怖いものって、何? 自分で答えておいて、解らなかった。
 不審者、幽霊、そんなものより怖いものって、何があるかな。私、本当にそんなものを知っているの? 口からでまかせ?
 黙ってしまう私に、彼は容赦なく話し掛けてくる。

「もっと怖いものがあるんですか? 嫌だな、僕が体験したら貴女のように立っていられないかもしれない」
「・・・・・・」
「貴女が待っているご友人も、関わっていることだったりしますか?」
「・・・・・・どういうことですか?」
「いえね、以前、同じような質問をした時に、そう返してきた人が居たのですよ。人間より、幽霊より、もっと怖いものがあるって。それは信頼していた人からの裏切りだって、ハッキリ言い切った人がね」
「・・・・・・」
「確かに信頼していた人から裏切られたら嫌ですよね、人を信じることが怖くなりますよね。この世で一番怖いことだと思う人が居るのも、頷ける気がします。貴女が言っていることも、ひょっとしたらそういうことなんでしょうかね?」

 そうか、それは確かに怖いことだ。私だったら、そんな目に遭ったら生きていけない。
 彼の話してくれた人の言うことに、同意はできる。でも、実感とは縁遠い。その人は信じてはいけない人を信じてしまったのだ。裏切りの気配を悟れなかったがために、辛い目に遭ってしまったのだ。

 信じるということは、裏も表も無い人間にしかできない行為だ。自分の何かを懸けて信じるのだから、それは慎重に行われなくてはならないし、互いにその重みを理解していなければならない。
 相手は「信じてもらえるんだ」と思うものだし、自分は「信じたいんだ」と思うから、成立するのではないか。

 ・・・・・・と、素面で言ったら別の人に笑われたから、彼の前で言うべきか悩む。
 変に熱く語り出したよコイツ、なんて思われるのも嫌だった。

「ねぇ、貴女はここでいったい誰を待っているんです?」

 やけに耳元ではっきりと聞こえる。近くに来ることを許してしまったのかと一歩引いたが、彼は私から一定の距離を保ったままだ。

「友人を待っているんです」
「ちゃんとここで待ち合わせだと、約束なさったんですかね?」
「約束はしていませんけど、いつも何かあった時はここで話を聞いてもらっていたから・・・・・・」
「成程、それでここに来ていたんですね。あなたの友人が虫の知らせを受けて、ここに自発的にやってくることを期待して」
「・・・・・・」
「日時も決めないで、偶然ここで再会できるなんて、そんなドラマみたいなことは到底、起きないものですよ。貴女だって、それくらい解っているでしょう?」
「な、何ですか、急に」
「これまでは様子見してきたんですけど、あまりにも貴女が解っていないようなので、もう直に話そうと思いましてね。貴女がいくら待ったって、ご友人はここに来てくれませんよ」
「え――」

 どうして、そんなことが彼に解るのだろう。言われた言葉に背筋が冷たくなって、また夜の冷たさを失ってしまう。立っている場所がどこだか解らなくなる。
 彼が一歩、距離を詰めてきた。私はその分だけ、後ろに下がる。

「貴女はここで、彼と約束をしたのだ、と言っていました。ずっと友達でいよう、困った時は話してくれ――実にありきたりで、だけどとても難しい約束です。貴女はその約束に支えられ、守られてきた。約束を掲げた相手も、そうやって言えた自分に満足感を得ていたことでしょう。俺はこんな約束だってできるし、誰かの支えになれるんだ! ってね」
「・・・・・・」
「そうやって支え合うこと自体、何も可笑しくないです。誰かを励ましたことが結果、自分を励ますことに繋がるのも、自然なことだ。問題は、その約束が第三者によって果たせなくなってしまったことにあるんですよ」
「第三者・・・・・・? 私とあの子の約束なのに、どこから第三者が出てくるんですか?」
「異性の友情はね、本人同士が納得していても、周りが口を出せば脆くも崩れてしまうものなんです。特に異性愛者だと、本人が良くても環境が友人関係を許してくれない。どうしたって、恋人や伴侶ができてしまうと、異性の友人というものが許容できなくなるんです。これは人間の性みたいなものですね」
「そ、そんなの、考え方が古いだけではありませんか? 年号も変わったような時代に、性別だの異性愛だのって・・・・・・」
「そうですよね、僕もそう思います。だけど、事実なんです。少なくとも、貴女にとっては惨い現実そのものだったでしょう」

 言われたことで、頭の中がガンガンと痛む。ぐらり、と身体が傾いて、足元に視線が向いた。
 いつ入ってしまったのか、私は川の中に立ち尽くしていた。冬の水の冷たさを思い出して、焦って片足を浮かせたが、いつまで経っても冷たさを感じない。
 可笑しいな、私の足の感覚は無くなってしまったのだろうか。

「貴女はご友人を失ってしまった。約束を交わした場所に何度も来ては、ずっとご友人を待っているけど、来てくれた試しが無いんですよ。何故なら、彼は遠い場所に引っ越してしまったから。その理由はもう思い出せたでしょう?」
「・・・・・・あの子が・・・・・・」

 ・・・・・・あの子が、たった一人の人間を見つけたから。それで、遠くへ行ってしまった。そうだ。

 水が染み込んで、靴下が濡れる。爪先から徐々に寒気が脳へと上ってくる。その冷たさをやっと感じて、私は何も無い虚空に自らの手を翳した。
 息を吐いても、白さすら失っている。体温の心地よさが水に浸食されていく。
 夜の静けさも温かさも、私の中には存在していなかった。

「あの子との約束は、私だけが守ろうとしても・・・・・・どうにもならないって・・・・・・そう言ったのに・・・・・・」
「そうです、貴女は彼に必死で訴えました。だけど、聞き届けられることは無く、彼は貴女との話にケリをつけずに居なくなってしまったのです。それから、貴女は彼を捜して徘徊するようになってしまった」
「・・・・・・もう、ここには来ないの・・・・・・?」
「今は来ることができません。せめて、再会の兆しがあれば、貴女も焦ることはなかったでしょうが、連絡は来なかった。だから、貴女は絶望して、自らを追い込んだのですよ」
「・・・・・・」
「もういいでしょう、楽になりなさい。貴女がこれ以上、苦しむ必要は無い。人を信じ、約束を果たそうとした高潔なる精神を、自ら貶めるようなことはやめなさい」
「・・・・・・約束・・・・・・」

 ――思い出したくないことを、思い出した。途端に、悲しかったこと、悔しかったこと、辛かったことが次々と溢れ出して、止まらなくなった。
 記憶の奔流に流される間、私の目からは止め処なく涙が流れた。体内に水が染み込む度に、少しずつ身体が軽くなっていく。向こう岸へ流されていく。


 彼は随分と悲しそうな顔で私を見ていた。ひょっとしたら泣いているのだろうか、時々、肩が妙に跳ね上がる。

「もう貴女自身を責めるのも、彼を責めるのもやめなさい。貴女一人で苦しむ時間はもう終わりだ。その苦しみも、悲しみも、誰かに預けていいんです。一人で受け止めきれなかったら、助けを呼んでもいいんです」
「・・・・・・調子のいいこと、言わないでください。そう言われて信じてしまったから、私はあの子を失ったんですよね?」
「・・・・・・そうだね、申し訳ない。またしても僕は貴女を傷付けてしまった。貴女は信じたかっただけなんだ。それが解るから、僕はずっと貴女を鎮めたかった」
「それは、満足感を得るためですか?」

 私が訊くと、彼は目を丸くして、その後に乾いた声で笑った。拍子に、涙が一欠片だけ零れる。

「あぁ、はい、そうです。貴女のために僕はこんな優しいことをしたんだって、自分の自信にするためにやっているんですよ」
「・・・・・・」
「約束は不変だから強い効力を持ちます。だけど、人間は不変のままでは約束を果たすことができないらしいんです。だから今は難しくても、もしかしたら貴女とご友人がこの先で約束を果たすことが、できたかもしれませんよ」
「でも、もう無理なんですよね? 私が死んでしまったから」
「・・・・・・思い出したんですか?」
「だって、私の身体、こんなにも軽くて、水に溶けるから・・・・・・」

 ――あなたを責めたかった。あなたのせいだと、声高に叫んで、事実を叩きつけてやりたかった。
 理屈は解る。でも、心は納得できなかった。そういう時はいつも話し合いで解決してきたのに、あなたは自分が選んだ人間のため、私との約束も関係も放棄してしまった。私は、解決なんて望むべくもない未来に生きる羽目になった。

 そうして選ばれなかった私のしたことは、誰から見ても気持ち悪い行為だろう。
 異性の友人との関係が切れただけで、落ち込み、悲しみ、自死を選んだ、馬鹿な女――そういう評価を誰からも下されたと、知っている。

 そういうことじゃない。性別に拘った話じゃない。
 ただ友達でいたかった。この関係を保つための努力を、あなたもしてくれると思っていた。
 実際には向き合ってもらえなかった。手放すことで、あなたはあなたの幸福を手に入れた。
 私だけがこの場所に一人、取り残された。真剣な話ができて嬉しいと、こんな約束をしてくれるなんてありがたいと、あの頃の私のままで。

 誰かに解ってもらえるとは思わない。解ってもらえない。世間がどちらを支持するかなんて、一目瞭然だ。
 だから、先に私が下りた。強い感情を抱いたまま、冷たい水の中に溶け込んだ。生きている間もずっと苦しかったのに、死ぬ時も苦しいなんて、ツイていない。

「・・・・・・貴女を逝くべき場所へ送ります。そこで、安息を手に入れるといい。約束を果たしてください」
「こんなことになった後で、約束なんて果たしてもらえるわけないです。死者が生者に憧れただけの、間抜けな話じゃないですか」
「そう自分を卑下なさらずに。大丈夫ですよ、死者の夢を叶えるの、僕の得意技なんです」

 泣きながら、彼は指をぱちんと鳴らした。対岸の向こうにぽつぽつと、淡い光が灯り始める。

「さぁ、あちら側へどうぞ。あの明かりを辿って、ご友人のことを思い出してください。そしたら、会えますよ」
「気休めでそんなこと言われるの、傷付きます・・・・・・」
「気休めでも嘘でもないです、本当ですって。僕は貴女の味方になるため、ここに来たんですよ」
「・・・・・・何者なんですか」
「貴女みたいな存在と話すのが好きなおっさんです」
「・・・・・・変な方」
「よく言われます。でも、好きなんですよ、貴女方みたいな存在が。タガが外れているし、思考もぶっとんでいるけど、その純粋さに畏怖の念を抱いています」
「・・・・・・」
「貴女は貴女を呪い、彼を呪い、約束をも呪って、器を手放した。その魂が安らげるよう、僕が手を貸したいんです。その理由は、さっきも言いましたよね」
「満足感のためですか」
「そうです、満足感を得るためです。だから、貴女は気にせずに逝ってください。さぁ、明かりが消えぬうちに」

 彼の示してくれた明かりは、どこまでも続いている気がした。まるでお祭りの時の提灯みたいに、一定の間隔で連なっている。
 私は透明な水のまま、その明かりを目指して進み始めた。後ろから、彼の間延びした手拍子が聴こえる。その音を頼りに、一歩、また一歩と足を踏み出す。


 川を抜けると、その先には本当にお祭りの景色が広がっていた。狐面を被った子ども達が走り抜け、笑顔の大人が皆して屋台を営んでいる。あの世にもお祭りってあるんだ。
 人の群れの中を縫って歩いていると、同じように私の方へ歩いてくる人影を見つけた。皆、一方向にしか進んでいないのに、その人影だけが逆行してくる。

 あぁ、本当に願いが叶うのだろうか。あんなことをした私に、救いがあるのだろうか。

 淡い期待に胸を焦がすほど、絶望は深く突き刺さる。何度もそんな思いをしてきた、信じ続ける度にそんな傷をこさえてきた。
 なのに、まだ信じようとしている。傷付いても信じることをやめられない自分が居る。
 だからこそ奇跡が起きるかもしれないと、人から蔑まれても信じたかった自分が――あなたが・・・・・・

「・・・・・・やっと、会えた」




 ――静かになった川面の前で、男は一人、溜め息を吐いた。今度こそ、上手くいっただろう。
 彼女が満たされ、“あっち側”へ逝くことができれば、きっと彼も目を覚ます。

「我ながら、甘いかもしれないけどさぁ・・・・・・」

 ついつい、願いを叶えてあげたいと思ってしまう。辛いままで逝くのは寂しいだろうと、肩入れしてしまう。
 そんなことを続けていると、いつか一緒に連れていかれる――そんなふうに叱られたこともあったけど、感応する心は止められなかった。

「せっかく友達になったんだから、途切れてもまたどこかで繋がりたいよな。諦めたくないよな。解るよ、僕にもそういう人は居たしね」

 彼女は居ないけど、男は語り掛ける。その間、涙が止まらなかった。まだ彼女の想いに同調しているのかもしれない。

「もう相手は憶えていないかもしれないけど、確かに繋がった瞬間があったんだ。今は忘れていても、きっと思い出すから、泣かないでいいんだ」

 夜風が吹き始めた。水面を揺らして、ざわつく心を凪いでいく。
 男は深々と礼をした後、やっと川辺から動き出した。彼女の感情の一粒が風に冷えて、頬を伝う。
 夜の中に於いても温かいそれは、男の抱く大事な瞬間とよく似ていた。

 約束したのに、離れてしまうもの、失ってしまうものがある。
 だからこそ、繋がり、求め、再び見える時を待て。新たなる約束と、君のため。

約束したのに

約束したのに

「こんな信じ方をしてはいけないと、本当は解っていた」という魂に宛てて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-23

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