Santa Claus's sacrifice
サンタクロースというものを知っているだろうか。
赤と白のカラーリングをした髭老人である。諸説によれば、クリスマスの日に煙突から他人の家に侵入し、寝ている子供の横に何かの包みを置いて行く、というかのサンタクロースである。
さて、何故サンタクロースの話などしているかと言うと――
「もーっ、信じてくださいよ。サンタですよ? サンタ。みんなのヒーローですよ?」
――目の前にいるからだったりする。
見てくれはサンタというより、クリスマスシーズンにピザ屋のバイトをしている女の子。つまりコスプレ以外の何物にも見えない。
赤色のナイトキャップにワンピースのように上下一体になった赤い服。その衣装の所々に白いアクセントが施されているわけだが、胡散臭いことこの上ない。
しかも、俺のアパートには煙突なんて洒落たモンは付いていないわけで……このサンタ、信じられないことに玄関チャイムを押して参上したのである。
「お前……よくそれで自分をサンタだ、とか抜かせるな」
とりあえず、グリーンランド辺りに住んでいる老人に謝ってほしい。心の底から。
「だーかーらぁー! ホントなんだってばぁ!」
頬を膨らませる自称サンタだが、そもそも、どこからどう見ても日本人である。
赤い帽子から飛び出している髪の毛は黒いし、瞳の色も日本人の典型、ブラウンである。
背も小さいし、顔も幼いし、女子高生くらいの年齢と考えるべきだろう。
「百歩譲って、お前が本物のサンタだとしよう」
「信じてくれるんですか!? ありがとうございます!」
「心の底から信じてねーよ! 百歩譲った場合だよ! っていうか、百歩どころか万歩くらい譲ってるけどな!」
「はぁ、そうなんですか。よくわかんないですけど、ありがとうございます」
言葉の通り、よく分かっていないような素振りでサンタ娘は深々と頭を下げた。
「それで、お前が本物サンタだとして、俺に何の用なんだよ」
俺はため息を付きながら、数分前のことを思い返していた。
フリーターで一人暮らしをしている俺は夜、自分のアパートでテレビを見ていた。
テレビの中では夜のニュース番組が放映されていて、世間でも有名な資産家が新しい事業に手を掛けたとか、潰れかけの企業を買収してその業界でトップシェアを誇るようになったとか、何か景気の良い話をしていた。
その総資産は数千億をゆうに越えるような金額なのだとか。
全財産数万円のその日暮らしをしている、貧乏人の俺には夢のまた夢。遠すぎて現実味が湧かない、おとぎ話のような話題だった。
「名前は同じ佐藤なのになぁ」
日本で一番多い苗字、とか言われているほどありきたりな名前だ。
ちなみに俺の名前は"佐藤亮二"そして、この資産家の名前は"佐藤太郎"。
どっちかと言えば俺の方がまだ珍しい名前のはずだ。ありきたりの代名詞みたいな名前をしてるのに、俺とのこの差はなんなんだろう。
当初は同じ苗字のために親近さを感じて、名前をしっかりと覚えたものだが、今や下品に笑う資産家の笑顔に不快感すら覚えている。
ついにはテレビの電源を落として、不貞寝を決め込んでいると突然、玄関のチャイムが鳴り響いた。
遅い時間に訪ねてくる知人など俺の周りにはいなかったが、とりあえず玄関の扉を開けると、寒空の下コスプレサンタ娘が笑顔で立っていた。
何かの配達? 迷子? 俺何か悪いことしたっけな?
などと、一瞬にして様々な思考が頭の中を駆け巡り、俺の頭の中が混乱で埋めつくされている只中で、目の前のコスプレ娘は、
「こんばんは! 私、サンタクロースです! 願い事はありませんか?」
と、俺を唖然とさせるのには十分の台詞を吐き出した。
我に返って目の前にいるサンタ娘を眺めてみる。
自分自身の可愛さを知っているのだろう。あくどいほどの上目使いで俺のことを見つめていた。
「願い事ありませんか? なんでも良いんですよ? 何が欲しいとか、何がやりたいとか、なんでも」
「願い事って言われてもなぁ……」
「サンタですよ? サンタ! なんでも夢を叶えて差し上げますよ!」
「つまり、あれか。新手の宗教団体か何か?」
可愛い女の子にコスプレさせて勧誘だなんて、最近の宗教家もニーズというものを良く理解している、と感心していると、
「むっ! そこまでお疑いなら証拠を見せましょう!」
機嫌を損ねたサンタ娘は頬を膨らませて、両手をがっちりと合わせた。
「うむむぅー」
「ははっ、なんだそりゃ」
まるでお祈りでもしているかのようなポーズがなんだか滑稽で、可笑しさのあまり吹き出していると、サンタ娘は俺の顔を見てニヤリと笑った。
そして――
「ほいっ!」
という、間抜けな掛け声と共に両手を開いて、その中身を俺に見せつけた。
「え?」
見るとそこには両手を握る前には明らかに無かった、皺ひとつない新札であろう一万円札が両手の上に優しく乗せられていた。
「へっへー! どうですか! 驚きましたか!?」
自信たっぷりに勝ち誇るサンタ娘。
「いや、これ手品だろ? 油断してたから驚いたけど」
確かに、どこから取り出したのかさっぱりわからない。両手をあんなに力いっぱい握っていたはずなのに、一万円札がピン札なのも理解不可能だが、手品とは元来そんなものだろう。
つまり、この娘。サンタのコスプレをしたマジシャンということになる。
いや、手品が得意な宗教家という線も捨てきれないか。
「疑り深いですねぇ……女の子にモテませんよ?」
「うるせえな、余計なお世話だ」
「それに、この一万円札はアナタのモノですよ?」
「はぁ?」
するとサンタ娘は俺の手を取り、手のひらに手品で出現させた一万円札を乗せて、ニッコリと笑った。
「プレゼントです。メリークリスマスです!」
「え、ちょっと! 意味が全然分からないんだが!」
突然万札を渡されても理解できない。初対面のコスプレ女に金を貰う理由が俺にはこれっぽっちも思い当たらない。
「私はサンタクロースですからね、みんなの欲しがっているモノをプレゼントするのがお役目ですよー」
誇らしげに胸を張るサンタ娘。
「……まさか、本当にこの一万円札を俺にくれるってのか?」
おもちゃ銀行とかそういう下らない冗談でもないようだ。どこからどう見ても一般的な一万円札である。透かしも入ってるし、ホログラムもちゃんとある。
偽札……じゃないよな?
「驚くのはまだ早いですよ?」
サンタ娘の不敵な笑みはまだ終わらない。
自身満々の口調でさらに言葉を続ける。
「今のは私が本当のサンタクロースだということを信じてもらうためにやったパフォーマンスってヤツですよ。これからが本番です! 叶えたい夢はありますか!?」
これってもしかして本当なのか?
この一万円札も、サンタクロースだと言い張るコスプレ娘も、なんでも叶えてくれるっていう話も、全部本当なのか。
「……なぁ、叶えてくれる夢ってのは1つだけなのか?」
ランプの魔人でも3つだ。
もしかしたら、1つ以上の夢を叶えてくれるなんて、都合の良い話があるかもしれない。
「叶えたい夢があるなら、なんでも叶えますよ? 叶えたい夢、あるんですね?」
欲まみれの俺の質問をどう思ったのかは知らないが、サンタ娘は俺に叶えたい夢がある、という事実のみを額面通りに受け取って嬉しそうに笑った。
それは俺にとって幸か不幸か……。
何個でも叶えてくれるというのなら、試行することが可能だということを示している。
「そ、それなら手始めに……この1万円を百万円に増やせるか?」
「容易いことです!」
先刻貰ったピンの一万円札をサンタ娘は嬉しそうに奪い取ると、今度は両手で拝むように挟んだ。
そして前回と同じように、むむむ、と唸り声を上げる。
「とりゃぁっ!」
異様な掛け声と共に、ぼわん、という擬音が聞こえてきそうな白い煙を両手から発生させる。その煙の隙間から見えたのは紙の束――
「よっしゃ! これで俺も金……持ち……」
――ではなく、1枚の紙幣だった。
見ればそれは、紙幣の上部に一〇〇〇〇〇〇円と表記された世にも奇妙な百万円札だったのだ。
「どうです!? どこからどう見ても百万円ッ!! 驚いたでしょ!? すごいでしょ!? 尊敬しますか? 尊敬してますよね!? だって、サンタクロースですもの! みんなのヒーロー! サンタクロォース!!」
だっはっは、と高笑いをするサンタ娘。
「……やりなおし……」
俺はがっくりと肩を落として百万円札を突き返した。
「えぇっ!?」
「誰が現金をパーティグッズに変えてくれって言ったんだよ!」
サンタ娘は不思議そうな顔をして、百万円札を眺めている。
「えぇー? これって百万円じゃないんですかぁ?」
くりくりとした、無邪気そうな瞳で見詰められると一瞬許したくなるのだが、そこは人間として許してはいけないだろう。
「よし、わかった。言い方が悪かったんだな。ちゃんと説明すれば、いくらお前でもわかるよな?」
「私に対する評価が著しく低い気がしますが、この際忘れましょう。では、もう一度お願いしますッ!」
自分がバカにされている自覚はあるらしいサンタ娘は、鼻息荒く次の夢を叶えるために俺からの言葉を待った。
「えーっとだな……とりあえず、一万円札はこのままの金額でいい。ただ、この札を百倍にして欲しいってことだ。わかるよな?」
何も知らない人間に対して、当たり前のことを説明するのは困難を極める。
果たしてこれで伝わったのかどうか。恐る恐るサンタ娘の顔を覗き込んでみると――
「あー! なるほどぉ! なんだぁー、そういうことかぁー。早く言ってくださいよ!」
――自信満々な笑顔を浮かべていた。どうやら、バッチリ伝わっていたらしい。
「お任せ下さい! これは結構な大仕事ですね! 腕が鳴ります!」
そうか、無から有を作り出すこと自体、この世のルールを逸脱した摩訶不思議な出来事だというのに、それをさらに百倍に増やすだなんて、さすがのサンタクロースでも並々ならない労力を必要とするのだろう。
「うぬぬぬぬ……」
サンタ娘はさっきの百万円札を懐に抱えると、目を瞑り、いつもの珍妙な唸り声を上げた。
いままでよりも長い時間をかけて唸っていると、突然カッと目を開いた。
「てやぁっ!」
そして、間抜けな掛け声と共に百万円札を上空に投げると、まばゆいくらいの閃光が辺りを照らした。
「うわぁっ!」
その眩しさのあまり、俺は咄嗟に目を瞑った。
「ちょ、ちょっと! 何してんだお前!」
「ほら、目を開けてください。貴方の目の前には百倍の一万円札がありますよ」
「ま、マジか!」
だんだんと光が弱まってきた。
今、俺の目の前には一万円札の百倍、つまり今度こそ、正真正銘の百万円の札束があるはずだ。
眩んだ目をうっすらと開けると、そこには――
「ちょっと重いんで、気を付けて下さいね」
バカでっかい一万円札があった。
「……」
「きっかり百倍サイズです! いやぁー知りませんでした。日本では貨幣が大きければ大きいほど価値があるってことなんですね? てっきり私はそんな価値観、大昔に廃ってしまったと思っていたんですが、さすがは古きを重んじる日本人ですね。感動です!」
はい、とニッコリ笑顔でそのビッグ一万円札を俺に押し付けるサンタ娘。
だが、俺はその受け取りを拒否することにした。
「……やりなおし……」
「えぇっ!?」
願い事は何回でも叶えてくれるし、俺の欲望について咎めることをしない非常に有用性が高い存在ではあるんだが、ただコイツ……相当のバカである。
「よし、わかった。違う夢を考えるからちょっと待っててくれ」
考えろ。冷静に考えろ。欲にまみれた思考回路を振り払って、合理的かつ理想的な願い事をコイツに伝えないと堂々巡りをしそうだ。
言葉を伝えるというのは難しいことだ。取り方によっては今のような間違いが起こってしまう……相当稀有なケースだが。
ならば、それ以外受け取りようが無い言葉で伝えれば良いではないか。
「あっ」
と、その時。
サンタ娘が何かを思い出したような間の抜けた声を上げた。
「そういえば、お支払いについての説明を忘れてましたー」
「支払い?」
「はい。夢を叶えた報酬を頂くことになってるんですよ」
この娘。純粋な笑顔を浮かべてとんでもないことを口走った。
「て、てめぇっ! やっぱり詐欺じゃねえか!」
がっちりとサンタ娘の頭を両手で掴むと、前後にがっくんがっくん揺らしてやる。
「一体いくら支払うってんだ!? このパーティグッズをいくらで買い取ることになるんだ俺は!」
「ち、違いますよぉ! 落ち着いて下さぁーい!」
するとサンタ娘は目を白黒させながら、必死に弁解を始める。
仕方なく手を離してやると、ぐちゃぐちゃになった帽子と髪の毛を直しながら、口をとがらせた。
「もうっ、話は最後まで聞いて下さいよ」
「お前が先に説明しねぇからだろうが!」
「別にアナタが支払う必要はないんです。どこかの誰かが肩代わりしてくれるんですよ」
いいですか、と人差し指を立てるとサンタ娘は偉そうに説明を続ける。
「アナタの夢を叶えることで、どこかの誰かがその報酬を支払うことになります。でも、その人だって夢を叶える権利を持っていますので、その人が夢を叶えると、また他の誰かがその報酬を支払うことになります……と、そういうサイクルになるんです」
「イマイチよくわからんのだが」
「まぁ、アナタが夢を叶える際にアナタが被るデメリットっていうのは無いので、ご安心くださいっていう説明です」
恥かしそうに頬を染めて笑っているのは、説明を忘れたことを恥じているのだろうか。それとも、この可愛らしい笑顔に免じて許して下さい、という憎たらしいアピールなのだろうか。
とはいえ、ルール上俺にデメリットが無いのは明らかになった。
どうせどこかの誰かが肩代わりしてくれるんだったら、好きな夢を叶えてやろう。もし、俺に支払いが回ってきたとしても、それを賄えるくらいの大金を先に手に入れてしまえば問題ないはずだ。
「よし、ルールについては把握した。他に言い忘れはないか?」
「ありませーん」
なら当初の予定通り、この阿呆でも理解できる、簡潔かつ、わかりやすい文章でもって大金を手に入れてやる。
そこで、ふと思いついたことがあった。
「……大金持ちの預金通帳を俺の物に変更するって出来るのか?」
「所有物の移行ですか? 任せてください! 得意分野です!」
そうだ。コイツの知らない物を無の状態から作り出そうとするから伝わらないんだ。
現存しているモノを俺の所有物にしてしまえばいい。コイツの不思議な能力を持ってすれば、バレないように盗み出せるだけでなく、盗んだ物が元々俺の物だったっていうことにすらしてしまえる。事実を捻じ曲げられるんだ。
「現金でなくていいんですか?」
「いいの。古きを重んじる日本でも、最近は銀行に入れてデータ化してるんだから」
ハイカラですねぇ、とわけのわからない感想を述べながらサンタ娘は思案するように顎に手を当てた。
「うーん……大金持ちって、その方のお名前とかわかりますか?」
「いや、大金持ちってテキトーに言っただけだからなぁ……名前、名前――」
その時、俺の頭の中に、あの下品な笑いを浮かべる資産家の名前が浮かび上がった。
「――佐藤……佐藤太郎だ」
「大金持ちの佐藤さん……大金持ちの佐藤さん……」
「佐藤太郎」という言葉に反応したサンタ娘は、両手を後ろ手に回し、同じ言葉を繰り返し繰り返し唱えて目を瞑った。
「むむむー」
そして、いつも通りの唸り声。まさか、本当に……?
あの資産家、佐藤太郎の資産が俺の物になるってのか?
「とぉー!」
全く感情が籠っていない棒読みで掛け声を上げると、後ろに回していた手を正面へと差し出した。
そして、その差し出したサンタ娘の両方の手にはしっかりと預金通帳が握られていた。
「マ……マジか……」
その数、数十枚。
日本の有名な銀行から聞いたこともない銀行、さらには恐らく外国の銀行であろう通帳まで、数多の通帳とクレジットカードがそこにはあった。
そして、その通帳の全てにおいて、氏名欄には元々の持ち主である資産家、佐藤太郎ではなく俺の名前……佐藤亮二の名前が記されていた。
「なんですか? この本」
「いや、お前は気にしなくていい……」
一枚一枚、中身を確認してみると見たこともないような桁の数字が並んでいて、見たこともないような桁でやり取りが行われていることがわかる。
俺の背中に汗が噴き出す。クリスマスだってのに、全身が発熱して暑いくらいだ。心臓がバクバクと音を立てていた。
しかし、焦ってはいけない。このままでは、通帳とカードがあったとしても金を引き落とせるわけではない。
「つ、続けて夢を叶えてもらっていいか?」
「はい、どうぞどうぞ」
夢を叶える行為自体が彼女の喜びなのだろうか。
サンタ娘はまるで尻尾を振る子犬のように俺の言葉を待っている。
「ここにある通帳の口座……暗証番号を全部俺の誕生日と同じ番号にしろ」
「あんしょうばんごう?」
「あー、いいから。気にするな。言われた通りのことをやってくれればいい!」
ぽかん、としているサンタ娘の頬っぺたをつまんで、くれぐれも間違えないようにと念を押す。
「わ、わかりました。誕生日はいつですか?」
「11月25日! 1125だ!」
「おおっ! クリスマスと一か月違い! 奇遇ですねー」
何が奇遇なのか、さっぱりわからないが、機嫌を損ねても面倒だし、とりあえず頷いておく。
「それじゃ、変更しますよぉー! むむむー」
これで……これで俺は資産数千億の大金持ちだ……!
別に銀行強盗をしたわけでも、身代金目的の誘拐事件を犯したわけでも、大量の偽札を使ったわけでも、麻薬を売り捌いたわけでもない。
サンタクロースという摩訶不思議な力は決して真っ当とは呼べないだろうけど、犯罪を犯して手に入れた金じゃない。
堂々と使える俺の金だ!
「ほいっと。間違いなく、暗証番号を1125に変更しましたよ!」
「おおっ! よくやったぞ! お前! 最高だ!」
実際に銀行に行って確認しないとわからないことだが、それでも俺は喜びのあまりサンタ娘に抱き着いていた。
「良かったですねぇー。夢叶いましたかぁ?」
サンタ娘は俺の胸の中で、本当に嬉しそうにそう言った。
「私は次がありますので」
そう言ってサンタ娘は笑顔で去って行った。
ルールの通り、数千億円という大金を手に入れた俺に対して、本当に見返りを求めることはなかった。
俺は慌てて通帳をかき集め、一度部屋の中に入ると、一つの通帳を手にして中を確認した。
それは、俺が普段使っている口座と同じ銀行の通帳だった。
確か、この銀行のATMは24時間、いつでも取引を受け付けているはずだ。
サンタ娘が大ポカをやらかしていないか、ひとまずこの銀行口座だけでも急いで確認しなくてはならない。
通帳とクレジットカードを引っ掴んでトートバッグに詰め込むと俺はバッグを肩に掛けて全力で走りだした。
自転車はない。
欲しいと思っていたが金がなくて買えなかった。
でも、もうそんな心配もいらない。この金さえあれば、遊んで暮らせる。自転車どころか高級自動車が買えるんだ。
白い息が舞う寒空の下、俺は自宅のアパートからコンビニまで走る。コンビニのATMでいつでも金が引き出せる便利な時代になったもんだ。
まさか、コンビニに向かうこの俺が数千億の資産を持つ大金持ちだとは誰も思わないだろう。今持っている通帳だけでも見れば誰もが驚くような金額が記されているのだ。
やがて、眩いほどの明かりが灯ったコンビニに辿り着く。
「はぁっ、はぁっ!」
息を整える間も惜しい。
俺は肩で息をしながら店内に入ると、怪訝な表情で挨拶をする店員を無視してATMへと急いだ。
すっかり冷たくなってしまった指でクレジットカードを差し込む。
「はぁっ! はぁっ!」
さらに息が上がる。それは全力で走ったことだけが原因ではない。コンビニの店員にすら聞こえてしまうのではないか、と思う程の心臓の高鳴りがそうさせていた。
見覚えのある画面が浮かぶ。
――カードは本物のようだ。
タッチパネルの画面上に浮かび上がった「残高照会」に触れると暗証番号を尋ねられたため、俺は自身の誕生日である、1125を入力し、確認のボタンを押した。
「はぁっ! はぁっ!」
ゆっくりと読み込みの画面が進み……そして――
「……本物だ……!」
――ATMの画面に数千万という信じられない金額が表示された。
俺は、その口座から一万円だけ引き落とすと、コンビニでペットボトルのお茶とおにぎりを数点だけ購入して店を出た。俺の財布には数千万円どころか、数千円しか入っていなかったが俺の心は優越感で満ち足りていた。
「これだけの金があれば、何をしても許される……! まずは飯だ……食べたこともないような高級な飯を腹いっぱい食ってやる」
もうカップ麺を食べることも無いだろう。今買ったコンビニのおにぎりだって、これからしばらくは食べることなんてないはずだ。
食い納めの気持ちで味わって食べてやる。
肩に掛けたトートバッグに仕舞い込んだ、コンビニの袋の中身を想像して笑みが零れる。
「その次は引っ越しかなぁ。都心の高級マンションとかもいいけど、避暑地の別荘なんてのも良いよなぁ……」
1Kのアパートに今から帰宅するわけだが、それだって今後経験することない貴重な思い出だ。悔いの残らないように楽しまなくてはならない。
「っと」
瞬間、俺の右肩に衝撃が走った。前から歩いてきた中年のオッサンとぶつかったせいだ。
「すいません」
ぺこりとお辞儀をしたオッサンは、そのまま俺とは反対の方向へと歩いて行く。
今は気分が良い。この程度のことで腹を立てる俺ではないのだ。
そう思ってアパートへの帰路を再び歩き始めた、その時――トートバッグが地面へと落ちた。
「え?」
見れば、肩に掛けていたはずのトートバッグが地面に投げ出されていて、中に入っていた通帳やらクレジットカードやらコンビニの袋やらが散乱していた。
「あれ? おっかしいな」
バラバラになった荷物を集めなくてはならない。面倒だな、と思いつつ膝を屈み、右腕を伸ばしてトートバッグを掴もうとした。
のだが……掴むことができなかった。
「は? なんだよ、これ……?」
伸ばしたはずの右腕が一向に伸びて来ないのだ。右肩が異様に軽い。
おかしいな、と思って右腕を見てみると、そこに右腕と呼べるようなものは――何もなかった。
「そ、そん……な……バカな……!」
切られた!? 違う! 痛みは感じない。血液も流れていない。何もない! なんにもない!
右肩から先、付いていたはずの腕が、手が、指が、爪が、無くなっている。
腕が付いていたはずの、肩の付け根は店で売られている西瓜のようにすっぱりと綺麗な円形になっていた。
ただ、切り口の部分は真っ暗な闇のような黒色に染められていて、得体の知れない何かの力によって腕が無くなったんだと痛感させられた。
「ふふっ……ふふふふふっ」
不気味な笑い声が聞こえてきた。
それは屈んでいる俺の背中越しに何かが立っている。
がたがたと震える体を無理矢理立ち上がらせて、後ろを振り返ってみる。するとそこには、一人の少女が立っていた。
「あらあら、大変。今にも泣いてしまいそうな酷いお顔をなさっているわ」
それは、簡単に形容するならばサンタクロース――真っ黒なサンタクロースだった。
ナイトキャップにワンピースのように上下一体になった服。その衣装の所々に白いアクセントが施されているのだが、ベースの色は赤ではない、悪魔のような漆黒だったのだ。
「おま……おまえ……!」
「どこかでお会いしましたか? それとも使い古されたナンパ、ではありませんわよねぇ? あははっ」
心底可笑しそうに笑っているその黒サンタ……その容姿は、先程まで俺のアパートを訪ねてきた赤サンタの娘とそっくりだった。
しかし、同一人物にしては雰囲気が違いすぎる。あのサンタ娘にこれまで悪意に満ちた笑顔を作れるだろうか……いや、作れない。
彼女の笑顔は屈託のない、無邪気さが伺いしれていた。それに比べてこの女はどうだ。まるで魔女のようなゾッとする笑いを浮かべている。
「お前……一体何者だ……!」
「サンタクロースですわ。本物の」
サンタクロースと名乗った黒衣の女はワンピースの両端を掴むと恭しく頭を下げた。
「メリークリスマス。聖なる夜に貴方様の下へと遣わされた私の役目は貴方様から報酬を受け取ることでございますわ」
「ほ、報酬だって!?」
まさか!? 早すぎる! まださっきのサンタ娘と別れてから一時間も経っていないのに、もう別の人間からの報酬が発生しているのか!
肩から先が無くなった右肩を抑えながら、茫然と立ち尽くしていると、黒サンタは美しいほど冷酷な笑顔を浮かべて説明を続けた。
「クリスマスプレゼントは受け取る者がいれば渡す者がいる。それは至極当然のことだと思いませんか?」
女から発せられる言葉は悪魔の言葉だ。
俺はそう思った。そうでなかったら、彼女の言葉がこれほどまで冷たいわけがない。
「サンタクロースのプレゼントは報酬として頂いた、別の誰かの所有物なのですわ」
彼女の言葉を聞いた俺の体は凍りついたかのように微動だにも出来ない。
ただ、楽しげに説明をする彼女の綺麗な唇を見つめることしか出来ない。
「プレゼント与えるサンタクロースは私とはまた別の存在。私はプレゼントを回収しに参りました」
「か、回収ったって……! そ、そうか! 金か! 金だな! 俺みたいにクリスマスプレゼントに大金を願ったヤツがいるんだろう!?」
つまり、あの赤サンタは無から有を作り出していたわけではない。誰かから回収したモノを仲介して俺に渡しただけだったんだ。
そして、そのプレゼントを受け取る者が俺以外にもいるとしたら、恐らくソイツも金を要求することだろう。
「いいえ、金銭ではありませんわ」
「え?」
しかし、黒サンタは俺の予想とは違う言葉を返した。
「それに、プレゼントの一つはすでに回収させて頂きましたわ」
唇の端をニィッと吊り上げた黒サンタは、そのしなやかな人差し指を俺の右肩に突き付けた。
「ま、まさか……!」
「一つ目のプレゼントは右腕、ですわ。同じ日本国内に腕を失くして悲しんでいる青年がおりまして、彼が"自分の腕が欲しい"と仰るものですから、サンタクロースとしては快くプレゼントさせて頂いた次第ですわ」
くすくすと冷笑する黒サンタは続けて俺の左足に人差し指を突き付けた。
「そして、二つ目のプレゼント。それは、左足ですわ」
瞬間、俺は何故かバランスを崩して尻餅をついた。どうしてだかわからないのだが、足に力が入らない。
どうしても立っていられないのだ。そんなはずはない、両足で立っているはずなのだ、俺の足は両方存在しているはずなんだ。
なのに、どうして――
「あらあら、片足だけではお辛そうですわね。あはっ、あははははっ!」
――足の付け根から先が無くなっているんだ。
「あぁ可笑しい。足を失くして苦しんでいる米国の少年の下に今しがた、左足がプレゼントされましたわ。少女は大変喜んで涙を流しているそうですわよ? 今の貴方様のように」
「やめろ……! もう、やめてくれ……! 金なら返すから! まだ、一万しか使ってないんだ! だからっ!」
俺の願いが大きすぎたからか。その代償に俺はこうして体の一部を失う羽目になってしまったというのだろうか。
だとしたら、それまでの金なんていらない。体を失くしてまで手に入れたいと思う物ではないんだ。
「頼むっ! サンタクロースなら夢を叶えてくれ! 俺を助けてく――」
「――ダーメですわ」
涙を流して懇願する俺を、黒サンタはまるで汚らわしいものでも見るかのような、冷淡な目つきで見下ろした。
「私は夢を集めるもの。与えるものでは決してありませんもの。さてさて、三つ目のプレゼントですわ。それは――」
「ひ、ひぃっ! た、助けてっ! 誰か助けて!」
無様でもいい。情けなくてもいい。俺は黒サンタから一刻も早く逃げ出すために片手、片足で地面を這いずった。
必死で、もがくように、泣きながら、アスファルトの地面で傷だらけになりながら、一生懸命逃げ出した。
「――眼球ですの」
だが、黒サンタは優雅な足取りで俺をいとも簡単に抜き去ると、満面の笑みを浮かべて俺の眼球を指差した。
ぱちん、と電気のスイッチを消したかのような軽い音が頭の中に響き渡って、そして世界は闇に包まれた。
「これで、北欧に住む盲目の少女に光が戻りますわ。ふふっ、貴方様は大変素晴らしいことをなさっているのですよ? 絶望に打ちひしがれている人々の希望となっている。そう、それはまるでサンタクロースのよう……さぁ、サンタクロースさん……次に救って差し上げるのはどなたかしら?」
俺の意識に甘美で蠱惑的な声が入り込んでくる。このまま溶けて無くなってしまいそうな、心地の良い囁き。
「……あら。ふふっ、ご指名よ? サンタクロースさん。貴方様はまた悲しんでいる可哀想な子羊を救うことができる……それは遠く、ロンドンの地で嘆いている一人の若い女性。彼女はね――」
ああ、溶けていく。溶かされていく。俺はこのまま自分を犠牲にして人々に幸せを与える憐れなサンタクロースとして生きなければならないのか。嫌だ。そんなのは嫌だ。どうして、どうしてこんなことに。解放してくれ。この地獄のような運命から誰か解放してくれ。
今は、それが俺の唯一の夢……。
「――彼女は心臓を患っているのだそうですわ」
Santa Claus's sacrifice
2012テーマ【クリスマス】の作品です。ご意見ご感想お待ちしております。