お前だけ

 一階へ降りると共に、あいつらの騒ぎ声が遠のいていく。しん、と静まり返った廊下、俺の足音だけが響く。ドアの隙間からちらりと覗くリビングは、電気が点いていないのにあたたかい色をしていた。ごちゃごちゃと家具やら小物やらが置いてある雑然とした感じが、俺を後ろめたい気持ちにさせて、憎かった。俺の家ではないから、まるで馴染みのない居心地の悪い空間。そこには、あいつの家族が何年もかけて積み上げてきた見覚えのない生活感で満たされていて。誰かの家へお邪魔するたび、その家庭の歴史をおもう。はじめはなにもなかったのだとふと気付いて、なんだかとてもたまらなくなる。足が重たいのだ。胸がやりきれなさでしめつけられ、立っていられなくなり、自分が暗闇でうずくまっている情景が浮かぶ。誰か、恐らくクラスメイトは、うずくまる俺を通り越してトンネルの向こうにあるひかり目指して走っていくのに、俺はずっとずっとずっとずっとずっとうずくまったままでいる。そのひかりは多分、未来だった。俺は、未来にしか足を進めることができない、という人間の習性が怖い。どうしたって無条件に未来に足を進めている人間が怖い。こうして怖がりうずくまっている俺だって、未来へと進んでいるのだ。
 トイレのドアに手をかけて、ズボンも降ろさずただ便座に腰かける。せっかくトイレに来たんだからと立ち上がろうとするが、そもそも尿意を感じなかった。手足の決まりが悪くて、便座の上で体操座りをしてみる。体操座りをして、退屈な時間を自分でなんとかしようとせずに受け入れるのは、なんだか、体育館でPTA会長の話を聞いているときと同じに思えた。ぼおっと真正面を睨むと、カレンダーが目に入る。友達と遊ぶだとか、お泊まりだとか、親戚とディナーだとか、父がテレワークだとか出張だとか、皮膚科やら眼科やら、塾に早帰り、さらには生クリームの賞味期限まで。目で読み上げていくだけの情報は、脳を通り抜けてすぐに忘れ去られる。俺が知っていたってどうしようもないこと。俺がいたってどうもならないこと。
クラスの奴ら、嫌いじゃないよ。面白いよ。こんな俺にも優しいよ。受け入れてくれるよ。授業は笑いが絶えないし、体育祭は赤団だし総合優勝したし、先生は忘れ物をしても怒らないしなんなら教材を貸してくれる。このクラスでよかったと思うよ、きっと心の底から。いつも、心の中で何かを考えるとき、意識的にネガティブなワードを避けて羅列している。自分が楽な方へ、傷つかないで済む方へ。いつも逃げている。けれど、これはネガティブなワードじゃない、ネガティブなワードじゃないからと自分を騙しながら、時々、ふ、と心の中で口にするのだ。俺は松野だけでいいのかもしれない。と。

 中学生になってはじめての給食。ごはんを増やしに行くと、右手に包帯を巻いた松野がしゃもじを握っているのを見つけた。包帯は何日も使っていますといった風に汚れていて、顔を近づければ、あの、癖になる異臭がしそうな雰囲気が漂っていた。苦戦しているようだったので、増やしてやろうか、と声をかけた。ワンテンポ遅れて、背の低い松野が不機嫌そうに、ゆっくりと目をこちらに向ける。眩しいのか眠たいのか、元々そういう目なのか、とろんと半分閉じられたひかりのない目。やたらと長い睫毛が、春の空気と松野の瞬きにゆれてうごいた。じゃあ、よろしく、と、しゃもじを突き出す松野に、それどうしたの、と聞けば、サッカーで、という声が返る。どこか甘い、かすれた無機質な声だった。その声は俺に、松野の声の震えが俺の血を巡って、心臓に届くイメージを持たせた。松野の声には言い表せない透明感があった。まるで掴めない水のような松野を、俺は息が出来なくなろうとも掴みたかった。俺もサッカーやってるよ、と返せば、松野の視線が遠慮がちに俺に向かうのが分かった。松野のはんぶん閉じられた瞼、それを無理やりこじ開けたくて、うちの担任、サッカーの顧問だぜと、思いっきり笑いかけた。むりやり笑ったせいで、目が偽物らしい、気持ち悪い歪み方をしていると自分でも分かった。けれど微妙に近い距離のせいで直すことも出来ず、そのまま歪なままにしておいた。俺は松野よりも背が高かった。今もだ。松野は俺を見上げて俺と目を合わせた。松野の瞳の輪郭と、俺の瞳の輪郭が、かっちり合った。俺らはお互い、目を逸らさなかった。そのとき、松野の目にようやくひかりが差し込んだ。目元がやわらかく細まって、口の端がふ、と持ち上がる。知ってる、と、松野が言う。冷たく涼しげな松野の目は俺を馬鹿にしているみたいで、けれど俺は、松野が元々そういうほほえみかたをする奴なのだと、そのときからずっとわかっていた。

 トイレに行っている間に、俺はどうやらドベになっていたらしい。コンビニに行けと喚かれるなか、頭の中で、そういえばこのゲームは松野が苦手なやつだと思い出した。ドベ2は誰なのと聞けば、案の定松野だと返ってきたので、うし、じゃあいっしょに行こうぜ、と持ち掛ける。松野は、だる、と一声、目も合わせずに立ち上がった。
「よくさあ」
 まだ六月だというのに夏まっさかり!みたく強い日差しに、肌がひりひりと痛みを訴えている。四月、出会った頃は白かった松野の肌は、連日続くサッカー部の練習によって健康さを増していた。もうすぐ大会がある。一年生は、俺と岸野だけ出さしてもらえる。
「細いのによく食べるね、って言われるじゃん」
 松野が何も考えていなさそうな目をして言う。俺は同じく何も考えずに相槌を打つ。
「親戚のおばさんとかにね」
「そう。いつも思うんだけど、逆じゃね?」
「何が?」
「普通、よく食べるのに細いね、じゃね?」
「そんなこと、気にしたことないけど」
 俺は少し考える。細いのによく食べる。よく食べるのに細い。頭の中でその言葉の上部だけを掬い取って繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、その二つのうちどちらが正解なのか分からなくなり、一見離れているように見えるその言葉の差は縮まっていくように思えた。
 俺が考えている間、黙っているふたりの背後から自転車の気配がする。横を向けば、ちょうど女のひとがペダルを漕いでいた。かごには膨れ上がったレジ袋、そこにネギが数本ぶっ刺さっている。そのひとは立ち上がると、残りわずかの坂道をえっさほいさと進んでゆく。灰色のTシャツを来た背中には、汗がにじんでいた。自転車が俺らを抜かすと、さっきまで気にならなかった沈黙が襲いかかった。沈黙が暗闇を誘って、俺は、また追い越された。そう感じた。
 そのとき、風が吹く。
 梅雨かと思うほどに蒸した風が。満員電車に乗ったときのような、空気が薄くなる気持ち悪さが押し寄せて、それと同時に鳥肌が立った。そっと横を向けば、松野の眉がぎゅっと中央に寄っている。あ、と心の中の俺が叫ぶ。細められたその瞳の既視感に、思わず眩暈がした。くら、と、なつかしいその記憶に愛おしさが込み上げて、いまだ、と、声すら知らないあいつの声がした。
「俺に双子の弟がいるって知ってたか?」
「そんな話は聞いたことないなあ」
とうとつに口に出した真実を、まるで信じていない松野は薄笑いを浮かべる。
「嘘じゃないよ。ほんとうだ」
「お前って片親だったか? それとも再婚だったっけ?」
「いや、そうじゃない」
 松野が怪訝そうに俺の様子を伺うのが、下を向いていても視界に入る。内側からぼうっと灯る熱は質量を増していくのに現実味のない浮遊感を感じて、息がくるしいほどだった。熱に浮かされていく頭は馬鹿みたいに興奮していた。
「死んだんだ。生まれてすぐに」
 俺だけ生き残った、追い討ちをかけるように言葉を放つ。
 ずっと誰かに言いたかった。今でもふと、頭を違和感がよぎる。どうしてここにそいつがいないんだ、そう警告が鳴る。マンションのエレベーターに乗り込むとひとりになる。さっきまでの帰り道、友達とふざけ合っていた陽気さが嘘みたいに消え去って、エレベーターの動く音だけが耳を支配する。鍵を開けて、ひとりぶんのただいま、を言う。学校へ行っても、誰も俺の弟の存在を知らない。ひとりっ子なんだね、そう言われるたびに叫びたくなる。違う、俺はひとりじゃない。俺には弟がいるはずだった。
 松野はそんな話、興味がなさそうだった。見慣れているはずの半分閉じられた瞳が俺を嗤っているのではないかと、体が急速に熱を失わう。焦る俺の興奮が空回りしたことに気付いて恐怖に駆られる。失う。手からこぼれ落ちていく。このままでは駄目だと気付いた俺は、だからさ、と、誤魔化すみたいに笑ってみせた。
「俺、そいつのために、飯たくさん食べなきゃなあ、って思うんだよ」
「ふうん」
「で、俺、そいつがいるから背が伸びねぇんだって勝手に思ってる」
「はは。幽霊って食べるもの共有できたりするんだ」
 軽く答えてしまえる松野に、言語化できない苛立ちと恥ずかしさに、松野の言葉を無視する。俺は、いつまでも背が伸びなければいいと思っている。弟が残っているのことの証明として、俺の背が伸びなければいいと思っている。泣きたくなるほど寄り添ってくれない松野に、そうだよな、諦めたように心の中で呟く。そうだよな、こんな話、どうだっていいよな。俺は松野に何を期待していたんだ。
 視界に飛び込んできたコンビニに救いを求めて、俺は走り出した。おい、と背後で声がする。そのまま走り続けていると松野が俺を追いかける足音がした。その距離は俺に、体育祭での学級リレーを思い出させる。松野が俺に託した赤いバトン。相変わらず眩しそうに目を細めて、なのに松野はひとり抜かして俺まで辿り着いた。春太、と叫んだ松野が笑う。口を開けて。鼻を膨らませて。目をなくして。俺は、俺だから松野がそんな風に、笑うのだ、と体が熱くなった。殴られるみたいに右手に叩きつけられたバトンが、信頼している、そう叫んでいる気がした。俺は訳も分からない興奮に侵されながら一瞬、松野の体重で重くなったバトンによろめいた。心臓が早く鳴っていた。
 コンビニに飛び込むと、からだ中を冷気がつつむ。遠い記憶だ。笑顔を浮かべる松野は蜃気楼のようにゆれ焦点が合わなくなっていく。肩で息をする。入口でそのまま立ち止まっていると、店員がいやそうに俺を見た。
「お前、急に走り出すんじゃねえよ」
 息をととのえながら松野が後ろから歩いてくる。歩みを止めずにそのまま、お菓子コーナーへと進んでいく。俺は。
 考えるのを放棄し、諦めたように目を閉じる。もう見慣れた松野の背を追った。

「春太さあ、さっき、俺だけ生き残ったって言っただろ」
 コンビニを出ると、一瞬で背中にTシャツが張り付く。肌と服の合間から手を突っ込み汗を拭う。手の甲をかざせば、太陽にてらされ汗がきらきらと光った。松野の言葉にえ、とだけ声を発し自分の汗をズボンで拭う。今さらなんだ、と混乱している。うん、言ったな、と、平静をよそおい頷く。
「違うと思う」
 松野を見る。どこを見ているのか分からない、半分閉じられた瞳。何が、と問う。何が違うんだ。俺と。
とおるの横顔ってほんときれいだよね、そう小声ではしゃいだクラスメイトを、唐突に思い出す。一瞬とおるとは誰のことなのか理解できなかった。そうか、松野とおる。そう頭で納得した直後、「春太って、徹とそんなに仲良いのにどうして名前で呼ばないの。ずっと松野、って呼んでるよね」とクラスメイトがくるりと俺を振り返って言ってきたのだ。含みを持たせたその言い方に苛立つと共に、ぞわりと背筋が凍った。まっすぐ俺を見つめる彼女の目が、松野と同じ、温度のない目をしていたから。
 俺はその頃からきっと、俺と松野とは決定的な何かが違っているんだろうと、そう知った。
「弟、が、死んだんだ。ふたりとも生きてたんだけど、弟だけ勝手に死んだ。お前は何も変わんなくて、弟だけ変わったんだよ」
 一瞬、足が止まる。
 相変わらずの涼しい顔に、戸惑いが込み上げる。松野は俺を気にせずすたすた前を歩くから、俺は我に返って駆け寄る。その戸惑いはきっと、弟のものだった。松野の言葉を頭の中で復唱して。じわ、じわと、その言葉の意味がからだに染みていくほど、不器用な松野のやさしさを目の当たりにして、俺は。
 違いが分かんねぇなあ、とようやく口に出せた。お前、そういう言葉遊び、みたいなの、好きなの、って聞こうとした。胸が詰まって聞くことができなかった。涙を出さないために喉がひりついて、息を殺すために喉を締めあげた。熱を帯びる喉が、苦しいほどの呼吸が、俺は今生きているのだ!そう叫んでいた。俺のからだが、俺のからだを目一杯使って、狂おしいほど、言葉にできないほど、松野の側にいることを祝福していた。俺は唯一でいいのだと、俺は松野だけでもいいのだと、今ようやく俺はみとめることができた。
 松野が俺の背をやわらかく撫でる。その、俺をなぐさめるような手つきを煩わしくくすぐったく感じて、思わずなにしてんだよと振り払う。
「いや、春太泣いてると思って」
 泣かねえよ、そう否定した声は思ったよりも弱々しくて、縋って強がっていて、松野が吹き出した。二度、俺の背中を強めに叩いた松野はその間じゅうずっと笑い声をあげていて、いつの間にか俺も笑っていた。吹っ切れた笑顔にふらつく足取りに、何度か肩がぶつかる。そこの体温だけが一瞬、ほんのりあつく灯る。すぐに離れてゆく背中から、肩から、松野の感触が消えようと、俺はいま、松野といちばん近しかった。手首にかかるレジ袋の質量を感じながら俺はようやくあの女のひとと同じラインに立てたような気がした。
 出会った春をとっくに通り越していつのまにかはじまっていた夏、次の春が来る頃に、きっと俺はひとりだ。

お前だけ

お前だけ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-22

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