竹内栖鳳展




 『COWBOY BEBOP』や『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』又は『海街diary』といった映像作品の主題歌や劇伴から多数のCMソングを手掛けている菅野よう子は筆者が敬愛する作曲家であるところ、その制作方法についてある指摘を目にしたことがある。すなわち、かのクリエイターがしていることは各音楽ジャンルのいいとこ取りをしているだけだ。そこから転じてオリジナリティが乏しいのだ、と。
 菅野よう子の楽曲の良さは一度聴くと思わず脳内でリピートしてしまう程の特徴的なフレーズ又は曲全体のキャッチーさにある。その背景にご本人のセンスの鋭さが勿論あるだろうが、それ以上に創作に寄与していると考えるのが研究を通じて行われる各ジャンルの音楽の特徴とその良さの的確な把握である。かかる理解と把握の結果に基づいて作られるメロディは謂わば音楽的エッセンス100パーセントの搾り立て、それらを取り入れて出来上がる曲はいいとこ取りのミックスジュースとして批判の対象にもなるのだろう。その旋律はどこかで聴いた有名曲のあれに似ている、これに似ている。そのニュアンスの濃度に応じて曲に対する感想は好意的なオマージュからパクリへの批判に様変わりする。
 研究と制作の境界面で繰り広げられるこれらの批評は原曲が有する「オリジナリティ」を中心にして展開されるのだろうが、ここでいう「オリジナリティ」とは何かと考えるとその主張内容に靄がかかる。例えば音域を始めとして音楽に関する様々な限界はあり、その中で行われる音楽制作が過去から連綿と続く理論と実践によって支えられているのは否定できない。ゆえにその表現活動は影響し合っていて当然。その消化ぶりが音楽表現を(少しずつでも)新たなものにしていればいい。こう考えるとき、作品や技法に関する「オリジナリティ」を唯一無二ないしは固有性と理解していいものかという疑問は浮かぶ。
 さらにいえば、人が行うものである以上、表現行為の影響なんて音楽と絵画などといった各表現領域の接触面においても生じる。そのために似ているかどうかという評価軸はどこまでも適用できそうに思える。だとすれば、全てがアートであるという主張がアートそのものを見失わせるのと同じで、相似点を集中的に拾い上げて批評を加えることはその対象となる表現作品の核心から遠ざかる行為となってしまわないか。疑問は広がる。
 それでは、評価の対象となる特徴をもった作品が公的に発表された順番によって「オリジナリティ」を論じるのはどうだろうか。例えば誰の心にも残る名フレーズで絶賛される一曲をとある有名バンドのCDなり配信なりで先に発表すれば、全く同じものを作曲したアマチュアのミュージシャンはその曲に対するオリジナリティを主張できない。そう決着を図る。
 いつ、どのように発表すれば先んじて公的に発表したといえるかなどの解釈を要するだろうが、一応の客観的な基準によって表現作品に関する「オリジナリティ」の決着を図れる点で、かかる立場は事後の紛争解決手段として妥当であると考える。
 しかしながら制作する側と鑑賞する側が作品を介して向かい合い、それぞれの思いや考えを車の両輪のように駆動させて人の脳内で形成される情報「世界」へと邁進する、そのために必要な道筋を論理的に何度も踏み締めて存在させる。あるいは木槌を振るうかの様に言葉を尽くし、その外縁を明確にして表現行為が内包する可能性を確保する。そういう目に見えない営為こそが批評の核心であると信じれば、表現作品と批評の友好的発展の青写真を描くのに必要とされるのは裁定基準としての「オリジナリティ」では決してない。
 結論からいえば、受け手の感じ方に左右されるが故にオマージュとパクリの間を行ったり来たりする幅の広いグレーゾーンで植生される「オリジナリティ」の実像をできる限りで把握し、記述を試みること。あるいは予め備わっている表現作品のオリジナリティに鑑賞する側が感嘆させられるのでなく、「オリジナリティ」という評価を表現作品に打ち付ける鑑賞者の実際を窺える立ち位置に当たりをつけ、マーキングすること。それを元に表現する側が先人たちの足跡を堂々と追い、自身の表現行為が目指せるフロンティアまで歩みを進められる雰囲気を醸成し又はその環境作りに励む、革新の先に芽吹くもの、その多様性を目指して現実「的」なことを推し進めるのに欠かせない準備として。
 発見したり見出したりするのではない、受け取る側の内心で発生する「オリジナリティ」という現象。先ずはそこに迫ってみる。そういう夢を、一素人として見ている。



 横山大観と同時代に活躍し、「西の栖鳳」と評される程の表現者として活躍した竹内栖鳳は優れた教育者としても数々の高弟を輩出し、京都画壇を牽引した。
 かの画家は基本として写生に重きを置く四条派の画風を学びながら狩野派の水墨画的線描や花鳥風月を色彩豊かに描く円山派を積極的に学び、また渡欧の際に触れた西洋画に強い影響を受けてその技法をも自身の表現に取り込んでいった。ある意味で雑多といえるそのスタイルをして「鵺派」と揶揄されたそうだが、山種美術館で開催中の『竹内栖鳳展』で鑑賞できる各作品からはかかる揶揄に見合う異形ぶりが全く窺えず、寧ろその筆跡を追えるぐらいに簡素でかつ必要最小限に抑えられた描き込みが成立させるその場面描写には繋ぎ目のない、「向こう側」に在る客観がありありと息づいていた。
 例えば「梅園」。花を咲かせた梅の木の枝にメジロが止まるという漢詩の題材として定番の構図で描かれた絵はそれぞれの枝が接する色味で、スッと引かれた二本の行き先として見る者に興味を抱かせる。迷いなど微塵も感じないその筆先が残すものは決してリアルという訳でない。ただただ梅の枝の存在を表し、向きを異ならせて伸びていく時間軸を「自然」に沿って感じさせる。かかる「自然」は観察の果てに辿り着く、画家の情感そのもののの体現としてのそれではない。脈打つ肉体を持って人が外界に接するときに感じ取れる別ルールの進行として、そこに加われない疎外感として在り続ける理(ことわり)としての「自然」である。こう記すと何とも厳しい絵なのかと思われるかもしれないが、決してそうではない。よく見れば未だつぼみの状態にあるものが多い梅の花は、パッと咲かせた数輪の華やかさでこれから本格化する季節の到来を予感させ、それを覗き込む様な格好を一羽のメジロが見せるから可愛らしい丸みを帯びたそのシルエットが鑑賞者をほっこりとした気分にさせる。和やかさがこうして保たれた画面全体のバランスは非常に良くて、枝に止まるメジロの重さが紙の余白を背景に絶妙な均衡を生む。これらの表現ぶりが紙に金属の砂子を漉き込み、落ち着いた輝きを見せる銀潜紙の上に描かれているのだ。心踊らせずにはいられない。洒脱という言葉の真価を目の当たりにする。
 あるいは「飛瀑」。滝壺に落ちて来る水の勢いを専ら濃淡ある色味で大きく表現し、跳ね返って来る飛沫の力強さを画面下部でさらっと描くこの一枚は抽象的でありながら実に写実的であり、表現主義という簡単な感想に突っ込んだ片足を意識的に引っ張り出す力を秘めている。水の表現という点で筆者の印象に深く残る「緑池」にも認められた描き方の発想、すなわち写実に描いた一匹の蛙の上半身と下半身を意識した塗り分けでぼんやりと広がる緑黄に生温くも柔らかい水の感触を付与するという技術が画家の目が捉える実際をその心中の奥深くに写し込むこと及びそれを再現することを可能にしている。その結果として生まれるイメージは観察の果てに一般性を獲得するのだろうが、かかる一般性は人が持ち得る限度を超えない。だからそのイメージのあちこちに鑑賞者の心情を刺激する人称性の棘が残っている。



 客観を心掛けて主観を掬うという矛盾を平気で抱えられる表現の強さは確かに竹内栖鳳が学んだ四条派の画風でもあるのだろう。けれどいいとこ取りの研鑽の日々によって画家が目指したものは「絵を描き、それを見る」という行為の実際であったからこそ絵画表現と鑑賞体験の双方に跨る本質部分、つまり情報として採取されたものが其処彼処で発生した感情経験を巻き込んで脳内のイメージとして生成され、表れていくという実態に迫れたのでないか。
 そして見る側に感銘を与える術として確立されるものが画風だと考えれば、その研究に励むことは情報の編み方のポイントを知ることになる。この点で、ジャンルを横断した竹内栖鳳の歩みは上記目的達成の手段として適切だったといえないだろうか。
 煎じ詰めればその画業は人が抱ける外界のリアリティを把持し、それを自由闊達に画面の上で表現するものであった。
 それを可能にした画家の観察眼が必要な限りで手放しはしなかった一般性。そのリアリティを感じ取る者はだから何の抵抗もなくそのイメージを自己のものとし、知れる「世界」を更新する。そこにおいて思わず口にしてしまう竹内栖鳳の「オリジナリティ」は、したがってその手が創り出す絵画の中のリアリティと置き換えられる。あらゆる画風の特徴を溶かし込んだフィクションの命に、既に生まれている存在感に覚えた感動が図らずも表現作品に対する独自性の評価を鑑賞者に行わせる。その発生起源が不明確であればある程に大きくなる作品誕生の必然性。これに対する錯覚と憧れは有名画の贋作にだって「オリジナリティ」を与えるだろう。



 作品の「オリジナリティ」に内包された理解可能性は受け手という存在に推進力を得ている。制作者が胸を張って手放し、固有性の地平から自発的に飛び立った表現作品がいつしか興味と関心から発せられる熱っぽい浮力を徐々に失い、ある地点に不時着してしまうとしてもそれまでに確保した距離と時間、または目にした者に及ぼした影響によって後世に語り継げる物語性を獲得して、そこからの価値を生む。
 回帰と発展の良好な関係性。そこに巻き起こる「オリジナリティ」の論争であって欲しいと一素人は願う。

竹内栖鳳展

竹内栖鳳展

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-20

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